2019 | ||||||||||
2018 | 運び屋 監督・製作・脚本 | |||||||||
15時17分、パリ行き 監督・製作 | ||||||||||
2017 | ||||||||||
2016 | ハドソン川の奇跡 監督・製作 | |||||||||
2015 | ||||||||||
2014 | アメリカン・スナイパー 監督・製作 | |||||||||
ジャージー・ボーイズ 監督・製作 | ||||||||||
2013 | ||||||||||
2012 | 人生の特等席 製作・出演 | |||||||||
2011 | J・エドガー 監督・製作 | |||||||||
2010 | ヒア アフター 監督・製作・音楽 | |||||||||
クリント・イーストウッドの真実 出演 | ||||||||||
ネルソン・マンデラ 和解への道のり 出演 | ||||||||||
2009 | インビクタス 負けざる者たち 監督・製作 | |||||||||
2008 | チェンジリング 監督・製作・音楽 | |||||||||
グラン・トリノ 監督・製作・出演 | ||||||||||
2007 | さよなら。いつかわかること 音楽 | |||||||||
2006 | 硫黄島からの手紙 監督・製作 | |||||||||
父親たちの星条旗 監督・製作・音楽 | ||||||||||
2005 | Budd Boetticher 製作 | |||||||||
2004 | ミリオンダラー・ベイビー 監督・製作・音楽・出演 | |||||||||
2003 | ミスティック・リバー 監督・製作・音楽 | |||||||||
ピアノ・ブルース 監督・出演 | ||||||||||
クリント・イーストウッド 天性の直感 | ||||||||||
アメリカン・ニューシネマ 反逆と再生のハリウッド史 出演 | ||||||||||
2002 | ブラッド・ワーク 監督・製作・出演 | |||||||||
2000 | スペースカウボーイ 監督・製作・出演 | |||||||||
クリント・イーストウッド アウト・オブ・シャドー 出演 | ||||||||||
1999 | トゥルー・クライム 監督・製作・出演 | |||||||||
セルジオ・レオーネ 出演 | ||||||||||
1998 | Monterey Jazz Festival: 40 Legendary Years 製作総指揮 | |||||||||
1997 | 目撃 監督・製作・出演 | |||||||||
真夜中のサバナ 監督・製作 | ||||||||||
1995 | マディソン郡の橋 監督・製作・出演 | |||||||||
ヘンリエッタに降る星 製作 | ||||||||||
1993 | パーフェクト・ワールド 監督・出演 | |||||||||
ザ・シークレットサービス 出演 | ||||||||||
1992 | 許されざる者 監督・製作・出演 | |||||||||
1990 | ホワイトハンター・ブラックハート 監督・製作・出演 | |||||||||
ルーキー 監督・出演 | ||||||||||
1989 | ピンク・キャデラック 出演 | |||||||||
1988 | バード 監督・製作 | |||||||||
ダーティハリー5 出演 | ||||||||||
セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー 製作総指揮 | ||||||||||
1986 | ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場 監督・製作・出演 | |||||||||
カリフォルニア州のカーメル市長となる。 | ||||||||||
1985 | ペイルライダー 監督・製作・出演 | |||||||||
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1984 | シティヒート 出演 | |||||||||
タイトロープ 製作・出演 | ||||||||||
1983 | ダーティハリー4 監督・出演 | |||||||||
1982 | ファイヤーフォックス 監督・出演 | |||||||||
センチメンタル・アドベンチャー 監督・製作 | ||||||||||
1980 | ブロンコ・ビリー 監督 | |||||||||
ダーティファイター 燃えよ鉄拳 出演 | ||||||||||
1979 | アルカトラズからの脱出 出演 | |||||||||
1978 | ダーティファイター 出演 | |||||||||
1977 | ガントレット 監督・出演 | |||||||||
1976 | アウトロー 監督・出演 | |||||||||
ダーティハリー3 出演 | ||||||||||
1975 | アイガー・サンクション 監督・出演 | |||||||||
1974 | サンダーボルト 出演 | |||||||||
1973 | 愛のそよ風 監督 | |||||||||
ダーティハリー2 出演 | ||||||||||
1972 | 荒野のストレンジャー 監督・出演 | |||||||||
シノーラ 出演 | ||||||||||
1971 | 恐怖のメロディ 監督・出演 | |||||||||
The Beguiled: The Storyteller 監督デビュー | ||||||||||
ダーティハリー 出演 | ||||||||||
白い肌の異常な夜 出演 | ||||||||||
1970 | 真昼の死闘 出演 | |||||||||
戦略大作戦 出演 | ||||||||||
1969 | ペンチャー・ワゴン 出演 | |||||||||
1968 | 奴らを高く吊るせ! 出演 | |||||||||
マンハッタン無宿 出演 | ||||||||||
荒鷲の要塞 出演 | ||||||||||
1966 | 華やかな魔女たち 出演 | |||||||||
続・夕陽のガンマン 地獄の決斗 出演 | ||||||||||
1965 | 夕陽のガンマン 出演 | |||||||||
1964 | 荒野の用心棒 出演 | |||||||||
1963 | ||||||||||
1962 | ||||||||||
1961 | ||||||||||
1960 | ||||||||||
1959 |
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1958 | 壮烈!外人部隊 出演 | |||||||||
シマロン砦の待ち伏せ 出演 | ||||||||||
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1957 | 二人の可愛い逃亡者 出演 | |||||||||
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1956 | 最初の女セールスマン 出演 | |||||||||
底抜け西部へ行く 出演 | ||||||||||
Away All Boats 出演 | ||||||||||
Star in the Dust 出演 | ||||||||||
Never Say Goodbye 出演 | ||||||||||
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1955 | Francis in the Navy 出演 | |||||||||
Lady Godiva of Coventry 出演 | ||||||||||
世紀の怪物 タランチュラの襲撃 出演 | ||||||||||
1954 | 半魚人の逆襲 で俳優デビュー | |||||||||
1930 | 5'31 カリフォルニア州サンフランシスコで誕生 |
運び屋 | |||||||||||||||||||||||||||
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蘭の栽培家として有名だったアール・ストーン(イーストウッド)だが、ネット時代の到来によって商売が立ちゆかなくなってしまい、家も売り払ってホームレス同然となってしまう。そんなある日、アールは運転の上手さを買われ、荷物をテキサスに運ぶ仕事を頼まれる。それで見合わない額の報酬を受け取ることになる。実は麻薬の運び屋にされてしまったことが分かるのだが、他にすることもないため、そのまま運び屋の仕事を続けることになった。麻薬当局には全く気づかれずに仕事をこなしていくアールだが… 実在の高齢者運び屋の物語をベースにした物語。最近はすっかり監督してのみ映画に関わってきたイーストウッドが10年ぶりに主演を務めた。 これまで最後のイーストウッドの主演作と言えば2008年の『グラン・トリノ』ということになるが、この時点でも相当な老人。それから10年後はどうなってるのかと思っていたら、普通に更に歳食ってた。 それで『グラン・トリノ』と較べてどうかと思うと、演出もストーリーも随分丸くなった。 主人公の性格は少々偏屈で、家族をあまり顧みずにやりたいことばかりをやってた親父なので、『グラン・トリノ』のウォルトも本作のアールもあんまり変わりはない。どちらも自分なりの信念を持って生きてきたが、ある事件を経験することで、少し性格に変化が起きる。そんな作品となる。 ただ、この二作は演出が大きく異なっている。『グラン・トリノ』にあったソリッドな演出と硬質の物語はなりを潜め、どれも結構ぐだついてるし、特に民族に対するステロタイプな偏見が目に付いてしまう。 ただ、それが悪いかと言われると、全く逆。だって『グラン・トリノ』と同じ事をやっても意味がないし、イーストウッド自身が主演をするのだから、今のイーストウッドだから出来る演技をして欲しい。 そしてそれはきちんと果たされた。 年を取り過ぎてるため、もうあまり怖いこともないけど、それでも家族を捨てた負い目があって、最期くらいは家族とともにいたいと願う、ある意味普通のお爺ちゃんが、「いつ死んでも構わない」というだけのアドバンテージで危険な任務を飄々とこなす。こんなもんで充分面白いのだ。それできちんとドラマになってるし、何より“今の”イーストウッドだからこそ作る事が出来るし、演じることが出来るものをちゃんと見せてくれているのだから。 |
15時17分、パリ行き | |||||||||||||||||||||||||||
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2015年夏。アメリカ出身の幼なじみの悪ガキ三人アンソニー、アレク、スペンサーは、休暇を利用してヨーロッパ旅行へと出かけた。オランダのアムステルダムでたっぷり遊んだ後、次の目的地パリに向かうために8月21日の15時17分発の電車に乗り込んだ三人。だがそこにはテロリストが乗り込んでいた。 2015年にヨーロッパで実際に起こった列車内のテロ事件を未然に防いだ事件について描いた作品。 2000年代になって一気に頭角を現したイーストウッド監督。これまで様々なジャンルに挑戦してきたが、『J・エドガー』以来実在の人物をモティーフにした作品を連発してきた。多分これが固定化された作風と言う事になるのだろう。 そしてイーストウッドは、どんどんリアルタイムに近い時間軸の物語を作り始めた。『アメリカン・スナイパー』であれ『ハドソン川の奇跡』であれ、10年以内に起こった物語を映画にしているし、実際現場にいたという人物を多用し始めた。 それが出来るのは監督ならではだという。 事情通の話によれば、ハリウッドの監督の中ではイーストウッド監督は極めつきの早撮りで、かちっとした演技指導もしないため、素人でもカメラの前に立てるそうだ。 その強みを最大限に活かしたのが本作となる。なんせここに登場する人の大部分は素人そのもの。実際にこの事件に関わった当人を多用して一気に撮り上げたらしい。 その意味では唯一無二のリアルな作品とは言えるのだが、リアルすぎる話ってのは、盛り上がりは一瞬だけなので、えてして退屈なだけのものとなる。 本作の場合、地道にその「退屈さ」を描いていることもあって、とにかく盛り上がりに欠ける。それが全く楽しくないってのが最大問題。最後のアクションに至るまでが長く、肝心なアクションが一瞬。どうやってこれで盛り上がるというのやら? 実験的作品という位置づけで良いだろうか? |
ハドソン川の奇跡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016米アカデミー音響賞 2016日本アカデミー外国作品賞 |
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2009年1月15日、機長チェズレイ・サレンバーガー(ハンクス)の操縦するUSエアウェイズのジェット旅客機がマンハッタン上空で鳥の群れに突っ込んでコントロールを失ってしまった。チェズレイは必死に機体を制御し、ハドソン川に着水させることに成功。乗客全員の命を救った。だがその後、航空管制局の指示に従わず、ハドソン川に無理矢理着水させたことによって損害賠償案件にされてしまい、裁判を受ける羽目に陥る。全ての証拠が不利な状況でチェズレイが取った行動は… 実際に起こった事件を描いたセミドキュメンタリー作品。 本作の元となったのはUSエアウェイズ1549便不時着水事故事件(wiki)であり、事故とその後に起こった裁判について再現したドラマとなっている。事故そのものについては一瞬の判断によるものとなるために映画としてはそう時間を取ることが出来ない。そのため基本的にはその後に起こった裁判を主軸に、事故そのものは思い出として挿入される形をとっている。 航空機事故の裁判という意味では、既に本作に先行してゼメキス監督の『フライト』(2012)があった。似たような設定と物語展開ではあるが、本作はちゃんと独自の魅力を作り出している。 本作の面白さは、第一点としては裁判作品としてきちんと作られていると言う事。ハリウッドでは裁判作品と言うのは立派な一ジャンルを形成しており、そこにはいくつもの定式が存在する。イーストウッド監督はこれまでに定式に則った裁判作品を作ったことはなかったはずだが(一応『ミスティック・リバー』と『チェンジリング』裁判も扱っているが、それが主題ではない)、難なくその定式をきちんと使いこなしている。 裁判ものの定式というのは、簡単に言えば、どんでん返しである。主人公側に物的証拠が不利な証拠がずらっと並べられ、これは敗訴決定か?と思わせたところで主人公が思いもしなかった証拠を提示、あるいは意外な提案をすることで判決が逆転してしまうというパターンが使われる。本作もチェズレイが取った行動は、規定違反とされてしまい、このままでは重罪確定か?と思わせたところで…というパターンをちゃんと踏襲しており、とても安心感のある作風となっている(Wikipediaの記事によればシミュレーション飛行を行った人達は全員チェズレイの判断の正しさを証明していたそうなので、あくまでこれは映画上の演出だが)。 確かにそれは上手くできた物語だが、これだけでは別段イーストウッド監督である必要性はない。監督らしさを発揮したのは、繰り返し演出されるチェズレイの脳内のフラッシュバックであろう。 特に近年のイーストウッド監督作品に顕著なのがトラウマ描写である。某か大きな事故が起こり、その当事者がその思い出に苦しめられ続けるという展開が大変多く、これが近年の作風の特徴にもなっている。そして本作の場合、そのトラウマとなった事件が様々にパターンを変えつつ主人公を苛んでいく。編集によって、その描写は物語が進むに連れるように時間軸を合わせていく。物語冒頭にあったのは、エンジン停止の瞬間。それから裁判状況が進んで行くに従い、その事故模様も推移していき、クライマックス付近で実際の着水シーンから救出までと、盛り上げ方が上手く作られていて、「なるほどこんな作り方もあるのか」と感心させてもくれた。この編集あってこそ、本作は間違いなくイーストウッド作品であると納得できる。 あと、本作のセミドキュメンタリー性は、管制局に勤務する人達のかなりのパーセンテージは本人が演じているというところにも現れている。スタッフロールでずらっと「Himself」「Herself」が並んでいるのは壮観でもあった。 |
