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2010 | 9'28 死去 | ||||||||||
2003 | イージー・ライダー☆レイジング・ブル 出演 | ||||||||||
2000 | ロー&オーダー(11th)<TV> 13話製作総指揮 | ||||||||||
1996 | INSIDE 監督 | ||||||||||
1995 | キング・オブ・フィルム 巨匠たちの60秒 監督 | ||||||||||
1993 | 愛のポートレイト 旅立ちの季節 監督 | ||||||||||
1989 | ペン&テラーの 死ぬのはボクらだ!? 監督 | ||||||||||
1987 | 冬の嵐 監督 | ||||||||||
1985 | ターゲット 監督 | ||||||||||
1981 | フォー・フレンズ 4つの青春 監督 | ||||||||||
1976 | ミズーリ・ブレイク 監督 | ||||||||||
1975 | ナイトムーブス 監督 | ||||||||||
1973 | 時よとまれ、君は美しい ミュンヘンの17日 監督 | ||||||||||
1970 | 小さな巨人 監督 | ||||||||||
1969 | アリスのレストラン 監督 | ||||||||||
1967 | 俺たちに明日はない 監督 | ||||||||||
1966 | 逃亡地帯 監督 | ||||||||||
1962 | 奇跡の人 監督 | ||||||||||
1958 | 左きヽの拳銃 監督 | ||||||||||
1954 |
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1953 |
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1922 | 9'27 ペンシルヴェニア州フィラデルフィアで誕生 |
小さな巨人 1970 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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カスター将軍のワシタ川の大虐殺を描く。 それまでアメリカが正義として行ってきたことの告発でもある。 アメリカの英雄であるカスター将軍を完全な悪者として描く トマス=バーガーの小説を映画化。一応西部劇だが、冒険的であり、南北戦争を徹底的に皮肉っている。ヴェトナム戦争に対する反体制心に溢れた作品 メイクアップ・アーティストは名匠ディック=スミス。1971年全米興行成績2位 ネイティヴ・アメリカンの目から開拓時代を観るという、これまでの逆転を行っている。ホフマンの存在そのものが権力体制の犠牲者として見られている |
俺たちに明日はない Bonnie and Clyde |
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1967米アカデミー助演女優賞(パーソンズ)、撮影賞、作品賞、主演男優賞(ベイティ)、主演女優賞(ダナウェイ)、助演男優賞(ハックマン、ポラード)、監督賞、脚本賞、衣装デザイン賞 1967英アカデミー新人賞(ダナウェイ、ポラード)、作品賞、男優賞(ベイティ) 1967全米批評家協会助演男優賞(ハックマン)、脚本賞 1967NY批評家協会脚本賞 1968キネマ旬報外国映画第1位 1992アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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刑務所を出所したての自動車泥棒クライド(ベイティ)は、田舎町で気の強いウェイトレスの娘ボニーと運命的な出会いを果たし、コンビを組んで銀行強盗を始める。クライドの兄夫婦を巻き込んでの銀行強盗旅行は続いていくが、常に警察につけねらわれ、同じ所に居られなくなってしまう。彼らの安住の地を見つけることは出来るのか? 映画の素材としてはよく用いられる1934年に射殺された実在の銀行強盗ボニーとクライドを題材とした映画化作品(実名での映画化はこれが3本目となる)。 後にアメリカン・ニュー・シネマと呼ばれるようになる(正確に言えばタイム誌で本作を特集したことからで、ニューシネマとはっきり言われたのは本作のみ)一連の作品の先駆けとなった作品。