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黒澤明

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鑑賞本数 30 合計点 126 平均点 4.20
allcinema Walker ぴあ IMDb CinemaScape
wiki キネ旬 eiga.com wiki(E) みんシネ
書籍
評論
黒澤明の映画術
黒澤明vs.ハリウッド―『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて
黒澤明の食卓
黒澤明と「七人の侍」
黒澤明と三船敏郎ステュアート・ガルブレイス4世著
黒澤明作品解題
黒澤明の映画入門都築 政昭
複眼の映像 私と黒澤明
黒澤明「生きる」言葉
黒澤明と『用心棒』―ドキュメント・風と椿と三十郎
「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎
天気待ち

評伝 黒沢明(書籍)堀川弘通著

日本映画[監督・俳優]論 ~黒澤明、神代辰巳、そして多くの名監督・名優たちの素顔~萩原健一

著作
蝦蟇の油―自伝のようなもの
何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって
全集 黒澤明
1998 9'6 死去
1997
1996
1995
1994
1993 まあだだよ 監督・脚本・編集
1992
1991 八月の狂詩曲 監督・脚本・編集
1990  監督・脚本・編集
1989
1988
1987
1986
1985  監督・脚本
暴走機関車 原案
ドキュメント黒澤明 A・K 出演
1984
1983
1982
1981
1980 影武者 監督・製作・脚本・編集
1979
1978
1977
1976
1975 デルス・ウザーラ 監督・脚本
1974
1973 野良犬 原作
1972
1971
1970 どですかでん 監督・製作・脚本
1969
1968
1967
1966
1965 赤ひげ 監督・脚本
姿三四郎 製作・脚本
1964 ジャコ萬と鉄 脚本
荒野の用心棒 原作
1963 天国と地獄 監督・脚本
暴行 原作
1962 椿三十郎 監督・脚本
殺陣師段平 脚本
1961 用心棒 監督・脚本
1960 悪い奴ほどよく眠る 監督・製作・脚本
荒野の七人 原作
1959 戦国群盗伝 潤色
1958 隠し砦の三悪人 監督・製作・脚本
1957 どん底 監督・製作・脚本
蜘蛛巣城 監督・製作・脚本
1956
1955 生きものの記録 監督・脚本
あすなろ物語 脚本
ソ満国境2号作戦 消えた中隊 脚本
1954 七人の侍 監督・脚本
1953
1952 生きる 監督・脚本
戦国無頼 脚本
荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻 脚本
1951 白痴 監督・脚本
獣の宿 脚本
愛と憎しみの彼方へ 脚本
1950 醜聞(スキャンダル) 監督・脚本
羅生門 監督・脚本
暁の脱走 脚本
殺陣師段平 脚色
1949 野良犬 監督・脚本
静かなる決闘 監督・脚本
ジャコ万と鉄 脚本
1948 酔いどれ天使 監督・脚本・作詞
肖像 脚本
1947 素晴らしき日曜日 監督
銀嶺の果て 脚本
四つの恋の物語 脚本
1946 わが青春に悔なし 監督
1945 虎の尾を踏む男達 監督・脚本
續姿三四郎 監督・脚本
1944 一番美しく 監督・脚本
土俵祭り 脚本
1943 姿三四郎 監督デビュー・脚本
1942 翼の凱歌 脚本
1941 馬 製作主任
1940 エノケンの孫悟空 助監督
1939
1938 綴方教室 製作主任
藤十郎の恋 製作主任
1937
1936
1935
1934
1933
1932
1931
1930
1929
1928
1927
1926
1925
1924
1923
1922
1921
1920
1919
1918
1917
1916
1915
1914
1913
1912
1911
1910 3'23 東京都で誕生

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まあだだよ
1993日本アカデミー助演女優賞(香川京子)、撮影賞、照明賞、美術賞、主演男優賞(村松達雄)、助演男優賞(所ジョージ)、音楽賞
1993
ブルーリボン助演男優賞(所ジョージ)、助演女優賞(香川京子)
1993キネマ旬報日本映画第10位

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黒澤明(脚)
松村達雄
香川京子
井川比佐志
所ジョージ
油井昌由樹
寺尾聡
日下武史
小林亜星
平田満
渡辺哲
頭師孝雄
松井範雄
杉崎昭彦
冷泉公裕
岡本信人
竹之内啓喜
吉岡秀隆
山下哲夫
草薙幸二郎
谷村昌彦
久世浩
本間文子
鈴木美恵
頭師佳孝
西亨大
桜金造
板東英二
加藤茂雄
都家歌六
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 大学で大人気の“先生”内田(松村達雄)は作家生活に専念するため大学を辞すが、彼を慕うOB達は何かと彼の家へとやって来る。この交流は太平洋戦争を挟み、長く続いていく。その時々、“先生”を物質的に助けることでOB達は心の教えをもらっていた。やがて年一回の“先生”の誕生日でみんな集まり、「もういいかい」「まあだだよ」と受け答えするのが恒例となっていく…こんな“先生”とOB達の交流を描いていく。
 文筆家の内田百けんの随筆を元に、内田のファンである黒澤明監督が作り上げた作品。そしてこれが
黒澤監督の遺作となった。本人はこれを遺作と思って撮ったわけじゃないと思うのだが、見事に遺言のようになっているのが興味深い。
 思えば黒澤監督のデビュー作は『姿三四郎』(1943)。ここでも一本気で頑固な主人公が出ていたが、本作の“先生”の姿は、なんかその姿三四郎に重なる。一本気な三四郎がそのまま年を取ったら、
本当にこんな感じになるんじゃ無かろうか?と思わせる部分がある。そう考えると、本作は黒澤監督にとっては原点回帰であり、自分自身を投影していると思っても間違いじゃないんじゃなかろうか?
 巨匠と言われ、世界的にも認められる黒澤監督だが、映画製作は常に困難を極めた。それぞれの作品一つ一つに相当な苦労話があるくらいだが、周囲の黒澤評を読んでいると気付くのは、黒澤監督は人間関係に相当不器用な所があることに気付く。それは自分の理想とする良い作品を作ろうとするあまりの、暴君的振る舞いであったり、交渉の下手さだったりする。
 
駆け引きが苦手でずばずばものを言う人間は大概嫌われる(自分で言っていて耳が痛い)。それに最終的にはかなりのヒットを期待できるとはいえ、それ以上に予算を食いまくり、それを隠そうともしない監督に出資しようと言う人は少なく、更に後年の作品は当初の赤字を覚悟しなければならないと言う状況の中、晩年になればなるほど出資者は減っていった。
 しかし、その中で映画に対する愛情を持ち続け、作り続けようとした監督。
 だからこそ、この作品は黒澤監督の思いが込められているのか、ずいぶんとウェットな作品に仕上げられている。
 黒澤監督得意な乾いた描写はほとんど出てこず、“先生”の頑固さとか、それを慕ってくる生徒達の人情とか、そんなものが多い。
それが成功しているか否かは別問題として、どれほど頑固でも、こういう風に慕ってくる人は必ずいるもので、それは監督自身の実地体験から来ているのでは?と思うと、なんかほんわかしてくる。
 そう言う意味で、監督が“先生”と自分自身を重ねて考えていたとするのならば、まさに本作は
自分を天才だと分かっている人間にしか作ることが出来ない作品とは言えよう。

 尤も、映画単体の出来そのものとしてはやはり普通のレベルを出ないかな?ちょっと長すぎるしね。
八月の狂詩曲
1991日本アカデミー撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞、作品賞、主演女優賞(村瀬幸子)、監督賞(黒澤明)、脚本賞
1991キネマ旬報日本映画第3位
1991毎日映画コンクール日本映画優秀賞、優秀宣伝賞

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黒澤明(脚)
村瀬幸子
井川比佐志
茅島成美
大寶智子
伊崎充則
根岸季衣
河原崎長一郎
吉岡秀隆
鈴木美恵
リチャード・ギア
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
鍋の中(書籍) 村田喜代子
 小泉堯史が黒澤組助監督として初参加。
1990日本アカデミー作品賞、監督賞(黒澤明)、撮影賞、照明賞、美術賞
1990ゴールデン・グローブ外国語映画賞
1990キネマ旬報日本映画第4位

1990毎日映画コンクール日本映画優秀賞、撮影賞、音楽賞

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黒澤明(脚)
寺尾聰
倍賞美津子
原田美枝子
根岸季衣
井川比佐志
いかりや長介
頭師佳孝
伊崎充則
中野聡彦
笠智衆
マーティン・スコセッシ
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 「こんな夢を見た」という書き出しで始まる黒澤明監督によるオムニバス映画。 「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」「鴉」「赤富士」「鬼哭」「水車のある村」 の8本を収録する。
 夢を映画化すると言うのは一つの映画形式として結構多いが、これほどストレートに自分の夢を映画化したものは他に類を見ない。オムニバス形式なので一本一本が短かく、ほとんどオチらしいオチが無く、ストーリーも荒唐無稽と言った感じ。ただ、この映画はストーリーそのものよりも映像を魅せようと言う意図があるようで、物語一つ一つ、色々と凝った映像技術が用いられている。特徴的なのが空の色で、確かに一本ごとにまるで違う。
「日照り雨」の虹のように色彩のついた空、「赤富士」の殆ど黒っぽい灰色の空に浮かぶ富士山から出た赤が混じり合った空。「雪嵐」のひたすらに白い空。「トンネル」の殆ど真っ黒な空…
 ただ、狙いは分からないでもないが、いかんせん技術的にこれだけ未熟だと、ちょっと引く。
 助監督に本多猪四郎が関わっていることからか、様々な造形や合成が試されているが、残念ながらどう見ても作り物にしか見えず、しかもそれをリアルに作ろうと言う気がないようで、作り物はあくまで作り物。どうせ夢なんだから、合成は合成。と割り切ってしまっているようだ。それが分かってしまうからどうしてもリアル性が感じられず、そこら辺がどうも困ったものだ。
 特に富士山の噴火の合成は凄まじく、山が崩れた様子が全然見えないのに、山のあちこちから派手な爆発と噴煙が上がっていたりする。この爆発は流石に無かろう。
 個人的には
「日照り雨」「トンネル」は結構好きだけど、これが傑作。とはとても言えないのがなんとも…
 ちなみに本作で黒澤監督の娘和子が黒澤組として初参加(監督の一言で入れさせられたのだが、映画自体初参加で、適当に衣装部にされてしまったとは本人の言)。そもそも本作は和子と、毎晩夢の話をしていたことから始まったとのこと。記憶力の良さと言うよりは、夢を覚えていると言うのが重要なのだろう。
 「水車のある村」のゴッホ役として登場しているのはマーティン・スコセッシその人
『グッドフェローズ』の撮影を放置して来てくれたとのこと。ただ、オランダ人であるゴッホをイタリア訛りの英語で演じているため、外国から観たら違和感が凄かったとか。ちなみに彼を選んだ理由は『影武者』の上映会で出向いたニューヨークで話しかけられたときに、早口で要領の得ない話を延々としたことで、随分ファナティックな人だ。と思ったことからだとか。
1985米アカデミー衣装デザイン賞、監督賞(黒澤明)、撮影賞、美術監督・装置賞
1985全米批評家協会作品賞、撮影賞
1985NY批評家協会外国映画賞
1985LA批評家協会外国映画賞、音楽賞
1985ゴールデン・グローブ外国映画賞
1985ブルー・リボン作品賞
1985毎日映画コンクール日本映画大賞
1986英アカデミー外国語映画賞、メイクアップ賞、脚色賞、撮影賞

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黒澤明
小國英雄
井手雅人(脚)
仲代達矢
寺尾聰
根津甚八
隆大介
原田美枝子
宮崎美子
植木等
井川比佐志
ピーター
油井昌由樹
伊藤敏八
児玉謙次
加藤和夫
松井範雄
鈴木平八郎
南條礼子
古知佐和子
東郷晴子
神田時枝
音羽久米子
加藤武
田崎潤
野村武司
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
リア王(書籍)ウィリアム・シェイクスピア
 隠退を控えた戦国武将の一文字秀虎(仲代達矢)。跡目を三人の息子に譲り、三人で仲良くこの国を治めるようにと言い置くが、三男三郎がその言葉に反発する。怒った秀虎は彼を勘当し、兄二人に国を継がせる。だが、父の願い虚しく二人は相争い、自らも正気を失う秀虎。彷徨う彼の見たものとは。
 黒澤明監督お得意のシェイクスピアネタ。今回は
「リア王」から。
 この映画、長らく監督の構想にはあったそうだが、何せ完全主義の監督のこと。構想に資金面が折り合いつかず長らくお蔵入りにあった。海外資本を得てようやく造り上げることが出来たわけだが、確かにえらく金がかかっている。この映画のために
何と城を一つ造ってしまい、それを一気に燃やしたと言うのは有名な話だが、それ以外にも合戦シーンでは約千人のエキストラと220頭の馬を投入し、7時間もの長時間撮影が行われた。なにせ本作、配収は16億を超えたが(1985年邦画興行成績3位)、制作費が29億円もかかっていたため、差し引き13億の大赤字となったそうだから。
 それで映画の出来だが、原作の改変が変な具合に作用してしまった感じ。秀虎が正気を失って彷徨するところはちょっと日本の風景とは似合わない。日本で枯れた雰囲気を出すためには地区と植生をよく調べないと出来ないこと。
日本の風景は概ねにおいて瑞々しすぎるんだ。
 キャスティングは悪くないと思うが、ピーターの道化は妙に浮いてた。
そもそも道化と言うのも邦画には似合わない役だ。道化の服が女性用ってのも、なんだか。
 私の見る限りにおいて、無理を重ねた作りであり、その分評価は低くなってしまう。
 この作品は私が初めて自分の意志で観た邦画であり、幸か不幸か物心ついて観た初めての黒澤明監督の映画だった。これが悪影響を及ぼしたらしく、人が言うほどたいした監督ではないと思い続けていた(笑)

<付記>
 後年DVD-BOXを購入。一応義務だと思い本作も観直してみた。

 …黒澤映画の大部分は男が主人公の映画が多いけど、女性が主人公の作品
(一般には『一番美しく』(1944)『わが青春に悔いなし』(1946)の2作と言われてる)が、実はもう一本あったんだなあ。
 だって、本作で立ってるキャラクターってたった一人しかいないんだもん。原田美枝子の狂気の演技のすばらしさは際だっていた。並み居る男どもを蹴倒すほどの恐るべき個性!…と言うより、
男たちの情けなさはどうだ
 黒澤監督の巧いところはストーリーもさることながら、良いキャラクターを絶妙な配置に置くところにあったのだとおもうのだが、その黒澤演出に耐えられる俳優が日本にはいなくなってしまったのだろうか?それが寂しい。

 尚、本作撮影中に黒澤監督の愛妻矢口陽子が亡くなっている。
「撮影中で良かった。人一倍センチメンタルなところがあった人だから、少しでも悲しませたくなかった」とは娘の黒澤和子の言葉。
影武者 1980
1980米アカデミー外国語映画賞、美術監督・装置賞
1980英アカデミー監督賞、衣装デザイン賞、作品賞、撮影賞
1980カンヌ映画祭パルム・ドール(黒澤明)
1980ブルーリボン作品賞、主演男優賞(仲代達矢)
1980セザール外国映画賞
1980
キネマ旬報日本映画第2位
1980毎日映画コンクール日本映画大賞、監督賞、男優演技賞(仲代達矢)、美術賞、音楽賞、日本映画ファン賞
1980報知映画作品賞、助演男優賞(山崎努)
1980
ヨコハマ映画祭次点

