
Wikipediaより |
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日本の映画監督、俳優、脚本家、随筆家。脚本を書く際や、俳優としてデビューした当初は、平戸延介、平田延介名義を使用することも多かった。脚本を多数執筆。「カツドウヤ」を自称する小粋な生き方は多くの文化人をひきつけた。
また、1960年代には東宝の俳優養成所の所長を務め後進の指導にあたった。時には自ら指導を行なう真摯な態度は研修生たちに慕われ、尊敬の念をもって「ヤマカジ先生」と呼ばれた。
PCLで助監督募集の審査部長を務めていた時、最後の3人まで絞られた中の黒澤明を上層部の反対を押し切って採用に結びつけた。黒澤は当日ボロボロの格好をして面接態度も芳しくなかったが、黒澤の絵画の話だけには強い情熱心を感じた山本は会社に黒澤を強く推したという。戦後、三船敏郎の採用面接の際には、東宝撮影部の山田一夫の強い依頼もあったが、「ああいう風変わりな人間が一人くらいいてもいいだろう」と、彼の粗暴な態度に辟易していた他の面接官の猛反対を押し切って採用させ、更に後々渋谷で靴磨きをしていた黒部進に身元保証人になるからニューフェイス試験を受けるよう促すなど好奇心旺盛な人柄ゆえに先見の明があった。
助監督を採用する条件は、「酒が綺麗に呑めることと、トリッペルに罹ったことがあること」と冗談めかして公言していた。助監督たちには、「先生」呼ばわりさせず、「ヤマさん」と呼ばせた。 |
| Wikipediaより引用 |
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| 経歴 |
| 1902'3'15 |
東京市]銀座采女町で天狗タバコの総支配人の息子として誕生 |
| 1920 |
『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビュー。大学を退学する |
| 1922 |
「無名映画協会」を設立し、自ら出演した。 |
| 1924 |
関西で結成された「早川プロダクション」でデビュー作『熱火の十字球』(1924年)を監督 |
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戦時中はフィリピンに映画撮影に行くが、戦火で帰れなくなってしまう |
| 1946 |
東宝争議で東宝を離れる |
| 1951 |
東宝に復帰する |
| 1955 |
女優・松山 恵子(柴田きく代)と結婚 |
| 1957 |
離婚 |
| 1974'9'21 |
死去 |
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