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樋口真嗣

樋口 真嗣
Wikipediaより
<A> <楽>
allcinema
検索
IMDb
WikipediaJ
WikipediaE
鑑賞本数 4 合計点 12.5 平均点 3.12
書籍
_(書籍)
2022 シン・ウルトラマン
2021
2020
2019
2018 荒神 特技監督
2017
2016 シン・ゴジラ 共同監督・特技監督
2015 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド 監督
進撃の巨人 ATTACK ON TITAN 監督
進撃の巨人 ATTACK ON TITAN 反撃の狼煙 総監督
2014
2013
キルラキル
<A> <楽> 絵コンテ
2012 巨神兵東京に現わる 監督・コンテ
宇宙戦艦ヤマト2199<TV> 絵コンテ
2011 のぼうの城 監督
トワノクオン 第三章 夢幻の連座 絵コンテ
2010 デスカッパ 出演
MM9
<A> <楽> 監督
パンティ&ストッキングwithガーターベルト<TV> コンテ
2009 アサルトガールズ 宣伝美術
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 イメージボード・コンテ
長髪大怪獣 ゲハラ 製作総指揮
2008 隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS 監督
2007 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 絵コンテ
2006 日本沈没 監督
トップをねらえ2!劇場版 絵コンテ
トップをねらえ!劇場版 絵コンテ・設定
立喰師列伝 出演
2005 ローレライ 監督
SHIROH タイトル
髑髏城の七人〜アオドクロ 映像
2004 NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE 絵コンテ
CASSHERN 絵コンテ
トップをねらえ2!<OVA> 絵コンテ
2003 ドラゴンヘッド 視覚効果デザイン
サブマリン707R<OVA> 予告編演出
2002 ミニモニ。THE(じゃ)ムービー お菓子な大冒険! 監督
ヴァンドレッド 激闘編 監督・編集
まんてん 満天 オープニングタイトル
2001 修羅雪姫 特技監督
ピストルオペラ 特撮
ヴァンドレッド 胎動篇<TV> 監督・責任編集・企画協力
2000 さくや 妖怪伝 特技監督
ヴァンドレッド<TV> 企画協力
1999 ガメラ3 邪神<イリス>覚醒 特技監督
1998 トップをねらえ!<OVA> 絵コンテ
1997 THE END OF EVANGELION  Air/まごころを、君に 作画監督・特技監督
1996 宇宙貨物船レムナント6 特技監督
ガメラ2 レギオン襲来 特技監督・デザイン
1995 ガメラ 大怪獣空中決戦 特技監督
1994 マクロスプラス<OVA> 絵コンテ
1993 ウルトラマンになりたかった男<TV> 特撮絵コンテ
ウルトラマンパワード<TV> スーパーバイザー
1992 未来の想い出 Last Christmas 特技監督
1991 1985 続・おたくのビデオ<OV> 絵コンテ
ミカドロイド 特技監督
妖獣大戦 特殊技術
1989 トップをねらえ! 設定・絵コンテ
ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の船 特撮演出
1987 王立宇宙軍 オネアミスの翼 助監督
1985 八岐之大蛇の逆襲 特撮
1965 9'22 東京で誕生

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シン・ウルトラマン
<A> <楽>
塚越隆行
市川南
庵野秀明
製作代表
山本英俊
企画
庵野秀明
臼井央
黒澤桂
和田倉和利
青木竹彦
西野智也
川島正規
山内章弘
森賢正
共同製作
松岡宏泰
緒方智幸
永竹正幸
原作監修
隠田雅浩(製)
庵野秀明(脚)
斎藤工
長澤まさみ
有岡大貴
早見あかり
田中哲司
西島秀俊
山本耕史
岩松了
嶋田久作
益岡徹
長塚圭史
山崎一
和田聰宏
高橋一生
山寺宏一
津田健次郎
★★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 突如日本だけに地中から巨大生物が現れるようになった。通常兵器では太刀打ち出来ないその生物は禍威獣と呼ばれるようになり、様々な形態の禍威獣が現れた。それらに対応するため、日本政府はスペシャリストを集結させ、禍威獣特設対策室専従班、通称“禍特対”を設立した。そして新たな禍威獣出現と共に出動するが、電気を吸っては周囲にまき散らす巨大禍威獣通称ネロンガを相手に、全く手が出せなかった。そんな時、空から光が落ち、そこから禍威獣と同サイズの人型の巨大生物が出現し、瞬く間にネロンガを退治して姿を消した。禍特対班長田村君男(西島秀俊)は、禍威獣以外にもウルトラマンと呼称されるその巨大人型生物の調査を始めることとなった。そんな時、ウルトラマン調査のため禍特対に分析官浅見弘子(長澤まさみ)が赴任し、隊員の神永新二(斎藤工)とバディを組むこととなる。秘密主義で打ち解けない神永にいらだちを感じる浅見だったが、そんな時に又新たな禍威獣が出現する。

 かつてオタクのアイコン的存在だった庵野秀明は、2010年代に入ってから新しいコンセプトとして「シン」を冠する作品をこれまで二作世に出した。一つは世界に認められる日本のアイコンともなっているゴジラをリブートした『シン・ゴジラ』(2016)であり、もう一つが、これも世界的に認められた大ヒットアニメの完結編『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2020)である。どちらも庵野秀明の思い入れがたっぷり詰まった好作だった。監督が本気で作ると、ここまでのものが出来るという実力を遺憾なく発揮した二作だった。この二作品で間違いなく庵野は日本のトップクリエイターとなったことを内外に広く認めさせた。
 この「シン」シリーズは四作が予定されており、本作『シン・ウルトラマン』は三作目に当たる。
 ただし庵野は企画脚本に回って、盟友である樋口真嗣に監督を任せた。
 樋口真嗣はある意味とても不遇な監督でもある。実力はあるのに、何故か作る作品がみんなぱっとせず、樋口監督を応援する人たちも、「またか」と思わされ続けていた。樋口監督の場合、脇に回って技術的なことや折衝などをやらせるときっちりやるのに、監督という責任のある立場はどうも苦手らしい。おそらく人が良すぎて他人の言うことを最大限叶えようとした結果、本来持つソリッドな演出が出来ないまま映画が完成してしまう結果を呼んだからだろうと思っている。それでも例えば『シン・ゴジラ』なんて樋口監督のサポート無しでは完成出来なかったというのだから、サポート役に徹すれば良い役割を果たす。
 それで今回は監督として表に出ているので、実は本作は観るのが少々怖い部分もあったのだが、初日にいそいそと観に行ってしまった。

