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ハマルアニメ 特集「東のエデン」を解く etc.(書籍) |
2023 | 特別編 響け!ユーフォニアム 〜アンサンブルコンテスト〜 監督 | ||||||||||
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2022 | |||||||||||
2021 |
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2020 | |||||||||||
2019 | 響け!ユーフォニアム 〜誓いのフィナーレ〜 監督 | ||||||||||
2018 | |||||||||||
2017 | |||||||||||
2016 | 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜 監督 | ||||||||||
無彩限のファントム・ワールド<TV> 監督 | |||||||||||
2015 |
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2014 | 甘城ブリリアントパーク<TV> 監督 | ||||||||||
Free! -Eternal Summer-<TV> 絵コンテ | |||||||||||
中二病でも恋がしたい!戀<TV> 監督 | |||||||||||
2013 | 小鳥遊六花・改 〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜 監督 | ||||||||||
境界の彼方<TV> 絵コンテ | |||||||||||
たまこまーけっと<TV> 監督 | |||||||||||
2012 |
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2011 | けいおん! スーパーバイザー | ||||||||||
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2010 |
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2009 | 涼宮ハルヒの消失 総監督 | ||||||||||
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2008 |
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2007 |
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2006 |
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2005 | AIR・夏 特別編 AIR IN SUMMER<TMV> 監督 | ||||||||||
2004 |
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2003 | |||||||||||
2002 | |||||||||||
2001 | |||||||||||
2000 | |||||||||||
1999 | |||||||||||
1998 | |||||||||||
1997 | |||||||||||
1996 | 新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり 演出 | ||||||||||
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1995 | ヤマトタケル 〜After War〜<OVA> 演出・絵コンテ | ||||||||||
1994 | |||||||||||
1993 | |||||||||||
1992 | |||||||||||
1991 | しあわせってなあに<OVA> チーフディレクター・作画監督 | ||||||||||
1990 | |||||||||||
1989 | |||||||||||
1988 | |||||||||||
1987 | |||||||||||
1986 | |||||||||||
1985 | |||||||||||
1984 | |||||||||||
1983 | |||||||||||
1982 | |||||||||||
1981 | |||||||||||
1980 | |||||||||||
1979 | |||||||||||
1978 | |||||||||||
1977 | |||||||||||
1976 | |||||||||||
1975 | |||||||||||
1974 | |||||||||||
1973 | |||||||||||
1972 | |||||||||||
1971 | |||||||||||
1970 | |||||||||||
1969 | |||||||||||
1968 | |||||||||||
1967 | |||||||||||
1966 | 7'31 京都で誕生 |
