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兵役に就いたが、軍隊が嫌でほとんど脱走兵同然で捕まり、営倉に入れられた過去がある。 | |||||||||||||||||||||||
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フランソワ・トリュフォー映画読本(書籍) _(書籍) |
1984 | 10'21 死去 | |
1983 | ||
1982 | 日曜日が待ち遠しい! 監督・脚本 | |
1981 | 隣の女 監督・製作・脚本 | |
1980 | 終電車 監督・製作・脚本 | |
1979 | ||
1978 | 逃げ去る恋 監督・製作・脚本 | |
緑色の部屋 監督・脚本・出演 | ||
1977 | 恋愛日記 監督・製作・脚本 | |
未知との遭遇 出演 | ||
1976 | トリュフォーの思春期 監督・製作・脚本 | |
1975 | アデルの恋の物語 監督・製作・脚本 | |
1974 | ||
1973 | 映画に愛をこめて アメリカの夜 監督・製作・脚本・出演 | |
1972 | 私のように美しい娘 監督・脚本 | |
1971 | 恋のエチュード 監督・脚本 | |
1970 | 家庭 監督・脚本 | |
1969 | 野性の少年 監督・脚本・出演 | |
暗くなるまでこの恋を 監督・脚本 | ||
1968 | 夜霧の恋人たち 監督・脚本 | |
黒衣の花嫁 監督・脚本 | ||
1967 | ||
1966 | 華氏451 監督・脚本 | |
彼女について私が知っている二、三の事柄 製作 | ||
1965 | ||
1964 | マタ・ハリ 脚本 | |
1963 | 柔らかい肌 監督・脚本 | |
1962 | 二十歳の恋 監督・脚本 | |
1961 | 突然炎のごとく 監督・脚本 | |
1960 | ピアニストを撃て 監督・脚本 | |
1959 | 大人は判ってくれない 監督・製作・脚本 | |
勝手にしやがれ 原案 | ||
1958 | あこがれ 監督 | |
1957 | 水の話/プチ・シネマ・バザール 監督 | |
1956 | 王手飛車取り 出演 | |
1955 | ||
1954 | ||
1953 | ||
1952 | ||
1951 | ||
1950 | ||
1949 | ||
1948 | ||
1947 | ||
1946 | ||
1945 | ||
1944 | ||
1943 | ||
1942 | ||
1941 | ||
1940 | ||
1939 | ||
1938 | ||
1937 | ||
1936 | ||
1935 | ||
1934 | ||
1933 | ||
1932 | 2'6 パリで誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||||||
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日曜日が待ち遠しい! 1983 | |||||||||||||||||||||||
1983英アカデミー外国語映画賞 | |||||||||||||||||||||||
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ヒッチコック・オマージュのオンパレードといった趣を持つ作品。 |
隣の女 1981 | |||||||||||||||||||||||
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『終電車』でヒットを飛ばしたトリュフォーが同年に監督。ファニー=アルダンの出世作となる。 |
終電車 1980 | |||||||||||||||||||||||
1980米アカデミー外国語映画賞 1980セザール作品賞、監督賞(トリュフォー)、主演男優賞(ドパルデュー)、主演女優賞(ドヌーブ)、脚本賞、音楽賞、撮影賞、音響賞、編集賞、美術賞 |