クライドとボニーによる旅行のロード・ムービーと言った感だが、その乾ききった殺人描写や、最後のあまりに有名な87発の弾丸を受けて“死のダンス”を舞う二人の死に様など、当時の映画界に多大なる影響を与えた作品である。元々の企画は1964年だったそうだが、当時精彩を欠くアメリカの監督ではなく、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの旗手であるトリュフォーかゴダールに監督を願ったところ、丁度売れっ子の二人はなかなか時間を合わせることが出来ず、たまたまこのシナリオを読んだベイティが自ら製作も買って出、更に監督まで探してきた(ベイティは私にとって決して相性の良い俳優ではないが、『草原の輝き』(1961)と言い、本作と言い、『レッズ』(1981)と言い、何かと映画史に残る作品に登場する。ペン監督としても丁度前年に『逃亡地帯』を作っていたのが幸いしたようだ)。批評家はこぞって本作をけなしたが、最初にヨーロッパで大ヒットし、国内でも大衆受けが良く、大ヒットを記録。更に本作によってハリウッドも新境地を開拓することとなった。 主役のベイティこそ既にスターとなっていたが、本作には他にあまりスターを使っていなかった。だが、本作の出演を機に、ベイティは製作の面白さに開眼し、ハックマンおよびダナウェイは大スターとして邁進していく(ちなみにハックマンを起用したのはベイティの口利き。実は二人はニューヨークのステラ・アドラー演劇学校の同期生だった)。 本作はフェイ・ダナウェイの出世作としても知られるが(ベイティはボニー役を自分の恋人であるレスリー・キャロンにしようとしていたため、最後までダナウェイを気に入らなかったらしい)、彼女のこの作品に賭けた熱情は凄まじかったらしく、役作りのために13キロもの減量を行った他、クレジット・タイトルの前に自分の名前を出させるため、自分のギャラの半分を払い戻したという逸話も残る(競演したパーソンズはそんなダナウェイの姿を見て、「彼女ほど映画スターになりたがった人は見たことがない」と述懐していたとか)。 ところで、本作はこれだけ有名な割りに、観ていてあんまりのめり込める。と言う感じではなかった。そりゃ、色々エポックメイキング的な所は多いのだが、途中部分が多少だれている感じ。最初はそれをこの作品の構成の悪さと思っていた。最後の衝撃のシーンさえあれば途中はどうだって良い、と言う具合に割り切ってるのかな?とさえ思っていた。 しかし、このレビューを書くに当たり、色々と考えてみると、ちょっと違っているように思えた。 よく考えてみると、この作品で退屈さを感じた部分は、会話のシーンだったように思える。会話部分が決して洗練されておらず、何となく間の悪さを覚える。 それでは、何故そんな風になったのか。当時さほど有名な俳優が出てなかったためか?(ハックマンはこの作品で発掘された感があり、それまでは決して有名などではなかった) それで不意に気付いた。これは会話を極めて現実に近づけたせいなのではないか? 元々映画は劇から多くの要素を取り入れている。会話は特にそれが顕著で、ウィットの利いた洗練された会話というのは、脚本家によって練り込まれ、推敲を重ねることで、様々な意味合いをその中に封じ込めることが出来る。それが劇の、そして映画のリアリティというものだ。 対して、日常の会話というのは、決して技巧が凝らされているわけではない。当たり前だが、会話というのは瞬時に相手の言葉を自分の言葉で返さねばならないので、時にウィットの利いたものが出るにせよ、通常は端から聞いていて洗練された会話など、あり得ないことだ。あったとしたらわざとらしく聞こえてしまう。 本作は敢えてその映画的なリアリティを廃すことで、むしろそう言う会話を演出しようとしたのではないか?具体的にはビーティとハックマンの邂逅シーンでの会話だが、お互いに何か言いたいことはあるはずなのに、会話はとぎれがちで、しかも不意に訪れる沈黙と(「天使の通り道」という奴)、その後でいきなり来る馬鹿笑い。何がおかしいのか分からないけど、とにかく笑ってしまう。そんなこと、日常でもよくあること(あるよね?)。 会話を普通にする。それが実はこの作品を不思議な魅力に包まれたものとしたのかも知れない。そしてそれこそがいわゆるアメリカン・ニュー・シネマという流れだったのかも知れない。フランスのヌーヴァル・ヴァーグの流れをくみ、なおかつそれとは違った形で出すことの出来た成功例だ。 |
