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ルキーノ・ヴィスコンティ ヴィスコンティを求めて ヴィスコンティのスター群像 ヴィスコンティ―評伝=ルキノ・ヴィスコンティの生涯と劇的想像力 ヴィスコンティ―壮麗なる虚無のイマージュ ヴィスコンティ〈2〉高貴なる錯乱のイマージュ ヴィスコンティとトーマス・マン―"ドイツ三部作"解析 ルキノ・ヴィスコンティの肖像 著作 ヴィスコンティ秀作集 1 アンジェロの朝 失われた時を求めて 若者のすべて ベニスに死す 熊座の淡き星影 山猫 地獄に堕ちた勇者ども 家族の肖像 郵便配達は二度ベルを鳴らす 夏の嵐 |
1976 | 3'17 死去 | |
1975 | イノセント 監督・脚本 | |
1974 | 家族の肖像 監督・脚本 | |
1973 | ||
1972 | ルードウィヒ 神々の黄昏 監督・脚本 | |
1971 | ベニスに死す 監督・製作・脚本 | |
1970 | Alla ricerca di Tadzio 監督 | |
1969 | 地獄に堕ちた勇者ども 監督・脚本 | |
1968 | ||
1967 | 異邦人 監督・脚本 | |
華やかな魔女たち 監督 | ||
1966 | ||
1965 | 熊座の淡き星影 監督・脚本 | |
1964 | ||
1963 | 山猫 監督・脚本 | |
1962 | ボッカチオ'70 監督・脚本 | |
1961 | ||
1960 | 若者のすべて 監督・原案・脚本 | |
1959 | ||
1958 | ||
1957 | 白夜 監督・脚本 | |
1956 | ||
1955 | ||
1954 | 夏の嵐 監督・脚本 | |
1953 | われら女性 監督 | |
1952 | ||
1951 | ベリッシマ 監督・脚本 | |
Appunti su un fatto di cronaca 監督 | ||
1950 | ||
1949 | ||
1948 | 揺れる大地 監督・原案・脚本 | |
La terra trema: Episodio del mare 音楽・出演 | ||
1947 | ||
1946 | ||
1945 | Giorni di gloria 監督 | |
1944 | ||
1943 | 郵便配達は二度ベルを鳴らす 監督・脚本 | |
1942 | ||
1941 | トスカ 協力監督・脚本 | |
1940 | ||
1939 | ||
1938 | ||
1937 | ||
1936 | ピクニック 助監督(ノンクレジット) | |
1935 | ジャン・ルノワールのトニ 助監督(ノンクレジット) | |
1934 | ||
1933 | ||
1932 | ||
1931 | ||
1930 | ||
1929 | ||
1928 | ||
1927 | ||
1926 | ||
1925 | ||
1924 | ||
1923 | ||
1922 | ||
1921 | ||
1920 | ||
1919 | ||
1918 | ||
1917 | ||
1916 | ||
1915 | ||
1914 | ||
1913 | ||
1912 | ||
1911 | ||
1910 | ||
1909 | ||
1908 | ||
1907 | ||
1906 | 11'2 ミラノで誕生 |
イノセント 1975 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ヴィスコンティ監督遺作。車いすの上から監督したという。 イノセントという題は殺された赤ん坊のことだが、主人公のエゴイストぶりの裏返しと見ることも出来る。彼は情欲を押さえることが出来ないが故にイノセント。 |
家族の肖像 1978 | |||||||||||||||||||||||||||
1978日本アカデミー外国作品賞 1978ブルーリボン外国作品賞 |
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ローマ市の豪邸に住む教授(ランカスター)は「家族の肖像」と呼ばれる家族の団欒図のコレクションに囲まれて孤独な生活を送っていた。ところがある日その静かな生活が破られる。かつて教授と関係のあったビアンカ(マンガーノ)という女性が勝手に家族を連れて彼の家に住み着いてしまうのだ。特に彼女の連れてきた美少年コンラッド(バーガー)には教授はイライラさせられっ放しだった。社会闘争の闘士として息巻くコンラッドだが、落ち着いて話してみると美術の造詣も深く、その不思議な魅力に引きつけられていく。