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第二次大戦中ナチ占領下のパリでは人々は夜間外出を禁止されていたが、同時にこの時代は映画館や劇場には活況を与えていた。モンマルトル劇場では看板女優で支配人代行のマリオン(ドヌーヴ)が新作舞台劇の演出を始めていた。実は彼女の夫で支配人であり演出家ルカ=シュタイナー(ベネント)はユダヤ人であるため、南米に逃亡しているのだ。そのルカが送ってきた戯曲『消えた女』を上演しようと、彼女は昼は様々なコネ作り。夜は舞台稽古と忙しい日々を送っているのだが、彼女には一つの秘密があった。実は南米に逃げたはずのルカは手違いで国外逃亡に失敗しており、地下室に隠れ住んでいたのだ。更にこの戯曲の主演であるベルナール(ドパルデュー)は裏でパルチザン勢力とつながっていた… 晩年に当たるトリュフォー監督が3年ぶりに発表した大作映画。フランスで大ヒットを記録し、すぐさま世界配信へとなった(米アカデミーでも外国語映画賞にノミネートされる)。そのヒットはそれまで不振にあえいでいたフランス映画界の起爆剤となり、フランス映画の復興が語られるようになる。更にこれまで無冠だったドヌーヴがセザール賞を受賞。名実共にフランス映画のトップスターとしての地位を固める。 事ある毎に書いているのだが、私はメロドラマが苦手。特に不倫ものとかは精神的な拒否感が否めない。 で、ある友人に向かってトリュフォー映画の面白さを話している内に、その友人から「お前は矛盾してないか?」と言われてしまった。その時初めてトリュフォー映画って、実はまさにそう言う不倫を扱ったメロドラマが多いと言うことに気付いた次第。では何故こういう主題でもトリュフォー作品は拒否感無しに観られるのだろうか? ちょっとそれを考えてみると、私自身はトリュフォー作品をメロドラマとは全く思ってない。と言う事に尽きるのだろうと思う(土台言われるまで気づかなかったくらいだから)。この人の描く主人公の姿はどこか何もかも突き放し、遠くからそれを眺めているようなタイプの人間ばかり。恋愛なんてどうせ永続的なものではないのだからと突き放して見ている。ところがその突き放しているはずの恋愛にのめり込んでしまい、そんな自分を自嘲的に笑っている。そんな感じ。これはトリュフォー自身を描いたというドワネルシリーズを観るとよく分かるけど、全ての作品にそのようなシニカルな笑いが込められてる。物語が恋の成就であろうと悲劇であろうと、やっぱりどこか醒めた目で自分自身を観ている視線があって、どんな人生であっても、突き放して見るとそれはどこか笑えるところがある。同じフランス人って事もあるが、バルザックの言う人間喜劇に通じるものがそこにはあるからじゃないだろうか…と、やっぱり自分を突き放して考えるとそう思える。 実際、自分自身を突き放して考えて、偉そうな事を言ってる私自身が一番滑稽な存在である事は私が知ってる。その波動が合ってるんじゃないだろうか? 本作は確かに大作映画で、時代性を取り入れたメロドラマと見られるかも知れないけど、本作の主役はなんだかんだ言ってもやっぱり隠れ住んでるルカにあるんじゃないだろうか。彼は表舞台に出る事は出来ないため、遠くから眺め、自分が出来る範囲で人間をコントロールしようとしているのだが、それが出来ない事をやっぱりよく分かっている人物。作品内では彼は狂言回し、コキュであるが、むしろだからこそ全てをよく知っている人間として描かれている。耳だけを頼りに集中して全てを観ているため、逆に細やかに人々の感情を掴んでいるのだ。彼を中心に考えると、本作は実にトリュフォーらしさに溢れてる作品と思える。そうすると、最後まで何を考えてるか分からないドヌーヴ演じるマリオンも、「分からないからこそ面白い」と思えてしまう(ドヌーヴは本当に色々な役がこなせるが、本作ほど全く何考えてるのか掴めない役はない)。ラストシーンは、まるでかつての『突然炎のごとく』のように、一人の女性に二人の男性の手が重なるというところで終わり、決着は付いてないのだよな。 こんな大作映画はトリュフォーらしくないという話も聞くけど、観方によっては、これほどトリュフォーらしい作品も無いし、恋愛作品と言うよりシニカルなコメディとして観る事が出来る。それが上手くはまったお陰で大好きな作品だ。舞台劇を上手く取り入れたケレン味たっぷりの演出も良し。これまで実験的な作品を作り続けてきたトリュフォーが、伝統的なフランス映画を舞台に、見事に自分自身の映画を作ったと言うことが何より素晴らしい。 …そういえばタイトルが『終電車』と言うくせに、劇中一切電車が出てこなかったな。 |
逃げ去る恋 1978 | |||||||||||||||||||||||
1979セザール音楽賞 | |||||||||||||||||||||||
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映画に愛をこめて アメリカの夜 1973 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
1973米アカデミー外国語映画賞 1973英アカデミー作品賞、助演女優賞(コルテーゼ)、監督賞(トリュフォー) 1973NY批評家協会作品賞、助演女優賞(コルテーゼ)、監督賞(トリュフォー) 1973全米批評家協会作品賞、助演女優賞(コルテーゼ)、監督賞(トリュフォー) 1974米アカデミー助演女優賞(コルテーゼ)、監督省(トリュフォー)、脚本賞 |