 一見してからの感想を言おう。
 まず本作は色々細かいところで問題点はある作品だが、全体的には私は肯定する。パーセンテージで言えば、否定20%。肯定80%と行ったところか。でも否定の部分もちゃんと意味は受け止められるので、そこも含めて肯定しよう。

 ここからが本文になるが、あらかじめ言っておくとだいぶ長文になる。

 まずそもそもから「ウルトラマン」というコンテンツの映画にはいくつかの種類がある。
 一つには、その時テレビ放映していた作品を映画にするパターン。なんせリアルタイムで観ているウルトラマンを劇場で観られるので、確実な集客が望める。過去『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』(1998)から始まったこの手法は途中の休眠期間はあるものの、伝統的に続いている。今はこれがメインで作られている。
 二つ目に、似たパターンではあるが、ウルトラマンの集合としてのドラマを作るもの。旧作から新作まで登場したウルトラマン達が大挙して出演し、同じく大挙して現れる怪獣と戦うものとなる。最初に出したのが『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』(1974)で、それから長らく作られていなかったが、『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』(2006)で復活。このヒットによって以降は定期的に作られるようになった。この場合劇場オリジナルの新しいウルトラマンを出演させてウルトラマンゼロのように重要なキャラを作ったりもしているので、コンテンツとしては重要なものになっている。
 三つ目に、完全オリジナルのウルトラマンを突然劇場に投入する方法もある。これまでに『ウルトラマンゼアス』と『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』(2001)『ULTRAMAN』(2004)の三本が作られた。これらはこれまでテレビで登場したウルトラマンは登場しない(若しくはフィクションとして解釈されている世界)世界観の中の完全オリジナルで、劇場後に照れ秘シリーズが作られたことも共通している。ただし、これは当たり外れがとにかく激しいため、相当な賭けであり、かなりの覚悟が必要となる(実際にコケた『ULTRAMAN』は危うく円谷の身売りまでささやかれていたほど)。
 四つ目の方法として、テレビシリーズの再編集版というのもある。『ウルトラマン』(1979)『ウルトラマン物語』(1984)『ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団』(1984)の三作が作られているが、テレビの再編集版に少しの新作映像を入れれば済むため、コスパは良いものの、多用すると視聴者にそっぽ向かれてしまうため、多用は出来ない最終手段みたいな方法となる。

 さて、それで本作はどのパターンに入るのかというと、全く新しいパターンとして作られたものとなる。四つ目の方法に近い部分もあるものの、全てが新作映像なので、やはり当てはめることは出来ないだろう。
 本作の特徴。それはテレビシリーズ「ウルトラマン」のリメイクという点である。リブートであれば、毎年テレビシリーズでもやってるし、新解釈という意味でなら劇場版なら既に『ULTRAMAN』でやっている。だが本作はリブートではない。オリジナル版の「ウルトラマン」の再解釈である。ここにきて五つ目のパターンが作られることになった。
 リメイクと言うことであって本作は基本的に「ウルトラマン」の文脈に沿った物語展開をしているし、出てくる禍威獣(怪獣)や外星人(宇宙人)も「ウルトラマン」に登場したものばかりになってる。明らかに「ウルトラマン」の再解釈若しくは新解釈を目指している。

 しかし最も難しいものに手を突っ込んでしまったものだ。
 特撮オタクであればやってみたい夢ではある。しかしこれをやる場合、ほとんど全員、文章で行うだろう。「私はこう思う」というエクスキューズを付けて文章で開陳するなら、それを読む人は温かい目で見てくれるし、時として褒めてもくれる。
 だが、それを映像でやるのは暴挙である。
 映像とは同じ土俵であり、作ってしまったら多かれ少なかれオリジナルに傷を付ける。
 ウルトラマンはオリジナルのテレビシリーズの出来の良さもあるが、不出来な部分も含めて大変愛されている作品であり、その愛されているものに敢えて新しい解釈を加えるならば、旧来のファンの恨みを買うのは必至である(現にその発言はネットで結構大きくなってる)。これに手を突っ込む勇気にはまず最大限リスペクトしたい。

 では一体何をリメイクの肝にしたか。ここが重要になるのだが、それはこれまでのウルトラマンシリーズで、できるだけ見ようとしなかった部分。つまり、「何故ウルトラマンは人を守るか」という点である。
 ウルトラマンは神ではないが、かなり全能に近い高位次元的存在である。それが何故人間というちっぽけな存在を気に掛けて守ろうとするのか。これに関しては解釈では数多く見られている。前述のように文章であれば、可能性としていくつかの解釈は私も目にしている。でもこれは深く考えないようにしてることが多い。人間には分からない何らかの理由があるとか、ひたすら善意でという解釈で思考を止めてしまった方が良い。そもそも作り手自身が考えてないことの方が多いのだから。
 本作は敢えてそこを描写することで、ウルトラマンの行動様式に解釈を付けてみた。
 高位次元的存在にとって人類などは知能を持った動物のようなものだ。何もしないなら放っておいても良いが、もし宇宙の秩序に手を出すようならば、抹殺の対象となる。本作に登場するウルトラマン個体名リピアも、あくまで観察対象として人類を眺めるために地球に来ていたようだ(この辺は「ウルトラマン」ではなく「ウルトラセブン」の設定に近いし、ほぼ『天元突破グレンラガン』の設定と同じだ)
 ただ、リピアはその任務に彼なりの嫌気を感じていた。それは任務の退屈さではなく、人類とは距離を置いて、心情を理解しないように務める任務に、人類を害獣扱いして檻から出ようとしたら抹殺するという任務自体にストレスを感じていたのだろう。
 しかも人類は後に彼らウルトラマン達のような進化を遂げる可能性さえ持っていたことが暗示されており、そのような存在を抹殺することに相当なストレスを感じていたようだ。
 そしてリピアは禁断の方法。人類の一個体と融合することで、人類を理解しようと考えた。
 これによって人間の感情が入り込む。融合元の神永のパーソナリティを受け入れることで、深い人類愛を理解するようになった。
 本来冷徹に人類の危険性を観測する側が、人間と融合することで今度は人類を守ることを選択するようになる。高位次元的存在の特権的立場を捨てて、死の可能性を持つようになったとしても、それ以上の満足を得ている。
 この点が本作の再解釈のメインとなる部分。
 ウルトラマンが人類を守るのは、人類を守ろうと思う人の意思を取り込んで、それに共感したからということになる。しかしラストでゾーフィによってその方法は重大な犯罪である事が示されているので、地球人に肩入れするというのは、宇宙の秩序の面からするなら、最大級の裏切りである。言うなれば、檻に閉じ込めた害獣を愛してしまって、それを命を賭けて守ろうとするようになってしまったようなものだから。
 そう考えると、手っ取り早く人類抹殺を考えたザラブの方がむしろ宇宙の秩序を守る側に立っているし、人類に利用価値を付け加えて生き延びさせようとするメフィラスの方が遥かに現実主義である。
 リピア=ウルトラマンはそのような外星人の考えではなく、人類を愛するという純粋な愛情で地球を守ることを選択した。
 これがウルトラマンが人類を守る理由である。これまで触れてこなかった解釈をここでぶつけてきた。
 尤もこれは解釈としては新しいものではなく、西部劇では既に『シェーン』(1953)で使われているし、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)『アバター』(2009)などで多く使われているパターンだ。だが、それを明確にしたことによって、「ウルトラマン」のシリーズは完全に再解釈されてしまったことになる。