そして社会闘争に否応なく巻き込まれていく教授… ヴィスコンティ監督晩年の作品で、『ルードウィヒ 神々の黄昏』撮影中に心臓病に倒れた監督が老いと死を意識し、自らの精神的な自画像を描いたとされるが、同時に古い価値観と新しい価値観のぶつかり合いを通し、古き良きヨーロッパ文化への哀惜と反省、そして行く末をも暗示した作品とも言われている。日本でも本作の上映によりヴィスコンティブームが起こる。 ヴィスコンティ作品の美しさは認めるものの、私はどうしてもこの耽美的描写が苦手で、本作も苦手な作品の筆頭ではある。しかし、やっぱり年齢を重ねてみると、徐々に評価していく傾向にある事に気づく。この作品を評価するには一定の年齢が必要なのかも知れない(勿論他のヴィスコンティ作品を観ていることも重要だろうけど)。 本作もその耽美性ばかりが鼻についていたのだが、いざ改めて本作を考えてみると、耽美性よりはむしろ“孤独”さが見えてくる。「家族の肖像」という絵画を買い続けるのが趣味の教授だが、本当に彼がほしかったのは、絵ではなく、本物の家族だったはず。たとえそれが暴力的な手段であっても、曲がりなりにもそれが与えられてしまった時の戸惑いこそが本作の主眼になっているとも考えられるだろう。 ただし、家族とは単に同居するものではない。お互いに近寄ることによって作られていくものだ。プライドが邪魔してそれが出来ない教授と、最初から彼を利用しようとだけ考えている一家とでは当然家族にはなり得ないのだが、芸術がそれを媒介する。特にバーガー演じる青年コンラッドの精神が教授と同じものを持っていることを知ることから、彼らは家族となり得る存在に変わっていった。たった一瞬ではあったが、彼らは本当に家族になったのだ。 …この時点で終わっていれば、心地良い作品で終わることが出来るのだが、流石というかヴィスコンティはそこで終わらせたりはしない。心の交流があったという事実を下敷きに、今度はそれが裏切りという形でバラバラにされるまでも描く。この辺が監督の悪意というか、ヴィスコンティのヴィスコンティらしさというか… そしてこの悪意を皮肉な目で見た社会に転換してしまうのもヴィスコンティらしさ。 本作の場合、老教授が古いヨーロッパ文明を表しており、青年コンラッドは若い時代のインテリの姿を描いているとも言われる。この二人の姿は古い貴族的価値観を持ちながらアナーキストとして生きてきたヴィスコンティという人物の両面を示していたのかも知れない。この引き裂かれるかのような生涯の中、そのどちらも権力によって挫折させられた彼の生涯そのものを垣間見ることも出来よう。この二人が意思を通じさせることは出来たのは、ヴィスコンティなりのけじめの付け方だったのかも知れない。 …何だか書いてる内に本作がちょっと好きになってきたぞ(笑) |
ルードヴィヒ 神々の黄昏 1972 | |||||||||||||||||||||||||||
1973米アカデミー衣装デザイン賞 | |||||||||||||||||||||||||||
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1864年に18歳でバイエルン国王となったのルードヴィヒ(バーガー)。繊細な心の持ち主のルードヴィヒは詩作や芸術を振興させ、同時に国民のために骨身を惜しまず働いていた。だがどれほど努力をしても、ワグナー(ハワード)を始めとする芸術家への国庫からの支出は膨大なものとなり、更に1866年のプロイセンとオーストリアによる兄弟戦争にも静観を決め込んだことから、国民から無能呼ばわりされるようになってしまう。やがて政治を放り出してしまうルードヴィヒ…そんな彼を支え続ける従姉の現オーストリア皇妃エリザベート(シュナイダー)や、その妹であり婚約者のソフィー(ぺトロヴァ)ら。“狂王”と言われたルードヴィヒ2世の生涯を描く大作。 最初から否定的なことを書くが、私はヴィスコンティ監督とはあまり相性が良くない。特に後期の耽美的描写はどうにも合わないところを感じてしまう。本作も同性愛者として知られるルードヴィヒ2世が主題とのことで、長らく観るのを遠慮していたのだが、一方ではこういった歴史大作が大好きでもあり。事実一旦観たら、これが見事にはまる。本当に面白かった。 ルードヴィヒ2世は“狂王”とも言われ、特に死の直前までの奇行はよく知られている。リヒャルト=ワーグナーに対する過剰な援助。中世騎士道の復興を目指して中世建築のままの華麗なノイシュヴァンシュタイン城(最もよく知られる城の一つで、ディズニーのシンボルマークもこれが参考にされている)を始めとする数々の城の建築。地下宮殿を建設し、昼夜逆転の生活。同性愛を公言。等々。 だがヴィスコンティ監督の考えるルードヴィヒ2世像とは、一般に言われる暴君ではなく、むしろ繊細すぎる精神を持ってしまったために、人々の中傷に耐えられず、余計に奇行に走ってしまう人物として描かれているのが特徴。