|
|
||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||
彼女と彼女の猫永川成基(共著) 君の名は。 小説・秒速5センチメートル 評論 新海誠、その作品と人 _(書籍) |
2022 | すずめの戸締まり 監督・原作・脚本 | |
2019 | 天気の子 監督・原作・脚本 | |
2018 | ||
2017 | ||
2016 | 君の名は。 監督・原作・脚本・絵コンテ | |
彼女と彼女の猫 Everything Flows 原作・出演 | ||
2015 | ||
2014 | ||
2013 | 言の葉の庭 監督・原作・脚本 | |
だれかのまなざし 監督・脚本 | ||
2011 | 星を追う子ども 監督・原作・脚本 | |
2010 | ||
2009 | ||
2008 | ||
2007 | 秒速5センチメートル 監督・原作・脚本 | |
2006 | ||
2005 | ||
2004 | 雲のむこう、約束の場所 監督・原作・脚本・キャラクターデザイン・美術 | |
2003 | ||
2002 | ほしのこえ 監督・製作・原案・脚本・出演 | |
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | 2'9 長野県で誕生 |
すずめの戸締まり | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2023年。九州の静かな町で暮らす17歳の女子高校生岩戸鈴芽は、ある日の登校中に、廃墟を探しているという不思議な青年を見かける。その青年宗像草太のことが気になり、自分も廃墟へと向かう。そこで見つけたのは廃墟の中にぽつんと立つ一つの扉だった。その扉には微かに記憶があった鈴芽は思わずその扉に手を伸ばす。 新海誠監督の最新作。これまで『君の名は。』、『天気の子』と大ヒット作を連発したが、本作を含めてこの三作はどれも災害を扱っているため、ディザスター三部作とも言われる。 『君の名は。』は隕石落下。『天気の子』は大雨と、どちらも確かに天変地異の話だが、どちらも完全なファンタジーとして捉えられる作品である。それで全く問題ない。本作もそれに則って作っても良かったのだが、本作はそうでなかった。 本作が扱うのは地震。しかもファンタジーでは無い。本当に2020年代における、過去の地震のことである。勿論それは当時生きていた人間なら誰でも知ってる。東日本大震災をテーマにしたということ。前の二作とは異なり、本作はリアリティに溢れたものとなった。 このリアリティという部分がとても重要となる。 元々新海誠はファンタジックでSFチックな作品を作り続けていたが、それは例えば男女の普通の恋愛関係から大きな事件に関わってしまうとか、知らず大きな陰謀に関わってしまうとかいうものであり、いわゆる「セカイ系」と呼ばれる一連のSF作品の延長にあるものと見られてきた。事実『君の名は。』や『天気の子』もその文脈で語られるべき作品だった。隕石とか東京が水没する天変地異とか、そりゃ確かにあり得ない話だからそれで良い。 しかし地震はどうだろうか? 地震はあまりにも身近なものだ。現に月に一回か二回くらいは揺れを感じることがあるし、週に一度くらいはテレビで緊急速報が入る。そんな国に住んでいるのだから、当然地震は身近なものとなる。更に言うならば、この身近さというのは2011年の東日本大震災あってのものでもある。あの地震で日本は本当に大打撃を受けた。死者の数もそうだが、津波によって町が潰される様子をテレビを通して見せられたりしたし、なにより原発事故があまりに大きなダメージを与えた。 あれから10年が経過したが、10年だとまだ記憶は風化していない。未だにダメージは残っているし、未だ鮮明な記憶を持つ人も多い。 そんな中でこの作品が作られたのは大きな意味がある。 これまでファンタジーの世界に限定されていた新海作品が、はっきり現実に向かって足を踏み出した瞬間だった。 この意義は思った以上に大きい。これまでも東日本大震災について描いた作品は実写では数多くあるし、アニメでもそのオマージュを持つ作品は出ていた。それらはそれぞれの監督の強い思いを込められた作品なので、悪いことは言いたくないのだが、思いが強すぎてエンターテインメントとはずれてしまう。