灰とダイヤモンド
Popiól i diament |
1959英アカデミー作品賞、国外男優賞(チブルスキー)
1959ヴェネツィア国際映画祭国際映画評論家連盟賞(ワイダ)
1959キネマ旬報外国映画第2位 |
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イエジー・アンジェウスキー
アンジェイ・ワイダ(脚)
ズビグニエフ・チブルスキー
エヴァ・クジジェフスカ
バクラフ・ザストルジンスキー |
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★★★★★ |
物語 |
人物 |
演出 |
設定 |
思い入れ |
5 |
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1945年5月8日。ソ連から派遣された共産地区委員長のシチュカ暗殺を指令されたマチェック(チブルスキー)とアンジェイ。だが射殺したのは工場で勤務する市民だった。彼らの仲間でシチュカの秘書を務めるグラスから今晩シチュカはホテルの宴会に出席することを聞き込んだマチェックは単身、彼を暗殺すべくホテルで待ち伏せをする。そこでマチェックはバー・ラウンジで働く女、クリスティナ(クジジェフスカ)と出会った。一目惚れをしたマチェックは彼女に誘いをかけるのだが…
ポーランド作家イエジー・アンジェイエフスキーが1948年に発表した小説が元。それまで何度か映画化の話はあったそうだが、全て失敗に終わっていたのを、若きワイダ監督自らが出来事を一昼夜に絞り、場所もホテルに限定した脚本を書き上げて作り上げた作品。
のっけの映像を観ただけで震えが来た。あのマシンガンの音と共に、ガチャガチャと音が私の中から響いてきた。何か、とんでもないものを今、私は目にしているのではないだろうか?そんな思いがした。
そして事実、本当にとんでもないものを観てしまった。
映画を観るには人それぞれの基準というものがあるだろう。ストーリーや、登場人物、設定、緩急の付け方、カメラ・ワーク、哲学性、監督の持つパトスを感じること。本当に様々だ。そして私はそれらの自分の中にある基準の内いくつかが完全に私の理解を超えていると感じた時、その作品を“衝撃”を感じた作品としている。そう言う意味ではいくつもの映画で“衝撃”を感じている。
ところが、本当にとんでもない作品を前にすると、理解しようという気持ちそのものがぶっ飛び、もう、何を言ったら良いやら全然分からなくなるものだが、これはまさにそんな貴重な作品の一つ。私にとってはベスト5作品の一本だ。
冒頭から飛ばす。構図及びカメラ・ワークの巧さ、知識でしか知らなかったポーランドという国の歴史認識、登場人物それぞれの微妙な表情、殊にチブルスキーの魅力。時折挿入される意外な描写。それら全てが圧倒的な重量を以て私を押しつぶしてしまった、と言う感じ。もう何を書こうとも、この作品の魅力を書ききることは絶対出来ないと思えてしまう。
それでも敢えて書かせてもらうと、やはり歴史という事になるか。ポーランドは元々ヨーロッパにあってもロシアの影響を極端に強く受けていた国で、ロシアからも、他のヨーロッパの各国からも二流と見られていた(二流と見られた国はポーランドだけではないけど、西欧の民族に関するジョークではユダヤ人に次いでポーランド人を揶揄するものが多い)。そんなポーランドが歴史に登場するのは、やはり征服された国として。1939年9月、ドイツの電撃作戦によってあっという間に占領されてしまったポーランドは、本来守ってくれるはずのソ連からも見捨てられてしまった。街からロシア人達はすっかり姿を消し、ドイツ人が我が物顔で闊歩する時代。その時代を経、ドイツの敗戦が濃厚になった時、それまで何の支援もしてこなかったソ連がポーランドを“解放”する。だが、実際ポーランドにとってはドイツからソ連に再占領されただけの話。しかもかつて自分たちを見捨てたソ連が我が物顔に国に入ってくるのだ。彼らにとって、これは屈辱以外の何物でもなかったはず。かつて地下活動でドイツと戦った闘士の面々は次はソ連に対し、戦いを挑まざるを得なくなる。確かにドイツは負け、ヨーロッパにおける第2次世界大戦は終わった。だが、地下活動家にとっては、戦いを終えるわけにはいかなかったのだ。
