MOVIETOP

独立系製作会社(国内)

OFFICE KITANO
葵プロモーション
アップリンク
アマゾンラテルナ
アルゴ・ピクチャーズ
入江ぷろだくしょん
音映映画
近代映画協会
芸映プロ
現代映画
現代ぷろだくしょん
国際活映
小林商会
新国劇映画
新星映画社
新世紀映画社
青年俳優座
創造社
全国農村映画協会
大東映画
滝村プロ
中央映画
円谷プロ
東京プロ
中村プロダクション
日東プロ
日本映画新社
日本大学芸術学部新映画研究会
俳優座映画放送
表現社
フィルム・アート
藤本プロ
文学座
毎日映画社

 

 

OFFICE KITANO

太田プロダクションを退社したビートたけしとたけし軍団、寺島進らの俳優のマネジメントを目的に設立。森昌行が社長となると以後芸能プロダクション・映画製作会社として活動する。

1988'2'10 設立
1992 森昌行社長就任
2018'3 たけしが自分の事務所、T.Nゴンを別に立ち上げ退社。
2018'5 青木隆彦(つまみ枝豆)と飯塚実(ダンカン)が取締役に就任。その後飯塚実が専務取締役に就任

 

葵プロモーション

 日本の独立プロダクション。映画、CMの製作・制作・配給を手がける。
 『図鑑に載ってない虫』『転々』などの三木聡作品、『父と暮らせば』、『3年身籠もる』など。『バベル』『新宿インシデント』などの配給も行っている。

1963'10'25 創業

 

アップリンク

 日本の製作・配給会社。
 大手映画チェーンが扱わない国内外のアートシネマを上映するミニシアターの運営で注目を集めた。映画の共同製作や映画関連の情報発信でも知られる。海外配給では『アフガン零年』、『パラダイス・ナウ』など世界中から尖った作品を配給することで知られる。製作では数は少ないが、『アカルイミライ』など。

1987 創業者浅井隆により設立。デレク・ジャーマン監督の『エンジェリック・カンヴァセーション』を、吉祥寺バウスシアターで上映したのが配給作品の第1号となった。
1993 書籍『マルコムX自伝』を出版、その売り上げなどを基に渋谷区神南に事務所移転
1995 自前のミニシアター「UPLINK FACTORY」を開設。
2004'7'31 ミニシアター渋谷に「UPLINK X」を開設
2016 オンライン映画館「UPLINK Cloud」のサービスを開始
2018 武蔵野市吉祥寺本町に「アップリンク吉祥寺」を開設
2020'6'11 「アップリンク京都」開設
2021'5'20 「アップリンク渋谷」閉館。5月中に本社を吉祥寺へ移転
2022'4'1 サブスクリプション型配信プラットフォーム「DICE+」を公開。

 

アマゾンラテルナ

株式会社AMAZONLATERNA.。
東京都に本社を置く総合映像制作プロダクション。テレビ番組・映画・その他映像作品の企画製作、配給、非映画コンテンツの劇場配信、ネット配信などを主に手がける。全日本テレビ番組製作社連盟加盟。アマゾンは主にテレビの制作を行っていたが、2006年に『佐賀のがばいばあちゃん』を映画製作。ラテルナはOVA製作の後、主に海外資本と提携しての映画製作を行っていた。『モンゴル』など。

1988 株式会社アマゾン設立。
2002 東映アニメーションの子会社として株式会社ラテルナ設立。
2010'4'1 テレビ制作会社のアマゾンと、映画制作会社のラテルナが、前年の資本及び業務提携を発展させる形で合併し設立

 

アルゴ・ピクチャーズ

 日本の製作・配給会社。大手映画会社の意向に左右されない作品作りをモットーに6人の映画プロデューサが作った独立系会社。

1989 アルゴ・プロジェクトという名称で設立。
1990 独自の映画館としてシネマアルゴ新宿およびシネマアルゴ梅田開館
1993 アルゴ・ピクチャーズに改名。
 製作作品では『12人の優しい日本人』『トカレフ』『靖国 YASUKUNI』など。

 

入江ぷろだくしょん

× 入江プロダクションとも。略称は「入江ぷろ」、「入江プロ」。京都の映画製作会社。当時人気絶頂だったスター女優の入江たか子が日活から独立し、新興キネマと提携して設立。女優としても、また現代劇の独立プロとしても日本では初の試みであった。

1932 日活太秦撮影所の当時の看板女優・入江たか子が独立して設立。現在の右京区御室双岡町の貸しスタジオ「双ヶ丘撮影所」を撮影所とした。設立第一作『満蒙建国の黎明』(監督溝口健二)は、同年3月1日の満州国建国を背景に海外ロケを敢行。
1935 日活と提携し、撮影所閉鎖する。
1937 東京・砧のPCL映画製作所との提携を始め、配給は東宝映画配給となる。PCL映画製作所が、京都・太秦上刑部町にあったJ.O.スタヂオ、東宝映画配給、写真化学研究所の3社と合併して「東宝映画株式会社」を設立すると、東宝と専属契約を結ぶこととなり吸収解散。
瀧の白糸(1933)