そもそもそんなものをエンターテインメントにするなと言われそうだが、映画として観られる作品であると言うことは結構大事なこと。 しかし新海誠という最大のヒットメーカーがこれを作った事で、東日本大震災が新しい段階に入ったことを示している。ようやく震災が映画として描かれるようになったということを示す。これに踏み切ることで非難が来るかもしれないし、大規模なネガティブキャンペーンが張られる可能性だってあるのだ。それを今なら出来ると判断した監督の目は確かなものだ。 自ら現実世界に足を踏み出しただけでない。日本が東北大震災をようやく消化し始めたことを示すことが出来たのだ。とても重要な意味を持つ。 これだけで本作が2022年の映画の中で重要な意味合いを持つことは明らかだろう。 これだけで充分…とは言えないか。作品自体についても書いておこう。この作りはかなり巧さを感じさせる。 一つ目が構造。アニメーション映画の場合、クライマックスシーンをどこに置くか、そして最も派手なシーンをどこに置くかは重要な要素である。通常どちらも同じで、後半に置くことが大部分である。それが同じ事もあれば、戦いの後での人間関係をクライマックスに置くこともある。 しかしこの作品で最も派手なシーン具体的には東京の壊滅を防ぐシーンを本作では中盤に持ってきた。派手な見せ場は作るけど、それがクライマックスではないというところが面白いが、これは監督のチャレンジだった。この定式に則ってないクライマックスの持たせ方は、本当に監督が語りたかったことがエンタメ寄りでは無かったということを示している。それで最後にもう一つ監督が伝えたかったことは、人のふれ合いについてだった。ここで描かれるのは、10年前の震災に巻き込まれて行方不明になった母親との決別であり、更にこれまで自分を育ててくれた伯母への感謝を描く。ここで巧みなのは、亡くなった母に対しては、直接ではなく思い出として、ふれ合いを演出し、叔母に関しては本音を吐露し合った上で受け入れ合っている描写からも分かる。ちゃんと一人一人個性をもって対処しているし、納得いくようにきちんと説明されている。人間描写がかなり上手くなってる。 上手くなってると言えば、封印の要石である猫のダイジンの描き方も面白い。最初に出会った時の対応が悪くて、てっきり悪人のように思わせるのだが、それが徐々に変化していくのも面白いところだった。実はダイジン自体は悪気は全くなく、すずめのことが好きなだけだった。次に地震があるところまでわざわざ先導して場所を教えてくれているし、一切危害を加えることもない。そしておそらくすずめが旅の先々で出会う人たちもダイジンによって性格の善い人が選ばれていたようである。偶然からあんな気持ちの良い人ばかり出会うはずもない。一見都合の良すぎる物語に見えるけど、実はダイジンによって誘導されている。観てる側はそれが徐々に分かっていくのだが、劇中のすずめはそれになかなか気づかない。そのずれがなんとも面白い。 全般的にとても巧く作られた作品だし、これだけしっかりしたテーマを持っているのはたいしたもので、新海誠作品の中では最高峰と言って良いだろう。 強いて言うなら、設定についてもう少し説明してもらいたかったかな?ダイジンはなんでその名前になったのか、要石になった理由、サダイジンとの関係など色々説明しないままだし、扉のメカニズムも流されてしまってる。どこかで説明あっても良かったと思うんだがな。 新海監督の最高峰ではあるが、作品自体はもう少しあったら完璧。僅かながら足りてない感じ。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
天気の子 2019 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