繊細で傷つけられやすいがために過剰防衛を起こして人を傷つけるという、いわば天才肌の人物として描かれているのが特徴だろう。そう言えばエイゼンシュテインも『イワン雷帝』(1944)で雷帝を同じような性格として描いていたが、ルードヴィヒ2世とはイワンほどの開き直り方が出来なかった人物なんじゃないだろうか? 特に本作の場合、志し高く、真剣に国民のためを思って即位したはずが、現実に直面することであっけなく夢破れ、その現実に耐えられなくなっていくことを丁寧に丁寧に描くことで、いかにして“狂王”となるに至ったかを細かく描いてくれている。繊細だからこそ、人の小さな噂にも耐えられない(まるでネットで叩かれて引退してしまう現代人のようだ(笑))。ルードヴィヒ自身の同性愛傾向も、この作品では叶わぬ恋心が歪んだ形で出てきたって事になっているため、さほど拒否感を感じることも無し。むしろそう言った耽美的描写もルードヴィヒの孤独ぶりを示すために用いられているようだ。繊細なヘルムート=バーガーが実に映える。 しかし、本作の一番の売りはヴィスコンティらしい美術的センスに溢れているって事だろう。元より貴族出身で本物の芸術を知っているだけにヴィスコンティ監督の美的感覚は卓越したものがあるが、特に本作ではルードヴィヒ自身を芸術家に仕立てることによって、その美術的演出は特に映える。現代の目から見ると、一見成金か嫌味とさえ見える城の装飾品の数々。これがまるでルードヴィヒの歪んだ美意識によってなされたもののように見えてしまう不思議。本当に見事にはまっていた。最後の地下宮殿の描写など、不気味な美しさがあって、見事な映え具合。それだけ壮麗な雰囲気の中で退廃的な虚しさのみが残る。ヴィスコンティの独壇場か? ただ一つ残念なのは、この題材だったらイタリア人でなくドイツ人監督にやってほしかった。オーストリアが舞台なのに、全部イタリア語でやられてしまうとなあ。ところで本作の一舞台となっているのが普墺戦争なのだが、これは『夏の嵐』の舞台でもある。ヴィスコンティはこの時代のドイツに何らかの思い入れがあるんだろうか? 本作制作はヴィスコンティに大きなストレスを与えたらしく、撮影中に心臓病で倒れてしまい、この後2作しか作品を残すことは出来なかった。 |
ベニスに死す 1971 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1971米アカデミー衣装デザイン賞 1971英アカデミー撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、音響賞、作品賞、主演男優賞(ボガード)監督賞 1971カンヌ国際映画祭25年記念賞(ヴィスコンティ) 1971キネマ旬報外国映画第1位 |
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作曲活動に行き詰まり、ベニスに旅行に出掛けた作曲家アッセンバッハ(ボガード)は、そこで理想の「美」を発見する。季節風の影響で疫病が猛威を振るうベニスを舞台に、少年タジオ(アンドレセン)を求めてさまようアッセンバッハは… トーマス・マンの小説を映画化した作品で、いくつもの代表作を持つヴィスコンティ監督の代表作の一本。 非常に美しい作品。ベニスの美しさにマーラーの楽曲が重なる事により、画面効果は満点。原作では主人公は作家だったが、ここでは音楽家になっているのが特徴だが、何でもここでのボガードの姿はグスタフ・マーラーその人を表しているとか。マーラーの曲は結構好きなんだが…そうか。そう言う人だったのか。知らなかった(笑)。それを象徴するかのように劇中に流れる楽曲は全てマーラーによるもの。 確かに画面が美しく、カメラアングルも見事なのは認める。更に荒廃していくベニスの町並みを淡々と描くカメラワークも凄い。ただ、問題はとして私は耽美系作品がダメで、そう言う趣味の事を全く分からない私としては…やっぱりどうにも感情移入が出来ないなあ。 愛する片思いのタジオのために憔悴した顔を見せないようにと髪も染め、化粧までするボガード演じるアッセンバッハの涙ぐましい努力には、恋する男の愚かさを笑うと共に、寂しさも覚える。ボガードの一世一代の名演と言っても良いだろう。 本作の舞台は20世紀前半のヴェネツィアだが、ここでのペスト不安は第一次世界大戦が近づいていることに対する不安を示していると見ることもできよう。 |
地獄に堕ちた勇者ども 1969 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1969米アカデミー脚本賞 1970キネマ旬報外国映画第9位 |
