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2012 | 009 RE:CYBORG 監督・脚本 | |
2011 | 攻殻機動隊 S.A.C. SOLID STATE SOCIETY 3D 監督・脚本 | |
2010 | Cyborg 009 The Reopening<OVA> 脚本 | |
2009 | 東のエデン 総集編 Air Communication 監督・脚本・編集 | |
東のエデン 劇場版 II Paradise Lost 監督・原作・脚本 | ||
東のエデン 劇場版 I The King of Eden 監督・原作・脚本 | ||
東のエデン<TV> 監督・絵コンテ・原作・脚本・シリーズ構成 | ||
2008 | ||
2007 | 真・女立喰師列伝 共同監督 | |
2006 | 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society 監督・脚本 | |
立喰師列伝 出演 | ||
精霊の守り人<TV> 監督 | ||
2005 | ||
2004 | 攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG<TV> 監督・シリーズ構成 | |
2003 | ||
2002 | 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX<TV> 監督・シリーズ構成 | |
2001 | ミニパト 監督 | |
2000 | BLOOD THE LAST VAMPIRE 脚本 | |
1999 | 人狼 JIN-ROH 演出 | |
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ジェノサイバー 虚界の魔獣<OVA> 美術監督 | |
1993 | THE 八犬伝 〜新章〜<OVA> 美術監督 | |
1992 | 三毛猫ホームズの幽霊城主<OVA> 美術監督 | |
1991 | BURN-UP バーンナップ<OVA> 美術監督 | |
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | ||
1969 | ||
1968 | ||
1967 | ||
1966 | 3'20 埼玉県で誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||
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009 RE:CYBORG 2012 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2013年。世界大都市の超高層ビルが次々と爆破テロで崩壊していった。調査の結果、彼らは一様に「彼からの言葉」と言っていることが分かる。そして日本に於いても、高校生島村ジョーは“彼”の言葉を聞き、ビル爆破を敢行しようとしていた。そんな時、現れた一人の女性と巨漢に襲われた彼は、自分が何者であるのかを悟る… 石ノ森(旧石森)章太郎が生み出した傑作マンガ「サイボーグ009」。むしろテレビアニメの方で有名になった作品だが、原作マンガは未完のまま。石ノ森はこの作品をライフワークと思っていたか、掲載史を次々に変えつつ脈々と続けられていたものだ。 最初こそ009はストレートなヒーロー作品として世に出てはいたのだが、時が経つに従い、徐々に変質していき、80年代に描かれた作品になるとあまりに哲学的内容になってしまい、私が読んでも「?」なものになっていった。掲載史が次々に変わったのも、結局はその作品の内容が読者の方に受け入れられなくなってしまったからだと思われる。 でもそういう作品だからこそマニアによって常に解釈され続けており、その意味では確かに名作たりえる作品だろう。 ここまで変化してしまったことについて一つ言えることは、「サイボーグ009」は当初の目的を時代の変遷に従ってあくまで貫いたからだと言えるだろう。 始まりは冷戦構造の中で“平和を作り出すヒーロー”として誕生した。当初はあまり深くは考えてなかったのかもしれないが、“正義”ではなく“平和”をテーマにしたところに問題があった。時代が変わるにつれ“平和”という言葉は多岐にわたるようになり、それに会わせるかのように物語も又複雑化していく。“平和”が多様化していくに従い、その目的である「“平和”とは何か?」という根元的なものに移行していったからだろう。 冷戦構造で東西の代理戦争が行われている中では、争いがない状態が平和であり、世界の人々が立場や思想を越えて仲良くしていくこと。ジョン・レノンのイマジンそのものの世界だった。だが徐々にそれは変質していく。80年代以降になると地球のキャパシティ問題が取りざたされるようになり、貧富の差は仕方ないと世界中の(いわゆる先進国の中では)統一見解になっていくと、目に見える形での“平和”は陳腐化され、009たちの活躍の場がとても制限されるようになってしまったのだ。だから80年代の009たちの活躍は現実の戦いを離れ、異世界や精神世界の中へと移行するようになっていった。 そしてこの当時の009の物語の訳の分からなさが実はそれ以降、なかなか作品を作りにくくさせていた(80年代のアニメ版及び劇場版は、変な意味でそれを表現しようとして上手くいかなかったし、これは最初から無理だったように思えてならない)。 この時代の009を前提としてでなければこの作品は語れない。 さて、それでもうちょっと脱線した話をさせていただこう。 本作は脚本及び監督を神山健治が務めてるが、本来脚本は神山が、監督は押井守が行うはずの作品だった。