アメリカン・スナイパー 2014 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014米アカデミー音響賞、作品賞、主演男優賞(クーパー)、脚色賞、編集賞 2014英アカデミー脚色賞、音響賞 2014放送映画批評家協会アクション映画男優賞(クーパー)、アクション映画賞 2015日本アカデミー外国作品賞 2015MTVムービー・アワード男優賞(クーパー)、作品賞 |
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幼い時から父親から狩猟を教わって成長したクリス・カイル(クーパー)は、1998年にテレビでレバノンのアメリカ大使館襲撃事件を観て愛国心に目覚め、海軍に入隊し、シールズの一員となる。その後タヤ(ミラー)と結婚し、息子の誕生を心待ちにしていたのだが、中でも抜群の射撃の腕を持つようになった彼は、その後のアメリカ同時多発テロ事件に伴うイラク戦争において狙撃者として頭角を現す。やがて軍内で「伝説」と称されるほどの腕前を見せるようになるのだが、帰国するたびに虚しさを覚えるようになっていく。 様々なジャンルに挑戦して、ほぼ確実にヒット作を作り上げるイーストウッド監督。かつてはウエスタンに強いこだわりを持っていたが、『許されざる者』と『マディソン郡の橋』の両作でその思いに区切りを付けた後は、ほんとうに様々なジャンルを切り開いていった。 その中でも比較的戦争ものについてはよく手がけている。『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』から始まり、『父親たちの星条旗』、『硫黄島からの手紙』を経て本作へと至る。合計4作、それぞれ全く違う戦争について描いている(主人公が過去従軍したという設定であればもっと多い)。 その戦争映画についても立場的には『ハートブレイク・リッジ』は結構愛国寄りの、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』はリベラル的と、描き方も変わってきているのだが、本作はどうだろう? ネット上のいくつかの映画評に目を通してみたが、多くは本作を「愛国的」「好戦的」と称しているが、少なからずの人が、「戦争の嫌な部分を見せられた」というレビューを書いている。実際私自身もこれを観て、反戦的な作品というつもりはないが、少なくとも好戦的な作品とは思えないのも事実。 なんでこんなに評価が分かれるのか? それはイーストウッド監督の作り方によるものじゃないかと思える。これまでの何作かの戦争映画がそうであったように、本作も監督のチャレンジ精神による部分が大きいのではないだろうか。 それはすなわち、“感情を交えずに描く”という部分。映画は監督の個性を表すものではあるが、それを敢えてシャット・アウトして、監督自身の感情面を全く出さず、フラットな形で映画作りをしてみた。 事実を事実として映画作りをした結果、観ている側は本作の奥にある監督の個性が見えなくなり、自分自身がいったいイラク戦争についてどう考えているのか?ということについてつきつけられることになる。 極めてフラットな作品なので、観ている側が「これは好戦的」と思えばそうなるし、「これは反戦的」と思えばそうなる。観ている側に丸投げしてしまってるかのようだ。 この作りは、似た作りでオスカーも得たキャスリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』(2009)と比べると、違いがよく分かる。 あの作品も愛国的な作品なのか、戦争に批判的なのか観た当時はよく分からず、観客にどう感じているのかを突きつけるようなものかと思っていたが、観てしばらくすると、あれはかなり意図的にマッチョな作品に仕上げたのだろう。と納得がいった。似た作りであっても、あの作品にはちゃんと“タフさ”を肯定する監督の主張が感じられるのだ。 対して本作は、戦争に関しては監督の主張というものが透けて見えない。イラク戦争に対し、肯定的でも否定的でもない。ただクリス・カイルという人物が書いた手記を丁寧に映像化することのみに特化した感じになってる。言い方は変かもしれないけど、ドキュメンタリードラマに近いものがある。それが魅力である。ただし、映画とは監督の主張を見せるものであるという先入観を持っていると、本作はどうしても物足りなさをどうしても感じてしまう。 だからこそ本作は相当特殊な作品ではないかと思える。 ただ、監督には主張がない訳ではない。改めて監督の作品を並べてみると、確かに共通するものがある。 それがPTSD(Posttraumatic stress disorder 心的外傷後ストレス障害)というもの。監督作品に登場する主人公たちの多くはPTSDに苦しめられる人物が多い。『パーフェクト・ワールド』や『ミスティック・リバー』はその顕著なものだが、『父親たちの星条旗』であれ、『ブラッド・ワーク』であれ、主人公は過去に犯罪もしくは戦争に直面して、そこで心の傷を負ってしまった人ばかり。そんな人たちを映画で表現したいというのが監督の一貫した思いなのかもしれない。 |
ジャージー・ボーイズ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014日本アカデミー外国作品賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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J・エドガー 2011 | |||||||||||||||||||||||||||
2011ゴールデン・グローブ男優賞(ディカプリオ) 2011放送映画批評家協会男優賞(ディカプリオ)、メイクアップ賞 2011AFIベスト10 2011ナショナル・ボード・オブ・レビュートップ10 2012キネマ旬報外国映画第9位 2012アメリカ映画俳優組合主演男優賞(ディカプリオ)、助演男優賞(ハマー) |
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FBI創設者にして実に48年もの間長官の職にあったジョン・エドガー・フーバー(ディカプリオ)は回顧録の作成にとりかかり、思い出を語り出す。それは無政府主義者やマフィア、児童誘拐犯、共産主義者との戦いの歴史であり、そのままFBIの発展の記録でもあった。一方回顧録の書き取りの中で、母(デンチ)や一生をその職に捧げた個人秘書のヘレン(ワッツ)や自らの片腕クライド・トルソン(ハマー)との関わりの歴史でもあった… 老境に達して更にチャレンジ度合いを増しているイーストウッド監督による歴史的作品。型破りの功罪併せ持つFBI創設者のフーバーに焦点を当て、それを出来るだけ冷静な目で見つめた作品に仕上げている。 ただ、冷静とは言っても、冷静に描けば描くほどフーバーという人物は鼻持ちならない人間になってしまうのは致し方のないところ。特に自由を重要視する映画人にとっては、アメリカの自由を制限するFBIはそのまま敵のようなもので、その被害を実際に受け続けてきたイーストウッドだからこそ作り得た作品とも言える。特に時代の流れの中でアメリカという国を描き続けてきたイーストウッドの面目躍如と言えるだろう。 この作品の巧さは、ここでFBIに対してもフーバーに対しても一言も文句は言ってない(せいぜいフーバーがゲイだったと言ってるところくらい)のだが、むしろ正義側に立たせているのだが、それが大変皮肉っぽく見えてしまうと言うこと。彼は口ではアメリカの自由を守るためにFBIを設立し、その結果自由の国アメリカが出来たということになっているのだが、今やスパイ大国となったアメリカが本当に自由と言えるのか?と言う事を突きつけようとしたようでもある。結局この作品を観て“自由”というものを考えさせようとしたのが本作の大きな特徴とも言えるだろう。 自由を得るためにほんの僅かな不自由を覚悟せよ。少しずつその不自由は増えていくが、馴れていく内にこれが自由と思えるようになるから。それが今のアメリカ、いやネット社会にある世界の姿とも言える。この作品は単に一人の人間を描くだけでなく、自由という言葉の意味が変質している事を伝えようとしたかにも思えてくる。 かつてイーストウッドは『パーフェクト・ワールド』、『ミスティック・リバー』、『父親たちの星条旗』と言った作品を通してアメリカ人にとっての自由とはどんなものなのかを描き続けてきたが、これは歴史を振り返ることによって自由を考えた作品と言えるだろう。 ただ、それとは関係なく、ここに描かれるフーバーの生き方というのはとても面白いものがある。かつて押井守が『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』(1993)で戦後の日本人を「何もしない神様」と称したことがあった。世界の全てを画面の向こうに観て、安全な場所から全てを眺めるだけの日本人を揶揄していたことがあったが、その意味における「神様」の最先端にいたのがエドガーだったとも言える。いや、極端に言ってしまうと、政治好きのオタクの理想的な姿といった方が良いか。 人の知らない政治家の情報を握り、自分は安全なところで口を挟むだけ。それで部下の手柄は全て自分のもの。たとえ相手が誰であっても、相手の弱みを握っているので対等以上の口利きが出来る。そして得られるのは充分に豊かな生活と狭い世界での賞賛…オタが求めるものを何でもかんでも持ってる。なんせ大統領を操れるのだ。これほどの権力を握れたアメリカ人は希有だ。 更に素晴らしいのは、そんな秘密だらけの生活をしていながら、心から語り合える友がおり、更に自分が死んだ時は秘密を全て消し去ってくれる人がいる…羨ましいというか何というか。 これがオタクの“生き方”であり、“逝き方”でもある。 |
ヒア アフター 2010 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010米アカデミー視覚効果賞 2010ナショナル・ボード・オブ・レビュートップ10 2011キネマ旬報外国映画第8位 2011サターンSF作品賞、主演女優賞(フランス)、若手俳優賞(フランキー&ジョージ・マクラレン)、監督賞、音楽賞 |
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フランスの女性ジャーナリストのマリー(フランス)は、恋人とバカンス中津波にのまれ、臨死体験を経験し、その時以来死者の国を覗くことができるようになった。イギリスの少年マーカス(マクラレン)は愛する双子の兄ジェイソンを亡くしてしまった悲しみから立ち直れず、兄と再会することを望む。アメリカ人ジョージ(デイモン)は、かつて霊能者として知られた人物だったが、それに伴うトラブルから、現在はできるだけ人と会わずに暮らしていた。死者との関わりを持つ、そんな三人の運命が交錯する時… 常にチャレンジ精神を持ち続け、毎回異なった手法で観客を楽しませてくれるイーストウッド監督最新作。今回はスピルバーグを製作総指揮に迎えてのややオカルト気味に、死者との交信というものを物語の主題にとらえている。ただ、上映期間中に311の事件が起こってしまったため、日本国内では放映自粛の憂き目にあった、やや不憫な作品でもある。 監督としてのイーストウッドは、特に近年作品単体として隙のないものを作り出すようになったが、特にこの作品、映像的には本当に隙がない。出てくる会話の一つ一つ、脇役を含めて登場するほぼすべてのキャラクタの立て方、たいして大きなクライマックスがある訳でもないのに、それに至る過程をしっかり描いて静かに静かに盛り上げる手法。どれを取っても一級品である。というか、これほど古典的な意味で映画をしてる映画は最近あまり見られなくなってきたことを思い起こさせる。その意味で“これぞ映画”的な楽しみを提供してくれる作品ではある。 ただ、映像としてはとても楽しめる作品には違いないけど、それが一般受けするのか?というと疑問がある。取り立てて大きな盛り上がりがあるでなし、事件も起こらないしで、物語としては結構退屈な部分もある。 ただ、物語としての本作を考えてみると、“失ってしまったもの”と“得てしまったもの”の対比を描いた作品であるとは言えるだろう。 本作には3人の主人公が存在し、一人はアメリカ、一人はイギリス、そしてもう一人はフランスと、全く違った場所で、それぞれ死者との特殊な関わりを持つようになっている。彼らはそれぞれかつて何かを失ったり、あるいは得たりしているが、それが特殊なため、付随して余計なものを背負い込んでしまったり、あるいは失ったりもする。得たものと失ったもの、それらを併せて考えてみると、不思議なことに、失ったものばかりに思えてしまうために、彼らは悩む。たとえばジョージは死者との交信が出来てしまうが故に普通の生活ができず、せっかく出来た恋人にも逃げられる。マリーも同様。彼女はこの能力をポジティブに考えようとするが、彼女の考えは一般には受け入れられず、結局前からの恋人も仕事も失う。マーカスは自らの半身とも言える双子の兄を失ってしまって、それを埋め合わせる何者も持たない。彼らに共通するのは喪失感ばかりだ。その代わり何かを得てはいるが、喪失感が深いため、得たものに気づくことはない。 そんな彼らが出会うとき、物語は動き出す予感をはらんで収束する。これを「投げだし」と見るか、「余韻」と見るかで評価も変わってくるのだが、少なくとも、これから彼らは「何か」を得ていくだろう。その道行きを祝福することこそが本作で求められていることなのかも知れない。 |
インビクタス 負けざる者たち 2009 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009米アカデミー作品賞、主演男優賞(フリーマン) 2009ゴールデン・グローブ男優賞(フリーマン)、助演男優賞(デイモン)、監督賞 2009放送映画批評家協会作品賞、主演男優賞(フリーマン)、助演男優賞(デイモン)、監督賞 2009ナショナル・ボード・レビュー監督賞、主演男優賞(フリーマン)、ベスト10 2009米俳優組合主演男優賞(フリーマン)、助演男優賞(デイモン) 2009アメリカ製作者組合作品賞 2010日本アカデミー外国映画賞 2010キネマ旬報外国映画第2位 |