 これを書いている時点で劇場公開から一週間。初日の熱に浮かされたように褒めちぎっていた論調が徐々に薄れ、批判が上がってきている理由の一端は、これに危機感を覚える人が大変多いからだと思っている。

 その上で私はどうこれを感じているかというと、「全部受け入れる」に近い。良いじゃんその解釈で。
 尤もこれに関しては、劇中避難をかわす言動もあって、これを受け入れにくい人は、これは「マルチバースだから」と思うとダメージも軽減する。ウルトラマンの世界は「ウルトラギャラクシー大怪獣バトル」以降、並行世界の物語として全ての作品を一つの世界観で見るようになった。その一つの宇宙ではウルトラマンはこう言う解釈で存在するのだと思えば良い。
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関連
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wikipediaJ キネ旬 eiga.com WikipediaE みんシネ
進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド 2015
<A> <楽>
市川南
鈴木伸育
中村理一郎
原田知明
堀義貴
岩田天植
弓矢政法
高橋誠
松田陽三
宮田謙一
吉川英作
宮本直人
千代勝美
山内章弘
佐藤善宏
森賢正(製)
渡辺雄介
町山智浩(脚)
三浦春馬
長谷川博己
水原希子
本郷奏多
三浦貴大
桜庭ななみ
松尾諭
石原さとみ
ピエール瀧
國村隼
草なぎ剛
緒川たまき
KREVA
渡部秀
水崎綾女
武田梨奈
神尾佑
細貝圭
大沢ひかる
青柳尊哉
児玉拓郎
佐藤亮太
杉原枝利香
清野菜名
豊田茂
中山孟
山本啓之
荒川真
屋敷紘子
井口昇
笹野鈴々音
ジャスティス岩倉
原勇弥
三島ゆたか
デモ田中
笠原紳司
野村修一
川勝折れ木
八木さおり
犬童一心
上野耕路
★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
進撃の巨人 <A> <楽>
諫山創 (検索) <A> <楽>
小説 映画 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド浅倉冬至、渡辺 雄介、町山 智浩著
特撮事典
 虎の子の爆弾を失い、ウォール・マリアの封鎖作戦は失敗したかと思われた。だが残された調査兵団は壁のことよりも巨人に変化したエレンの弾劾の方を優先し、即席の戦時法廷によりエレンに死刑の判決を下す。ところが突然現れた謎の巨人によってエレンは連れ去られ、調査兵団も壊滅状態に陥ってしまう。残された者たちで、なんとか壁に向かおうとするのだが…
 この夏最大の話題作と言われた実写版
『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』だったが、前評判が凄かった割りに、実際に観た人達はほとんど口をつぐむという不思議な作品になってしまった。そんなことで、あれだけ騒がれた前編に比べ、ひっそりと公開されることになった後編。
 まあなんというか、一応後編を観てから評価を下そうと思ってはいたが、いざ書くとなると、何も書く気力が起きないという、なんだか本当に不思議な作品でもある。
 
「ああこうなったのね」「ああこういう決着付けるのね」「ああ終わったね」。基本的に本作はこれだけでもう全部言い尽くせてしまう。
 本来重要なはずの謎が全く謎になってなかったし、そのくせ肝心な説明は全部省いてしまう。
 物語に興奮できないのに
「どうだ!」と、どんでん返しっぽい演出やられても「ああそうですか」で終わってしまう。いろんな意味でツッコミどころは満載のくせにツッコミ入れる気力すら失わせてくれる。
 強いて言うなら、脚本には
『SW』以前に作られたSF映画に対する思い入れは感じ取れたが、その思い入れが悪い方向に出てしまったとは言え、掛け値なく「しょーもない作品」としか言いようがない。

 本作の場合、脚本だけがまずかったと言う言い訳は出来る。その脚本にせよ、これだけ様々なものを取り入れようとしたら破綻しても仕方ないし、その中で頑張った作品とも言えなくもない。
 巨人と人間の戦いとして、巨人による一方的な蹂躙と捕食。油断している人に襲いかかる絶望感。巨人を狙い撃ちする人類の知恵。巨人同士の戦い。絶望的状況でそれでも戦い続ける人類の意志。それらを全部入れてしまうと、演出面ばかりが先行してしまい、肝心な脚本を深めることが出来なかった。
 それを言い訳にすることは可能だ。

