立喰師列伝

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立喰師列伝 2006

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押井守(脚)
吉祥寺怪人
兵藤まこ
石川光久
川井憲次
河森正治
樋口真嗣
寺田克也
鈴木敏夫
品田冬樹
神山健治
山寺宏一
榊原良子
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 弁舌巧みに無銭飲食を繰り返し、飲食店主たちを震撼させる伝説の仕事師達。“立喰師”と呼ばれる彼らを通し、昭和という時代を描いた作品。終戦後の東京闇市に登場した謎の人物“月見の銀二”、学生運動華やかかりし東京の下町でゴトを繰り返した“ケツネコロッケのお銀”、東京オリンピックに湧く日本の片隅で日本各地に出現した“哭きの犬丸”、70年闘争の犠牲者となった“冷やしタヌキの政”、外食産業として急成長を遂げた予知野屋を解体させたという“牛丼の牛五郎”、同じく外食産業の花形ハンバーガー屋を潰した“ハンバーガーの哲”、遊園地に出没し、自らの存在を問い続ける“フランクフルトの辰”、数多くのカレー屋を混乱に陥れた“中辛のサブ”…彼らを通しての時代的考察を描く。
 押井守という監督はそもそもデビュー当時からこよなく“立喰”を愛し、自ら演出した数多くの作品に立喰師を登場させてきた。それこそデビュー当時のタツノコアニメ
『ヤッターマン』から始まり、少なくとも監督が手がけたアニメ作品のほとんどには登場する立喰師達。いわばこれは監督のライフ・ワークとも言える話で、事ある毎にこれを映画化するのが夢だ。と語っていたものだ。
 それがいつしか立喰師列伝という本になり、その映画化として本作があった。
 こういう経緯があるだけに、本作は完全なる監督の趣味として作られた作品で、これが許されるのは、大作作りを尻込みする監督に餌を撒いてやって、それできちんとした作品を作らせようと言う製作側の思惑があってこそ
(監督の『トーキング・ヘッド』(1992)『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』(1993)作ってもらうためにわざわざ作らせたという経緯がある。本作も明らかにその経緯にある)。ところがコアな押井ファンになると、大作よりもこういう趣味に溢れた作品の方を好むようになっていき、私としてはこれだけ監督に好き放題作ってもらえたというその事実だけでとても嬉しいこと。
 それに本作は映画としてはかなり型破りながらも、完成度が低い訳では決してない。監督の作りたいように、しかも実験的なものとして作ったとしても、充分に面白いものが出来るという…否、監督が作りたいように作ったからこそ面白いものが出来るという何よりの証拠となるだろう。
 尤も本作自体は監督自身が書いた原作の立喰師列伝をベースとし、実際はなんら本の内容から逸脱することはないのだが、目で字面を追うだけではなく、実際多くの資料的な映像を見せられることによって、その時代というものを改めて感じさせてくれるので、小説の映画化とはこういう事も一つの目的なのだ。と改めて感じさせられた次第…この作品を“観た”のなら、是非今度は“読んで”欲しい。映画ではわかりにくかったことがよく分かるだろうし、映画のビジュアル性の威力というものを改めて感じることが出来るだろう。
 本作は
“スーパー・ライブメーション”と銘打っている。これはこの作品のために作られた造語。基本的に物語は『ラ・ジュテ』(1962)のようなスチール写真の連続で物語を作り出しているのだが、それに動きを演出する方法だが、これはかつて『Avalon』(2001)で用いられた実写を素材にするやり方と『ミニパト』(2002)のペープサート方式を合わせたようなやり方で、かつて押井監督が言っていた「全ての映画はアニメになる」の実践の一つといえよう。自分の思いをただ映画にするだけでなく、しっかり実験的アニメーションとして作り上げたのも面白い。実際はこのやり方だと金があまり必要ないという経済的な意味もあったそうでこの方法だと素材となる人物は素人で構わず(実際ここでプロの役者は兵藤まこだけ)、しかも拘束時間が少ないので俳優に使う金を極限まで減らすことが出来、更に映画そのものは学生に任せてしまうという(次世代のトップアニメーターはこんな所から出てくるのかもしれない)…驚くほどの低予算で、しかもやりようによってはしっかりしたものが出来るので、(部分的には)これから新しい映画作りとして考えられていくかも知れない。

