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本名David Samuel Peckinpah。西部生まれで、実際に開拓者の名門の出身。 | ||||||||||||||||||||||||
サム・ペキンパー(書籍) サム・ペキンパー(書籍) ケーブル・ホーグの男たち―遥かなるサム・ペキンパー(書籍) |
1984 | 12'28 死去 | ||||||||||
1983 | バイオレント・サタデー 監督 | ||||||||||
1982 | |||||||||||
1981 | |||||||||||
1980 | |||||||||||
1979 | ザ・ビジター 出演 | ||||||||||
1978 | コンボイ 監督 | ||||||||||
1977 | |||||||||||
1976 | |||||||||||
1975 | 戦争のはらわた 監督 | ||||||||||
キラー・エリート 監督 | |||||||||||
1974 | ガルシアの首 監督・脚本 | ||||||||||
1973 | ビリー・ザ・キッド 21才の生涯 監督 | ||||||||||
1972 | ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦 監督 | ||||||||||
ゲッタウェイ 監督 | |||||||||||
1971 | わらの犬 監督・脚本 | ||||||||||
1970 | 砂漠の流れ者 監督・製作総指揮 | ||||||||||
1969 | ワイルドバンチ 監督 | ||||||||||
1968 | 戦うパンチョ・ビラ 脚本 | ||||||||||
1967 | |||||||||||
1966 | |||||||||||
1965 | ダンディー少佐 監督・脚本 | ||||||||||
栄光の野郎ども 脚本 | |||||||||||
1964 | |||||||||||
1963 | |||||||||||
1962 | 昼下りの決斗 監督・脚本 | ||||||||||
1961 | 荒野のガンマン 監督 | ||||||||||
1960 | Klondike<TV> 脚本 | ||||||||||
1959 |
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1958 | ライフルマン<TV> 監督 | ||||||||||
1957 | トラックダウン<TV> 監督 | ||||||||||
1956 | ボディ・スナッチャー 恐怖の街 脚本・出演 | ||||||||||
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1955 |
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1925 | 2'21 カリフォルニア州フレズノで誕生 |
バイオレント・サタデー 1983 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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TVキャスターのジョン=タナー(ハウアー)は友人のファセット(ハート)の誘いで自宅でパーティを開く。実はファセットはCIA職員であり、彼の追い求めているKGBの組織オメガの工作員が証券市場のエキスパートのジョセフ=コルドーン、外科医のリチャード=トレメイン(ホッパー)であることを突き止め、その共通の友人ジョンを使って罠をかけようとしていたのだった。半ば脅されつつ、事の顛末をTVに売ることを条件にジョンはこの申し出を受けたのだった。 ロバート=ラドラムの小説「オスターマンの週末」(「バイオレント・サタデー」に改題)を“最後の西部劇監督”ペキンパーが映画化。本作がペキンパー監督の遺作となった。 たった一夜の出来事を描いた物語だが、単純なようでかなり複雑。前提条件がかなりややこしい上に、僅かな時間で裏切りや駆け引きが次々と出てくる。そもそもペキンパーはリズムの良い作品を作ることが得意じゃない上に(見所の演出は突出して上手いのだが、日常描写とかの普通のシーンが今ひとつ)本作は晩年の作品であり、あっぷあっぷして作ったような感じが拭えず。強引にテクノロジーを加えてしまったのも無理あり。基本は騙し合いで話が展開するため演出も地味。蒼々たるキャラを使っている割に目立たせられなかった。と、マイナス面ばかりが見えてしまうのだが、かといって本作が駄作であるとは思わない。 ペキンパーは長く映画を作りたいと頑張って、ようやく映画監督になり、その後色々干されながらも一流監督して認められていったという過去があるので、殊更映画に思い入れがあるようで、その分テレビ番組に対する悪意のようなものがあるようだ。本作では主人公がTVキャスターであり、しかも隠し撮りした映像をテレビ画面で観るというシーンが多用されるが、カメラやテレビの普及がどれだけプライバシーを損なっているのか。という事を語りたいようにも見えてしまう。考えすぎかもしれないけど、本作においてはむしろその悪意が心地良い。 後はやっぱり「流石ペキンパー!」の最後のアクションシーンだろう。だらだらと話が続いていたが、ラストだけはきっちり暴力で締めるところもペキンパーらしくて良し。 遺作としてはちょっと残念な出来ながら、やっぱり最後までペキンパーはペキンパーだったと確認できた。 |