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1994年。南アフリカ初の普通選挙が行われ、27年間思想犯として投獄されていたネルソン・マンデラ(フリーマン)が正式に大統領に就任した。時代の変化を恐れるアフリカーナに対し、宥和政策を取る事を宣言するマンデラ。そんな彼が目を付けたのは、南アフリカでワールドカップが行われるラグビーだった。アパルトヘイトの遺物とそしられ、国の恥と嘲られるスプリングボックスのキャプテン、ピナール(デイモン)を呼び出したマンデラは、彼にこのワールドカップで全ての国民を一つにしたいと語る… 昨年『チェンジリング』、『グラン・トリノ』という2本の作品を作り上げ、矢継ぎ早に作り上げた、実話を元にした作品。特に近年イーストウッド作品の質は高く、これもかなりの期待作。 それで本作だが、極めてフォーマットに則った作品だ。と言うのが第一印象。 スポーツ映画というのは、特にアメリカでは定期的に作られ、多くは物語が似通ったものとなる。良い例が『メジャーリーグ』で、これはスポーツ作品の良いところをうまくとらえてコメディタッチで作ったもの。フォーマットとしては、崖っぷちに追い込まれた弱小チームが、シーズンを通して奇跡の代逆転を行う。と言った感じで仕上げられる。実話を元にしたものも多々。特に本作の場合はプレイヤーだけでなく、それを見守る人物を中心にしているため、『コーチ・カーター』の作風にも似通ったものを感じられる。 そう言う意味では素直に観て素直に楽しめる作品には違いない。ひねった作風の多いイーストウッドにしては珍しい王道作品とも言えるか。 しかし、王道は王道なのだが、その辺はさすがのイーストウッドと言ったところで、細かいところが妙に凝っていて、細部に本作の楽しさは詰まっている。 では本作の、他のスポーツ映画と異なるところはどこか。一つには前述したようにプレイヤーの外側の視点から描かれているという点だが、この作品の場合は、その「外側からの視点」が複数取られている。一つには言うまでもなくマンデラ大統領だが、もう一つ、マンデラを警護するシークレットサービスの側の視点もある。特にシークレットサービス側の視点は本作ではかなり大きなウェイトを占めていて、肌の色が違う混成チームが、最初反発しあい、それがマンデラの人となりに感化され、徐々にチームへ、そして同じラグビーチームを応援しているうちに本物の仲間へと変化していく課程が克明に描かれている。最初は車も別々。チームとしても肌の色で分けられていたのが、最後には同じ車に乗って歓声を上げていたりするところが細かいけど巧い作りになってる。 そしてそのシークレットサービスチームはそのまま南アフリカの人々の縮図として描かれるようになり、ラグビーを元に、互いに認めあっていく構成を取る。だから本作はスポーツ映画を越え、国作りの物語にもなっている訳だ(ピナールの家族の描写もちらちら見せて、これが大多数の家庭の状況と言う含みも作られてる)。露骨な狙いかもしれないけど、その膨らみがあるからこそ、本作は面白くなる。ここでの面白さは、マンデラという人物が牢獄に繋がれた時、全てを許すことによって本物の精神の自由を手に入れたと言う部分だろう。だからこそ、大統領職という、最も不自由な状態で、「自由」を国民に与え続けようとしたという部分だろうか。理想的に描かれすぎの部分があるが、だからこそ、監督はこれを作りたかったのだろう。 そしてマンデラの前半生についてもかなり巧く構成されている。本作は基本的に過去の描写はせず、マンデラが大統領になった直後から一方向に時間は流れているのだが、事ある毎に過去の話をマンデラ本人にさせることによって、その前半生をしっかり描き込んでいる。一本の映画の構成としては誠に巧みだ。 キャラも適材適所と言った感じ。イーストウッドと組んで長いフリーマンの貫禄の演技は言わずもがなだが、デイモンがすっかりヴェテランの貫禄をまとわせている。『戦火の勇気』の時の激やせ&ナイーブさはもはや全く過去のもの。すっかり貫禄が付き、それでも繊細な演技をこなすあたり、この人はまだまだ延びる役者だよ。実際同じようなフットボール選手を描いた「リプレイスメント」では、どうしてもリーヴスの痩せ方が気になって仕方なかったものだが、ここでのデイモンの大幅増量は、しっかりラグビープレイヤーしていて、演技に対する姿勢の真面目さも見えてくる。 「老いてますます盛ん」とはよく言うが、決してチャレンジャー精神を失わないイーストウッドには改めて敬意を表そう。 |
チェンジリング 2008 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009日本アカデミー外国作品賞 2008米アカデミー主演女優賞(ジョリー)、撮影賞、美術賞 2008英アカデミー主演女優賞(ジョリー)、監督賞、脚本賞、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、編集賞、音響賞 2008カンヌ国際映画祭パルム・ドール 2008ゴールデン・グローブ女優賞(ジョリー)、音楽賞 2008放送映画批評家協会作品賞、主演女優賞(ジョリー)、音楽賞 2008ナショナル・ボード・オブ・レビュー作品賞 2008アメリカ映画俳優組主演女優賞(ジョリー) 2009キネマ旬報外国映画第3位 2009サターン主演女優賞(ジョリー)、作品賞/アクション、アドベンチャー、サスペンス、監督賞 |
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1928年ロサンゼルス。シングルマザーのクリスティン・コリンズ(ジョリー)が、ある日仕事から帰ってくると最愛の息子ウォルターが家からいなくなっていた。警察に通報し、翌日から警察による捜査が始まったが、しばらくは全く手がかりもなく、時間ばかりが経過していった。そして5ヶ月後、ウォルターがイリノイ州で見つかったという朗報が入る。列車で帰ってくる我が子を駅に出迎えるクリスティン。だが、列車から降りてきたのは、ウォルターとは別人の全く見知らぬ少年だった… 1928年にロサンジェルスで実際に起こったゴードン・ノースコット事件を題材に、ヨーロッパの民話“取り替えっ子”を意味するタイトルを冠した物語。製作にはロン・ハワードが当たっている。 もう80歳を目前となったイーストウッド監督。普通この年齢になれば大抵は監督を引退するか、さもなくば自分の好きなもの、軽いコメディ調のものを作ったりするのが普通だと思うが(黒澤明や新藤兼人なんかがその典型的例だ)、この人は全然枯れてない。と言うか、ここまで挑戦的な作品をまだ作るのか?と、呆れるほどに感心。いや、ほんとによくこの歳でこんな重い物語を作れるよ(勿論褒めてるんだよ)。 物語もきちんとしているが、ここに内包されているのは現代に通じるものばかりで、しっかり社会問題を直視しており、しかもそれに対して一般の人間が出来ることは何か。色々な問いかけが投げかけられてる。ここに挙げられてるのは幼児誘拐、官憲の腐敗ぶり、精神病棟のあり方、大衆に出来る社会運動の勇気について、死刑囚の扱い方、死刑問題そのものに対して。と、実際多岐に渡り、それぞれについてこの映画をベースとして長いレポートが書けそうな問題ばかり。見事な社会派作品になってる。 それらの社会問題的考えで共通するのは、人々の普通の社会生活を脅かす存在との戦いについて語っていると言うこと。 例えばここで幼児誘拐というものについて考えてみると、イーストウッド作品には特に近年になり幼児誘拐を題材にした作品が多い。本作の場合は残された親についてのストレートな内容になっているが、他に誘拐犯の方を主人公にした『パーフェクト・ワールド』があるし、PTSDとしての幼児誘拐を描いた『ミスティック・リバー』もある。それぞれに視点を変えつつ幼児誘拐について描き続けてきたわけだが、イーストウッド自身がこの問題についてどれだけ考えているのかというのが分かる。おそらくこれはイーストウッドなりの正義の考え方にまとまるのだろう。イーストウッドの正義とは、力を持つものが、普通の生活を幸せとしている人間を脅かす悪意と戦うこと。その際自分を悪に染めても戦い続けるという構図にはまる。 それと完全に離れるのが、弱者を虐げる存在になる。それがいくら社会正義を主張したとしても、弱者を迫害した時点でイーストウッド作品の主人公はそれを断罪する。本作ではそれは実際に子供を誘拐したゴードンだけでない。いわば子供を失った女性を虐げるような社会に対してもその矛先は向けられてる。ここでは過激な牧師役を演じたマルコヴィッチが彼女を応援する役柄になってるが、どこか悪者っぽさを持たせてるのもなるほど頷けるポイントだし、ジョリー演じるクリスティンが息子を奪った存在に対しては、決して妥協せずに戦い続ける姿にも重なる。罪を告白しようという、そして絞首刑に処せられるゴードンに対し、決して目をそらさずに見守っている事からも分かる…ああ、そうか。これは女性版の『アウトロー』と言っても良いんだ。 後、イーストウッドは女性を上手く撮る、というか、女性の演技力を引き出す事に長けた人で、ここでのジョリーの演技が又素晴らしい。ジョリーと言えばアクション女優としてしか見られなかったのに、本作の母性本能に溢れた姿、特に取り乱した時に顔のパースまで狂うような歪んだ表情には、素直に脱帽。この人こんなに上手かったのか。それに驚いたよ。 演出もソリッドにまとめてあり、特にゴードンの農場への踏み込みシーンはどことなくフーバーの『悪魔のいけにえ』(1979)を思わせ、あたかもホラーシーンっぽくて、ちょっと怖くて目を伏せてしまうほどの緊張感。社会正義がそのまま人を押しつぶす機械的構造を灰色の壁で演出する方法など、本当に見事。 …と、本当に褒めてばかりなのだが、一つだけ致命的なのは、本作は「楽しくない!」という一言に尽きる。てっきり娯楽作品だと思って観に行ったのに、こんなに重いのを叩きつけられてしまってはなあ…実際観終えた後で消化が無茶苦茶悪い。久々に本当に精神に来る作品を劇場で観てしまったし、途中からは「早く終わらないか」と時計をちらちら見ながらだったから…私には精神的にきつすぎた。せめて終わりだけでももうちと希望が持てるようなものにできなかったものか?その点のみで点数を落とさせていただいた。 |
グラン・トリノ 2008 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009日本アカデミー外国作品賞 2008ゴールデン・グローブ歌曲賞 2008放送映画批評家主演男優賞 2008AFI映画トップ10 2008ナショナル・ボード・オブ・レビュー主演男優賞(イーストウッド)、脚本賞、作品賞 2008エドガー・ライトベスト第14位 2009キネマ旬報外国映画第1位 2009毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞 2009報知映画外国映画賞 2009映画館大賞 2009セザール外国作品賞 2009ブルーリボン外国作品賞 2009サターン作品賞/アクション、アドベンチャー、サスペンス 2009allcinema興行収入第17位 |
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ミシガン州デトロイト。45年もの間勤め上げたフォードの工場を引退し、妻にも先立たれた偏屈な老人ウォルト・コワルスキー(イーストウッド)。一人住まいとなった今は、愛犬を傍らに置き、ビールを片手に自宅と72年製フォード車グラン・トリノを綺麗に保つことだけを楽しみにしていた。しかし彼の暮らす住宅街には次々にウォルトの嫌う移民のアジア系の人々が住み始めていた。そんなある日、隣に住むモン族の少年タオが不良少年グループに絡まれているのを見つける。丹精込めた庭から彼らを追い払おうとライフルを手にしたコワルスキーだったが、結果的にタオを 助けることに… 老いてますます盛んというか、70を超えてから次々とすごい映画を次々に作るようになってきたイーストウッド監督だが、2008年には二つの、やはり凄い映画を作り上げた。片方は、イーストウッド自身が近年テーマにしている子供をめぐる社会のありかたと、残酷な時代に生き続けねばならない人間の意志と言ったものを見事に描ききった『チェンジリング』。そしてヒーローとして生きてきた自らを、すべてさらけ出して、自分自身を埋葬したかのような本作。予算や、物語の切実度など、『チェンジリング』の方にかなり重点は置かれていて、本作は結構低予算で作られているのが分かるのだが、そのどちらも違った意味での素晴らしい出来で、特に本作は、見事なくらいに心にはまった。この二作を連続して観る限り、辛すぎて正視するのもきつかった『チェンジリング』でいろいろ吸い取られてしまった分、この作品でいろいろいただくことができた。と言った感じ。それだけ見事なくらいにスパッと心にはまってくれた作品だった。 一見して思ったことだが、本作はイーストウッド監督作品らしさと、らしくなさと言うのを併存した物語構成となっている。かなり初期部分に一回緊張する場面を持っていき、その後特有のダレ場を通って、一瞬のラストシーンへと転換していく、といういつもの形式を使っているのだが、昔の作風とは異なり、ダレ場があっても、物語を通して全然退屈しない上手が映えている。イーストウッドは特に映画での弛緩シーンを丁寧に作る監督で、それがかつては逆の作用を起こして作品全体をぼかしてしまっていたものだが、この作品ではそのダレ場をきちんと設定していながら、その部分を飽きさせなかったのが大きい。珍しくコミカルな演出を入れたお陰でもあろう。特に前半部分では劇場内で忍び笑いが結構聞こえたほど。ただし、その笑いというのが、あからさまな人種ギャグのお陰。笑ってしまった自分を振り返って自然笑いも自然後ろめたくなるが、これも狙っての事だと思われる。実際画面上には様々な人種が登場し、ウォルトやお隣さん達に様々なちょっかいをかけてくる。それをかわすために毒づいてみたり、他の人種を引き合いに出しては徹底的に毒づいて見せたりと、やりたい放題(当然日本もその中に含まれるが、同時にアメリカという国そのものに対しても毒づいてるので、バランスは取れてる)。その辺の前提があるからこそ、孤独なウォルトの精神と、その孤独を超えたヒーロー性を見せつけてくれる。 イーストウッドほど、これまでのアメリカの映画においてヒーローを演じ続けた人物はいない。一貫したヒーローという意味ではジョン・ウェインという偉大な人物がいるが、イーストウッドの場合は、どんな作品にあっても一切一貫性がない。という点がとてもユニーク。『続・夕陽のガンマン』での、悪そのもののヒーローであれ、『ダーティハリー』の、はみ出し警官であれ、以降の刑事ものや西部劇もの。あるいは『マディソン郡の橋』や『ミリオンダラー・ベイビー』のような毛色の違った作品もあるが、どれを取っても、これまで演じてきたのとは異なった役柄に敢えて挑戦している。その中で成功したものもあるし、失敗したものもあるが、そのどれにあっても一貫しているものがあるとすれば、それは“自分の価値観”というものを大切にしている人物であるということだろう。 自分の価値観というのは、社会生活において重要なものであるとともに、これが強すぎる人間は「空気読まない奴」と言われて排除される傾向にあるのは確か。だから、イーストウッドの演じたどのヒーローを見ても、誰一人空気を読んでる人間はおらず、それゆえに社会からははみ出してる役柄ばかりになってしまう。しかし、その価値観の中には、確かに優しさも含まれるし、自分の美意識が社会と結び付いている場所がある限り、社会のために戦うことも全く厭わない。 そしてその価値観のために彼は常に戦い続ける。役柄によって戦いと言うのも様々で、彼が守ろうとしているもの、例えば家族、例えば赤の他人、例えば秩序、例えば教え子、そう言った、彼にとってはかけがえのないものを守るためには、様々な武器を取る。 これまでの役柄であれば、その大半は銃を取る事が多かった。そしてそれ故にイーストウッドは明確に戦う存在としてのヒーロー性を持っていた訳なのだが、彼自身、戦いとはそれだけではないのではないか?と思い始めたようで、特に新世紀に入ってからのイーストウッド作品では戦いは様々な様相を呈している。例えばそれは『目撃』における、国家機密に関わるスキャンダルをどうすべきか、と言う問題であったり、『ミスティック・リバー』での、三者三様の自分なりの筋の通し方であったり、あるいは『ミリオンダラー・ベイビー』での、一人の生を受けきった責任の取り方であったり、『父親たちの星条旗』での、一般に流布される虚像ではなく、一生をかけて真実を語ろうとする生き方であったり、『チェンジリング』での、妥協しない生き方であったり。自分が主人公になろうがなるまいが、とにかくイーストウッドの中にあるヒーロー性というものを様々な形で世に送り出してきた。 そしてその集大成。現時点でイーストウッドが持ちうる“ヒーロー性”というものを叩きつけたのが本作だったのだろう。 ヒーローとは自分の価値観を持ち、その価値観のために、文字通り“命を賭ける”存在である事。そして、それは他者を救う存在である事。困難なこの二つの前提を見事に両立させて見せた。少なくとも、彼は、彼を取り巻くあらゆる命を守った。普通の文脈ではあり得ない決断であり、それを自ら選択したというその事実だけでも、どれだけ大きな意味合いを持つのか。驚くべき進歩であり、私の全く予想もしなかった、本気のイーストウッドの神懸かりな演技を堪能できた。まさしくこれこそ“衝撃”と言ってしまって良い。 この作品で、ウォルトの決断を「歳を食った」とか、「イーストウッドも落ちた」とは言わないで欲しい。まさしくこれこそがヒーローそのものなのだから。 |