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フランシス・フォード・コッポラ
ジョージ・ルーカス(製)
黒澤明
井手雅人(脚)
仲代達矢
山崎努
萩原健一
根津甚八
大滝秀治
隆大介
油井昌由樹
桃井かおり
倍賞美津子
室田日出男
志浦隆之
清水紘治
清水のぼる
山本亘
杉森修平
油井孝太
山中康仁
音羽久米子
山下哲夫
阿藤海
江幡高志
島香裕
田辺年秋
井口成人
山口芳満
金窪英一
杉崎昭彦
宮崎雄吾
栗山雅嗣
松井範雄
矢吹二朗
土信田泰史
曽根徳
フランシスコ・セルク
アレキサンダー・カイリス
加藤敏光
清水利比古
志村喬
藤原釜足
浦田保利
金子有隣
渡辺隆
伊藤栄八
梁瀬守弘
ポール大河
大村千吉
★★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 1573年戦国時代。破竹の勢いで徳川勢を蹴散らす武田信玄(仲代達也)だったが、野田城攻めの際に鉄砲で撃たれ、手当ての甲斐無く死んでしまう。信玄の遺言で3年間その死は伏せられることになったが、そのために信玄に瓜二つの盗人(仲代達也二役)を影武者として立てる。だが男にとって信玄として生きることはあまりにも過酷だった…
 黒澤監督にとっては『デルス・ウザーラ』(1975)以来5年ぶりとなり、日本では『どですかでん』(1970)以来なんと10年ぶりの作品。主要キャスト以外は一般公募(勿論素人ではなく役者が対象だが)したことでも有名。制作難になった際、国際的な強力をあおぎ。コッポラとルーカスが製作を買って出たと言うニュースもあり、
1980年邦画興行成績は堂々の1位
 この作品、評価はさほど高くない。金を遣いすぎたってのもあるし、本来信玄を演じるはずだった勝新太郎が仲代達也に代わったため、イメージが違ってしまったと言うのも大きいが
(そもそもは信玄役は勝新太郎の兄若山富三郎にさせたかったらしい)、一番の不評部分は「合戦シーンがない」と言うところにあったんじゃないかと思う。本作は戦国絵巻で、勿論合戦の部分はあるんだけど、肝心の戦っているシーンがない。壮大な歴史絵巻を期待していた人にとってはちょっと肩すかしを食った気分なのではなかろうか?
 私も最初そう思っていた。何で一番肝心な部分を外すんだ?
 でも途中で
「ひょっとして?」と思うようになった。まさか、黒澤監督、合戦シーンを封印してるんじゃ?
 …その通りだった。
 本作では死体は山のように出てくるのだが(圧巻はラストの武田軍の死体の山。
黒澤監督は馬に演技をさせることで有名なんだが、よくこんなシーン撮れたもんだ)、死体になる課程…要するに殺されるシーンがほとんどない。あるのは唯一影武者が織田・徳川連合軍に単独で飛び込んで撃たれる時だけ(正確には闇の中で倒れる人間がいた:情報提供スパルタのキツネさんに感謝)。ここまで徹底するか?
 見事なほどだった。これだけの人数と金、時間を使って、合戦シーンのない戦国絵巻を描いてしまうとは。本来こういった作品では一番の売りとして合戦シーンを持ってこようとするものだが、監督のやろうとしたのは全くの逆転の発想だった。本来一番の売りとなる部分を封印しつつ、どう歴史合戦を作っていくか。
 何故本来の売りともなる戦いのシーンをわざと封印したのか。
 一つにはどうしても嘘っぽくなるからってのがあったんだろう。現に後の角川が巨額の資金で作り出した
『天と地と』(1990)の合戦シーンのしょぼくれさを見ても、はたまた黒沢監督自身の『乱』(1985)(悪い意味で)踊りのような戦いなんかを思い浮かべると、時代劇で乱戦をやらないというのは良い選択だったのかも知れないぞ。
 もう一つには人物の焦点がずれることを恐れたと言う点もあるのではないか。あくまで影武者個人に焦点を当てることで、緊張感を演出しようとしたのかも。
 その結果、カタルシスはなくなってしまった代わりに
恐るべき緊張感と虚脱感を演出することが出来た。ラストの死屍累々のシーンをあそこまで撮った監督は内外合わせても唯一これだけだ。
 戦国武将でもなんでもない、一人の人間が猛将武田信玄の代役を演らせられる。一般の生活ではなんとかそれを演じることが出来ても、合戦となると肝が据わらない。そんな人間をひたすらカメラは追う。戦いは耳で聞こえる音と声で察するしかない。逃げ出したくても逃げ出せないそんな状況に追い込まれ、その場その場を凌いでいく姿。極限状態で強いられる人間の心というものを克明に追っていた。
 後、個人的にとても好きなのは何と言っても悪夢を彷徨う影武者の姿。力の入った原色の悪夢の演出は素晴らしい(個人的には
『酔いどれ天使』(1948)の悪夢シーンに次ぐ名シーン)。結局なんだかんだ言って本作が好きなのはこの悪夢シーンに尽きる。

 本作は当初勝新太郎が主演で、本人もやる気満々で撮影に臨んでいたそうだ。だが、彼も又監督業に携わるものとして、独自にビデオ撮影を行い、それで演技研究をしようとしたところ、黒沢監督は「それは俺の仕事だ」と怒り、結局喧嘩別れとなってしまったと言う経緯がある。後年勝新太郎は
「おれはまげをつけて信玄になりきっていた。たかが黒澤が信玄に何を言うんだよ」と息巻いていたようだ。やっぱり信玄のイメージはこっちの方だったかもね。この時の喧嘩を間近で見ていた野上照代によれば、「黒澤さんのこのくらいの怒り方は、我々スタッフには並もいいとこ、中の下、震度2程度」だったそうだが、普段の撮影風景がよく分かる台詞である。勝は瞬間黒澤に殴りかかったとも。

 又、本作は当然ながら日本アカデミー賞にノミネートされるのだが、その打診があった際、黒澤はノミネートを辞退し、助演男優賞にノミネートされた山崎努も「作品がノミネートされていないのに役者が賞を受けるのはおかしい」として辞退している。これは黒澤監督が「日本アカデミー賞」という名称そのものに疑問を持っている。と後で日本アカデミー協会に対して申し出ている
(決着は未だ付いていない)

 それで、こういう分析をしておいてなんだが、これを観ていてどうしても思ってしまったことが一つ。
 
合戦部分だけピーター・ジャクソンに撮らせてみたら面白そうだと…すまん。
デルス・ウザーラ
1975米アカデミー外国語映画賞

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黒澤明(脚)
ユーリー・サローミン
マクシム・ムンズク
スベトラーナ・ダニエルチェンコ
シュメイクル・チョクモロフ
ピャートコフ
プロハノフ
ウラディミール・ブルラコフ
アレクサンドル・フィーリベンコ
ユーリー・チェルノフ
アレクサンドル・アレクサンドロフ
ウラディミール・クレメナ
アレクサンドル・ニクーリン
アルカーディ・リスターロフ
アレクサンドル・クラソーチン
ユーリー・コボソフ
ウラディミール・プラトニコフ
ウラディミール・フリョストウ
マルク・オリシェニッキー
スタニスラ・マリーン
ヴァニアミン・コルジン
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 シベリアのウズリ地方の地質調査に出掛けたウラジミール(サローミン)を始めとした探検隊は深い森の中、たった独りで暮らしている男デルス・ウザーラ(ムンズク)と出会う。彼の森での知識は極めて的確で、ウラジミールは度々命を助けられる事になる。彼はデルス・ウザーラに深い敬愛の念を抱いていくのだが…
 実話を元に黒澤監督がロシアの大地で描ききった友情の物語。製作費のほとんどはソ連政府が出した完全なソ連映画で、ソヴィエト政府に招かれた黒澤監督が、「想像上の意見は100%尊重する」と言われて出向いで作ったという、『どですかでん』(1970)以来実に5年ぶりの作品となる。
 本作品も監督入魂作品。と言った風情で、実に素晴らしい作品に仕上がっている。中でもシベリアでの撮影(夜になると氷点下30度にもなるという過酷な環境の元で作られたそうだ)をフルに活かした地平線の表現は素晴らしい。地平線というのがこれ程人の孤独を表すものとは。その地平線の上にぽっかり浮かぶ太陽と月とを同一フレームで映した画面の配置の微妙さ
(自然そのものを切り取った感がある)は特筆物。処女作『姿三四郎』(1943)もそうだが、自然にまで演技を要求する監督の根性には頭が下がる。
 それに美しいだけでなく、人間ドラマとしても重く、そして見応えのある作品に仕上がっているのも特徴的。
 デルスとウラジミールは基本的に何の関わりも持たぬ。ただ共通点は互いに純粋すぎた。そしてそれ故に孤独を選んだと言う点だけ。
実在の人物ウラジミールは軍隊に籍を置いていながら、その純粋さのために幾重もの苦労を味わう事になる。人間社会においては純粋さというのはプラスにならない事が多い。このシベリア探検もその純粋さのために軍部の中枢にいられなくなった彼に下された命令だったそうだ(この映画の後の物語があり、ウラジミールは結局離婚後、再婚。だが、軍隊でも家庭でも上手くいかず、最後は貧困の内に息を引き取ったそうだ)
 その純粋さと孤独故に二人は惹かれ合うが、人の間に生きてきて、否応なく孤独になっていくウラジミールと、最初から人と共にある事を放棄し、孤独である事を好むデルス。この二人の間には同じ孤独であっても、
根本的な違いがあった
 故にこそ、視力の減退故に絶望するデルスを引き取ったウラジミールはその事に気付かされる事になる。ウラジミールは孤独そのものを愛していたわけではなかった。彼には愛する家族がいたのだ。それに対し、根っから孤独に生きる事しか出来ないデルスと。二人は互いに孤独を強いられる状態においてのみ、繋がる事が出来たのだから。
 二人の間には孤独故の友情があった。だが、お互いに理解する事は出来なかった。最後のウラジミールが呟く
「デルス」の一言は、故にこそ、重い。
 DVD特典にあった本作の裏話は興味深かった。黒澤監督は『トラ トラ トラ』(1970)の監督降板と自殺未遂という大きな失意を抱えていた状態でソ連に招かれ、そこでシベリアでの強行軍で本作は作られた。連れて行った日本人スタッフも少なく(たった五名)、体調不良の上に毎晩の深酒で心身共にボロボロで、しかも全面協力してくれるはずのソ連側が色々難癖を付け、撮ったフィルムを廃棄してしまった上に、早く撮影を終わらせろとの催促で、ほとんど極限状態だったそうで帰国後すぐに入院するほどだったそうだが、苦し紛れに撮ったカット
(虎を撃つシーンとかは結局スタジオの中で作られたそうな)がかえって良いシーンになったとか。トラブル続きの中でこれだけの作品が作れる黒澤監督は本物の監督だ。
 この時の経験は相当にこたえたらしく、黒澤監督は以降この映画でかぶっていた帽子を以降映画撮影の時は必ずかぶっていたと言う。本人の言によれば、あの苦労があったから作れると言っていた。
どですかでん
1970キネマ旬報日本映画第3位
1970毎日映画コンクール女優賞(奈良岡朋子)
1971アカデミー外国語映画賞

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黒澤明
松江陽一(製)
黒澤明
小国英雄
橋本忍(脚)
頭師佳孝
菅井きん
殿村敏之
三波伸介
橘侑子
伴淳三郎
丹下キヨ子
日野道夫
古山桂治
下川辰平
田中邦衛
吉村実子
井川比佐志
沖山秀子
松村達雄
辻伊万里
山崎知子
亀谷雅彦
芥川比呂志
奈良岡朋子
三谷昇
川瀬裕之
根岸明美
江角英明
高島稔
加藤和夫
荒木道子
塩沢とき
桑山正一
寄山弘
三井弘次
ジェリー藤尾
谷村昌彦
渡辺篤
藤原釜足
小島三児
園佳也子
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
季節のない街(書籍)山本周五郎
 1969年に結成された黒澤明、市川崑、木下恵介、小林正樹による四騎の会の第1回作品で黒澤監督の初のカラー作品。全体的な暗さのため興行的には失敗。
 低予算で作られているが、『トラ・トラ・トラ』の中止もあって、映画が作れると言うことだけで黒澤は楽しかったらしい。
 これも日本ではさほど評価されないが、海外では結構ウケが良かった。
 後年黒澤はここに登場するろくちゃんこそ自分自身だと述懐している。
 地面にまで色を塗った独特のセンス。
赤ひげ
1965ヴェネツィア国際映画祭男優賞(三船敏郎)、国際カトリック事務局賞(黒澤明)
1965ブルーリボン作品賞、主演男優賞(三船敏郎)、助演女優賞(二木てるみ)
1965キネマ旬報日本映画第1位
1965毎日映画コンクール日本映画最優秀賞

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井手雅人
小国英雄
菊島隆三
黒澤明(脚)
三船敏郎
加山雄三
山崎努
団令子
桑野みゆき
香川京子
江原達怡
二木てるみ
根岸明美
頭師佳孝
土屋嘉男
東野英治郎
志村喬
笠智衆
杉村春子
田中絹代
柳永二郎
三井弘次
西村晃
千葉信男
藤原釜足
三津田健
藤山陽子
内藤洋子
七尾伶子
辻伊万里
野村昭子
三戸部スエ
菅井きん
荒木道子
左卜全
渡辺篤
小川安三
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
赤ひげ診療譚(書籍)山本周五郎
 長崎で蘭医学を学び、意気揚々と江戸に帰還した青年医師保本登(加山雄三)は、何故か医師見習いとして小石川養生所に住み込むことになってしまった。当初自分の不運を嘆き、養生所の所長・赤ひげこと新出法定(三船敏郎)にことごとく反発する保本だったが、赤ひげの診断と医療技術の確かさを知り、また彼を頼る貧乏な人々の姿に次第に心を動かされていくのだった…
 
1965年邦画興行成績堂々の1位作品。黒澤明監督と三船敏郎の最後のコンビ作。
 黒澤明と言う監督についてはどれ程褒めても褒めすぎってことは無いと思う
(特に初期はね)。映画全体を俯瞰して観たとしても、又細かい場面場面を観ても、必ず唸らせられる。絶妙のカメラ・ワークと演出方法、そして所々に見せるウィットさ。個々の役者の生き生きとした表情。何を取っても、よくぞここまでやったものだ。と思わせられる。
 映画の持つ限界をはっきり分かった上で、それを超える何かを常に求めていた(しかも観客に分かるような方法で)姿勢こそが、監督の作品を傑作たらしめているのだと思う。
 
一体監督は全作品を通して何を目指していたのだろうか?と、これを観ながらふと思った。
 それで誠に勝手ながら、私なりの考えを述べさせてもらうと、監督はいかにして人の内面をカメラに収めるか。と言う点にこだわりを持っていたような気がする。
 これは何も監督に限っての事では無かろう。多かれ少なかれ、映画というのは人の内面をいかに表現するかを追い求めるものだ。そしてその方法はいくつか確立されている。思いつくまま挙げさせてもらうと、
一番簡単なのは表情のアップを撮る方法。役者次第ではあるけど、観る者を納得させられる演技力があればいい。仕草で思いを表現する方法もよく使われる。これは正統な方法だが、もうちょっと複雑にすると、モノローグを入れる方法、あるいは日記などを朗読させる方法もある。これらはテレビなどでも良く用いられる方法で、最も簡単且つ効果的な方法だ。内面世界を映像化してしまうと言うのもある。ビデオ・トリップみたいな不思議な映像になってしまう事もあるけど(そう言う意味で傑作となった作品も多い)、これも直接意識下を直接表現できる。あるいは様々なオブジェの配置によって表現する方法もあるだろう。この場合は一般的とは言えなくなるけど。
 監督もこれらの方法は良く使っているし、監督の映画によってそう言う表現方法が確立された部分もあるだろう。
『姿三四郎』での蓮の花とか、『生きる』の志村喬の浮かれつつ寂しそうな顔アップ、『椿三十郎』の息詰まる対峙シーン、『生きものの記録』でのどんどん老けていくメイク、『羅生門』での草をかき分けて歩むその行程、そして『夢』での摩訶不思議な光景。それらは心象風景として観る者の心に響いてくる)。
 それで本作ではどのようにそれを表現したのか。
 私なりに本作では
“狂気”という点に結実したのではないかと思う。
 特に前半部分の山場とも言える香川京子と加山雄三扮する保本との対峙シーンは恐ろしいほどだった。最初まともに見えた女性が切々と訴えるように身の上話を続けていき、保本に抱きついたと見るや、急に声のトーンが変わり、憑かれたような話しぶりに変わっていく。何よりその時の目が凄まじい。本気でぞくっときた。
 それに後半の中心となる少女おとよ(二木てるみ)の変遷の過程。最初は心を病んでいた少女が保本と赤ひげの献身的な振る舞いに徐々に心を開いていく過程。最初に見せた彼女のギラギラするかのような目つきが容貌に与えた狂気の表情と、保本に嫉妬して顔を伏せる表情の明らかな違い(最初の狂気の演技の時は、しっかりカメラに顔を向けていたのに、保本に嫉妬して同じようなことをしていたときは終始顔をうつむけ、目を見せようとしなかった)。メイクも含め、容貌そのものが変化したかのようなイメージを残してくれた。
 尚、これはただ演技だけではなく、
キャッチ・ライトという手法により、目に光を当て、それをカメラに収めるという方法を用いているそうだ。光彩ではなく、白目部分に光を当てる事によって、狂気を演出したとか。光さえも人の内面を映し出す小道具として使うとは。本当に見事だった。
 この二つの“狂気”の演技。それに完全に心奪われてしまった。だから、私はこの映画を決して人情噺にくくる事が出来ない。黒沢監督自身がこの映画は
「観客が見たいものを作ろう」と語っていたそうだが、それでも尚こう言う特別な楽しみ方が出来るのが黒沢映画の素晴らしさだ。今、ここで書いていても思うのだが、本当にこれ、人情噺だったんだろうか?
 勿論他のシーンに付いても文句なしに素晴らしい。佐八(山崎努)とおなか(桑野みゆき)の悲恋話での雪や風鈴と言った小道具を用いての小憎い演出、地震の凄まじさの演出。恐らく後の
『必殺!』シリーズに受け継がれただろう乱闘シーンの音の演出。ラストの照れてわざとぶっきらぼうに歩く赤ひげに、さわやかな顔つきをしてついて行く保本(最初のシーンとの表情の違いが又素晴らしい)など、本当に練り込まれたシーンばかりだ。
 でも
やっぱり“狂気”の演出シーンに囚われすぎだな、私は。今度観る時はもっと全体的に観てみるよう努力しよう。
 DVDの特典で、キャッチ・ライトについて、又その異様な目についての言及が長々となされていたので、なるほど。少なくとも間違った観方はしてないとほっとした(笑)。これも特典で当時助監督だった出目昌信のインタビューで、香川京子と加山雄三との対峙シーンの苦労話があった。キャッチ・ライトは役者の目の位置があらかじめはっきり分かってないといけないので、出目氏と、当時やはり助監督を務めていた大森健次郎氏があらかじめ全く同じ動作をしてライトの位置を調整したという。それで「口を吸うシーンがありましたね」というツッコミに、照れた笑いを見せ、
「あの時はお互いに夕食には絶対餃子を食べないように打ち合わせてたね」と照れつつ言っていたのには笑わせてもらった。