2021年。伊豆の離島に住む森嶋帆高は家出をして東京までやってきた。アルバイトを探しながらネットカフェ生活をしていたが、あっという間に資金が尽き、補導されかかったところを、偶然知り合ったライターの須賀圭介という男に拾われて事務所の手伝いをすることとなった。東京はずっと雨模様だが、僅かな時間だけ一区画だけ晴れさせる「100%の晴れ女」なるものが存在するという都市伝説を須賀の事務所は調べていたが、偶然から帆高はその晴れ女の天野陽菜と知り合ってしまう。彼女の能力を人助けに使えないかと考えた帆高は陽菜と小学生の弟の凪と共に晴れを呼ぶ商売を始めるのだが… 前作君の名は。は大ヒットし、国内興行収入第2位となる250億円もの興行収入を得たメガヒット作品となった。 この作品は実際にとても良く出来た作品だと思う。実際筆者の妻は2回も劇場に行ってたし、小説も買っていたくらいだ。それだけ一般的に受け入れられる作品だったといえる。 作品自体は実に良く出来ており、カップルが観に来て感動を呼ぶ作りは、それまでの新海作品とは明らかに一線を画す。ストーリーと言い、キャラクターと言い、もちろん描写と言い、とても高水準にまとまっていて、大変面白い作品になっていたのは確かだった。 ただ、それまでのウジウジした韜晦に満ちた新海作品に慣れ親しんだ人間にとっては、戸惑いしか感じない作品になってしまった。実際当時この映画の話を友人としていると、妙にうつむいた話になってしまってたもんだ。 それでその三年後に本作が投入された。 本作も結構なヒットはしてる。君の名は。に続いて100億円ヒットだそうだ。 ある意味それはとても凄いことだと思える。 なんせこの作品、受ける要素が私の眼から見てもほとんど無いのだ。いや、それは言い過ぎかもしれないんだが、君の名は。と較べても明らかに脚本も演出も落ちる。全体的に出来は到底太刀打ちできそうもない。 しかしながら、本作が面白くないなんて言わない。実に楽しいのだ。 何が面白いと言ったって、これだけツッコミが次々入る作品は大変珍しい。映画観てる間、私の脳はフル回転。秒でツッコミが入る作品なんて、マイケル・ベイの『トランスフォーマー』以来だ。だから正確には「面白い」ではなく「楽しい」と言うべき。 ほぼ秒でツッコミが入るため、いちいち書いてるといくらでも書けてしまうのだが、とりあえず何点か言わせてもらおう。 第1点。登場人物が少なすぎる。 最初に出てきた船が帆高と須賀の二人以外ほとんど人の描写がなく、幽霊船なんじゃないかと思うほど。くらい人が少なかったが、それはそのまま続く。東京、しかも最も人が多いはずの新宿にほとんど人がいない。思わせぶりな台詞を使うチラ見した人間が必ず後で関わってくるのだが、新宿という街の中でどんだけの確率で再会できるのかとか、それこそ一瞬しか顔見てない行きずりの人間の顔を細部まで思い出せるとかの記憶力と偶然の再会があまりに多すぎる。陽菜の弟凪に至っては、バスの中で会話してたのを聞いただけで本人を特定できてる。帆高には絶対音感でも備わってるのか? 第2点。世界の狭さ。 これこそが新海監督の売りなのだが、これが例えば田舎町とか架空の街、あるいは東京でも極めて狭い空間だけの話だったら成立するだろう。前に新宿を舞台にした作品として言の葉の庭があったが、あの作品の場合は新宿御苑という限られた空間だから成り立ってた。しかし本作は新宿のかなり広範囲と池袋まで含める相当な広さが舞台である。けこれだけの広さでこんなに人が少ないのは無理がある。 第3点。いわゆる「大人」の不在。 これまでの新海作品にも共通する点だが、ここには分別持った大人は誰もいない。帆高の保護者であるはずの須賀たちもモラトリアム真っ最中で年齢を重ねても大人になりきれてないし、刑事達も単なる障害物でしかない。理性を持って帆高たちを諫める存在が全くないのだ。帆高の家族に至っては一人も登場してない。まるで子ども達だけで箱庭の中で人形遊びしてるかのようだ。きちんと大人の事情も描いていた君の名は。とは大きな違いだ。 第4点。動機の不在。 何故人を好きになるのか、何故そのような行為をするのか、そのバックボーンがあまりに薄すぎる。基本的に「俺がしたいから」という論理のみで話が展開するため、話が強引になりすぎるし、なにかまずいことが起これば走って逃げるだけ。うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー(1986)か? とりあえず特に意味はないはずだが、帆高が設定した目的に向かって走っていさえすれば話が展開する。 そしてこの動機の不在はラストにまで影響する。帆高の家出はオチに関わる重要な伏線だと思ってたんだけど、最後に分かるのは、本当に単なる家出だった。なんら目的もないままあれだけの期間危険な新宿に留まる帆高のモチベーションが見えてこない。 そして何の考えもなく陽菜を助ける選択をしたため、東京を水没させる。