硫黄島からの手紙 2006 |
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2006米アカデミー音響効果賞、作品賞、監督賞(イーストウッド)、脚本賞 2006LA批評家協会作品賞 2006サンディエゴ映画批評家協会作品賞、監督賞 2006ゴールデン・グローブ外国語映画賞、監督賞(イーストウッド) 2006放送映画批評家協会外国語映画賞、作品賞、監督賞(イーストウッド) 2006キネマ旬報外国映画2位 2006サターンインターナショナル映画賞 2006ナショナル・ボード・オブ・レビュー作品賞 2006AFIベスト 2007allcinemaONLINEユーザー投票第7位 |
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1944年6月。日本軍最重要拠点とされた硫黄島に栗林忠道中将(渡辺謙)が着任した。かつてアメリカ留学の経験を持つ栗林は、精神論が幅を利かせていた軍の体質を改めていくが、戦局はますます日本に不利になっていき、やがていよいよこの硫黄島へのアメリカ軍上陸が目前となっていく。絶望的な戦いを、それでも行わねばならない栗林の苦悩。そして故郷に妻子を残してここに来させられた一兵卒の西郷(二宮和也)ら… イーストウッド監督による“硫黄島戦記”の『父親たちの星条旗』(2006)に続く第2部。同じ硫黄島の戦いを日米双方から見るという面白い作りで、『父親たちの星条旗』がアメリカの視点に立っているのに対し、本作は日本からの目で硫黄島の戦いを観ているのが特徴。ただ、いずれにせよ、戦争というのを極めて乾いた、完全に中立な視点で見ているのが共通していて、この視点の良さがこの二作を貫いているからこそ、本作は二部作と言っても納得いく出来になっている。 その中立ぶりは、本作はキャストのほとんどが日本人によって構成されているという事からも分かる。しかも吹き替えではなく見事に全員日本語で喋っている。これほどリアルな描写もなかろう。 この冷静な視点。実は私が戦争映画を観る際、とても重要視している点でもある。戦争を情緒たっぷりに描くのも嫌いじゃないのだが、それはあくまで戦争映画としてではなく人間映画として。戦争を主軸に持ってきているのに、それを感傷的なものにされてしまうと、とても白ける。その意味で、日本で作られた太平洋戦争ものは、それを見事に取り違えたものばかり…それは確かに無理もないという気もする。日本人は未だ太平洋戦争を消化してないのだから…極論言わせてもらえれば、今の日本と韓国の論争はそこに根があるのだと思ってるし。 つまり、現時点で感情や極端な思想をを交えずに太平洋戦争を描くのは、日本では無理。と思っていた(少なくとも後数十年は)し、だからといって海外の監督が日本人を描けるとも思ってなかった。 しかし、そこはさすがイーストウッド。もの凄く冷静に、しかもリアルに当時の日本人というものを(同時に当時のアメリカ人も)描いてくれている。それは本当に細かい所で、百人針や飯盒飯、排泄物の処理に至るまで事細かく描かれ、ここまでやられると、感動と言っても良いくらい(アメリカでは相当に長いマニュアルが必要とされるだろう)。 特にこの作品で、何の思想的な変更もなく天皇の名前が出てくるのは良い。日本人が描く際、これが鬼門なのだ。それが当たり前に描けているだけで本当にリアルな作品が作られていることが分かる。それに捕虜には寛大と言われていたアメリカ人でも、こういう事が起こりえる。と言う銃殺シーンも、「おお」と思わせる。 そこは分かるし、素晴らしい作品だとも思う。 だけど、なんだかな。妙に入り込めないというか、どこか「面白い!」と素直に言えない部分がこの作品にはあるのだ。 それが何であるのか、どうにも分からず、結局このレビュー書くのも遅くなってしまったのだが(同じイーストウッド監督作品である『許されざる者』(1992)で得た気持ちとよく似ていた)、観終えてある程度の時間ほど経過し、ある程度は考えもまとまってきた。 一つにはドラマ性の欠如。と言うのがあるだろうか?『父親たちの星条旗』は米兵の感情に入り込み、それを極めて乾いたタッチで描いたことが最大の評価点なのだが、本作は果たしてそこまで行ったのだろうか?「俺たちは死ぬためにここにいる」事は確かなのだが、そこで淡々と場当たりな感情の持って行き方しかしてない。これは先ほど言った“感傷的さ”を排除するためかも知れないのだが、全員が全員揃って自分の本当の思い…それは「死にたくない」であったり、「家に帰りたい」出会ったかも知れないが、それを見せないようにしているのが気になった。それらの背後にある感情が出ないため、ドラマが成立してないのだ。局地の戦闘と、穴蔵での、感情を隠した会話だけで進んでいくため、どうにも落ち着かない所がある。 そして、『父親たちの星条旗』にはあった、息をのむ戦闘シーンも本作では残念ながら出なかったのも一点。『父親たちの星条旗』で、まるで無人の島のように思って上陸しきった所を一気に機関銃でなぎ倒されるシーンがあったが、それは本作ではするっと流してしまった(あれは本来栗林自身が考えていたことではなかったとか、被害状況の報告などの脚色はあるものの)。日本軍の意地を見せた起死回生の策!と言う演出があって然りだったと思うし、その後の戦闘も視点があくまで日本軍にあるため、基本的にトーチカや塹壕の中でばかり。カタルシスがどこにもない。 後、『父親たちの星条旗』との接点が極めて低いのも気になったところ。あの作品では描写しきれなかった戦闘部分の裏の部分がここでは出してくれるか?と思っていたので、その部分が少なすぎた気がする。私が思い出せる限りでは3箇所くらいしかリンクしてるところがない。多少嫌味になっても、この二つの作品の関連性を演出すべきだったと思う。 最後に、ストーリーに起伏がなかったのも大きいかも。少なくとも『父親たちの星条旗』には、予想を覆すシーンがいくつも用意されていたのに、本作では玉砕の一点に向かって、素直に向かっていくだけだから。そこがメリハリの無かったかな? ただ、色々文句は言うものの、本作が私にとっても素晴らしい作品であるという事実は変わらないし、本当に良い作品を観たと言う思いにさせられたのも確かなこと。 総じて言えば、本作は戦争映画としてはこれ以上ないほどに素晴らしい作品であるが、人間を描いた作品としては、ちょっと物足りなかったと言ったところ。痛し痒し。 余談だが、本作を最後まで観て、最後の最後に「字幕:戸田奈津子」の名前を見た瞬間ちょっと吹き出してしまった。こんな字幕でもやっぱり名前は出るのね。 |
父親たちの星条旗 2006 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006米アカデミー音響効果賞、音響賞 2006日本アカデミー外国作品賞 2006ゴールデン・グローブ監督賞(イーストウッド) 2006放送映画批評家協会助演男優賞(ビーチ) 2006ブルーリボン外国作品賞 2006キネマ旬報外国映画1位 2006毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞 2006報知映画海外作品賞 2006ナショナル・ボード・オブ・レビュートップ10 2007allcinemaONLINEユーザー投票第13位 |
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1944年。硫黄島に立てこもる日本軍掃討のために上陸したアメリカ軍。予想以上の日本軍の反撃に抵抗に苦しめられつつも、日本軍の立てこもる拠点の一つ擂鉢山を占領することに成功した。そこで写された、6人の兵士による星条旗高揚の写真がアメリカ国内で大反響を起こす。星条旗を掲げた6名の兵士は一躍アメリカの英雄となり、その中で生き残ったジョン・“ドク”・ブラッドリー(フィリップ)、アイラ・ヘイズ(ビーチ)、レイニー・ギャグノン(ブラッドフォード)は急遽帰国させられ、戦時国債キャンペーンのためにアメリカ各地を回らせられる… 有名な硫黄島の擂鉢山に星条旗を掲げる6名の兵士の写真のモデルの一人ジョン・ブラッドリーを父に持つジェイムズ・ブラッドリーのノンフィクション「硫黄島の星条旗」(現「父親たちの星条旗」)を基にした作品で、元々は自分で作ろうとスピルバーグが買い上げたものだが、イーストウッドを監督に、ポール・ハギスが脚本を担当して作り上げた作品。 これだけの豪華スタッフ陣だったら、面白くないはずがない!最近良作を連発するイーストウッド監督と、特に大注目中のハギス(『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)、『クラッシュ』(2005)共に最高点)がどう話を作ってくれるか、期待にわくわくさせつつ。 マジでこれは面白い。私の予想とは全く違った形で楽しませてくれたし、極めて冷静に戦争が描かれているのも大変興味深い。 本作は戦争映画としては大変面白い作り方をしている。通常戦争物は作り方のフォーマットがあって、最初に仲間達の出会い、何度かの戦いを経て仲間内での対立と和解、損失、そして最後に怒濤の見せ場を持って行く。と言った具合。正直な話、私もそれを期待して行ったのだが、しかし本作は敢えてその手法を取らなかった。 本作の特徴は硫黄島での激戦、その後の英雄にされてしまった三人の生活、そして現代の三つの時代を起点に話を次々に切り替えて出来事を語り、戦争の真実というものを淡々と描いている。硫黄島での激戦も確かに描写され、震えるほどの出来に仕上がっているが(この描写は『プライベート・ライアン』(1998)のノルマンディ上陸シーンを超えてるよ)、それは前半で終了、後半は硫黄島での戦いも含め、極めて淡々とした描写で進んでいく。 この“淡々とした”描写がたまらなく良い。戦争映画で淡々とした描写が続くのも大好き。マリック監督の『シン・レッド・ライン』(1998)なんか最高だしね。 しかし、この“淡々と”というのは、何事も起きないと言う意味ではない。ここには大きな問題的が描かれているのだ。 果たして、戦争とは何であるのか?大きな問いだが、それを本作では“英雄”という形でそれを問いかけてくる。 これを言うと叱られるかも知れないが、戦争も又ビジネスの一つである。国家間の紛争は子供の喧嘩のようにプライドを賭けるものではない。自ずとそこには戦争によって得をする人間が存在し、そしてそれを大多数の人間に気づかせないようにするのが商売人である。 戦争そのものによって儲ける人の数は限られるが(そう言うのが観たかったら是非『ロード・オブ・ウォー』(2005)をご覧になって欲しい)、戦争に勝つことによって儲ける人の方が遙かに多い。国家なんてものはその最たるものだろう。彼らは戦争に勝つために必要なことを総動員するが、その多くは国民の命によるもの。そしてそれを可能にさせるのがパフォーマンスである。 “英雄”を作り出し、それを国民の前に晒してみせることで、戦争を続けさせる。それは国家にとって必要なことであり、その“英雄”が本物であるかどうかなどどうでも良いことなのだ。要するに国民が共感しうる、国民が見たがるものであればそれで良いのだ。“英雄”の存在も又経済活動の一環に過ぎないのだ。需要があるからこそ供給がある。 ただ、一方ではその“英雄”にされてしまった方はどうなのか。ただ旗を立てただけ。それが偶然に写真に撮られてしまっただけで英雄にされてしまった三人。彼らは望んでそうなった訳でもなければ、自分が英雄に値するような存在でないこともよく知っている。それでこの経済活動のことが彼らにも叩き込まれるのだが、実際に死線を越え、PTSDにも耐えている彼らには、自分たちのしてきたことがビジネスだとは理解できない。それが彼らにとっては悲劇であり、そして本作を特徴づけている点である。ここでの三者三様の行動が面白い。ドクはこれが前戦で闘ってる戦友のためと思ってやっているが、戦いをもっと個人的なものとして捉えているアイラは自分の立場に耐えられなくなって壊れていくし、単に浮かれているレイニーは後にしっぺ返しを食うことになる。 現代編にいたって、彼らはその事を理解している。理解しているからこそ、老齢になったドクは「本当の兵隊は戦争について語らない」と言っているのだ。それは“生の体験”はいくら説明しても分からない。と言うだけではなく、“国家のため”に自分がやってきたことは、突き詰めて考えると、経済活の一環でしかなかった事を知ってしまったからなのだろう。多少とも自分のしてきた戦争に意味があるとするならば、それは「共に闘った戦友の命のため」としか言いようがないのだ。 低予算映画を除けば、これだけ冷静に戦争を経済活動として捉えている大作映画はこれまで無かった。そして戦争を経済活動と割り切って描いているからこそ、善悪の基準を作らないことに成功している。『クラッシュ』で人間の感情をあれだけ演出しておきながら、筋を冷徹に描ききったハギス脚本だけのことはある(そう言えばハギス脚本作品は本作含めて全部★5だよ。もの凄く相性が良いらしい)。 こういう冷静な目で戦争を描く作品をこそ、これまでずっと観たかった。なんだかんだ言ってもこれは最高だ。 勿論演出部分も良い。特に最初のスタジアムのシーンからぐいぐい引き込まれたし、あの硫黄島の激戦と言い、腕や顔を吹き飛ばされ、内臓丸出しで無惨に倒れる兵士の描写(モザイクものじゃないのか?)、後に、これまで苦しんできた父と子の心からの抱擁まで、一切飽きさせるところがない。 |
ミリオンダラー・ベイビー 2004 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2004米アカデミー作品賞、主演女優賞(スワンク)、助演男優賞(フリーマン)、監督賞(イーストウッド)、主演男優賞(イーストウッド)、脚色賞、編集賞 2004全米批評家協会作品賞、主演女優賞(スワンク) 2004NY批評家協会監督賞(イーストウッド) 2004ボストン映画批評家協会主演女優賞(スワンク) 2004シカゴ映画批評家協会監督賞 2004ゴールデン・グローブ女優賞(スワンク)、監督賞(イーストウッド)、作品賞、助演男優賞(フリーマン)、音楽賞 2004放送映画批評家協会主演女優賞(スワンク)、助演男優賞(フリーマン)、監督賞(イーストウッド) 2004ナショナル・ボード・オブ・レビュー映画制作特別功績賞、第4位 2004AFIベスト 2004ピーター・トラヴァースベスト第3位 2004ロジャー・エバートベスト第1位 2004米製作者組合賞 2004米監督組合賞 2004米俳優組合主演女優賞(スワンク)、助演男優賞(フリーマン)、アンサンブル演技賞 2004米脚本家組合脚色賞 2005日本アカデミー外国作品賞 2005MTVムービー・アワード女優賞(スワンク) 2005セザール外国映画賞 |