コンボイ 1978 | |||||||||||||||||||||||||||
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コンボイ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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全米を股にかけるトラック野郎の一人、ラバー・ダック(クリストファーソン)は宿敵保安官ライル(ボーグナイン)に追いかけられ、キップを切られないようにと仲間に連絡をかける。それに応じたビック・ペン(ヤング)とマイク(アジェイ)だったが、結局共々に捕まってしまう。その晩、酒場で警察の横暴に息巻いた3人は、そこにやってきた警察と大立ち回りをやらかしてしまい、ダックを先頭とするコンボイを組んで爆走を開始するのだった。 「コンボイ」という名前で何を思い浮かべるか?某国のヒーローアニメの主人公かも知れないけど、私はむしろこっちの方が思い浮かぶ。子供心に無茶苦茶燃えた作品だった。 ちなみに「コンボイ(convoy)」とは英語で調べてみると、「護送」あるいは「護衛」を表す言葉だが、更に語源を調べてみたら、ギリシア語で「結び目、群れ、絆」などを意味する言葉だそうだ。ここではトラックの大部隊の事を指すのに用いられている。 本作を観たのは随分前になる。小学生の時のテレビだったが、全然退屈しなかったし、のめり込むように観たものだ。当時は何故か暴走車を題材にした映画がツボだったらしく、『トランザム7000』(1977)のバート・レイノルズに続き、本作のクリス・クリストファーソンも私にとってのヒーローとなった(その後の『天国の門(1981)』で大いに評価が下がってしまったのが残念ながら)。 本作の面白いのは一応の主人公であるダックが中心となってはいるものの、むしろその周囲、コンボイに参加した男や女達やその溜めに渋滞に巻き込まれてしまった一般人達、そして鎮圧にかかるボーグナインを始めとする警察官の面々、それぞれに見せ場が用意されていて、群像劇としても充分に楽しめる(映画では結構使われる手法とはいえ、初めてこの手の作品を観たのも、衝撃度の高さだったんだろう)。今から考えると、これがペキンパーらしさなんだろうね(そういや私にとって初めて観たペキンパー作品でもある)。 キャラを見ると、やっぱりクリストファーソンが良い。ダックと言うだけあって、アヒルの物真似してる仕草がはまってるし、彼を取り巻く仲間達もそれぞれ個性が出てる。それにやっぱり敵役のボーグナインが良いんだよ。確かに役者としては器用な人だけど、ここでの嫌らしい役はやっぱりツボにはまってる。 そして勿論これ!最後は特攻で決める!これよこれ!全てを放り捨て、単身大型トラックで向かっていくその姿にはもう! …ここまで褒めてなんだけど、一般の評価見たら、えらく低いので逆に驚いてしまった。私にとって極めて偏愛度の高い作品。と言うことになるのかな? ところで、本作はもう一つ重要な影響を日本に与えてくれた事も特記すべきだろう。本作が日本のアニメに及ぼした影響はかなり大きい。 先に挙げたようにアメリカ産アニメの『トランスフォーマー』での主人公コンボイの名称(ちなみにオリジナルの名は「オプティマス・プライム」で、日本名はこの映画が元ネタだと思われる)があるが、もう一つ。丁度この映画が公開された時に、企画に上がっていたロボットアニメがあった。『フリーダムファイター・ガンボーイ』と言う企画だったのだが、主人公ロボットの名前がこの場合、“ガンボイ”になってしまい、この映画とかぶってしまうので、名称を変え、『機動戦士ガンダム』と言う名前に決定したと言う…ガンダムとは、この映画なしには語れない。これだけ日本に影響を与えたんだ。もう少し評価されるべき作品なんじゃないかな? |
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戦争のはらわた Cross of Iron |
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極限下の暴力と人間の描き方ではこのジャンルでは群を抜く出来。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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キラー・エリート Killer Elite |
