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ゾンビ・サーガ―ジョージ・A.ロメロの黙示録(書籍) _(書籍) |
2017 | 7'17 死去 | ||||||||
2009 | |||||||||
2008 | |||||||||
2007 | ダイアリー・オブ・ザ・デッド 監督・脚本・出演 | ||||||||
2006 | |||||||||
2005 | ランド・オブ・ザ・デッド 監督・脚本 | ||||||||
2004 | |||||||||
2003 | |||||||||
2002 | |||||||||
2001 | |||||||||
2000 | URAMI 怨み | ||||||||
1999 | |||||||||
1998 | |||||||||
1997 | |||||||||
1996 | |||||||||
1995 | |||||||||
1994 | |||||||||
1993 | ダーク・ハーフ 監督・製作総指揮・脚本 | ||||||||
1992 | |||||||||
1991 | |||||||||
1990 | マスターズ・オブ・ホラー/悪夢の狂宴 監督・脚本 | ||||||||
ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 死霊創世紀 製作総指揮・脚本 | |||||||||
ドキュメント・オブ・ザ・デッド/ジョージ・A・ロメロのゾンビワールド 出演 | |||||||||
1989 | |||||||||
1988 | モンキー・シャイン 監督・脚本 | ||||||||
1987 | クリープショー2/怨霊 脚本 | ||||||||
1986 | |||||||||
1985 | デイ・オブ・ザ・デッド 監督・脚本 | ||||||||
1984 |
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1983 | |||||||||
1982 | クリープショー 監督 | ||||||||
1981 | ナイトライダーズ 監督・脚本 | ||||||||
1980 | |||||||||
1979 | |||||||||
1978 | ドーン・オブ・ザ・デッド 監督・脚本 | ||||||||
1977 | マーティン/呪われた吸血少年 監督・脚本・出演 | ||||||||
1976 | |||||||||
1975 | |||||||||
1974 | |||||||||
1973 | ザ・クレイジーズ 監督・脚本 | ||||||||
1972 | ジョージ・A・ロメロ/悪魔の儀式 監督・脚本・撮影 | ||||||||
1971 | |||||||||
1970 | |||||||||
1969 | |||||||||
1968 | ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド 監督・原案・撮影 | ||||||||
1967 | |||||||||
1966 | |||||||||
1965 | |||||||||
1964 | |||||||||
1963 | |||||||||
1962 | |||||||||
1961 | |||||||||
1960 | |||||||||
1959 | |||||||||
1958 | |||||||||
1957 | |||||||||
1956 | |||||||||
1955 | |||||||||
1954 | |||||||||
1953 | |||||||||
1952 | |||||||||
1951 | |||||||||
1950 | |||||||||
1949 | |||||||||
1948 | |||||||||
1947 | |||||||||
1946 | |||||||||
1945 | |||||||||
1944 | |||||||||
1943 | |||||||||
1942 | |||||||||
1941 | |||||||||
1940 | 2'4 ニューヨークで誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||
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ダイアリー・オブ・ザ・デッド 2007 | |||||||||||||||||||||||
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ランド・オブ・ザ・デッド 2005 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2005ゴールデン・トマト・アウォーズホラー 2005ホラー大賞作品賞第1位、監督賞(ロメロ)、女優賞(アルジェント)、男優賞(ホッパー)、セクシー・ホラー・スター(アルジェント) |