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ニースを舞台にフェラン監督(トリュフォー)による映画がクランク・インした。だが、現場では様々な問題が噴出する。妊娠が発覚した新人女優や、振られて自暴自棄になる主演男優、精神疾患を持つ主演女優、そして事故死してしまう助演男優…そのトラブルの中で映画が完成するまでを監督の苦悩とともに淡々と描く作品。 トリュフォー監督による、映画好きのためのプレゼント。ドキュメンタリーではないドキュメンタリーを大まじめに作ってしまった。これこそ映画の裏に秘められている真実だ。 映画が好きというのはいくつかの傾向があると思うのだが、私のような中途半端な批評家崩れは映画の裏側というのがとても興味がある。だが、勿論映画の関係者ではないので、それはどうしても憶測や伝聞でしか知ることが出来ないのだが、それをしっかり映してくれたのは感動もの。銀幕を離れれば役者もただの人に戻るのであり、その中で起こる人間的なトラブルからは逃れることは出来ないし、愛情だけでなく、金もそこには絡んでくる。 そしてそれを調整するのが監督の役割であり、それを良く知っている監督がまるで自分を風刺するかのようにこういう作品を作ってくれたのはとても嬉しい。劇中の台詞で「希望に溢れ撮影を始め、トラブルが起こるや、何とか完成とだけ思う」というのがあるが、トリュフォーほどの監督でもそれを感じるという事に新鮮な驚きを覚え、監督の苦労と言うものを垣間見た気分。そのトラブルを超え、評価される良き作品を作ることが出来る監督こそが本当に一流と呼ばれるのだろうな。それで役を演じるキャスト達も、素のような演技のような、微妙な役割を活き活きと演じていたし。 映画の舞台裏という事になると、似たような作品としてフェリーニの『8 1/2』(1963)があるけど、あれは“映画の裏側”と言う位置づけはあくまで付け足しで、れっきとしたドラマなんだから、質は全然違っている。それに、ここではまるで映画スタッフとキャスト、監督とが擬似的な家族関係にまでいっているのも興味深い。 本作は観ていてとても楽しい。それで充分だと思う。 尚、本作にはトリュフォー本人が“監督”役で登場しているが、これがスピルバーグの目に留まり、後の『未知との遭遇』(1977)で博士役として登場することになる。何が幸いになるか分からないね。 蛇足ながら。ヴァレンティナ・コルテーゼは翌年のアカデミー助演女優賞にノミネートされたが、受賞は『オリエント急行殺人事件』(1974)のイングリッド・バーグマンに取られてしまった。そのスピーチの席上でバーグマンは「オスカーは忘れっぽい人ですね」と、コルテーゼを称えるスピーチをしたそうだが、会衆席にいたコルテーゼはそれを受け、投げキッスを返し、「とんでもない。賞はあなたのものよ」と手を用いて答えたそうだ。アカデミー受賞式の感動的場面として語り継がれている。 |
私のように美しい娘 1972 | |||||||||||||||||||||||||||
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恋のエチュード 1971 | |||||||||||||||||||||||||||
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生涯二篇の小説しか書かなかったというロシェの小説の映画化。「突然炎のごとく」と共に、二本ともトリュフォーが映画化させた。 |
家庭 1970 | |||||||||||||||||||||||||||
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暗くなるまでこの恋を 1969 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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夜霧の恋人たち 1968 | |||||||||||||||||||||||||||
1968米アカデミー監督賞(トリュフォー) 1969全米批評家協会監督賞(トリュフォー) |
