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2006 | ||||||||||
2005 | 戦国自衛隊1549 監督 | |||||||||
2004 | ||||||||||
2003 | ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS | |||||||||
2002 | ゴジラ×メカゴジラ | |||||||||
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2001 | ||||||||||
2000 | ゴジラ×メガギラス G消滅作戦 監督 | |||||||||
新選組 助監督 | ||||||||||
1999 | ||||||||||
1998 | モスラ3 キングギドラ来襲 助監督 | |||||||||
1997 | モスラ2 海底の大決戦 助監督 | |||||||||
誘拐 助監督 | ||||||||||
1996 | 八つ墓村 助監督 | |||||||||
1995 | ||||||||||
1994 | 四十七人の刺客 助監督 | |||||||||
1993 | 帰って来た木枯し紋次郎 助監督 | |||||||||
1992 | ||||||||||
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1990 | ||||||||||
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1956 | ||||||||||
1955 | 1'24 栃木で誕生 |
戦国自衛隊1549 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2005文春きいちご賞4位 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2003年に陸上自衛隊の東富士駐屯地で行われた対プラズマ用人工磁場シールドの展開実験の途中で暴走事故が発生。実験に参加していた的場一佐(鹿賀丈史)ら第3特別実験中隊が1547年の戦国時代へタイムスリップしてしまう。そして2年後の2005年。日本各地に過去への干渉が原因とみられる虚数空間ホール出現するようになる。戦国時代に行った的場らが歴史を変えようとしているのかもしれないと、陸上自衛隊は新たに“ロメオ隊”が結成され、同様の方法で過去に向かうこととなった。かつて的場の部下だった鹿島勇祐(江口洋介)や、事故を引き起こした神崎怜二尉(鈴木京香)らがこの作戦に参加する事となった。首尾良く1549年に到着した彼らが見たものとは… 半村良原作の『戦国自衛隊』(1979)のリメイクというか、リブート版。あの作品とは全く違う作品だというので、どんなもんかと観てみた。 …確かに、これは決して褒めるような内容の作品でないのは確か。しかし、自分でも不思議なほど、悪口を言おうという気がしない。同様の内容の『タイムライン』(2003)で散々毒を吐いた経験があるので、最早同じ事を言いたくないのもあるが、むしろこの予算でここまでよくまとめたと、褒めてやりたくなってきた…この後味はかつてどこかで?と思ったら、そうそう『ゴジラ×メカゴジラ』で味わった後味と同じだった…そう言えば同じ手塚監督じゃないか。この監督には文句を言う気力を失わせる、不思議な相性があるのかもしれない。 そら確かにアラなんて探せばざくざく出てくる。戦国時代の人間の感性やしゃべり方が全然戦国時代っぽくないとか、アクションパートがしょぼ過ぎるとか、キャスティングがコテコテのばかり入れて浮きまくってるとか(そもそも鈴木京香はミスキャストでは?なんで尾張の織田信長の話なのに関東が舞台なの?とか、そもそも主人公の江口洋介演じる鹿島が戦国時代に行く必然性がないとか、2年であんな石油精製工場まで作ってしまう工業力はどこから?とか、まあ細かく書けばまだまだきりがないが、その辺、どうだって良いという気分にさせられてしまった。だってどうせ大風呂敷を広げるんだから、いい加減に作ったって良いじゃないか。昔のテレビ特撮を見てみろ。このくらいのおおざっぱは当たり前… …あ。なんで私がこの作品を悪く言いたくないか、分かってしまった。 この作品、昭和時代の特撮ヒーロー作品の形式とそっくりなんだ。 関東にこだわったのは仮面ライダーの敵が関東や首都圏にこだわったのとそっくりだし(考えてみると、富士山を爆発させる作戦って実際仮面ライダーアマゾンでやってたぞ)、富士の裾野を舞台にするのは東宝怪獣ものの舞台だからか。 それにあんまり悪く言いたくないのは、主役を歴史を修正する側に持ってきて、時間制限を加えたこと(宇宙戦艦ヤマト(1977)かいな)。