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ガルシアの首 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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メキシコにある広大な牧場主で軍隊もどきの私兵団を持つこの地方の権力者エル・イェフェ(フェルナンデス)は、娘のテレサを妊娠させたガルシアの首に100万ドルの賞金をかけ、殺し屋を雇った。ひょんなことからそのことを聞きつけたバーのピアノ弾きベニー(オーツ)は、かつてガルシアと関係があった恋人のエリータ(ベガ)から、既にガルシアは亡くなっており、埋葬されていることを聞きつけ、エリータをつれて死体を掘り出しへと向かう。まんまと殺し屋連中を出し抜けると思えたベニーとエリータだったが… 「薄汚れた映画」の代表作と言われる作品。 ペキンパー監督作品は繰り返し観るのに適している。 これは別段褒め言葉ではない。確かにペキンパー流の描写は何度観ても凄いものだが、監督の作る作品はおおむね説明不足なので、後半に入ってようやく主人公がどのような立場であり、何をしようとしているのかが分かるようになってるため、一度通して観た後で、もう一回前半を観ると、ようやく骨子が分かってくるということである。私はペキンパー作品大好きなんだが、初見は結構きついと感じることも多い。 本作も前半はかなり退屈な感じだった。だいたい一般人が殺し屋を出し抜こうとか、危険に自ら入っていこうとするモチベーションが分からない。人物描写が下手なのはこの人の特徴か。などと思いながら流して観ていたのだが、やはりこの人の作品の特徴で、中盤以降で物語の構造が頭の中で結びつき、構造が理解できてくると俄然面白くなっていく。前半のぐだぐださまで全部このための演出の伏線だったのか!となって価値観が180度転換するのもこの監督ならではだ。 ところで“良質の映画”とはなんだろう?人それぞれだろうが、一番は、登場人物が自分自身と同化できるものではないかと思ってる。登場人物、特に主人公を観ていると、なんか自分自身の身につまされ、時にそれを羨ましく、時に過去の(あるいは現在の)自分を見てる気にさせられて痛々しく感じる。日常をあつかった映画が全く廃れないのも、こういう感性があるからなんじゃないか?と思えたりするのだが、別段これは日常に関する必要は無かろう。『ロッキー』が未だに人気あるのは、ロッキーの姿に自分自身を重ねる人がどれだけいるかという証拠とも言えるだろう。 で、本作はまさしく私自身が主人公のベニーに見事に重なった。 ベニーが自分から「やる」と言っているのに、いかにも嫌そうに行動している姿が妙に印象的だったりする。これで大金持ちになれる!と言う意識よりも、ただ何となく恋人と旅行に行って、恋人のご機嫌取りだけやっているって感じだし、そこに現れ、恋人にちょっかいを出してきた男を撃ち殺した時も、なんかやる気が感じられない。面倒事を振り払っただけと言う雰囲気を思い切り醸していた。なんかやることなすこと、命令に従って嫌々やってる感じ。 なんかその姿が妙に自分自身にかぶってしまって、妙に近親感を覚えてしまったわけだが、それでベニーが、恋人を殺され、しかもガルシアの首を巡っての殺し合いに巻き込まれたあたりから、もうこれは感激の嵐。 ベニーが自らの野生を解き放ち、自分でも知らなかった殺し屋としての度胸と才能を手に入れていく。これって自分では望んでもいないのに(いや、正確には望んでだが)苛烈な競争社会に放り込まれてしまった自分自身の身に置き換えてしまった。 自分では望んでない嫌な才能が伸び、余計な期待をされたりしながら生き抜いている今の自分にまさしくはまって見えてしまった。 否。格好良い事言うのはやめよう。 「あんたには才能無いわ」とはっきり言われたり、チクチクと粘着質な嫌味を言われ続けてる自分自身がやりたいことをやってくれてる!と言うことで惜しみない拍手を送ってる自分に気づいた。後のことを全く考えてないなら、私だってぶん殴りたいやつは何人だっているし、蹴り入れて辞表たたきつけたらどれだけ楽か。と考えることもしばしば。そんな中に私だっているのだ。そんな私の代わりをやってくれる!そう思った瞬間が本作にはあるのだ。何というカタルシス。 「これは俺の映画だ!」これを感じさせてくれただけでも、本作は最高点を上げて当然の作品である。 本作のラストはペキンパーらしい無茶で派手なものだが、主人公のベニーは最初と同じで、あれだけのことをやってのけても、常に面倒くさいのを嫌々やってると言う態度を崩さない。そんな姿がとにかく格好よかった。最高である。 |
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ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯 Pat Garrett & Billy the Kid |