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黒衣の花嫁 1968 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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突然現れた謎の女によって次々と男達が殺されていく。その女ジュリー(モロー)の隠された過去とは?そして彼女の狙いとは? コーネル・ウールリッチ原作の同名小説の映画化。たまたまこれ昔読んだことがある小説だった。とても救われない物語だったことが強烈な印象として残った作品だった(フランスらしい杜撰な部分も含めて)。いや実際その小説のことは忘れていたし、タイトルも忘れていたが、この作品観始めた時に突然のデジャビュが起こり、「ひょっとしたら?」と思っていたら案の定知っている物語だった。この時の体験は非常に鮮烈で、完全に記憶の底にあった物語がシーン毎に思い出されていく。記憶って不思議なものだ。と思ったものだ。 それで記憶のすり合わせをしていくと、物語自体はやっぱり原作の方が上とは思う。あってほしかったエピソードがごっそり抜けていたり、犯人を特定する手法に違いがあって、かえって改悪になってるんじゃないか?と思われることも多々。そもそも物語もかなり無茶苦茶な感じ。推理作品としてであれば、失敗作と言っても過言ではない。 だけど、本作は推理ものとして観るべき作品ではなく、ひたすらジャンル・モローの際だった美しさを観るための作品と思って観ると、実に味わい深い。最後の瞬間まで唇を結び、全く感情を出さずに殺人を繰り返すその姿は見事の一言。そんな彼女が時に自分がしてしまったことを振り返って唇を震わせたり、最後の最後で自分のやって来たことが無意味だったと分かり脱力するシーン、そして最後に微かな笑みを見せるシーン。全て彼女の演技力に掛かっていた作品だった。 結局モローをどのように見るかで本作の評価が分かれることになる。彼女の演技力にはまれるなら評価は上がるし、そうでなければ駄目作品になる。トリュフォー作品にしてはちょっと落ちるなあ。 私としてはモローに対する思い入れはそれほど高くないので、この程度の点数となる。似たようなパターンでは『女囚701号 さそり』の梶芽衣子が良かったなあ。 |
華氏451 Fahrenheit 451 |
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1966英アカデミー女優賞(クリスティ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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本を読む事が禁じられている近未来。モンターグ(ウェルナー)は禁止されている書物の捜索と焼却にあたる有能な消防士だったが、既に妻リンダ(クリスティ)との間は冷え切っており、その分情熱を持って焚書の仕事に生きていた。だがある日クラリス(クリスティ2役)という女性と知り合い、禁止されている本について興味を持ち始める。だがそれは政府のやり方と、これまでの彼自身の生き方に真っ向から対立するものだった。 ブラッドベリ原作の映画化作品。トリュフォー監督の作品の中では異色作になるんだろうけど、監督の美的感覚が遺憾なく発揮されている。ラストの雪の降る林を徘徊するシーンが印象的だが、それ以外にも様々なシーンで絵画的な構図を使い、全般的に非常に美しい作品に仕上がっている。 画面をほどよく彩るSFチックな小物の使い方もさりげなくてかなり好感を持てる。近未来と言う設定だと都市部が用いられる事が多いが、田舎町を使ったのがなかなかの慧眼。人の生活そのものがそれ程変わっているわけではなく、多少便利な道具が増えただけと言うのがなかなかに心憎い演出(これを「しょぼい」と称することも出来るけど、日常的なアイテムだったらしょぼくて当たり前。さりげなく変わったものをさも当たり前に出す事がSF映画では大切だ)。目を惹くモノレールもなかなか使い方が良い。例の飛ぶ人たちに線がくっついてるが見えてしまうのはちょっといただけないものがあるけどね。ここでのトリュフォー監督のこだわりも凄く、本がないという設定のため、冒頭ではタイトルを含めて一切文字を出さず、全て音声で説明が入っているという凝りよう。 キャラクターを見ると、ウェルナー扮するモンターグは微妙な表情を上手く使っていた。最初の使命に燃える消防士として登場しながら、家に帰るとやりきれなさそうな表情に変わる。そして後半の本を得てからの自信に溢れた表情。最後の、まるで老成したかのような満足した表情。と、変化が実に見事だ。そしてその妻リンダと謎の女性クラリスの2役を演じたクリスティが好演を見せる。本作はSF的な設定よりも人間の表情の方をしっかり撮る事の方が重要だし、それに良くはまっていたと思う。さすがと言うべきか。 本作の肝は本というものを非常に前面に押し出したところだが、燃やされる本をじっくり見てるとなかなか味わい深い。『ロリータ』(1961)やら『地下鉄のザジ』(1960)やら、兎角映画化された作品が次々と燃やされるのは、何か大変勿体ないような、監督の遊び心が見えるような、複雑な思いがする。読書好きな私としては、結構胸がギューッと来るんだよな。思わず何の本だ?と身を乗り出してしまった。 そしてラストに登場するブックマンの存在感。これが又実に良い。思わず真剣に自分だったら何の本になろうかと考えてしまったよ。そこでも「私は「火星年代記」です」とか言うお遊びが出てるのも良し(言うまでもない事だが、原作者ブラッドベリの作品)。 この作品は他の映画とは異なり、画面サイズが1:2という特殊なもので、現時点ではこのサイズで放映されたのは本作のみとなっている。しかしそのためには上映館は特別なレンズを用意しなければならず、画面の調整も大変だったそうだ。 ところでブックマンの中で日本語で「他人の陰口になにかと聞き耳を立て…」とぶつぶつ言ってのがいたけど、あれは何の本なんだ? |