実はここが一番重要な点。かつてオリジナルの戦国自衛隊(1979)が製作された1970年代は、まだ戦争をよく知っている世代の人が多くいたため、キャスティングでも苦労しなかったが、今や平成の代になると、戦国時代に見合うキャラクタが少なすぎるのだ(と言うか、いないと言ってしまっても良い)。だから、戦国時代の人間のほとんどは感情移入を拒ませ、今の世界から行った人間のとまどいみたいな部分を強調していたのと、時間を区切ることで時代への同化と成長に敢えて目を瞑ったから。かえってこれくらい割り切ってくれた方が小気味が良い。 後、重要なのが予算配分。邦画にしてはかなり金をかけているのは分かるけど、ハリウッドの予算と較べてしまうと、どうしても邦画は遣える金が限られてしまうため、アクションシーンは控えめにする必要がある。だから派手な部分はピンポイントにして、後は会話と人間で間を持たせようとする。それで良いんじゃない?予算内でなんとかやりくりしようとする、一種の職人的映画作りを見せてもらった気分だ。それにこれだったら、日本の成績が悪くても、海外で受けそうだし、そこそこ大丈夫じゃないだろうか? やっぱり一応オリジナルの方は観ておきたくなってきた。 |
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ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ゴジラとの激闘を演じ大破した“機龍”は、アブソリュートゼロ砲を失ったまま一年後の今も八王子の自衛隊基地で整備が続いていた。その復旧のため働く整備士の中條義人(金子昇)は休暇で訪れた伯父中條信一博士(小泉博)の別荘で、昔インファント島で信一が出会ったという双子の小美人(長澤まさみ、大塚ちひろ)と出会う。彼女たちは信一に機龍を今すぐ廃棄し、その骨格であるゴジラの骨を海に帰すように進言してくる。機龍がゴジラを呼ぶのか?揺れ動く国政の中で、海岸に巨大な亀怪獣カメーバが打ち上げられる。何ものか巨大な存在との格闘の爪痕から、ゴジラの再上陸が迫っていることを予見するが… こいつは参った!本作の手塚昌明監督はこれまでにも『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』と、直接本作につながる『ゴジラ×メカゴジラ』を監督しているが、正直、それほどの監督とは思ってなかった。その先入観が見事に打ち砕かれた。 見事だった。まさかここまでの作品を目の当たりにするとは…完成度においては近年の最高傑作『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003)をさえ凌いでいると言って過言無いほど。手塚監督、徹底的なリサーチを行ったんだろうな。 先ずストーリーだが、主人公を整備士に持ってきたと言うのが卓見。平成シリーズ以降、大体主人公と言えばゴジラと直接戦う人間が主なんだが、彼の場合は直接戦うのではなく、機龍を動かすことが最大の使命となる。最初から最後まで、彼はその姿勢を一貫して貫いている。直接戦うのは人任せなんだが、それでも遙かに主人公として、キャラクターが立っていた。 ただ、機龍を起動することについては一貫しているが、その姿勢が変化(成長)しているのが大きな特徴。最初はあくまで機械を愛する整備班として、機龍を機械としてのみ考えていた。その後、小美人のメッセージを聞くことによって、機龍とゴジラの相関関係を知ることにより、機龍を動かすこと自体に疑問を感じ始めた。彼にとって機龍を動かすと言うことは、死者に対する冒涜であると共に、ゴジラを呼び込む可能性を作っていると言うことになる。しかし一整備士としてその疑問を公にする訳にはいかず。ここで彼にとって機龍を動かすことは愛情から義務へと変わる。ここで前機龍パイロット家城茜(釈由美子)との交流を持ってきたのはピッタリのタイミング。その後、モスラの危機に出撃しながら不稼働となった機龍を動かそうとする。ここでは純粋にゴジラを倒すため、なかんづく人類を救うべく彼は機龍に乗り込む。ここで終わるならそこそこのストーリーで終わるのだが、その後があった。機龍内部に閉じこめられ、そこで彼は初めて機龍(死んだゴジラの骨)が一体何を求めているのか、そしてなすべき事をしようとする機龍の意志を感じ取る。ここが肝。それが勘違いでなかった証拠に機龍は彼に最後のメッセージ「SAYONARA」を遺すと言う演出を出してくれた。機龍は分かっていたのだ。彼がこれまでどれだけ自分を愛していたのか、そして自分の最後になすべき使命を、最後に自分を最も愛してくれた人に伝えるために…ちょっと私らしくなかったかな? 怪獣の演出についても巧み。最初のモスラ登場シーンは、やはりこうでないと。怪獣は最初から見えていてはいけないんだよ。