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リビングデッドが現れ、次々に人を襲っては仲間にしていった。原因不明なまま時は過ぎた時代。支配階級の人間たちによって要塞のような小都市が作られた。その中心となる超高層タワーではカウフマン(ホッパー)がこの地を統治していた。彼は傭兵たちに命じ、危険地帯から食糧や物資を調達させていた。傭兵のリーダーであるライリー(ベイカー)は、自由を約束する北への逃亡資金を貯めるため、日々横暴な支配者階級の人間たちと、危険な任務をこなしていたのだが、そんな時スラム街で勝ち気な娼婦スラック(アルジェント)を目にする… リビングデッド(ゾンビ)ものの嚆矢であり、後の作品に多大な影響を及ぼしたロメロ監督のリビングデッドシリーズ。監督自身がかなり寡作なので、最初に登場した『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が1968年で、それから実に40年近くを経て4作目の本作が作られることとなった。第3部の『デイ・オブ・ザ・デッド』からも既に20年。三部作で終わるかと思っていただけに、かなり驚きをもって本作は迎えられることとなった(そもそもは『トワイライト・オブ・ザ・デッド』という名で10数年前に企画されたものらしい)。 それで一見して「何で今頃?」と言う感を強くしたのだが、改めて考えてみると、ロメロ監督にとってはこの時代の流れもやはり一貫性をもって作っていたと言う事が分かった。 振り返ってみると、これまでの三部作についても、それぞれにテーマがあり、そして一貫して「一番恐ろしいのは人間である」という主張にあふれていた。 一応それで振り返ってみよう。 一作目『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が作られたのは1968年。ヴェトナム戦争が本格的に始まった時期に当たり、この時代に時を合わせたように映画界でもニュー・シネマが始まっていった。インディペンデントであるニュー・シネマは監督の主張が入れやすいのだが、その中で共通するのは“アメリカの正義”に対するアンチテーゼだった。ヴェトナム戦争でアメリカがしている残虐行為は本当に正義なのか?美辞麗句に彩られている正義の実態は何だ?その延長線で作られていたのが一作目だった。 そしてそれから10年後に作られた二作目『ドーン・オブ・ザ・デッド』に関しては、ヴェトナム戦争後、すっかり物欲に取りつかれてしまったアメリカに対する皮肉たっぷりに作られている。あの作品で舞台となっているショッピング・モールは、現在もなお発展を続けているので、図らずも予言のような意味合いさえ見て取れる。 その次の第三作『デイ・オブ・ザ・デッド』が世に出たのは1985年。タカ派のロナルド・レーガンが大統領に就任した時期に当たっている。しかも内容はモロ軍隊の非道さを描くもの。 こう見てみると、それぞれの時代に合わせて監督はリビングデッドものを作ってきたことが分かるのだが、それでこの作品の場合…まあ、言うまでもないが、この年はイラク戦争まっただ中にあるその時代に投入されている。 そこで何が言いたいのか? イラクで起こっている悲惨なこと?それもあるんじゃないかと思うけど、むしろこの構図はアメリカの国内で起こっていることそのものなんじゃないか? この作品の舞台では人間は完全に二層に分かれており、一方は貧しい街に住み、日夜リビングデッドの襲来におびえ、一方は超高層ビルの中、セキュリティシステムに囲まれて暮らしている。 そしてリビングデッドに対抗するため、街の人間は武装を余儀なくされ、街を何とか守っていくのに手一杯なのに、上層に住む人間は、さらに彼らの尻をたたき、彼らの怠惰さを叱責する。 この構図、どこかで観たような…というか、これってそのままマイケル・ムーアが『華氏911』で描いていたことと全く同じじゃないか。 つまるところ本作は『華氏911』と指向が全く同じ。アメリカ国民に対し「お前たちは何をやってるんだ?」と言う告発をストレートにぶつけた作品ではないか。 一旦そう思って観てみると、本作の皮肉ぶりはかなり顕著に見られてくる。自分たちが生きるためと言われ、国に尻を叩かれて出兵していく兵士たち。そしてそれを「生きるため」という意味をつけられて応援している国民。すべてはここに描かれているとおりだ。やっぱりロメロはいつまでも枯れない人だ。 本作ではキャラの怪演も見どころの一つ。久々に銀幕で観たデニス・ホッパーは、権力者役を嬉々として演じているが、これだって彼がロメロの思いに応えて演じていたのだろうし、ヒロイン役がアーシア・アルジェントってのも、なかなか分かった配役だ(言うまでもないが、イタリアの鬼才ダリオ・アルジェントの娘)。 それでいろんな意味でにやにや出来る作品に仕上がっているが、問題として、本作はリビングデッドを出す必然性が無い。と言うところだろうか?既に大御所となってしまったロメロの演出は、進化した演出からはかなり逆行しており、かなり描写的には古臭いものになってしまった。時事ネタを扱うにはこれ。という監督の意地が入ってるのかもしれないけど、だったらもうちょっとその点にも新しさを取り入れても良かった気がする。怖くないから安心して観られるけど、それは本末転倒だろうし。 |
URAMI 怨み 2000 | |||||||||||||||||||||||