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柔らかい肌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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突然炎のごとく Jules et Jim |
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1962英アカデミー総合作品賞、国外女優賞(モロー) 1964キネマ旬報外国映画第2位 |
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オーストリア出身のジュール(ヴェルナー)はフランスの留学中ジム(セール)と友達になり、モンパルナスで二人で遊び歩いていたが、やがてカトリーヌ(モロー)という女性と知り合い、二人は彼女に夢中になった。先に彼女に結婚を申し込んだのはジュールの方で、パリの同じアパートに住むようになる。一方ジムは二人と友達づきあいをしつつ作家生活に入る。やがて第一次世界大戦が始まり… 生涯にたった二篇の小説しか書かなかったというアンリ・ピエール=ロシェの小説の映画化(もう一本が『恋のエチュード』で、これもトリュフォーが映画化)。原題は“Jules et Jim”で、ストレートに訳すると『ジュールとジム』。 本作はトリュフォーの長編監督の第三作にあたるが、この人の作品はここに至るまでの三作品を全く違った手法で作られているのが面白い。『大人は判ってくれない』では少年の目を通したシニカルな世界が。二作目の『ピアニストを撃て』では、全く異なったコミカルな逃走劇が。そして第三作の本作では三角関係に揺れる男女の生活が。全く異なる手法を用い、しかもそれぞれにトリュフォーらしさというのが出ているので、興味深い。本作は、これまでの二作とは異なり、観念的な物事よりも演技者に対する愛情に溢れた作りとなっているのが最大の特徴といえる。 本作を作り上げたのは、ジャンヌ・モローと監督が出会ったのが最大の原因だろう。モローはぱっと見、そんなに花がある女優じゃなかったのだが、そのバローの中にトリュフォーは自由さを見いだしたのかもしれない。だからここでバローが演じた女性はトリュフォーにとっては理想の女性像そのものだったといえるし、それを受けたバローも自由闊達に、性格のややきつめの女性を活き活きと演じることが出来た。本作の完成度は監督の思いと女優の才能が見事に噛み合ったお陰だろう。こういう作品も確かに存在するのだな。結局本作は、ジャンヌ・モローという女優のために作られ、ヴェルナーもセールも彼女を引き立たせるための存在だった。 先に「観念的ではない」と私は書いたが、正確には、本作も結構観念的な部分があるのだ。それらは全てバロー演じるカトリーヌの言行の中に表されている。小悪魔的で男を手玉に取るかのような姿であれ、何か変なことを言って男を困らせてみたり、突然橋から身を投げてみたり(このシーンの演出は実に素晴らしい)、かと思うと、男に頼り切ってみたり…女性のあらゆる部分がバローの中にはあるし、なぞめいた言葉もよく使う。ここが本作がトリュフォーの手によるものとよく分かる部分だ。 この手の恋愛ものはさほど好きとは言えない私だが、本作のテンポの良さと、どんな状態になってもどこかに笑いを入れようという心意気は充分に受け取ることが出来た…と言うか、トリュフォー監督の素晴らしさを改めて感じさせてくれた。 それに、この時代のハリウッドでは到底出来ない素材を、フランスなら出来た。と言うことをもよく示している。開放的なフランス映画だからこそ、トリュフォーはストレートに自分の思いをぶつけることが出来たのだろうし、バローも活き活きと演じることが出来たのだ。時代性をよく表した傑作だ。 |
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ピアニストを撃て Tirez sur le pianiste |