 …それにしてもコメントとは難しい。
 私の中に詰まっている、この映画について語りたい。と言う思いが、
文字にした途端陳腐化してしまう。いくら長々コメントを書いていても、本当に表現したい事は全然書けてない気がする。歯がゆくてならない。

 大ヒットを記録した本作だが、黒澤監督は本作製作のために並々ならぬ意気込みを持っていたようで(なんでも『用心棒』の大ヒットで暴力映画ばかりがクローズアップされることを嫌ったのだとか)、私財もなげうってしまったため、それから黒澤家は借金漬けの生活になってしまったとか。
本当の映画馬鹿だな。
 この作品でも森谷司郎出目昌伸が監督助手をしている。
天国と地獄
1963キネマ旬報日本映画第2位
1963毎日映画コンクール日本映画賞、脚本賞

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小国英雄
菊島隆三
久板栄二郎
黒澤明(脚)
三船敏郎
香川京子
江木俊夫
佐田豊
島津雅彦
仲代達矢
石山健二郎
木村功
加藤武
三橋達也
伊藤雄之助
中村伸郎
田崎潤
志村喬
藤田進
土屋嘉男
三井弘次
千秋実
北村和夫
東野英治郎
藤原釜足
沢村いき雄
山茶花究
西村晃
浜村純
清水将夫
清水元
名古屋章
菅井きん
山崎努
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 ナショナル・シューズの権藤専務の元に、息子の純を誘拐したとの脅迫電話が届く。だが、これは犯人の取り違えで、実は誘拐されたのは権藤の運転手の息子進一だった。開き直った犯人に、権藤は身代金を支払うことに決める。警察による警備をかいくぐり、巧みに身代金三千万円を手に入れた犯人。警察の必死の捜査が始まった。
 本作はエド=マクベインによる“87分署シリーズ”の一本を翻案したもので、1962年邦画興行成績では堂々の1位を記録した作品。
 黒澤監督にとっては『野良犬』に続いての刑事物作品で、『野良犬』とは又違った魅力に溢れた作品。
 黒澤監督の多くの映画に共通するのは、
低いところからの目線がしっかりしているという点がある。低いというのは、時に社会的弱者であり、時に貧乏ものだったり。終戦直後だと敗戦を喫した日本そのものが弱者だったりするが、どれを取っても、上を向いている視点がそこにはあった。それだけだと社会派映画になってしまうが、そこに高見から見下ろす人間を登場させ、更にそれを魅力的に描くことで、その対比を用いてドラマを作っている。『どん底』『生きる』など、その対比がしっかり描かれていたし、それにエンターテイメント性を持たせた『七人の侍』は映画史に残る傑作となったのは当然とも言える。
 監督のあらゆる作品でこの上下の視点の対比が見られるのだが、時代が下って行くに従い、日本自体が豊かになっていき、そのテーマはだんだん受け入れられなくなっていく。多分本作が作られたここまでの時代までが、本当の意味での上下の対比が描けた時代なんだろう。しかも本作はストレートに視点の交差を描いていたし、題名からしても、まさにそのままと言った印象を受ける。
 恐らく本作こそが初期黒澤映画の集大成であったと思われる。
 この作品の視点の捉え方は面白い。先ずここには明確に
「主人公」と呼べる存在が無いことに気づかされること。主人公は権藤でもあり、姿の見えない犯人でもあり、そしてそこで働く警察官一人一人でもある。グランド・ホテル形式の映画ではよく見られる構図なのだが、この作品はひと味違う。それを如実に示しているのが、彼ら一人一人の視線である。
 本作はしっかりと上から見下ろす形の視線と下から見上げる形の視線を明確に描いている。だが、本来下から見上げる担当であるべき肝心の犯人像が最後まで分からないのだ。これが面白い効果を生んだ。
 本来下からの視線を担当すべき犯人の目線が物語途中まで不在。よって、その犯人の視線を代弁する存在が必要となる。それが警察官一人一人の視線が担うことになる。彼らは本来は権藤側に立つべき存在であり、せいぜい中立を保つ立場でしかない。だが、犯人側の視線が封じられた時、相対的に彼らが見つめるのは権藤だけになってしまい、結果として上下の視線が構成されてしまう。丘の上に建つ権藤の屋敷を見て自嘲的に呟く
「畜生」と呟く台詞こそが、彼らの視点が上ではなく、中間でもなく、下にあることをよく示している。
 そして物語が中盤から後半に移るに至り、今度は権堂が姿を消し、犯人と警察との対決へと
(言ってしまえば普通の刑事ドラマに)移るのだが、ここでも視点の転換が行われている。それまで権堂と一緒にいることにより、下から見上げていた刑事達が、今度は雑踏の中に紛れて犯人の方向へ、つまり横から下方向を向くようになる。刑事達はそのどちらの視点も持っているのだが、対象が変わることにより、視点の転換も起こっている。この演出は見事なものだ。
 刑事達はどこにあっても異質な存在として捉えられる。彼らは言わばどこにあってもアウトサイダーであり、だからこそ、視点の転換にぴったりくるものであり、それに『野良犬』の時と違って複数の刑事達が活動することで、その曖昧さを更に強調していたとも言えるだろう。
 彼らは事件の当事者としてではなく、あくまでその解決を依頼されたプロフェッショナルとして描かれる。そこが重要なのだろう。『野良犬』の時のように、この事件は刑事自身の問題に関わってくることはない。逆にそれがリアリティを増していた。
 それと『どん底』で見られた密室のカメラ・ワークの凄さもこの作品では遺憾なく発揮されている。ショットの連続により、緊迫感を増している。同様
の方法で有名なのは『十二人の怒れる男』(1957)だが、本作の撮り方はそれとは違って、実際に連続した撮影時間の中、複数のカメラを回すことによってそれを可能としている。これが黒澤監督のこの時代の撮影の特徴でもあるのだが、連続した短い時間での緊迫感を演出するには非常に良い方法。
 それと、自分の思った色が出ないと言うことからなかなかカラーに移行することがなかった黒澤監督が初めて使った色も、本作を特徴づけている。ほんの一瞬、工場から出る煙がピンクになったシーンのみだが、この鮮やかさが、特に印象づけられる。
 尚、公開後、この手口を模倣した事件がいくつか起こり、
実際に映画をまねた子供の誘拐事件が起きてしまうというおまけまで付いた。それだけ本作の出来が良かったと言うことだろう。

 本作には監督助手として森谷司郎出目昌伸 の名前がある。
椿三十郎
1962キネマ旬報日本映画第5位

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菊島隆三
小国英雄
黒澤明(脚)
三船敏郎
仲代達矢
小林桂樹
加山雄三
団令子
志村喬
藤原釜足
入江たか子
清水将夫
伊藤雄之助
久保明
太刀川寛
土屋嘉男
田中邦衛
江原達怡
平田昭彦
小川虎之助
堺左千夫
堤康久
山田彰
松井鍵三
樋口年子
波里達彦
佐田豊
清水元
山口博義
広瀬正一
大友伸
大橋史典
峯丘ひろみ
河美智子
爪生登喜
伊藤実
宇留多耕司
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
「金魚のウンコじゃあるまいし」
日々平安山本周五郎
 代官や次席家老の不正を訴えようとした正義感溢れる若侍達(加山雄三・田中邦衛他)は首謀者の大目付の策にはまり危機に陥るが、たまたま居合わせた素浪人の機転で救われる。椿三十郎(三船敏郎)と名乗るその男は、若侍達の頼りなさを心配して共に行動することにした。事態を治めるには城代家老(伊藤雄之助)の力が必要だったが、大目付は城代を捕えており、さらに彼の元には切れ者の家臣・室戸(仲代達矢)がいるためうかつに手は出せない。そこで三十郎は室戸に近づき、雇われ侍のふりをして城代家老救出を企むのだが…
 前年に製作された
『用心棒』続編の痛快娯楽大作。冒頭から物語は小気味よく展開し、ラストまで飽きさせない雰囲気は見事。ただ、小気味が良いと言うことは、その分ストーリー性に複雑さが無くなったと言うこと。若侍達の単純さは見ていて情けない程だし、三十郎の性格も実に単純。あんななりした素浪人があんなに正義感溢れてるなんて、見ていて信じられないとさえ思う。『用心棒』と較べて叙情的な雰囲気にもなってしまっている。
 とは言え、そんなのは確信犯であろう。この作品
とにかく凄い。何と言っても三船敏郎が格好良く、最後の決闘シーンは息詰まる緊張感とその後の開放感とのタイミングが実に見事。あの血しぶきの巻き上げ方は、殆どアニメのよう。よくやってくれた。
 あと、やはり黒澤明だけあり、レイアウトの素晴らしさは言うに及ばず。たとえそれがモブシーンであってもきちんと全員が配置され、隙がないカメラ・ワークを魅せ付けてくれる。中盤静かに物語が流れるシーンで流れていく椿は目に焼き付き、白黒映画でありながらちゃんと赤く見えるような気さえするのはさすが。黒澤明はとにかく白黒映画を知り尽くしてる。
 本作のキャラの立ち方は感動的なほどで、主役の三船敏郎は当然としても、室戸役の仲代達矢、三十郎から「金魚のウンコ」と言われる7人の若侍が他の映画だったら主役か準主役級のキャストばかり(だって加山雄三に田中邦衛、
平田昭彦、土屋嘉男だよ。いやあ、よくこんなもん作ったよ。渋い役所の入江たか子の存在感も良かったね。
 ところで、本作の撮影は大変難航したそうだ。コンディションも良いし、撮影日和であるのにもかかわらず、何故か黒澤監督が「今日は休み」を宣言し続けたため…スタッフも何故なのだろうかと頭を捻った結果、分かったことがあった。実は撮影中止の前日には、必ず巨人軍が負けていたから…監督は川上哲治の大ファンだったそうだが、なんと人騒がせな…
(これが阪神ファンだったら「よくやった!」と褒めるんだが。複雑なファン心(笑))
 そしてラストのあの有名な血しぶきシーンだが、勿論リハーサルは入念に行ったが、肝心の血しぶきは本番まで完全封印。仲代自身そこまでのものとは聞かされておらず、あまりの水圧に体が宙に浮かばないようにするので手一杯だったとか(その割に血を浴びないように逃げているスクリプターの野上照代を見ていたそうだから、役者というのはたいしたものだ)。
用心棒
1961米アカデミー衣装デザイン賞
1961ヴェネツィア国際映画祭男優賞(三船敏郎)
1961ブルーリボン主演男優賞(三船敏郎)

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黒澤明
菊島隆三(脚)
三船敏郎
仲代達矢
司葉子
山田五十鈴
加東大介
河津清三郎
志村喬
太刀川寛
夏木陽介
東野英治郎
藤原釜足
沢村いき雄
渡辺篤
藤田進
山茶花究
西村晃
加藤武
中谷一郎
大橋史典
堺左千夫
千葉一郎
谷晃
羅生門綱五郎
土屋嘉男
清水元
ジェリー藤尾
佐田豊
大友伸
天本英世
大木正司
寄山弘
大村千吉
本間文子
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 跡目争いから端を発し、清兵衛一家と丑虎一家という二人の親分が対立するようになってすっかり荒れ果ててしまった宿場町。そんな馬目の宿にぶらりと現れた浪人桑畑三十郎(三船敏郎)は自分の力を誇示し、金を多く積んでくれた方の用心棒になると持ちかける。二人の親分は競って三十郎を自分の側に引き込もうとするが、丑虎一家には卯之助(仲代達也)という拳銃使いの弟がおり、三十郎を胡散臭く見やっていた。三十郎の本当の狙いとは?
 
黒澤プロダクション製作による第2弾(第1作は『悪い奴ほどよく眠る』)。前作で社会性を打ち出しておいて、2作目でこれを持ってきたところが面白いところだ。おそらくは前作で大きな反発を受けることを期待していたはずなのだが、前年の闘争で盛り上がった世相は『悪い奴ほどよく眠る』を受け入れ、安保締結によって白けてしまったこの年には、むしろ社会的なものより娯楽を求めるようになっていた。たった一年でがらりと変わった社会に対して、この2作の投入時期はまるで計ったようにぴったりだった。それで社会性の強い作品はやめて、とにかく面白い映画を作ることを考えた結果出来た作品。
 本作は一言で言ってしまえば、
「痛快時代劇」なんだが、それで済ましてしまうにはあまりにも素晴らしすぎる作品で、続編の『椿三十郎』(1962)共々、邦画の最高傑作の一本に数えて良い。私も大好きな一本だが、どっちが好きか?と自分に尋ねてみると、分からない。多分最後に観た方が好きになる(現時点で本作は2回、『椿三十郎』は3回観ているが、最後に観たのは『椿三十郎』の方だったため、今はややそちらの方に軍配が上がってる)。黒澤明の最高傑作『七人の侍』(1954)と較べても、単なる好みという点ではこの二本の方を選びたいくらい。ただ、強烈なメッセージ性を考えると、どうしても、娯楽に特化した点で、やはり下に置くことになってしまう…とにかく、凄く好きだということ
 『七人の侍』を出したのでついでに言わせてもらうが、映画史上において『七人の侍』
『椿三十郎』2作のどちらが影響強かったかと言えば、世界的に言うなら前者ながら、日本で言っては、むしろ後者の影響の方が強かった。
 それまでの時代劇は「東映時代劇」と言われるように東映製作のものが多かった。ここでは人間ドラマの方に主眼が置かれていたのは良いのだが、肝心の殺陣の部分がかなりなおざりにされていた…
言い方が悪いな時代劇は歌舞伎から発展した感があるため、殺陣の部分は見立てによって構成されていたと言った方が良いか。強さを表すためにまるで主人公は踊るように刀を振り回し、斬られてないのに敵がばたばたと倒れる(その影響は本作にも散見されるが)
 だが、本作及び『椿三十郎』の投入によって、東映時代劇は急速に見向きされなくなってしまう。今まで観たこともなかった圧倒的なリアリティで人が斬られてるのを観てしまったら、踊りは観たくなくなってしまう…結果、東映は何本か血みどろのリアルな時代劇を以降何本か作った後、任侠映画の方にシフトしていくことになり、監督連中は気後れしてしまって本作を越える時代劇が作られなくなってしまった…
あまりに質が高かったが故に、後々の邦画に与えた影響は強すぎた
 こう言ってしまえば、
本作は邦画におけるあだ花だったのだ。質が高すぎたが故に、現在も尚、あだ花となり続けている。
 それを可能としたのは、実は黒澤明監督自身がヤクザが大嫌いだったと言うことに端を発している。
 これまでにも『酔いどれ天使』という傑作を作っている監督がヤクザ嫌いというのは面白いことだが、監督の主張によれば、嫌いだからこそ、美化しない。むしろヤクザが全部つぶし合ってくれれば良い。と言うことらしい。だから『酔いどれ天使』ではヤクザを徹底的に情けなく描いてるし、本作はお互いにつぶし合って全滅させてる。どちらかを正義に設定して作られるのが当たり前の任侠作品の価値観を全く逆転してしまった。主人公は善人でも悪人でもないとぼけたキャラクターで、腕も立つがむしろ知力によってそれをなさしめるというのも画期的だった。監督の徹底したヤクザ嫌いこそが、この作品を可能ならしめていたのだ。
 むしろ本作は時代劇と言うよりは西部劇に近い形式であり、本作の存在こそがダーティ・ヒーローを得意とするマカロニ・ウエスタンを生み出すことになる。
 本作の魅力と言うものを考えてみると、それこそ殺陣のリアリティとか人物描写の素晴らしさとかが挙げられるだろうけど、一番私が凄いと思ったのは
絶妙な間の取り方だった。
 最初の方で三十郎を用心棒として迎え入れた清兵衛一家だが、そこには既に一人の用心棒本間(藤田進)がおり、そいつが尻に帆かけて逃げ出すシーンがある。桑畑の中をこっそり逃げていく本間に向かって、三十郎が悠然と手を振り、それに答えて照れくさそうに本間が手を振りかえす。ただそれだけのシーンで大笑いできる。それほどぴたりと間が決まっているのだ。この間の取り方の巧さは全編に渡っており、時にコミカルに、時に切迫度を増して決して飽きさせることなく続けられる。ほんと、この構成の巧さにも驚かされる。
 それとここでの三船敏郎の格好良さは群を抜いてる。単に格好良いだけでなく、それこそ微妙な間の取り方から、難しいアクションをこなす力量も。全編に渡り、どこか人好きのするにやけ顔が続くのだが、笑いの中にも色々な表情を封じ込めてる。人殺しが笑う時のぞっとするような笑いもその中にはあるし、何か名案が浮かんで一人にやにやする姿もある。中でも、最後全てが終わった時に居酒屋の親父(東野英治)に
「おい親爺、これでこの宿場も静かになるぜ」と言った時のさわやかな笑顔が何とも言えぬ余韻を残してくれる。
 勿論それだけでなく、驚かされたのは小屋をぶっ壊すシーン。
あれ一発撮りだろ?あれだけのアクションを間を置かずに演じきるなんてこと出来るのは三船しかいないぞ。格好良いってより、あのシーンは呆然として観てたよ(繰り返して観たが、その度毎に溜息が出る)。
 他のキャラクターや小道具に至るまで妥協が無いのも特徴で、オープニングの犬が手首くわえてくるシーンとか、相変わらずのキャラ立ちを思わせる山田五十鈴の演技、バタ臭い仲代達也。巨大な羅生門(あれだけでかいからえらく目立つ)。色々あるけど、やっぱりこの作品は、三船敏郎の単独の格好良さに尽きるんだよなあ…
超ナルシストのイーストウッドに真似されるわけだわ

