舞台劇

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鉄人28号 2008

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南果歩
池田成志
ダイヤモンド☆ユカイ
サンプラザ中野くん
田鍋謙一郎
藤木義勝
物語 人物 演出 設定 思い入れ
あらすじ
1.押井守と舞台
2.何故今「鉄人」なのか
3.歴史と「鉄人」
4.鉄人28号の歴史
5.押井版鉄人の意義
あらすじ

 2008年。
 
埋め立て地
 鉄錆に埋もれた鉄人がセイタカアワダチソウの黄色い群生の中に佇んでいる。そしてその鉄人の前をふらふらと歩み、文明に対する呪詛を叫び続ける包帯姿の老人が一人。

 1964年。
 
埋め立て地
 東京オリンピック開始を目前に控えた東京。外国からの賓客を迎えるに当たり、警視庁は都下の暗黒部を一掃しようと躍起だった。警視庁の大塚署長(サンプラザ中野くん)率いる公安部は、目下二つの作戦を展開していた。一つは都内に跋扈する野良犬を一掃すること。このために野良犬の精神的支柱である雌犬「有明フェリータ」を捕獲すること。もう一つは、都内にテロの嵐を降らすテロリスト集団「人狼党」を壊滅すべく、その首魁犬走一直(ダイヤモンド☆ユカイ)を逮捕することだった。そんな野犬の野犬探索中、有明フェリータが捕獲されたというニュースが入る。

 
研究室
 舞台変わり敷島博士(池田成志)の研究所では鉄人28号のメンテナンスが行われていた。かつて大戦時代に対連合国用決戦兵器として作られた鉄人は、今では平和のための正義の使者としての使命を担った存在となっていた。外部コントロールによって起動する鉄人を操縦するのは少年探偵の金田正太郎少年(南果歩)。彼は敷島博士によって見いだされた正義を信じる明るく素直な少年で、鉄人をまるで友達のように思っている。今日も今日とて、正太郎は愛車を走らせ鉄人の待つ敷島博士の研究所に遊びに来ていた。
 正義への希望に溢れる正太郎に、正しいことのために使ってこそ力は意味があり、科学の進歩は正しさを証明することであることを語る敷島博士(既にこれまで何度となく語られていたことらしい)。そんなところににこにこと大塚署長が現れ、有明フェリータ捕獲が成功したことを報告する。有明フェリータは夢の島にある保健所に隔離されているが、大塚署長の目下の心配は、自由の象徴とされる有明フェリータを奪い返そうと人狼党が狙っているのではないか?という事だった。どうせならこれを好機として人狼党を一網打尽にすべく、有明フェリータを囮に使いたい。そのために鉄人と正太郎少年の力を借りたいという。
 これが正しいことと信じる正太郎は敷島博士のお墨付きを得て、護衛を兼ねて大塚署長と共に夢の島へと向かう。

 
埋め立て地
 保健所へとやって来た正太郎と大塚署長。しかし、そこで待っていたのは人狼党だった。実は犬走一直は鉄人と正太郎が来ることを最初から見越して、邪魔な鉄人を排除すべく逆に罠を仕掛けていたのだ。公安部の内部にまでその手を伸ばしていた人狼党により抵抗虚しく捕らえられてしまう正太郎だが、犬走はコントロール装置に何の執着も見せず、正太郎だけをアジトに連れ込む。

 
人狼党アジト
 悪には決して負けない。と叫ぶ正太郎に対し、犬走は悪とは一体何であるかと問いかける。科学の進歩は確かに人々の生活を良くし、住みやすい世界にすることは確かだが、それは人間が飼い犬の生活に甘んじることになる。それに与れぬ人や、野犬はどうなる。正太郎の目指す正義とは、結局弱者切り捨ての片棒担ぎをしていただけではないのか。その事だけを問いかけ、犬走は正太郎の前から姿を消す。
 囚われの身の正太郎は、そこで考える時間を与えられる。敷島博士が言う科学の進歩と明るい未来のために自分は働いてきたが、犬走の語る自由の大切さも理解出来る。二つの価値観の狭間で悩む正太郎。その思考の過程の中、何故自分が敷島博士の言葉をあそこまで素直に肯定できたのか。それを敷島に対する愛情から出ていることも分かってくる。
 答えのでない問いに悩み続ける正太郎の前に現れたのが“プロの立喰師”ケツネコロッケのお銀(南果歩二役)だった。都会の闇に生きる彼女はその生き方故に犬走と行動を共にしているものの、決して仲間というわけではなく、ほとんど気まぐれで正太郎を逃がしてあげることにする。