 …

 と、
当たり障りのない話はとりあえずとしておいて、さて、本作をどう称すべきか。
 以降私自身の妄想を描かせていただこう(当然ながら当人に確認を取っている訳ではないから本当に妄想に過ぎない。一ファンの押井守という人物に対する思い入れと思ってくれて構わないし、以降は読まなくても結構)。
 先ず何故監督が“立喰師”なるものを創造し、それをこんなに思い入れたっぷりに描くようになったのか。
 これは監督本人が「私の前世は犬だったに違いない」などと妄言を吐くことから分かるが、路傍に立ってメシを喰うのが好きだと言うことが挙げられるだろうが、それが何故か。と考えるに、これは私自身にもあることだが、世の中に対し、斜に構えることを自らに課した人間の行いであろうと思われる。
 人の群れに自らを投じることなく、更に「世界のため」と称しつつ、象牙の塔に籠もって自分のやりたいことだけをしているのでもない。これは社会と半歩ずれた所に自らを置くことで、社会を冷静に見ようとする姿勢である。これを何かの役に立てることなく、ただ自己満足のために行っているのが、結局は立喰師の姿であり、それこそが押井守という人物の理想の姿なのではないだろうかと思える。
 こういう生き方は、端から見ていると、何の意味も持たないように見えるし、人生を浪費しているかのようにさえ見えてしまうだろう。しかし、実はそう言われることこそ何よりも嬉しい人間というのが世の中には存在するものだ。
 押井守は映画監督として、特に日本におけるディジタルアニメーションの旗手としてすっかり有名になった感のある監督ではあり、そう言う面についてはいくらでも新しいアイディアを投入する人であっても、どこかにそう言うアウトサイダー的な立ち位置を必要としており、それを立喰師という理想的な姿として自らを投影したのが一つだろう。
 これだと、あくまでアウトサイダーとしての立喰師が描かれるだけで済んでしまうはずだった。立喰師の登場というのはそもそも監督の理想から生まれてきたものだと思うが、それがゲリラ的にアニメに挿入されていならば、単に謎の人物で、「又押井がやったな」とファンに言われる程度で済んだ。
 それが徐々に前面に出てきたのは、やはりここに一つの使命というか、役割を演じさせることによって、
時代を描くことが出来るのではないか?と思ったのではないだろうか?
 ここで描かれるそれぞれの時代は架空の街並みであると同時に、
昭和という時代に見事にコミットしている。その中で狂乱の時代をピックアップする事によって、現代という一時代を作るためにどういう事が行われていたか、そしてその中で何を日本は切り捨ててきたのか。それを街角の人物を描くことによって客観的に観ることが出来るのでは?これが押井監督の中に生まれてきた“新しい”立喰師の役割だったのだろう。
 監督の創造した立喰師というのは、その時代でなければ生きていけない人物ばかり。そのゴトぶりも、当時の世相に合わせて行われてきている。この時代だからこそ、こういうやり方を行える。逆に言えば、彼らの仕事ぶりこそが実は時代そのものを描いていることになる。それは決して表舞台には出ないハード面ではなく、もっとメンタルな、当時の人間の心象風景として。
 立喰師は店主のメンタルな部分に関わらねばメシを喰うことが出来ない。それは時として相手のノスタルジーや誇りを際だたせることによって、時に欲を刺激することによって、そして時にそれは自己破壊的願望によって…ここに描かれる立喰師こそが、実はその時代の“心”なのである。
 それが出来る!と踏んだからこそ、この作品が世に出せるようになった。
 ただしそれははっきり言って、負け犬の遠吠えである。これを知ったからと言って、時代が変わる訳でもなければ、これからどうすべきか。と言う所まで立ち入ることはない。そう、かつて監督が『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』で描いた、どうしようもない状況をどうしようもないとして描くやり方である。
 監督自身、本作をライフ・ワークとして位置づけている一方、これは世に出すべきではないと言う考えを常に持っていたと言っていたが、負け犬の遠吠えは人に聴かせるべきものではないもの。自分一人だけでそれは充分だという思いの両側面を持っていたからなのだろう。押井守という人物は常に歴史をドラマではなく、歴史をストーリーとして描こうとしている珍しい監督であることは確か。いつかそれが本当にぴったりはまった作品が作られることを願って止まない。
 その意味で、ここに登場する立喰師達は押井守の分身であり、その韜晦の歴史そのものでもある。一種の私小説として観ておくに値すると思う。
 それに、これは何人かで観ると良いと思う。後で話していく内に自分の事を喋るようになるだろうから(笑)

 あと、くだらない話だけど、殺された「冷やしタヌキの哲」と言い、殴られ蹴られ、転輪で踏みつぶされる「哭きの犬丸」であれ、こういう酷い目に遭うのは
決まってプロデューサーだってのは、やっぱり理由が?
真・女立喰師列伝 2007

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押井守
辻本貴則
神山健治
檜垣亮
湯浅弘章
神谷誠(脚)
ひし美ゆり子
吉祥寺怪人
鈴木敏夫
水野美紀
辻本一樹
川本淳市
安藤麻吹
神山健治
渡辺聡
藤田陽子
和田聰宏
若松武史 光男
小倉優子
池内万作
佐伯日菜子
兵藤まこ
内田夕夜
★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 1.金魚姫 鼈甲飴の有理(押井守):フリーカメラマン坂崎一は、縁日の飴細工の店ばかりを狙ったという伝説の女立喰師「鼈甲飴(ベッコウアメ)の有理」(ひし美ゆり子)を探しあてる。彼女の背中には金魚の入れ墨があると聞いており、是非その入れ墨を写真に写したいと申し出る。
 