 …レビュー書いてる内にどうやら私の中で『椿三十郎』との順位がまたまた逆転したようだ(笑)

 助監督として出目昌伸が参加。
悪い奴ほどよく眠る

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小国英雄
久板栄二郎
黒澤明
菊島隆三
橋本忍(脚)
三船敏郎
森雅之
香川京子
三橋達也
志村喬
西村晃
加藤武
藤原釜足
笠智衆
宮口精二
三井弘次
三津田健
中村伸郎
藤田進
南原宏治
清水元
田島義文
松本染升
土屋嘉男
山茶花究
菅井きん
賀原夏子
樋口年子
佐田豊
沢村いき雄
田中邦衛
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 日本未利用土地開発公団の副総裁岩淵の娘佳子(香川京子)と岩淵の秘書の西幸一(三船敏郎)の結婚式が政界、財界の名士を集めて華々しく行われていた。だが、運ばれてきた巨大なウェディング・ケーキは巨大な公団の新築庁舎の姿が模してあり、しかも五年前に飛び降り自殺した部屋の窓には真っ赤な薔薇が一輪刺さっていた。これが公団と政府の癒着を世間に暴き立てる発端となる。隠蔽工作を計ろうとする岩淵の手の内を見透かしたように次々と事件が起こるのだが…犯人は誰か?そして犯人の狙いとは?
 黒澤明監督は内外で通じる大監督には違いないが、『隠し砦の三悪人』の予算超過は東宝の製作費を圧迫することになったため、黒澤は東宝を退社し、黒澤プロダクションを設立することになった。
本作はその第一作となるが、それは大成功だろう。これほど重いテーマだったら、大手映画会社だったら製作出来なかっただろうし、もうちょっと時代が後だったら、ATG位しかテーマに出来そうにない。それを可能としたのは、まさにこの時代に独立プロを作ったからに他ならない。しかも本作は黒澤明という監督の実力を遺憾なく発揮した作品だ。このテーマをシリアス一辺倒にするのではなく、ピカレスクロマンにして、娯楽性をとことん追求し、しかもテーマを損ねることなく映像化してくれた。これぞ本当の“天才”の所行だ。
 『生きものの記録』同様、社会というものを真っ正面から捉えた作品だが、『生きものの記録』では抽象的だった“悪”の概念が、ここでは真っ正面に、しかも主人公がいくら足掻いても敵わないものとして描かれる。
 しかし、本作で興味深いのは、これだけ重いテーマを扱っていながらも、根底にユーモアが存在することだった。一体それは何なのか?と考えてみると、「ああ、そうだ」と思える例が一つ。金と権力というのは、まさにモンスターそのもの。それに徒手空拳で戦いを挑む姿は、実は
『ドン・キホーテ』のキハナ老人と相通じる存在に思えてしまう。
 これを「馬鹿な奴」と言うだろうか?
 一般に見る限り、これは
本当に馬鹿である。
 しかし、その馬鹿さ加減が愛すべき姿なのであり、だからこそドン・キホーテがキハナに戻る時、我々は一抹の寂しさを覚えつつも、著者のユーモアセンスに拍手を送るのだ。
 ここで三船敏郎演じる西の姿は、むしろ悲痛さを感じることになるのだが、最後に自分の野望を達成できた!と思った時、実は彼は謎の男ではなく、一個の人間になってしまった。あたかもドン・キホーテがキハナ老人に戻った時のように。それをユーモアというには、あまりに重すぎるのかも知れない。しかし、その重さこそが、本当に本作に華を添えるものであった事に気づく。
 ラストの台詞
「申し分のない秘書を、しかも、娘の婿を失って呆然自失」と語る岩淵の言葉。これこそモンスターの話す一言であり、やるせなさの中のユーモアなのだ。
 そしてまるで本作はこの後の日本というものを暗示していたことをも気づかされるだろう。金と権力というモンスターは、右肩上がりの経済状況でこそ、モンスターでいられる。事実、バブルがはじけた後の日本の財界トップがこぞってテレビ画面の前で頭を下げた姿は、本作のラストの後の物語のように思えてしまうのだ。
 モンスターは今もいる。物語は実は今もなお続いているのだ。もっとその事を私たちは考えるべきなのかも知れない。

 …これだけ褒めておいて点数がやや低めなのは、
この作品での三船敏郎の描き方が失敗だったとしか思えなかったから。この主人公は三船じゃ駄目だったんじゃないか?社会の下に位置するはずの主人公が強すぎたのだ。そこが残念だったことと、映画としての完成度を優先した結果、悪の存在があまりにステロタイプになってしまったところ。現代劇を描いているのに、どことなく時代劇的演出を感じさせられてしまう。
隠し砦の三悪人 1958
1959ベルリン国際映画祭監督賞(黒澤明)、国際評論家連盟賞
1958ブルーリボン作品賞

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黒澤明
菊島隆三
小国英雄
橋本忍(脚)
三船敏郎
千秋実
藤原釜足
藤田進
志村喬
上原美佐
三好栄子
樋口年子
藤木悠
笈川武夫
土屋嘉男
高堂国典
加藤武
三井弘次
小川虎之助
佐田豊
上田吉二郎
沢村いき雄
大村千吉
小杉義男
中島春雄
堺左千夫
谷晃
佐藤允
中丸忠雄
緒方燐作
熊谷二良
広瀬正一
西条康彦
日方一夫
千葉一郎
山口博哉
★★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
「裏切り御免!」
 戦国時代、戦に出て一攫千金をもくろむ農民の太平(千秋実)と又七(藤原釜足)だったが、彼らがやってきた時には既に戦は終わり、戦国大名の秋月家は山名家に負けてしまっていた。結果二人は死人のための穴掘りばかりやらされることになり、それが嫌で逃げ出すのだが、そんな彼らは偶然に薪に詰めた金の延べ棒を発見してしまう。喜んだ二人の前に一人の偉丈夫が現れ、自分は秋月家の侍大将真壁六郎太(三船敏郎)と名乗る。そして「俺の女」と紹介された女性(上原美佐)と共に、秋月家の同盟国早川領への脱出を持ちかけるが…
 黒澤明監督が東宝時代の最後に世に出した痛快時代劇。日本人監督にはなかなか使いこなせなかったシネマ・スコープ
(ここでは東宝スコープ)を縦横に駆使し、その実力を見せつけた作品となった。
 本作を観ると、時代劇のはずなのに、
そのダイナミズムはまるで西部劇!シネマスコープを一杯に使った騎馬シーンは圧巻そのもの。監督自身が西部劇に並々ならぬ関心を抱いていたのと、何より馬を撮る事が大好きだという監督の楽しみに溢れたような作品となった。ストーリーも日本の作品とは思えないくらいに垢抜けているし、キャラクターの個性もそれぞれしっかりと作られているので、娯楽大作かくあるべし。と言いたいほどに見事な作品に仕上がっている。
 強いて言うなら、ややテーマ性が欠けていた感じはあったが、やはり徹底した下からの目線が本作でも感じられているし、雑草のように強く生きる民草は、強くならねば生きていけない。という事がしっかりと描かれているのは確かだし、何より娯楽大作を作ろうと言うコンセプトで作られたのであれば、充分頷ける。
 キャラクターに関しては基本的には素晴らしいもの。主役4人が
皆太股をむき出しにして頑張ってる。三船敏郎の画面映えは言うまでもないが(騎馬シーンも全編本人が出演していて、アドヴァイザーとして撮影に立ち会った流鏑馬の師範にも、「俳優で一番乗馬がうまいのは間違いなく三船敏郎だ」と言わしめた)これがデビュー作となる雪姫姫役の上原美佐も、メイクによりきつい表情が実に映えていたし、立ち居振る舞いにも華がある(何でも4千人ものオーディションでも監督のイメージにぴったりの女性はおらず、東宝がスカウトを全国に派遣し、それでたまたま東宝系列の劇場に映画を観に来た彼女が発見されたという、当時の日本におけるシンデレラ・ガール)。強いて言えばやはり本式の訓練を受けてなかった分、声の甲高さが耳に付くが、物語の大半で喋らせないと言う方法を用いてそれもクリアしてる。口を利けなくさせたってのは卓見だ。
 一つ一つの画面が見栄えするし、キャラクター描写は申し分なし。ストーリーも起伏がある。良いことずくめで、並の監督であれば最高点付けられる作品。ただ、当時の黒澤監督作品だったら、もう一つプラスアルファが欲しかったって思うのは…贅沢か?
 ちなみに有名な話だが、本作の珍道中を観たルーカス監督は『スター・ウォーズ』(1977)のR2-D2とC3-POを考えついたのだとか。
 本作は東宝大作で、1958年邦画興行成績も5位と言う堂々たる成績を残しているが、製作費が予算を大幅に超過したため、監督と製作の藤本真澄は東宝に対して進退伺いを出すことになり、東宝社員としての黒澤監督の最後の作品となった。

 この作品の後、黒澤明は黒澤プロを設立。以後の作品は東宝と黒澤プロの連携で製作されるようになる
蜘蛛巣城 1957

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小国英雄
橋本忍
菊島隆三
黒澤明(脚)
三船敏郎
山田五十鈴
志村喬
久保明
太刀川洋一
千秋実
佐々木孝丸
清水元
藤木悠
土屋嘉男
浅野光男
大友伸
佐田豊
高堂国典
富田仲次郎
稲葉義男
土屋詩朗
高木新平
増田正雄
松下猛夫
大友純
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
マクベス(書籍)ウィリアム・シェイクスピア
 配下の乾の謀叛に遭い、危機に陥った蜘蛛巣城。籠城を決意する城主都築国春(佐々木孝丸)の元に、鷲津武時(三船敏郎)と三木義明(千秋実)の働きにより平定されたとの連絡が入る。大勝利の報に向かった鷲津と三木は蜘蛛手森で妖婆(浪花千栄子)と出会う。彼女からやがて蜘蛛巣城の城主となると予言を受けた鷲津は、妻の浅茅(山田五十鈴)にそそのかされ、自分の城に滞在した国春を殺害し、蜘蛛巣城城主となるのだが…
 最初に観た時はかなり前。ところがこれが全くはまれなかった。「マクベス」は私の想い出の本だっただけに、あれを日本に置き換えたのがあまり好ましく思えなかったのと、何より声が全然聞き取れなかったから。特に妖婆の声は何を言ってるのか全然聞き取る事が出来ず、もの凄くストレスが溜まった。
 ラストの矢ぶすまシーンは凄いことやったな。とも思ったんだけど、正直見所はそれだけだと
思ってた

 しかし。である。
 先日黒澤明DVD-BOXを購入し、その中に本作が入っていたので、観直してみた。
 ありゃ?
 
こんなに面白かったのか?
 DVDになって音声が非常に良くなり、はっきり声が聞き取れるようになったのが一番。DVDは日本語字幕があるんだけど、それ無しでも充分だった。
 黒澤監督、本作では能の表現を前面に出したと言うことだが、それが分かってから観てみたのがよかったみたい。初見ではオーバーアクションにしか見えなかった三船の表情も、よくよく見ると、なるほど。
あの表情をほとんど崩してない、と言う点にこそ意味があったんだな。能面で言う怒りの面を付けたまま演じる訳だから。
 それと妻浅茅を演じた山田五十鈴の名演も特記すべき。同じく能面を思わせる固定化した表情を崩すことなく、立ち居振る舞いだけで狂気を演出したのは見事だった。黒澤は女性の描き方があまり上手くないとも言われるが、これだけでも充分すぎるほどに女性を描いているのも分かる。
 年齢もあるだろうけど、やっぱり黒澤作品は何度も観てみるもんだな。色々分かってくる事も多い。
どん底 1957

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小国英雄
黒澤明(脚)
中村鴈治郎
山田五十鈴
香川京子
上田吉二郎
三船敏郎
東野英治郎
三好栄子
根岸明美
清川虹子
三井弘次
藤原釜足
千秋実
田中春男
左卜全
藤木悠
渡辺篤
藤田山
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
どん底(書籍)マクシム・ゴーリキー
 四方を囲まれ陽の当たらぬ江戸の場末の長屋。ここには流され行き場のなくなった人間ばかりが集っている。だが、意外にもこの長屋には自堕落な楽天的な空気があった。そんなところに遍路の老人嘉平がやってくる。彼の言動は生きることに希望を見ることが出来なくなってしまった長屋の連中に希望を与えていく。一方、この長屋に住む泥棒の捨吉(三船敏郎)は大家の内儀の妹かよに惚れ込んでいたが、既にその姉のお杉とできていて、しかもそのお杉から亭主の六兵衛を殺してくれるようせが
 ロシアの文学者ゴーリキの
「どん底」をベースに、場所を日本の江戸末期に持ってきた作品。
 私にはロシア文学に傾倒していた一時期があり
(大体こんなのは学生時代に決まってる。私も多分に漏れず)「どん底」もその時に読んでいたが、非常に暗く、救いようのない作品だった。一体これのどこがそんなに受け入れられるんだろう?なんて思ったものだが、不思議と心地よさのようなものも感じたものだった。舞台劇はさすがに観てなかったけど、これを日本人で作れるのかな?
 一見して気が付いた。原作は帝政ロシアの末期、つまりロシア帝国の爛熟期を舞台としている。
芸術的に完成された時代ではあるが、この時代は徐々に全てが停滞していき、やがて腐敗が全体に広がっていく時代そんな時代が確かに日本でもあったんだと言うことに。まさに改革を待つばかりとなった受け皿として、ロシア帝国末期と江戸末期は良く似ていた(違いはロシアの場合はナポレオン戦争などでいくつかの刺激を受けていたのに対し、日本は気候の温暖な島国の中で260年も孤立して過ごせたと言うこと)。寒さの描写さえクリアできれば、確かに描写可能。
 この寒さという点に関しては、黒澤監督、面白い描写をしてる。原作だと、外が寒すぎるから、何とかして暖まろうと集まってくるのだが、何故か本作品の場合、物理的な意味では外の方が暖かそうに見える。むしろ光の差さない黒ずんだ長屋の中の方が体感温度が低く寒々しい…敷衍してみると、外の寒さというのは、物理的な寒さよりも、
社会に受け入れられないと言う意味での寒さだったのかも。身体は寒くとも、ここは傷をなめ合うような人間がいる。たとえ温度が低くても、長屋の中の方がむしろ暖かいと思えているのか。人情的な吹きだまりとしたのは黒澤監督の慧眼と言って良いだろう。
 彼らが社会に受け入れられないと言うのは会話の端々でも窺える。彼らは社会の常識とはやや違ったところに身を置いているので、殺人に対する禁忌というのが殆ど感じられない。
人を殺さないのは、そうすれば自分が損するから。それだけの価値観でしかない。「運悪く近くに包丁があった」というだけで人を殺してしまいかねない人間ばかりが集まるのがこの長屋だったのだから。
 世間では爪弾きにされるような人間ばかりだからこそ、負の意味で連帯感が生まれる。彼らがここが居心地が良いのは相手を思いやる心からではない。ただ
“ここに居て良い”。と言う価値観のみ。牽強付会で大変失礼だが、某大手掲示板を眺めていて、「ここは心地が良い」という書き込みを目にした。なるほど、負の要素を出してしまえるからこそ、ここにいて良いからこそ、心地良いんだ。と思えたことがある。負の要素で集まる人間の連帯感とはその点にあるのかも知れない。それは確かに私自身の中にもある。人に認められないと言うことに苛立ち、自分の居場所を必死になって求める感情は多分、人より強い。
 それだけでこの物語を終えても良かったのだ。後年黒澤監督が作り上げた『どですかでん』はそう言う作品だったから。だけど、この作品と『どですかでん』とは大きな違いが一つある。ここに異邦人が一人入り込んできたのだ。この場所には似合わない常識を持った(あるいはそのふりをした)老人、嘉平。彼の存在は長屋の中に一つの波紋を投げかける。
 嘉平は救われないが故に連帯していた彼らに、希望というものをプレゼントする。希望は人間にとっては大変重要なもので、希望を失った人には大変良い薬ともなるが、同時に
毒まみれの彼らにとっては刺激が強すぎた。案の定、それまで危うい所で均衡を取っていたバランスが一気に崩れ始めた。その崩れたところから物語は始まったのだ。
 嘉平の言葉を受け入れた者達は、皆「これではいけない」と言う思いを持つように至り、どうしようもない現実が何か変わってくれることを期待する。だが、それはここではプラスになることはなかった。
 いつ起こっても不思議はない事件は、結局彼の介入によって即発されたと思える。捨吉とお杉、かよの三角関係はついに亭主殺しという形で終結。確かにこれはいつ起こってもおかしくなかったし、嘉平は直接にはこの事件には関わっていない。だが、彼が会話を交わす人間は誰もが心に暖かみを覚え、逆にそれが彼らを傷つけることになってしまうと言う残酷な話となってしまう。
 そう考えると、これはあまりに残酷な話だ。嘉平は何も悪くない。むしろ優しさをもって彼らに接しているのだ。その思いやりが結局皆を駄目にしてしまう。
 結局嘉平の言葉を受け入れた人間と、それに関わった人間は退場し、最後に嘉平はこの長屋を去る。残酷な現実というものを残して。