 研究室
 正太郎は帰って来たものの、前の快活な少年の姿は最早存在しなかった。ひたすら自分の心に閉じこもり、悩み続ける正太郎に、敷島博士は、心配しながら見守りつつ正太郎が答えを出すのを待っている。あたかも鉄人も正太郎の心を理解しているかのように、調子がおかしい。その調整に没頭することで正太郎の事を忘れようと言うかのように、厳しい表情で鉄人を見やる敷島博士。
 そんなところに快活そのものの表情でやってきた大塚署長。実はこの日は東京オリンピック開会式の当日であり、有明フェリータの奪還作戦以来テロリストの攻撃は絶え、無事オリンピックが開けることをお祝いにやってきたのだ。
 ところがそこに航空自衛隊から急報。オリンピックで空に五輪を描くはずだったF-86(ブルーインパルス)が全機不調によって飛び立てなくなったというのだ。焦る大塚署長に、敷島博士は、鉄人ならそれが可能だと静かに告げる。しかし、正太郎が動かしてくれないとそこまで細かい作業は出来ない。とも。
 正太郎登場。まだ彼は悩みの中にあるが、自分にしかできないことがあるというのなら、それをやらせて欲しいと敷島に訴える。
 そこに現れた犬走一直。人狼党は既に自衛隊内部にもその手を伸ばしており、F-86に犬の小水を入れ、飛べなくさせてやったと勝ち誇る。そして当然敷島は鉄人を使うことを考えるだろうと、それを阻止しにやってきたのだという。
 そして人狼党、公安、研究所員の乱闘となる。鉄人のコントローラーは手から手に渡り…最後にそれを手にしたのは、憔悴した正太郎だった。
 予想外の事に、犬走は正太郎に鉄人を動かすなと叫び、一方敷島は、これが出来るのは正太郎しかいない。と叫ぶ。二人の言葉に揺れ動く正太郎の心。
 そして正太郎は決断する。

 「飛べ。鉄人!東京の空に、未来を、描け〜」
 血を吐くような正太郎の叫びに呼応し、ついに動き出す鉄人。正太郎自身を乗せ、空へと飛び立つ。

 
暗転
 空に大きく五輪のマークが描かれる。

 2008年
 
埋め立て地
 包帯だらけの老人=敷島博士の独白が続く。
 あの時、五輪のマークを描いた鉄人は燃料不足で落下。鉄人も正太郎も研究室には帰ってこなかった。以来敷島は全てを捨てて正太郎を捜し続けてきたのだという。傍観者として日本を見てきた敷島は、自分と正太郎が夢見ていた未来は未だ来ていないこと。否、全く違った方向に日本は向かってしまったことを嘆き、文明を呪詛し続け、錆びた鉄人の前に崩れ落ちる。
 そこにやって来た一人の女性。その姿はかつてのケツネコロッケのお銀そのものだった。
 彼女は死んだ敷島に憐憫の言葉を投げかけ、空に向かって叫ぶ。

 「飛べ。鉄人!未来を、創れ」
1.押井守と舞台
 これが押井守による初舞台となるが、そもそも押井は前々から「いつか舞台劇を作ってみたい」と言っていた。89年に『機動警察パトレイバー The Movie』(以降『P1』)を作ってる傍ら、その並行で『御先祖様万々歳』という低予算OVA作品を好き放題に作っていたが、この『御先祖様万々歳』という作品自体が表現を横から視点に限定し、その中で画面のこちら側に向かってのみ語らせる方式を始めとして、明らかな舞台演出のオンパレード。好きだからこそこう言う作品が作れたのだろう。
 実はこの作品、私はかなり好き。作品の内容自体にあまり意味はないものの、かつての押井調と、川井節炸裂の前衛劇を楽しんで見せられた。
 さて、その押井が、今度は本物の舞台劇を演出するという。当然期待は高かったが、場所的時間的に観るのは難しいか?と思っていた矢先、丁度転職予定地の面接が公演期間に入ることとなり、偶然にもぴったりに観る機会を得られた。
 一見して分かるのは、本作は1950年代から少しずつ日本の演技界に入り込んできた前衛舞台劇を前提としていること。
 映画でこういった前衛的なものが日本映画に入り始めるのも1950年代からだったが(端的に言えば1956年に製作された『太陽の季節』がまさしく前衛劇であり、この作品がフランスでのヌーヴェル・ヴァーグを促した)、映画界ではそれはメインストリームになることはなく、1970年代を待つこととなる。一方、興行的な意味で映画よりも自由度の高い舞台劇は盛んに前衛劇が作られていったが、50年代の後半からアンダーグラウンド化。それがやはり70年代になり、革命の要素を取り入れるようになっていき、前衛というのは芸術や人間の精神のみならず、社会的に先鋭化していくことになる。
 勝手に想像するのならば、押井は丁度この頃舞台に目覚めたのだろう。まさしく本作は“革命劇”そのものだ。ただし、だからといって本作が旧態依然とした前衛劇をなぞっているだけではない。これは後述。


