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2012 | 桐島、部活やめるってよ 監督・脚本 | |
2011 | ||
2010 | パーマネント野ばら 監督 | |
2009 | クヒオ大佐 監督・脚本 | |
2008 | ||
2007 | 腑抜けども、悲しみの愛を見せろ 監督・脚本 | |
2006 | ||
2005 | ||
2004 | ||
2003 | ||
2002 | SO-RUN MOVIE 監督・脚本 | |
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
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1969 | ||
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1966 | ||
1965 | ||
1964 | ||
1963 | 鹿児島で誕生 |
桐島、部活やめるってよ 2012 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2012日本アカデミー作品賞、監督賞、編集賞、新人俳優賞(橋本愛)、話題賞 2012キネマ旬報新人女優賞(橋本愛)、日本映画第2位 2012毎日映画コンクール日本映画優秀賞、監督賞 2012ヨコハマ映画祭第1位 |
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クヒオ大佐 2009 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009報知映画新人賞(満島ひかり) 2009ヨコハマ映画祭主演男優賞(堺雅人)、助演女優賞(安藤サクラ) |
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腑抜けども、悲しみの愛を見せろ 2007 | |||||||||||||||||||||||
2007ブルーリボン助演女優賞(永作博美) 2007日本映画批評家大賞助演女優賞(永作博美) 2007日本映画プロフェッショナル大賞新人監督賞、ベスト第8位 2007報知映画助演女優賞(永作博美) 2007キネマ旬報日本映画第10位 2007ヨコハマ映画祭新人監督賞、撮影賞、主演女優賞(佐藤江梨子)、助演男優賞(永瀬正敏)、助演女優賞(永作博美)、第4位 |
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「絶対に女優になる」と宣言し、石川の片田舎から東京へ出て行った澄伽(佐藤江梨子)が、両親の事故死をきっかけに帰ってきた。しかし葬儀が終わっても澄伽は実家に居座り、義兄の宍道(永瀬正敏)には女優再デビューの資金を作るように迫り、兄嫁の待子(永作博美)や実妹清深(津川愛美)をいびりながら、その間に東京の監督たちに手紙を出しまくる…周囲を振り回しつつ、着々と女優への再デビューに向け準備を進める澄伽だが… ラストに至るその瞬間まで一人の人間の身勝手に振り回される家族の様子をコミカルタッチで描いた作品。観ていてきついシーンが連発するが、それを持ち味にしてしまっているところが本作の味噌だろう。 コメディと一口に言っても、様々な笑いがある。古くはチャップリンやキートンのように、肉体を使ったドタバタ喜劇。パントマイム的な視覚に訴えるコメディから、軽快な会話中心の洒落の利いたコメディ、ウディ・アレンに代表されるシニカルコメディ、ファレリー兄弟による差別的な笑いを逆手に取ったコメディなど、実に様々。笑いは様々なところで生まれるものだ。 ただ、その中には時に本当にシャレにならないもので笑わせる作品もある。徹底的に人を不幸のどん底に叩き込みながら、それを笑ってしまおうと言うものである。このタイプの笑いはとても重くなる。笑わなければ雰囲気に耐えられないから笑うしかない。だけど笑ったと言う事実がなんか後ろめたくなる。非常に不健康な笑いだが、それだけにこの手のコメディは印象に残るものが多い。映画で見ると、結構見つかるものだが、日本では“重喜劇”という言葉を作り出した今村昌平の諸作品、大島渚の初期から中期作品、70年代に流行ったATG作品の多くも一種の喜劇として見ることが出来るだろう。『祭りの準備』なんてコメディと思って観ないと耐えられなくなってしまう。 人の不幸を笑うと言うのは、思えば実生活で一番よく用いられる話題の一つだろう。ゴシップ記事がすたれないのもそうだろうし、いじめ問題の一端も身近な人間を笑うことで自分のアイデンティティを保っている側面があるように思える。決して健康的な笑いではないが、人にはそう言った側面があることを忘れてはいけない。 本作をあくまでコメディとして観るのだったら、まさしくその部分を強調した笑いと見てしまって差支えなかろう。不健康極まりない笑いをそのまま戯画化してコメディにしてしまった感じである。だからこそ笑いの痛みってものを感じてしまう。 自分の価値観のみで生きている人間が、その行き方を貫くならば、必ず他人の人生に迷惑をかける。我慢する人間が一方的に虐げられ、虐げる側のたった一人を除けば、周囲はすべて不幸になる(なんか国際関係にも転用できそうな設定だ)。まあ、見ようによっては虐げる側も不幸といえば不幸な人間なんだが。 佐藤江梨子演じる澄伽は完全に自分中心に世界が回っていると思い込んでいる人間で、自分が不幸なのは全部周囲のせいにして、その償いを周囲に強いる。本作はそう言った人格障害の女性を中心に、それに振り回される家族が描かれていくわけだが、描写的にリアリティはなくても、こう言う人間はリアルに存在するから困ったもの(どれだけそう言う人間に振り回されてることやら…)。 これをコメディに出来るのは、澄伽の底が極めて浅いからで、どんな勝手をしていても、観ている側としては“怖い”よりも惨めに見えてしまうから。それを短的に示すのが、津川愛美が叫んだ「お姉ちゃんは面白すぎる」という一言。その浅さって奴を笑っていれば良い。それが出来れば本作はとても楽しくなる。 もう一方で、本作は一つ大きな命題を突き付けてもくる。即ち、逆境に叩き込まれた時、人はどのような反応を見せるか。 本当に人を知るには、そいつが逆境に陥ったときの反応を見ると分かるとも言われるが、本作で登場する4人の人物たちはそれぞれの方法で不幸に立ち向かう。兄の宍道はそれを自分自身の死という形で逃げた。澄伽は周囲の人に罪をかぶせることでアイデンティティを保つ。しかし本作の本当の見どころは妹の清深と兄嫁の待子の反応。清深は自分の不幸さえすべて客観視し、創作活動に転換できる力を持つ。一見いじめられているように見えても、実は全くの逆。姉に知られないように、姉を完全に笑いものにして、その怨念までも漫画の肥やしにしてしまった。こう言う人間はとにかく強い。そして最も恐るべきは待子の方で、このキャラはどんな状況に置かれても、ヘラヘラ笑うだけ。辛いとか言うレベルを超越してしまっていて、どんな逆境もものの数ではない。これが単に鈍いだけのキャラではないのは、嬉々として不気味な人形を作ってるシーンに現れている。自分の暗黒部分まけ出ていても全く気にせず、あらゆるものを平然と受け止める。はっきり言えば、こいつは化け物だ。一種のクリーチャー作品なんじゃないのかこれ? ものがものだけに上等の笑いとまでは行かないけど、ツボにはまれば見どころの多い作品といえるだろう。 |