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1973英アカデミー作曲賞、新人賞(クリストファーソン) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1880年。ビリー・ザ・キッド(クリストファーソン)は元相棒でありながら、今や保安官となったパット=ギャレット(コバーン)によって逮捕されてしまう。翌年看守を射殺して脱走したキッドと、彼を追うパット。二人の追跡を通じた愛憎劇を描く。 “遅かった西部劇監督”ペキンパーが描いた、一種正統的な西部劇。監督本人にとっても、是非作りたかった素材ではないかと思われる。ただ作り方は自分のスタイルを決して崩すことなく、若さにませた暴走や恋愛劇よりも、疲れ切った追跡劇を延々繰り広げると言った内容で、更に『ワイルドバンチ』や『ゲッタウェイ』に見られた鮮烈な映像はなりを潜めてる。 思うにこれは監督の思い入れが激しすぎたため、叙情性に溢れた内容になっていたという事実と、キッド役のクリストファーソンが今ひとつ薄味に見えてしまったため、その個性が見えなかったためだと思われる。だから本作は一連のペキンパー作品の中では地味目と思われがちである。 だけど、改めて本作を考えてみると、これも又、一種の監督の美学に裏打ちされているようにも思えてくる。 一種の西部劇のヒーローとして描かれるビリー・ザ・キッドを、ちょっとキレやすいだけの少年として描き、しかしそのカリスマ性に惹かれつつ、否定していく中年の保安官こそを主役にするというこの物語。西部劇の構造そのものを一旦解体し、感情を交えない暴力作品に仕上げる。確かにペキンパーらしさが良く出ていた作品でもあった。他の作品と較べたら、やや感傷的か?とも思ったけど、監督作品には実際こういった感傷的な作品も多いしね。 それにしても本作はよく殺しまくった。本作には西部劇の常連が一気に出演しているのだが、ほとんど全員が血まみれになって死んでしまう。暴力作家と言われても仕方ないか? 本作で楽曲を提供しているのはボブ=ディラン。歌の雰囲気は良いんだけど、感傷的な部分に来るとリフレインばかりがあまりにもわざとらしすぎたりして、そこがちょっと引っかかり。 |
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ゲッタウェイ The Getaway |
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銀行強盗の罪で10年の刑に服していたドク・マッコイ(マックィーン)が刑期半ばで出所した。これは実はドクにとっては取引で、政治家ベニヨン(ジョンソン)と組んで町銀行を襲い、分け前を保釈金代わりに払おうとしてのことだった。ドクは妻キャロル(マックグロー)とベニヨンがよこした二人組と共に見事銀行強盗を成功させたが、裏切りに遭ったドクとキャロルはベニヨンを撃ち殺して逃亡する。ベニヨンの一味と警察双方から追われる事になった二人の逃亡が始まった。 暴力描写には定評のあるペキンパー監督がマックィーンを主演に据えて描いた、いわば1970年代の『俺たちに明日はない』(1967)。1973年全米興行成績2位。ちなみに本作の脚本はほぼ脚本デビューとなるウォルター・ヒルの手によるもの。 マックィーンはハリウッドの生んだ大スターであることは間違いないが、彼の魅力と言うのを考えてみると、彼は「アメリカ人」であり続けたと言うことに尽きるのではないかと思われる。では映画におけるアメリカ人とは何か。と言うと、これは現実世界の姿ではなく、理想化された姿であるわけだが、その理想とは西部劇の時代からの伝統がある。先ずとにかく強い。銃であれ拳であれ一発で相手を倒してしまうし、酒にも強い。そして自分なりの信念を持っている。いかにだらしない生き方をしていようとも、筋が一本通っていて、それを曲げる存在を許さない。そしてその信念とは、騎士道精神に根差したものだから、基本的に弱いものに対して手を上げることはしない。そして特に女性に対してはとてもシャイなこと。このくらいかと思う。 この典型と思われるのはジョン=ウェインであり、ゲーリー=クーパーであったりするわけだが、さて、それではマックィーンはどうか? 自分で書いておいてなんだが、改めて考えてみると、合っているような、合っていないような… ではそここに70年代と言う要素を入れてみたい。この時代はヒッピー文化で表されるように、反逆の文化を持っている。まさに反逆児の要素を持っていたのが一つの要素だろう(本作で怒りに任せて女性を叩くシーンは当時では考えられなかった)。しかもマックィーンの場合ポール=ニューマンやマーロン=ブランドのように、完全なる反逆児として描かれているわけではない。ユーモアを解し、惚れた女には一途のように見えて、微妙に浮気心もある。そんな軽さも同居している。 結果的にこのバランスが絶妙に噛み合ったのがマックィーンという存在だったのではないだろうか。まさに70年代におけるアメリカ人の理想そのものが現れた存在。だからこそ大いに受け入れられたのだと私は思う。 ところで、このアメリカの具現と言うのは何もアメリカ国内に限ったことではない。何より彼の人気を支えているのは日本で、群を抜いた人気を博した。