2.何故今「鉄人」なのか
 この舞台はまず、『鉄人28号』という作品が予めあって成立した作品であることは確か。いや、むしろこの「鉄人」という存在そのものに込められた想いを前提としているといった方が良い。
 では押井が鉄人に込めた想いとは何であるのか。おそらく押井にとって鉄人とは、過去の日本そのものを象徴するものとして描かれていると思われる。以下に推測を挙げさせていただく。
3.歴史と「鉄人」
 横山光輝による原作の連載が開始されたのが1956年。終戦から10年が経過。その間に朝鮮戦争が起こり、日本は敗戦国から、輸出国へと転換に成功した。それは安定した好景気に沸き始めた頃に当たる。
 この時、日本の経済を支えていたのは、徹底した陽性の雰囲気だった。これからどんどん生活は良くなっていくだろうし、日本は発展していくだろう。という希望がそこにはあった。そしてその陽性の雰囲気を作り出す源となったのが、科学および重工業の発展だった。資源を持たない日本は、海外からの輸入に頼らねば生きていけない。しかしそのハンディキャップは原料輸入製品輸出の構造を確立することによって、逆に強みとなっていった。当時の日本製品は確かにあまり性能的には良くなかったらしいが、それはこれからの科学の進歩によってどんどん性能は上がるだろうし、性能が上がれば国際的にもそれが認められ、輸出は更に上がるはず。そう言った希望があったのだ(事実確かにその一部は現実のものになった)。

 そんな時代に描かれたオリジナルのマンガは徹底した陽性の作品で、科学の発展が人に幸せをもたらすことを直球で伝えた作品だった。本作で示された“科学の発展”と“明るい未来”の直結こそが良い意味であれ悪い意味であれ日本人のロボット好きの一つの要素に結びついていったとも思える。
 それにこの作品で提示された、“使い方次第で機械は神にも悪魔にもなる”というテーゼは、直接永井豪の『マジンガーZ』に取り入れられ、その系譜で現在にも脈々としてアニメーションの世界では息づいている。これはかつて『ゴジラ』で水爆のイメージで恐れられていたゴジラが、徐々に原子力発電所の発達に伴い、あたかも人類の味方のように思われるようになっていく皮肉にも通じるもので、人類の科学の進歩は、どれほど恐ろしいものであっても、やがてはコントロール可能にさせるのだ。という当時のイメージと見事に直結している。

 だが、1960年代に入り、世界は様変わりしていった。レイチェル・カーソンによる「沈黙の春」はその嚆矢となるが、日本でも水俣病やイタイイタイ病の公害認定、四日市ぜんそくなど、それら科学の発展が、実は人間の健康を冒し、世界を悪く変えていきっぱなしであることが分かってきたこと。更にヴェトナム戦争を通して、科学の発展は人に幸福をもたらすよりも不幸をもたらす方が多いのでは?と言うイメージが徐々に浸透していくことになる。
4.鉄人28号の歴史。
 だからこそ、オリジナルの鉄人を離れ、映像の分野では、その時代その時代に合った鉄人が描かれるようになっていく。
 最初に映像化されたのは1960年で、これは実写番組として。一応特撮作品と見られているものの、当時の特撮技術の限界で鉄人自体がかなり小さくなってしまい、正太郎も、鉄人の操縦者ではなく戦いの傍観者としての位置づけ。更にこの作品は視聴率の問題もあって途中で打ち切られてしまう。