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パリのカフェでしがないピアニストとして働くシャルリー(アズナヴール)。全てを投げ出したような退廃的雰囲気を持つシャルリーだが、愛する幼い弟に対してだけは笑顔を見せていた。それで日々が過ぎていくのだが、店に一見してやくざ者と分かる男が乱入した時から、シャルリーの時は再び流れ出す。彼はシャルリーの弟シコ(レミ)であり、ギャングを裏切ってしまい、追われていたのだ。シャルリーに思いを寄せるカフェの従業員のレナ(デュボア)は、それを契機にシャルリーと急接近。シャルリーは彼女に、かつて自分はエドゥアル=サロヤンという国際的に有名なピアニストだったこと。誤って妻の自殺を止められなかったことなどを話すのだった… トリュフォーの監督長編第2作。デビュー作『大人は判ってくれない』(1959)で国際的な評価を受けるものの、全く違った作風で本作は作られている。 これは監督自身の狙いだったようで、固定化された評価を受けたくない事と、自分陣の映画の可能性、なかんづくヌーヴェル・ヴァーグの可能性を推し進めようとした結果だと思われる。 事実、本作は基調は重いし、バッドエンドなのに、どことなくすっとぼけたような人物描写や、ぬる~いアクション、時折笑わせようとする演出など、様々な意味でB級的要素に溢れた作品に仕上げられているのが特徴で、フィルム・ノワールの世界にヌーヴェル・ヴァーグの世界観を持ってきてしまったと言う感じ。今からすると、これは狙いだと分かるが、あまりの先鋭化に当時の観客は相当面食らったようである。 これもヌーヴェル・ヴァーグの特徴か、即興で撮ったとしか思えないシーンが目白押しで、最初の話から主題もどんどんずれていく。これもスラップスティックな楽しさと言えなくもないが、やはり映画はかちっとピースがはまってないとどうも落ち着かない感じ。コメディ性溢れるアクションも、ストーリーの重さとはしっくりいってない印象を受ける。 それでも、一作目と較べ、まるで違っているのにかかわらず、やはりこれがトリュフォーだと思わせる確立した演出は流石と言うべきで、私としても決して嫌いではない。カメラワークの緻密さと、編集の良さが光る作品だ。 ヌーヴェル・ヴァーを既存の映画作りに対する挑戦と考えるのならば、全ての作品は挑戦的な作品となるが、そう言う意味では本作も確かにヌーヴェル・ヴァーグの一本と言えるだろう。 なお、本作は評論家受けこそしたが、興行的には思わしくなく、失望したトリュフォーは以降こういう形での映画作りはしなくなったとか…まあ、この失敗を受けたからこそ翌年の次作『突然炎のごとく』(1961)が作られることになるのだから、本作の意義はちゃんとあるのだ。 |
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大人は判ってくれない Les quatre cents coups |
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1959米アカデミー脚本賞 1959カンヌ国際映画祭監督賞トリュフォー)、国際カトリック映画事務局賞(トリュフォー) 1959NY批評家協会外国映画賞 1960英アカデミー作品賞、新人賞(レオ) 1960キネマ旬報外国映画第5位 |
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規則に押し込めようとする学校にも、理解がなく、自分の考えを押しつけようとする親とも折り合いの悪く、いつもむかつきを抑えながら生活している12歳のアントワーヌ(レオー)は、ある日友達と一緒に学校をさぼり、一日遊び暮らした。しかしその後、教師から理由を問いただされた際、思わず「母が死んでしまいました」と答え… トリュフォー監督実質デビュー作にしてフランスのヌーヴェル・ヴァーグを代表する一本。 後年ヴェテランの冴えで映画作りをしていたトリュフォー監督も、初期の頃はゴダールと並ぶヌーヴェルヴァーグの雄とされてきた。それは本作を観るとそれもよく分かる。実はトリュフォー監督、こんなにゴツゴツした作品を作ってきたんだな(事実本作はヌーヴェル・ヴァーグを代表する一本に数えられている)。 ゴダールに代表されるヌーヴェルヴァーグの大きな特徴はリアリティにこだわらずに現実を描くことにあると私は思ってるが、トリュフォー監督の場合はもうちょっと違い、人間の繊細な感性をとことんまで追求するところにあったと思う。だからストーリーに起伏がないが、その分主人公の行動に表れる精神的なものはビリビリと伝わってくる。 本作は思春期の子供の苛つきが描かれているが、多く人はこういった苛つきを感じたことがあるのでは無かろうか?しかし、大抵の場合、それを抑えて学校ではよい子であり、その分、どこかで発散するような生活を送ってきたことだろう。その時代の精神は論理でははかれない。自分の感情の持っていき場所が分からないまま、子供のような行動を取ってみたり、大人的な背伸びをしたいと思ったり、大人はみんな汚いと思い、そこに行きたくないと思いつつ、それでも着実に大人になっていく身体を誇りに思ったり…とたいへん複雑だ。 