特別編 響け!ユーフォニアム 〜アンサンブルコンテスト〜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元部長の先輩から北宇治高校吹奏楽部の部長に任命された黄前久美子(黒沢ともよ)は、サポート役の高坂麗奈(安済知佳)と塚本秀一 (石谷春貴)と共に、来年こそ全国大会金賞を目指して吹奏楽部の改革に当たろうとしていた。そんな折、五人以下の奏者によるアンサンブルコンテストの大会が近づき、吹奏楽部内コンペティションでコンテスト出場の代表チームを決めることとなった。それぞれ自由にチームを組んでもらうことになったのだが、小さなトラブルがいくつも起き、それに対応するので手一杯で久美子は自分自身のコンテストの用意もなかなか出来ないままだった。そんな中でコンテスト日時が近づいてきて… 質の高いテレビアニメを量産するスタジオである京都アニメーションは、これまで数多くの名作を作り上げてきた。好みは様々なので好きな作品は人によって違うと思うが、少なくとも私にとって一番好きな作品は「響け! ユーフォニアム 」となる。第一期目のアニメを観てすっかりはまってしまって原作まで買って読んでしまった。 原作は著者が大学生の時代に書いたものだそうで、文体も硬くて読み難かったが、内容が等身大の高校生の生活が見事に描かれていて、それをきちんとアニメに落とし込んでいて、はっきり言えば原作よりもアニメ版の方が良かったくらいだと思った(続編からどんどん文体がこなれて小説の方も面白さが増したけど)。 この作品の面白さは主人公の黄前久美子がいわゆるヒロイン的な思考をしていないところにある。人間関係の煩わしさが嫌いな一方仲間と一緒にいたいし、愛するユーフォニアムのレベルアップをしたいと思いつつ、それでも空気を読まねばならないことは自覚している。そこら辺が割と自然に出来ていて、割と「良い人」ポジションに丁度良くはまるタイプの人間で、丁度良い立ち位置のキャラで安心して観ていられることだった。周囲の人間達は色んなドラマを演じているが、その脇でちょっと関わりながら上手く調整をしたり、時に見守るしかなかったりしながら、普通の高校生栂送れているという感じ。観てる側の心地よさが程よい感じ。 その後原作の方は主人公が順調に一年編はテレビ版二期で半年分の放映で無事終えることが出来た。回が進むごとに描写がレベルアップした感じで、どんどん良くなってくる。 是非これは続けてテレビアニメで観たかったが、色々あったようで、外伝である『リズと青い鳥』(2018)を挟んで二年編は劇場公開され、駆け足で終わってしまった。正直勿体ない気分ではある。 それで三年編はどうなるだろうと思っていたら、いわゆる京アニ事件があったりして続報が遅れてしまい、ようやく2023年になって次の三年編はテレビシリーズでやるとのこと。これに関しては本当にほっとした。これでまたゆっくり、今度は完全に物語が分かった状態でゆっくり観られるのが楽しみである。 ただ、それに先行して短めの話を劇場公開されるともアナウンスされた。 何やるんだろう?と思ったら、原作の外伝短編集から一編抜き出して映画にするという。残念ながらこれは読み忘れていた。 そんなこんなで新鮮な気分で観る事が出来たわけだが、これはとても優しい気持ちにさせてくれる。 本作の舞台は吹奏楽の全国大会が終わって三年生が引退した後の吹奏楽部で、部長に就任した久美子が、アンサンブルコンサートの指導をすることから始まる。これは全国大会もあるにせよ、吹奏楽部全体のものではないので気楽にやれるが、少人数での編成のため、あぶれる人が出ないように指導しなければならなくなり、その辺は人間関係に注意しながら割り当てていく。 空気を読みながら和気藹々を継続させていこうとする部長職の奮闘となる。厳しくはないが、かといって妥協もしない絶妙な匙加減。うんざりしながら「うええ」とか呟きながら、世話焼いてしまう久美子の描写が良い。 この空気感に浸っていたいと思わせてくれるので、大変心地よい。一時間の短い作品だが、又観たくなってくる不思議な作品である。 |
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響け!ユーフォニアム 〜誓いのフィナーレ〜 | |||||||||||||||||||||||||||
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新学期が始まり、新体制となった北宇治高校吹奏楽部。昨年全国大会まで言ったと言う実績もあり、大勢の新入生が入り、2年生となった黄前久美子(黒沢ともよ)は後輩を抱えることになる。低音パートに入ってきた新1年生はみんな曲者揃いで、そんな後輩の面倒を看るようになっていった久美子だが… かつてテレビシリーズで展開していた「響け!ユーフォニアム」は、テレビとは思えない綺麗な絵と、演奏シーンのとんがった演出によってとても印象深いものとなった。お陰で私自身が興味もって原作を読み始めたくらい。 原作について言うなら、現役大学生が小説を書いたという事から、まだ文体は練られておらず、1作目なんかは結構読み難い作品だったのだが、いかにも普通の高校でありそうな出来事や細やかな心理描写がとても面白い作りだった。 それから次々に続刊が書かれていくことになるのだが、話が進むにつれて著者の実力も上がり、4作目と5作目となる本作の原作「第二楽章」になると、文章自体も軽快に読ませる見事な作品になっていった。著者が現在書きつつある3年生編がとても楽しみでもある。 原作が前後編と長いので、これもテレビシリーズでやるのか?と思っていたのだが、敢えてそれを映画でやるというのに少々驚いた。 ただし、これは特殊な形態で、基本一本の映画で全部を演出するが、その一エピソードだけを『リズと青い鳥』(2018)として別な映画で作っていた(そちらには本来主体的に関わるはずの久美子の存在が敢えてカットされている)。