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LAのダウンタウンで古い友人のボクサー、スクラップ(フリーマン)と共にボクシング・ジムを営むフランキー。彼のトレーナーとしての腕は確かだったが、ボクサーをあまりにも大切に育て過ぎるため、実力ある若手ボクサー達は新しいマネージャーを雇って彼の元を去っていってしまう。そんなある日、彼のジムにやってきた女性ボクサーのマギー(スワンク)。決してもう若くはない彼女だったが、ガッツとウィットがある彼女にやがてほだされ、フランキーは彼女のトレーナーとなることを了承する。フランキーの指導のもと、めきめきと頭角を現し、次々に相手をリングに沈めるマギーだったが… 2004年作品賞および監督賞でオスカーを取ったと言う、いわば2004年度の勝ち組映画。イーストウッドは『許されざる者』(1992)に続き、二度目の作品賞および監督賞を得ている(そのどちらも主演賞はノミネート止まりだったが)。更にフリーマンは4回目のノミネートで初めてのオスカーを得、スワンクは弱冠30歳にして『ボーイズ・ドント・クライ』(1999)に続き、二度目の主演女優賞オスカー(前は男優賞と言っても良いんだが)。賞を見る限り、完璧な作品といえる。 イーストウッドは古いタイプの映画が好きである事はよく分かる。元より西部劇でデビューを飾ったイーストウッドは、折に触れて自分の監督作に西部劇を投入するし、『ダーティハリー』(1971)の思い出からか、今でも足を使った捜査が主体の刑事物も数多く作ってる。それで本作は、やっぱり70年代のスポコンへのオマージュが込められているかのよう。尤も構成は当時のものよりも遙かにあか抜けているけど。 さて、それで私にとってだが、これはもう、参った!と諸手を挙げて降参するしかなかった。 実は、観る前にはこのコメントはどうやって書くか、そのプロットまで頭の中で出来ていた。俳優としてのイーストウッドと監督としてのイーストウッドのスタンスの違いと、そこに貫く彼のテーマについて、この作品を絡めて書くつもりでいたのだ。 それで本作を鑑賞中、前半から中盤に至るまでは、「なるほどなるほど」と思って観ていた。はっきり言って、そこまでは私の思い通りのコメントが書けたはずなのだ。しかし後半になってそれが一変。まさかこんな風に。しかも前〜中盤の伏線をこう使うか! …いや、そうじゃない。このテーマは、今自分が置かれている境遇についての問いかけが、怒濤のように迫ってきたのだ。 「俺は一体何をやってるんだ。いや、何をやらなければならないんだ?」そう言った自問自答が怒濤のように押し寄せてきて、映画が終わっても、頭抱え込んだまま茫然自失で席を動くことが出来なかった。近くのカップルが笑いながら席を立ったことで、ようやく現実に戻された。 それで、それまで考えてきた本コメントのプロットやら全部頭の中からふっとんでしまった。 映画を観る際、何を目的とするか。それは人それぞれと言えるが、私の場合、“衝撃”という言葉で表している。これは感動とか何とかではない。それは圧倒的な力で私の精神をもぎ取ってくれるようなもの。精神を傷つけられたと感じ、観た事を後悔するような、そんな作品こそが、私にとっての本物の映画なんだ。こういう作品を観られることがあるからこそ、映画は止められない。 本作は確かに感動するものではなかった。物語として観るなら、好きな人と嫌いな人がはっきりと分かれるだろうし、私だってはっきり言えば、こんな終わり方は嫌いだ。だけど、確かにとんでもない衝撃を私に与えてくれた。打ち倒された。 本作は齢70を超えているイーストウッド演じるフランクと、その半分の年齢ながら、ボクサーとしては既に襲い年齢になってしまったスワンク演じるマギーとの愛情の物語のように紹介されているし、確かにそうも見えなくもないのだが、なんか私には全く違って見えた。 ここに私が見たのは、「責任」という言葉だった。しかもかなり痛々しい。 ボクシングとは一応スポーツであるが故に個人の資質がその大部分を担っている。とはいえ、それを支える人間なしでは成り立たないものでもある。そしてそのサポートを担っているのがトレーナーであり、それ故に彼らは責任を持つ。 ただし、その責任の持ち方は、時として選手のためにならないこともある。 フランキーは優秀なトレーナーでありながら、チャンピオンを育て上げることは出来なかった。チャンピオンとなる素質を持ったボクサーは皆、フランキーに恩義を感じつつも、ステップアップのために彼の元を離れていく。劇中でこれはスクラップが「俺のせいだ」と言っていたが、決してそれだけではない。フランキーは自分自身に大変重い責任感を課していたからだろう。一旦面倒をみるとなったら、全てを自分に抱え込んでしまう。だからこそ、彼は慎重になりすぎ、結果的にタイトル戦を何度も見送ることになってしまい、やがてしびれを切らしたボクサーの方が離れていくことになる。 スクラップはそれをよく知っていた。知っていたからこそ、フランキーから離れることが出来ず、一方、才能あるボクサーには新しいトレーナーを紹介したりもする。フランキーとスクラップの関係は、お互いに頼り合いつつも、傷つけあっていく間柄なのだ。この辺りの複雑な心理を見事に体現したフリーマンがオスカーを取ったのも頷ける。 そしてその責任感の重さは、フランキーにマギーの面倒を看ることを躊躇させる。年齢云々ではなく、一旦引き受けたら、最後まで担わねば気が済まない自分自身が怖かったからなのではないだろうか? しかし、色々と葛藤はあったものの、フランキーはマギーを受け入れる。そしてその責任感を発揮し、彼女に次々と好敵手を紹介していく。袖の下を渡して対戦相手を見つけていったのも、決して若くはないマギーを早くステップアップさせねばならないという責任感から出たものなのだろう。だからあれは公的な金ではなく、あくまでポケットマネーであったはずだ。 そして今回のフランキーの責任の取り方は、前のように慎重に慎重を重ね。と言うのとは異なり、全盛時代がそう長くないはずのマギーのために、最短距離でタイトル戦に突き進むこと。 物語として、ここが一番盛り上がるシーンで、次々と相手を打ち負かしていくマギーの姿は大変凛々しかった…が、それは大変痛々しい光景にも見えた。 そしてその責任感は、マギーの全身麻痺という事態でクライマックスを迎えることになる。 彼は、そこで全てを自分に引き受けた。一旦面倒を看ると決めたからには、最後まで命を賭けてその責任を引き受けた。 だからこそ後半の30分が映える。フランキーにとって、マギーは「ミリオンダラー・ベイビー」つまり100万ドルを稼ぐ存在であったことよりも、自分が責任を持って引き受けねばならない存在だという方が遙かに大きかったのだろう。そのためには不実な家族からも彼女を守ろうとしたし、彼女の望みを汲み取り、安楽死までも責任を取った。 私が映画終わってからも動けなかったのは、そこにあった(と、今ではそう思う)。 仕事上、人に対して責任を持たねばならない立場にあって、私は何をやっているのか。本当にそこまでの責任を持っているのか?いや、そもそも、その覚悟があるのか?それを自分に問いかけられた気分で、打ち倒された。今の私にとって、それはやはり“衝撃”としか言いようがない。 アカデミーで主演女優賞、助演男優賞を取ったキャラクタの魅力は勿論のこと、この作品は伏線の張り方が実に上手いのも最後に挙げたい。 特にフランキーがレモンパイに対して偏愛を持っていて、マギーの紹介してくれた小汚いダイナーで最高のレモンパイを食べて「もう死んでも良い」と言っていたのが心憎い。最後にその店に彼が入っていくあたり、語られることのないラストを予見させて…そうそう。最後にマギーの所に行く時、バッグに入れた注射器が二本あった事も、ちゃんとラストを暗示しているね。 いずれにせよ、本気でドスっとくる作品を見せられた。だから映画は止められない。 ちなみに、これまでイーストウッド監督は『目撃』を除けば一貫してWBで映画作りをしてきたが、WB首脳部は本作を「暗すぎる」という理由で配給拒否。イーストウッドが粘ってなんとか半分だけ出資することになったが、このため関係は悪化してしまった(『父親たちの星条旗』および『硫黄島からの手紙』はドリームワークス配給となる)。 |
ミスティック・リバー 2003 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2003米アカデミー主演男優賞(ペン)、助演男優賞(ロビンス)、作品賞、助演女優賞(ハーデン)、監督賞(イーストウッド)、脚色賞 2003英アカデミー主演男優賞(ペン)、助演男優賞(ロビンス)、助演女優賞(リニー) 2003カンヌ国際映画祭パルム・ドール(イーストウッド) 2003全米批評家協会監督賞(イーストウッド) 2003シカゴ映画批評家協会作品賞助演男優賞(ロビンス)、脚本賞 2003ボストン映画批評家協会作品賞、アンサンブル賞 2003シアトル映画批評家協会助演女優賞(ハーデン) 2003アメリカ映画俳優組合助演男優賞(ロビンス)、主演男優賞(ペン)、アンサンブル演技賞 2003ロンドン映画批評家男優賞(ペン)、監督賞 2003ゴールデン・グローブ男優賞(ペン)、助演男優賞(ロビンス)、作品賞、監督賞(イーストウッド)、脚本賞 2003ヨーロッパ映画インターナショナル作品賞 2003セザール外国映画賞(イーストウッド) 2003ナショナル・ボード・オブ・レビュー第1位、主演男優賞(ペン) 2003ローリングストーン第1位 2003ニューズウィーク第6位 2003AFIベスト 2003サウスイースタン映画批評家協会助演男優賞(ロビンス)、脚色賞、第2位 2003アメリカ製作者組合賞 2003アメリカ監督組合賞 2003ゴールデン・サテライト主演男優賞(ペン)、脚色賞 2004日本アカデミー外国作品賞 2004ブルーリボン外国作品賞 2004毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞 2004キネマ旬報外国映画第1位 |
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少年時代。仲良し3人組のジミー、ショーン、デイブはいつものように路上で遊んでいたところ、突然見ず知らずの大人たちが現われ、3人のしたいたずらをとがめ、デイブを車で連れ去っていってしまう。数日後保護されたデイブは肉体的にも精神的にも大きな衝撃を受けていた。25年後、それぞれが成長し、ジミー(ペン)は裏社会に顔の利く実力者に、刑事となったショーン(ベーコン)は仕事に忙しく、妻との別居に悩む刑事になっていた。そしてデイブ(ロビンス)は未だに事件の後遺症を引きずり続けていた。そんなある日、ジミーの19歳になる娘が死体で発見される。犯人への激しい怒りを募らせるジミーと再会し、その怒りを宥めつつも捜査を進めていくショーンだったが、やがて、捜査線上にはデイブが浮かび上がってくる… 人気作家デニス=ルヘインのミステリー小説をイーストウッド監督が製作して映画化した作品。今回はイーストウッドは監督に専念。ルヘインはボストン在住のため、イーストウッドはライブ性を大切にするため、全撮影をボストンで行う。音楽もイーストウッド自身が手掛けている。 昨年のハリウッド映画はヒーローものが花盛りで、それはそれで楽しかったのだが、やはり時には、これぞ映画!と言うどっしりした作品も観てみたい。まさに本作はそのタイミングを計ったかのような時期に投入された。イーストウッド自身も多分にそれを意識しているようで、充分にそれに足る作品作りをしていて、監督としても実力を持っていることを改めて感じさせてくれた。 何より、トラウマ経験というのは、どれだけ人の一生に影響を与えるのか。その事を考えると大変重く感じてしまう所。私なんかは簡単に「トラウマ」という言葉を使ってしまうが、それで苦しんでいる人はかなり多いのだろうと改めてちょっと反省。 内容的には地味目だし、重いから、見た目で引きつけられる売りの部分はあまり多くないのだが(内容的には『スリーパーズ』(1996)的でもある)、逆に言えば、それだけに登場人物の善し悪しによってまるで雰囲気が変わってしまう作品だろう。その点において、本作ほど見事にはまった役振りはないと思えるほどのはまり具合。ペン、ロビンス、ベーコンと言った超一流どころ3人を配した監督はやはり凄い。ってか、三人が三人とも自分の一番評価される部分じゃないところで演技しているのに、それが見事にはまってる。それを見いだしたところが凄いと思うよ。 ショーン・ペンは、つい最近『I am Sam アイ・アム・サム』(2001)観たばかりで、それとは全く違った役どころってのが面白い。この人の引き出しって多いんだな。器用な役者であることを再認識させられた。一方のティム=ロビンスは役どころとしてはむしろ、得体の知れない部分で売れた作品(あるいは強い意志力を感じさせる作品)が多いのに、ここでは精神を失調した役。これも見事にはまってた。ベーコンだって、奔放な役が評価される役者なのに、ここでは義務感に縛られた役…確かに凄いよな。三者三様に心に傷を持っていて、それがにじみ出てくるような見事な演技を見せてくれていた。作品賞はともかく、個々のキャラクターに男優賞は絶対にあげたくなってくる。 イーストウッドと言えば主演作がガン・アクションものになってしまうのに、自身の監督作品はまるでそこから離れてしまうのが面白いところだ。社会派作品として評価できるだけでなく、緊張感を持った対話や、ストーリー展開など、観るべき所はちゃんと演出出来てるし、一見地味に見えながらカメラ・ワークも練り込まれている。 一つ文句を言わせてもらうなら…「もうひとつの『スタンド・バイ・ミー』」ってコピーは絶対間違ってる。あれは人間性を肯定するものだが、こちらは完全に否定するもの。立脚点そのものが違っているのだから、一緒にしては駄目だよ。 |
ピアノ・ブルース | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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製作総指揮はマーティン・スコセッシ |
ブラッド・ワーク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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FBI の心理分析官マッケイレブ(イーストウッド)は、彼に向けてと思われるメッセージを持った連続殺人事件を追っていた。ところがその最中に心臓発作で倒れてしまう。数年後、彼の心臓に適合するドナーが現れたことで心臓移植手術を受けられ、余生の人生を楽しもうとしていた矢先、彼の前にグラシエラ(デ・ジーザズ)が現れ、姉を殺した不可解な殺人事件の犯人を探してほしい、と申し出るのだった。 マイケル=コナリーのベストセラー小説「わが心臓の痛み」のイーストウッド監督・製作・主演による映画化作で、心臓移植そのものをサスペンスにした作品。 俳優としてのみならず監督としてもすっかり有名になったイーストウッドは、特に監督作として選ぶのはストレートではなく何かしら捻った作品が多い。しっかりエンターテインメントはしているのだが、設定的にちょっと特徴があったり、物語をストレートにしなかったり。その辺のケレン味こそがイーストウッドたらしめているのだろう。 本作も『ダーティハリー』的な展開を期待していたら、なんとも不思議な設定を持っていて、物語はかなり捻られ、アクション部分よりも雰囲気で見せるタイプの作品に仕上げられていた(翌年の『ミスティック・リバー』(2003)にそれは継承されている)。 ただ、非常に面白い設定だし、物語展開ではあるが、それが十全に活かせたか?その点が問題だろう。 物語と設定の良さに対し、演出が妙に古くさい感じがするのだ。 根本的な問題として、イーストウッド自身が主役張るには老いすぎたのが最大の問題点。枯れた演技を要求されるならともかく、生々しい役柄だから無理がある。観ていて痛々しくなってくる。謎がどんどん明らかになっていく過程にしても、途中で大体物語が見えてしまうので、後半は消化していくと言った感じ。盛り上がりがやや中途半端。 …とは言え、改めて考えてみると、この手の作品演出って1970年代にイーストウッド主演映画で(特にレオーネとかシーゲルとか)よくやられていた方法っぽい。この時代に敢えて古い演出を使ってみたのも、あるいはイーストウッドの確信犯的演出だったのかも知れない。 最後まで自分を出そうという、ある意味最もイーストウッド“らしい”作品だったのかもしれないな。 |