それを衒いもなく、そのままトリュフォー監督は映画化してくれていた。 ここに登場するアントワーヌは常に苛ついている。大人に対し、社会に対し、そしてその裏返しとして自分自身に。その中で彼が求めているのはたった一つ。何からも自由であることだったはず。しかし社会生活を送る上で自由とは存在しない。 それは何も子供だけじゃない。金がなければ食べていけない大人だって…いや、大人の方が遙かに自由はない。 しかし、子供にはそれが分からない。彼らにとっては自分の世界が全てだから。だから分別や道徳など、お仕着せのものとしか思えないのが思春期の子供と言う奴だ。大人はみんなロボットか何かのように見え、自分を抑圧する人間味のない奴らばかり。真剣に何かをしたい。でも何をやっても中途半端で、結局一番なのは気晴らしになってしまう… …正直、これを観ていると、自分自身の決して恵まれてるとは思えない(と言うより自分ではそう思いこんでいた)思春期時代を抉られてるようで、何だかもの凄くイタイ作品になっていた。ラストの逃亡は一種の心象風景なのだろうが、傷ついたら海に行く。というのは日本でもフランスでも同じ感覚なのか、あるいは本作こそがその走りになったのかは分からない。ただし、海はそこが行き止まりと言うことを示しているのではないだろうか。その行き止まりに到達してしまったアントワーヌは、最後にカメラに向かって振り向いてみせる。彼はどこにも行けないことを悟ったとき、戻ってそこで自分を生きることを決断したのかもしれない。あの瞬間、彼は子供から大人に変わったのとも感じ取れる。 何でも本作はトリュフォー監督自身の自伝のようなものなのだそうだが、普通こういうのって大人になったら記憶の片隅に押し込んでしまって思い出したくもないはずなのに、トリュフォー監督はよくもこんなものを大人になっても持ち続けられたものだ。ほとほと感心する。 以降アントワーヌ少年のその後の人生は監督のライフワークとして1987年の『逃げる恋』まで5作品が作られる。 |
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あこがれ Les mistons |
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南仏の小さい村に住む5人の少年達は揃って年上の娘(ラフォン)に憧れていた。彼女の気を引こうと様々な軽い悪戯やパフォーマンスを行っていたが、そんなある日、その娘が恋人と抱き合っている姿を見てしまう。それでショックを受けた5人組が取った行動とは… 『大人は判ってくれない』で鮮烈な長編デビューを果たす前のトリュフォー監督の短編作品。この時代にこれを作れたという、その事実だけでとんでもない事だと思える。 この時代、ハリウッドが最も輝いていた時期に当たるのだが、ハリウッド映画はミュージカルや、大人の恋物語はお手の物とは言っても、人間の持つ複雑な感情をそのまま画面に出すという事はまるで出来てなかった。いやむしろ作り出された虚構こそが映画である。という意識に溢れていた。 ここで人間の心理を、飾ることなくそのまま画面に出す事が出来たのは、やはりフランス映画が映画史の先を行っていたという事実であろう。そしてそれをしっかりと映画化してくれたトリュフォー監督の実力を改めて知らされた感じである。 子供にとっての恋というのは、憧れから始まる。そしてその感情は、説明が付かない分過激化していき、時として全く逆方向に走ってしまい、イジメやいたずら、更に本当にシャレにならないものになっていたりするのだが、感情の持っていき方が分からない子供は、感情の爆発のあまり残酷なものになってしまう。誰にでもそれは覚えがあるだろう。18分という短い時間の中にトリュフォーはそのこどもなりの恋心を生のまま叩きつけてくれた。この時代でよくこんなもの作ることが出来たものだ。 それより本作で際だったのはエロチックさだろう。もやもやした感情をどうする事も出来ず、自分の理解出来る範囲で行動を示そうとした結果。それがあの自転車のサドルの香りを嗅ぐシーンに結実している。全く性的なものが無いのに、もの凄くエロチック。優等生ぶりを見せるハリウッドでは到底出来ないシーンをしっかり作ってくれた。それだけでも充分である。 元々トリュフォー監督のファンではあったが、これだけ鮮烈な作品が作れる人だと分かって、改めてファンで良かったと思えた作品。 |
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書籍 | ||||||||||||||||
著作・対談 | 評伝 | |||||||||||||||
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