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1933年。ドイツではナチスが政権を得、旧来の貴族たちの居心地が徐々に悪くなってきた。ルール地方の製鉄王で、政治的には上手く立ち回っているヨアヒム=フォン・エッセンベック男爵(ショーンハルス)一族の上にもいくつかの問題が生じてきた。ナチスを利用し、その地位を奪い取らんとする息子や甥たち。あるいは昔ながらの栄光にしがみつく者たち。激動の時代の中で翻弄される貴族達の、退廃の時間を描く。 1933年2月に起こった国会議事堂放火事件を題材に取り、ナチス政権と貴族の関係を、時代の流れと、時代に取り残された者達の対比を通して描いた作品。原題は“La Caduta degli Dei”。直訳すると『神々の崩壊』。 映画人はリベラリストが多いと言うが、その中で最もよく例に出されるのがヴィスコンティその人だろう。この人は貴族でありながら共産党員となり、映画でも初期は人民のためにという思いを持って作られた作品が多い。それも徐々に変わってきたが、例えば特権階級を揶揄したり、あるいは貴族の没落を描く作品を作り続けたのは、やはりヴィスコンティの中には反逆者精神が最後まで残っていたためなんだろう。勿論作品として、単に反逆から作られたのではなく、この作品を通して民族そのものの悲劇を描き出そうとした試みでもある。まるでシェイクスピア劇のようで、単にその時代を描くだけではなく、不変的なテーマさえ盛り込まれている。 『山猫』に続き本作はその傾向が非常に強く、貴族の生活が、徐々に高まってくる時代の変革によってプライドが削り取られていき、その退廃ぶりが赤裸々に描かれることになる。『山猫』の場合はまだ古き良き時代の健全さというものが残っていたが、本作においては健全さなど全くなく、近親憎悪と、家族の間でも利に走る人間の姿が、極めて毒々しい演出の中で演じられる。 少なくとも、本作はヴィスコンティ以外の誰にも作ることが出来ないのは確か。人間の低俗性を描ける監督もいるだろうし、色彩感覚に優れた監督もいる。耽美描写に長けた監督もいる。だが、それらを一緒くたにして、一本の映画として完成させる実力を持ったのはヴィスコンティ以外の誰もなしえない。ヴィスコンティ監督の唯一性というものをここまで表した作品はなかろう。 本作で服装倒錯者を演じたヘルムート・バーガーがブレイク。以降公私を通じてヴィスコンティのパートナーとなる。一種の記念となる作品。 |
熊座の淡き星影 Vaghe stelle dell'Orsa... |
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1965ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞(ヴィスコンティ)、チネマ・ヌオヴォ賞(ヴィスコンティ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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山猫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1963米アカデミー衣装デザイン賞 1963カンヌ国際映画祭パルム・ドール(ヴィスコンティ) |
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1860年イタリアはブルボン王朝から独立し、王朝を樹立した。時代の流れに新興の革命家達がのさばるシシリア島にあって、名門サリナ公爵(ランカスター)は、自らの去就を一人思っていた。そんな時、まるでこの風潮を象徴するかのように、公爵の甥で革命の闘志タンクレディ(ドロン)と村長の娘アンジェリカ(カルディナーレ)とが愛し合った末、結婚するという。そして大々的に結婚式が行われるのだった。 ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーザの小説を映画化。イタリア統一運動後の大きな社会変動を地方貴族を主人公に描いた話。 ヴィスコンティは時代によって画風を次々に変えていった監督で、ネオ・リアリスモから始まり、政治闘争の映画へ、それから耽美的描写へと。それぞれの時代それぞれの作風で多くのファンを獲得していったが、実は本当に面白い作品は、脂の乗った時期ではなくその転換期にこそある気がする。 本作は政治闘争劇から後年の耽美的作風に到るまでの移行期に当たる作品で、この退廃的雰囲気はこれまでのファンに激怒された一方、このあまりにも豪華で美しい描写には、ますます多くのファンを獲得するに到る。実際批評家からは「監督自身のためのメモリアル制作」とも言われたそうだけど。 実際この映像美は「素晴らしい」に尽きる。