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ダーク・ハーフ 1993 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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デイ・オブ・ザ・デッド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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地上の殆どが動く死体達に覆い尽くされた未来。生き残った人間達は地下に籠もり、細々と生き続けているばかりだった。そんな中でのある軍の地下施設での出来事。軍の要請で動く死体達を飼い慣らそうとしている科学者がいた。だが、指令系統が換わった軍は科学者の研究をうち切ろうとする。軍と科学者のどちらについて良いのか分からぬ民間人をも巻き込み、軍施設は大混乱に陥る。そして遂になだれ込む死体達。 リビングデッド3部作の第三部。『死霊のえじき』という邦題が付けられているが、どうも語呂が悪いので、敢えてこう書かせてもらう。 監督はこの三部作を作る際、何らかのモチベーションを必要としたそうだが、本作の場合、レーガン政策で右傾化していったアメリカを皮肉ったものだろう。冷戦構造の下、タカ派のレーガン政権は軍拡路線を突き進み、国際的な平和がどんどん遠のいてしまうような気にさせられた時代だ。そんな中、軍隊を話の中心に持っていき、その非道さを告発するなど、なかなか皮肉なシチュエーションには違いない。 特徴として、三作中最もヒューマン・ドラマに力が入れられているのだが、正直な感想を言えばどうも今ひとつ。前作『ドーン・オブ・ザ・デッド』を越える死体の群れ(奇抜な格好してるのも前作以上)が出てきたり、死体の解剖シーンなどの猟奇シーンも多数出したことで話題にもなったのだが、前二作と較べ、あまりにショックシーンに重点が置かれすぎで、ちょっと引く感じ。当時はそう言うものを求めていた風潮だったのだろうか?極度のストレス下にある人間を描こうとしていると言うのなら、こういう表現の仕方もあるのだと、一応好意的に取っておこう。 『Night』、『Dawn』、『Day』と続く「三部作」は三作とも作りがかなり違っているが、全体を通し、人間の強さと、一番怖いのは結局人間である。と言う点に重点が置かれているように思えるのだが…本作品においては別種の「怖さ」を強調しすぎた観がある。特にあの科学者の行動見てると(笑) |
クリープ・ショー 1982 | |||||||||||||||||||||||
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ビリー少年が父親から叱られながら夢中で読んでいるホラー・コミック。その雑誌に載っていた話が次々と映像となって… 父の日:7年前、「ケーキを出せ」と騒ぎ続けた父ネイト(ローマー)を思わず殺してしまった娘ベリンダ(リンドフォース)。今年も父の日に墓参りをするが… 草まみれの男:農家の庭に隕石が落下し、それを見たジョーディ(キング)がそれに水をかけた所… みち潮:リチャード(ニールセン)は妻ベッキーの浮気現場を押さえ、ベッキーと浮気相手のハリーを海辺に首だけ出して埋める。 開封厳禁:大学教授のヘンリー(ホルブリック)は、大学に届いた荷物に怪物が入っていることを発見する。言葉巧みに悪妻のウィルマをおびき出して怪物に食べさせようとする。 クリープショー:極端な潔癖性の悪徳実業者アプトンは、潔癖性がいきすぎて、ついに無菌室の中で生活するようになったが、そこに一匹のゴキブリを発見する… かつてアメリカで大人気を呼んだホラー系パルプ雑誌のECコミックを読みふけった世代の面々が(ECコミック自体はPTAの圧力で廃刊に追い込まれたそうだが)集まって、昔を思い出させる作品として作り上げたオムニバス・ホラー。ホラー小説の御大スティーヴン・キングが脚本を担当しているのも話題性に一役買った。 パルプ雑誌が元と言うだけあって、演出はかなり安っぽく、コミカルに仕上げられているのが特徴で、真剣な怖さというのとは無縁なのだが、一流俳優の熱演もあって妙に楽しい作品に仕上げられている。ショックシーンもほどほどで、ドキドキしながら、同時ににやにやして観ることが出来る作品(3話なんかはそのまんまのストーリープロットを「死の舞踏」という本に書いてもいる)。第5話だけはちょっと勘弁して欲しいけど。 かつてヒッチコックは「本当の笑いとは恐怖と紙一重のところにある」と常々言っていたそうだが、ホラー映画というのは単に怖く作ればいいと言うものではなく、そこに笑いを入れることで本当に怖さを演出出来るとも言える。そう言う意味ではこれだけ安っぽく作っていながらも、まさにヒッチコック風ホラーの定式に則っているのかも知れない。 数多くのカメオ出演もあるので、それを探してみるのも一興。楽しんで作ったのがよく分かる。 最近又ホラーが復権してきたが、そろそろ飽きられてきた感もある。むしろ活路はこう言う所にあるんじゃないのかな? |
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クリープショー 父の日 ネイサン・グランサム ラテックス マスク クリープショー 箱 クレート・ビースト ラテックス マスク |
ドーン・オブ・ザ・デッド 1978 | |||||||||||||||||||||||||||
