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2008 | ||
2007 | ソウ4 監督 | |
2006 | ソウ3 監督 | |
2005 | ソウ2 監督 | |
2004 | ||
2003 | ||
2002 | ||
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
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1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | 1'11 カンザス州オーヴァーランドパークで誕生 |
ソウ4 2007 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
2008エンパイアホラー作品賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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連続殺人犯ジグソウは確かに死んだ。だが彼の遺体の中からホフマン刑事(マンディロア)宛のテープが発見される。そこで語られたジグソウのメッセージは、死のゲームを継続するという宣言だった。ジグソウに協力者がいると推察したホフマンは捜査の継続を決意する。そんな中、SWATの隊長リッグ(ベント)は自宅で何者かに襲われ、気がつくとTVモニターには、どこかで囚われの身になっているホフマンと失踪中のエリック刑事の姿が映し出され、彼らを救うためのゲームに強制参加させられてしまう… 『ソウ3』で完全に死んでしまったジグソウのゲームは、未だ継続中だ。というコンセプトの元で作られたシリーズ第4作。今回に関しては『ソウ』の生みの親ジェームズ・ワンとリー・ワネルの二人は関与せず、全く新しい作品として作られているのが特徴と言えるか。 『ソウ』で映画界に衝撃を与え、以降も質の高いサスペンス作品として展開していった本シリーズだが、続けて観ていくと、やっぱり着実に少しずつ質は落ちていってる。特に本作はその下降具合が激しく、一作目のぬる〜い焼き直しに、ゴア映像をかぶせただけの作品になってしまった感じ。物語の時間軸をずらしたり制限時間を設けるという新要素も入ってはいるものの、『羊たちの沈黙』や『エイリアン』(1979)という傑作が既にあるものを使ってもオリジナリティは感じられず。ラストの意外さについては悪くないんだけど、それ以前のグロさに負け、ラストシーンなんか「どうでもいいや」って気分にさせられてしまう。とりあえず『ソウ3』の直接の続編だから、そちらを観てないと黒幕の意外性が無くなるのだが、そんなこともどうでも良くなってしまう。俳優も知らない人ばっかりになってしまい、結構安普請さを思わせるし…とは言っても決して嫌いというのではないんだけどね。 なんだかんだ言っても、ワネルの脚本あってこそのシリーズだったことは確かだな。意外性のあるラストを上手くリードしていき、「おお!そうだったのか!」と思わせるだけの脚本はなかなか作れない。特にあれだけのグロシーン連発しておいて、それでもちゃんと最後に驚かせる技術に至っては。 しかし、改めて考えてみると、1作目から4作である本作まで、グロテスクシーンというのも少しずつ変わってるように思える。1作目は意外性のある痛さであり(直接的なシーンはかなり少ない)、2作目はモロ“痛い”と思わせる描写。3作目は悪趣味なほどのグロテスク描写。そして4作目である本作はグロというよりはゴアと言うべき。死体いじってるシーンを延々映し出すオープニングシーンは流石に気持ち悪くなった。 |
ソウ3 2006 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006サターンホラー映画賞 2007MTVムービー・アワード悪役賞(ベル) |