 そして、本来瞑ってはいけないことだが、それら全てに目を瞑り、特撮だけに焦点を当ててみたい。

 日本映画の一大ジャンルであり、世界に誇るべき重要なもの。特撮映画。故円谷英二らによって戦時中から工夫に工夫を重ね、様々な映画で積み重ねてきた特撮技術。日本映画を語る上で、これを外すわけにはいかない。
 だが、その技術の継承はもうほぼ廃れてしまった。なんせ後継者がいないのだ。これだけ技術と研鑽を重ねてきた特撮技術は、CGの発達によってあっという間に駆逐されてしまった。勿論無くなるわけではないが、最早これを専門にする人は数少なく、その弟子もいない。そんな中、樋口真嗣監督は日本特撮の未来を背負って立つ存在である。その自負もあってのことだろうが、本作は徹底して手作り特撮にこだわっている。
 巨人の造形はCGではなく、基本的に着ぐるみかメイクを施した人を用い、CGよりも光学合成を主体に一つ一つのシーンを工夫によって作っている。正直、それを観てるだけで本当に嬉しい気持ちにさせられる。一コマ一コマが技術の結晶であり、「一体どうやって撮ってるんだ?」とワクワクさせてくれるものを持っている。
 巨人同士の格闘は『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』のオマージュのみならず、いかにして新しい演出を作り上げるかを考え抜いたものだった。
 そして何より、人間と巨人の戦いは、その縮尺をどう使うかをしっかり考えて作られているのが素晴らしい。元来怪獣映画は同サイズの怪獣同士の戦いが主体で、人間は怪獣によって駆逐されるだけの存在でしかなかった。だから人間と怪獣が戦うシーンはなかなか難しいものがある。CGを使えば済むところを、敢えて手作り特撮にこだわり、巨人の巨大感と、それに立ち向かう人間の勇ましさを“特撮で”描いてくれたことを賞賛しよう。

 私は本作を全く評価する気もない。ただし、その
技術だけは愛おしく思う。その技術を以て、新しい『ゴジラ』に挑む樋口監督を応戦するだけだ。願わくば、ちゃんとした脚本の元で。
進撃の巨人 ATTACK ON TITAN 2015
<A> <楽>
中村理一郎
原田知明
堀義貴
岩田天植
弓矢政法
高橋誠
松田陽三
宮田謙一
吉川英作
宮本直人
千代勝美
山内章弘
佐藤善宏
森賢正(製)
渡辺雄介(脚)
三浦春馬
長谷川博己
水原希子
本郷奏多
三浦貴大
桜庭ななみ
松尾諭
渡部秀
水崎綾女
武田梨奈
石原さとみ
ピエール瀧
國村隼
神尾佑
KREVA
高橋みなみ
諏訪太朗
橋本じゅん
原知佐子
長島☆自演乙☆雄一郎
仁科貴
村木よし子
★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
進撃の巨人 <A> <楽>
諫山創 (検索) <A> <楽>
特撮事典
 かつて人類は、突如現れた人間を捕食する巨人達によって存続の危機に立たされた。やがて人類は三重の壁を築き、その中に引きこもることで巨人の脅威から逃れて約100年の時が経過した。壁の中では営々として人間の生活が続いていたが、そんな引きこもった生活に苛立ちを感じていた青年エレン(三浦春馬)は、幼なじみのミカサ(水原希子)とアルミン(本郷奏多)と共に壁を越える計画を話し合っていた。まさにその時、壁を壊して巨人が現れ、第一の壁の中を蹂躙し尽くした。それから2年後。生き残ったエレンとアルミンは、調査団へと入団し、壊された壁を修復する任務に就くこととなったのだが…
 諫山創によるコミック「進撃の巨人」は、そのハードな物語展開と、複合的に絡み合う謎が巧く噛み合ったものとなり、大変な人気を呼んだ。現在も連載中だが、スピンオフの漫画や小説も数多く出たし、テレビアニメや、そのアニメを再編集した劇場用アニメも既に公開。
 そんな中、ついに。と言った感じで、実写映画化と相成った。
 本作を単体の作品として観てる人はあまりいないだろう。本作は来年公開される東宝版『ゴジラ』復活作のプロローグとして、そして日本における特撮の新しい一歩として位置づけている人がほとんど。言い過ぎかも知れないが、本作はこれからの邦画の行く末を占うほどの大事な立ち位置にある作品と言える。
 それだけに、本作の力の入れようは公開前から伝わってきたし、これまでいくつもの作品を監督するも、全て微妙な出来に終わった樋口真嗣監督の本気作として、非常に期待が大きかった作品でもあった。
 思えば樋口監督は、かつていわゆる平成ガメラシリーズで「日本の特撮はここまでやれるんだ!」と、怪獣ファンの心を沸かせてくれ、以降特撮ファンからは、「お願いだから樋口監督に自由に撮らせてくれ」と心からの叫びがあげられていた。
 そして、そんな樋口監督が思いのままに作ってくれた作品として、本作は諸手を挙げてファンに迎え入れられる…
 …はず。だった。
 いや、私としてはあまり悪く言いたくはない。少なくとも演出に関しては決して悪いとは言えないし、飽きさせない工夫はちゃんとあったので、2時間の時間を楽しんで用いることは出来た。
 だけど、その「楽しみ方」が、ちょっと普通の映画とは違ってはいた。
 作ってる側は大まじめで、パニック映画を作ろうとしてるのだろうが、観てる側としては、この作品、怖さってのが全く見えてこない。
 「どうです怖いでしょう。気持ち悪いでしょう」と出されてくる巨人の捕食シーンもリアリティに欠ける(出来るだけ乾いた描写にしようと努力してるので、それは正しいのかも知れないけど)。これを言ってしまうと多分駄目なんだろうけど、これだったら『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966)のガイラの捕食シーンの方が何倍も怖かった。
 あと、とてもシリアスなはずの人間ドラマが見事なほどに全部外し、一々ツッコミ入れるのも馬鹿馬鹿しいほどで、ほぼ完璧なコメディと化している。
 正直、これが酷い映画とは思わない。でも悪趣味なコメディ映画にしかなってない。これを評価するのは気が引けるレベルだな。