自分の大切な人を救うために他のすべての人たちを犠牲にする最悪の結果だった。 新海監督はそれでいいと割り切ったんだろう。そしてそれは一般的には“不正解”だからこそ正しい作り方だったと思う。 本作が新海監督らしいと言われるのは、実はこのツッコミ部分に当たる。 新海作品の特徴は物語の大局を見ず、決して俯瞰しない。主人公の青年(!)が目で見える世界のみがすべての世界である。 先に挙げた第1点は帆高視点ではこの世界で自分に関わる人間しか見えないので、当然登場人物は少なくなる。第2点の範囲の狭さも、第3点の大人の不在も帆高という青年一人だけの視点で描こうとしてるのだ。それは他のすべてのツッコミ部分に関わってくる。端から見れば馬鹿みたいな動機も帆高という子どもの内面では大切なものである。原因なんてどうでも良いのだ。帆高にとって、家にいたくないという動機こそがすべてであって構わないのだ。 帆高という青年の内面世界が世界に重なって展開してるのが本作、いや新海誠監督の作品の特徴なんだから。 この自意識のみで作られた世界を「気持ち悪い」と一言で断じてしまっても良い。一般的な見方であればそうなるだろうし、私自身も実際に「気持ち悪い」と思うし、「もっと大人になれよ」と言いたくもなる。 だが、この「気持ち悪さ」こそがこの監督の最大の強みなのだ。 筆者の友人たちで新海誠作品をとても好きな人たちが結構いるんだが、彼らは新海誠作品を「半径5メートルの範囲しか描かない」とか「童貞を賛美してる」とか言われる。だけどそれは勝手に作られたものではなく、新海誠監督が敢えて意識的にその方向性定めて作ったものだ。 「童貞であることの何が悪いのだ?むしろ俺は童貞に戻りたい」というメッセージを込めることで監督のオリジナリティが高まる。 本来物語は少年が大人になるビルドゥングスロマンの方向性を持つ。しかし新海監督はそれを敢えて描かない。社会は自分を大人にしようとしているけど、俺は敢えてガキの理論で世界に立ち向かってみせる! この論理で突っ走ることができるのが新海誠監督の最大の強みなのだ。 だから最後の帆高の決断はああならざるを得ない。大人になって世界を助けるなんて、新海誠ではあり得ない理屈なのだ。 君の名は。に関して言えば、この辺のバランスも良く、大人の理論というのを一度飲み込んだ上で、「やっぱり俺はガキで良い」と開き直ってるが、本作はそもそも大人が不在のために大人の理論を飲み込まず、最初から最後までガキの論理だけで突っ走ってる。 だからより純粋に新海誠っぽさがあるし、「俺たちのところに帰ってきた」と言えるような物語になっている。友人の言葉を借りれば「新海汁に満ちた作品」と言えるだろう。 だけど、これも君の名は。という先行作品があるため、これだけ原液に近い新海汁も一般に受け入れられてるのが面白い。 これはつまり、新海誠にやっと世間が追いついたという事実を意味するのかもしれない。 一つだけ看過できないツッコミ。 陽菜の能力はピンポイントで晴れを作ることなんだが、太陽が出ていても頭の上は雲になる訳だから、夕方近くの斜めに日が差してる場合、狐の嫁入り状態になるはずだが、そこもなんの説明もなかった。君の名は。の彗星の軌道と同じ根本的ツッコミで、これだけは擁護しようがない。 |
君の名は。 2016 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
2016日本アカデミー脚色賞、音楽賞、アニメーション作品賞、監督賞 2016LA批評家協会長編アニメ賞 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||
田舎に住み、東京に憧れる高校生宮水三葉(上白石萌音)と、東京に住み、日々アルバイトと学校で充実した日々を送っている立花瀧(神木隆之介)。何の接点もないはずの二人だが、何故か定期的に精神が入れ替わってしまう。その間二人はまるで人格が変わってしまうのだが、それに気づいた時から、二人は携帯のメッセージ機能やノートを使い、なんとかコミュニケーションを取り続け、生活を送れるようになっていった。そんなある日、三葉は、すぐ近くに迫った彗星についてメッセージを送るのだが… 一応これまで監督が作った劇場用作品は『ほしのこえ』以外は全部劇場で観ているのだが(昔その事を友人に喋ったら気持ち悪がられたが、そいつ自身が後に監督の大ファンになると言うようなこともあった)、監督の傾向として、内的にこもる作品は評価され、一般向きに作られた作品は全く評価されないという傾向があった。 