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ジグソウのものと思われる連続殺人事件は続いていた。ただ、その手口の変化を感じ取った女刑事メイヤー(メイヤー)は、これが違う人物による模倣犯であることを感じ取る。その頃、当のジグソウ(ベル)は死の床に就いており、そこにアマンダ(スミス)によってリン(スーメク)という女医が連れてこられた。ジグソウは彼女に対し、彼女の不倫の事実を突きつけつつ、今から行うゲームの間だけ生かし続けることをゲームとして提案するのだった。そしてその肝心なゲームの犠牲者となったのは、ジェフ(マクファーデン)という男だった… 「ソウ」シリーズの第3弾。この一連の作品の凄いところは、普通ホラーとかサスペンスとかは続編が出る度にグレードダウンするのが普通だが、少なくとも3本作って全然質が落ちてない(あくまで主観だが)と言うところ。『ソウ』ではそもそも主人公の側がどのような人物だか分からなかったのだが、『ソウ2』でジグソウは無作為に犠牲者を選んでいなかったことが分かった。ジグソウが選んでいた人物は皆何らかの犯罪を起こし、それを社会的に隠していた人物ばかり。それが今回は初めて完全に被害者としか見られない人物が犠牲者に選ばれている。この人物ジェフは事故で息子を失い、失意の中にある人物として最初は描かれてる。まるで悲惨さを上塗りするかのような物語展開が意外だったのだが、話が進むに連れ、だんだんジェフの本性が見えてくる。そして、お約束の大どんでん返し。と怒濤の展開が楽しめる。 ただ、物語自体の質がとても高いのに、やっている描写があまりにもグロというか、精神的に耐え難いようなトラップが次々と出てくるため、画面を正視出来ない。特にドリルとか電ノコの音は画面を見なくても耳に来てしまい、目も耳もいい加減に疲れ切ってしまった。『ソウ』程度の描写で抑えてくれれば点数は高く入れられるのだが、物語以前にそれでもうきつくてきつくて…もったいなさ過ぎる。 ただ、本作も深読みすると、かなり物語も奥深い。 ジグソウが求めたものとはなんだったのか。改めてそれを考えてみると、それは責任感と言うものだったのかもしれない。 確かにジグソウは冷酷で猟奇趣味の殺人者には違いない。さらに彼の行っていることは極めて倒錯的ではあるのだが、改心のチャンスを必ず与えていて、改心するならば、その通りに生きていくことを求めていた。彼の言動のすべては他者に改心を呼び掛けることからなっているのだ。これは彼自身が死を迎えるに際し、自らが得た実感だから。4の方を観てないため、その確信はないのだが、彼自身が改心したからこそ、それを他者に求めていたとも考えられる。彼は人間を憎むことはない。ただ人によって引き起こされる悪に対して憎しみを持っていたに過ぎない。だからこそ彼は、人を殺すのではなく、ゲームという形を取らせる。その命懸けのゲームを越えることで犠牲者は新しい自分を見つけられるように。その願いがあったかと思われる。 本作では3人の人物にゲームが仕掛けられている。一人はメインとなるジェフ。彼の試練は延々と続くため、それが本作の一番目を惹く部分になるのだが、同時に女医であるリンにも自分を生き残らせられるかどうかのゲームを強いている。何故彼女がゲームに選ばれたのか。これが本作の一つの謎となっている。実は彼女自身がジェフのゲームに直接つながっていて、ラスト部分でそれが明かされるのだが、実はそれだけではなかった。なんと自分の弟子であり、後継者であるアマンダにもやはりゲームが仕掛けられていたという、二重構造の罠になっていたという特徴がある。 では何故アマンダにゲームを仕掛けたのか。明らかにアマンダが間違ったことをしているから正そうとしたのは間違いないだろうが、そんな回りくどいことをした理由を考えてみたい。 アマンダは『ソウ』及び『ソウ2』において二回に渡ってジグソウのゲームを受けている。一度目のゲームは彼女を目覚めさせるため、二度目のゲームでは彼女がジグソウの後継者となるための試練だった(『ソウ2』はブラフだったとも考えられるが、その試練を乗り越えることで後継者となる権利を得たと考えるなら、あれは本当の試練だったのだろう)。 しかし、ジグソウはそれをアマンダに自分で気づいて欲しかったのではないか。命をかけたゲームを何度仕掛けてもアマンダは乗り越える。という思いもあっただろうが、仮にそれが出来なかったら、それは自分の後継者たる器ではない。という事を心に決めていたのだろう。ここで仕掛けられたゲームは、アマンダの器量を見るためのものだった。 そしてそれはある意味、自分に対するゲームでもあったはず。自分の行っているゲームをちゃんとやりこなす人間を残せるのかどうか。 結果としてアマンダはジグソウのゲームに、今度こそ失敗。そしてリンもジェフもやっぱり失敗。結果的にジグソウは全てのゲームに敗北してしまった。とすれば、本作はブラックジョークとして観るべきなのかもしれない作品。 しかしこれだけ色々考えさせられる作品を単なる残酷描写だけでスポイルしてしまったのは返す返すも残念な話ではある。 |
ソウ2 2005 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2005ホラー大賞第5位 2006MTVムービー・アワード悪役賞(ベル) |