 一応続編も観るつもりなので、そちらを観た時に全体的な総括はしていこう。
小説 映画 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド浅倉冬至、渡辺 雄介、町山 智浩著
小説 進撃の巨人 反撃の狼煙松田 朱夏、渡辺 雄介
巨神兵東京に現わる 劇場版 2012
<A> <楽>
庵野秀明
鈴木敏夫
スタジオジブリ
小林毅(製)
庵野秀明(脚)
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
特撮事典
 現代東京。ある避難の予兆もなく唐突に現れた巨大な人型。何のためらいもなく口から吐く光線によって東京はあっという間に壊滅する…
 『風の谷のナウシカ』(1984)に登場する巨神兵が現代東京に現れたら?というコンセプトをベースに、特撮のノウハウを駆使して作られたショートフィルム。元は庵野秀明と監督が企画した特撮博物館のために作られたものだが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)の公開に合わせ、リサイズされたものが劇場公開された。
 この作品、やはり特撮ファンとしては外すことが出来ないものとして、特撮博物館まで行って見に行ってきた訳だが
(その時に丁度足を怪我していて、ここまで行くのが本当に大変だった)、これを観るだけで往年の特撮ファンには感涙もの。特に特撮技術を知っていればいるほど、ここに使われているテクニックがどれだけ手の込んだ、そしてどれだけの苦労の上に作られているのかを知ることが出来るから。
 でも同時にこの作品は、とてももの悲しい。
 現在はCG技術が発達しており、CGで作るなら、手間も金もここまでかけずに作ることが出来る事は分かっている。そして作り手も又、その事を良く知っていて、今だから作れる、否今しか作る時がない、ちょっとした焦りのようなものも感じられてしまう。実際、この作品のメイキングを観たのだが、これだけの金を遣えて、最後の仕事が出来たと言う職人のインタビューが心に沁みた。
 これまで培ってきた特撮のテクニックと、おそらくはここでしか使うことの出来ない新しいテクニックを駆使し、東京という街を一度完膚無きまでに叩きつぶしたい。そんな思いがビンビンに伝わってきた。

 それには確かに特撮ファンとして大いに溜飲が下がるというか、頷ける部分なのだが、大きな問題が一つある。
 根本的にこの作品の脚本を庵野秀明に任せたのが問題だった。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』であれほどの屑っぷりを見せつけたそのまんまの感覚で物語ではなくポエムにしてしまったため、何というか、頭を抱えたくなるようなものになってしまった。まあいわゆる「中二病全開」そのまんま。これが残念。いっそモノローグなしでただ街を破壊するだけで充分だったのになあ。
隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS 2008
2008HIHOはくさい映画最低監督賞、最低主題歌賞(KREVA)
<A> <楽>
黒澤明
菊島隆三
小国英雄
橋本忍(脚)
松本潤
長澤まさみ
椎名桔平
宮川大輔
甲本雅裕
高嶋政宏
國村隼
KREVA
黒瀬真奈美
ピエール瀧
生瀬勝久
古田新太
上川隆也
阿部寛
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 戦国時代、秋月、早川、山名という隣接した3つの小国があった。秋月と早川は同盟を結び軍事国家である山名を牽制していた。しかし秋月が突然山名に攻め入られ城は陥落してしまう。しかし、莫大な秋月の軍資金は城から消えていた。その軍資金探しを強制させられていた金堀り師の武蔵(松本潤)と木こりの新八(宮川大輔)の二人は隙をみて逃走。ある河原で偶然にも秋月の隠し金を発見するのだった。だがそこに現われた六郎太(阿部寛)に捕らわれてしまう。この黄金を無事早川に届けたいという六郎太に半ば脅迫され、山名領を通って行くという奇策を考えつく武蔵。実は六郎太こそ秋月の武将であり、同行した弟というのが、秋月の姫である雪(長沢まさみ)だったのだ。彼らは姫と軍資金を無事早川に届けることが出来るだろうか?
 黒澤明監督の傑作時代劇
『隠し砦の三悪人』(1958)のリメイク作。オリジナル作は『スター・ウォーズ』(1977)にも影響を与えた作品として、国際的にも有名な作品。
 これまで版権を独占していた黒澤プロが外部に版権を売るようになって2年。テレビや映画で次々にかつての黒澤作品のリメイクが作られている。劇場版では昨年森田芳光監督によって公開された
『椿三十郎』があり、本作が劇場用としては第2作目になる。1作目の『椿三十郎』に関してはヴェテランの森田監督が実にそつなく…要するに極めて無難にまとめたが、どうにもその無難ぶりがちょっともの足りず。そして二作目の監督となったのが樋口真嗣。この名前が挙がった途端、本作は明らかに「物語を変えますよ」と言ってるようなもの。何せ『日本沈没』で原作やオリジナルからかけ離れた作品を作ってしまった監督だ。当然相当に変わることは予想の範囲内。結構楽しみ(知り合いがエキストラで出てるとのことなので、確認出来るかな?という思いもあったが)
 さて、それで拝見…いやはや。こりゃやりたい放題だな。オリジナル版の設定を受け継いでるのは確かだけど、基本路線を踏襲した以外は完全新規の作品。
 だからといってこれは悪くはない。
どういう風に作ってもオリジナルは越えられないってのが分かった上で作ってるんだから、折角だから思い切り遊んでやろう。という気持ちが画面のここそこから溢れてるし、色々インスパイアを受けてますよ。と言うことを敢えて隠そうとせずにやってるのも、逆にニヤニヤしてしまう。
 オリジナル版は六郎太(三船敏郎)を中心として、雪姫(上原美佐)を守りつつ、太平(千秋実)と又七(藤原釜足)を引き連れての行軍。この中で特に太平と又七は良い凸凹コンビとなっていて、それが
『スター・ウォーズ』におけるR2-D2とC3-POになった訳だが、本作は敢えてそれを踏まえて作られているように思える。ただし、キャスティングを変え、武蔵と新八は、ルークとハン・ソロ役に、六郎太をオビ・ワン役にして。オリジナル版をインスパイアして作られた『スター・ウォーズ』をパクって作ったとしか思えない内容。しかもそれを全く隠そうともしてない。ここまであっけらかんとやってしまえば、いっそ立派だし、思い切り遊んでるのもよく分かる。
 