これも単なるマックィーンの格好良さに限ってではなく、アメリカに対する憧れが加味されたものだったのかもしれない。 それで本作そのものは彼の役割にぴったりと合ったピカレスク・ロマン。法的常識的には褒められたものじゃないし、あらゆるものを破壊しつつ愛の逃避行なんてのも、完全に常識を逸脱してるが、観てる側が彼自身の持つ法に否応なく巻き込まれていく。観てるうちにいつの間にか彼の考えに同調してる。これもマックィーンの強烈な個性あってのことだろう。何せ最後は悪党が悪党のまま文字通り“ゲッタウェイ”に成功してしまう物語なのだ。マッグローに対する勝手さは、惚れあっている仲だからかな? 描写で言っても、容赦ない暴力描写を撮らせたら随一のペキンパーの演出は冴えわたってる。常にアクションが続くのではなく、ポイントを絞ったアクションシーンが映えている。ペキンパー作品の傑作の一本だろう。 だが、本作でとうとうペキンパーはアメリカでの映画作りに嫌気を指してしまったらしく、以降メキシコで映画を撮り続けることになる。 |
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わらの犬 Straw Dogs |
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1971米アカデミー作曲賞 1972キネマ旬報外国映画第5位 |
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都会的な役を演じることになるホフマンが見事に狂気を発露した役をこなせることを見せつける。ラストシーンは、まさしくこれまでの自分を超え、成長したところを見せつける 暴力を最初醜悪なものとして描いておいて、自分自身がその暴力の渦中にあることに気付く。平和を語るより暴力を振るっているときの方が活き活きとしているのが特徴 舞台をイギリスにするが、やってることはアメリカと同じ 流血描写で知られるペキンパー監督が、実際の戦いよりもそれに至る過程を大切にした作風となっている 残忍で無意味な暴力、男女の役割に対する考え方の古さが批判を浴びる ペキンパー監督による初の現代劇。暴力に彩られた作品だが、これまでの自身の作品を逆手に取った作風となっている ロジャー・スポティスウッドが編集している。 |
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砂漠の流れ者 The Ballad of Cable Hogue |
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仲間に裏切られ、砂漠に取り残されたケーブル=ホーグ(ロバーズ)は干からびる寸前で砂漠の中で水を発見し九死に一生を得る。自分を見捨てた二人、ダガードとボーウェルは必ず戻ってくると確信した彼はその土地を手に入れ、駅馬車の中継所を作り上げる。生臭牧師のジョーシュア(ワーナー)、町にいられなくなった娼婦ヒルディ(スティーヴンス)らが彼の周りに集い、彼はここでそれなりに幸せを感じていたが、決して復讐は忘れていなかった…そして3年が過ぎる。 最後の西部劇作家と呼ばれるペキンパー監督が、自らの思いの丈をぶつけた西部のヒーロー像の集大成。 さすがペキンパーと言える出来で、監督お得意のバイオレンス色を排してさえ、これだけ質の高い作品を作ることが出来たという事実に、素直に賞賛を送りたい。実はペキンパー監督作品で私が一番好きなのが本作。 元々私は生活臭のある描写が大好き。具体的に言えば、食事シーンがたくさんある映画。しかもその食事は出来るだけチープなものを、ガツガツと食べる描写が何より好き。西部劇で言ったら『ロイ・ビーン』(1972)が好みなのだが、本作もそれに劣ってない。見事な生活の匂いが漂ってくる。これを冗長と見る向きもあるんだろうけど、全くそれは感じなかったな。小さな事件とそれにまつわる生々しい人の生き方。それに何となくと言った感じの共同生活。これだけで充分。 又、この作品の映像は面白く、逃げるとか、走るとかのシーンはまるでコマ落としのようなスピードで、何となくコント風で楽しい(これって結構撮るの大変だと思う。だって走る人は良いけど、周りの人は動きをスローにしなくちゃならないから)。特に前半部、ワイプを多用したのも狙ってのことかと思う。意外に繊細な撮り方をしてることがよく分かる。 主人公のホーグは元々がアウトローだったが、それが復讐の執念に凝り固まり、しかも自分から探すのではなく敵が探しに来るのを持っているという構図はなかなかユニークだが、その中で様々な人と出会い、徐々に生きることに対して肯定的になっていく過程が面白い。この中だけでもペキンパーの創造した様々なヒーロー像が込められているように思える。 その意味でラスト部分はかなり意外だったが、原題にある「バラード」を見事に表していた、良い雰囲気の終わり方だったと思う。2時間の映画で一人の人間の一生を描くってのがちゃんと可能だったと言うことか。 全く関係ないが、劇中に登場したワーナー演じる牧師ジョーシュアは「トライガン」に登場するウルフウッドの原型なんじゃない?そんな雰囲気があるよ。 |