最初は未確認物体として登場して、そこから巨大感を演出してくれなくちゃ。雲間から現れるモスラのシーンは鳥肌が立つほどの見事さ。その後モスラとゴジラとの戦いに移るが、圧倒的不利でそれでも戦い続けるモスラの姿。決して戦うことを望んでいなかったはずの機龍が参戦した時、命を賭けて機龍を守ろうとする意外さ。その後、自らの子供を守るために盾となってゴジラの火炎に焼き尽くされるまで、たたみ込むような親モスラの演出には賞賛。機龍の演出もなかなか。必殺武器であるアブソリュートゼロ砲を封じられつつ、ゴジラとガチンコ対決に臨む演出。動いているようで動いてなかった前作と較べて格段に個性を増していた。そして最後に自らの意志で立ち上がり、ゴジラもろとも沈んでいく…その分、子モスラの演出はちょっと薄かったかな?二匹出したのは、この世界では無かったはずの『モスラ対ゴジラ』(1964)のオマージュなんだろうけど。吹っ飛ばされて腹見せた時、『モスラ』(1961)にあったような節足も見られなかったし。それと、小笠原で誕生したから小美人の歌だけで誕生したけど、出来れば見たかったなあ。インファント島の住民による暗黒舞踏を(笑)。そうそう、やっぱり攻撃色は赤なのね(笑)。悪役としてのゴジラの存在感も充分。意外な話だが、ここで初めてゴジラは東京タワーを破壊もしている(『ゴジラ』(1954)の時は電波塔だった)。 それで特にミレニアムシリーズに顕著なラストシーンのケレン味だけど、今までで一番良かったと思うよ。今暴れ回ったゴジラが復活するような演出だったら怒ってた所だけど、あんな終わり方があったか!次回作につながりを持たせつつ、きっちり終わらせてくれたその姿勢に好感。次回作はいよいよ誕生50周年記念だが、期待が高まるね。 あるいはあるかな?今までありそうで絶対無かった最強同士の決戦『ゴジラ×ゴジラ』が。 それと本作にはもう一つある。 我ながら性格悪いと思うけど、私にとって怪獣映画を観る際の一つの楽しみ。あら探しが本作では出来なかった。くそ(笑) 困ったことに(?)、設定の練り込みがほぼ完璧なんだよ。それでも強いて言えば、途中で死体で登場したカメーバを「突然変異」と言ってたけど、カメーバが登場した『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(1970)では宇宙からの流体生物が寄生したもの。それと、初めて地下鉄を用いたアクションシーンが登場するが、東京に網の目のように走る地下洞窟がゴジラによって踏み抜かれなかったとは…この辺、本当にどうでもいいことだからなあ。敗北した。 |
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ゴジラ×メカゴジラ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1954年、芹沢博士の開発したオキシジェン・デストロイヤーによって日本に上陸したゴジラは海の藻屑と消えた。そして1999年、同種のゴジラが再び日本に上陸した。政府により特設された対特殊生物防衛専門の“特生自衛隊”も敵わず、ゴジラは日本を蹂躙し、海へと帰っていった。総理大臣柘植(水野久美)は、再び戻って来るであろうゴジラに対抗するため、海底に眠るかつてのゴジラの骨を引き揚げ、それをベースとして対G兵器・機龍“メカゴジラ”開発を要請する。2003年、人工生物学者・湯原徳光(宅間伸)を中心とする科学者チームにより完成したメカゴジラ。そして、機龍の操縦士として、99年の戦いで仲間を失った特生自衛隊員・家城茜(釈由美子)が任命されるのだった。 最初にちょっと愚痴を。 本サイトを作り上げて一年半が経過した。それで閲覧者の意見を採り上げたり、掲示板に書かれている事柄に頷いてたりしてた内に、“特撮も大丈夫な映画好き”と理解していた自分自身が、いつの間にか“単なる特撮好き”にされてしまったような…ま、いいか(笑)これは話半分で聞いておいて欲しい。特撮が好きなのは事実だから(笑) で、いつの間にか周囲から“観る事が決められてしまった”本作だが(しつこい!)、何故か自然と情報が集まってきて、事前にかなりの前知識を入れる事が出来た。それで得た感触は、「かなり大きな疑念」だった。手塚昌明監督による一昨年の『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』はちょっと私には合わなかったし(今コメントを見直したけど、ちょっと酷評が過ぎたかな?)、主人公に釈由美子を起用し、その役柄を知るにつけ、どうしても一つ大きな疑問が持ち上がってきた。 手塚監督、実写版『エヴァンゲリオン』をやろうとしてないか? 『エヴァンゲリオン』については言うまでもないが、監督自身がかなりの特撮マニアで、平成『ガメラ』シリーズの樋口慎二氏もスタッフとして入っているため、画面の構造そのものがかなり特撮を意識して作られていた。