2.荒野の弐挺拳銃 バーボンのミキ(辻本貴則):暴力が支配するアリゾナ州ジャップシティにふらりと現れた「バーボンのミキ」(水野美紀)。酒場に眠っている「幻のバーボン」を所望するが、その町は署長のフランコと配下の保安官のヒロによって牛耳られていた。この町は自動拳銃が禁止とミキに難癖を付けてくる二人に対し、ミキの取った行動とは。
 
3.Dandelion 学食のマブ(神山健治):かつて伝説の立喰師達との死闘で身も心も疲れ切った神山店長(神山健治)は、その心の傷も癒え、今はファミリーレストランの店長に収まっていた。そんな彼の前に現れたのは、大学時代神山を始めとするクラスメイト達から手練手管で昼食をおごらせる「学食のマブ」(安藤麻吹)だった。
 
4.草間のささやき 氷苺の玖実(湯浅弘章):今より30年以上も昔。広大な唐黍畑の中に玖実(藤田陽子)はいた。唐黍畑の中心にあるお堂で男の世話をしつつ、そこを通りかかる菓子屋を畑の中に誘い込み、商品を奪っていくという。そんな唐黍畑に迷い込んでしまった氷菓子売りの青年由起夫…
 
5.歌謡の天使 クレープのマミ(神谷誠):1985年の東京原宿。竹下通りにある売れないクレープ屋の前に一人の少女が立った。マミ(小倉優子)と名乗る少女は自分がアイドルの卵で、この店の宣伝をしてあげると称する。
 
6.ASSAULT GIRL ケンタッキーの日菜子(押井守):AD 2052。成層圏から巨大降下猟兵「FsJ87"Temjin"(天人)」で地球に降り立つ女大佐がいた。彼女はかつて「ケンタッキーの日菜子」(佐伯日菜子)と呼ばれた凄腕の女立喰師だったが、彼女が何故地上に降り立ったのか。そして彼女の見たものとは?
 押井守が創り出した架空の裏歴史『立喰師列伝』(2006)のスピンオフというか、続編的作品。5人の監督による6本のオムニバス短編映画。こういう仮想歴史は私は大好きだし、何せあの押井守監督作品。当然劇場に向かう。
 流石にツレの人間はげんなりしていたようだが、私には
これ充分OK!いや、こういうのって良いじゃない。まあ、確かにオムニバス作品だけに出来の善し悪しはあるけど、どれも「立喰師」というキーワードで括られるものばかり。全員本気で押井の悪ふざけにどっぷり漬かってやろう!という立場や良し。
 尤も、出来を一つ一つ検証していけば、映画として成り立っているのは4話の湯浅弘章作品くらいで、
後はテレビレベルか、それ以下のものばかり。5話が一応日本のTVを通しての裏歴史になっていて、本来の『立喰師列伝』の系譜を引きずっていて面白いくらいか?
 肝心の押井作品は1話は完全に自分の作風を捨て去り、先日亡くなった実装時昭雄監督っぽいものになってしまった。押井監督自身実装時監督のファンで、特に「ウルトラセブン」が好きというので、アンヌ隊員役のひし美ゆり子を得て、敢えてそれっぽく作ったのだろう。いつの間にか押井監督も起用になったもんだけど、画面そのものがまさに実相寺だから、ちょっとやりすぎの感はあり。最終6話は押井監督が前に作ろうとしていた
『G.R.M』という作品の一エピソードと言った雰囲気。ある意味では両方パロディ的作品になってしまった…とはいえ、こう言うのもありなんじゃない?力を入れずに作っているのが、かえって新鮮。
 ところで“押井守らしさ”と言うことを考えてみると、本作では押井守のこれまでの“押井守らしさ”というのが思い切り後退しているのが最も印象深い点だろう。前々作である『イノセンス』(2004)でも感じられたのだが、押井は明らかにこれまでの記号的キャラから血肉を持った人間を描こうとシフトしている。押井は変わって欲しくないというファン的立場から見るならば、それは我々に対する裏切りであり、私の「見たい」と思っている押井作品ではない。とは言える。しかし、これは実際はこれまでの押井作品で裏切られ続けてきた我々にとっては既知の出来事。その度毎に新しい驚きと場合によっては大きな失望。それらを受け入れることに馴れてしまった身には、これも充分。おそらく現時点で押井が得たものがここには投入されているのではなかろうか?
 まあ、そんなこんなで本気の次回作を楽しみに
(これが逃げと言われればそれまで)

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