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スペースカウボーイ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2000米アカデミー音響効果賞 2000キネマ旬報外国映画1位 2000毎日映画コンクール外国ベストワン賞 2000報知映画外国作品賞 |
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トゥルー・クライム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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目撃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ヴァージニア州の高級住宅地に忍び込んだプロの泥棒ルーサー=ホイットニー(イーストウッド)は、なんとそこでリッチマン大統領(ハックマン)とシークレットサービスがその家の夫人を殺してしまう現場を目撃してしまう。証拠品のナイフを手に、このままでは自分が夫人殺しの犯人にされてしまう事を恐れたルーサーは国外脱出の道を取ろうとするのだが… イーストウッド監督・製作・主演による作品で、これまで一貫してWBで配給を受けていた監督が唯一コロンビア配給で作り上げた作品。決して派手さはないものの、明確なテーマ性を持った作品で、それを渋い俳優たちが円熟の演技で見せる作品に仕上がっている。 イーストウッドは元々が西部劇出身で、自身あくまで西部劇にこだわり続けてきた人間だけに、これも又、かすかに西部劇の匂いが残る。特にイーストウッドが自身を主役にする場合、どこかアウトロー的な存在を好み、又、正統派のヒーローをどこか胡散臭げに見ているような姿勢が感じられるものだが、ここではその“正当派ヒーロー”は、アメリカそのものを体現している人物として設定したのが面白いところ。本来、国を代表する大統領の行うべき“正義”を行うのが泥棒の方であり、そしてその行いがヒーローとなっていくという設定は大変面白いところ。そう考えると、やっぱりこれもイーストウッド流の西部劇の派生なのかもしれない。 ただ、設定の目的は自分なりに理解できるが、物語が全然盛り上がらないのがちょっと残念。そもそも話の設定自体が穴だらけなんじゃないか?と思わせてしまうのが本作の最大の問題点だろう。敵の首領が何せ大統領だけに、どうしても受けに回らざるを得なく、終始中途半端で終わってしまった感じ。しかもラストは盛り上がらないまま、大統領の自殺で終わってしまうし。 キャラもイーストウッド、ハックマン、ハリスと、渋い演技を見せてくれるキャラクタが揃っていながら、全員演技を抑えすぎていたようで、、あまりに淡々と流れすぎてしまった感がある。イーストウッド演じるルーサー自身、ヒロイック性よりは家族との軋轢に悩んでる描写の方が多く、今ひとつ盛り上がらず。それと、僅かな手がかりから真相を掴んだハリス演じるフランクも、有能のはずなのに、それが今ひとつ分かりづらい。金も良いキャラも使ってるんだから、それをうまく活かして欲しかった。 |
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真夜中のサバナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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マディソン郡の橋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1995米アカデミー主演女優賞(ストリープ) 1995日本アカデミー外国作品賞 1995ブルーリボン外国作品賞 1995キネマ旬報第3位 1995毎日映画コンクール外国映画ファン賞 |
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アイオワ州マディソン群の片田舎。夫と二人の子供に囲まれ平凡な主婦として穏やかな毎日を送っていたフランチェスカ(ストリープ)が、夫と子供達が4日間の旅に送り出して一人で留守をしていたある日、マディソン郡にある屋根のある橋ローズマン・ブリッジを撮影に来たロバート=キンケイド(イーストウッド)が道を尋ねてくる。暇をもてあましていた折、道案内を申し出、車に同乗したフランチェスカだったが… ロバート=ジェームズ=ウォーラーの同名ベスト・セラー小説の映画化作品。原作そのものが大ベストセラーで、発売当初マディソン郡旋風が吹き荒れていたが、これが面白かったのかと言われてみると…私には合わない。としか答えようがない。小説そのものが乗り切れなかったし、読み終わった感想は「なんだよ。単なる不倫の物語じゃねえかよ」でしかなかった。 そう言うことで、劇場公開もさらさら行く気は無し。大体メロドラマが嫌いなんだから、観ても面白いと思えないのは道理だ。 そんなことで、本作はテレビで鑑賞することになったが、思った通り、なーんも面白いと思えずに終わる。演出はそこそこあるし、感情たっぷりの演技は決してまずいとは思わないけど、それもはまれなければ意味無し。 …ただ、少し歳を食ってみて、この作品をちょっと見直すようにもなってきた。 当初本作の製作が決定した時はロバート=レッドフォードがキンケイド役のイメージだったそうだが、本作の監督にはイーストウッド自身が是非とも!と望み、積極的にこれを買い取り、相手役のストリープまで自分で選ぶという力の入れよう(ストリープの起用を決めたのはイーストウッドの母ルースだそうな)。主人公キンケイドが自分のことを「最後のカウボーイ」と言っていたからだろうが、しかしここにはもう一つ意味があったのかもしれない。 イーストウッドは自らをあくまで西部劇役者であると規定していた。ただし、彼の演じ方はジョン=ウェインのような強くてたくましくて純情な男、つまりいかにもな“アメリカ人”ではない。むしろマイノリティとして、必要なときは喜ばれるが、それ以外は邪魔にされるような牧童の一側面を強調していた。あたかも本作のキンケイドの生き方そのもののように。現在牧童として生きるというのは、それだけで自分自身を追い込んでしまう生き方に他ならない。だが、そういう生き方しか出来ない人間がいる。その部分にこそ強く惹かれるものを感じていたのかもしれない。 |
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パーフェクト・ワールド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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テキサス州。ブッチ(コスナー)とテリー(ザラバッカ)という二人の囚人が刑務所から脱走した。逃走途中に押し入った家で、少年フィリップ(ロウサー)を人質に取ってさらに逃走するが、途中でこの少年に手を出そうとしたテリーを、ブッチは射殺してしまう。パーフェクト・ワールドを目指すと語るそんなブッチに、フィリップもそのまま付いていく。そんな二人を追う州警察のレッド警部(イーストウッド)だが… 殺人犯人と、誘拐された子供の奇妙な友情を描いた作品。 かつてスピルバーグが『続・激突 カージャック』(1974)で描いて以来、この手の作品はいわゆるストックホルム・シンドローム(極限状態に置かれた被害者が加害者に近親感を持つこと)を題材にすることが多く、本作も確かにそれと似たような部分はある。ただ、大きく違っているのはこの二人の関係が、あたかも新たなる家族を作り上げていく過程のように見えていくこと。これは私はあんまり好きじゃないけど、ホークス監督の『赤い河』(1948)に見られるものと同質だと思える。アメリカ人は人間が国を作ったという自負を持つと言うが、それは家族に関しても同じ。たとえ血がつながっていなくても家族を作っていくことが出来るという考えにもつながっている。それを踏まえ、イーストウッドは本作を単なる逃走劇にはせず、アメリカの建国神話と結びつけようとしたのではないだろうか。 事実、本作のタイトル『パーフェクト・ワールド』は、完全なる理想の世界という意味だが、彼らが目指していたのは、単に与えられる幸福な世界ではなく、自分たちで努力して作り上げる世界のことを示していたかのよう。その夢を語る大人に、こどもの方が共感することによって、擬似的ではあるが、相棒的な親子関係が出来上がっていく。理想を作り上げる人間が集まり、それが家族となっていく。アメリカの建国神話の核とはそこにある。 だからこそブッチの姿は西部劇時代の“アメリカ人の理想”を体現したような人物として描かれる。侠気があって、法的な正しさよりも自分の判断の方を優先し、一旦目標を決めたらあとはそれに向かって突っ走っていくだけ。西部劇時代にはこんな人間こそが本物のヒーローだが、そんな人物も、時代の流れには逆らえず、この時代になると単なる犯罪者として追われるしか無くなっていく…移りゆく時代の中での西部劇にこだわったイーストウッドらしい作品とも言えようか。 後にスキャンダラスな私生活が暴露されて台無しになったが、コスナーはデビュー以来“アメリカ人の理想”を演じようと努力してきた。その意味であまり“ダーティ”なイメージを持たれるのを嫌っていたようなのだが、イーストウッドと組んだ本作では、理想でありつつ、ダーティな一面を持つ人物として演じている。その辺よくコスナーのことを分かっていたようだ。コスナーとイーストウッドの息は本作においては実に良く合っていたと言えよう。 |
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許されざる者 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1992米アカデミー作品賞、助演男優賞(ハックマン)、監督賞(イーストウッド)、編集賞、主演男優賞(イーストウッド)、脚本賞、撮影賞、美術監督賞、美術装置賞、録音賞 1992英アカデミー助演男優賞(ハックマン)、監督賞、作品賞、脚本賞、撮影賞 1992NY批評家協会助演男優賞(ハックマン) 1992LA批評家協会作品賞、男優賞(イーストウッド)、助演男優賞(ハックマン)、監督賞(イーストウッド)、脚本賞 1992ゴールデン・グローブ助演男優賞(ハックマン)、監督賞(イーストウッド)、作品賞、脚本賞 1992全米批評家協会作品賞、助演男優賞(ハックマン)監督賞、脚本賞 1993日本アカデミー外国映画賞 1993キネマ旬報外国映画第1位 1993毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞 1993報知映画海外作品賞 |
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かつてアウトローとして名を馳せ、今は子供たちと貧しくも充実した日々を過ごすマーニー(イーストウッド)。そんな彼が若きガンマン(ハリス)から賞金稼ぎの話を持ちかけられる。最初は渋っていたマーニーだが、熱心さにほだされ、親友のネッド(フリーマン)を加え町に向った彼らの前に保安官ダゲット(ハックマン)が立ち塞がる。 イーストウッドが製作、監督、主演を務め、見事アカデミー賞を獲得した作品。豪華なキャストと、ストーリーの重厚さで「最後の西部劇」と称される。ちなみに西部劇で初めてアカデミー作品賞を受賞した訳だから、その称号はあまりに皮肉っぽい物語でもある。 派手さを押さえ気味にし、男の哀愁と決意を表面化した事。そして「人殺しに正義はない」と突き放した風のストーリー運び。それが基本的に勧善懲悪の今までの西部劇とはひと味違った感じに仕上がっており、その辺は実に良い。 だが、である。私にはこの作品は観た当時今ひとつ乗り切れなかった。理由は簡単で、イーストウッドがあまりに目立ちすぎる。と言うより、これ本人が作りたいように作っただけのナルシスト的作品なんじゃねえのか?イーストウッド主演映画の良いとこ取りっぽい性格をしたマーニーと言い、他の人間の情けなさと言い(フリーマンと言い、ハリスと言い、何であんなに情けないかね?)、全てがイーストウッド本人に焦点を当てるように出来ているのがどうにも鼻につく。格好良いにせよ悪いにせよ、何をしても中心になってるし、彼の主観的な観方で物事は展開していく。フリーマン演じる保安官も、私の目には決して悪人には見えない。町の秩序を守るために進んで汚れ役を果たしていただけなのではないか? ただ、ラスト近くのストーリーと演出は非常に好み。あたかもモノクロ映画のように陰影が付けられた照明の中(『第三の男』のようでもある)震える手でグラスをつかみ、喉に流し込むシーン、「人を殺したらこういう死に方をする」と呟きつつ無情に引き金を絞るシーン、そして何より、「俺を撃ちたければ撃て」と大声を上げつつ雨の中を徘徊するシーン。彼を雇ったはずの女性達でさえただ恐怖に身を竦ませ、それを見守っているのは最高である。イーストウッドの主演映画で一貫しているのは、悪に対抗出来るヒーローとは悪そのものであり、強いだけのヒーローは最後は受け入れられることなく去るしかない。と言う点。まさにそのヒーロー像がここで確立されている。ラストで彼と家族の姿を映さないのも良い。 誉めて良いのか、けなして良いのか、私にとってはかなり複雑な作品となってしまった。 ちなみに本作は是非最後のスタッフロールまでちゃんと観ることをお勧めする。最後の「セルジオ・レオーネに捧ぐ」との献辞は、イーストウッドのフィルモグラフィにどれだけレオーネ監督が影響を与えたのかがかいま見えるようだ。 |