その意味では「特撮」→「エヴァ」という構図になっていたが、今度は全く逆に、「エヴァ」→「特撮」という具合に持ってくるんじゃないか?そんな疑念をどうしてもぬぐい去ることは出来なかった(決してそれは悪い訳じゃない。実写とアニメの変換の際、どう見せる事が一番格好良いかと言う点に限っては、本当に勉強になる事も多かった。でも本当にストーリーまで『エヴァンゲリオン』にしてしまったら怒るぞ)。 それで拝見。 確かに悪くない。前作の『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』よりはっきりと視覚要素は向上しているし、特撮とCGとの融合もかなり不自然無くまとめられている。人間ドラマはやはりちょっと間に合わせっぽいけど、釈由美子の魅力を出そうとしているのはよく分かる。細かい所は色々言いたい事はあるにせよ、全体を通してみる限り、駄目。とは言えない程度には良い。やはり思った通りエヴァからの引用が目に付くが、それも視覚的なものに留めようとしていた(やっぱり暴走か!と言うのはあったにせよ)。 今回4回目の登場となるメカゴジラだが、今回は今までのシリーズ中最高の動きを見せ、アタッチメントと言う形で装備される武装もなかなか格好良いし、最後はそれらの武装を捨て、怪獣同士のどつき合いにしたのも良し。やっぱり怪獣同士の戦いだったら、『キングコング対ゴジラ』(1962)以来の伝統に従って、どつき合わなきゃ。 その辺は上手くまとめてくれた感じだし、平均点は充分に上げられるんだけど、それ以上、プラスαが何にも無かったのがちょっと不満。怪獣ものは手堅くまとめようとすると、どうしてもこぢんまりしてしまうと言う良い例だろう。メカゴジラは意思があると言う設定が、暴走しただけで終わってしまったのは残念。 キャラは往年の特撮ファンにとっては感涙ものの水野久美が女性首相役で出てきているので、分かる人は感激できるし、釈由美子も抑えた演技ながら、ちゃんとキャラが立っていた。それだけで充分とも言えるだろう。 昨年の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001)と較べるとぐっと対象年齢が低くなった感じだが、それは仕方ない事だろう。 恒例の(?)アラさがしを今回もちょっと。 東宝恒例の書き割り背景は今回も健在だが、かなりCGによりリアリティを増そうとしている…それは良いんだけど、所々背景の粒子がとても粗くなってしまい、つぶつぶが見えてしまうのが少々気になる(多分予算の関係)。 1954年の『ゴジラ』でのオキシジェン・デストロイヤーの威力は凄まじく、生物の骨まで解かしていたのだが(劇中でもゴジラの骨は全部消えてる)、骨だけはちゃんと残ってる。しかもそれから50年を過ぎた時点で崩れもせず、ほぼ全ての骨が揃ったまま海底に横たわってたってのは、随分無理がない? ゴジラの背びれが骨で出来ていたと言うのは今回初めて登場した設定だけど、そう言う設定だったら、背びれをグニャグニャ曲げるのは止めて欲しい。 最後のアブソリュート・ゼロ砲(このネーミングセンスは笑える)がゴジラを仕留められなかったのは、海の中に入ってしまったからだろうけど、パワーを溜めている時点で水の中に入ってしまったら、多分不稼働になってる。(気体と液体の違いはかなり大きい。水に入ったら、直後に放冷現象が起こり、分散化してしまう)。仮に発射が出来たとしても、ゴジラとメカゴジラの間で水自体が堅い皮膜になってしまうので、あの時点で発射したら、ほとんどのエネルギーがメカゴジラの方に返ってくる。 それでも子供に見せる分には充分な出来だとは思うよ。子供の声が気にならない人だったら、劇場で観るのも良し。 |
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ゴジラ×メガギラス G消滅作戦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1954年のゴジラによる東京襲撃により首都が大阪に移った日本。原子力に惹かれるゴジラを警戒し、クリーンなエネルギー開発を進めていたのだが、1996年に画期的なプラズマエネルギーが開発される。だが、それも又、ゴジラによって襲われてしまう。そして無敵のゴジラ襲来に備え開発されたブラックホール砲“ディメンション・タイド”が製作された。だがその実験後、時空の歪みから古代の巨大昆虫が現れ、卵を産み落とす。卵から孵化した古代生物メガヌロンは渋谷を水没させ、成虫のメガニューラに変態、日本に迫りつつあったゴジラと激突した! ゴジラの第三期シリーズの第2作目。現在3作までが作られているが、結果的に観るのは一番最後になってしまった。 