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ゲイリー・トルースデール
Gary Trousdale

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2001 アトランティス 失われた帝国
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1996 ノートルダムの鐘
1995
1994
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1992
1991 美女と野獣 監督
1990
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1965
1964
1963
1962
1961
1960 6'8 カリフォルニア州で誕生

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タイトル
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物語 人物 演出 設定 思い入れ

 

アトランティス 失われた帝国 2001
<A> <楽>
  
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 言語学者マイロは、亡き祖父の夢、古代都市アトランティスを求めて、未知の海底世界に向かう。何百人もの犠牲を払いつつ旅の果てに発見したアトランティスは、1万年の時を超えてなお生命をはぐくむ奇跡の都市だった。美しく勇敢な王女キーダとともに、その永遠の生命の謎に挑むマイロ。やがて彼は、キーダに隠された驚くべき真実を知る。
 ディズニー生誕100周年を記念して作られた超大作…だ、そうだ。
そりゃないだろディズニー。ウォルト=ディズニーは泣いてるぞ。
 大体このストーリーはあまりにも既視感に溢れている。しかもそのことごとくが日本のアニメというのが凄い。
『天空の城ラピュタ』(1986)『ふしぎの海のナディア』、そして『風の谷のナウシカ』(1984)のシーンが走馬燈のように…
 実際にストーリーは破綻無く進んでいくが、登場人物をなまじ多くし、しかもそれぞれに強い個性を持たせたために映画一本ではとてもじゃないが描ききれるものではない。
これがテレビシリーズだったらかなり見応えはあっただろうに。
 ところでこれを見て思うのは、アメリカで考えられる
「悪人」という姿の変化だろう。かつてマッカーシズム溢れる頃の映画においてヒーローは体力勝負のマッチョタイプだったのだが、今はむしろそう言うマッチョは悪人の役にしかならないらしい。時代は変遷してるんだね。マイケル=J=フォックスはもういい年の筈だが、アニメでも青年の役だというのも面白い。
 日本のアニメがアメリカに与えた影響というものも侮りがたいものがある。
ノートルダムの鐘 1996
1996米アカデミー音楽賞
1996
ゴールデン・ラズベリー 100億ドル以上の興行成績を上げた作品でのワースト脚本賞
<A> <楽>
  
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 15世紀末のパリ。ノートルダム寺院を中心とする町の喧噪を舞台に、醜い鐘突き男カジモドと美しい踊り子エスメラルダの友情を描くミュージカル・アニメ。醜いカジモドは彼の母を殺した最高裁判事のフロローによって引き取られ、ノートルダム大聖堂の鐘楼に閉じ込められて暮らしていた。だがある日、彼は下界での祭りに我慢できなくなり、抜け出してしまう。カシモドはそこで、美しいエスメラルダに出会うのだった。パリに巣くう盗賊集団を検挙するという名目で彼女を掴まえようとする育ての親のフロローとの板挟みに悩むカジモドだったが…
 アニメーションというのは、その構造上哀しさを演出するのは極めて難しい素材である。「悲しい」というのは比較的簡単。涙を流したり、派手な動きをさせて悲しみを演出してやればいい。ところが「哀しみ」というのは、非常に静的な動きが強い。極めて微妙な表現を役者に強いる。これが実写であれば、上手い役者なら目や細かな仕草でそれが可能。ところがアニメの場合、それをいくら真似てみても不思議なことに、それが「哀しみ」に見えない。私はこれは「色彩」の問題が大きいと思う。アニメーションは現実世界とは異なり原色の世界の中にある。その中では観る側の方が表情に補正を加え、限られた表情しか認めないような部分があるのではないか?(日本のアニメの場合、この「哀しみ」の演出をする場合、内面世界を表現することが多いのだが、これが又、こっ恥ずかしい演出になるのが常で、「哀しみ」を表現するはずが、別な意味で見ていられないものになる)
 さて、長々と書いてしまったが、それだけこの作品はディズニーの演出力や技術力が問われる作品であったわけである。アニメーションで「哀しみ」がどれだけ表現できるか。
『アラジン』(1992)でディズニーに見切りを付けようと思った私だったが、少々気になってたタイトルだった。
 なにせ原作は無茶苦茶暗い話。カジモドは結局報われることなく、哀しみこそが強調されなければならないのだ。前述したが、これだけの微妙な表情をアニメーションで表現できるとしたら、ディズニーしかないだろう。あれだけ微妙な表情を作ることが出来るディズニーだったらやってくれるのではないか。そのように思わせられた。
 それで拝見。
 …
 本当に見事だった。これほど
見事に期待は裏切られようとは思わなかった
 さすがディズニーと言うべきか。冒頭から差別問題を上手く感じさせないようにして、カジモドも孤独のように見えて友達だっている(人間じゃないけど)…
 冒頭で先ず
猛烈な嫌な予感に捕らわれる。本当なら幼少の頃から叩き込まれた教育により、差別に脅えるカジモドがあってこその物語なんだけど…
 結局やはり、と言うか、カジモドは物語全体を通し、自分というものを失うことなく、孤高な魂を宿し続ける。卑屈さがないから、自分から道化を演じることが出来ない。最後はエスメラルダを喜んで差し出す…
 少なくとも、この演出で
「哀しみ」など、出そうにも出せない。いや、ディズニーは最初からその点については放棄していたとしか思えない。だとしたら、何でこんな素材を選んだ?結局これでは中途半端な、いや、それさえも至っていない、極めていい加減な作品にしか見えない。
 原作の持つ本当の良さを全て無視して作られた物語などに意味がない。逆にその良さを抜いたまま重いストーリーを抜き出してしまったため、ディズニー・アニメとしては突出した暗さになってしまった。
 きっとこれはディズニーの挑戦だったのだろう。
 だが、
「挑戦」である以上、失敗も起こる。まさにこの作品は失敗作。