妥協ない描写が見事にすぱっと決まってる(完全主義者として知られるヴィスコンティは衣装のシャツを、納得のいく赤い色を出すために20回も染め直させたという)。なんと1時間以上に及ぶ舞踏会シーンは、それだけでしっかりと物語になっている。 そしてこれこそが「過渡期」と呼ばれる訳だが、これだけ豪華なパーティを、あくまで皮肉に見つめている公爵の目が面白い。革新的でありながら、退廃的でもある。この皮肉のこもった目こそがヴィスコンティの真骨頂と言えるだろう。没落していく貴族の生活の最後の輝きを克明に描くことで、自らのプライドを見せてくれた。 一方では、事件らしい事件が起きる訳でなく、物語は本当に淡々と過ぎていく。この雰囲気に浸ることこそが観ている側に求められることなんだろうね。 それだけにキャラの使い方が問われたが、特に舞踏会シーンでのランカスターとカルディナーレとのダンスシーンは圧巻である。本当に圧倒されてしまった。 それにしても貴族ってのは凄いなあ。家の中にはどこまで行っても部屋があるし、その中で空虚に笑いさざめく人の群れ…これを“綺麗”と見るか、“空虚”と見るか。ヴィスコンティが観客に突きつけているのがそこなのかも知れない。尚、機会があれば、本作は是非銀幕で観てみたいものだ。 |
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若者のすべて Rocco e i suoi fratelli |
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1960ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞(ヴィスコンティ)、国際映画評論家連盟賞(ヴィスコンティ) 1961英アカデミー作品賞(総合)、女優賞(国外)(ジラルド) |
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貧窮のため南部であえいでいたパロンディ家は、ミラノに出稼ぎに来ていた長兄ヴィンチェを頼って、老いた母と兄弟4人で列車に乗ってやって来た。兄弟達はそれぞれ職を見つけようと奮闘するが、田舎者に対して風当たりは強かった。ヴィンチェは婚約者ジネッタ(カルディナーレ)と共に新しい生活を始めようとしていたし、プロボクサーを目指していた次兄シモーネ(サルヴァトーリ)は娼婦ナディア(ジラルド)に夢中になってしまい、才能を生かさぬまま自滅の道をたどる。唯一母のために一生懸命働いていた三男のロッコ(ドロン)は徴兵に取られてしまう… ヴィスコンティ監督のフィルモグラフィは時代によっていくつかの系統があるが、初期のネオ・リアリスモ系統作品の最後の作品に当たるのが本作。ただヴィスコンティ監督作品の場合、一般に言われているネオ・リアリスモの作品とはやや方向性が異なる。『ベリッシマ』もそうだが、世間の風の中でやるせなさを描きつつ、それを家族愛を主軸としたドラマにしているのが特徴だろう。その中で時代の変化は家族のあり方も変えていく。ネオ・リアリスモが“今”を描く作品であるとするなら、ヴィスコンティ監督作品の場合、“過去”“現在”“未来”全てを包括している。そのためにネオ・リアリスモに特徴的なリアリティは犠牲となっているが、その分骨太な物語が構築されている。 この物語はかなり皮肉で悲惨な物語。三男のドロン演じるロッコと次男のサルヴァトーリ演じるシモーネの物語が主軸となるが、この二人の物語はかなり悲惨。ロッコは善意が人間の形を取ったような存在で、まるで『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャみたいな存在。彼はあらゆる能力が高く、何をやっても人並み以上にこなしてしまうが、一つだけ“運”が悪いという問題がある。彼が善意でなすことはことごとく裏目に出、それでも人間を愛することを止めない。一方彼と対比されるシモーネは、とかく自分勝手で、楽な方楽な方へと流れていく。そう言う人間にとって一番腹が立つのは、実は善意であったりする。その結果、シモーネはロッコをいじめ続けることになる。この二人の対比は観ていてきつい話で、善意を持つ事が逆に人を傷つけていき、やがてシャレにならない事態を招いてしまう。善意持つ人間こそが悲惨さを呼び込むとは、なんとも皮肉な話。 これが話のメインなのだが、この物語はそれだけではない。長男と四男、そして母の話も同時にしっかり描写される。話のメインではないとしても、この三者の物語も興味深い。 イタリアは欧米の中では特に家族の結束が強い国民とされている(イタリア系のマフィアが自分たちを“ファミリー”と呼ぶのはその名残といえよう)。特に母は一家をとりまとめ、厳しくしつけることでばらばらになりそうな家族を強引に一つにまとめていく。