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ホワイトハンターブラックハート | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1990カンヌ国際映画祭パルム・ドール(イーストウッド) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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カリスマ的な映画監督ジョン・ウィルソン(イーストウッド)は、多額の負債を抱え込む製作会社に、アフリカでの撮影を提案する。だが実はジョンの頭にはアフリカで象撃ちすることしかなく、打ち合わせもそこそこに脚本家ピート・ヴェリル(フェイ)と共に嬉々としてアフリカへ向かうのだった。現地人ガイドのライサー(ポール)を案内に雇い、他に何もしないまま毎日象撃ちに向かうジョン。一方撮影開始時期は刻一刻と迫り、ついには何も決まらないままキャストの面々までがアフリカに到着してしまう… ハリウッドの黄金期である50年代を代表する監督の一人ジョン・ヒューストンを題材にして作り上げた作品。 ハリウッド映画には、監督や製作者を題材にした作品と言うのがいくつかあるが、大体そう言う伝説になるような監督というのは極めつけの変人が多いもの。ご多分に漏れずヒューストン監督は数々の奇行をもって知られる人物で、その中でも極めつけが『アフリカの女王』(1951)のアフリカロケだったそうだ。何せ映画そっちのけで毎日のように象撃ちに出かけたり、スタッフやキャストに悪質ないたずらを毎日繰り返し行ったりで、映画が完成した事自体が奇跡と言われるほどだった(しかしながら映画自体も出来が素晴らしいのが皮肉ではあるが)。 そんな無茶苦茶な監督に惹かれるものがあったのだろう。イーストウッド監督が総力を結集して作り上げたのが本作。ヒューストン(ここではウィルソン)の苛つきと情熱を中心に、決してコメディに陥ることなく、その内面描写に力を入れて作り上げた。 イーストウッド自身それなりに監督としてキャリアを積み、いくつか賞も取っているが、自分が情熱を傾けて作ったものについては不当な評価しか得られないというジレンマに陥っていたため、その思いをヒューストンに託し、本作で叩きつけようとしたかのよう。 ただ、その思いが強すぎたせいだろうか。本作は極めて衒学的な、分かりにくい作品になってしまった。ここで描かれるウィルソン監督のキャラ描写は凄い迫力なのだが、言っていることに一貫性が無く、しかもその一言一言が謎めいていて、しかも劇中「自分が何を言っているのか分からない」とまで言わせている。内面を描くにしても、ちょっとこれはやり過ぎで、観てる側としては不安感しか得る事が出来ない。 しかも肝心な『アフリカの女王』の撮影に入る直前に物語は唐突に終わってしまう。それを目的で観ている側としては完全に肩すかしを食ってしまう。実際興行成績は無茶苦茶悪かったそうだ。 ただ、それでも敢えて本作を考えてみると、ヒューストン監督の映画を作るモチベーションとは、撮影だけに留まっていないと言う事なのだろうかとは思う。ここでは象を撃つという行為が、あたかも宗教的な熱狂に近く、そこで情熱を冷まさなければ映画も手に付かない。だから成功しようが失敗しようが関係なく、とにかく象を追いかける。その間に映画を撮るモチベーションを高めていったのかもしれない。結果的に象を一度も撃つことなく、しかもその当の象にガイドまで殺されてしまったところで、ようやく正気に戻ることが出来た。強いて言えば、かなり複雑な人間という訳か。 ちなみにこういったカリスマ的な映画撮影はイーストウッド監督とは全く異なる。イーストウッドの映画作りはキャストスタッフを合わせての徹底的な話し合いの末にシーンの撮影を行うという。そんな対極にいるような人間が思い入れが深かったというのは面白い事実だろう。 |
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ルーキー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ロス市警に新人のデヴィッド・アッカーマン(シーン)が着任した。彼は上流家庭の生まれだが子供の頃に犯した罪の意識に苛まれ、自らを鞭打つかのような生き方を求めていた。そんな彼の相棒となったのは荒っぽい捜査で有名なニック=パロヴスキー(イーストウッド)だった。なりふり構わず自動車窃盗団のボスであるストロム(ジュリア)を追うニックは事ある毎にデヴィッドを厄介者扱いするのだが… 有名な役者が監督としても実力を発揮したという例は数多くあり、中には監督賞でオスカーを取るような人も結構いるのだが、イーストウッドはその中でも、決して単なる芸術指向ではなく、エンターテインメントを目指しつつ、しっかりした作品を作る監督として評価が高い。 それで彼の監督作にはアクション作品も結構あるのだが、その中では多分大はずれの作品と言えるのが本作ではないかと思う。 アクションシーンの派手さは充分だし、キャラの複雑さもあって1980年代のアクション作品として考えるならば、そこそこの出来とも思えるのだが、いかんせん消化不足としか思えない部分が多々… これはあるいは、イーストウッドの最高のはまり役『ダーティハリー』(1971)でやり残してしまった部分を自分なりに作ってみよう!と言う思いを持って作られたのかも知れない。そう考えると色々頷ける部分もある。ここでイーストウッド自身が演じるニックは、捜査のためには手段を選ばないキャラクタ。つまりハリー=キャラハンのようなキャラに作られている。先ず歳食ったハリーというキャラを考えたのか?そして『ダーティハリー』シリーズを通してのやり残し、人間を描けなかった事を反省して、ここでは複雑な人間の内面を描こうとしたのではないか?シーン演じるデヴィッドは誤って自分の弟を殺してしまったと言う引け目をずーっと持ち続けているというキャラクタ描写にそれが現れている。 しかし、逆にそれは、『ダーティハリー』の残りカスに過ぎない。しかも主役を二人にしたお陰で焦点が一定せず、特に中盤以降はアクション部分に偏りすぎて、しかも派手にすればするほどメリハリが無くなっていく。いくら何でもあそこまで無関係な人間を巻き添えにしたら、逮捕どころの騒ぎじゃなかろう。 それで一番の問題は最後じゃないかな?結局デヴィッドは父親と和解することなく弟との過去のことを清算できないままだし、ニックは急に出世して偉そうなそぶりを見せる。意外と言えば意外な終わり方かもしれないけど、このいい加減な終わらし方には腹が立つばかり。 結局意識は高かったけど、それをまとめる事が出来なかった作品と言うこと。 |
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バード | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1988米アカデミー録音賞 1988英アカデミー作曲賞 1988カンヌ国際映画祭男優賞(ウィッテカー)、フランス映画高等技術委員会賞(イーストウッド)、パルム・ドール 1988NY批評家協会助演女優賞(ヴェノーラ) 1988ゴールデン・グローブ監督賞(イーストウッド)、男優賞(ウィッテカー)、助演女優賞(ヴェノーラ) |
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天才ジャズサックス奏者として有名なチャーリー“バード”パーカー(ウィッテカー)が、死ぬ間際にこれまでの半生を振り返る。故郷カンサス・シティから出て、罵声を浴びながらジャズを続け、ビバップというジャンルを確立するまで。そして結婚生活と、プレッシャーに負けて麻薬に手を出すまで… “ヤードバード”の愛称を持つ、“ビバップ”というジャズジャンルを確立した天才サックス奏者の一生を描く作品で、ジャズには並々ならぬ愛着を持つイーストウッド監督によって撮られた作品。俳優としても監督としても有名なイーストウッドだが、本人が全く出てこない最初の作品となった。とは言え、思い入れだけでなく、作りとしても丁寧で、人間としてのパーカーをきちんと作り上げていた。当時のアメリカの光景や、人種間の微妙な関係とかも練り込まれた作りで、まるでモノクロ映画のような陰影を多用した画面の重厚さもあってとても雰囲気が良い。 パーカーに扮したウィッテカーも狂気と破滅の間で苦悩する役を好演。栄光の絶頂にいるその瞬間こそが、実は破滅であることを身をもって示していたかのよう。 ただ、この手の作品の宿命か、ストーリーが暗く、今ひとつ乗り切れなかったのと、演出が重厚なのはいいけど、画面が暗くなり過ぎる上にごちゃごちゃしすぎてる感じ。落ち着いた雰囲気よりも、ジャズがアメリカの中でのし上がっていく華々しさの演出も欲しかった所。それに長すぎたしね。 同じくジャズを題材とした作品に『Ray/レイ』(2004)があり、フィクションを上手く取り入れたこちらの方を先に観ていただけに、あまりにも真っ正直すぎる本作の弱さが見えてしまったのも難点か。破滅に向かって歩んでいるだけにしか見えないのは、観ていて辛いよ。 事実アメリカでは全然受けず…いや、後の『Ray/レイ』がちゃんとヒットしたことから分かる通り、本作は時代が早すぎたのかも知れない(何故かフランスでは受けたのだとか。これは初期のパーカーにも共通する)。 パーカーに対するイーストウッド監督の思い入れがうかがえるが、そもそも芸人で家を空けがちな母の買ってきた多数のジャズレコードの中で最も印象が強かったのがパーカーだったと言う。 主題が主題だけにイーストウッド本人が出る訳に行かなかったこともあるが、当時イーストウッドはカーメルの市長も兼務しており、あまり時間をかけられなかったのが最大の原因らしい(そもそもイーストウッドが市長となったのは、「景観を損ねる」と言われて自分の家を改築出来なかった事で怒ったためと言われており、選挙の公約では、市長やってる間は映画を撮らないと言っていたそうではあるが、見事に公約無視をやってしまった訳だ)。 |
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ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1986米アカデミー音響賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ペイルライダー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1985カンヌ国際映画祭パルム・ドール(イーストウッド) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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カリフォルニアのカーボン峡谷にある鉱山は今やラフッド一家によって乗っ取られようとしていた。そんな状況下、村民は激しいラフッド社の雇った荒くれ者によって激しい迫害を受けていた。母子家庭であるサラ(スノッグドレス)の家にもその手は伸びてくるのだが、その時、聖書に書かれているような青白い馬に乗って一人の牧師がやってくる… イーストウッドが『荒野のストレンジャー』に続き、自身のライフワークとも言える西部劇を自身を主人公として製作・監督で作り上げた作品。イーストウッド自身は『荒野のストレンジャー』を中途半端と感じており、本作では極端な神秘主義にしてみたという。 この作品の特徴は単純明快なストーリー運びと、寡黙な主人公という、マカロニウエスタンをそのまま継承したような作風で、純粋にアクションを楽しむことが出来る作品。 ただ、この作品が作られたのが1985年というのが面白い。これが10年前でも…いや20年前だったとしても全く同じストーリー運びで作ってなんの不思議もない作品に仕上がっている。こんな年代にこんな懐古趣味な作品が作られる事自体が一種の奇跡的な出来事かも知れない。 しかし、流石に時代は移り変わっている。物語自体は古くさくとも、演出やキャラの映し方には格段の進歩が見られ、イーストウッドの孤独なヒーロー像がますます映えた作品に仕上がった。実際イーストウッドは監督としても並々ならぬ実力を持っていることは本作を観るだけでも充分分かろうというもの。 悪を倒すのは善ではなく、それ以上の悪なのだ。と言う、マカロニを通して出されたテーゼが丁寧に描かれているのが特徴(神話的モティーフを用いるこの手法はレオーネ監督が好んで使っていたもので、その直弟子であるイーストウッドもよく使っている)。主人公は聖書に書かれた「青白い馬」に乗って現れる悪のヒーローを素で演じきっていた(牧師であるにもかかわらずね)。 ただ、演出は良くとも、元となった物語自体がちょっとパターンに陥りすぎの上に(物語自体が主人公の性格除けば『シェーン』(1953)そのまんまだが、肝心なタメがない)、イーストウッドの強さが極端すぎた。大体弾ごめの必要な拳銃でライフル持った敵をばったばったなぎ倒すのは無理があるだろう。それに主人公が何を考えてるのか全く分からないのも辛い(以降のイーストウッド作品はその辺が上手くなっていくのだが)。 極端な強さは物語そのものを崩しかねないと言うことをよく示した作品だった。 本作はアメリカでも受けたが、面白いことにフランスで大ヒット。イーストウッドはフランス政府から文学勲位を受けた。 |
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ダーティハリー4 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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サンフランシスコで起こる連続殺人事件に対する強引な捜査が災いし、サンフランシスコ市警から放り出されてしまったハリー(イーストウッド)。出張の名目で行かされたのが北カリフォルニア沿岸の町サン・パウロ。ヘ彼は出張を命じられる。だがこの港町でシスコの連続殺人事件と同じ手口で殺人が行なわれていることを知る。そんな時、彼は画家であるジェニファー(ロック)と知り合い、心引かれていく。 7年ぶりの『ダーティハリー』新作で、これまでハリーを演じていたイーストウッド自身が製作および監督も行った、このシリーズでは初監督になった。その話題性もあり、1984年全米興行成績10位とかなりのヒットを記録した。 しかし、作品そのものとしてはちょっと手抜きという感じが強い。物語が都合良すぎるのと強引なこと、それにいきなりラブロマンスものの要素を入れてしまったため、ダーティハリーっぽく無くなってしまった感じ。ラストでちょっとダーティさを見せはしたが、それだって惚れた女のために方を曲げるってのじゃなあ。当時つきあってたロックをなんとか目立たせようという“親心”が物語の足を引っ張った形。 普通この手の話って小さな事件を捜査している内に巨悪にぶち当たることが多いのだが、本作の場合はそれを逆にしてみたのは面白いところだった。最初が連続殺人犯!と出ていて、ハリーの行く先々で事件が起こるので、ハリーを狙った事件?あるいは全米を股にかけるような組織?と思わせておいて実はたった一人の女性の復讐劇だったというオチにはかなり唖然とさせられる。普通考えないようなことをやるのはイーストウッド監督らしさとも言えるけど、本作に関してはちょっと外した感があり。視点がユニークだから、面白くなるかならないかは賭のようなものなんだろう。 ただ、演出の良さは流石!と思わせる。特にオープニングで逆光で登場。しかも顔を見せないものだから悪人かと思わせておいて、にゅっとあの長い銃身が登場する!このシーンだけは出色の出来だろう(ただ、ここで使われている銃はこれまでのS&WM29ではなく44オートマグ。マグナム弾を発射できるオートマチックとしてファンは多いのだが、設計に無理があって不良銃として有名な銃だったりする)。 |
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ファイヤーフォックス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ステルス機能を持ち、マッハ6で飛び、思考誘導装置によって兵器を放つソ連の最新鋭戦闘機MIG-31(西側コードネームはファイヤーフォックス)の奪取を命じられた元空軍パイロットのミチェル=ガント(イーストウッド)。彼は貿易業者に変装し、ソ連に潜入する… イーストウッドが監督、製作も務めたアクション大作…のはずなのだが、重点をアクションやSFXではなく、ポリティカル・アクションの方に置いているのが特徴。ただ、それが成功したかと言えば全く逆で、前半がとても冗長。最後のSFXを映えるものとするためにこそ、その部分を丁寧にタメを作るべきだったのだが、何のことはなく、とても退屈なだけ。確証はないけど、多分これは小説が元だな。見た目で分かる小説的な盛り上げ方をしてるし、それを映画的に脚色するのに明らかに失敗してる。 最後にようやく登場し、圧倒的な強さを見せつけるMIG-31の勇姿は確かに格好良かった(ソニックブームを引き起こすほどのスピードを持ってるのにえらく静かな戦闘機なんだが)。あれだけ圧倒的な力があるのならば、確かにあまり長く出すわけにはいかなかったんだろう(金もかかるし)。でも、その僅かな時間のために我慢しなければならない時間が長すぎる。それに、イーストウッドがSF作品に登場するのもかなり違和感が… 関係ないけど、ソ連製MIG戦闘機は西側によるコードが付けられるが、全て「F」が先頭に付くのが特徴。例えばMIG-21「Fishbed」、MIG-25「Foxbat」、MIG-29「Fulcrum」と言った具合。劇中に登場するMIG-31は「Firefox」だからその辺はちゃんとしてるようだ。 |