『スター・ウォーズ』を思わせる演出はかなり徹底していて、画面画面では殊更ワイプを多用して、いかにも。と思わせるし、重低音の音楽と共に現れる椎名桔平演じる鷹山は、黒光りする甲冑を身に纏い、気に入らなければ味方でさえ斬り殺す。しかも彼のモチベーションは自分の顔に傷を付けた六郎太に対する復讐とまで、見事なダース・ベイダーぶりを見せる。とどめは勿論デス・スターならぬ隠し砦で爆発のタイムリミットの中での活劇。一旦裏切ったと見えた新八までもが、親友の危機には奇声をあげて助けに来るし、最後は砦の爆発をバックに騎馬で爆風の中から六郎太が現れるシーンまで再現、という徹底ぶり。オリジナル作品を真似するよりも『スター・ウォーズ』の方にここまで近づけているのは、むしろ立派だと言おう
 ここまでのパクリぶりを見せてはいるが、それをしっかり見せる努力も怠ってない。いくらCG多用と言っても、邦画でここまで派手な作品を作れる演出力は流石樋口監督。正直この作品だったらアクション作品として文句なしに海外に輸出も出来る。結局演出力によって本作の無茶ぶりは一本の映画に仕上がっているのだ。
 後、本作における生のシーンはかなり上手く作られてるのも特徴だろうか。勿論CGも多用はされてるが、人間が生で戦うシーンや、馬に乗るシーンなど、難しいシーンもかなり作り込まれ、古い特撮ファンには結構驚き。逆に言えば、現在の特撮ヒーローものは、これだけのことをこなしていると言うことでもあるんだが。TV特撮もある意味では進歩してるんだよ。いろんなところでマニアックな楽しみ方を散りばめてるのも樋口監督らしさだ。

