トーキング・ヘッド

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Talking Head トーキング・ヘッド 1992

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押井守(脚)
千葉繁
石井とも子
野伏翔
立木文彦
ハント敬士
及川ヒロオ
兵頭まこ
真山恵衣
くじら
松山鷹志
三井善忠
藤木義勝
加藤雅也
伊崎寿克
佐々木菜摘
田中真弓
石原慎一
金子浩子
甲斐哲子
亀山俊彦
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 某アニメスタジオ。製作途中で何処かへと失踪した監督の穴を埋めるべく、大金を積まれてやってきた流れの演出家の「私」。しかし、スタジオの中は「私」に対する敵意で満ちていた。しかも「私」と映画について語った者達は皆謎の死を遂げる。連続殺人が行われるまま、続けられるアニメーションの制作。その中で「私」は失踪した監督と自分自身の類似に気付いていく。
Talking Head
 実は私は押井守作品の大ファンだが、それは誰よりも一番私に衝撃的な作品を与えてくれる監督から。最初に『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を観た時の衝撃が私を映画好きにしてくれたのだし、「御先祖様万々歳!」によって舞台芸術にも興味をわかさせてくれた。そしてこの
『Talking Head』。これは私にとって映画の観方そのものについて大きな衝撃を与えた作品。この作品を観る前と観た後で、明らかに私の映画の観方は変わった(変えられたと言うべきか)。映画の一歩引いた観方。つまり映画をパターンに区分けし、その意味を探るようになった、いわば邪道な映画の楽しみ方を教えてくれた…良かったんだか、悪かったんだか(笑)
 この作品は映画、そしてアニメの本質について、とことんまで語り尽くされている。それこそ歴史としての映画の始まりから、物語、キャラクター、音楽や音声、アニメにおける声優の役割、そして監督のあり方に至るまで、微に入り細に至り、押井監督の考えが延々と語られ続ける。ここまで「映画」そのものについて語った映画はそうは無かろう(強いて言えばフェリーニの『8 1/2』(1963)か。トリュフォーの『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973)くらいか?)。
 一応これは連続殺人事件の捜査を通し、主人公が自分探しをするという、何となく小説「ソフィーの世界」を思わせる構成を取っていて(考えてみればオチも似てたような…ちなみに「ソフィーの世界」よりこっちの方が先)、非常に哲学的、且つ難解。オチの部分でさえ初見では訳が分からなかったくらい。
 押井氏にとってこの前作が「御先祖様万々歳!」であったこともあってか、雰囲気は実に舞台風。約10メートル四方の方形の板を映画館の真ん中に置いて、物語の殆どがそこを舞台として行われる。なかなか凝った作りであり、キャラクターもなかなか楽しく仕上がっている。後に『エヴァンゲリオン』でブレイクすることになる立木文彦がゾンビ化したりとか…。「お客さん」役の兵藤まこは押井氏のお気に入り。『紅い眼鏡』とはまるで違った妖艶な雰囲気を醸していた。何でも『Avalon』でのゴースト役に難航していたとき、本気で彼女をポーランドに呼ぼうかとも考えていたらしい。それはそれで観てみたかった気もする。音楽面も川井憲次の魅力が溢れている。
 それで何度と無く繰り返して観ていると、だんだんだんだんと分かってきて、やがてそれが分かる頃には離れられなく
…って麻薬か!いずれにせよ、この作品で本気で押井作品に惚れ直したのは確か。この映画の影響、私にはあまりにも強すぎる。今レビューを書いていて、はっきりと認識した。

 ところでこの映画にもちょっとした裏話が存在する。何でも『機動警察パトレイバー 劇場版』で、押井守は売れる!と確信した製作会社が早速続編を要請したところ、既にパトレイバーに嫌気がさしていた押井にすぐに突っぱねられた。しかし再三再四の申し出に、ついに「俺が好きなように一本映画撮らせてくれたら、その話を受ける」と言ったところ、ぽんっと一本分の映画費用を出してくれたとか…パトレイバーの映画で1と2の間にちょっとした時間を置いたのはそれが理由。この作品がなければ傑作『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』は存在しなかったかも知れない。
 それで舞台は『紅い眼鏡』と同じく山形にある伊藤和典氏の実家の映画館。2週間ほど映画館閉めさせて、その間に撮りきった。映画館の前がえらく寂れているように見えるのは、実はそう言う理由があり、それこそが押井氏の求めているものだったわけだ。(ちなみにスタジオの名称「八百馬力」は宮崎駿氏に対する皮肉になっているのはお分かりの通り)
 
 池袋での単館上映で公開されたこの映画、当時静岡にいた私は新幹線に乗ってこの映画だけを観に来て、二日に分けて一回ずつ観た。懐かしい想い出だ。

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