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米田興弘

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タイトル
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物語 人物 演出 設定 思い入れ

 

モスラ3 キングギドラ来襲 1998
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★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 二人の妹に憎しみを持つベルベラはかつての故郷インファント島に潜入し、伝説の力「エリアスのトライアングル」を盗み出そうとする。モルとロラはかろうじてそれを防ぐが、「勇気」「知恵」「愛」の三つのメダルの内、「愛」のメダルだけが奪われてしまう。「空から恐怖の大魔王が降りてくる」というベルベラの言葉の通り、巨大な隕石が日本各地に落下する。福井県勝山市に落下した隕石はキングギドラとなり、日本各地の子供達を次々にさらうと、富士山麓の隕石が変化したドームに次々と放り込む。急を聞いて駆けつけたモルとロラ、そしてモスラだったが、キングギドラの圧倒的な力の前に、全く太刀打ちできず、更にベルベラはドームに閉じこめられ、ロラはキングギドラに心を奪われてしまう。残されたモルは、最後の手段としてモスラをかつてキングギドラが襲来した白亜紀に飛ばし、そこでキングギドラを封印してしまおうとするが…
 平成モスラ三部作の最終作品。これまであくまでサブキャラだったモスラを中心に持ってくることで、有終の美を飾ろうとした意気込みは買う。一作目の怪獣がわざわざ新怪獣であるデスギドラにしたのも、キングギドラは最後に持ってきたいという製作側の思いがあったからと思いたい。確かに本作は評価できる部分はある。
 ところで、長年のゴジラファンには一つの傾向がある。私の知っている範囲だから絶対にそうだとは言わないのだが、何故かゴジラファンを長くやってると、
最強怪獣は?と聞かれた際、例外なく「キングギドラ!」と答えるのだ。それだけキングギドラはファンにとっては特別な存在であり、強力な悪のイメージを思い起こさせるのだろう『ゴジラ FINAL WARS』(2004)で最後がカイザーギドラだったのは痛し痒し)。だから、この作品での圧倒的なキングギドラの強さを見せられてしまうと、ゴジラファンには、目が眩んでしまい、ついつい評価を上げたくなってしまう。キングギドラというネームバリューは、そこまでの力を持っているのだ。
 私も、実際これを観てる間は、気分的に高揚したし、評価もそれなりに高かった。しかし、改めて考えてみると…
やっぱりこれはどうしようもない作品だというのが今の結論
 エリアス三姉妹の関係の決着と、モスラの存在意義、そして最強の怪獣キングギドラの描写。設定部分での前提条件は大変良い方向に向かっている。それにドラマ部分も部分的には大変盛り上がっている。シリーズ一作目において希薄だった特撮に対する“想い”というものがここには確かに感じられた。
 ただし、その設定は、見事にちぐはぐ。要するに、全てにおいて、「これをやりたい」と言う思いだけでしかなく、必然性がまるで無いのだ。物語とドラマを全く練っていないため、ドラマ部分が単に部分的に熱いだけで、物語一貫とした必然性が感じられず、物語そのものに整合性もない。
 そう。本作は物語の部分があまりにも貧弱すぎるのだ。タイムスリップものは既に『ゴジラVSキングギドラ』(1991)という駄作でやられており、
「このキングギドラもそうかよ!」。としか思えなかったし、根本的な問題として、何故“キングギドラは地球に来たのか”という問いがすっぱりと抜け落ちてる。あらゆる生物を破壊に来たというのならばそれで結構。で、何故子供をドームで囲い込まねばならないのか。更に白亜紀で尻尾だけで生き残っていたのが、何故わざわざ現代で復活しなければならないのか。過去でキングギドラが倒されたのなら、本来彼によって滅ぼされていたはずの恐竜が現代に残っていないのは何故か。白亜紀の時代にも(複数の)モスラがいたのならば、なんでキングギドラを放っておいたのか…殊キングギドラに絞ってもいくらでも出てくる
 他に、いくらなんでもこれは無かろう?という白亜紀の描写とか、何の理由も説明もなく突然に鎧モスラになるとかがあるが、一番の問題は、
マジでどんな物語だったか、細部が思い出せないと言うくらいに印象が薄い物語だったという点だろう。
 何にせよ、スタッフはご苦労様。とだけは言っておこう。

 助監督に手塚昌明

 

モスラ
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★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 紋別の工事現場で巨大な化石が発見された。現場監督の後藤裕一(梨本謙太郎)は、妻の若葉(藤本麻弥)と二人の子供達へのおみやげとして、化石についていた紋章を持ち帰った。だがそれは実は大昔に妖精のエリアスたちが宇宙怪獣デスギドラを閉じこめた封印だった…
 
『ゴジラ』シリーズが『ゴジラVSデストロイア』(1995)で“一応の”完結を見せ、東宝が次なる特撮作品に選んだのが、これまで脇役に甘んじてきたモスラを中心に持ってくることだった。『モスラ』(1961)以来の主役…とはいえ、これまでの『ゴジラ』シリーズで完全なる善玉として描かれることの多かっただけに、モンスターと言うよりは純粋なる正義の味方となって帰ってきた。
 …怪獣をモンスターとしてのみ描こうとしてきた東宝が、一つの可能性として新しい怪獣の姿を描こうとした。ある意味では、これは正しい選択だったと思われる。怪獣映画は様々な可能性があって良いのだから。これが人型だったら
『ウルトラマン』になってしまう訳だが、格闘の出来ない怪獣を選んだことにより、様々なメッセージを付加することが可能になったのだから。ある意味、(私のような)怪獣ファンに媚びることなく、純粋に子供のために働く怪獣を割り切って描こうとしたのは、正しかったとは思う…
 …いや、思いはするのだが、出来上がった作品には、
幻滅しか覚えることが出来なかった
 物語を単純化させた点に関しては悪いとは言わない。ただ、そこに見られたのは、
単なるやっつけ仕事。要するに怪獣に対する思い入れというのが全く感じられないのだ。モスラを出そうというのならば、そのモスラに対する愛情が必要だったのではないか?本作でのモスラの存在意義は“自然の守護神”という、一種のメタファーとしての存在だけ。物語の都合で怪獣を使って欲しくない。メッセージ性を高めても、それを受け取る側の事を全く考えてないような押しつけのメッセージだけしか印象が残らないのは問題がありすぎる。モスラをメタファーにするのなら、徹底させればいいのだ。それさえも中途半端にしてしまった。
 それにこのラストはどうだ?デスギドラによってぼろぼろになった自然を子供達に見せつけ、「これが現実だ!だけど、これを癒せるのは、君たちにかかっている」という具合で終わるならまだしも、他者であるモスラが全部何とかしてくれてる…
ここまでご都合主義に陥るか!製作側の感性を疑う出来だ
 評価できるのは、やっぱりここまで培ってきた特撮部分で、特にフェアリーとガルガルの家の中での追いかけっこは、よく細かくできてると感心できる…ただこれも思い入れがやはり感じられず、職人の仕事としか見えないのが悲しい。
 多くの意味で、この作品で必要だったのは、製作側の、特撮に対する思い入れだった。それを欠如させてしまっては、怪獣映画を撮る意味がない。

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