しかし神山が持ってきた脚本を読んだ押井は、「これはお前が監督すべきだ」と返したという逸話が残されている。だけど、あくまで推測ではあるが、そんな生やさしいものじゃなかったんじゃなかっただろうか? この作品を観ていると思うことだが、この作品の中には極めて多数の押井イズムというか、過去の押井作品へのオマージュが詰まっているように見える。例えばそれは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)の日常のループ世界であったり、『ダロス』のモニュメントであったり、『Avalon』の少女であったり、「セラフィム」(漫画)の天使の化石であったり、『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』の兵器描写や、テロ描写であったり。それこそ押井の過去作品からの引用が山ほど出てくる。先ほど書いたことだが、石ノ森の009に描かれていた哲学的部分を押井の思想で描いて見せたのだ。 こんな脚本書いた神山の気持ちも、こんな脚本見せられた押井の気持ちもなんとなく分かるような気がする。 神山は、これを大ファンの押井が監督してくれるから。という期待が高く、「どうです。僕はあなたの作品がこんなに好きなんです」という、一種のラブレターのような気持ちで差しだしたのではないだろうか?(これはあくまで私の妄想である。が、実際私が神山と同じ立場に立たされたら、全く同じことをしていただろうと思ってしまった) それに対し、押井の方はどうだっただろう?過去の自分が作った作品の数々が、突然目の前に出されてしまい、しかもそれを書いた人がワクワクした顔つきで反応を待っていたとしたら… 作家というのは誰でもそうだろうが、過去の自分の作品を見せつけられることを好まない。特に良くも悪くも作風を意識して変化させ続けている押井にとって、過去の作品を見せつけられるのは拷問に近い。しかもそれを、失礼ながら中二病的なものとして書かれていたなら… そう考えると、押井が神山にこの脚本を返してしまったのは、むしろ突っ返したと考えた方がいいだろう。「こんなものが作れるか!」それが押井の本音ではなかったかと思われる。 …あくまで推測だが。 でも、そういう光景が目の前に現れてしまい、全編を通してもうニヤニヤ笑いが止まらない。「ああ、これじゃ押井も嫌がるわ」とか、「本気でこれ押井に作らせるつもりだった?」とか、物語以前に頭の中はツッコミの嵐。ある意味もの凄い楽しさを覚えて観ていた。 さて、それで肝心の物語についてだが、これは石ノ森章太郎の「009」と押井イズムの融合した作品として考えると理解しやすい。 かつて押井は『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』で日本人が謳歌している平和が、実はほとんど妄想の産物であることを突きつけたのだが、それをもっと先鋭化してみせた作品といえる。かつて神山自らTVアニメ「攻殻機動隊SAC」で笑い男や個別の十一人を通して描いたものを、もっと押井的な味付けをしてみた。 『パトレイバー2』は既に20年前の作品である(書いていて驚いた)。その時代とは全く違った国際状況の中、同じテーマを国際的に描こうとしたのが本作となる。 理由不明の一般人による自爆テロが世界を覆う中、その理由を探る009たちサイボーグの活躍が描かれることになる。しかし話はどんどん脇道にそれ、ついには人類の遺伝的体質とか神とか出てくるようになって行ってしまった。ある意味とても壮大で、そしてとても小さな妄想の産物と言っても良い。 でもこれはおそらくは神山健治という人物が、答えの出ないテーマに対して、本当に真摯に向き合おうとした結果なのだろう。神山の作品が時に中途半端に終わったかのように見えたにせよ、それは、答えの出ないテーマを敢えて選んで自ら苦しんだ結果に他ならない。そのまっすぐな姿勢は評価して然りだろう。 少なくとも私はその点についてだけは大きく評価したいと思っている。 |
東のエデン 劇場版 II Paradise Lost 2009 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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東のエデン 劇場版 I The King of Eden 2009 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society 2006 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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西暦2034年。難民蜂起事件から2年が経過していた。 あの事件を機に草薙素子は公安9課を去り、荒巻はその代わり新人20名を増強して新生公安9課を立ち上げていた。そんな公安9課に、梵の刺青を入れた13人のテロリストの空港人質立てこもり事件が起こる。 志郎正宗による「攻殻機動隊」は、先に押井守によって『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)が作られた。これは日本のアニメを世界に大きく飛躍させる結果となった。それを受け、製作会社であるProductioni.g.は、この作品をベースとしたTVシリーズ「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」を作り上げた。その監督となった神山健治は、これを実に着実に死上げ、これ又日本を代表するアニメーションの一作に仕上げて見せた。 そしてそのTVシリーズを受け、神山監督が監督を引き受けることで作り上げられた作品。 