  

音映映画

× ×
006は浮気の番号(1965)

 

近代映画協会

 日本の独立プロダクション。コンビでの次回作を拒否されたため松竹を退社した脚本家の新藤兼人、監督の吉村公三郎、俳優の殿山泰司、プロデューサーの絲屋寿雄らによって設立された。現在は、新藤兼人の息子の新藤次郎が社長を引継ぎ、テレビドラマも多数作っている。

1950'7'31 設立。
1960 倒産の危機に、最後に製作した裸の島(1960)が大ヒットし、同作の上映権売却益によって会社設立以来の累積赤字が解消。興行的にも成功を収め会社の存続が決まった。
原爆の子(1952)
第五福竜丸(1959)
裸の島(1960)
鬼婆(1964)

 

芸映プロ

正式名称芸映プロダクション(げいえいプロダクション)。「株式会社芸映」の社名で発足。初代社長は医師で画家の宮田重雄。1961年、喜劇俳優の伴淳三郎が2代目社長に就任。発足当時は外国テレビ映画などを輸入したり、CF制作が中心の企業であった。


1957 「伴淳三郎東京事務所」と兼ねる形で「東京芸映プロダクション」設立。
1961 宮田重雄に代わり伴淳三郎が社長に就任する。
1962 タレントのマネジメント業に進出。
1965 芸映音楽出版を設立。
1968 伴のマネージャーだった青木伸樹が3代目社長に就任。
なにはなくとも全員集合!!(1967)

 

現代映画

× ×
炎と女(1967)

 

現代ぷろだくしょん

× 製作・配給会社。自社製作作品の地方団体への貸与興行などを行っている。
俳優集団からスタートした独立系製作会社であり、五社協定消滅後も独自の製作・配給活動を続けてきた古参小規模映画会社のひとつ。山田典吾を代表取締役とし、山村聰、森雅之、夏川静枝を中心に俳優集団が元となる(後に五社協定違反となった三國連太郎も一時的に参加)。
製作された作品には、社会に対して強いメッセージを訴えるタイプのものが多い。上映は全国公開や、大学(地方の教育機関れを介して市民会館や小ホールなどにて、一日単位で公開される事が多いまた、教育委員会や大学(地方の教育機関)を介して市民会館や町内の集会場などにて1日単位から1週間程度の短期間で公開される事も多い。

1950 会社創立。
1998 山田典吾死去。以降、火砂子が監督も兼務する体制となる。
蟹工船(1953)
真昼の暗黒(1956)

 

国際活映

 正式名称國際活映株式會社。通称:国活(こっかつ)。
 撮影部に円谷英二がいた(1919年入社、1920年に助手から撮影技師に昇進)。
1919'12'6 小林喜三郎により設立
1920'1 「天活」の本社機構と「巣鴨撮影所」を買収。
     設立第一作は吉野二郎監督、枝正義郎撮影の『忍術四天王』
     日暮里撮影所を閉鎖し、巣鴨撮影所を稼働する
1925 倒産

 

小林商会

小林商会(こばやししょうかい、1914年 設立 - 1917年 倒産)は、かつて存在した東京の映画会社である。大正初期の無声映画時代に小林喜三郎が設立、映画の製作と配給を行なった。実質1年程度しか活動できずに倒産した。
略歴・概要
天活設立前夜

東京の映画会社「常盤商会」の小林喜三郎が設立した会社である。当時の「常盤商会」は、大阪の山川吉太郎が1913年秋に設立した「東洋商会」に、小林が急造した「常盤商会日暮里撮影所」(北豊島郡日暮里町元金杉638番[1])を提供、「東洋商会東京日暮里撮影所」として稼動させていた。山川の「東洋商会」は同1913年10月 - 翌1914年1月の間に映画を製作・配給するが、それと入れ替わりで「小林商会」が映画の製作・配給を始めた。1914年(大正3年)1月11日、設立第一作『有馬怪猫伝』と『無尽の夫婦』が浅草キリン館ほかで公開された。同社は、同年3月には製作と配給を休止する。

1914年(大正3年)3月17日、小林と山川は「天然色活動写真」(天活)を設立、本社を東京・日本橋に置き、日暮里撮影所を「天然色活動写真日暮里撮影所」とし、わずか3週間後の4月3日には設立第一作を公開した。しかし同年9月には小林も山川も取締役を辞職し、それぞれが「小林商店」と新設の「山川興行部」に天活から東と西との興行権を分割して委任された。
天活との競合

1916年秋には休止していた製作を再開、元福宝堂の脚本家篠山吟葉を日活向島撮影所から引き抜いたほか、天活の役者を多く引き抜いた。中村秋孝、佐川素経、静田健、多知花静衛、石川新水、桂寿郎、村瀬蔦子、小堀誠、高部幸次郎、市川海老十郎、栗島狭衣、井上正夫、木下吉之助、武田清子といった人材である。井上正夫は女形ではなく女優を起用した「新時代劇協会」(1910年結成)の代表であり、栗島狭衣は当時子役として活躍していた栗島すみ子の養父である。