そして順番から言って、今回は一般向きに作られた作品で、まず碌なものは作られないだろうと思っていた。しかもほぼ単館上映だった前作『言の葉の庭』とは異なり、全国展開という。 正直、予告を観ても私の予想は変わらず。すまないが、本当に正直な感想を言えば「派手な自殺の仕方だな」だった。 ところが。である。私の最初に立てた予測は全く裏切られた。なんと本作こそが2016年の並み居る大作を押しのけ、不動の第一位。既に歴代邦画興収10位以内に食い込み、更にまだまだ伸びるという、とんでもないバケモノ作品になってしまった。 私がこれを観たのは公開後数日経って、しかも夜半過ぎの上映だったにも関わらず、なんと劇場は満員。しかもカップルだらけで圧倒されたもんだ。(終電終わってる時間なんで、これを観に来た、特にカップルはどうやって始発まで待ってたんだろう?とは下世話な興味)。 そして出来は、月並みな台詞を言わせてもらえれば、監督の最高傑作だとは思う。 これまでの監督の持っていた内向的な恋物語がきちんと描かれていながら、ちゃんとした恋愛作品になっており、SF要素も含めてストーリーがちゃんと出来ている。作家性を高めながら、しかも3・11以降の時事問題まで加えた上で一般対象作を作れるとは、正直驚いた。 何より、これまで監督はほぼ自分の思いだけで作っていた作品を、ちゃんと他のプロに任せられたというのが大きい。お陰で演出の幅がとても広くなった。なんせ監督一人でやっていた時はほとんどの絵が真横の広角か俯瞰。人物描写に至ってはほとんど真横からしか映せなかった。画面の綺麗さでごまかせるが、短編ならともかく長編なら単調になりすぎる傾向があった。しかしながら、本作は黄瀬和哉とか沖浦啓之とかの蒼々たるアニメーターが参加している。要点要点を彼らに任せることが出来たため表現にぐっと幅が出来た。今までに監督の作品ではなかったアングルや動きがどんどん出てくるので、見応えは実に高い。 ただ、「傑作」と言っておきながら、少し点数を落としたのは、単純に好みの問題。明らかにこれ、私の好みではないという事実である。 単純にストレートな恋愛ものが苦手ってのもあるにはあるが、何といえばいいのだろうか。これだけの傑作をものにした監督を祝福する気が起きないのだ。昔から友人達と「俺たちの新海先生」という言葉をなんかニヤニヤしながら使っていた身としては、これだけメジャーになってしまうと、いつの間にか監督が手の届かないところに言ってしまったような、一抹の寂しさがあったり。だからなんか手放しで褒められないというか… そんな訳で、なんだか本作のヒットはなんだか複雑な気持ちにさせられてしまう。 …という思い出はさておき、本作の物語についてまとめてみよう。 一応ここからが本文となる。 まず本作はこの世界とは異なるパラレルワールド的な位置にある。それだけでなく、この世界とは物理法則がちょっと違ってもいる世界である。言うまでもなく、現実にはあんな彗星がやってきたという事実はないし、あんな軌道を持つ彗星はあり得ない。空気感も現実より随分ねっとりしている。正直、これだけゆったりした時間が流れるのは不思議そのもの。 それで何故そんな物理法則が変化する世界なのか。 それはおそらくこの世界は神話の世界と地続きだからである。誰も意識してないが、土着の神の力が現実に力を及ぼす世界。だからその作用分物理法則が違っていると解釈しよう。 で、その神話の神様が一体何をするのか。と言えば、おそらくそれは神同士の逢瀬なのだろう。人間と違って天文単位で考えるから、随分間が空いてしまうが、定期的に空から一柱の神がおり、地上にいる神と交わる。それをずっと繰り返してきたのだろう。だからこそ三葉の村には、少なく見てこれまで二度の(湖と祠のあるクレーター状の台地)。そして今回三度目の神がやってきている。だから、本作は、神同士の逢瀬を背景としていると考える事が出来るだろう。 ただ一方、神同士が結ばれる時は、神にとっては喜びの時かも知れないが、近くにいる人間にとっては悲惨な出来事になってしまう。「象が争う時、傷つくのは足下の草」とはインドの格言だそうだが、同じように象が愛し合うと、同じように足下の草も傷ついてしまう。千年ぶりの逢瀬は、人間はえらい被害を被ることになる。 