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ワイルドバンチ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1969米アカデミー脚本賞、作曲賞 1969全米批評家協会撮影賞 |
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1913年。パイク(ホールデン)率いる5人組“ワイルドバンチ”はテキサスで鉄道駅舎を襲う。まんまと現金を奪うことには成功したものの、実はその列車は鉄道王の罠で中身は鉄くずばかり。更にソーントン(ライアン)ら3人の腕利きガンマンの逆襲を受けてしまう。結果、ソーントンらに追われたパイクは逃げ回りつつも、立ち寄る町々に混乱を引き起こしていく… ペキンパー監督の手による本作は西部劇の傑作にして、古き良き西部劇に終止符を打った作品と言われる。 確かに西部劇はこの時代になって曲がり角に来ていた。そもそも西部劇はアメリカの建国物語と不可分で、そこには大地に根ざした父祖の歴史そのものが刻まれる。歴史を持たないアメリカという国が自らの手で神話を作り出した帰結である。だからそこに現れる男達は、たとえどれほどだらしなくとも、人間的には褒められた所がなくとも、神話の登場人物として行動している。映画がアメリカでもてはやされた理由を私なりに考えると、アメリカ人にとって映画というのはそもそも自分たちが負って立つ神話を与えてくれるものだったからだったと思う。西部劇とは、まさにアメリカ人が求める自分たちのアイデンティティそのものだったのだ。 しかし、時代の流れは残酷だった。テレビの登場によってその神話はブラウン管に封じ込まれたお手軽なものになり、しかもこれまでのように同じテーマを繰り返し見せるには限界が来てしまった。しかも折からのマカロニ・ウエスタンのヒットにより(アメリカ国内では当初あまり振り向かれなかったが、徐々にそれも西部劇の一つとして受け入れられていく)、これまでの手法では、西部劇は成り立たなくなっていた。この時代が映画における神話の終焉となる。 そんな時に監督となったのがペキンパー。彼はおそらく正統的な西部劇を作りたがっていたのではないかと思うのだが、時代がそれを許してはくれなかった。結果、デビュー作である『荒野のガンマン』(1961)からして、西部劇の本筋からは離れたような作品となってしまった。 しかしそこにペキンパーは活路を見出したのだろう。以降異色とされる西部劇を作り続けていき、自らの腕を磨いていく。その集大成として登場したのが本作といえる。ここにはお上品な主人公は登場しない。むしろ人を決して信用せず、ただ生きるため、金を儲けるためだけに破滅的な人生を進んでいく中年の悪人ばかりだ。パイクは『荒野のガンマン』や『昼下りの決斗』同様、もう若くはなく、死ぬ前に何かしらでっかいことが出来るのではないか?という思いで行動してる。それを追うソーントンも決して正義のために行動してる訳じゃない。彼らは結局自分自身の儲け話のためだけに行動し、結果として内部分裂起こして自滅してしまう。確かにソーントンは生き残るけど、それは結局それは死ねなかったというだけに過ぎず。結局彼も自滅とも言える革命派へと身を投じていく…登場人物のほとんどは自殺願望があるんじゃないのか?とまで思わされるほどあっけなく死に向かい、あっけなく死んでいく。結局全てを手に入れたのは一番歳を食った老人のサイクス。なんとも皮肉なラストだ。結局この虚しさこそがペキンパーの魅力と言っても良かろう。結果的にこの物語自体が終わりを告げようとしている西部劇への手向けへとなっているようにも見える。だからこそ、彼らの行動は常に寂しさと隣り合わせなんだろう。それは次作『砂漠の流れ者』により顕著に表れている。 その中でペキンパーの代名詞とも言えるストップモーションの使い方は冴えに冴える。冒頭の銃撃シーンは今観ても充分に唖然となるほどのすさまじさで、そこで平気で味方を見捨てられるパイクの性格もよく表れていた。中盤の展開はちょっとばかりかったるくはあるが(これがマイナス要因になるんだけど)、後半になってのお互いに裏切るんじゃないか?という緊張感のまま展開する話は緊張感に溢れ、ここもペキンパーの真骨頂と言えるな。アメリカン・ニューシネマの一本としても名作に数えることが出来るだろう。そしてラストのジェノサイドに到る際、ワイルドバンチの面々が横並びにスローで歩いていく。これは以降どれだけ模倣されたか分からないほど。 さほど私は銃に詳しくないので受け売りなのだが、ラストの銃撃戦ではなんとブローニングM1917重機関銃やコルト45口径M1911など、近代殺戮兵器を駆使しての修羅場だったのだそうだ。もう一度観てそれを確認してみたい所ではある。 |
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ダンディー少佐 Major Dundee |