1916年(大正5年)10月30日、『母の心』(京橋豊玉館ほか)と翌31日『霊火』(浅草みくに座)が製作再開作品である。その後も撮影部の長井信一を天活から引き抜き、時代劇について歌舞伎界からの新しい俳優を迎えるほかは、香川二郎、藤村芳衛、藤村秀夫、梅島昇、石井薫、山口勝太郎、松下彦太郎、阪本忠夫、島田喜多子、島田小次郎、関根達発、深沢恒造、中野信近といったおもに現代劇の俳優をなおも天活から引き抜き、翌1917年にはフル稼働で55本もの映画を量産した。

同社は天活をライヴァル視し、量産とともに奇策を放った。1917年3月11日、天活が製作した人気作家菊池幽芳原作、村田正雄主演の映画『毒草』の公開日に、まったく同じ原作、同じタイトルで、天活から引き抜いた井上正夫監督、栗島狭衣脚本そしてふたりの主演による『毒草』をぶつけてきたのである。さらには同月内に、同一原作、高部幸次郎主演の中篇映画『毒草』を公開している。浅草では、大勝館(天活)と三友館(小林)で、同日2本の異なった『毒草』が同時に上映されたほか、同月中にみくに座でもう一本べつの『毒草』が公開された。

また同年、前年1916年に東京パック社から引き抜いた漫画家幸内純一にアニメーション映画をつくらせたが、これは1915年に日活向島撮影所が洋画家北山清太郎を採用しアニメの研究を初め、天活もこれにならい下川凹夫を採用したことで競争が始まった。最終的には天活の『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が1917年1月に公開されて、「国産初のアニメ映画」の称号を勝ち取ったわけだが、小林商会はこれに6か月遅れて、同年7月にやっと幸内監督の『塙凹内名刀之巻』を発表できた。
終焉

こういった無理がたたり、同社は製作再開後1年足らずで倒産する。同年8月31日に浅草三友館ほかで公開された、同社の時代劇スターだった市川海老十郎主演の『佑天吉松』と、現代劇スター俳優兼監督だった井上正夫監督の『かがやき』が最後の作品となった。

同社の倒産の後、小林は1919年3月のD・W・グリフィス監督の超大作無声映画『イントレランス』(1916年)の日本での興行を仕掛け、通常「20銭」程度[2]の入場料を「10円」という高額に設定した。私立大学の授業料月額3円50銭(東京理科大学[3])の時代である。これでメガヒットを起こし話題になるが、それまで、小林はしばしなりを潜めた。

1914 映画会社「常盤商会」の小林喜三郎が設立
塙凹内名刀之巻(1917)

 

新国劇映画

あしたのジョー(1970)

 

新星映画社

×  日本の独立プロダクション。社会的な作品を多く作る。資金繰りには苦労したようだが、「日本映画の良心」とも言われていた。
 1950年。東宝社員で組合運動の主導者だった伊藤武郎、俳優で東宝組合書記の嵯峨善兵により設立。賛同した山本薩夫、今井正が監督として参加する。
 代表作には、『箱根風雲録』『若者たち』『真空地帯』『軍旗はためく下に』など
真空地帯(1952)
太陽のない街(1954)
第五福竜丸(1959)

 

新世紀映画社

×
にごりえ(1953)

 

青年俳優座

×
億万長者(1954)

 

全国農村映画協会

×
荷車の歌(1959)
みんなわが子(1963)

 

創造社

×  日本の独立プロダクション。
 1960年に松竹を退社した大島渚が設立。大島渚監督の作品を中心として製作に当たる。1975年に大島渚プロダクションに改組。

 

滝村プロ

×  滝村和男によって設立。
雪夫人絵図(1950)

 

中央映画

×
ここに泉あり(1955)
姉妹(1955)

 

大東映画

×
キクとイサム(1959)
武器なき斗い(1960)

 

円谷プロ

長編怪獣映画 ウルトラマン(1967)

 

東京プロ

大利根の対決(1955)

 

中村プロダクション

幕末(1970)

 

日東プロ

ハレンチ学園(1970)

 

日本大学芸術学部新映画研究会

 

日本映画新社

人間蒸発(1967)

 

俳優座映画放送

いのちぼうにふろう(1971)

 

表現社

心中天網島(1969)

 

フィルム・アート

×
春の戯れ(1949)
野良犬(1949)

 

藤本プロ

×  映画製作会社。
 元東宝社員藤本真澄により設立。
青い山脈(1949)
続青い山脈(1949)

 

文学座

 劇団。
 基本的に舞台劇だが、1950年代に数本のインディペンデント系映画に出資している。
にごりえ(1953)

 

 

毎日映画社

日本の戦争(1963)

 

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