ここでの母像は、バラバラになりそうな息子達を叱咤して兄弟の結束を高める、いわば肝っ玉母さん的な描写になっている。だが、長男と四男は、ミラノという都会で、自分の生活を営み始める。彼らにとって、時代はすでに移り変わっているのだ。そこで母の持つ古い価値観とのぶつかり合いが描かれていく。しかしその中で新しい家族のあり方とは?と言うテーマが出されていく。 この作品に答えはない。だが、時代は移り変わろうと、やはり重要なのは家族を作り上げていくことである。という事を語っているようだ。家族の破壊と再生こそがやはり重要なテーマだ。 世界中あらゆるところで家族とは常には再生と崩壊を繰り返すことになる。当時の“今”の家族を見ながら、“未来”を見つめようとしている。カサヴェテスの『アメリカの影』も同系列に思える。 『ベリッシマ』と本作で確立して見せたこのテーマをヴィスコンティが以降変質させてしまったのは残念なことだが、家族の物語はまだまだ映画の主軸となっている。 |
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「何もかもお終いだ」 |
白夜 Le notti bianche White Nights |
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イタリアの港町のにある駐屯地に赴任した兵士のマリオ(マストロヤンニ)はある夜橋の上で泣いている若い女(シェル)を見かけ、無理矢理家に送った。ナタリアと名乗る彼女は、今日戻るはずの恋人(マレー)と約束していた橋の上で待っていたという。そしてナタリアは男に宛てた手紙をマリオに託する。 生涯に作った映画は多いとは言えないまでも、作った映画のほとんどが大きな話題となったヴィスコンティ監督。映画監督としては最も成功した一人とも言えるが、映画ジャンルも多岐にわたる。 その中で本作は最も一般人に見やすく、ストーリーも分かりやすい作品だろう。かなり小粋なラブロマンスと言った風情の作品で、まるでフランス映画のようにエスプリの効いた話になっている。 こんな話を監督が作っていることが意外だが、こんなさっぱりした小粋な話も作れるのだと分かって驚く。しかもかなり質が高いので更に驚かされる。何というか、映画作りの才能に溢れた人だったことを再認識させられた。 しかも本作は後のイタリア映画の名優となるマストヤンニを見いだした作品としても知られている。この時点ではマリア・シェルの方がメインで、それをサポートする形で抜擢されたのだが、実際出来た作品では、明らかにマストロヤンニの方に重点が置かれている。この時点で既に名優としての始まりが見えていたのだろう。その意味でも監督の慧眼が際立つ。 点数が伸びないのは、単純に私の好みの作品ではないと言うだけのこと。私は人を騙す話というのが苦手で逃げたくなるため、どうしてもいたたまれなくなってしまったから。作品そのものの質は高い。 |
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夏の嵐 Senso |
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1866年ヴェネツィア。オーストリアによって支配されているヴェニスに占領軍として着任した若い将校フランツ=マラー(グレンジャー)とセルピエーリ伯爵夫人リヴィア(ヴァリ)は出会った。占領軍将校として断固たる態度を崩さないマラーに反発を覚えると共に惹かれていくリヴィア。マラーが見てくれだけではなく、繊細な心の持ち主であることを知ってしまったリヴィアはついに彼と結ばれるのだった。だが、プロイセンとオーストリアの戦争が再開され、ヴェネツィアも否応なく巻き込まれていく… 原題を直訳すると「官能」というストレートな題。1866年の普墺戦争を舞台にした監督4作目の作品で初のカラー作品。 ヴィスコンティ監督の作品は年代によってその作り方にいくつかの系統に分かれるが、初期の作品が描写的に一番くどく、しかも容赦ない描写に溢れており、実は私は初期の作品が一番好きだ。監督第1作である『郵便配達は二度ベルを鳴らす』もそうだが、ねっとりした映像美のみならず、その中の人間の感情の振れ幅がとにかく大きい。特に女性の側は、男を信じ切って、身も心も委ねきっているのに、男の方は束縛されるのを嫌う。結果として女性の方が裏切られることになるのだが、そうなると女性の情の強さが恐ろしいほどに迫ってくることになる… 実は私はヴィスコンティ監督特有のねっとりした描写は苦手であり、前半部分はなんかげんなりした気分で観ていたのだが、後半にいたり、ヴァリの凄まじさが出てくると、画面にかぶりつくように観てしまった。ここでのヴァリの表情は本当に「凄まじい」という他無い。