 …いやあ、暗いなあ


 だけど、この作品がその暗さを超えて一級のエンターテイメントとなっているのも確かな話だ。死を目の前にすることに慣れてしまった人間達は、その中でもエネルギッシュさを発揮する。後ろを向いても仕方がないし、未来もない。だったら今を精一杯幸せになろうじゃないか。そんな開き直りのような面も見せてくれる。どんな悲惨な事件があっても、それを茶化し、あっと言う間に忘れ去るのは彼らなりの知恵であり、生き方でもあるのだ。最後のあの歌は、結局“今”というものにしがみつく彼らの思いそのものだ。
 ラストの台詞「なんでえ。おわりかよ」は、唯一残る“今”さえも奪い取られようとする人間の叫びだ…しかし、彼らはこれもやはりあっと言う間に過去にしてしまうのだろう。時が止まらない以上“今”はやってくるのだから。

 ところで本作は殆ど長屋、しかも大部分は室内ばかりを撮っているのだが、それを全然飽きさせないのはやはり黒澤組の絶妙のカメラ・ワークあってこそ。別アングルからのショットを重ねることによって、あの狭い長屋を通常の舞台よりはるかに広く、そしてダイナミズムを演出することに成功させている。
 
一般的な評価はともかくとして、思想、技術、物語の全てが本当に高水準にまとまった、大変素晴らしい作品だと私は思う。
生きものの記録
<A> <楽>
本木荘二郎(製)
橋本忍
小国英雄
黒澤明(脚)
三船敏郎
志村喬
千秋実
清水将夫
三好栄子
青山京子
東郷晴子
千石規子
根岸明美
太刀川洋一
上田吉二郎
東野英治郎
佐田豊
藤原釜足
三津田健
渡辺篤
水の也清美
清水元
小川虎之助
中村伸郎
左卜全
土屋嘉男
谷晃
高堂国典
本間文子
加藤和夫
大久保豊子
米村佐保子
大村千吉
宮田芳子
桜井正郎
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 町工場を経営する財産家・中島喜一(三船敏郎)は、原水爆とその放射能に対して強い恐怖を抱くようになり、地球上で唯一安全と思われる南米ブラジルへ愛人を含めた家族全員の移住を計画する。しかし、このあまりにも突拍子もない行動に対し、現実の生活が脅かされると感じた家族は喜一を準禁治産者として認めてもらうため裁判にかけるのだった。彼の裁判に立ち会った歯科医の原田(志村喬)は、家族の訴えるように、中島がおかしくなっているわけではないと感じるのだが…
 前年の1954年に起きた“第五福竜丸事件”に触発された監督が真っ正面から核の恐怖に挑み、世に問うた問題作。当時の監督だからこそ、許された題材だとも言える。ただ、当時はあまりにストレートな題材だけに賛否両論が巻き起こった作品らしい。
 でも、現代になってこれを観ると、卓越した監督の視点と、人間性とは何か。と言う問いが実にストレートに出ていることもあり、非常に素晴らしい作品だと思える。
 主人公は齢70を超える老人なのだが、それを当時35歳の三船敏郎が演じることにより、実にパワフルな老人を見事に演じきっている。何せ3人の愛人を持ち、内一人は自分の娘より若く、生まれたばかりの子供までいると言うとんでもない精力絶倫者だから、本当に若い人間に演らせたのは大当たり。老けメイクも見事にはまり、何でも三船敏郎がメイクのままスタジオをうろうろしていたら、絶対に分からなかったそうだ。しかも劇が進むに連れ、精神的ストレスが増していき、どんどん憔悴していく。そのメイクが又見事。当時でここまでよくやったものだ。特に最後、精神病院に入れられて自分は地球から逃げだしたのだと思いこんでいる老人が
「燃えとる燃えとる!ああ、とうとう地球が燃えてしまった!!」という台詞は本当に鬼気迫るものがあった。
 
「人間は慣れる動物である」と言ったのはドストエフスキーだが、どんな状況にあっても人は本当に馴れてしまう。今まさに核爆弾が落ちて全員死ぬかも知れないと言うその状況にあっても、人は笑い、いつもの生活を続けられる。それが人間の強さだと言うことも出来るが、逆に考えればそのように鈍感にならなければ生きていけないのが人間なのかも知れない。だから、それに馴れることが出来ない人間にとっては、この世界は地獄のようなものだ。実際馴れるべき事が現代では多すぎて、余程鈍感でない限り人は精神病にかからない方がおかしい世界になってしまった。そのようなギリギリの世界に我々は住んでいるからこそ、今こそ本作品は更なる評価を受けるべきだと思う。それに、ここで語られるのは、主人公だけではない。彼を取り巻く、“普通の人々”が、時として大きな暴力を振るうことにもなりかねないという現実も又描かれているのである。
 尚、本作において黒澤明監督は初めてマルチカム方式(同時に複数のカメラを回し、フィルムを一つに編集する)を用いる。以降の黒沢作品における重要な転換点ともなった作品でもある。
 
邦画における音楽を芸術の域にまで高めたと言われる早坂文雄は本作品制作中に僅か41歳で死亡。監督の意地で冒頭のスタッフロールで「遺作」という文字が入れられている。DVD特典では、その本当の遺作である“星の音楽”が収録されている(本当ならラストで使われるはずだったらしい)。この特典のためだけにでもDVDは購入する価値あり。
製作年 1955
製作会社 東宝
ジャンル コメディ(風刺)
売り上げ $
原作
歴史・地域
関連
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wiki キネ旬 eiga.com wiki(E) みんシネ
七人の侍 1954
1954ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞(黒澤明)
1955英アカデミー作品賞、男優賞(三船敏郎、志村喬)
1956米アカデミー美術監督・装置賞(白黒)、衣装デザイン賞(白黒)
<A> <楽>
本木荘二郎(製)
黒澤明
橋本忍
小国英雄(脚)
三船敏郎
志村喬
津島恵子
藤原釜足
加東大介
木村功
千秋実
宮口精二
小杉義男
左卜全
稲葉義男
土屋嘉男
高堂国典
熊谷二良
富山晴子
東野英治郎
上田吉二郎
谷晃
中島春雄
多々良純
堺左千夫
渡辺篤
小川虎之助
千石規子
山形勲
上山草人
高木新平
大友伸
高原駿雄
大久保正信
大村千吉
杉寛
林幹
牧壮吉
千葉一郎
堤康久
宇野晃司
島崎雪子
仲代達矢
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
「勝ったのは百姓だ。我々ではない」
 野武士達の無法ぶりに村の危機を悟った村人達は侍を雇って撃退しようとする。手元にあるのは米だけだったが、それでも里へ下りた百姓達は侍探しを始める。ある日彼らは知恵を働かせ野盗を討った浪人・勘兵衛(志村喬)と出会う。農民達の窮状を知り、同情を覚えた勘兵衛は早速侍探しを始めた。そしてその人柄に惚れた侍達が一人、また一人と増えていく。かくして集まった侍は、七人。集結した彼らは一路村を目指すのだった。
 日本が世界に誇ることが出来る映画の先ず第一作目に必ず挙げられる作品で、国内外にこれほど影響を与えまくった映画も無かろう
(興行的には『君の名は』『忠臣蔵』というシリーズ大作が揃った年に公開されたため、3位止まりだったが)。悪天候も災いして撮影が長期化したため製作資金が途中で底をつき、2度も製作中断となったが、監督は意地で作り上げた作品である(本人の言では本作は「海苔丼の上にカツとハンバーグを乗せてカレーをぶっかけたような作品を目指した」のだそうだ)
 もう、これは何と言って良いやら…感動を通り越して感激までしてしまう。
邦画でここまでのものを作ってしまった黒澤明という人物にただただ頭を下げるしかない。それ程の出来。
 長い作品なので、観る時は気合いが必要だと思い、かなりタイミングを計って観た作品なのだが、
よくぞ映画というものが分かってきた時にこの作品と出会えたものだ。本当に素直にそう思えた。微妙な一時期にこれを観たのは本当に幸せだった。(無念はこの少し前にテレビで『荒野の七人』(1960)を観てしまったこと。それと、映画で放映した時に観損ねてビデオにしてしまったこと。無理してもこれは劇場で観るべき作品だったよ。これは今でも悔やまれる)
 観て随分経ったが、未だにちゃんと場面場面が頭に浮かぶ。前半部分、勘兵衛の元に集ってくる侍達同士の緊迫したシーン、緊張と弛緩の連続。しかも太刀さばきのタイミングの良さ。惚れ惚れする。私なりにはここで菊千代(三船敏郎)の演技はエキセントリックすぎるか?と思っていたが、志村喬の巧さか、上手くそれを包み込んでいた。
 そして中盤の侍達が農民の生活に入り込むシーンなのだが、実はこれが一番の主題であり、そしてここを無視すると映画そのものの意味がなくなる。
当時身分制が確立しつつあった農民と武士というこの二つが決して交わる存在でないことをはっきりとここで印象づける訳だ。彼らは村の救世主であるにも拘わらず、あくまでアウトサイダーとしてしか存在できず、そして強すぎる力はむしろそれを味方に付けた農民達を圧迫し続ける。殆ど冷戦下の世界情勢。いやはや上手い上手い。
 そして最後のクライマックスになる訳だが、ここで本当に菊千代の存在感が活きてくる。今まで単なるムードメーカーでしかなかった彼がいかに侍らしくあろうと振る舞っていたかが分かり、そして自分は侍と信じて逝く。彼を見守る他の侍達の目の優しさにここで気付く。勿論乱戦のシーンも素晴らしく、泥まみれになりながらも
(更に“黒い”雨に打たれながらも)奮戦する彼らの格好良さ。更に最後に自分たちより農民達の力の方を信じ、村に野武士を誘い入れる勘兵衛の作戦。ここも重要。この戦いにおいて、この時だけは武士と農民は完全に一体となる。戦いの充実さに加え、その辺の細かい配慮も忘れてない。それまで見られることの無かった時代劇での集団戦が見事にはまっていた。
 そしてラストの勘兵衛の優しい眼差し。一瞬の輝きのごとく一体化した農民と武士達は、再び自分の道に分かれていく。それを十分承知し、
「勝ったのは百姓だ。我々ではない」と感慨深げに言い切る。農民の強さというのは、日常にこそある事を彼ははっきり示している。
 細かく語るのは避けるが、勿論カメラアングルについても素晴らしい
(ここで最後の合戦を一発撮りするために使ったマルチカム方式は以降黒澤映画の特色にもなっていく)。唯一の不満は音声が殆ど聞き取れない事だが、これは当時の黒澤映画の特色みたいなものか。
 世界の黒澤。彼は邦画を芸術の高みに引き上げ、そして映画を誇るべきものとした。一方、彼の偉大さは邦画そのものを制約してしまい、本当に今でもそこから脱却できていないのが邦画でもある。功罪入り交じってはいるが、この作品には素直に拍手を送ろう。

 この1954年というのは、本作以外にも『ゴジラ』が作られたが、この二本だけで東宝の名は世界に響き渡った。

 様々な意味で型破りの作品ではあったが、そのいくつかを挙げてみよう。
 ・悪天候も災いし、撮影が大幅に遅れ、予算をオーバーしていたので、映画会社は、場合によってはこれまでに撮影した分だけで公開してやろうと、撮影済みのフィルムだけで良いから社内試写をさせるよう黒澤に要求した。そして見事な完成度の作品に重役達も引き込まれていったのだが、三船敏郎の「来やがった、来やがった」の台詞で突然撮影は終了。「続きはどうした」と言う重役の問いに、黒澤はさらっと「これから撮影します」と答えたとのこと。結局これで映画は完成できた。
 ・焼け討ちのシーンは思わぬ大火事になってしまい、命がけ。カメラは8台使ったが、全部逃げてしまい、望遠レンズのみで撮った。
 ・最後の雨の中の乱闘シーンは、迫力を出すため、ホースの水に墨汁を流し込み、黒い雨を降らせた。
製作年 1954
製作会社 東宝
ジャンル 時代劇
売り上げ $
原作
歴史・地域
関連
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wiki キネ旬 eiga.com wiki(E) みんシネ
生きる 1952
1954ベルリン国際映画祭ドイツ上院陪審賞
1959英アカデミー男優賞(志村喬)

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黒澤明
橋本忍
小国英雄(脚)
志村喬
日守新一
田中春男
千秋実
小田切みき
左卜全
山田巳之助
藤原釜足
小堀誠
金子信雄
中村伸郎
渡辺篤
木村功
清水将夫
伊藤雄之助
浦辺粂子
三好栄子
本間文子
菅井きん
市村俊幸
倉本春枝
ラサ・サヤ
南美江
関京子
阿部九州男
永井智雄
村上冬樹
青野平義
宮口精二
加東大介
林幹
堺左千夫
小川虎之助
千葉一郎
谷晃
長浜藤夫
小島洋々
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 市役所の市民課長・渡辺勘治(志村喬)は役所仕事を淡々とこなして今まで生きてきた。だが毎日毎日が変わらぬ日常が一変するときが来た。胃癌で余命半年と宣告されたのである。自分の一生を振り返り、本当に何もできなかったことに気付いた渡辺は遊んでみたり、自暴自棄になったりする。だが、今の自分に何が出来るのかを悟った彼は残りの人生を小さな公園の整備に捧げることに決める。
 東宝争議のため、しばらく東宝から離れて作品を撮っていた黒沢監督が4年ぶりに東宝に戻って撮り上げた作品。
 男の生き様をこれほど見事に描ききった作品は少ない。似たようなパターンの作品に
『マイ・ライフ』(1993)があり、これと似たような構成がされているが、やはり監督及び役者の質の違いか、こちらの方がしっくりくるし、何より主題そのものが違うため、同列に見ることはできないかな?
 
E=キューブラ=ロスによれば、死の受容には5段階があり、困惑→怒り→脱力→取引→受容と言う経路を辿るそうだが、志村喬は淡々とした表情で、それらをあくまで内面の葛藤に留め、表情には現さないでいる。ただ外観が少々変わっていったため、周りの人間が戸惑っている姿との対比が面白い。実際に何をして良いのか分からなくなったとき、今までしたこともなかった遊びを始めたとき、そして自分のなすべき事をはっきり認識したとき、実は何をしていても淡々とした表情を崩していない。志村喬は単に上手いだけでなく、こういう視聴者に分かりづらい、難しい役をきっちり演じられるところが凄い。ここでの志村の演技にヒロイック性はない。ただ痛々しいだけ。しかしその痛々しさの中にあるものが、涙が出るほどにすばらしい
 公園のブランコに乗ってゴンドラの唄の一フレーズ
「いのち みじかし こいせよ おとめ 」とぽつぽつと歌うところはベストショット。漫画などでもよく引用されている(大概は単なるポーズだけど)
 そして葬式のシーンから再び日常へ。
この揺れ返しこそが良い。本作品は元々トルストイの「イワン・イリッチの死」にインスパイアされて作られたと言うだけあって、実はこの部分こそがこの映画の主題に他ならないのだろう。結局渡辺のしてきたことは何を残したのか。それは完全なる決着は付いていない。視聴者の主観に任せられている。これを観て、あなたはどう思う?黒澤明監督のメッセージがここにはある。
 黒沢作品ですっかり有名になった
(ついでに言うなら『ゴジラ』シリーズでも)志村喬だが、実は本作が初主演作品で、18年という下積みが一気に報われた形となる。本作のために体重をかなり落としたそうだが、実際は丁度撮影前に盲腸炎になり、それで落ちた体重を黒澤監督の指示で戻さなかったのだとか。
製作年 1952
製作会社 東宝
ジャンル 男の一生
売り上げ $
原作 イワン・イリッチの死(書籍)トルストイ
歴史・地域
関連
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wiki キネ旬 eiga.com wiki(E) みんシネ
白痴 1951

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久板栄二郎
黒澤明(脚)
原節子
森雅之
三船敏郎
久我美子
志村喬
東山千栄子
柳永二郎
千秋実
千石規子
高堂国典
左卜全
三好栄子
文谷千代子
明石光代
井上大助
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 癲癇性痴呆性症を煩っているが、大変無邪気な性格をしている亀田欽司(森雅之)は、長い戦争を経て沖縄から札幌に復員して来た。窓の外が一面の雪景色の汽車の中、赤間伝吉(三船敏郎)と言う男と知り合いになる。伝吉は札幌の大農場の跡取り息子なのだが、東畑という政治家に囲われている女性那須妙子に激しい恋慕の情を抱き、ダイヤの指輪を贈ったことで父から勘当されたという過去を持っていた。豪快な伝吉と物静かだが陽気な欽司は妙に気が合い、汽車の中では大変仲良かったが、欽司も又降り立った駅の近くの写真屋に飾ってあった妙子の写真を見て、一目惚れしてしまう…
 黒澤監督の、『羅生門』『醜聞(スキャンダル)』に続く大映での第三作。ドストエフスキーの超大作小説を黒澤明が映画化。黒澤は他にも『蜘蛛巣城』(1957)『どん底』(1957)『乱』(1985)と言った海外文学を翻案して日本人キャストで作った作品はいくつかあるが、本作は一般には“失敗作”の烙印を押されてしまっている。
 一見してそれは明らか。話が飛びすぎているため、一体何が起こっているのか、よく分からないのだ。勿論これは監督のせいではなかろう。当初制作の約半分の長さにぶった切られ、無惨な姿をさらしているからだ
(そもそもが正味4時間25分の超大作だったが、「長すぎる」という松竹の要請で3時間30分に再編集。更に松竹は無断で2時間46分に切りつめた)。これでは物語が把握できないよ。そうでなくても原作でさえそう簡単に理解できる内容じゃないってのに…これじゃ原作を読んでなかったら、多分全然訳の分からないだけの作品になってしまうだろう。
 ところで、本好きの多くは、必ずどこかで
文学への傾倒という時期があるもので、私も一時期えらくロシア文学にはまっていた時期があった。トルストイやドストエフスキーの長編は(ちょっと時間はかかったが)全部読んでいたし、それで友人と色々議論を交わしていたことがあった。
 その議論の中で語られていた中に、ドストエフスキーの作品は
ビジュアル的な面白さがあると言うことで一致。本作の原作でも特に前半部分のムイシキン(ここでは亀田欽司)とロゴージンの息詰まる対決シーン(言葉の上だが)、イッポリートの演説シーン。そしてナスターシャ(ここでの那須妙子というネーミングはちょっと凄い)の悲しみをうちに秘めた決然とした態度、最後の静かに全てが崩壊していくシーンなど、小説でありながらも、まるで眼前に画面が出てくるような気にさせられる。
 小説のままがビジュアル的な作品だけに、これを映画化するのは大変に苦労しただろうと思われる。逆にストーリーがとびとびなだけに、場面毎のドラマ性しか本作は見所が無くなってしまっているのだが、ところがその部分が見事にはまっている。この辺は流石黒澤。
 本作は確かにストーリー立てで考える限りは、失敗作とも言える。一方、ドラマの部分で考えるならば、息詰まるような緊張感の演出はもう最高だった。特に冬の北海道を舞台にしてるだけに、寒さの演出に関しては、これ以上ないほどの演出で、
夏に観ても寒気を感じそうなくらい。後年になって定評を受けたカメラ・ワークはここでは最小限度だが、だからこそ固定カメラによるアングルの微妙さ加減も素晴らしい。特にラスト、蝋燭だけで森雅之と三船敏郎の二人が死体となった妙子を見守るシーンは、カメラの位置が死んだ妙子の目線で固定されてソフトフォーカスで映し出される。それを見つめつつ、静かに語り合う二人。明かりは蝋燭の炎ばかりで、それが徐々に短くなっていくことで時間の経過を示す。更に外気は既に氷点下。その中で静かに静かに時が過ぎていく…これは本当にとんでもない場面だった(私のイメージとはちょっと違っていたんだけど)。こんなねっとりしたカメラを使えると言うだけで、充分本作の見所はあると言ってしまえる。観ているだけで寒く感じるほどの演出の凄さは、本当に素晴らしい。
 望むべきはやはり完全版を観てみたかったと言うことか。その望みは叶えられないだろうかな?