それでも神にも人情(?)ってものがあるのだろう。自分達のお陰でとんでもない事になってしまったため、そのフォローをしないといけないと感じ、メッセージを送る。 ここで重要になるのが三葉の家が代々女系の神主をしているという点。彼女たちが何故そこにいなければならないのか。それは神が過去に置いておいたサイレンのようなもの。逢瀬が近づくと、彼女たちにシグナルを送り、その電波を受信した巫女が村に警告を発する。 その方法というか、シグナルが精神交換という形に表れるのだろう。おそらくは、もしこのようなことが起こったら、危険の前触れであると代々宮水家には伝えられてきたのだろう。精神交換が時を越えて行われたというのは、「このままでは未来はこうなりますよ」と言う事を告げるためであろう。 ところが何代か前にそれが途切れた。秘伝として伝えられてきたことが火事によって消え去ってしまったから。だから三葉はそれを警告として受け取ることが出来なかった。 実際に警告が無視されたらどうなるのか。それがまず示される。これは実際の出来事として起こったことなのだろう。だがもう一度神によって猶予が与えられたことで、その警告の意味を理解した三葉は、周囲の人々の力を借りて危機を回避することが出来た(設定的には実はこれはとても甘く、何度もリセットを繰り返すアドベンチャーゲームの設定を丸ごと使用していて、個人的にはここがとても気持ち悪かった)。 で、結果として正確に電波を受信した三葉により、村は助かる。三葉は巫女としての役目を果たすことが出来た。 だが、神のアフターフォローはちゃんとしていたようだ。いや、アフターフォローというか、二人の想いの執念というべきかもしれないけど、ラストシーンで二人は出会う。 このシーンによって、千年ぶりの神々の逢瀬と、現実の二人の男女の出会いは合致する。 引き離された二人が、幾多の困難によって再び出会う。神同士の出会い、そして時間を超えた二人の男女の「君の名は。」と語るまでの。これは神話をなぞる七夕のような物語なのだ。 それをきっちり作って見せたのは、流石である。同じように神話の世界を題材にしようとして爆死した『星を追う子ども』の反省を生かしてちゃんと成長してたんだな。 ただ、正直な話を言わせてもらえれば、ここで最後まですれ違ったまま瀧と三葉が出会わずに終わったら個人的には「流石新海先生」と拍手してただろうに、それが惜しい。 |
彼女と彼女の猫 Everything Flows 2016 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
言の葉の庭 2013 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
靴職人を目指す高校生秋月孝雄は、雨の日の1限は授業をサボって、新宿御苑で靴のデザインを考えてる事にしていた。そんなある日、いつものように雨で雨の日にいつもの東屋に向かうのだが、そこで昼間からビールを飲んでいる女性と出会う。無言で筆を走らせる孝雄だったが、どうしても気になるので、どこかで会ったかと尋ねると、彼女は「雷神の
少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」という古めいた句を告げて去る… 『ほしのこえ』以来、何かと話題を提供し続けてくれた新海監督。友人と会ってアニメの話とかになると、大概どんな時でもこの人の作品が話題に上ることが多い。そんな意味では、私の周囲では、最も愛されている監督の一人なんじゃないか?と思えることも多いのだが、とにかく当たり外れの多い作品を作る人でもある。少なくとも期待して観に行った前作『星を追う子ども』は見事に爆沈。 これを観た友人達と話をしていて、「新海は身の回り5メートル範囲で作れば傑作になる」と言う言葉が印象的だった。実際、あの作品は世界を広げすぎ、しかも異世界の話になってたものだから、全然監督の個性が活かせず、まるでジブリの亜流のようなものになってしまっていた。 対して最新作となった本作は、前評判も高く、本来の監督の土俵で作られた作品とのこと。どんなものが出来るのやら。そうは思っていながら、地方在住故になかなか観ることが出来ないまま時間が過ぎた。結局休暇で上京した際、二番館の上映最終週になんとか間に合った(これって『秒速5センチメートル』の時と状況同じだ)。 