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荒くれ刑事で知られていたが、行きすぎた捜査が災いし、現在は内勤に甘んじているエリック(ウォルバーグ)。ある時、女刑事ケリー(メイヤー)に、情報屋マイケルの猟奇的殺人現場に呼び出される。ケリーはこれを猟奇的連続殺人犯ジグソウによるものとして、エリックの証言を求めるのだった。犯人が現場に残したヒントから、エリックはアジトを推測、SWAT、ケリーとともに急襲する。そこには本当にジグソウ(ベル)がおり、あっけないほどに簡単に捕まってしまう。だがそれはジグソウが仕掛けた新たなゲームの始まりだった。その部屋のモニターには、屋に監禁された男女8人が写っており、その中にはエリックの息子ダニエル(ナドセン)も閉じこめられていたのだ… 低予算ではあるが、残酷な殺人ゲームの描写と「あっ」と驚く物語展開でスマッシュヒットを飛ばした『ソウ』の続編。前作で監督・脚本を務めたジェームズ・ワンとリー・ワネルの二人は製作に専念。その代わりとして新進気鋭の脚本家・映像作家であるバウズマンに脚本と監督を任せた作品。元々バウズマンは本作を違う作品として「The Desperate」という題で本作の脚本を仕上げていたが、本作の起用によって脚本を手直し。見事に続編として作り上げた。 『ソウ』の場合はたまたま近くのシネコンでかかったために拝見。ラストまでの展開は本気で驚かせていただいた。それで出来れば本作も。と思っていたが、残念ながら近くではやらず、遠出する時間もなかったので断念。テレビでの視聴となった。ストーリーの好み具合は高くても、残酷描写は苦手なので、テレビでいいや。と思ったのだが… いや、でもこれだったら劇場で観ても良かったな。しみじみそう思わされる良作。元々が違う脚本だったそうだが、そんなことを思わされないほどにシンクロしていた。 問題はこの作品は何を言ってもネタバレになってしまうと言うことなのだが、とりあえずあんまりその辺考えずに思ったことを書いていこう。 本作と前作との大きな違いはジグソウの存在の変化だろう。前作では最初はジグソウのことが全然分からず、ラストになってその存在が何であったのかを知らせられる。という事になるが、今回は最初から出ていること。犯人が最初からいて、どういう物語が展開するのか?ここでぐっとつかみを取ることが出来た。 ただ、最初から出ていたと言っても、やっぱり前作同様、彼は最前列でしっかりゲームを見続けていたし、最後は「あっ」と言わせることになる。見事な存在感だった。 ただ、本作の場合、単なる物語の巧みさだけではなく、奥にあるものを感じさせられるのも事実。 ところでジグソウがゲームを通して求めていたこととは何だろうか? 彼は敢えて命懸けの他者に強いるが、彼はそれを通して「生まれ変わり」を求めていたのではないかと思える。 彼がゲームを強いたのは本作で明らかになるのだが、何らかの犯罪者であったり、何か後ろ暗いことをしていた人物ばかり。ジグソウは単に楽しんでいるだけではなく、彼らの更正を願っていることを仄めかしている。その更正に必要なものとは、一つには“苦痛”。これを通り過ぎることで反省を促す。次に求められるのが“決断”であろう。そのためにはさらなる苦痛を通り過ぎる必要はあるし、しかも後の生活に重大な支障を来す事もある。しかしそれを敢えて通り越して命を得ること。これが決断となる。 その決断は人により様々な様相を見せるが、生まれ変わった人間にはそれに見合ったものを与えるのが特徴だろう。ここではケリーとアマンダに対して与えるものにそれが端的に表されている。ケリーに対してジグソウは息子の命を提示するが、そこでケリーに求めるのは忍耐だった。ケリーは暴力刑事であり、犯罪者はもとより一般人にも恐れられた存在。彼が命を軽んじる存在から命を大切にする姿に生まれ変わるには忍耐を必要とし、そのためにはただ“観続ける”事だけを求める。一方、二度にわたる試練に耐えねばならなかったアマンダに対しては、単に自分の命を救うだけではなく、人の命をもてあそべる存在へと生まれ変わらせる。このために彼女に求められたのは、あらゆる人に一度屈服することだった。人の命を扱うのならば、人の命を大切にする心を持たせようとしたのだろうと思われる。執拗なまでのアマンダに対する責めは、二度目の生まれ変わりを必要としたのだろうから。 もちろんこれはゲームだから、成功することもあれば失敗することもある。その試練をクリアできるかどうかはその人次第。これぞジグソウが楽しんでるゲームだったと言うことだ。 ただ、ここで終わるのではない。ジグソウは生まれ変わった人間に対し、更に求めるものがあると思われるが…『ソウ3』に続く |