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逃亡地帯 The Chase |
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殺人で服役中のババー=リーブス(レッドフォード)が仲間と共に刑務所を脱走する。彼の故郷タール市は石油成金のバル=ロジャース(マーシャル)によって牛耳られており、しかもバルと対立するその息子ジェイク(フォックス)はババーの妻アンナ(ジェーン・フォンダ)と関係を持っていた。ババーがその復讐に戻ってくると言う噂が町中を駆けめぐるが、彼らは怯えるどころか、むしろババーを返り討ちにしてやると手ぐすね待っていた。その中唯一冷静さを保っているシェリフのカルダー(ブランド)は、一体過去に何があったのか、真相究明に乗り出す。 ホートン=フートの原作を劇作家のリリアン=ヘルマンが脚本を書き、ペン監督によって作られた作品。キャラクタにも力が入っており、当時大スターとなっていたブランド、レッドフォード、フォンダ(脚本のヘルマン役を後に『ジュリア』(1977)で演じることになる)と言った蒼々たるメンバーが登場する。 物語そのものは極めて重い内容を持つ。設定自体も一人の金持ちが町そのものを支配している閉塞感、彼のもたらした富は町に悪徳を蔓延らせ、道徳をせせら笑う人々と、人殺しをまるでゲームのように嬉々として参加する人々。と言った描写が展開する。誰も彼もがこの町にうんざりしながら出て行く気力もないという南部の町を見事に表していた。 いわゆるアメリカン・ニューシネマが開始されるのは、2年後当のペン監督による『俺たちに明日はない』の公開を待つことになるのだが、本作を観る限り、既にその時代は始まっていたのではないか?と思わされる位に過激。人間関係もややこしく、しかも終わり方も後味が悪く、観るだけでかなり疲れを覚える作品でもある。改めて、よくこんな作品がこの時代に作られたものだ。もう少し本作が洗練されていれば、ニューシネマの時代は2年前に始まっていたかも知れない。 これまで歴史の中で直視していなかったアメリカにある病理をしっかり見据えようと言う姿勢ははっきりしており、エンターテインメントの中で人間性を追求しようとするその姿勢には拍手を送りたい。 ただ、その姿勢がエンターテインメントとして機能していたか?と言うのとは別物。ブランド、レッドフォードというヒーロー性たっぷりの人物二人を主人公としていながら、二人とも全く強さが描写されておらず、町の人の暴力に翻弄されるだけに終わってしまった感じ。それでもまだブランドは『真昼の決闘』(1952)のクーパーっぽい格好良さはあるが、レッドフォードは本当に彼で良かったの?と言うくらいに見せ場がない。彼の物語に関しては、寝取られ男が未練たらしく妻の周りをうろついていたら、リンチにあって殺された。という救いのないだけの話になってしまった。ましてやフォンダに至っては単なる性悪。これだけのキャラにこれだけの役をよくも演らせたもんだ。それだけでも特筆ものか? 規制は薄らいだとはいえ、当時のハリウッドでこの物語を映画化するにはかなりの冒険であったことは確かで、流石に当時のアメリカではあまり受け入れられなかった。時代的に早すぎた作品だとは言えると思う。実際当時も“駄作”と言われたし、今観ても決して洗練されてるとは言い難い。70年代に低予算で作られたらインディペンデント映画としてかなり受け入れられたんだろうけどね…いや、だからこそ本作はハリウッド大作中のカルト作として考えるべきなのだろう。 ニューシネマ好きな人だったら絶対に観て欲しい一本。 |
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奇跡の人 The Miracle Worker |
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1962米アカデミー主演女優賞(バンクロフト)、助演女優賞(デューク)、監督賞、脚色賞、衣装デザイン賞 1962英アカデミー国外女優賞(バンクロフト)、作品賞 1963キネマ旬報外国映画第2位 |
