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1978 | 9'11 死去 | |
1977 | ||
1976 | 変奏曲 監督 | |
1975 | ||
1974 | ||
1973 | 混血児リカ ひとりゆくさすらい旅 監督 | |
1972 | 混血児リカ 監督 | |
1971 | 闇の中の魑魅魍魎 監督・製作 | |
1970 | 栄光への反逆 監督 | |
1969 | ||
1968 | ザ・スパイダースの大進撃 監督 | |
1967 | 青春太郎 監督 | |
喜劇 大風呂敷 監督 | ||
1966 | 赤いグラス 監督 | |
黒い賭博師 悪魔の左手 監督 | ||
1965 | 結婚相談 監督 | |
野郎に国境はない 監督 | ||
黒い賭博師 監督 | ||
現代悪党仁義 監督 | ||
1964 | おんなの渦と淵と流れ 監督 | |
砂の上の植物群 監督・脚本 | ||
猟人日記 監督 | ||
月曜日のユカ 監督 | ||
1963 | 光る海 監督 | |
現代っ子 監督 | ||
俺の背中に陽が当る 監督・脚本 | ||
泥だらけの純情 監督 | ||
1962 | 危いことなら銭になる 監督 | |
若くて、悪くて、凄いこいつら 監督 | ||
当りや大将 監督 | ||
1961 | アラブの嵐 監督・原作・脚本 | |
あいつと私 監督・脚本 | ||
1960 | あした晴れるか 監督・脚本 | |
地図のない町 監督・脚本 | ||
「キャンパス110番」より 学生野郎と娘たち 監督 | ||
1959 | 密会 監督・脚本 | |
その壁を砕け 監督 | ||
才女気質 監督 | ||
1958 | 四季の愛欲 監督 | |
紅の翼 監督・脚本 | ||
その女を逃すな 脚本 | ||
1957 | 美徳のよろめき 監督 | |
誘惑 監督 | ||
殺したのは誰だ 監督 | ||
街燈 監督 | ||
1956 | 牛乳屋フランキー 監督・脚本 | |
夏の嵐 監督 | ||
狙われた男 監督 | ||
狂った果実 監督 | ||
1955 | 生きとし生けるもの 助監督 | |
1954 | ||
1953 | ||
1952 | ||
1951 | 白痴 助監督 | |
1950 | ||
1949 | ||
1948 | ||
1947 | ||
1946 | ||
1945 | ||
1944 | ||
1943 | ||
1942 | ||
1941 | ||
1940 | ||
1939 | ||
1938 | ||
1937 | ||
1936 | ||
1935 | ||
1934 | ||
1933 | ||
1932 | ||
1931 | ||
1930 | ||
1929 | ||
1928 | ||
1927 | ||
1926 | 1'3 東京で誕生 |
喜劇 大風呂敷 1967 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ザ・スパイダースの大進撃 1968 | |||||||||||||||||||||||||||
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黒い賭博師 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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月曜日のユカ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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光る海 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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女性の方が多いという英文科のクラスを卒業した野坂孝雄(浜田光夫)は卒業パーティの終ったあと、忘れ物のバッグを届けに石田美枝子(吉永小百合)の家を訪れた。そこで野坂は美枝子の母雪子(高峰三枝子)が銀座のバーのマダムだと言うことを知る。そして酔った美枝子とキスを交わしてしまう。その後、それぞれが就職していくが、それぞれの場所で騒動が持ち上がり、二人の仲は微妙に揺れ動く。 吉永小百合と高峰三枝子という二大スターを親子役に配した一種の青春物語で評論家からはあまり注目を受けなかったが、吉永小百合の演技は一般受けし、1963邦画興行成績は2位と大健闘。 70年代になるとこういうタイプの作品が増えるが、その10年も前にこのタイプの作品が出ていたと言うことにちょっと驚かされる。当時常に時代の先を先をと進んでいた中平監督の実力が遺憾なく発揮されているのではないかな? 大学を出て、それまでぬるま湯状態に使っていた若者が現実を突きつけられるという感じの話だが、話が一体どこに飛んでいくか全然予測が付かないため、最後まで緊張感が途切れることなく観終えることは出来た。かなりきわどい性の話題も出るし、設定はドロドロしてるはずなのに、妙にカラっとしてるのが時代性か?勿論、こういう話をコメディ仕立てにするには俳優に追う部分が強いので、吉永小百合ははまり役には違いない。 一つ問題があるとすれば、会話の量が膨大な上に、結構早口な上に話の転び方が分からないので、ちょっと気を抜くと、何が起こっているのか、どういう風に話が展開しているのか捕らえづらいという難点はある。これが中平監督の味なんだが。ぼけっとしながら観るにはあんまり向かない。 とにかく女優陣が豪華なため、一見をお薦めしたい作品だ。 |