なかなか面白い形式で上映された。 ただ、私なりに考えるなら、大変勿体なかった作品だったと思う。 この作品は普通の高校生の、普通の高校生活を描くところに特徴がある。いわゆる“普通”の高校生として青春を吹奏楽に賭ける少女達が描かれることになる。 だからメインストーリーは全国大会に向けての吹奏楽部の活動となるのだが、主人公の黄前久美子は、問題を持った人と関わって、その解決の手伝いをしてしまうという点がちょっとだけ特徴のある物語となる。 主人公の久美子は基本的には真面目に部活に打ち込む普通の女の子で、問題がある人に積極的に関わる訳ではない。その問題がだんだんとエスカレートして収拾付かなくなったところで巻き込まれ、そこで事件解決への道筋を探るようになるというのが基本的な道筋。 原作ではその問題を持つ事態が五つほどあって、それも同時並行的に徐々に進んでいく。最終的にすべて久美子の介入で一応の解決を見て、問題を抱えていたそれぞれの高校生達の成長物語になっていく。 ただ、この同時並行的に進んでいく物語というのが問題となる。これらをすべて描くためには本来それなりの時間を必要とするのだ。テレビシリーズ向きの素材である。 ところがそれを時間に制限のある劇場版で作っってしまった。そのため問題が醸成されるまでの時間がなくなってしまって、とてもせわしない物語になってしまった。 具体的には順番に問題が起こって、起こった途端に久美子がそれを解決するように見えてしまう。もっと時間をかけて問題が熟するのを待たずに終わってしまうため、すべてが唐突に解決してしまう。 並行していくつもの問題が少しずつ展開していき、こんがらかった問題を少しずつ解決していくという風にテレビで作るべきだったとは思う。多少演出が犠牲になったとしても、ストーリーに力を入れてほしかった。 ただ、映画だからこその良さもある。何より演奏シーンは映画館で観るからこその迫力がある。更に『リズと青い鳥』をあらかじめ観ていると、その主人公鎧塚みぞれの圧倒的演奏シーンに心が熱くなる。 作品としてきちんとまとまっているし、テンポが良いとも言えるが、私としては、もっと長い作品で作って欲しかったと思う。せめて前後編。間に『リズと青い鳥』を挟んだ三部作だったらだいぶ良くなったと思う。 そんなこともあって、良い部分と今ひとつの部分の二つがあるので、結構複雑な思いはある。 |
響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜 2016 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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かつて吹奏楽の名門と言われながら、今はすっかり落ちぶれてしまった京都府立北宇治高校に入学した黄前久美子は、入学早々友達になった級友に引きずられるように吹奏楽部への入部を決めてしまう。予想以上に酷い状態だったが、そこには中学時代に共に吹奏楽をしていた高坂麗奈がいた… 日本がアニメ立国などと言われるようになってそれなりに時間が経過したが、その中で最も゛熱い゛アニメスタジオがどこかと言われると、色々出てくるかもしれないが、京都アニメーションを挙げる人が多いのではないかと思う。 『涼宮ハルヒの憂鬱』がその出世作となるが、以降定期的に質の高いアニメ作品を投入し続けている。 そして京都アニメーションはテレビアニメを積極的に劇場化することでも知られる。今までテレビで放映されたものなので、安定した観客数が望めるし、それに見合うだけのクォリティを提供できるシステムが確立されているからだろう。 その多くは続編として位置付けられるものになり、オリジナリティの高いものとなる。然るに、本作はこれまでにない試みの元で作られる事になった。 簡単に言えば、初めてテレビアニメの再編集版を投入してみたのだ。 テレビアニメ版「響け!ユーフォニアム」は特に画面の綺麗さに定評のあった作品なので、そのまま劇場にしても視聴に耐えられるとの判断だったのかもしれない。その意味ではチャレンジだったかとも思える。少し意地悪に解釈すると、2016年秋から始まる第二期の"つなぎ゛のためとも取れるのだが… で、出来としては、「まあまあ」と言ったところか? 確かにテレビ版はテレビアニメにしておくには勿体ないほどのクォリティだったが、それが劇場レベルにまでなっているのか?と言われると微妙。綺麗は綺麗だが、大画面になると荒さが目立つし、何よりキャラクターの描写線の太さが気になってしまった。テレビと劇場とでは作り方そのものが違うということを痛感させられる結果となったし、テレビ放映の時は全く気にならなかった作画でいくつもの違和感を感じさせられる事にもなった(一例を挙げると、高校の上履きで、左右が異なるように見える描写が多々ある)。 物語においても、既に一度観てしまったもののため、新味はない。ではテレビアニメ版との違いは何かと言えば、何を取捨選択したかという問題となる。合計6時間にも至るテレビアニメ版を二時間弱に収めなければならないのだから、当然大胆に切ることになる。 そしてその切り方は、とてもオーソドックスに物語を追うものになっていた。 テレビアニメを劇場化するためには正しい作り方なのだが、同時にそれでは物足りない。 この作品は物語のみで観るなら、素直なサクセスストーリーでははあるが、本作の潜在的な魅力とは、高校生として、色々もやもやしたものを抱えながらも、なんとか吹奏楽に全力に取り組もうとする葛藤にある。正しいことをしたからと言っても解決はしないことも多いし、有言無言の人間関係のプレッシャーに常に直面させられ続ける。自分でも間違っていると分かっていても、余計なことをして人を傷つけるし、人の心が知りたいと願い、それが分からないと苛立つ。物語をシンプルにすると切り捨てられるそんな細かいエピソードが、この作品の魅力でもあるのだ。 仕方ないとは言え、劇場アニメとして切り捨てられたその部分の魅力も捨てがたかったと今更ながら思うものだ。 |