特にラストに至る表情の変遷はもの凄い。馬車の中できっと口を真一文字に結んで、何者も恐れず、男のいる場所に向かう意志の強さ。そして男のいるドアを開ける時の、解放された表情。男のよそよそしい態度に徐々に顔が強ばる過程。そして裏切られた時の呆然とした表情。そして最後に密告する時の石のような硬い表情…この変遷の過程には本当に圧倒された。 ヴァリの表情の凄さは『第三の男』(1949)がトップかと思っていたけど、それ以上のものがここにはあった。ほんと、それだけでも充分だよ。 …話はベタベタで演出も行きすぎ。ちょっとくどすぎて腹もたれするような作品でもあるんだが(笑)、こんなとんでもない演出見せられただけで、もう一気に評価が上がってしまったよ。 ちなみにアメリカで公開されたときは『The Wanton Countess』(ふしだらな伯爵夫人)の題名がついたとか…妙にはまってる気もする。それが悪かったか、公開当時アメリカではあまり評判が良くなかったそうだ。 |
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ベリッシマ Bellissima |
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貧乏アパートに住むマッダレーナ(マニャーニ)は、娘マリアの将来を案じ、彼女に道を開いてやろうとベリッシマ(美少女)コンテストに入賞させ、映画スターに育てようと考える。コネのない彼女は躍起になってその道を開こうとするのだが… ビスコンティ監督初期の、ネオ・リアリスモ的作品。この当時のヴィスコンティ作品は家族を扱ったものが多いが、その典型的な例と言えよう。 子供を思う親の気持ち。それは高度成長期の日本においてもやはり行きすぎの感じがあり、そして私も又、(オイルショックの後とは言え)、そう言う時代に子供時代を過ごしたから、こう言う親の奮闘ぶりを見ると、身につまされてしまって…それが映画の完成度以前に拒否感としてあったため、ちょっとのめり込む事が出来なかった。 この時代って、イタリアではまだ戦争の爪痕が残っている時で、未来がとかく見えにくい時代だった。それだけに子供の将来を案じるあまり、こう言った方法に走る親もいたんだろう。ギリギリの生活だからこそ必死になるんだろう。その中でも娘の「可愛い」という個性を最大限に用いて幸せになって欲しいというのは親心とも言えるだろう。 時代背景を考えるなら、どんな時代でも逞しい市井の生活を見事に描ききった作品だと言える。同じ敗戦国とは言え、この時代の日本じゃここまでは作れなかっただろう。 ラストの驚くべき結末と共に、完成度は高い。私自身が題材に拒否感を感じていなければ… 助監督にフランチェスコ・ロージ。 |
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揺れる大地 La terra trema |
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シチリアにある貧しい漁村アーチ・トレッツァ。長くここは仲買人によって不当な値段で魚を買いたたかれていたが、網元のヴァラストロ家の長男ウントーニ(アルチディアコノ)は、この状況に我慢が出来ず、ついに独立を宣言。家を抵当に入れて銀行の融資をうけ、独立自営の漁を始めることにする。鰯の大漁にぶつかり、事業は順風満帆に行くものと思われたが… ヴィスコンティ監督最初期の傑作。ヴィスコンティは貴族の家に生まれながら、共産主義に共鳴して実際活動もしていたという変わり種。同時に彼は映画に傾倒し、それぞれの時代に合わせ、自らの映像スタイルを次々に変えつつも、実際に時代に残る作品を作り上げていった。 本作の場合は丁度イタリアでネオ・リアリスモ運動が盛んな時期に当たる。こんな時にイタリア共産党の肝いりで作られた作品。当初は貧しい漁村を舞台としたドキュメンタリー作品を作るはずだったが、ネオ・リアリスモに入れ込んだヴィスコンティが風景だけに飽きたらず、即興でドラマを作っていったと言う面白い経緯を持つ。意外にも物語はしっかりしていて、ドラマ部分の抑え方も巧み。そこに漁のダイナミズムも取り込み、どしっとした見応えのある物語に仕上げられている。 元々が共産党からの依頼で作られていたという経緯もあり、本作は貧しい漁村に組合が作られていくまでが描かれるわけだが、単なる労働者賛歌になってはいない。実際この作品では組合を作ることが失敗しているわけだし。むしろ、これまでの因習を打倒し、新しい価値観を持つに至るまでの困難と、これからの苦労を描いているかのよう。 因習とは言え、それまで村が搾取されていたのは無意味ではなかった。劇中に描かれるように、漁というのは海の状況によって大漁の時もあるし、あるいは嵐や時化によって全然魚が捕れないこともある。