 最初のアニメーション作品1963年。連載開始から5年を経過。まだまだ科学に対する信頼感が大きかった時代であり、本編も原作に沿った形で物語が作られる。物語も84話が制作され、大好評の内に終了した。
 その後テレビアニメでは合計3本のシリーズが、劇場版でも実写版が一本、アニメ版が一本あるが、それらを俯瞰してみよう。

 2本目となったのが1980年に放映された
『太陽の使者鉄人28号』(本来のタイトルは『鉄人28号』だったが、ややこしいと言うことでソフト化時点で改題)。これは割と安易なリメイク作ではあったが、舞台の年代を放映された1980年代に取ったり、物語の中では自然回帰の話があったりして、色々工夫がなされている(この作品での最大のトピックは自立型ロボットとしてブラックオックスを登場させ、あくまで操縦型ロボットの鉄人との対比が色々なされていた点だろうか?)。
 3本目は更に時代が下り、1992年になって。『超電動ロボ鉄人28号FX』。これは舞台を2002年に。更に本来の物語の続編として作られた。鉄人も更に新型となり、FXと名付けられている。この話は完全に旧作からの続編となっており、正太郎少年も中年の親父に。主人公はその息子の正人となっている。本作の場合は昭和時代のノスタルジーと言うよりも、新しい燃え系アニメとしての位置づけがなされており、いかにもなスーパーロボット作品に仕上がってる(当時はサンライズの勇者シリーズがあったので、本作もその系統と見ることが出来る)。
 4本目はつい最近。同じ横山光輝原作の『ジャイアントロボ』のOVA版を作った今川泰宏監督によるもの。これは原点回帰を目指しつつ、監督の個性を最大限発揮した、鉄人自体よりも、それを取り巻く人間を描いた作品に仕上げられていた。戦後の混乱を新世紀になってから描くと言う意味では、この作品が一番舞台版に近い出来なのかも知れない。尚、この作品から劇場版のアニメ『鉄人28号 白昼の残月』も作られている。

 実写映画としてはもう一本冨樫森監督による『鉄人28号』(2004)が作られている。設定そのものは太平洋戦争と鉄人が作られるに至った背景、そして現代に甦った鉄人の存在意義と、設定的には決して悪くなく、いくらでも良く作ることが出来る作品だったのだが…残念な作品だった。

 これらの諸作品は、基本的にオリジナル版を尊重しつつ、その時代その時代に合った鉄人を作り出してきた。それらを含め、何故押井は敢えて鉄人を使ってみようとしたのか。




5.押井版鉄人の意義
 鉄人28号とは日本のロボットアニメの最初であり、これがテーゼとして日本のロボットアニメーションが成り立つとするならば、そのアンチテーゼもまた、原点に帰って『鉄人28号』によってなそうとしたのが本作の挑戦であったのは確かだろう。
 そしてその挑戦は、二つの方向性にあると思われる。

 一つには文字通りロボットの存在意義について。
 そもそも押井は特撮好きを公言しているが、怪獣特撮の場合、怪獣が登場するまでこそが本当の映画であると言っていた。これは怪獣が出た瞬間から、映画はストーリー性を失い、怪獣同士の(あるいは人間との)戦いに入ってしまう見せ場を展開させる以外無くなってしまう(これには私なりには異論があるが)。
 これは押井作品には徹底されていて、押井が作った『機動警察パトレイバー』においてはレイバーの戦いというのは最後の最後、時間を限定して投入されていたし、同じ『パトレイバー』のOVA版に至っては、可能な限りレイバーを動かさないように注意して作られていたほど(予算の関係という問題もあったようだが)。この姿勢に貫かれているため、鉄人というのは、実際に動く必然性がない。一つの使用されないアイテムとして鎮座していて良い。それが唯一無二のロボットなのだから、そこに存在するだけで抑止力として働く…核のようなものとして考えることも出来る。もちろん最後の最後にきちんと鉄人は動くのだが、動いた後のことは、受け手側が考えることであり、「動いた」という事実が何より重要であると考える。強大な存在を持つロボットの動かし方とはこういう事だ。と言う事を提示しようとしてのことだろう。

