|
|
||||||||||||||||||
| 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 人類全てを宇宙に出して地球を休息させるという究極目標のため連邦に対するテロ活動を続ける反地球連邦組織“マフティー”はゲリラ戦法を用いて連連邦を翻弄するが、資金に乏しく効果的な一手を打つのが難しい状態だった。そのリーダーとしてなすべき役割を考えるハサウェイ・ノア(小野賢章)だが、恋人のケリア(早見沙織)とも心が離れていく。かつて憧れたクェスとアムロの幻に苦しめられつつ、救いをギギ・アンダルシア(上田麗奈)に求めてしまう。一方、連邦軍士官ケネス(諏訪部順一)も、ニュータイプ素質の強いギギに惹かれていた。 前作『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』からなんと六年。待ちに待っていた続編がようやく登場。その間にも劇場版『SEED』『GQuuuuuuX』、テレビでは「水星の魔女」「GQuuuuuuX」が放映と、ガンダムはずっと続いていて、どれもそれなりに話題になっていた。お陰で随分待たされたことになる。 一作目は地味な内容なのだが、妙に心に残る作品だった。MSの戦闘シーンにも力入っていたけど、なにより主人公ハサウェイの韜晦ばかりの行動がとても見やすくなっていたことが一番の理由だろう。原作通り作っていたら、ハサウェイの性格がストレスになって辛くなってたはずなので、あれだけエンターテインメントに変えていた上手さに感心させられた。 そして続編となる本作は、一作目に輪を掛けて上手くなっている。 特に今回ハサウェイは全編を通して悩み続ける。実際ハサウェイの悩みは多い。まずマクフィーとしての活動には金がなさ過ぎる悩み。様々な支援を受けているとは言え、非合法だし、テロ組織なので世間の理解は得られない。非難の的になっていても活動を続けねばならない。そして他のテロ組織と連携は必要不可欠だが、軍隊ではないのでそれぞれの組織が勝手に動こうとするのでコントロールが利かない。相手を支援して自分たちのマイナスにならないように動いてもらうくらいしか出来ない状況。組織の長として、あまりに重責を担いすぎている。 恋人のケリアとの関係は、カウンセリングを通じての交流から、やがて恋へと発展していった。そして世直しを誓ったハサウェイを支え続けていたが、精神的に疲弊していくハサウェイを支えきれずに離脱する。ハサウェイにとってはケリアよりも大切な事があるが、それでも支えてくれる女性の喪失感は大きい。 そして自分自身がニュータイプとして優れたパイロットである事は自覚しているが、それは即ち人殺しの才能があると言うことで、強すぎる自分自身の能力にもも半ば嫌悪している。更に画面の中ではないリアルな人の死を目撃し、それが自分たちの手によるものである事も認識することで嫌悪感が増すばかりとなる。 そしておそらく、ほんの僅かしか合ってなかったとはいえ、ギギの存在がハサウェイの中では大きくなっていて、その思いも又大きくなっている。ケリアがハサウェイの元を離れたのも、ハサウェイの中に他の女性の存在があったからなのだろうが、その思いを抑えられない自分の感情も持て余し気味。 そんな感情の揺れが妄想の人物を呼び起こしてしまう。本作の後半ではハサウェイは初めての戦闘となる『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)のことを何度となく思い出す。そもそもハサウェイが情緒不安定な状態になったのは、そこでの出来事がPTSDになってしまったからだった。おそらくはこれまでずっとその光景が頭の中で回り続けていたのだろう。ただ、おそらくこれまではハサウェイの頭の中で過去のことが巡っていたと思うのだが、戦いの中で思い出が妄想にまで変わっている。本作ではアムロやクェスが生前言ってなかった台詞を語りかけてまでいる。精神的にギリギリを既に一歩踏み出してしまった感がある。 その逸脱こそが本作を特徴付けるものとなった。後半のハサウェイはΞガンダムの中でアムロやクェスと会話までしていて、更に量産型νガンダムの姿を見た途端フラッシュバックまで起こすのは、なんとも懐かしさを覚えるというか、この作品が『逆シャア』の地続きである事を認識できて嬉しくなってくる。 本作の場合、ハサウェイだけでなくギギも話の中心となっていく。ギギは大金持ちの老人カーディアスの愛人として金をいくらでも使える立場にある。だがそんな特権は何も重要ではなく、ケネスの元を訪れては混乱を振りまいている。ケネス自身は有能な善人という立ち位置を崩さず、鷹揚にギギを受け入れるだけだが、更なる混乱を望むギギはケネス経由でハサウェイの元へと向かう。今回はMSの戦いの中で出会うところまで。彼女が本当に中心になるのは次回となるが、そのための溜めと考えれば、充分な存在感を見せている。 今回は物語上、溜めの話のはずだが、結構ちゃんと見せてくれるだけで充分。 ところで本作では山寺宏一が政治家のハンドリー・ヨクサンという役で出ているのだが、なんでここで起用する?アムロ役に古谷徹、クェス役に川村万梨阿というオリジナルキャラが出ているので、山寺宏一はギュネイ役でないとおかしいだろ? |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 宇宙世紀93年の第二次ネオ・ジオン抗争(シャアの反乱)から12年後の宇宙世紀105年。未だ地球と宇宙移民の確執は続いていた。そんな中、地球に人は住むべきではないと主張する過激派スペースノイドの一派、マフティー・ナビーユ・エリンが地球人特権階級の粛正を中心とするテロ活動を活発化させていた。そんな時、マフティ討伐の任を受けたケネス・スレッグ大佐は地球へと向かっていた。そのシャトルがマフティを名乗る過激派集団に襲われるのだが、そこに居合わせたハサウェイ・ノア(小野賢章)と、ギギ・アンダルシア(上田麗奈)という若い女性の機転によってテロリストを撃退することが出来た。