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アメリカ国内では死体達が起きあがる事件が多発していた。その中で4人の男女がヘリコプターで死体のいないところへと脱出を試みる。結局どこもかしこも死体ばかりだったが、郊外の大型ショッピングセンターを見つけた彼らは店内から死体達を追い出し、そこで生活を始めることにした。一人を失ったものの、残った三人でそれなりに快適な生活を送っていたが、そんな彼らを、無法の群と化した暴走族が見つける。 リビングデッド3部作の第二作。ちなみにゾンビとはブードゥ教での「歩く死体」を表す言葉で、日本人には馴染みの深い言葉だが、原題でこれが付いているわけではない(劇中言及するところがあるけど)。 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』がカウンター・カルチャーの敗北を描いた作品だったとは監督本人の言だが、それを打ち負かした消費文明を批判するのが本作の役割だったと、やはり監督は語っている。だから消費文明を象徴するショッピング・モールが舞台となり、意味もなく集まり、そこで必要のないものを買いまくってる人間に対する批判が込められているそうだ。たとえ生ける死体となっても、生活の習慣は頭の片隅に残り、再三ショッピング・モールに集まってくるリビングデッドの群れ。生きる主体が意味のない消費へとなってしまった、これこそが文明の生んだ皮肉だ。 それで自分たちの周りは死者ばかり。と言う空間の中で快適に生活する主人公達や、自分たちに襲いかかる死者達をからかい、楽しんで殺戮(?)する暴走族の連中をを見ていると、人間はどんな所でも生きていける。と言う人間のしたたかさを見せつけられたような気になる。 映像的にもよく練れていて、いろいろな格好をしている死体達が登場し、見ていて飽きない。又、明らかに笑えるシーンも多数あり、ホラー映画の作り方は多様であることを思わされる。本作が一気に幅を広げてくれた事実は褒め過ぎってことはなかろう。 本作品は三部作の中では完成度が最も高く、見ていても楽しい。生ける死体の脇をすり抜けて走るとか、ゲームの「バイオ・ハザード」は明らかにこの作品の影響を強く受けていると思われる。 ちなみに本作品はいくつかのヴァージョンがあるが(私が観た日本版はわざわざ最初に解説まで入っているが、これは日本の配給会社が勝手に考えた設定)、オリジナルのロメロ版が一番良い出来だと思う。 |
ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド 1968 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1999アメリカ国立フィルム登録簿登録 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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父の墓参りに来たジョニーとバーブラの兄妹。墓の周りをうろついている男に突然襲われる。まるで生気のないその男に噛みつかれたジョニーは動かなくなってしまう。そこから一人難を逃れたバーブラは近くの家に入ることに成功するが、家の周りでは不審な男女が増えていく。時折流れるニュースによれば、なんとアメリカ中の死体が起きあがって人を襲っているという。避難してきた者達は家に立てこもり、何とか生きる道を探そうとする。生き抜くための戦いが始まった。 ロメロ監督のいわゆるリビングデッド3部作(後に更にシリーズ化されたが)の第一作。白黒映像。メイクも殆ど無しで死体達(敢えて「ゾンビ」とは呼びたくない)を演じているが、逆にそれがリアリティを増していて、非常に怖い。狙いは間違いなく大成功だろう。 本作が様々な形で模倣されている事からも、本作の質の高さ、そして怖さが分かるが、その怖さというのは、実は本当に怖いのは人間だ。と言うことを如実に表しているからなんだろう。 ここで登場する人物の多くは極限状態に置かれたとき、独善的な行動を取る。「死にたくなかったらこの俺に従え」と叫ぶ奴、ひたすら悲鳴を上げて逃避をはかる奴。一人だけ助かろうとする奴…皆自分の思いのままの感情を放出している。この状態の中、「俺が一番優位に立ってるんだぞ」という事を強調しようとする、エゴむき出し。 しかしながら、これらのキャラクターの中でも良心を保っている人間が一人だけいる。アフリカ系アメリカ人の青年。三部作を通して一致するのはアフリカ系アメリカ人が最後まで残ると言う点なのだが、監督は敢えて社会的強者である白人がピンチになって独善的になる姿、社会的弱者であるはずの女性やアフリカ系アメリカ人が理性を保ち、最後に残ると言うことを問いかけていたようにも思える。 襲われていた兄が死体となって襲ってきたり、苦しんでいた子供が突然リビングデッド化して復活し、両親に襲いかかるシーンとか、人間を引き裂き、その肉を喰らうシーンとか、静かな映像の中に根元的な恐怖が隠されている構成も良し。ラストシーンで、結局一番怖いのは人間だという救いようがないオチが付くのもポイントが高い。 この作品は、高度成長時代において、「社会的強者であるあなた方はリビングデッドとどこが違う?」という真摯な問いかけだったんじゃないかな?…後に、これは本当だったことが分かった。この作品は60年代のカウンター・カルチャーが消費文明に見事に敗れ去ってしまったことに対する苛立ちが本作のモチベーションであったことを監督自らが明かしている。ここで出てくるのは革命の亡霊達であり、それを押しつぶしたのが現代のアメリカを代表するサイレント・マジョリティ達ということなのだろう。 とにかく、背後関係が見事に透けて見えるというのは、ホラーとしては珍しく、本作が最高映画と言われるのも充分頷けるだろう。 |