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1887年。盲学校の卒業生のアン=サリヴァン(バンクロフト)は南部のケラー家に招かれ家庭教師として赴任した。実はケラー家には長女で目も見えず耳も聞こえない暗闇の中で生きている7歳になるヘレン(デューク)がおり、似た境遇のサリヴァンに教育係を任せようとしていたのだ。家族の愛に包まれ、甘え放題勝手な行いを続けるヘレンに、アニーは厳しい特訓を行うことにした。それはアニー自身の反省に基づき、ヘレン自身が周りの出来事を理解し、自分の思いを他人に伝えられるようにしてあげたいと言う切なる願いだった… 実在の二重苦の偉人ヘレン=ケラーの自叙伝に基づく物語の舞台劇を、同じペン監督が映画化した作品(主演は舞台と同じバンクロフト)。これまでに日本に紹介されているだけで3回映像化(内二つはテレビドラマ)されているが、本作はその最初の作品で、恐らく最も完成度が高い作品だろう。 事実後発の二つの作品を既に観ていて、ストーリーもほぼ同じにも拘わらず、本作はやっぱり凄いと思った。 結局それはキャラクターの存在感に他ならず。 ウェルメイドの物語、しかもストーリーがベタベタなものであればあるほど、そこで重要となるのはキャラクターの存在感となる。しかも本作では余計なカメラアングルやワークなど殆ど使われていないので、その分更にキャラクターに重責を負わせることになってる。 それを真っ向から受け止めて、存在感を出したのがバンクロフト。この人の若い頃の作品を観るのは、実はこれが初めてだったが、凄いもんだとしみじみ感心した。なんだかとても癇が強そうで、怒鳴ったり叩いたりするのが普通に見えてしまうのが凄いところだ。しかもそれを嫌味にならないギリギリのレベルで抑えてもいる。たいしたもんだと思うよ。そしてこの作品で当時オスカー最年少受賞(現在は更新されてるが)のデュークの演技も凄かった。今でこそこの手の演技は演技者の必須項目となっているくらいだが(本作がその足がかりを作った)、そのノウハウが全くない状態であそこまで鬼気迫る演技をなさしめた、その実力は買うべき。 カメラ・ワークを最小限に留め、まるで舞台劇を観ているような気分にさせられるが、それだけ演技者の実力があったからこその狙いなんだろう。 |
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左きゝの拳銃 The Left Handed Gun |
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1880年代ニューメキシコ。12歳で人殺しとなって以来流れ続けた“ビリー・ザ・キッド”ウィリアム・ボニイ(ニューマン)は、行き倒れ寸前に牛商人のタントール老人に救われ、用心棒として雇われた。だがリンカーンの町では保安官が家畜商人と結託し、タントールを追い落とそうと画策していた。そしてとうとう保安官のブラディによって射殺されてしまう。、怒ったビリーは次々と関係者を殺していく… ペン監督デビュー作。監督は後に『俺たちに明日はない』を撮ることになるが、デビュー作から犯罪ものを手掛けていることが分かる。演出の上でも後に有名となるスローモーションを使った演出を用いていて、その実力の片鱗が見える。 実際の作品の出来としては、ビリーが大人すぎるのと、やや盛り上がりに欠ける物語展開のおかげで描写不足は否めず。ビリーの殺人を全部必然性に結び付けてしまったため、ありきたりな物語になってしまった感じ。50年代と言う時代を考えると、これでもかなり冒険したんだろうけど ニューマンが主役を張ることで、本作は見事にその存在感を印象づける事となったが、一方ではニューマンの存在感はあまりにも揺れない存在であるが故に、ビリーの若さというか、無鉄砲さがなりを潜めてしまった。折角ビリーを教育することを買って出たタントールも、大人の対応と言うよりは、対等の立場に近かったし。 後半になると、ビリーの殺人は復讐と報復になっており、物語としてはまとまるが、無軌道っぷりを観たかった側としては少々食い足りない。 若きニューマンの格好良さを堪能できれば良いと考えるなら、それはそれで充分な出来ではあるが、もうちょっとニューシネマっぽく仕上げてほしかった感じ。ペン監督が10年後に、レッドフォードを主役にしてこれを作っていれば、すごい作品になった気がするんだが… |
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