 もう一つ。これは押井自身が古い作風と新しい作風を融合しようと考えてのことかとも思われる。
 かつて押井は自らの作風として脱構築を旨としていた。たとえば『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(以降『BD』)なんかは「うる星やつら」という物語の枠を取り払い、同じキャラを使っての脱構築を目指した作品だし、ストレートな作品の『P1』に対する『機動警察パトレイバー2the movie』は、やはり「機動警察パトレイバー」の脱構築作品と考えることが出来る。特にお蔵入りとなった押井版
『ルパン3世』は「ルパン3世」という世界観を用いた脱構築作品と考えて良い。
 それが『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』辺りから、作風を徐々に変えていった。これまでの脱構築を捨て、物語と映像の融合へと転換していったのだ。それを意識的に用いたのが『イノセンス』であり、『スカイ・クロラ The Sky Crowlers』であったのだろう。

 だが、その二つの作風は完全に分離した訳でも、兼ね合いが取れている訳でもない。ファンの目からすれば、極端から極端へ移っただけ。というイメージが強い。
 この乖離は押井自身が気にかけていたことなのかも知れない。低予算作品だった『立喰師列伝』などではその二つの方向性をなんとかまとめようとする努力の跡が見られもする。しかしながら、それが上手くいったかどうかというのは別の話。とにかく自分のフィールドでやろうとすると、今ひとつ乗り切れないものができあがってしまう傾向にある。

 そこで、完全に他者のフィールドに足を置いて、そこで自分自身のやりたいことをもう一度やってみよう。という心境に至ったのではないだろうか。かつてTVのうる星やつらでやりたい放題やって、それで受けたという経歴を持つため、もう一度初心に返ってみようという思いもあっただろうし、何より今の自分がどのくらい過去の自分と折り合いを付けられるかの挑戦でもあったかと思われる。
脱構築とは、元々は哲学用語だが、映像論的に考えるなら、「ある対象を解体し、それらのうち有用な要素を用いて、新たな、別の何かを建設的に再構築すること」。つまり旧来のテーゼを用いた上で新しい価値観を見いだそうとする試み。映像の場合はパロディとして使われることも多い。
物語と映像の融合。押井自身がMETHODおよびイノセンスMETHOD押井守演出ノートで語っているように、レイアウトシステムを確立するためにアニメを作っている印象があり。
6.

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28 1/2 妄想の巨人 2009

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押井守(脚)
奥田恵梨華
田辺桃子
須藤雅宏
水橋研二
柏原収史
南果歩
池田成志
ダイアモンド☆ユカイ
サンプラザ中野くん
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 映画監督押井守(本人)が突如発表した舞台劇『鉄人28号』。その舞台発表会から稽古までスチールカメラを撮影している小林言子(奥田恵梨華)は、その端々で正太郎のような半ズボンの少年を見かけるようになった。そんな中、監督が失踪したと言うニュースが聞こえてくる。
 かつて押井はアニメーション作りに関しての思いを、『トーキング・ヘッド』という形で問いかけた。アニメーションという世界で最前線にいた監督だけあって、色々な知識を披露しつつ、アニメーション映画とはどういう作り方をされているのか。と言う勉強も出来る楽しい作品だった。
 その後の押井の活躍は周知の通りだが、そんな押井が2008年になって突然「舞台劇をやる」と宣言してファンを驚かせた。出来た舞台劇『鉄人28号』は既にレビューしているが、そんな舞台劇を作ってる傍らでこんな作品を撮っていたようだ。
 しかし、『トーキング・ヘッド』と較べると、本作は本当に何にも内容がない。
 強いて言うなら、『トーキング・ヘッド』好きとしては、この作りは嫌いじゃない。だけど、本作の場合舞台劇の素人である監督が作っているだけに、舞台劇についての蘊蓄はないし、現場の人が不満を言ってるだけで終わってる。フィクション性が高いためメイキングとしても今ひとつ。かと言って物語がしっかりしてる訳でもないので、結果DVDのおまけで作ってみました。程度の作品になってしまった。一般に失敗作と言われてる(事実失敗作だが)『ケルベロス 地獄の番犬』の特典の方がまだましなレベル。せめて編集に力入れて、時空列をバラバラにするとかしてれば、それなりに…ならないか?
 少なくとも本作を押井守という監督の入門編としては絶対お薦め出来ない。それだけは確かな作品。

 それでもいい訳じみて聞こえるかも知れないけど、決してこれが嫌いでない。と言うのが私のおかしな所だったりして…

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