ちなみに押井の『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』と「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」は並行世界を描いた話で、世界観は共通しているが、そこにいるキャラ。特に草薙素子という存在に大きな違いがある。具体的には“人形使い”と接触した世界が押井版であり、接触しなかった世界が神山版となっている。結果草薙素子が電脳の彼方に行ってしまった後の世界の話は押井によって『イノセンス』(2004)として映画化。神山は自ら作った「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の完結編として本作を作り上げることとなった。 押井版と神山版、どちらの「攻殻機動隊」にも共通するのは「引き算」によるものと考えられる。これは原作の持つ情報量が半端無い量となるため、新たな設定や物語を足すよりも、その情報量をいかにして落とすことで視聴者に理解できるようにしている訳だ。押井版は映画だからそれで良いが、神山版はTVシリーズなので、同じ物語を使う訳にはいかず、原作の膨大な設定に矛盾の無いような設定を作り上げて、原作に抵触しない形で物語を作り上げていた。原作にこれ以上ないほどの敬意を払いつつ、新たな物語を作り上げていた。これだけ丁寧に設定と物語を作った作品は全アニメーションの中でも希有な例でもあった。極めて優等生の作品作りと言って良い。 そして神山がその最後の作品に選んだのは、原点返りというか、本来この作品では存在しなかった“人形使い”を用いることだった。これによって二つの流れが出来た「攻殻機動隊」を一つの流れに戻そうとする神山監督の姿勢は大変好感の持てるものではあった。 この姿勢そのものは評価したいし、作品の質としてもかなり高い。 しかし、一方でこれが神山健治という監督の限界でもあったのか?という思いもちらほら。要するに、物語が噛み合ってないのだ。シンプルにすべき部分、複雑にすべき部分がすっきり腑に落ちないところが多々感じられてしまう。 これはおそらくは「船頭多くして船山に上る」という奴で、色々な人に意見を聞きつつ、その総合として作品を作ろうとした結果、ちぐはぐなものが出来てしまったのではないだろうか?そもそも物語からして単純なものなのに、それを演出と設定でわざわざ複雑にしてしまった部分があるし。 これはTVなら問題無かったのだ。20話以上に渡る話なので、メインライターを絞り、神山がそれをきちんとコントロール出来ていたから。しかしこれが映画になると、コントロールしきれなかった部分が出てしまったのではないかと思われる。 思いが大きかった分、そのコントロールが仕切れなかったのが問題か。 それでも充分面白いと言えば面白くもあるのだが… |
ミニパト 2001 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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様々なアニメ界の要因の重なりによって誕生したアニメーション。『パトレイバー』。そのパトレイバーにまつわる様々な設定や、裏話などを含めて、押井守が書き下ろした脚本を10分弱の掌編にまとめた3本の作品。 「吼えろ リボルバーカノン!」:ロボットアニメが持つ構造的な、それ故致命的な欠点。それは、先ずロボットありき。と言うこと。つまり設定段階の一番最初に来るのがロボットのデザインと、その携帯兵器だと言う事実である。当然その設定は後回しにならざるを得ない。つまりどういう事かというと、パトレイバーの持つ拳銃は、最初に設定も何もなしに、存在した。よって後になってから、その必要性、又は弾の構造などがようやく設定付けされる。この話は、要するにその後付けの設定をいかにリアリティづけるか、その涙ぐましい努力の成果である。当初20mmリボルバーカノンと呼ばれたハンドガンがいつの間にか37mmになっているとか(48mmはないとも言及されている)、ホロー・ポイント弾しか装備できないはずの巨大拳銃の弾に弾頭がついてるとか… 「あゝ 栄光の98式AV!」:ロボットアニメはデザインから入る。だが、“格好良さ”を追求するあまり、気が付いてみたらとても実用性の感じられないデザインになることが怏々として存在する。押井氏の考えたパトレイバーはそもそも“出動する度に必ず壊れるボロボロのレイバーを何とか稼働状態に持っていこうとする落ちこぼれ部隊と整備班の物語”だったのだが、そのデザインをヒーロー・ロボットしかデザインしてなかった出渕裕に頼んだところ、とんでもないデザインが出来てしまった。それを強引に物語に持って行かざるを得なかった監督の努力の話(これが出渕氏の言葉によると、全く逆で、押井氏からは「犬の顔をしたロボットをデザインしてくれ」としか言われておらず、スポンサーからはヒーロー・ロボットのデザインを求められたから、と言うことだが…)。 「特車二課の秘密!」:「警視庁の金食い虫」と言われ続けた特車隊が、何故に存在し続けることが出来るのか。資金面のリアリティという観点から『機動警察パトレイバー』を見た際、どのような物語が存在し得るか。その観点から物語の構造そのものを見つめ直す。 (以上、限りなく構造的にこの作品を捉えたレビューと思って頂きたい) 私が押井守に惹かれる訳、そして私自身が極めて理屈っぽくなった理由。その一端は間違いなく押井守というパーソナリティにこそある(これが「責任転嫁」と呼ばれることは自分自身、充分承知してるが)。大体このサイトが文字だらけ、蘊蓄だらけになってしまったこと、それは結局押井守という人物にリスペクトされ続けた事を公開すると言う目的を持って始めたという事実があるのだが… その内もう少しこれらのことについて語りたいと思ってる。 |