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1864年。アパッチ族の襲来により第五騎兵隊B中隊は全滅した。ダンディー少佐(ヘストン)は、アパッチ酋長チャリバの討伐を決断するが、そのために北軍のみならず、捕虜となった南軍の士官にも声をかける。その中にはダンディーのかつての親友で、南北軍に分かれた後、今は憎み合っているタイリーン大尉(ハリス)もいた。お互いを無視しつつ、隊を進めるダンディーだったが、アパッチの襲撃を受けてしまい、闘うための武器弾薬が底をついてしまう。アパッチ討伐に燃えるダンディーが考えついたのは、メキシコにいるフランス軍を襲い、武器を奪うことだった… ペキンパー監督による騎兵隊ものの作品。ただし、“遅れてきた西部劇作家”と言われるペキンパーだけに、これも従来のものとは大きく異なっている。情け容赦ない描写と、殊更に正義を避けるペキンパーは、この主人公を憎悪の固まりのような好戦的な立場に置いた。 その視点は大変面白いし、戦闘シーンも力が入りまくっている。ラストの渡河作戦での戦いはまさに壮絶だし、途中で、アパッチ討伐に執念を燃やすダンディーがいやがる部下を強いてフランス軍を襲わせる辺りの情け容赦ない描写も凄まじい。 丁度ヴェトナム戦争の折。本作は小国の利害などお構いなしにヴェトナム戦争に介入したアメリカとソ連の二大国のやっていることに対する皮肉と見ることも出来よう。 ただ、正義を殊更に避けるのは良いけど、肝心のダンディーに感情移入が出来ない上に物語が妙に間延びしているため、観ているのがちょっときつい。特にダンディー役のヘストンが無茶苦茶やってるのに妙に真面目っぷりが強調されているので、「撮り方が違うんじゃないの?」と何度かツッコムシーンも。 ペキンパーらしく設定は良いんだから、もうちょっと一貫性のある物語だったら面白くなっていたと思うんだけどね。 |
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昼下りの決斗 Ride the High Country |
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1962英アカデミー新人賞(ハートレイ) 1992アメリカ国立フィルム登録簿新規登録 |
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かつて腕利きで知られた元保安官ジャド(マクリー)は金塊輸送の依頼を受けて田舎町にやってきた。そこでジャドは射的屋に身を落とした旧友ウェストラム(スコット)と再会する。ジャドは彼と彼の若い相棒を仲間に引き入れ三人で金山へと登り始めるのだが、その途中で出会った娘エルザ(ハートリー)から無法者の婚約者の元に連れて行ってほしいと言われ… 前年『荒野のガンマン』で映画監督デビューを果たしたペキンパーの監督第二作で、ペキンパー監督の名を飛躍的に高めた作品。 ペキンパーは西部劇の監督に憧れていたのだそうだが、実際に彼が監督出来るようになった時代では既に西部劇は顧みられないジャンルになっており、ペキンパーが作った数々の作品はいわゆる王道をいくのではなく、まるでその斜陽を示すかのような静かな、そしてどこか寂しい作品を作っていくことになる。これはニューシネマの一つの方向性をしっかり指し示す契機となったのだろう。本作は“西部劇の鎮魂歌”などと言われることがあるが、むしろペキンパー監督は一旦西部劇を解体し、そこに新しい方向性を模索しようとしているかのように見える(方向性は異なるが、イーストウッドも同じアプローチから西部劇を解体している)。 デビュー作である『荒野のガンマン』自身が、弱いガンマンを主人公とした作品で、一種の異色作だったが、出世作となった本作は、今度は既に引退した二人のガンマンを主人公に、友情とも打算ともつかぬ、奇妙なバディ・ムービーっぽく仕上げられてる。彼らは古き良きフロンティア・スピリットを持った人物だが、その時代も最早過去。そこで生きていかねばならない二人の生き方の対比が見事。 マクリーもスコットもかつての西部劇のヒーローではあったが、この時点では二人とも既に現役を退いた老齢で、映画の設定にも重なっている。それが妙に疲れとも倦怠感ともつかぬ演出になっているのだが、それが格好悪いか?と言われるとさにあらず。実際格好良く見えてしまうものだ。 かつて本当の友情で結ばれていた主人公二人の生き方は、どこかで別々な道を歩き始めていた。昔気質でガンマンの理想を未だに引きずっているジャドと、既にそう言う世界からは足を洗い、今や打算的な生き方が性に合うようになってしまったウェストラム。この二人の食い違いは、単に物語上の問題ではなく、西部劇そのものの作り方への変化とも言えるかのよう。まるでペキンパー自身の心の葛藤のようだ。本作では最後に確かにそれでも友情と呼ばれるもので結びつけられてることを感じさせられるのだが、ペキンパー自身がこれから作り続ける西部劇は、この葛藤を常に引きずっていくことになる。 これは徐々に衰退していく西部劇への挽歌であり、その中でも新しい方向性を見いだしていこうとするペキンパーの葛藤でもあるのだろう。 改めて本作を観ると、イーストウッドの『許されざる者』(1992)はまさに本作を目指していたことを感じさせてくれる。 |