 ただ、この作品にも良い部分はある。ディジタルを多用した画面表現はこの作品で技術的にますます向上し、しかもその使われ方が非常にさりげない。カジモドが街を見て、特定の人間にズーム・アップするシーンは、セル・アニメではほぼ不可能な表現。その辺を知っていると、結構楽しめはするんだけど…(押井守の
『攻殻機動隊』(1995)のラストでゆっくりズーム・アップするシーンは、どれ程技術的に難しいか分かってくるだろう?)
美女と野獣 1991
1991米アカデミー作曲賞、主題歌賞、作品賞、録音賞
1991LA批評家協会アニメーション賞
1991ゴールデン・グローブ作品賞、音楽賞、歌曲賞
1992
英アカデミー作曲賞
2002アメリカ国立フィルム登録簿登録
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カーク・ワイズ(共)
ドン・ハーン
ハワード・アシュマン(製)
リンダ・ウールヴァートン(脚)
ペイジ・オハラ
ロビー・ベンソン
リチャード・ホワイト
レックス・エヴァーハート
ジェリー・オーバック
アンジェラ・ランズベリー
デヴィッド・オグデン・スタイアーズ
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
美女と野獣(書籍)ルプラン・ド・ボーモン
 フランスの田舎町の郊外の森の中にひっそりと建つ城。そこにはかつて若く精悍な王子が住んでいたのだが、魔女に心を試されて醜い野獣に姿を変えられてしまった。21歳の誕生日までに彼は誰かを愛し、また愛されるようにならなければ、一生元の姿には戻れない事にされてしまう。そしてもうすぐその誕生日を迎えようとしている、そんな時にある老人が森の中に迷い込んでくる。父を捜しに来た娘のベルは、父を釈放する代わりに自分が囚われの身となることを申し出るのだった…
 ディズニーがアニメーションに新たな地平を切り開いた作品で、初めてアニメーション作品をアカデミー作品賞ノミネートに持って行った作品。
 本作については説明においても、感情においても、いくつも言いたいことが詰まってる。
 古典的な名作物語。舞台劇では数え切れないほど演じられてきたが、映画版の決定版と言えば…私としてはコクトー版『美女と野獣』(1946)と言いたい所なんだが、本作をコクトー版をアニメ用にリメイクしたと考えれて納得。アニメでオリジナルに遜色のない、いやむしろある意味においてはオリジナルをさえ超えてしまった作品だと言っても良い。
 ディズニー・プロダクションはこれまでにいくつもの実写映画を世界に投入していたとは言え、やはり基本は創立者ウォルト=ディズニーが世界に燦然と輝くキャラクター、もとい、ミッキー・マウスを作り出して以来、伝統的にアニメーション製作が最も有名な映画会社だった。だが、これまでしばらくはアニメは専らテレビの方で、映画から離れていたのだが、本作で華々しく復帰した。まるで凱旋記念のような久々のアニメーションは、
まさに観るものの度肝を抜くに充分。これまで何度か実験的に行われていたが、実質的には初めて、商業ベースのアニメ作品にディジタルを投入した作品である。
 確かにメインは伝統のセルアニメーションが用いられてはいるが、随所にコンピュータ・グラフィックスで彩られた描写がなされることによって、“新しい”アニメーションの可能性まで示してくれていた。
 それにセルアニメーションに関しても、充分な資金が投入されているので、動きの良いこと。ポットやろうそく立てと言った無機物に人格を与えたのはオリジナルのコクトー版に即してのことらしいが、アニメーションだとはまる。その点もやはり素晴らしいところだ。
 ストーリーに関しては、どうせオーソドックスにまとめているに違いないと思っていたら、意外や意外、物語の展開はかなりしっかりしていたよ。特に野獣の方に敵役が存在してるのが良い風味付けになってた(なにもあそこまでしなくても。と言う描写にはちょっと引いたが)。
 いずれにせよ、本作はディズニーアニメーションが健在であり、これから発展していくことを高らかに主張し、日本のアニメに押され気味だった映画業界に活を入れ、更にCGを映画の中に違和感なく取り入れる可能性を示唆した。映画史に残る作品であったのは事実だ。
 …そして、
その映画史を見事に踏みにじったのが、当のディズニーであったことも、やはり事実であることは明記しておくべきだろう。

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