 ちなみに本作が映画監督中平康および二本松嘉瑞の助監督としてのデビュー作。又、ここで登場した札幌駅は三代目のもので、これも貴重な映像だそうである。
製作年 1951
製作会社 松竹
ジャンル 恋愛(三角関係)
売り上げ $
原作 白痴(書籍)ドストエフスキー
歴史・地域 札幌(北海道)
関連
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醜聞(スキャンダル) 1950

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黒澤明(脚)
三船敏郎
山口淑子
桂木洋子
千石規子
小沢栄
志村喬
日守新一
三井弘次
大杉陽一
清水一郎
岡村文子
清水将夫
北林谷栄
青山杉作
高堂国典
上田吉二郎
縣秀介
左卜全
殿山泰司
増田順二
神田隆
千秋実
島村俊雄
遠山文雄
小藤田正一
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 新進画家青江一郎(三船敏郎)は、オートバイを飛ばして伊豆の写生に出かけた。そこで、偶然休暇で伊豆に遊びに来ていた人気歌手の西條美也子(山口淑子)と出会い、同じ宿に泊まることとなったのだが、宿に二人でいたところをカストリ雑誌のカメラマンに撮影されてしまう。それが雑誌に大々的に取り上げられてしまい、帰京後にそれを知った青江は怒り狂い、ついに訴訟を心に決める。そんな時、噂を聞きつけた弁護士蛭田乙吉(志村喬)が現れ、この訴訟を私に任せてくれ。と言ってくる。いかにも胡散臭い風体の蛭田だったが、彼の病気の娘正子の姿を見た青江は彼に全てを任せることに…
 本作はいわゆる戦後の東宝争議のまっただ中で製作された。この東宝争議は徒弟制度を色濃く残す映画界に、民主化の画期的足跡を残した出来事ではあったが、争議そのものは当時の映画作りに大きな足かせをはめることになってしまった。特にヴェテラン監督はその槍玉に挙げられ、黒澤明もこの当時の映画作りはとても大変だったらしい。結果として、黒澤は東宝の丸抱え監督であったにもかかわらず、『羅生門』を松竹で、本作を大映で作らざるを得なくされてしまう。『羅生門』の方は、かなり前衛的ではあったものの、時代劇をベースとしたから良いものの、現代劇を題材に取った本作は、無責任に煽るマスコミに対する怒りに溢れたような物語となってしまった。でも、色々な困難が身の回りにあっても、それを逆にパワーにしてしまうのだから、やはり黒澤監督の実力というのは凄いものだ。
 ただ、
物語としてバランスが良いとは決して言えず。元々の話がスキャンダルに対してどう対処するか?というものだったのが、後半になると、今度は人情話のようになってしまい、更に主人公も変わってしまう。結果として話の前半と後半で焦点が変わってしまうため、やや話そのものがどこか安定しない気分にさせられてしまうのがかなり残念。
 だから本作は前半の方が良いか、後半の方が良いか。という話になりがちだが、私は後半の方が好き。前半部分のマスコミに対する批判は、映画でそのテーマを扱うのはほとんど初めての試みだと言うこともあってか、ちょっとリアリティが希薄な印象なのだが、後半志村喬の独壇場になっていくと、これはこれで見所が多い。
 志村喬は黒澤明に見いだされるまでは、キャリアこそ長いがあくまで脇役としか見られてなかった人物で、黒澤作品でも『酔いどれ天使』では本来主人公だったはずなのに、脇役だった三船敏郎に食われまくってしまい、あんまり目立つことが出来なかった。黒澤もそれを感じていたのだろうか?本作は、まるでその意趣返しのように本来の主人公である三船敏郎を食う役割として登場。見事にその役どころをきっちりと演じきっているし、何より人間の弱さと強さのどちらも兼ね揃えた人物として、まさしく適役だったとも言えよう。脇役生活が長かっただけあって、どういう演じ方も出来るのは、この人の最大の強みだ。少なくとも、人の強さや弱さと言ったものがどこから出てくるのか。彼はその点において本当に上手い演技を見せている。
 設定がかなり弱いことと、物語が単純化されすぎた事があって、あまり高評価は与えにくいのだが、少なくとも志村喬という人物の演技を見る作品としては充分な物語だとは言える。
 『酔いどれ天使』、本作、『生きる』と至る志村の主役作品の変遷として見るのも又一興だろう。
製作年 1950
製作会社 松竹
ジャンル 裁判
売り上げ $
原作
歴史・地域
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羅生門 1950
1951アカデミー名誉賞 (最優秀外国語映画)
1952アカデミー美術監督・装置賞
1951
ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞(黒澤明)、イタリア批評家賞(黒澤明)
1950ブルーリボン脚本賞(黒澤明、橋本忍)

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箕浦甚吾(製)
黒澤明
橋本忍(脚)
三船敏郎
京マチ子
志村喬
森雅之
千秋実
本間文子
上田吉二郎
加東大介
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 都にほど近い山中で、貴族の女性真砂(京マチ子)と供回りの侍が山賊多襄丸(三船敏郎)に襲われ、侍は死亡してしまう。その事実を突き止めた検非違使によって真砂と多襄丸が引き出され、吟味される。だが二人の言い分は真っ向から対立する。様々な的を射ない証言が挙げられ、ついに検非違使は霊媒師の口寄せによって侍の霊を呼び出し証言を得るが、それら全てが全く異なるのだ。真相は藪の中に…
 芥川龍之介による
「藪の中」の映画化作品(同じ芥川作品に同名の「羅生門」があるが、ストーリーとは直接関係なし。監督がこの言葉の響きを気に入ったため付けたらしい)。脚本はこれが実質デビューとなる橋本忍(結核療養中に伊丹万作監督を知った橋本は、暇に飽かせていくつものシナリオを伊丹監督に送り、その中で出来たのが本作で、僅か三日で書き上げたものだったとか)。最初「雌雄」という題だったが、それを読んだ黒澤監督が気に入り、それを書き直して「羅生門」という題にしたのだとか。尚本作は東宝争議の渦中で製作されたため、大映製作となっている。
 日本国内では公開当時さほど高く評価されなかったらしいが、ヴェネツィア国際映画賞では金獅子賞を見事得るなど、海外では
「日本にはこれほどの映画があったのか!」と言う驚きと共に絶賛されるに至っている(RASHOMONCASEという法的用語にまでなってる)。邦画にとっては大恩人である(ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したと言う電報を受け取った大映の社長の方が驚いたと言う笑い話もあり)
 これを初めて観たのは随分と前になる。正直言って
理解できなかった。ストーリーそのものよりも、何故こんな悔しい気持ちにさせられるのか、何故、こんなに衝撃を受けるのか、それが全く理解できず、ただ訳の分からない悔しさと、とんでもないものを見てしまったと言う衝撃だけを残して。ただ黒澤明監督、本当にとんでもないものを創り上げてしまった。そんな想いが頭の中をぐるぐると回り続けていた。
 それから随分時が流れ、ようやくこの作品のレビューと言う課題を目の前にすることが出来た。初めてこれを観て以降、随分映画も観たし、特にこの一年というもの、数多くの映画レビューを書き綴ってきて、ようやくここまで来たか。と感無量と言う感じ。
 それだけ私にとっては格別の思い入れがある作品であり、レビューを書くに当たって、
どれほどこの作品が私の映画を見る方法に大きな転換を与えてくれたか、まさに今、それを感じているところだ。
 小説でも映画でもそうだが、
読者なり観客と言うのは特殊な立場に置かれる。まさに彼のために小説なり劇なりが描かれ、演じられるのだが、当の観客はその場に参加することが許されない。彼は何の前知識もないまま、突然事件に巻き込まれ、それを観るだけの存在となる。
 そこで観客の位置づけは大体二通りに分かれる。
監督と共に、いわば“神の視点”を持った状態で物語を俯瞰して観る場合と、逆にその当の監督から必要な情報を故意に阻害され、自分が観ているものが事実なのかどうか分からぬ不安定な状況に置かれる場合。前者はアクション主体の映画に、後者はサスペンス仕立ての作品として用いられることが多いが、良質の映画はその両方の配分が上手い。観客が不安定な状況に置かれていても、その結果をどうしても見たくなるように持っていくような作品は、確かに少なくはない。そこまでの作品になると、俯瞰して“観る”より、自分自身の体験として“見る”こととなる
 持論だが、
“観る”と“見る”とは違う。“観る”は自分が参加できないが、それを“見る”ならば、まさにその場に自分自身が参加しているような思いにとらわれるはず。自分のなまの目を通して本当に“見た”ように思わせる事が出来るならば、それはその人にとっての衝撃となる。映画好きな人と言うのは、少なくとも何かの作品を自分の目で“見た”事があるはずだ。確かに映画は“観る”事も大切だが、“見る”事によって、理屈を超えた自分自身の体験へとなってこそ、その人にとっての満点の映画となるのだし、その体験をしてしまっては、映画好きにならざるを得ないのではないか?
 ところでこの作品はどっちだ?“見てる”のか、“観てる”のか?それに対する答えは明確だ。これほど極端に“観る”事に特化した作品もない。どの位極端かというと、
観ている観客はおろか、劇中に登場するキャラクターでさえ、誰一人として“見た”者がいない、と言うくらいに極端に。
 確かに観客は“観る”位置に甘んじて良い。だが、それは劇中の人物が事実を見ているからこそ、成り立つし、安心もできる。ところがここに登場する人物達は誰一人リアルな現実として事件を見た者がいない。そこに居合わせた当人でさえ、自分の証言が信じてもらえない以上、本当に“見た”事にはならない。まさしく登場する全員が“観て”いるしかない映画なのだ。
 その結果として、リアリティは欠如し、それが故に観ている観客は不安に苛まれることになる。本当のところ、真相は一体どこにあるのか?
 しかも恐るべき事に、その答えは最後に至るも皆目分からない。“観ている”事しかできないのが、どれほど辛く、そしてこれほど不安にさせるか。それを本当に良く示していた。認識論そのものでありながら、これは
まるで悪夢の世界だ
 それで気付くわけだ。
“観て”いることしか出来ない映画を自分は確かに“見て”いたことに。
 いつの間にか
観客は画面の中でキャラクターと一緒になって真相追求をしている自分に気付く。そしてその答えが明確に提示されない以上、主観によってどのような答えをも出すことが出来る。自分が“見た”ものとして。それを強いられ、その答えを探す内、自分はこれを映画としてではなく、純粋に自分の内に答えを出すために“見よう”としている事に気付かされるわけだ。
 今になって、レビューを書いている内、どれほどこの作品がとんでもない作品であったのか、それに思い至り、改めて慄然とする。当時覚えた悔しさや不安と言うのは、まさしく監督が、それを意図して創り上げたものだった。
“観る”を通して“見る”に至るまで、きっちり計算され尽くしていたのではないか?
 “世界のクロサワ”と言われるに至るだけのことは確かにある。これほど実験的な、そしてこれほど計算された映画を目の当たりにしていたとは。
 そう考えると、ストーリー自体も不安を増すよう作られていたと言う点に気付く。最初の内貞淑な妻を演じていた京マチ子が物語が進むに連れどんどん蓮っ葉になっていき、最後は完全な悪女になっていたり、粗野な夜盗の三船敏郎がだんだん小心者に変わっていく。キャラクター全員が最初に提示された前提条件を見事に粉砕してのけている。確固たる地盤が与えられない以上、不安なまま放って置かれるわけだ。
 ところで、最後に羅生門が出てくるシーンがある。これを蛇足とする方の意見も聞くが、少なくとも私はそう思わない。今までリアリティの欠如した“観る”事だけを強いられたキャラクターが、初めて赤ん坊を通して肉の暖かさ、雨の冷たさを身体に感じ、現実の厳しさというものを“見た”シーンなのだから。
 これがあるから、この物語は救われる。そしてそれさえも計算に入れた監督の技量のすさまじさをも感じざるを得ない。

 本作は見事
ヴェネツィア国際映画祭でグランプリを獲得。敗戦国日本の復興を高らかに世界に告げることに成功したが、これにはプロデューサの永田雅一の手腕によるものと言われている。この人は映画界にあっては有名な人で、常にポジティヴ・シンキングな壮大な発言を繰り返し、「永田ラッパ」と陰口をたたかれていたそうだが、彼こそが戦後の邦画を世界へと紹介し続けた重要な位置づけにある(ただ永田本人は本作を全然評価してなかったそうだが)。又、黒澤監督は予告編はチーフ助監督以外に作らせないことで有名な人だが、この作品では大映からチーフとして加藤泰が助監督につき、まるで本編とは関係のない予告編を作ってしまい、監督を激怒させてしまった。それで以降この二人は口も利かない仲になってしまったのだとか。そして黒澤は、編集を人任せにせず、全て自分で行うと宣言。それまでの大映の伝統を見事に壊して見せた。
 又本作は撮影最中に二度も火災騒ぎを起こした事でも有名。編集作業中に火事が起こったため、黒澤監督は、流石にこれは公開延期だ。と言っていたそうだが、大映はそれを許さず、公開直前に完成させたという逸話も残っている
(何と試写が終わったのが公開の一時間前だったとか)
製作年 1950
製作会社 大映
ジャンル 時代劇、どんでん返し
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原作 藪の中(書籍)芥川龍之介
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野良犬