 …だけど、一方肝心な物語とすれば…これが
『スター・ウォーズ』であることが分かってしまうと、途中からラストの展開は自ずと分かってしまうため、単に形式的な作業をこなしているだけになってしまい、ぶっちゃけた話、時間にして3/4は退屈極まりないだけの話だったりする。話が分かっちゃ、いくら派手にされても映画ではきつい。
 設定について…は言うだけ野暮だろう。どうやらこの世界は
一般的な封建制とはかけ離れたおとぎ話の世界なんだろうから。これは時代劇ではなくファンタジーと割り切る必要がある。オリジナル版ではあれだけ下からの視点が定まっていたのに、この作品ではポーズでしかない。封建制というものをを目上の人間が勝手に搾取して暴力を振るう世界と勘違いしてるのも致し方あるまい。これはファンタジーなんだから(ここはちょっと腹立ってるけど)。
 後、残念なのが長沢まさみがなあ…この人、こんなに和服が似合わないとは思わなんだ。馬子にも衣装とさえ言えないぎこちない着こなし方と言い、どっちかというと服を着ているって言うより服に着られてる。七五三の写真見てるみたい。
日本沈没 2006
2006文春きいちご賞第2位
2006アジア映画視覚効果賞
<A> <楽>
加藤正人(脚)
草なぎ剛
柴咲コウ
豊川悦司
大地真央
及川光博
福田麻由子
吉田日出子
柄本明
國村隼
石坂浩二
六平直政
手塚とおる
大倉孝二
花原照子
和久井映見
長山藍子
遠藤憲一
村杉蝉之介
加藤武
北村和夫
矢島健一
大口広司
石田太郎
並樹史朗
松尾貴史
ピエール瀧
佐藤江梨子
津田寛治
池田成志
木村多江
前田愛
山田辰夫
福井晴敏
安野モヨコ
庵野秀明
富野由悠季
丹波哲郎
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
日本沈没 <A> <楽>
小松左京 (検索) <A> <楽>
特撮事典
 日本に大規模地震が次々に起こっていた。沼津でその被害にあった潜水艇パイロットの小野寺俊夫と倉木美咲は一人のレスキュー隊員阿部玲子の命を賭けた救出によって助けられ、そこから縁が生じていつの間にか彼女の家に居候するようになった。その後小野寺は東都大学地震研究所の田所雄介博士の依頼で《わだつみ6500》で日本海溝へと潜るが、そこで驚愕の事実を目の当たりにする。田所によれば、今までの群発地震は単なる予兆に過ぎず、これから僅か1年後に日本は沈没するというのだ…
 小松左京原作の大ベストセラーの映画化作。1973年に守谷司郎監督によって『日本沈没』(1973)として既に一度映画化はされているが、本作はそのリメイクではない。
 いや少なくとも、監督の樋口真嗣の、ただのリメイクで終わらせるか!という希薄を感じさせてくれた作品ではあった。
 では1973年版とどこが違っているのかと言われると、1973年版では
“やれなかったこと/やらなかったこと”を拡大して作ったと言うことであり、もう一つは最初から世界配信を狙って作ったと言うことになるだろう。
 ところでつい先日樋口真嗣が特技監督をやったダイコンフィルム(現GAINAX)の自主制作作品
『八岐大蛇の逆襲』を約20年ぶりに観た。これは樋口真嗣が入ってなかったら多分ここまでのクォリティにはならなかっただろうという出来で、確かにこの時代から樋口監督の実力はよく分かる。細かい描写に凝るだけなら素人でも出来る。だがそのパーツパーツをまとめ、一本の作品にするには、並々ならぬバランス感覚と才能を必要とする。特に素人ばかりで作られたこのフィルムをここまでに仕上げたのはそのバランス感覚の賜物だ。後のガメラシリーズでもそのバランスは健在。やっぱり樋口真嗣が特技監督やってたからこそのクォリティ。この人は限られた予算と時間の中、最大限に良いものを作り出す、言わば職人的な腕を持った人だ。
 その樋口監督が『ローレライ』に続いて作り上げたのが本作で、確かにそのこだわりは感じられる。
 1973年版でやれなかったこと。何せ今から25年前の話である。
エフェクトに他ならない。特撮技術はあってもCG技術がないため、どれほど金をかけても描写にどうしても嘘くささが出てしまうし(私がそんなことを言って良いんだろうか?)、使用できる局面も限られる。よって1973年版の方は人間ドラマの方に重点を置かざるを得なかった。それをCGの多量導入によって各地の災害の描写は派手に、しかもリアリティを付けて描写できるようになり、迫力が格段に増した。更に度々日本列島の現在の状況を克明に映し出すことによって、刻々と日本が分断されていく様子が手に取るように分かるようになった。描写は極めて緻密且つマニアックさを感じさせてくれる。流石この辺は『ローレライ』での樋口監督らしさが出ていて大変よろしい。色々な意味で楽しめるように出来てるので、特に特撮ファンにはお勧めできる。
 それで1973年版で敢えてやらなかったこととは、あの作品は
日本という巨獣によって打ち砕かれる人間を描写することにあったため、個人的なドラマを敢えて描写しなかったと言うことなのだが、これも時間制限があり、原作にあった細かいエピソードは入れることが出来ない。としてばっさり切ってしまった。むしろ大局から見て、一人でも多くの人を国外脱出させることと、徐々に進行していく日本沈没の危機を受け入れ、それに対処することが主眼となっていた。そのお陰で目立ったのは丹波哲郎とか小林桂樹の方で、一応の主役である藤岡弘もいしだあゆみもほとんど狂言回しでしかなかったが、今回は男女や家族と言ったものを主眼に持ってきたということ。これは大きく原作からもはみ出ることになるが、1973年版と同じものにならないためには必要な措置であったのだろう。
 つまり、1973年版を踏まえ、本作は敢えてベクトルを逆に捉えたわけだ。1973年版は
描写はミニマムに、人間模様はマキシマムへと捉える傾向があったのに、本作は描写はマキシマムに、人間模様はミニマムへと捉えている。この改変は単に旧作に対する対抗措置と言うだけではなく、本作が世界配信を前提に作られていると言うことの証左でもあろう。大いなる危機に際し、人間の知恵で何とかしよう。というのは実にハリウッド好みだ。昨年公開され、世界的に結構評価された『デイ・アフター・トゥモロー』(2004)も同じベクトルだったし。
 と、言うことで私なりには本作の狙いも、それが正しい方向性であることも理解したつもりである。
 ただ、それは
原作からの乖離を引き起こしてしまった。そもそも原作は高度成長時代を迎えた日本という国に対するアンチテーゼと、どんどん豊かになっていく現状に対する居心地の悪さというものをストレートにぶつけた作品だった。今あなた方が頼りにしている日本は、こんなに脆いものであること。そして日本人が漂白の民となった時、そこに日本人としてのアイデンティティはあるのか?と言う問題を突きつけてきた。だからこそラストは悲劇でなければならなかったのだ。だが、敢えて本作ではそれを取らず、“一人の人間の犠牲”によって最後に希望を持たせる形へと変えている。物語としてはこれで良いんだけど、原作にあった肝心な思想そのものまで無くしてしまい、更にそれに代わるものを何一つ入れてない。それが大きな問題で、やはり原作好きな人間からすると、これは裏切り行為に思われても致し方ない。ラストが変わることで、全くテイストが変わってしまうわけだから。この辺は好みと言われればそれまでだけど、やっぱり原作ファンとしてはなあ。と言うところ。
 それと
致命的なのは力を入れたはずの人間ドラマ部分がどうにも陳腐に過ぎてしまったという点。これが本作における一番の問題ではなかろうか?
 草なぎ剛、柴崎コウ共に好演はしてるんだけど、何故か物語が薄っぺらい。この未曾有の危機にあって、二人の関係があまりにも淡々としすぎていて、人間ドラマのパートにはいると無茶苦茶退屈になってしまう。実際これだけ見所満載の作品で
2時間を待たずに飽きてしまったのは、ドラマの描かれ方の下手さだった。昨今流行りだした純愛路線を取ったにしては、あの状況下では浮きまくってる(大体「僕」と「あなた」だけの関係が世界の命運そのものを決めてしまうと言う作りは気持ち悪くてたまらない)。それに殊更下町の描写をやっておきながら、生活感のなさにも首を傾げる。それと特攻描写が大好きな私なのに、最後のミッションには全く感情移入できず。意外性も無ければ緊張感もない。音楽やらで盛り上げてはいても、逆にそれが白ける。一人気を吐いていた田所役の豊川悦司も何か浮きっぱなしって感じなんだよな。主人公二人に対し熱血過ぎというか、演技が空回りしてるというか…(これは私自身が原作の田所というキャラクタをもの凄く好きだからなんだろう。プロジェクト途中で自らスケープゴートとなって身を引く所も含め、ああいう科学者が私の理想だった。その理想とはかけ離れたヒーロー性溢れる役柄というのがなあ)。結局本作が評価できにくいのは原作に思い入れがあるからなんだろう。
 思うにこれ、実際の人間じゃなくてセルに描かれたキャラクタだったらそれなりに盛り上がったんじゃないだろうか?樋口監督がアニメ畑出身だけに、方法論的に全般的にアニメっぽいんだよな。

 後、関係ないことだが、いくつか思いついたこと
(いつものツッコミじゃないよ)
 この作品では全国津々浦々の破壊シーンが出てくる。日本各地に移り住んでる私としては、私がかつて住んでいたところが次々と破壊されていくのを見るのが凄く楽しかった(?)ものだが
(何せオープニングカットが今私が住んでるところだし)、何故か私の故郷だけは安全地帯に指定されてしまった。何でだか、あそこは破壊されにくいんだよな。これまでの怪獣作品でもあそこだけは何故か怪獣も避けて通ること多かったし…
 それと、レスキュー隊員の左腕に付けられてるワッペンには犬の絵が描かれている。レスキューだけに、当然あれはセントバーナードなんだろうけど、私にはどうしてもバセットに見えてしまった(『ローレライ』で樋口監督はB29の艦首に某監督からもらったバセットの絵を描いたという前歴があるし)。それに主人公二人を魚と鳥に記号化してたとえたのも、その辺の影響は強いものと思われる…スタッフロールを目を皿のようにして見たが、その某監督の名前は無かった。残念ながら(笑)
ローレライ
<A> <楽>
亀山千広
島谷能成
関一由
千草宗一郎
大月俊倫
臼井裕詞
市川南
甘木モリオ
山田健一(製)
鈴木智(脚)
役所広司
妻夫木聡
柳葉敏郎
香椎由宇
石黒賢
粟根まこと
塚本耕司
井上肇
近藤公園
KREVA
國村隼
佐藤隆太
ピエール瀧
小野武彦
ゴードン・ウェルズ
コルター・アリソン
タイロン・パワー・Jr
阿川佐和子
橋爪功
野口雅弘
大河内浩
佐藤佐吉
忍成修吾
江畑浩規
平賀雅臣
鶴見辰吾
伊武雅刀
上川隆也
堤真一
★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 1945年8月6日。広島に原爆が落とされたその日。絹見真一少佐(役所広司)は浅倉良橘大佐(堤真一)からドイツから極秘裏に接収した戦利潜水艦伊507を与えられ、これ以上の原爆投下を防ぐべく極秘作戦を命じられる。特殊兵器“ローレライ”を搭載する伊507に課せられた任務は、南太平洋上の原爆搭載機の発進基地を単独で奇襲することだった。その“ローレライ”が何であるかも教えられないまま、出航する伊507だったが…