本編の主人公マチェックも言葉の端々で、かつてドイツと戦ったことを語っている。平和を目指して戦い、その勝利を得たはずなのに、事態は全然好転しない。町並みは廃墟のまま、更にドイツへの戦時協力の罪により次々と有能な人間は殺されていく。平和は訪れなかったのだ。しかも、連合国の一翼を担ったソ連による国際的には“解放”とされる併合である。ドイツを悪と断じ、連合国の応援を期待していた時代とはまるで違うのである。
だからこそ、かつて戦闘マシーンと化し、平和のために戦ったマチェックは自分の行動の意味のなさを痛感している。彼がしている抵抗運動は、かつては確かに自由への欲求によるものと認められていたのに、今や世界的にソ連が“正義”とされているのだ。そんなものに対する抵抗は、結局押しつぶされるしかない事を、今までの経験から彼ははっきりと分かっていた。かつて、“自由を手に入れるためには死をも辞さない”はずのテロリズムが、今や“死ねなかった自分を殺すため”の手段となっていた時代だった。20歳前半の彼が(偽名の身分証明書には1921年生まれとあった。歳そのものは変わらないと見るならば、彼はこの年24歳)、「若い頃は良かった」等という発言をしている。戦場の中にあり続けた彼の精神は既に老境にあった。
マチェックは未来を見たくなかったのだろう。だからこそ、危険な任務に自ら名乗りを挙げ、半ば自殺の思いを以てシチュカを撃とうとする…このニヒリズムが画面の端々からにじみ出てくるため、彼の魅力はいやが上でも増す。
ところが、まさに自分の死を覚悟したその夜に、彼はクリスティナ、つまり“未来”に出会ってしまうのだ。精神的に老成していると言っても、それはあくまで一面だけに過ぎず、肉体年齢と精神の多くの部分は未だ少年からやっと青年にかかったばかりのマチェックの心に、彼女は希望を生み出す。
後半部分の彼の苦悩のシーンは、最早涙が出るほど。たった一日の差で“本来の青年”に戻れるチャンスをフイにしてしまったことを悔やみ、それでも未来を暗示するクリスティナを愛することを止めることが出来ない。
まだ逃げられる可能性が残っているのではないか?その考えに引き裂かれつつ、見事なタイミングで彼が出会った二つの死体。まさに彼が朝に殺したばかりの工場員の死体だ。ここで彼にはもう道が残されていないことが示されていた。
そしてシチュカを殺した後に、本気で逃亡を考えるようになる。もう取り返しは付かなくても、せめて生きようと言う思いがそこに生まれた。
その生きようと言う思いが、芥溜めでの死のシーンを色鮮やかに彩っている。
更にこの作品、ストーリーだけではない。演出も見事。冒頭のマシンガンで撃たれ、背中を燃やしつつ、聖堂に(ポーランドの道祖神みたいなものか?)の、常人には開けることの許されない扉を押し開きつつ倒れ込む男の姿。権力志向のグラスが、未だ手に入れない権力に酔いしれ、道化を演じる姿。老ホテルマンとマチェックとの対話。シチュカを殺した瞬間に上がる花火。明け方になってホテルの中で踊り回る人々の虚ろな目。シーツにべっとりと付く血のシーン。そしてはいずり回り、誰もいない芥溜めで身体をけいれんさせつつ死を迎えるマチェック…それら一つ一つがディープ・フォーカスを通して撮影され、最後のマチェクが死の瞬間に見られる鮮やかな色の対比。画面一つ一つが見事なほどにはまっていて、まるで動く芸術作品を見ているかのような思いにさせられる。
…この作品の魅力を語るにはまだまだ書き足りない。そもそも私如き非才にこの作品を説明できようはずもない。情けないが、ここで取り敢えず筆を置かせてもらう…いつかシーン毎に事細かに解説してみたいなあ。
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