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センチメンタル・アドベンチャー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1982ゴールデン・ラズベリー最低主題歌賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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イーストウッドは息子カイルと共に出演し、歌も披露している 子供の頃全米を転々としたイーストウッドの思い出が込められている。ピアノはこの時代に覚えた |
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ブロンコ・ビリー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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アメリカ中を回る西部男達の活劇ショー“ワイルド・ウエスト・ショー”。経営はいつも苦しく、かつかつの状況だが、それを感じさせない派手で陽気なショーを見せていた。カンザス州のジャンクション・シティにやってきた一座のとりまとめ役ブロンコ・ビリー(イーストウッド)は役所でリリー(ロック)という女性を見かける。母の遺産相続のためにいやいや結婚しなければならない状況にあったリリーだが、翌朝なんと夫となるはずのジョンという男に全財産を奪われて逃げられてしまった。偶然のいきさつから彼女を一座に受け入れることとなる… 出世作『荒野の用心棒』以来一貫して西部劇にこだわったイーストウッドは、様々な形で西部劇を解体し、その本質を問う作品を作り上げてきた。 アメリカは新興国家であるため、土地に神話を持たないが、その代わりとなるものとして西部劇が存在する。イーストウッドが演じ続けていた基本的に主人公の名前を必要としない主人公達は、その神話を体現するものだし(『アウトロー』で言及)、粗野で自分なりの信条を持っているが、人間関係があまり上手く行かないという、アメリカ人の理想的人間(こういう人物をグッド・バッド・マンと呼ぶそうな)を西部劇ヒーローの典型的人物に当てはめ、それを現代劇で演じてみたりもしている。 そして西部劇のもう一つの側面。つまりそもそも西部劇は、娯楽の少ない住民達に対するショーから始まったというルーツを描いて見せたのが本作と言える。こういった西部劇ショーが繰り返し演じられることによって人々の記憶に残っていき、そこから現れたヒーロー性がアメリカ人の最も好む人物として、又神話のような役割を果たしていったのだから。 その原点を理想ではなく、現実的な目で描いているのが本作の特徴。ここに集まってくるのは一芸には秀でているが、現実的な能力ではなく、結局食い詰め者の掃きだめのような場所。しかし、そう言う落伍者が集まるからこそ生じる家族的雰囲気がある。助け合いのコミュニティがやがて家族になっていくという過程は結構好きだし、男女間の愛情よりも守り守られる存在としての愛情を強調するのもイーストウッド作品の特徴でもある。実際この作品の辺りから、単なる役者の手すさびではないと、批評家たちもその実力を認め始めたとも言われてる。 そう言う意味では結構楽しいのだが、やっぱり監督としてもう少し成熟した状態で本作は作って欲しかった感じ。細かい点で色々引っかかってしまう。下手にエンターテインメント性を持たせようとした結果、話が変な具合に飛んでしまい、しみじみという感じではなく、何よりロックが浮いてしまって困る。イーストウッドはロックを好んで使っているが(当時の私生活でのパートナーだったからだが)、妙な派手っぽさが雰囲気と馴染まない。 願わくば、もう一度同じ素材を使って作品を作って欲しいところではある。 |
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ガントレット | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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フェニックス警察署のお荷物刑事ショックリー(イーストウッド)はブレイクロック警部補(プリンス)から、組織のからんだある事件の検事側証人としてるマリー(ロック)という女を護送する任務を命令される。だがマリーはショックリーに、「行けば殺される」の一点張りで同行を拒む。そんな彼女を無理矢理連れ出すが、それはとんでもない道行きになっていった… 本作はイーストウッドの盟友であり愛人でもあるロックのために作ったような作品。初期のイーストウッドは気心の知れた仲間としか映画づくりをしない時期で、出演者もほぼ一緒という時期があったが(西部劇の先輩であるウェインのやり方に倣ったのか?)、その時の作品であり、そのためか派手で安定感のある作品となっている。 ちなみに表題の『ガントレット』とはネイティヴ・アメリカンの行う一種の度胸試しのことで、なんでも二つの列を作り、そこで行われるトマホークトスの中を駆け抜ける命懸けのゲームなのだとか。 語源がそんなこともあってか、本作はとにかく派手。次々に来る危機の中を、ひたすら攻撃を撃退しながら突き進む二人の姿が描かれており、特に最後のバスのシーンは、一体何発銃弾を使用したんだ?というくらい。これこそまさに“生の迫力”というやつだ。 趣旨が“生の派手さ”とロックの見栄えである以上、物語性は低く、シチュエーションも物語も極めて良くあるタイプの作品(同じ物語は定期的に作られる傾向があるようで、近年にも『16ブロック』(2006)という、ほぼ丸のまま同じ作品がある)。派手さというのが無ければおそらくは全く話題にもならなかった作品だろう。そういう意味ではとても割り切って作られた作品なので、深く考えずに没入さえ出来れば爽快この上なし。 ただ、今にして考えると、イーストウッド自身が本当にこんなのを作りたいと考えていたのだろうか?とは思う。 イーストウッドも監督としては本作が3作目に当たるのだが、以前の2作『アイガー・サンクション』と『アウトロー』はよく言えばマニア受け。悪く言えば興行的に振るわない作品になってしまった。一方、当時の視聴者の大部分がイーストウッドに求めているのは『ダーティハリー』であり、派手なアクションだった。作家性を強く打ち出した作品を作っても、それが受け入れられなかった事を痛感したのだろう。それならば視聴者が一番求めてるものを作ってみようじゃないか。という思いがあったのだろう。それにイーストウッドとしてはロックを売り出したいという思いもあっただろうし、一度弾けたものをサービス精神たっぷりに作ったのが本作であると考えても良い。 結果としてイーストウッドがやったのは艦砲射撃と同じ。幅のある作品をいくつも作ってみて、その中であたりの良いものを取捨選択し、そこに作家性を加えてみる。後年の監督作品に傑作が多いのは、こういった幅広く作品を色々と作ってみた結果とも言える。 単体で面白くない訳じゃ決してないので、時にこう言うのも観てるとストレス解消にはなる。出来ることなら大画面&大音響で観たい作品の一つ。 |
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アウトロー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1976米アカデミー作曲賞 1996アメリカ国立フィルム登録簿新規登録 |
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南北戦争末期。テリル大尉(マッキニー)率いるカンサス・レッドレッグ(北軍秘密軍事組織)の一隊により妻子を殺され自らも重傷を負った農夫ジョージ・ウェールズ(イーストウッド)は、復讐の一念から銃の特訓を重ね、フレッチャー(バーノン)率いる反逆者の一団に加わって、テリルを探す。やがて戦争は終わったが、復讐の念に駆られたジョージは、行く先々でテリルの暴虐の跡を見つけていく…復讐鬼と化し数々の伝説まで出来るようになったジョージだったが、ある時チェロキー族に襲われたローラ(ロック)と祖母を助ける。 すっかりアメリカでは西部劇が廃れて久しい中、その西部劇で有名になったイーストウッドが自ら監督して投入した作品。1976年全米興行成績10位に入り、西部劇が当時も尚、普遍的作品として愛されていることを印象づけた作品でもあった。 アメリカにおける西部劇とは特殊な位置づけを持つ。西部劇というのは、侵略の歴史しか持たないアメリカ人にとって、アメリカ国民としてのアイデンティティを確認するためのものであり、一種の神話と化していたのだ。これは一種、侵略の歴史の中、元ある以上に良いものを造り出してきた。と言う、一種の言い訳とも取られると思うのだが、60年代後半に起こったムーブメントにより、それは赤裸々に剥かれ、神話としての意味を剥奪されてしまったのだ。特にニューシネマは「今のアメリカはこれで良いのか?」という観点で作られているため、映画の中からかつての古き良き時代のアメリカを一旦解体せしめた。その功績はハリウッド映画史においても特筆すべきものであるが、やはり神話無き映画作りを続けていくことは、やはりどこかストレスが溜まったのか?とも思わされる。 本作はこれまでとは違ったアプローチではあるが、確かに解体後、それでも残っているアメリカの持つ神話性を強調した作品と言えるだろう。 ここに登場する主人公のジョージはこれまでの西部劇とは一線を画している。 彼にとって正義とは、他者のものではない。自分自身一人しか持つことのないものであった。それこそアウトローと呼ばれる所以。だが、それはヒーロー性を持ち始める。それは自分勝手ではあっても、大多数の願いを体現しているからだ。そしてそれはやがて終わりを迎える。愛という強い力によって。決して卑下する訳でもなければ、自分を偽ることもない。あるがままを受け入れつつ、間違ったことは反省する。それが出来るはずだ。これまで彼自身が演じてきた名前のない男に近い位置づけではあるが、明確にアメリカを体現しようとしているという一点で異なる存在でもある。 これがイーストウッドの結論としてのアメリカ神話の形ではなかっただろうか?だからこそ、本作は受け入れられた。と思うのだが。 西部劇にこだわりを持つイーストウッドだが、彼の考える西部劇とは、単なるガンアクションではなく、新興国アメリカの神話、あるいは建国物語としてのアイデンティティなのかも知れない。だからこそ、ここでのネイティヴ・アメリカンの描き方も視点が優しい。彼らは追われた人々であり、むしろジョージの方に近いのだから。彼らを包括してアメリカなのだ。 それで物語をシンプルにしつつ、奥行きを感じさせられるものに成り得た。幾多の西部劇の傑作はあるが、本作は新しい形での、やはり傑作と成り得た訳だ。 不満と言えば、ソンドラ=ロックはやっぱり合わないこと。身内びいきも大概にして欲しい所だ。 ちなみに本作は当初共同で脚本を書いたカウフマンが監督だったが、イーストウッドと意見が合わず、イーストウッド自身が監督となって完成させたという。それが良い味を損なわなかった原動力だったのだろう。 |
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アイガー・サンクション | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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かつて殺し屋として裏の世界では有名な存在だったジョナサン・ヘムロック(イーストウッド)。彼は今や引退の身。かつて燃えていた山登りも止め、絵画教師として静かに暮していた。そんな彼のもとにCIAのチーフ“ドラゴン”(デイヴィッド)の使者が訪れ、高額の報酬と彼の持つピッサロの絵の保有証明書を提示して殺しを依頼する。その任務は成功したのだが、その帰途CIAの工作員によって報酬を横取りされてしまった。それをネタに今一度の殺しを依頼されてしまうジョナサンだが、それは彼が2度挑戦して2度とも断念したアイガー登頂に関わる任務だった… イーストウッド監督作。監督と主演に加え、スタントなしの登山にもチャレンジしたことで有名となった。ただ、ここでイーストウッドがやりたかったのは映画ではなく、自分が山登りするのを撮影する事だったのではないか?と思われるほどに自己中心的な、ナルシスト趣味全開の話になってしまった。大体ストイックな殺し屋で女にもモテて、芸術にも造詣が深いキャラなんて、どう見ても完璧な“男の理想”とも言える訳で、それをなんの衒いもなく演じてしまうイーストウッド。確かに格好良いのはその通りなんだが、ここまでやると、なんか流石に引く。その割に女の色香にコロッと騙されるとか、ちょっと隙がありすぎ。これでよく裏社会で生き残ってきたものだ。 それに物語がやや冗長。山に登る事に重点が置かれすぎた結果、本来のサスペンス部分がスポイルされてしまったし、本人が山に登ってるので、その姿が延々と映されていくのが長いこと長いこと。生の迫力はあるものの、物語そのもののを損なうまで山登りを見せつける意味は無かっただろう。もう少しフィルム切っても良かったと思う。 良いところも勿論あり。アイガー・サンクションという大自然の景観をしっかりと映しているところは細かい所に演出の配慮が行き届いているので、映像としては見応えのある作品に仕上げられてた。ジョージ=ケネディの存在感も良し。 そう言う事でプラスマイナスゼロってところかな? サスペンス性や物語性を求める人にはお勧めしないが、イーストウッドの格好良さを見たい。という人にはお勧め。 |
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愛のそよ風 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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荒野のストレンジャー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「荒野の用心棒」のセルフ・パロディのような作品。神話的素材を西部劇に持ち込む 伝統的西部劇にマカロニの要素を付け加えた。最後の方は恐怖映画っぽい演出 イーストウッドの個人的作品。主人公に神話的性格を持たせた最初の作品。既存の西部劇からは大きく逸脱 本作を見たジョン・ウェインは憮然として「こんなの西部劇じゃない」と言った。 |
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恐怖のメロディ Play Misty for Me |
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効果的な演出と題材のおもしろさで好評を受けた初監督作 ドン・シーゲルがカメオで初出演している 初監督はシーゲルの勧めで、本編のアドバイスもしている。『氷の微笑』を先取りした内容で、斬新すぎて受けなかった |
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