ATG日本アート・シアター・ギルド |
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| 良質のアート系映画をより多くの人々に届けるという趣旨のもとに設立された。 他の映画会社とは一線を画す非商業主義的な芸術作品を製作・配給し、日本の映画史に多大な影響を与えた。また、後期には若手監督を積極的に採用し、後の日本映画界を担う人物を育成した。 公開作品ごとに映画雑誌『アートシアター』を発行した。本誌は映画の完全シナリオと映画評論などから構成され、上映館のみで販売された。 ATGは年会費を払うと他では見られない映画を割安で観ることが出来たため、若者たちの支持を得た。1960年代から1970年代初めの学生運動、ベトナム反戦運動、自主演劇などの盛り上がりの中で、シリアスな、あるいはオルタナティブな映画に対する関心は高かった。当時は御茶ノ水近辺に主要な大学が集中しており、新宿が若者文化の中心となっていて、ATGの最も重要な上映館であったアートシアター新宿文化は、話題の映画の上映となると満員の盛況であった。このような状況と会員制度に支えられて、大島渚『新宿泥棒日記』、羽仁進『初恋・地獄篇』、松本俊夫『薔薇の葬列』など、当時の若者たちに大きな影響を与えた話題作の製作が可能になった。 前身は東和映画副社長川喜多かしこにより創設された「日本アート・シアター運動の会」。東宝副社長の森岩雄は東宝の傘下にあった5つの映画館(東京日劇文化、名古屋名宝文化、大阪北野シネマ、福岡東宝名画座、札幌公楽文化)と資本金600万円を提供し、他に5館(新宿文化、横浜相鉄文化、東京後楽園アート・シアター、京都朝日会館、神戸スカイ・シネマ)と東宝、三和興行、江東楽天地、テアトル興行、OS興行からの計1000万円の資本金を集める。 初期のATGの活動は主に日本国外の芸術映画の配給・上映であった。上映する映画は批評家によって構成される作品選定委員会によって審査、決定するシステムをとった。当時の映画の輸入は政府によって割り当て制(クオータ制)となっていたため、会社ごとに輸入本数制限があったが、東和映画をはじめ他の映画会社が協力して自社の割り当て分を積極的に提供したため、ATGはフェリーニ、ゴダール、サタジット・レイなど、良質の外国映画を豊富に配給することができた。 第1回配給作品は『尼僧ヨアンナ』で、1962年(昭和37年)4月20日に9つの上映館で封切られた。 三島由紀夫の実験的短編室内劇『憂國』がヒット。今村昌平が『人間蒸発』の企画をATGへ持ち込んだことをきっかけに、独立プロと製作費を折半する形で、製作費1000万円という枠組みが出来上がった。 「ATG方式」と呼ばれたこの製作方針は、(1) 1000万円の製作費のうち、半分の500万円を出資する。(2) ATGは企画段階で検討し、製作に対しては一切干渉しない。(3) ATGの上映館で一ヵ月を原則に公開するーというものだった。この方針のもとにATGは独立プロを積極的に支援し、低予算の映画製作を行った。1000万円という予算は当時の大手映画会社の製作費の三分の一から四分の一の額であるため、製作には困難も伴ったが、多くの作品がキネマ旬報ベスト・テンに選定されるなど高い評価を受けた。1967年に公開された本作品の配給権は日活に委譲したものの、この後ATGは積極的に映画製作に乗り出すようになる。 ATGの製作方法は、企画を持ち込んだ独立プロまたは監督と、ATGが折半で製作費を出費するというのが従来からの建前で、現実としては、大幅持ち出し必至という状態だった。佐々木新社長は「寺山修司監督の『百年の孤独』(『さらば箱舟』、橋浦方人監督の『海潮音』、大森一樹監督の『ヒポクラテスたち』、小林竜雄監督の『大人になれないわれら』(製作されず)の新作4本からは、監督側の負担は50%でも10%でもよい。金が無ければATGが全額負担する場合もあり得る」と画期的な新方針を打ち出した。ATG=1000万映画のイメージが定着していたが、この決定により、前記の4本は3000~3500万円の製作費を予定していると発表した。 佐々木体制のATGでは、それまで中心的に活躍していた大物監督ではなく、学生映研やポルノ映画出身の若手監督を積極的に採用するようになった。以前のATG映画のイメージは、ごく簡単にいえば、意欲的で実験的な劇映画のイメージであった。そこがメジャーの映画会社の作る劇映画とは大きく違った。ところが1970年代後半からメジャーの製作状態は混沌とし、独立プロ作品が多彩になり、一方で実験的な映画作りも、色んな形で幅広く行われるようになってきた。佐々木は1983年(昭和58年)に山根貞男のインタビューに答えて「そんな中でも、もっと新しいタイプの映画、監督、役者がいつも欲しいですね、僕としては。例えば、大林宣彦というと"映像の魔術師"みたいにだけ思われているけれど、誰も予想しなかった大林映画をと、僕は思って『転校生』を作った.....めぼしい若手作家のいる分野として、にっかつロマンポルノ、ピンク映画、自主製作映画、記録映画の四つを考えています。テレビ出身の監督については考えていません。自分が東京ビデオセンターというテレビをやっているからです。テレビと映画ははっきり別のジャンルだと思っています」などと述べていた。この結果、ATGの作品は初期のような解釈の難しい芸術映画ではなく、むしろ青春映画・娯楽映画が多くなった。これら若手監督からは森田芳光『家族ゲーム』などのヒットも生まれ、また後の日本映画を担う多くの人材が育っていった 1961 日本アート・シアター運動の会設立 1961'11'15 発足。日本国内外の芸術映画の配給のみを行っていた 1966 独立プロと製作費を折半する形で、製作費1000万円という枠組みを確立する 1979 初代社長の井関が退任、佐々木史朗が社長となる。 1992 新藤兼人『濹東綺譚』を最後に活動を停止した。 2018'11'1 東宝に吸収合併される。 |
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| みんなわが子(1963) 人間蒸発(1967) 絞死刑(1968) 肉弾(1968) 少年(1969) 心中天網島(1969) エロス+虐殺(1970) 東京戰争戦後秘話(1970) 日本の悪霊(1970) |
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