そう言うときに仲買人によって助けられていたからこそ、搾取が行われていたことが推測される。曲がりなりにもそこには信用による結びつきがあったはず。ところがそれを知らぬ(というか過去を教えられていても、今と将来を見たい)若者は、現実に我慢できず、その信用を自ら破棄する。それが仲買人の目には裏切りに映ってしまう。結果として元より悪い状況に落ち込んでしまうだけ。 組合を作ると言うことは、これまでの人間関係で築かれてきた信用を一旦反故にすると言うことなのだ。という現実を突きつけてくるのだが、これは単なる失敗ではない。何度でも失敗して、しかし、その度ごとに新しい道のりを作っていこう。というメッセージを最後に残す。何もかも失ったウントーニが最後に元の生活に戻る際、そこで彼を励ます女の子の言葉と、昂然と頭を上げて漁に出かけるウントーニの姿は、「これくらいの失敗にめげてたまるか!」という思いにもさせられるものである。彼は決して若さを失っていないし、何度でも挑戦できるのだから…あるいはそれが親の金を使って共産党活動をしているというヴィスコンティ自らの姿を描こうとしているのかもしれないけど。 ちなみに当初のプロットでは最後は組合が立ち上がり、赤旗を振り立てるシーンで終わるはずだったそうで、『揺れる大地』というタイトルもそこから来ているらしいが、結果的に全部海の物語になってしまった。でも、今から考えると、そういう風にしなくて良かったとは思う。 本作でフランコ・ゼフィレッリとフランチェスコ・ロージ助監督としてデビューを果たしている。 |
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郵便配達は二度ベルを鳴らす Ossessione |
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旅する浮浪者のジーノ(ジロッティ)。彼が旅の途中偶然立ち寄った家には年の離れた夫と暮らす女性ジョバンナ(カラマーイ)がいた。夫の留守中に結ばれる二人。ジョバンナの取りなしで夫に気に入られたジーノはそこで住み込み、家の手伝いをするようになったのだが、やがて自由にあこがれるジーノと、愛を求めるジョバンナの間にすきま風が吹くようになり、更に人に隠れて重ねる情事に疲れた二人は… ジェームス=M=ケイン作の小説の映画化でヴィスコンティ監督の華麗なるデビュー作。原題は『妄執』。ただし原作から取ったのは設定のみで、ヴィスコンティ監督は物語に捕らわれず、のびのびと作り上げている。 はっきり言って私はヴィスコンティ監督とはさほど相性が良くないが、現時点では本作が一番のお気に入りである。 一言で言ってしまえば本作は昼メロの世界なのだが、さすがヴィスコンティと言うべきか。キャラクターや舞台設定など随分原作に手を入れているし、キャラもみんな肉感的(監督得意の同性愛的描写までもこの時代に出している)。暗喩も数多く出てくるので、そういうのが好きな人にはたまらない作品となっている。 まずジーノであるが、彼を郵便配達ではなく浮浪者としたことでより「自由」を強調させているようだ。だからこそ、単なる金や愛によってもつなぎ止められない自分の心と、それでも愛さずにはいられない矛盾が現れる。一方のジョバンナは金のために年の離れた夫と結婚し(彼女はこれを自分の生まれが貧しかったからだと説明する)、そして金を使える今の生活に満足しようとしてしきれていない。 そういう舞台設定があり、そこでストーリー上の暗喩が活かされる。盛りのついた猫を撃ち殺す夫は明らかに妻であるジョバンナへの警告を示しているし、そこから逃げ出したジーノが出会うのが旅芸人。彼も又浮浪者同様自由の象徴だが、浮浪者が関わるのは金。対して芸人が関わるのは愛。面白い組み合わせだ。ミラノで娼婦と関わるジーノが食べていたのがジェラートと言うのも面白い。これらは全て記憶で書いているのでほんの一部だが、まだまだあったはず。 映画の見方は人それぞれであることは承知。ただ敢えてこの映画の見方をアドバイスするなら、「金」と「愛」、そしてそれに対比としての「自由」と言うキーワードで考えてみると面白い。画面の端々で登場する暗喩も全てそれらのキー・ワードに括れてしまう。 ところでこの年代を見て欲しい。この年はイタリアではファシズムの嵐が吹き荒れていた時代に適合する。その中でヴィスコンティ監督はこのような作品をオールロケで臨んでいる。この時代にこれだけの作品を、そしてその中でのイタリアという国の現実を見据えるのに格好のテキストとなっていることにも注目すべし(事実、本作はファシズム政権によって上映禁止となっている)。 |
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