で、その出来はと言うと… そして内容は、ある意味予想通り、あるいは予想以上に新海節炸裂の作品になっていた。 「俺は他の奴とはこう違う」と長々とモノローグで語らせる、そこらかしこに都会の建造物と自然の対比を描くショットを多用する、俯瞰で都会の夜景を見下ろしつつ、鳥を飛ばして空と地上を対比させる、間の取りに詰まるとわざわざカメラを上にパンさせる、意味が通っているようで通ってないような会話のキャッチボール、等々…その辺を細やかに描くことが新海演出の醍醐味だが、それが嫌みなくらいに多量に出てくる。前作『星を追う子』では敢えて使わなかった手法を、殊更強調することで、「ああ、これこそ新海監督だよ」と妙な安心感と高揚感を与えてくれる、本当に監督ならではの作品に仕上げてくれた。 決して長い作品ではないけど、それだけの演出を徹底して見せられると、えらく長い間観ていたような気分にさせられてしまうほど。まさしく新海節が堪能できたし、恐ろしいほどの気恥ずかしさも味わえる。 物語の内容としては、やっぱり新海監督らしさが良く出ていて、もどかしい恋愛劇って感じで仕上げられている。相手を意識していながら、殊更それを無視しようとして生じるぎこちなさが見所となっている。 ただし、これまでと少し違っている部分もある。最後まで感情を抑えるのではなく、感情を爆発させるシーンが何カ所か出てくるところ。これまで監督の作品は、前述のような演出を基調としながら、あくまで微妙な感情面での触れあいに終始していたところがあった(それこそ『秒速』なんかはその最たる例だし、本作と併映だった『だれかのまなざし』はそこから出ていない)。仮に感情が爆発するシーンがあるとすれば、それは誰も見てない部屋の片隅で、あくまで一人静かに爆発させている。それを人前で行わせるようになったのは、この部分に関しては監督の挑戦だったとも思えるところだ。 …まあ、映画作りとしては、これが人間関係の描き方の基本だと言われればそれまでだし、それであっさり解決したりするあたりは出来すぎって気もするけど、監督の挑戦作として受け取っておこう。 |
だれかのまなざし 2013 | |||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||
『言の葉の庭』と併映された短編作品で、野村不動産のイベント用に作られたCM作品(現在無料動画で視聴可能)。 内容としては、今よりほんのちょっと先の時代。就職して一人暮らしを始めた女性が、きつい仕事の中でだんだん精神的にすり減っていき、そんな時に実家のことを振り返り、「少し家に帰ってみようか?」と考えるといった感じの話。10分に満たない短い作品だが、監督としての一番最初の作品『彼女と彼女の猫』を、もう少しだけ範囲を広げてみましたって感じの作品といった風情。 特に短編作品だと、監督作品に登場する人物は誰でもちょっとだけ傷を負っていて、何も言わなくても(あるいは口に出していても)、少しの仕草でその傷ついた心を表現するのだが、短ければ短いほど、それが凝縮された感じになっていくので、このくらいの短い作品の方が監督らしさを伝えるには良いのかもしれない。 CMというのが念頭にあったお陰で、素直に楽しめたか?と言われると微妙ではあるが、原点回帰って意味では良い具合の作品なんじゃないかな? |
星を追う子ども 2011 | |||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||
母子家庭の田舎に住む明るい少女アスナは、ある日父の形見の宝石を使った鉱石ラジオから流れてきた不思議な歌を聴く。その翌日、彼女は不思議な少年シュンと出会う。彼こそがその歌を歌った本人だと言うのだが、再会を約束したシュンは、翌日から姿を消してしまった。シュンの行方を追い求めるアスナは、新任教師のモリサキから地下世界にまつわる不思議な神話を聞かされ、その世界こそがシュンがいた世界と直感し、その場所アガルタへと行く方法をモリサキに尋ねるのだが… 前作で2000年紀初となる本格的ホラーアニメ『秒速5センチメートル』を作ってくれた新海監督が、割と短い期間で投入したアニメーション映画。 『秒速5センチメートル』では中程度の点数しか付けなかった私だが。どんなに画面が美しくても、美しい少年少女の恋愛感情を描いているとごまかしても、あの作品が内包する不健全な思い、怨念とも呼べるものはびんびんに響いてきたものだ。