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本木荘二郎(製)
黒澤明
菊島隆三(脚)
三船敏郎
志村喬
淡路恵子
三好栄子
千石規子
本間文子
河村黎吉
飯田蝶子
東野英治郎
永田靖
松本克平
木村功
岸輝子
菅井一郎
清水元
柳谷寛
山本礼三郎
伊豆肇
清水将夫
高堂国典
伊藤雄之助
生方明
長浜藤夫
水谷史郎
田中栄三
本橋和子
登山晴子
安雙三枝
三條利喜江
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 うだるような夏の午後。射撃練習から署に帰る途中の村上刑事(三船敏郎)は満員バスのなかで、今し方射撃練習をしてきたばかりの自分の拳銃を盗まれてしまう。しかも拳銃の中には7発の実弾が詰まっていたため、これを悪用されることを考えるといても立ってもいられなかった。老練な先輩刑事の佐藤(志村喬)と共に調査を開始した村上。そこで目の当たりにする戦後復興期の街の活気と、裏社会の存在…やがて村上が恐れていたとおりコルトを使った強盗事件が発生する…
 国内外問わず、刑事物の映画というのは映画そのものを牽引していった感がある。映画の比率を見ても、多分一番多いジャンルではないかと思われる。法を守り、悪に立ち向かう正義の味方として、あるいは公然と銃を使える存在として、何かと描きやすいのだろう。海外には秀作も多い。私の好みだけで言っても『ダーティハリー』(1971)『フレンチ・コネクション』(1971)なんてのが真っ先に思い浮かぶし、ちょっと捻ってみても『アンタッチャブル』(1987)『ブレードランナー』(1982)だってれっきとした刑事物だ。映画黎明期の頃から大きなジャンルとしてアメリカでは用いられている。
 そして多くはテレビシリーズとしてだが、日本でも数多くの刑事物作品は作られている。近年爆発的にヒットした『踊る大捜査線2』は記憶に新しいところ。
 しかし、ハリウッドと違い、邦画の刑事物の歴史はそう古くない。刑事が主人公となり、推理とアクションを駆使して犯人を追いつめると言う定式を持った作品は実は本作が一番最初
(少なくとも私が知っている限りは)。その意味でも本作は邦画におけるエポック・メイキングな作品として記憶されて然りだ。
 勿論それだけ本作の質が高かったからこそ、と言うことも重要。徹底的にディテールに凝り、演出に手を抜かぬ真摯な映画作り、そして醸し出される緊張感。それらの質の高さが本作を作り上げており、その為に後に続く映画を作り出していったのだろう。
 それに後に続く刑事物の手本になっただけではない。本作は本作で特徴的な良さがある。
 その筆頭に挙げられるのは戦後直後という時代について。
 丁度同年にイギリスで製作された『第三の男』の舞台であるウィーンと同じく、この時代は東京も戦後復興期に当たり、表面はにぎやかに、そして裏社会も発展し続けてた時代に当たる
(そう言えば『素晴らしき日曜日』にはより強くその描写があった)。それも会社のセットで撮るのではなく、こだわりを持った黒澤監督はロケーションを敢行する。それが生々しい当時の雑多な雰囲気を盛り上げてくれていた(ちなみに劇中のプロ野球風景も本物の巨人対南海の試合)。ただ、そう言う雑多な時代だからこそ、撮影は危険を伴ったらしい。三船敏郎に背格好の似ている人物の後ろから、カモフラージュのために箱に入れた機材を持ったスタッフがくっついていくことで何とか撮りきったそうだが、撮影の間中、カメラマンはびくびくし通しだったとか…余談だが、この吹き替え役(いや、スタントマンと言っても良いな)は当時は復員したばかりの監督志望者である本多猪四郎その人だったりする(本多監督のデビュー作は監督としてではなく、役者としてと言うのが面白い)
 ストーリー的には後になってあまりにも使い古されてしまった観があるものの
(実際現在でもこの亜流は毎週何本もテレビで放映されている)、それを演じる三船敏郎の映えが、それらを越えた素晴らしさを演出していた。ただ、さすがに日本初の刑事物というので苦労も多かったらしいが、その中でも一番は役者がどうやって演技して良いのか分からなかったことらしい。それで編み出したのは遠方からカメラを回してみるという方法だったそうだが、これが見事にはまった。後の黒澤映画の特徴とも言える撮影法はここから始まったとも言える。
 本作の場合、それと殊“暑さ”を強く演出したのも大きな要素だろう。わたし自身が凄い汗かきだって事もあって、汗の演出というのは観ているだけで苦手なんだが、そう言う生理的嫌悪感があるからこそ、逆に目が離せなくなってしまう。それとここでの汗は単なる暑さだけでなく、緊張感もしっかり演出されていた。凛々しい三船敏郎の顔に吹き出る汗の量、志村喬がだらしなく顔中の汗をふき取るシーンと、犯人を追いつめた時の真剣な顔から流れる汗
(あ、これは雨?)。見事な対比だったよ。

 
東宝がこの年製作を中断してしまったため、新東宝で公開されると言った、東宝争議の歴史中の一本でもある。
製作年 1949
製作会社 新東宝、フィルムアート
ジャンル 犯罪(サスペンス)、職業(警察)
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原作
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静かなる決闘 1949

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黒澤明
谷口千吉(脚)
三船敏郎
三條美紀
志村喬
植村謙二郎
山口勇
千石規子
中北千枝子
宮島健一
佐々木正時
泉静治
伊達正
宮島城之
宮崎準之助
飛田喜佐夫
高見貫
須藤恒子
若原初子
町田博子
松村若代
池上湧子
松本茂
工藤洋輔
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 軍医として前戦の野戦病院で働く藤崎恭二(三船敏郎)は、手術中に不注意から梅毒に冒された患者を切ったメスで小指を切ってしまう。それが元で梅毒に感染してしまった恭二。敗戦後、恭二は父親の孝之輔(志村喬)の病院で働くようになったが、治療法のない梅毒の事を父にも、婚約者の松木美佐緒(三條美紀)にも打ち明けられなかった。結婚のことを決して言い出すことが無くなった恭二に、彼を愛する美佐獅ヘ歯がゆい思いを抱き続ける。そんな時、見習い看護婦の峯岸(千石規子)は、その真実を知ってしまう…
 前年三船敏郎や志村喬と言った、名役者に恵まれた『酔いどれ天使』のヒットにより、監督として不動の地位を得た黒澤監督が、新生黒澤組を率いて作り上げた社会派ドラマ。
 時代の要請もあってのことだろうが、物語自体はかなり重めに作られており、物語に決して爽快感もない。ところがそんな物語であっても、
どっしりと見せてくれるのが黒澤流と言えようか。
 それはやはり根底的にこの当時の黒澤作品は、
どのように作っていたとしても、根底に動きがあったからなのだろう。ここに現れる剥き出しの暴力は言葉、態度、そして腕力と、どれを取っても、流れるような静かなものにはなっていない。あたかもアクション映画を観るかのような演出に溢れ、緊迫感が決して途切れない。この題材でこれだけアクション性のある緊張感を演出できるのは、この人しかいないだろう。この一本のみを観てでさえ、この人にはアクション作品を撮って欲しい。と思えてくるほど。カメラワークもかなり挑戦的で、本気で映画を撮ることを楽しんで作っていることが今でもよく分かる。
 本作は決して静かなんかではない。しかし、時としてわき上がる内なる衝動を必死に抑える三船の姿は、武士そのもの。全てを自分の胸に秘め、
無言で自分自身と戦っている。これこそが“沈黙”の意味になっているのだ。
 黒澤の内包する、そして紡ぎ出されようとするパワーに圧倒される。
 本作の場合、キャラクタの良さも特筆すべきところだろう。三船の素晴らしさは言うまでもないが、それを取り巻く女性陣が又良い。あの大戦の中でも純粋さを忘れず、ただ全てを愛する婚約者の胸にぶつけようとする清楚な女性役の三條美紀も良い。何故婚約者がこんなに変わってしまったのか。という戸惑いから、自分を傷つけるような言葉を聞いて、理想像ががらがらと崩れ去っていく過程の表情が見事。それになんと言っても看護婦役の千石規子が実に良い役を演じてる。三條美紀と較べると、多少世慣れた役柄ではあるが、だからこそ、一人苦しんでいる男を見守ることの重要さをよく知っている。出てくる言葉はあたかも憎まれ口のようだが、逆にそれが優しくされるよりも遥かに男の心情に寄り添っているのだから。
 ラストは、やっぱり希望になるのかな?終戦後の薬不足にあったとはいえ、既にこの時点で梅毒の特効薬であるペニシリンは作られていたわけだし、輸入も始まっていたはずだから、程なく陰性に変えられているはずだから。ラストの受け取り方も色々考えられる。
 ちなみに本作製作時、東宝争議の真っ最中。特に戦中から映画を撮っていた黒澤はやり玉に挙げられてしまったため、東宝での制作は出来なくなってしまい、本作は大映作品。一緒に流れてきた谷口千吉が助監督を務めている。
製作年 1949
製作会社 大映
ジャンル 職業(医師)
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原作
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酔いどれ天使

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植草圭之助
黒澤明(脚)
志村喬
三船敏郎
山本礼三郎
木暮実千代
中北千枝子
千石規子
笠置シヅ子
進藤英太郎
清水将夫
殿山泰司
久我美子
飯田蝶子
生方功
谷晃
堺左千夫
大村千吉
河崎堅男
木匠久美子
川久保とし子
登山晴子
南部雪枝
城木すみれ
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 戦後、闇市近くのメタンガスが吹き出る汚い沼のほとりで開業している小さな病院。その院長真田(志村喬)は飲んべえで愛想は悪いが、闇市で生きる貧乏な人間貧乏人ばかり診察する正義漢だった。ある夜、真田のところに手に受けた銃弾を取ってもらいに小綺麗なヤクザの男松永(三船敏郎)が現れた。彼を診て、結核であることを見抜いた真田だったが…
 私は夢を題材とした映画が好きだ。しかも
飛びっきりの悪夢を題材としたものは殊に。私がテリー=ギリアムやデヴィッド=リンチ、デヴィッド=クローネンバーグと言った監督作品が好きなのは、彼らが私に悪夢世界を見せ付けてくれるからに他ならない。
 今までそれは私に一番最初に衝撃を与えてくれた、やはり夢を題材とした押井守監督の出世作
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)のお陰だと思っていた。
 しかし、それは間違っていた。それ以前に悪夢を題材とした映像を観ていたのだった。
 多分小学校時代、テレビで観た悪夢の映像。棺桶を開けてみたら自分自身がそこに横たわっているというシーンがずーっと私の中に残り続けていた。
 それは明らかに“悪夢”を題材とした邦画で、映画そのものは覚えて無くても、その悪夢の部分だけははっきりと覚えていた
(あるいはそれは映画でもなく、何かの番組でその部分だけを抜き出して放映していたのかも知れないのだが)
 確実に私はそれを覚えていた。いや、表層では忘れていたのだ。この作品の冒頭で、三船敏郎演じる松永の顔を見るまでは…
 これは私が購入した黒澤明DVD-BOXに入っていた作品の一本で、順番に観ていって、たまたま当たった作品に過ぎない。だけど、その冒頭を観た瞬間、まるで
フラッシュバックが起こったように思いだした
 この顔は?
 いや、多分そうだ。これが
あの悪夢映画なんだ!いきなり居住まいを正した。子供の頃、本当に衝撃を受けた映画と、今こそ出会えた!
 そして後半、ほんの僅か挿入される松永の悪夢のシーン。確かに覚えていた。しかもかなり正確に。
 これはもう、
誰がなんと言おうと最高点をあげなきゃ気が済まない。私にとって本物の原体験映画なんだから。
 そして今になって観て、この作品の完成度の高さに改めて感心。
 医者を主題としつつも、主人公を他に持って行って他者の目でその医者の姿を見せると言う方式は後年の
『赤ひげ』(1965)で完成された形式だが、本作ではちょっと三船敏郎が突出しすぎて、多分監督自身の狙いとは離れてしまったと思う(だから『赤ひげ』を作るときは三船敏郎を赤ひげの新出にしたんだろう)。本作においてはそれだけ三船の個性が際だっていたと言うことだ。しかしそれは確かに監督の狙いははずれたかも知れないけど、それ以上の効果をもたらした。
 三船が
兎に角格好良いのだ。ギラギラした野生と、裏切られ、落ちぶれる過程、最後の覚悟を決めるとき、そして勿論悪夢を見るときの心底恐ろしげな表情さえも。演技的にはまだこなれてないし、結構訛りも強いので、喋ってる台詞が分からないと言う難点はあるものの、それ以上に強烈な存在感がある。
 きらびやかな世界に住み、傍若無人に振る舞う松永。だが、結核と分かり、その利用価値が無くなったと見られるや、手の平を返したようによそよそしくなる彼の仲間や女たち。非情な世界に身を置いていることをまざまざと知らされ、まるで野良犬のように町を彷徨う…この時に流れる明るい音楽が又、ミスマッチさを誘い、ますます惨めさを強調していた。黒沢映画にしては比較的短い作品だが、これだけの時間の間にその転落の過程を丁寧に描いていて素晴らしいし、折に触れて挿入される沼の映像とギターの爪弾きが良いアクセントをつけている
(後に『屋根の上のバイオリン弾き』(1970)でも同じ手法が用いられていた)。山本礼三郎が下手なギター弾きから奪うようにして爪弾く曲が「人殺しの唄」ってのは泣かせる演出だね。
 更に先に
『姿三四郎』(1943)で180度以上の回転をカメラにさせた黒澤監督は、この作品でもしっかり見事なカメラ・ワークを行っている。部屋の中からパンしたカメラが縁側を通り過ぎ、沼を通り過ぎて向かい側に焦点を当てるように持って行ったり、三面鏡を使って三船の凄惨な姿を強調したりと、感動もののカメラ・ワークだ。中でもラストの松永と岡田の対峙シーンは本当に見事。松永が音を立てぬよう奈々子の部屋に入った途端、カメラが切り替わり、廊下からのロングショットへ。そしてものも言えないほど恐れて逃げまどう奈々子の姿を映した後、部屋の中へ。そこでは息詰まる松永と岡田の対峙シーンへと移っていく。そこまで全てが無言で、音さえも微かにしか聞こえないまま。そして松永が投げた花瓶が窓ガラスを破る音で、今度は音の世界へと入っていく。その過程が本当に素晴らしい。更につるつると滑るペンキの上で格闘させるなんて、ほとんど見たことのない、情けない、そして同時に格好良い格闘シーンを見せてくれた。見事見事
 勿論印象に残る悪夢のシーンは本物の悪夢を見せ付けさせるよう。美しく、そして恐ろしい(なんでもこのシーンはたまたま助監督が出払っていたときに良い波が来たので、監督自身がクランクを回したのだとか)。
 更に言わせてもらうと、全般的にこの作品は音の使い方が上手い。ギターのみならず、特別出演の笠置シズ子の歌う「ジャングル・ブギ」も、落ちぶれて町を彷徨う松永の周りに溢れる「郭公のワルツ」、まさに悪夢を強調するかのようなおどろおどろしい音楽、等々。
 キャラクターを見ると、完全に三船に食われた感じのある志村だけど、ラストで久我美子扮する女子高生との対話シーンというおいしいシーンもちゃんとあったし、味のある演技を見せているし、以降何作か続く「若い三船とそれを導く志村」の構図の最初となった作品として印象深い。新人三船と、それまで脇役しかやってなかったという志村の組み合わせを発掘した黒澤監督の慧眼も褒められて然りだろう。ところで、この
酔いどれ医師という設定は、最後の最後まで決まらず、脚本で煮詰まったスタッフが横浜の盛り場で見かけた医師をヒントにしたそうな。無茶苦茶当たり役だったんだが、こういう裏話もあるもんだ。
 本作において監督自身
「ここでやっと、これが俺だ!というものが出たんだなと思った」と語っている。本当の意味で“世界の黒澤”の始まりの映画でもあったんだな。
 これは
最高映画の一つだ。
製作年 1948
製作会社 東宝
ジャンル 犯罪(ピカレスク)、職業(医者)、悪夢
売り上げ $
原作
歴史・地域
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素晴らしき日曜日 1947

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植草圭之助(脚)
沼崎勲
中北千枝子
渡辺篤
中村是好
内海突破
並木一路
菅井一郎
小林十九二
水谷史朗
日高あぐり
有山緑
堺左千夫
河崎堅男
森敏
★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 戦後混乱期。結婚を考えていながら、住むところも金もなく、一週間に一度の日曜日にしか逢うことの出来ない雄造(沼崎勲)と昌子(中北千枝子)。懐にある35円だけを元に二人で過ごす、ある日曜日のデートの顛末を描く。
 戦後の混乱期。戦争には負けたが、盛んに復興が行われ、新しい時代が来たことを実感しつつ、日々の苦労の中に希望を見いだしていった時代の話。
 真面目に働いていてもどんどん物価は上がっていき、生活は苦しくなるばかり。目端の利く人間は非合法な取り引きに手を染め、それでどんどん金儲けをしてるような時代で、主人公の二人はそんな中で不器用に生きることしかできない。この二人の不器用さをコメディ・タッチで描くことで戦後日本の一場面を浮き彫りにした感がある。色々考え直すと二人の一日の行動の中に社会的な色々なものが詰まっていることが分かってくる。
 
最初に時間があるからと言うことで家探しに行くが、とても今の給料で買えるような物件はなく、アパートの部屋があったとしても、とても二人で住めるような所ではない…物価が急上昇していると言うこと、そして真面目に働くばかりでは家なんか持つことは出来ないぞ。と言う現実が描かれる。ここで昌子が「わたしも働く」と言ってることで、戦前の夫婦の価値観が随分変わっていることが実感も出来る。
 
次にこども達が空き地で野球をしている…この時代は東京でさえ復興がままならず、空き地が多く出来ていたこと、そして野球が国民的スポーツの一つとして認識されてる。
 
雄造の戦友がキャバレーの社長をしている…目端の利く人間はこの混乱期に上手く世渡りをして、いくらでも儲かっている。それに同じ釜の飯を食い、同じ死線をくぐり抜けてきた戦友であっても、その面倒を見る気にはなれないと言う、人情の薄れ。あるいは時間を金で払うと言った風潮が出てきていること。
 
コンサートの切符売り場に現れるダフ屋…この手の商売は昔からいたんだろうけど、ここでのそれはかなり組織的。要するに暴力団の金蔓の一つって事か。
 
健造の何もない部屋…気が滅入りそうな狭苦しい部屋を演出することで、部屋にいることを耐えられなくさせている。現代のように部屋に娯楽が山ほどあるのと違い(かく言うわたし自身も消化しきれないほどの娯楽道具、ゲームやらビデオやらパソコンやら本やらがあるので、部屋にいること自体苦痛に覚えることはないが)、本当に何もない部屋を演出する。更に同居人がいて、彼も外に遊びに行っていると言うことで、ますます部屋に居づらい感じが出ている…確かにこんな部屋だったら、外に遊びに行った方がマシだと思うだろう。
 
喫茶店でお金が足りないことに気づく二人…牛乳の値段って意外に高いこと。動物性タンパクがあまり多くない時代だったんだ。こんな事で商売の儲けを上げようと言うのは、セコいと言うより、商魂なんだろうな。
 
焼け跡で将来の喫茶店について語り合う二人…今までぶすっとしていた雄造の顔が妙に輝いて見えるが、ここで分かる。たとえ何もなくて、しばらくの間はますます苦しくなるかも知れないけど、それでもこの時代にははっきりと“希望”があったと言うことに。ここで流れる音楽が「小さな喫茶店」ってのは心憎い演出だ。
 
