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機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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宇宙世紀93年の第二次ネオ・ジオン抗争(シャアの反乱)から12年後の宇宙世紀105年。未だ地球と宇宙移民の確執は続いていた。そんな中、地球に人は住むべきではないと主張する過激派スペースノイドの一派、マフティー・ナビーユ・エリンが地球人特権階級の粛正を中心とするテロ活動を活発化させていた。そんな時、マフティ討伐の任を受けたケネス・スレッグ大佐は地球へと向かっていた。そのシャトルがマフティを名乗る過激派集団に襲われるのだが、そこに居合わせたハサウェイ・ノア(小野賢章)と、ギギ・アンダルシア(上田麗奈)という若い女性の機転によってテロリストを撃退することが出来た。そこでケネスはハサウェイがかつてアムロと共に戦っていたブライト・ノアの息子であることを知る。 30年ほど前。「機動戦士ガンダム」の生みの親である富野由悠季は「ガンダム」の二人の主人公アムロとシャアの決着を付けるために『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)を作り上げた。それはある意味監督とガンダムの決別であった。 …はずだった。 ところがなんとその翌年1989年に小説でその続編を書いていた。「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」と題されたそれは、まさしく『逆シャア』の直系の続編で、監督が開き直ったのだろうか?という思いにさせられた。 しかしその時点で小説は読む気にもなれなかった。 なんせ私はその時点で「オタク卒業宣言」を言っていたし、オタクっぽいアイテムは遠ざけようと思ってた。そもそもが『逆シャア』こそが私にとって「最後のオタク的作品」と決めていたので。 それから数年経って、やっぱりオタクは辞められないと自分自身納得出来たので再びアニメとかに戻ってきた時にようやく「閃光のハサウェイ」小説を読み切った。 原作を読んだ感想を言うなら、「これまで以上にゴツゴツした作品」というのが正直な感想だった。富野監督の書いていたそれまでの小説版「ガンダム」は一通り読んでいたが(「逆シャア」に至っては角川版と徳間版のどっちも読んでる)、今まで読んできたもののなかでどれよりも読み難かった。 原作の読みにくさとは、主人公であるハサウェイの性格が分かりづらいところが大きい。 ハサウェイはマフティーというテロリスト組織のリーダーであるという側面と同時にテロに巻き込まれた人々を救うべく活動する善人という側面があり、そのどちらも並行して行っているため、アイデンティティが分裂したようにしか見えない。更にハサウェイの正体を知りながら協力するでもなくいつも一緒にいるギギという女性を守るという騎士的行為もあって(性的な下心まであって)、なにを考えてるのか今ひとつ分からなかった。大義と人道主義の間で心揺れ、意思が強いのか弱いのかも分からなかった。最後までそれが続いて、行動に一貫性が見られない。更に思いつきで行動するギギに丁寧に付き合ってる内に、ハサウェイが一体何をやってるのか分からなくなる。そんなのが続く内にいつの間にか終わってしまっていた。 総じて言うと、とにかく読み難いのと、キャラの心情がさっぱり分からないために、全く評価出来ない本だった。 それが20年越しで映画化になると聞かされたときは、正直全く期待出来ないものになると思ってた。 それにフェチ要素満載だった『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』(2018)が見事に性癖に合っていたこともあって、富野から離れたガンダムの方が良くないか?とか思ったのも事実。それに今更あんなゴツゴツした作品をアニメ化する必要なかろうとしか思えなかった。 ところがである。 存外本作出来が良い。 あれだけ読み難かった原作が、ここまで分かりやすく映像化されているのも驚きだったが、それ以上の驚きは、あんなにつまらなく思ってた話がやけに面白く感じられたことだった。 中途半端な性格に思えたハサウェイの性格も、なるほどいろんな感情が心に渦巻いているからこそ、あのような中途半端な態度になってたのが分かるし、それが道理として頭にちゃんと入ってくる。 不合理な行動も、色々心にあるものから来ている。行動が一貫しないのは、心の中にあるセンメンタリズムと使命とが上手く合致してないからで、いろんな後悔やら不安やらが表面に出ているから。ハサウェイにとって、シャアほどではないが、人類は地球から離脱しなければならないという確信を持っており、それを行う事が自分の義務であると思っている。しかし一方では目の前で苦しんでいる人を放っておけない。この矛盾が彼の行動原理である。 それは原作にも描かれたものなのだが、ハサウェイの心情に沿って描かれていないため、行動の整合性が分からなかったものを、丁寧に視聴者が理解出来るように描こうとしていた。 これまで富野由悠季の描いた脚本は、主人公の行動原理がぶっ飛びすぎて分からないものばかりだったが、それを丁寧に描くと、ちゃんと分かるものだと分かった。分かりにくいけど分かるというのが富野キャラの性格だったのか。それがやっと分かっただけ成果あった。 それにしても、よくここまでキャラの性格を掘り下げられたものだ。一度物語を完全分解した上で肉付けをしないといけないので脚本は無茶苦茶大変だっただろうに。原作を徹底的に読み込んだ上で行間を想像して、キャラの持つ不合理な考えをどうやったら合理的に持って行くかを考えるという、言葉のパズルみたいなことをやった 三部に分けないといけなかった理由もそこにあるだろう。丁寧に性格を描くためにはかなり尺をとるのだ。 描写の一つ一つも細かくてじっくり作った作品だと分かるが、MSと人間の対比がこんなに上手く出来たのは歴代ガンダム作品の中でトップだろう。MS同士の戦いに巻き込まれる人が大勢いて、ハサウェイとギギもその中にいるのだが、ちょっとした跳弾とか、ビームの余波とかで簡単に人は死ぬ。その辺の描写がとにかく細かい。この辺は繰り返し観られるように配慮して描かれてるのだろう。細かいがちゃんと分かるように作られている。 ただ、原作でもデザインがどうにも気に入らなかった二体のガンダム、Ξとペネロペーが、やっぱり気に入らなかったのだけは書いておかねばならないだろう。原作ではミノスキー・クラフトという特殊機構が組み込まれ、大気圏内でも単独で空中戦が行えるMSと紹介されていたはずだが、サイズが殊の外大きく、可動範囲も狭い。結果としてMSの醍醐味である組み合いがなくなって、戦闘機同士のドッグファイトで終始してしまった感じになっていた。デザインはリファインしてほしかった。 ただ作品自体は概ね満足いく出来なので、それは蛇足か。 |
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