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1964 | 6'26 福岡で誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||||||
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猫の恩返し 2002 | |||||||||||||||||||||||||||
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母子家庭で高校に通う娘のハルは、ある日の学校帰り、一匹の猫を助ける。ところがその猫はいきなり二本足で立ち上がり、しゃべりだしたのだ。しかもその夜、彼女の家に何十匹もの二本足で歩く猫の大行列がやってくる。猫たちは「昼間に猫の王子の命を助けていただいたお礼にまいりました」と彼女に告げるのだが、次の日から、迷惑な猫たちの恩返しのお陰で彼女の生活は一変してしまう。しかもハルを猫の国に招待しようとするのだった。その時、彼女の耳に不思議な声が聞こえてくる。「猫の事務所に行きなさい」と… 宮崎駿抜きのスタジオ・ジブリ作品。ジブリらしさを出そうとして、手堅くまとめた印象を受ける。元々近藤喜文が監督した『耳をすませば』(1995)の世界観を踏襲し、そこに登場したバロンと言う猫の置物をヒーローとして設定して、不思議なファンタジー作品としてまとめている。 ところでジブリらしさと言うのは何?と考えてみると、これと言って一貫性があまり感じられないのだが、比較的対象年齢を抑え、それで大人も観られる作品を作る。と言う点が挙げられるかな?対象がディズニーほど若年層ではないので、恋物語もプラトニック路線を突っ走り、教訓じみたものを内包する。こんな所か? ところが、本当を言わせてもらうと、上記の前提条件は全く意味をなさない。だって、今までの作品の大半はジブリ=宮崎駿なので、宮崎駿が「これを作りたい」と言ったら、それがジブリの路線になってしまう。(彼を称して「スタッフを奴隷の如く用い、暴君として君臨する」と言う事を、昔彼と仲が良かった某映画監督は語っていた。それが誰だかはお分かりとは思うが)。仮に宮崎駿監督が「時代物を作りたい」と言えば時代物がジブリの方向性になり、「ファンタジーにしたい」と言えば、それが路線となる。もし仮に人をばしばしぶっ殺そう!と言いさえすれば、やはりそれはジブリの路線となるだろう。 つまり、“ジブリらしさ”とは、極めて危うい、そして漠然たる方向性に過ぎない。そんなものに無理に合わせようとした結果、結局過去の宮崎作品から引っ張ってくる事しか出来なかったと言うことだ。まあ、確かにそれは無難ではあったが。 そう。“無難にまとめること”。それがこの映画の最大の命題であり、且つ至上命令だったわけだ。そしてスタッフは見事にそれに応え、全く無難な、毒にも薬にもならないものをきっちりと作ってくれた。 この作品、設定的には悪くないと思う。日常から不意に違った世界に入ると言うのは、帰って来るという前提条件を暗黙の了解としている分観る者に安心感を与えるし、異世界に行くのがヒーローではなくヒロインなので、受け身にならざるを得なく、その分心地よさに浸れる。主人公がネコに変わってしまうと言うのもなかなか楽しい(私は猫好き)。 だけど、猫の国に入るのは「自分の時間を止めたいと思う」人間だという割には、ハルが本当にそう思っているかどうかは疑問。彼女はそれなりに幸せで、何となくだらけた日常を過ごしているだけなんじゃないかな?フラれることだって、自分で最初からその事を知っていたわけだし…「誰にでも起こりうることですよ」と言うことを強調しすぎたため、余計にその動機が不明確になってしまった。それにどれだけの元人間が猫の国に住んでいるのか、その事についても全く言及無し。 ストーリーに関してもそれは言える。物語上、極めて受け身のハルは、ただ振り回されるだけで、自分から何もしていないし、自分の運命は全部他人任せ。助けられようと助けられまいと、全部自分をごまかして受け入れてしまってる。最後に街の上空から落ちる所は、自らの意志で落ちているわけでもなく、ただ助けられるに過ぎなく、ラストシーンだって、結局世の中をほんの僅かにポジティヴに生きようとしているのに過ぎず、かえって白馬の王子さまを待つ心境が増しただけ。 『耳をすませば』にも登場したムーン(劇中ではムタ)は思っていたイメージとはまるで違ってたのと、バロンの台詞がちょっとクサかったのも、ちょっと評価低いか?(バロンに限っては、「王子様を待つヒロイン」にはマッチしてたけどね) 後にこの作品の元となった作品があったことを知る。『歌ふ狸御殿』(1942)というのがそれ。ここでは舞台が猫の国じゃなくて狸の国だけど、とても内容は似ているらしい(未見だからゴチャゴチャ言うべきじゃないのかも知れないけど?)。 |