小鳥遊六花・改 〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜 2013 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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涼宮ハルヒの消失 2009 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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クリスマスまで後少し。涼宮ハルヒの率いるSOS団は、ハルヒの号令一過、クリスマスパーティの用意に余念なく過ごしていた。そんなハルヒに引っ張られ、ぼやくことが多くなった”俺”キョン。だがそんなある日、”俺”はとんでもない事態に放り込まれてしまった。ある日学校に行くと、そこにはトラブルメーカーのハルヒはおらず、更に過去”俺”を殺そうとして消去された朝倉がいたのだ。しかもSOS団の面々は誰も”俺”の事を覚えてないと言う。混乱する”俺”が文芸部室の中で見つけたものは… 日本のアニメーションが世界的なブームを起こしていた時代。2006年にテレビ放映されるや否や大ブームを引き起こしたアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」。谷川流による原作もベストセラーとなり、制作会社の京都アニメーションを一躍有名にした。当時既に飽和状態かと思われたアニメブームの中で最も成功した作品だろう。 そんなヒット作だけに、割と早い時期から映画化の話は噂されており、しかもやるとしたら原作の「涼宮ハルヒの消失」をやるだろう。とまで推測されていた。 そして実際に噂通り「消失」が映画化された訳だが、ここまで来るのに3年かかってしまった。TV版の放映中に結婚した友人夫婦も赤ちゃんが産まれてすっかり良い家庭を築いてるし… と言う感慨はともかくとして、さすがに待たされただけのことはあった。流石京都アニメーションと言ったところか。クォリティは高いし、原作も過不足なくきっちり描写されている。褒めることはたくさんあるのだが、「はまれたか?」と聞かれると、微妙。物語自体は大変楽しめたのだが、概念的な意味で思考が引っ張られる。 その理由を少々考えてみよう。 本作の肝となる部分は、これまで培ってきた世界観を一旦解体して「if」の世界が展開される。その上で「元の世界に戻る」か「この世界に留まる」かの選択が主人公のキョンに託される事となる点だろうと思う。 ここで前提となるのが、キョンが元々いた世界が、言語道断にふざけた世界であると言うことだった。 何せこの世界の主人公キョンの周囲には、宇宙人、未来人、超能力者(あるいは異世界人も)が普通に存在し、彼らを“生み出した”涼宮ハルヒという一人の少女がすべての中心にある世界。いわばハルヒは世界の中心であり、自覚無き神として君臨している。物理法則を越えたところにある相当に歪んだ世界と言える。 それに対して新しくできた世界とは、ハルヒには何の力もなく、必然的に彼女が無意識に作ってしまった能力者も存在しない世界となっている。 これが逆だとこの構図は分かりやすい。退屈な日常に飽き飽きしている主人公が無茶な世界に放り込まれ、そこで本来の世界に戻っていく。この場合「元の世界」=「善」という文脈で描くことが出来る訳だ。ちょっと前に公開された『かいじゅうたちのいるところ』(2009)がその典型的例になるだろうが、これが普通の物語の構図だ。 だが、この作品の場合、新しい世界がまともで元の世界の方がおかしいため、構図が逆になってしまっている。これは大変おもしろく出来る可能性を秘めている。つまり、完全に主人公次第でどちらを選ぶのか自由裁量に任せることが出来るように作れる。 この新しい選択をどう使うか。と言う所がこの作品の肝となるべきだった。ところが、その点が無自覚すぎた感じがある。そりゃ原作がそうだから、こう作るしか無いと言われたらそれまで。だけど、作りようによっては観てる側に錯覚させる工夫も出来たはず。改めて本作を考えてみると、この部分が欲しかったような気もしてる。原作をちょっとだけいじっても良かったんじゃないかな? それは多分、この新しい世界が不自然としか描写されなかったからじゃなかろうか。例えば新しい世界の方が大変自然な世界で、こちらの世界の方が良さそうだ。とキョンに思わせていれば、決断シーンに緊迫感を演出できただろう。元の世界ではロボットのような長門が普通の女の子のようになった。と言うだけでは、少々魅力に欠けたか?どうせ最後に全員集合させるんだから、個々を描き、「この世界の方が良いかも?」とどこかで思わせる描写が必要だったのでは? …いや、そもそも長門一人の変化で充分と取られるんだろうか?少なくともネットの盛り上がりを見る限り、はまれない私の方が少数派みたいだし。この作品に関してのキャラに対する思い入れがないので、その辺よく分からない。 アニメに関しては、はまれそうに思えてはまれなかった喪失感はきつい。良い作品であることは認めるのだが。 |