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泥だらけの純情 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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紅の翼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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民間航空に勤務するパイロットの石田康二(石原裕次郎)に、八丈島まで至急破傷風の血清を送るようにとの指令が届く。たまたまそこに居合わせたルポライターの弓江(中原早苗)を乗せて発進しようとした矢先、大橋(二谷英明)という青年が強引に乗り込んでくる。だが実は大橋は大金を持って海外に高飛びしようとした殺人犯で… 数多く作られた石原裕次郎主演作品だが、傾向は二つに分かれる。社会の底辺で成り上がろうとするアウトロー役か、全く逆に育ちが良く正義感あふれた好人物役。そのどちらであれ、挫折にもめげずパワフルに事件を解決する姿が描かれていく。 本作は後者にあたるが、裕次郎は元々が育ちが良いので、どっちかというとこっちの方が素に近いんじゃないかな?彼が演じると、正義漢ぶりが全く嫌味に見えないところが得だね。本作はそれが全開だったよ。 |
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狂った果実 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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夏になると毎年伊豆でヨットを駆り遊びまくるお坊ちゃん兄弟の滝島夏久(石原裕次郎)と春次(津川雅彦)は今年も海へとやってきたが、華奢で女遊びも知らない春次が駅で見かけた娘天草恵梨(北原三枝)に一目惚れ。果敢なアタックで恋人の座を手に入れる。これまでの弟には見られなかった積極性を最初は喜んだ夏久だったが、横浜のナイトクラブで恵梨に偶然出会った夏久は、彼女がとんだ蓮っ葉であることを見抜く。純情な弟に近づかぬよう、彼女に釘を差す夏久だったが… 原作者石原慎太郎による 『太陽の季節』に続いて製作された、いわゆる“太陽族”と呼ばれる若者を主題とした作品で、本作を契機として石原裕次郎がスターダムを駆け上がるきっかけとなった。今回は石原慎太郎自身が脚本を務め、よりリアルな石原ワールドが展開している。 本作は日本よりも海外で評価が高い邦画の傑作の一本で、かつて本作を観たトリュフォー監督はこの作品とヌーヴェルヴァーグとの近似性を指摘したそうだが、確かにその通り。 決して単純ではない人間の本質を裏切りや怒りを通して描き、テクニックで魅せるカメラ・ワーク。乾いた描写。それらが見事に調和していた。私が思うに、この作品こそがヌーヴェルヴァーグの本質そのものだろうと思える。 実際フランスでヌーヴェルヴァーグが始まったのは1960年代に入ってからであり、その五年も前にこんなものが、しかも日本で作られていたという事実は、もっと評価されてしかるべきだったし、この資産を生かすことが出来なかったのが邦画の大いなる損失だったとさえ思える。ヌーヴェル・ヴァーグとはフランスで起こったのではない。最初に日本で起こっていたのだった。ただ、それに定義を与えたのがフランスであり、更に本作に続くものを出せなかった日本映画界の弱さのため、本作はたった一作の邦画のあだ花となってしまったのが残念でならない。後のいわゆる松竹ヌーヴェル・ヴァーグも、フランス製ヌーヴェル・ヴァーグを模倣するのではなく、本作を何度でも観て、これを越えるものを作って欲しかった。 それだけ強烈な印象を与える作品だ。 本作は乾ききった人間関係が前面に出ているのだが、画面の一つ一つに陰湿さがまるで感じられない。白黒映画であっても、これらが強烈な日差しの中、あるいはスポットライトの中で、つまり明るい場所が舞台だと言うことが分かる。陰影を重要視するそれまでの日本映画とはまるで異質な、日本でありながらまるで日本でないような異質さを醸していた。 異質さと言えば、ここに登場する面々も皆異質だ。彼らはいわゆる上流階級の子弟であり、戦後僅か10年ちょっとで成功を収めた人間達の生活とは、ここまで豊かになり、その一部のこども達は何の苦労もなく別荘やボート、高価な洋酒を消費できる立場にあること。彼らは与えられたものを自然に使っているだけで悪びれるところがない。そんな人間が主人公となっている。 今から見てもそうだが、当時の庶民にとっては手の届かないあこがれの的のような生活がそこには描かれていた。いや、正確に言えば、平等社会になったので、手を届かせることは努力次第では出来るのだ。しかし凡人には届かせることが出来ない位置にある。 そのもどかしさを上手く演出できたことが本作の最大特徴。 そんな生活の中にもやはり人間性は浮き出ていく。物理的にいくら裕福になって、欲しいものがなんでも手に入る生活をしていても、実際に手に入れられないものもあるのだ。それが人間の感情と言う奴で、こればかりはどんな人間もコントロールできない。 兄である夏久は遊び好きなだけに、感情のコントロールも出来ると思いこんでいたのであり、むしろ弟のためと思って恵梨に近づいたのだが、本気になったのは彼の方だった。これで彼自身が悩み苦しむことになる。 下から見たものではない。あくまで平等な人間対人間の感情のぶつかり合いがそこに生じる。実際、このような描写こそヌーヴェルヴァーグの骨子と言っても良い。 ここに出てくる三人の三角関係は、結局和解できない。互いが互いを思いやってるつもりで、自分の思いを誰にも言わないままだから。 結果的に、それはこのような結末を呼んでしまった。それを乾いたタッチで見事に映像化してくれていたことに驚かされたものだ。 この時代の社会派映画と娯楽映画の両極端な流行りの中、ここまで純粋なる人間性を見つめた作品を作れたと言うこと自体が奇跡のように思える。 それこそ「まるで映画のような」映画で、これをもうちょっと展開できてれば、邦画の未来も変わっていたかも。 助監督として蔵原惟繕が参加している。 |
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