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荒野のガンマン The Deadly Companions |
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西部の町で一人の男がいかさまカードがばれてリンチにかけられようとしていた。偶然そこに通りかかった北軍の制服を着た男イエローレッグ(キース)は事情も分からぬままその男タークを助けるのだが、その姿を見て愕然とする。実はイエローレッグは南北戦争の最中捕虜となり、このタークに頭の皮を剥がれそうになったのだ。その復讐を誓っていたのだが、その敵と出会ってしまったのだ。だが、イエローレッグは自分の正体を明かさず、タークとその相棒で発砲マニアのビリーとチームを組み、銀行襲撃を提案する。だがたまたま同じ銀行を無法者が襲撃。三人は保安官側について銃撃戦を行うことになってしまった。その銃撃戦のさなか、イエローレッグの撃った銃弾が不幸にも酒場の気の強い女キット(オハラ)の息子を貫いてしまう… “最後の西部劇監督”と言われるペキンパーの映画初監督作品。 既にこの時代、アメリカは冷戦構造に入ってしまい、昔のようなおおらかな作風の西部劇は斜陽に入ってしまっていた。そんな中で西部劇の監督となったペキンパー。彼自身の思いはどうだったか分からぬが、ペキンパーの創造するヒーローの多くは、これまでの西部劇のヒーローとは完全に一線を画している。 初監督作からしてこのような弱いヒーローを作り出してしまい、主人公はヒーローらしからぬとして、当時の西部劇ファンには悪評を受けたのだが、それでもこれはペキンパー製西部劇の原点として記憶に止めるべき作品だろう。 物語は恐るべき偶然の連発で、大変人を食った上に、主人公のイエローレッグの優柔不断さが、爽快さをことごとくはぎ取ってしまっている。 しかし、それが悪いか?と言うと、決してそんなことはない。むしろこの優柔不断で弱いイエローレッグの性格こそがリアルに愛すべき、人間的な存在であると思えるのだから。 彼は復讐を胸に抱き、5年もの間、敵を探し回っていた。だから冒頭でタークと出会った時にそのまま殺してしまえば物語は終わっていたわけである。それ以前に冒頭のシーンで何もしなければ、自動的に復讐は終わっていた。 しかし、敢えてここでイエローレッグは復讐を思いとどまる。ここには彼の複雑な思いが込められていたのではないか? 例えば、五年間も苦労してきたんだ。その苦労をタークに思い知らせてから、かつて自分がやられたようにタークの頭の皮を剥ぎ取ってやる。という思いもそうだっただろうし、落ちぶれてあまりに情けない存在になってしまったタークに復讐してもなんの意味もないと思ったのかもしれない。 だから、タークには成功と仲間をプレゼントしておき、その後、それを一気に取り去ってしまうこと。これが彼なりの復讐となっていたようにも思える。確かに歪んでるけど、復讐を晴らす相手は、情けなくあってはいけない。という美学がそこにはあったのかもしれない。又一方、五年間の副手の旅は確かに苦労の連続だっただろうが、その五年間は彼の復讐心を変質させてしまったのかもしれない。いざ敵を目の前にした時、殺すことを忍びなく思ってしまったのかもしれない。それと、彼にとって復讐の旅というのは、人生における目標だったので、それがあっけなく果たされてしまったら、これからどうやって生きていけばいいのかさえも考えられなかったのかもしれない。 そんなことを考えさせてくれるのがペキンパーの作り上げたヒーローの姿とも言える。 だが、そのイエローレッグの優柔不断さは新たなる悲劇としがらみを生んでしまうことになる(この辺が全部“たまたま”というのが妙な具合だけど)。イエローレッグの銃は子供を撃ち殺してしまい、性格的にその母親キットを見捨てることが出来ないので、遠い町の墓場までつきあうことになってしまった。それでイエローレッグに愛想が尽きたタークと別れるのにも、別段躊躇がなかった。むしろこれは復讐を先延ばしに出来、目標を持ったまま生きていけるという思いからだったのかも? それでも又いくつもの偶然が手伝い、再びタークとまみえてしまう。ところが首尾良く復讐を果たすのか?と思われた矢先、イエローレッグはキットの言葉を聞いてあっさりとそれを諦めてしまった。 …なんだこりゃ?と思う一方、実はこれはイエローレッグにとって、キットという伴侶を得た。と言うことで完結しているのかもしれない。要するに彼にとって大切だったのは復讐ではなく、生きていくための目標だったのだから。キットの愛を受け入れることによって、彼は新しい生き方が出来ることを確信した。それで彼は満足だったのかもしれない。 この物語が更に拡大されたのが『砂漠の流れ者 ケーブル・ホーグのバラード』(1970)だったとも言えるか。考えてみると、そちらの方を先に観ておいて正解だったな。 |
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