ところで第二期の「平成ゴジラ」と第三期「ミレニアムゴジラ」(と勝手に命名)との違いとはどこにあるかと考えてみた。 先ずタイトル。第一期旧シリーズでは対戦する怪獣に『ゴジラ対〜』と付けていた。対する第二期では『ゴジラVS〜』で、この第三期は『ゴジラ×〜』となっているのが一応の特徴。 そして平成シリーズは基本的に旧シリーズは無いものとして、単独でゴジラシリーズを作っているのに対し(“基本的に”と言う言葉を用いたのは、『ゴジラVSデストロイア』(1995)だけは旧シリーズを引きずってるから)、第三期は第二期とは異なり、ゴジラの設定をかなり自由に用いていること。1作目の『ゴジラ2000 ミレニアム』(1999)でこそ全くその背景は不明だったものの(少なくとも前作『ゴジラVSデストロイア』の世界観を踏襲してないことだけは確か)、この2作目では明確に旧作の1作目の『ゴジラ』(1954)以外は無いものとして扱っている。ちなみに第3作の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001)では同じく旧作の『ゴジラ』とハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』(1998)のみが存在している世界観だから、多分このミレニアムゴジラシリーズはゴジラの設定そのものに拘らないことが了解事項なのだろう。 そう言う意味では本作は最初から設定を練り直して作られたものであり、更に新怪獣投入!と、なかなかの意欲作だった。新怪獣はメガヌロン→メガニューラーと変態する昆虫型生物で、更に巨大メガニューラーとしてメガギラスがいるという設定。メガニューラーが群をなしてゴジラを襲い、苦しめるシーンはなかなか楽しい。このシーン、『ガメxラ2 レギオン襲来』(1996)のレギオンにも似ているが、実際巨大怪獣に対し、最も有効なのは、むしろこういう攻撃なんじゃないか?と思わせた。いっそのこと、メガニューラーの大群とゴジラの戦いだけにしてくれた方が見応えがあったんじゃないかな?実際、巨大メガギラスとゴジラの戦いは退屈だったし。 以上が私なりに“良い”と思えた部分だが、さて、“悪い”と思えた部分をちょっと挙げてみよう。 まず、この作品は人間ドラマの方を主軸に持ってきている。それは良い。役者も良いところ揃えている。それなのにこの薄っぺらいドラマは何?時間をたっぷりかけてる分、悲しくなるほどステロタイプなドラマを延々見させられる羽目になった。メガヌロンを街に解放することになった少年も、良く登場するくせに存在感無し。個性を全く出してないので、ただ長々と存在してるだけ。冒頭のシーンで丼に電子レンジとマイクロマシーン(マイクロマシーンというのは本来あんなでっかくないんだけど)を組み込んだ大発明を子供が「な〜んだ」で済ますところも凄い。あれは画期的大発明だぞ。 メガギラスとゴジラの一対一の対決。多分緊迫感を持たせるためにわざとだろうけど、対峙シーンを長く取っているが、単に退屈なだけ。凶悪な顔つきしている割にメガギラスが全然強く見えない。残ったメガニューラーはどうなった?親分を助けようと思わないのか? それと凄まじいのが科学的考証。田中美里の乗る超戦闘機“グリフォン”は本来吸気口として使われると思しき部分から火を吐いて空に飛び立つし、慣性の法則を全く無視して高速飛行直後に空中静止できるし、数十秒で成層圏まで飛び上がることが出来る。ほとんどUFOだ。マイクロ・ブラックホールの設定は云々として、あんな重い兵器をどうやってあんな速く衛星軌道まで持っていける?日本以外の国からどれほどの苦情が出ると思ってる?それにどうやって衛星軌道上にあるあれをあんな簡単に落下させられる?(あそこまで高度があると、数日から数ヶ月かけてゆっくりゆっくり降下した後、一気に燃え尽きるもんだ)それに落下した際、ブラックホール砲の砲塔を下向きに固定したまま落下してる。地球は回転してるので、成層圏辺りは分子の動きが非常に活発だし、空気抵抗や偏西風の影響で回転しながら落下しないとおかしいぞ。スタッフの中に物理が出来る人間がどこにもいなかったのは間違いなかろう。それに直撃じゃないからと言って、重力のひずみそのものに耐えられるゴジラの肉体も不思議(ゴジラの肉体については次作『大怪獣総攻撃』の説明で納得できるけど)。設定で言うなら、武器のおかしさとか、時空の歪みとか、まだまだいくらでも出て来るぞ。 ラストシーンは完全に無駄。引きを作りたかったんだろうけど、結果的に平成シリーズと同じやり方になっただけ。ややゴジラの存在自体があやふやなものになってしまった感じはある。 結論。科学の力でゴジラを倒そうとしてはいけない。スタッフの馬鹿っぷりが目に付くだけで終わってしまう。 |
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