野外音楽堂での二人…本作品のクライマックスだが、ここで希望と現実とが複雑に絡み合っているのが見えてくる。一人では現実に押しつぶされそうになるのが、二人なら希望を持ち続けることが出来る。夢と愛とはつながりあってるものだよ…解釈としてはちょっとロマンチックすぎる?(笑)
 
そして停車場で別れる二人…そして一日だけの日曜日は終わり、次の日曜日まで、再びいつもの生活が始まっていく。その踏ん切りのような時間。
 そして現実に戻り、働くのは、これを観ている観客も同じ。同じ時間を共有した観客達は、雄造と昌子と同じように自分の生活に帰っていく。

 本作は黒澤明監督作品にしては小粒な印象をどうしても受けるけど、むしろこの時代だからこそ、意味がある作品なんだろう
(当時、GHQの方針で時代劇は禁止されてたようだし)
 ただ、わたしにとってやや残念なのは、ここで
食事風景が無かったことかな?結局この二人、饅頭とコーヒー、ちょっとしたお菓子しか腹に入れてないし…戦後焼け跡で丼飯をかっ込む姿ってのを観てみたかった気分。
製作年 1947
製作会社 東宝
ジャンル 恋愛(ノーマル)
売り上げ $
原作
歴史・地域
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わが青春に悔なし

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久板栄二郎(脚)
原節子
藤田進
大河内伝次郎
杉村春子
三好栄子
河野秋武
高堂国典
志村喬
深見泰三
清水将夫
田中春男
光一
岬洋二
原緋紗子
武村新
河崎堅男
藤間房子
谷間小百合
河野糸子
中北千枝子
千葉一郎
米倉勇
高木昇
佐野宏
★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 1933年。リベラルをもって知られる京都帝国大学教授の八木原の元には彼を慕う多くの学生達が集っていた。その中には秀才型で日和見的な糸川と実直で行動派の野毛(藤田)がいた。二人は八木原教授の一人娘幸枝(原節子)に恋心を持っていたが、軍国主義が強まる中、野毛は左翼運動へと身を投じていった。彼のひたすらな思いに胸を打たれた幸枝は周囲の反対を押し切り野毛と結婚するのだが…
 黒澤明監督の戦後第一作。男を主人公とすることが多い監督作品にあって珍しく女性が主人公の物語だが、女性の権利をしっかり見据えて作った作りが新しい時代に適応し、大いに受けた。原節子が初めて汚れ役に挑戦したと言うことでも話題となった作品でもある。
 それまで国策映画を作らされていた日本映画界だったが、終戦を機に、その様相はがらりと変わった。それは良い意味でもあるが、時々悪い部分もある。特に「さあ、これからは好きなように映画を作られるぞ」と意気込んだ監督にとっては、面白くない事態が生じてしまった。
 それが組合の存在というやつ。
 会社のやり方に対し、公然と抗議行動が出来る機関として組合はとても大切だ。だが、悲しいかな、戦時体制が長すぎた日本はそれに慣れてなかった。結果として組合が暴走。会社側にも監督にも容赦なく抗議が舞い込んでくる。彼らは会社組織そのものが日本の帝国主義の産物であると見なし、それを徹底的に攻撃した。
彼らがついこの前まで賞賛していたものなのに
 尤も職人芸的な映画界だけあって、そんなもの一々聞いていたら映画など出来はしない。少なくとも監督の力量は非常にスポイルされてしまう。それまでそれをねじ伏せていた側としては、ありがたくない状況が出現してしまった
(東宝の争議は長引き、結果的に「新東宝」と言う別会社が出来てしまうし、東宝の監督であったはずの黒澤監督が他会社で何本かの映画を作ったのもそれの煽り)。本作はその煽りをモロにかぶってしまった。
 それまで体制に押しつぶされた人を描くのはタブーとされていたが、それを撮れるようになったのはありがたい。だが、組合の側の主張からすると、押しつぶされるだけでは駄目だった。主人公を体制と戦う存在として撮ることが大切になったのだ。
 本作はその影響をモロに受けた形で製作されることになった。そこには黒沢監督の並々ならぬ努力が必要となった。どれほどの大監督であろうと、組合がそのシナリオをじっくりと読んで、表現上好ましくない
(軍国主義時代の気分が抜けないことや、民主主義を揶揄する)部分は容赦なく切られてしまった。
 かつて軍が行っていた検閲を、今度は逆方向に組合が行うことになってしまった
(勿論これは混乱期にある時代だけで、今は随分緩やかになってるし、それでも軍に映画製作が牛耳られているよりはずっと自分の思いを出すことは出来たはず)。職人芸である映画製作にも民主化の波が押し寄せてきた。
 結果、監督達が望んだほどには自由に作品が作られなくなってしまった
(事実本作も第二次東宝争議が怒ったため、封切りは日活系劇場で上演することになったほど)
 思いもしなかった事態に陥り、黒澤監督も相当に面食らったようだ。それがよく現れているのが後半の田植えのシーン。全然違ったシーンを撮るはずだったのが、組合からのクレームによってごっそり削り取られてしまい、結果的に国民的女優原節子の「汚れ役」という構図ができあがった
(他にも似たシナリオを新人監督が作る予定だったので、新人を優先せよという指定が組合から来たとも)。その部分が一番評価されたと言うのが何とも微笑ましいエピソードでもある(持論だけど、本物の監督というのは逆境をパワーにして、普通に撮るよりもかえって良いものが撮れる実力がある。黒澤明という監督の本物ぶりを遺憾なく発揮したエピソードだと私は思っている)
 原節子の相手役野毛役の藤田進は黒澤監督のデビュー作
『姿三四郎』及び続編の『續姿三四郎』の三四郎役だが、一方では国策映画のスターでもあった。それを敢えて起用した(しかも左翼学生役で)のは、世間からは違和感をもって迎えられたが、「これだ!」と認めた役者を使い続ける黒澤監督らしい起用でもある。
製作年 1946
製作会社 東宝
ジャンル 社会派、家族
売り上げ $
原作
歴史・地域
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虎の尾を踏む男達 1945

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伊藤基彦(製)
黒澤明(脚)
大河内伝次郎
藤田進
榎本健一
森雅之
志村喬
河野秋武
小杉義男
横尾泥海男
仁科周芳
久松保夫
清川荘司
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 兄頼朝に追われ、奥州に向かう源義経一行。彼らは山伏に身をやつし、北陸道の安宅の関にかかったが、そこで麓で雇ったしゃべり好きの強力(榎本健一)のうわさ話から、彼らの変装は既にばれており、安宅の関では地頭の富樫左衛門(藤田進)が一行の通過を待ちかまえている事を聞かされる。得意気に喋っていた強力が、彼らの正体に感づき逃げた後、彼らは弁慶(大河内傳二郎)を先頭に彼らは安宅の関へと向かうのだが…
 かつてテレビの歌舞伎で勧進帳は観た事があったが、まさにそのまま。大河内傳二郎の見栄の切り方とか、歌舞伎っぽいなあ。とか思って観てたら、実はこれは歌舞伎ではなく、その元ネタ能の安宅を元にしているとか
(勧進帳に元ネタがあるとは知らなかった)。能好きな黒澤監督らしいエピソードだな。
 当初榎本健一と大河内傳二郎を主演とした歴史活劇を撮る予定だったが、戦時中のことで馬が手に入らず、撮影に割ける予算も少ないので、急遽金のかからない本作を作ることになったとか。実際、ロケーションは当時の東宝の裏手にあった雑木林で。舞台のセットもあり合わせのもの。さらにセットで撮った部分は空も書き割りだと分かる安普請…削れるだけ予算を削りました。と言う主張にも思える。
 しかしその中にあって役者だけは蒼々たるメンバーが揃っている。しかも、その演技が見事にはまっていて、改めて映画に必要なのはセットに金をかける事じゃないって事を感じさせてくれる。
 黒澤監督、作品の中に笑いを取り入れた作品はいくつか作っているが、これほど笑いを前面に押し出した作品は他に類を見なく、監督の異色作と言って良いだろう。
 しかしなによりこれが戦争末期に立ち上げられたと言う事実には驚かされる。
 日本国民が悲壮な覚悟を持ち始めたその時にコメディとはなんかミスマッチな印象もあるが、世相が悲壮だからこそ、こういった娯楽が求められたのだろうか?いずれにせよ、現代で観ても充分面白い作品だし、笑いながら観ることが出来た
(撮影そのものは戦時中に開始されている)
 本作の特徴は何と言ってもキャラの立ち方にこそある。セットのチープさや演出の弱さを補ってあまりある演技をそれぞれが見せてくれた。
 その中にあって本来の主人公である武蔵坊弁慶役の大河内傳二郎をもしのぐキャラクターを見せつけてくれたのが榎本健一。
 「勧進帳」にはいないはずの強力(荷物運び)役として登場する榎本健一。彼は物語の狂言回し及び物語の説明役として非常に便利に使われている。だからこそ、この役を演じるのは相当に難しい。説明を入れなければ分からないような物語なのか。と思われることもあるだろうし、物語の進行の邪魔だと思われることもある。
 それを榎本は自らのキャラクター性でクリアしてる。この長饒舌、この表情の変化を見てるだけで楽しめるので、むしろしゃべり続けて欲しいとさえ思える。しかもしっかり物語は進行してるんだから、たいしたもんだ。
 元々歌舞伎の「勧進帳」(能の「安宅」は観てないので、敢えてこっちで語らせてもらうけど)を映像化するなら、舞台にはない演出が必要になる。ここではそれは弁慶が読んでいる勧進帳が白紙だ。と演出として捉えられる。それを表情だけで見せてしまった榎本健一の演技力はやはり素晴らしい。

 確かに楽しい作品だが、演出よりも役者の力量の方にウェイトがかかりすぎている。規制が多すぎたとは言え、黒澤映画としてはまだまだ。と言った感じか。
 それと、大河内傳二郎の声が通りにくく、非常に聞き難いのが特徴か。DVDは日本語字幕があるのがありがたい。

 本作は戦争末期に撮影が開始され、終戦の後で撮影が終了する。そのため、色々なところから規制がかかってしまい、危うく未公開映画になりかけたと言う経緯がある(特に戦後、GHQから時代劇は禁止されるし、映倫から黒澤監督が睨まれてしまったと言うこともあるらしい)。結果的にしばらく倉庫に眠っていて、1952年に公開されたそうだ。
製作年 1945
製作会社 東宝
ジャンル 歴史
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原作
歴史・地域 勧進帳(1187)源義経武蔵坊弁慶
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續姿三四郎 1945

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黒澤明(脚)
藤田進
月形龍之介
河野秋武
轟夕起子
清川荘司
森雅之
宮口精二
高堂国典
菅井一郎
石田鉱
光一
大河内伝次郎
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
姿三四郎(書籍)
 檜垣源之助を倒した姿三四郎(藤田進)は二年間の武者修行を終え、講道館に帰ってくる。だが東京に帰った彼が見たのは、見せ物と化した武術家達だった。彼らをそうしてしまったのは、実は自分自身の強さの故である事に三四郎は悩み始める。そんな時に檜垣源之助の弟で空手家の鉄心と源三郎に挑戦状を叩きつけられる…
 前作『姿三四郎』(1943)のヒットを元に作られた黒澤明監督による続編。最初監督は続編制作に乗り気ではなかったそうだが、作っている内に気分的に乗ってきたとか
(それでも他の監督作品に較べて雑な部分も見られると言うのが一般的評価)。撮影自体は終戦直前であったため、非常に苦労があったようだが、焼け跡で公開された本作は、前作を超えるヒットを記録した。
 異種格闘技をメインとするので前作以上に娯楽性を高められているのが特徴だが、檜垣兄弟、特に弟の源三郎の描き方に監督らしいこだわりを感じる。彼の狂気の演出の完成度は後々の黒澤作品に受け継がれていったのだろう。最初に出た時のあの目にはかなりぞくっとする。
どこか憑かれたような表情で、ぐるっと道場を見渡すと、それに合わせてカメラもパン。道場全体を舐めていく。ほんの僅かなシーンだが、これは非常に練り込まれたカメラ・ワークと絶妙の間の取り方によって初めて完成される技術だろう。
 それに、ラストの檜垣鉄心と三四郎との戦い。あの極寒の冬山の中での裸足での戦いはかなり見栄えがあるし、その後、言葉を交わす事は無くとも、三四郎と源三郎との心の交流も又良し。
 惜しむらくは、終戦前の物資不足の中で本作は作られたので、フィルムがあまり良くなかったのが理由だろうけど、画面がとにかく荒い。最後の三四郎と鉄心との戦いなど、シルエットだけしか見えない。それが残念。
製作年 1945
製作会社 東宝
ジャンル スポーツ(柔道)
売り上げ $
原作 姿三四郎(書籍)富田常雄
歴史・地域
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一番美しく 1944

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黒澤明(脚)
志村喬
清川荘司
菅井一郎
入江たか子
矢口陽子
谷間小百合
尾崎幸子
西垣シズ子
鈴木あき子
登山晴子
増愛子
人見和子
山口シヅ子
河野糸子
羽島敏子
嶺恵美子
須藤美令子
三井春子
豊原みのり
平山栄子
山下春枝
萬代峰子
宮川五十鈴
相川路子
加藤照子
河野秋武
横山運平
真木順
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 太平洋戦争末期。労働力不足を補うために若い女性達が女子挺身隊員として平塚のレンズ工場で働いていた。その意気は極めて高く、政府から命じられた増産計画が男子より少ないと抗議するほど。寮から職場まで鼓笛隊の行進をし、様々な問題を乗り越えて一生懸命働く姿。一途な彼女たちの姿を“一番美しく”とする。
 黒澤明監督唯一の国策映画。しかし監督はこれを単なる国策映画にしたくなかったようで、これをセミ・ドキュメンタリー映画として作り上げた。登場するキャストの女性達は皆実際にレンズ工場で働かせ、駆け足や行進の訓練をさせて作り上げた。もの自体は確かに国策に沿って作られているのだが、あまり説教臭くなく、さわやかに撮れているところが特徴だろう。近年戦争中に働かされている女子は皆悲惨だとされる風潮があるが、決してそれだけではない事がここからも伝わってくる
(銃後を守る意識ってのは確かにあったんだろうし)
 まあ、話自体は出来過ぎって部分もあるし、今ひとつ盛り上がりにも欠ける気がするが、その分長回し撮影や複数カメラによる同時撮影など、後年につながる黒澤流のカメラ・ワークを見て取ることもできる。
 あと有名な話だが、ここでの(一応)主演の矢口陽子は後の黒澤夫人。お互いに気の強いもの同士。現場ではとても衝突が多かったそうだが、逆にこれが二人の距離を接近させたのだろう。誰だったか、
「監督たるもの出演者を口説いて本物だ」と聞いたことがあったが…少なくとも黒澤監督が本物であることだけは間違いなかろう(笑)。ちなみにこれは裏話になるが、結婚を申し込んだのは黒澤の方で、矢口はしばらく留保して、家族に相談に行ったのだが、その際一つの大問題で延々家族会議を開いたそうだが、その理由というのが「後ろ姿が禿げている」というのだったとか。
製作年 1944
製作会社 東宝
ジャンル プロパガンダ
売り上げ $
原作
歴史・地域
関連
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姿三四郎 1943

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黒澤明(脚)
藤田進
大河内伝次郎
轟夕起子
月形龍之介
志村喬
花井蘭子
青山杉作
菅井一郎
小杉義男
高堂国典
瀬川路三郎
河野秋武
清川荘司
三田国夫
中村彰
坂内永三郎
山室耕
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 明治15年、柔術家を志していた姿三四郎(藤田進)は、矢野正五郎(大河内伝次郎)と出会い、柔道の素晴らしさに目覚める。様々な困難を経、柔道家としての力をつける三四郎だったが…
 富田常雄原作の映画化で黒澤明監督の監督デビュー作。デビューという割りに、実に手慣れた作りで、とても新人とは思えない程の完成度を誇る作品。重いストーリーの中でも決してユーモアを忘れることなく一本気な主人公と、彼を取り巻くそれぞれの、不器用な者達の人間性に焦点を捉える事に成功している。
 それになによりカメラ・ワークが実に素晴らしい。蓮の花を見て三四郎が悟りを開くシーンの合成は有名だが、180°以上に回転するカメラや、対峙シーンでの焦点の当て方など、よく練られている。
 これまでテレビシリーズやアニメ、映画などで何作か
『姿三四郎』の作品は観てきたが、さすがその元となった作品だけある。完成度の高さは折り紙付き。他の作品が三四郎の柔道シーンをこだわって作っていたのに対し、むしろこれは人間の内面への考察に溢れていたように思える。間違いない良作である。
 この時代にこんな作品をよく作ることが出来たものだ。その一事だけでも監督の素晴らしさが分かろうというものだ(検閲は「精神性」という事でクリアしたらしい)。
 これが制作された当時はまさに太平洋戦争真っ直中。そんな時流の中、国策映画とは無縁に作られたためか、激しい検閲を受け、多くのシーンがカットされてしまった。近年になり、ロシアで多量の戦争中の邦画断片が発見されたが、いくつか本作のカット部分も発見されたそうだ。
DVDの特典として、いくつかのカットシーンをつなぎ合わせた“最長版”が収録されている。見応えがあるので(コメンタリーも良い)、DVD購入はこれもお薦めの作品。
製作年 1943
製作会社 東宝映画
ジャンル 青春、スポーツ(柔道)
売り上げ $
原作 姿三四郎(書籍)富田常雄
歴史・地域
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