そこでケネスはハサウェイがかつてアムロと共に戦っていたブライト・ノアの息子であることを知る。 30年ほど前。「機動戦士ガンダム」の生みの親である富野由悠季は「ガンダム」の二人の主人公アムロとシャアの決着を付けるために『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)を作り上げた。それはある意味監督とガンダムの決別であった。 …はずだった。 ところがなんとその翌年1989年に小説でその続編を書いていた。「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」と題されたそれは、まさしく『逆シャア』の直系の続編で、監督が開き直ったのだろうか?という思いにさせられた。 しかしその時点で小説は読む気にもなれなかった。 なんせ私はその時点で「オタク卒業宣言」を言っていたし、オタクっぽいアイテムは遠ざけようと思ってた。そもそもが『逆シャア』こそが私にとって「最後のオタク的作品」と決めていたので。 それから数年経って、やっぱりオタクは辞められないと自分自身納得出来たので再びアニメとかに戻ってきた時にようやく「閃光のハサウェイ」小説を読み切った。 原作を読んだ感想を言うなら、「これまで以上にゴツゴツした作品」というのが正直な感想だった。富野監督の書いていたそれまでの小説版「ガンダム」は一通り読んでいたが(「逆シャア」に至っては角川版と徳間版のどっちも読んでる)、今まで読んできたもののなかでどれよりも読み難かった。 原作の読みにくさとは、主人公であるハサウェイの性格が分かりづらいところが大きい。 ハサウェイはマフティーというテロリスト組織のリーダーであるという側面と同時にテロに巻き込まれた人々を救うべく活動する善人という側面があり、そのどちらも並行して行っているため、アイデンティティが分裂したようにしか見えない。更にハサウェイの正体を知りながら協力するでもなくいつも一緒にいるギギという女性を守るという騎士的行為もあって(性的な下心まであって)、なにを考えてるのか今ひとつ分からなかった。大義と人道主義の間で心揺れ、意思が強いのか弱いのかも分からなかった。最後までそれが続いて、行動に一貫性が見られない。更に思いつきで行動するギギに丁寧に付き合ってる内に、ハサウェイが一体何をやってるのか分からなくなる。そんなのが続く内にいつの間にか終わってしまっていた。 総じて言うと、とにかく読み難いのと、キャラの心情がさっぱり分からないために、全く評価出来ない本だった。 それが20年越しで映画化になると聞かされたときは、正直全く期待出来ないものになると思ってた。 それにフェチ要素満載だった『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』(2018)が見事に性癖に合っていたこともあって、富野から離れたガンダムの方が良くないか?とか思ったのも事実。それに今更あんなゴツゴツした作品をアニメ化する必要なかろうとしか思えなかった。 ところがである。 存外本作出来が良い。 あれだけ読み難かった原作が、ここまで分かりやすく映像化されているのも驚きだったが、それ以上の驚きは、あんなにつまらなく思ってた話がやけに面白く感じられたことだった。 中途半端な性格に思えたハサウェイの性格も、なるほどいろんな感情が心に渦巻いているからこそ、あのような中途半端な態度になってたのが分かるし、それが道理として頭にちゃんと入ってくる。 不合理な行動も、色々心にあるものから来ている。行動が一貫しないのは、心の中にあるセンメンタリズムと使命とが上手く合致してないからで、いろんな後悔やら不安やらが表面に出ているから。ハサウェイにとって、シャアほどではないが、人類は地球から離脱しなければならないという確信を持っており、それを行う事が自分の義務であると思っている。しかし一方では目の前で苦しんでいる人を放っておけない。この矛盾が彼の行動原理である。 それは原作にも描かれたものなのだが、ハサウェイの心情に沿って描かれていないため、行動の整合性が分からなかったものを、丁寧に視聴者が理解出来るように描こうとしていた。 これまで富野由悠季の描いた脚本は、主人公の行動原理がぶっ飛びすぎて分からないものばかりだったが、それを丁寧に描くと、ちゃんと分かるものだと分かった。分かりにくいけど分かるというのが富野キャラの性格だったのか。それがやっと分かっただけ成果あった。 それにしても、よくここまでキャラの性格を掘り下げられたものだ。一度物語を完全分解した上で肉付けをしないといけないので脚本は無茶苦茶大変だっただろうに。原作を徹底的に読み込んだ上で行間を想像して、キャラの持つ不合理な考えをどうやったら合理的に持って行くかを考えるという、言葉のパズルみたいなことをやった 三部に分けないといけなかった理由もそこにあるだろう。丁寧に性格を描くためにはかなり尺をとるのだ。 描写の一つ一つも細かくてじっくり作った作品だと分かるが、MSと人間の対比がこんなに上手く出来たのは歴代ガンダム作品の中でトップだろう。MS同士の戦いに巻き込まれる人が大勢いて、ハサウェイとギギもその中にいるのだが、ちょっとした跳弾とか、ビームの余波とかで簡単に人は死ぬ。その辺の描写がとにかく細かい。この辺は繰り返し観られるように配慮して描かれてるのだろう。細かいがちゃんと分かるように作られている。 ただ、原作でもデザインがどうにも気に入らなかった二体のガンダム、Ξとペネロペーが、やっぱり気に入らなかったのだけは書いておかねばならないだろう。原作ではミノスキー・クラフトという特殊機構が組み込まれ、大気圏内でも単独で空中戦が行えるMSと紹介されていたはずだが、サイズが殊の外大きく、可動範囲も狭い。結果としてMSの醍醐味である組み合いがなくなって、戦闘機同士のドッグファイトで終始してしまった感じになっていた。デザインはリファインしてほしかった。 ただ作品自体は概ね満足いく出来なので、それは蛇足か。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||