 あらかじめ言っておくが、私はこの作品、大変に気に入った。ただし、映画単体としてではなく、樋口監督の狙いというか、作家性を感じることが出来たのと、邦画におけるメルクマールとして、この映画は位置づけられる作品だと感じることが出来たから。

 原作は未読ながら、かなり前評判が良く(押井守氏がデザイン参加してるって事もあるけど)、この春の期待度ナンバー・ワン作品だった。
 それで出来は…少なくとも、物語としてはバランス良くまとまってると思う。更に特撮には定評のある樋口監督だけに、演出面は文句なし。実物モデルを作ったと言うだけあって、潜水艦の巨大艦も充分に感じさせられたし、潜水艦内の狭苦しさもちゃんと再現していた。細部は大変細かく作り込まれてる。何より水の演出が凄く良かった。いわゆる樋口演出ってのを充分堪能できた。少なくとも、二時間ちょっとの時間をまるで飽きさせない事だけでも、充分特筆すべき事だ。
 ただ一方、リアリティという意味でこれを考えると…最早笑ってしまうしかないレベルで、こう言っちゃ悪いけど、『パール・ハーバー』(2001)並の無茶苦茶さ。
 物語は決して飽きさせはしないけど、大変薄っぺらく、ウェルメイドの物語に強引に様々な演出を加えただけ。はっきり言って途中からほとんど物語の展開が読める。潜水艦は細部の作り込みは大変素晴らしいが、そこにいる人間に生活臭がない。いくら汚らしく見せても、表面的で、臭さというものが感じられない。更にローレライの正体がパウラという少女だと分かった途端、主人公の一人妻夫木聡演じる折笠とのベタ甘なラブストーリーが展開される。機密のはずのローレライを浮上中の甲板に出して二人で海を見てるなんて、とても太平洋戦争中とは思えない演出。町を敢えて描写しなかった事もあるが、とても大戦末期とは思えないような演出風景ばかり。出てくる人間の大半は現在の価値観で動いてる。回想シーンの長崎の描写は、大戦後に建て直されたものばかり(これは仕方ない話か)。更にいくら優れたソナーシステムを搭載してるといっても、潮流やエンジンの調子によって、海の中では自由に動けないはずの潜水艦がまるで飛ぶかのように軽快に動き回り、爆雷でもみくちゃにされている中、平気で姿勢制御を保ったまま、的確に動く…あれは実はドイツじゃなくて地球外生命体が作った兵器だろ?
 それに、徹底した他の映画やアニメからの引用が、ここまでやるか?と思えるほどの量。潜水艦だけに『ふしぎの海のナディア』『海底二万哩』(1954)『U・ボート』(1981)の引用は当然にせよ、『エヴァンゲリオン』を始めとするガイナックス作品の流用が兎角目に付くし、他にも演出方法では宮崎駿的、押井守的、富野由悠季的演出のオンパレード。特に殉職シーンは『ボルケーノ』(1997)であったり、『ザンボット3』であったり、『天空の城ラピュタ』(1986)であったり、「女王陛下のユリシーズ」(書籍)であったり…実に分かりやすいネタを連発してくれてる。
 細部にこだわり、大きな所は結構いい加減。様々な引用。まさにこれはオタクが作った映画だ。元々が樋口監督自身、オタクと呼ばれることに何の抵抗も持ってない人だし、何の衒いも無く、そう言う作品を作っているというわけだ。
 それが悪いか?
 いや。全く逆だ。敢えて言うなら、この作品は、だからこそ良い
 最近になって色々オタク文化だとかなんだとかもてはやされる傾向にあるけど、映画の世界ではそれはなるだけ抑え気味に作られるのがほとんど。それを敢えて全開でやったと言うことは、そう言う作品が今や一般にも受け入れられる時代が来たのだ。と言うことを樋口監督が強く主張したのではないか?これこそ作家性という奴だ。実際、樋口監督はこういう形ではない、無難な作品も作れる人のはず。しかし敢えて自分のアイデンティティを全開にしてこんな風に作ってくれた。むしろここに新しい形での邦画の方向性を見た。
 それともう一つ。
 日本映画界は太平洋戦争に関しては、ほとんどの作品が消化できてない。“戦争は悪であり、悲惨である”という呪縛から今もなお逃れることが全然出来てない。これは規制の多いメディアの宿命とも言えるのだが、いわゆる仮想戦記を代表とする(そう言えばこの原作もそのカテゴリーに入るな)小説界ではそのような呪縛から既に抜け出ているというのに、映画界の歩みはあまりにも遅かった(かつての『独立愚連隊』(1959)を始めとする岡本喜八監督作品なんかは、戦争をちゃんとエンターテイメント化出来ていたのに、時代が下るに従い、逆に呪縛に捕らわれてしまった)
 ちょっと極端ではあったが、本作はしっかり戦争をエンターテイメントとして捉えていた。やっとここに来てそれを自由に作れるようになったか。としみじみと思えた。勿論戦争を否定する姿勢を貫くことは大切。だが、同時に過去のことをただ一括りに否定するだけであってはならないはず。
 本作が一般に受け入れられるか否かで、これからの日本映画界は随分変わっていくだろう。この新しい方向性が受け入れられるように願いたい。
製作年 2005
製作会社
ジャンル
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原作
終戦のローレライ <A> <楽>
福井晴敏 (検索) <A> <楽>
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