そこまでのものが作れる監督だけに、今回はいったいどんなものを作るんだ?と言う興味でちょっとわくわくしながら劇場へと向かった。 … …念のために言っておく。以降は本作にいちゃもんを付けたものではない。たとえそう見えても、それはこの人の作品を愛するが故と思って欲しい。 本作は一応評価すべきところは確かに存在する。褒める部分を言うならば、本作はアニメーションらしいファンタジックな作品であり、絵も綺麗だし、物語もそれなりにまとまってる。これがジブリのパクリだとか、『天空の城ラピュタ』(1986)の劣化版だとか、そんなことは脇に置いてしまえば、質そのものが低いわけでは決してない。 ただ、本作の最大問題点は、本作が新海作品だという点にあった。簡単に言うならば、これは観る側の期待を完全に裏切ってしまったのだ。 それでは整理するため、まずは新海誠という人の作家性と言うものを考えてみよう。 一つには描写面。場面を作るのが少人数で、PCを使っているということもあるが、納得いくまで作り込まれた場面描写は、とにかく美麗。そしてその大部分が昭和後期によく見られた日常描写を徹底して作り込んでくれること。そこに例えば違和感たっぷりな未来的な建築物がぽつんと立っていたりすると、いかにも「新海だ」という描写になる。後は空の描写も特徴的で場面場面で意味なくパンナップするカメラが映し出す銀河系とか夕陽や電線なども、この人の特徴だ。 もう一つが際だった男女描写。比較的年齢の高い男女がぶつぶつと難解な台詞を呟きつつ、惚れたはれた(特にフラれた)ことをアニメーションできっちり描けるという点にあった。普通この内容はアニメ向きじゃないし、面白くもなさそうなのだが、そんなうじうじした男女をエンターテインメントに仕上げてしまう実力こそが新海誠という作家の最大の武器で、一種の怨念に満ちたこの描写あってこその新海監督作品であり、それこそが作家性というものだった。 それに対し本作はどうだろうか?主人公のアスナはポジティブシンキングが服を着ているような女の子であり、彼女と関わるアガルタの少年シンも悩むよりは行動するタイプで、そのどちらも一般的な冒険アニメの典型的な人物だった。一応新海的キャラとして先生が登場するが、それだって『ラピュタ』のムスカのなり損ないみたいな存在で、今ひとつ。これが著者の欲望の具現化とするなら、もっと行き着くところまで行ってしまった描写にしなければ、画面的には映えない。下手にいい人にしようとするから、ものすごく中途半端だ(こんなところにも自分を装おうとするあたりは新海監督らしいと言えなくもないが)。 描写に関しても、相変わらず無意味なパンは嫌味なレベルで行っているものの、星も電線も夕陽も見えないものばかりでは、「これのどこが新海?」と思わせるものばかり。 いったいどうしたんだろう?本来自分が持っていて、そしてそれ“しか”期待されてなかった最大の強みを投げ打って、何をしたかったのだろうか?「俺だって普通の作品を作れるんだ!」と言う主張だろうか?それともこれまでの自分の悪行を反省し、一皮むけた自分を見せようとしたのだろうか?元々引き出しが一つしか監督なんだから、他の引き出しを出そうとしたら、他の作家の引き出しに頼るしか無く、失敗するのは目に見えていただろうに。 次回作は自分自身の武器をちゃんと使ったものにして欲しいものだとは思う。 |
秒速5センチメートル 2007 | |||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||
桜花抄:一緒に東京の中学に入学した遠野貴樹と篠原明里。だが家の都合で明里は引っ越してしまう。そして半年後、貴樹も又鹿児島への引っ越しが決まり、最後に明里に会いに一人旅を始める貴樹。 コスモナウト:都会から種子島に越してきた貴樹を見つめる地元の少女澄田花苗。彼に思いを告げられないまま月日が過ぎていく。そしていよいよ進路を決めなければならない時、花苗はある決心をする。 秒速5センチメートル:東京に帰り、自分でも説明できない“何か”を求めてがむしゃらに働く貴樹。だが、ある日全てを虚しく感じる時が来て… 時折ネットで「ベスト・ホラー作品」なるものの企画が立ち上がっていることがあり、ジャンル作品好きな私としてはそう言うのを見つけると毎度興味深くそれを見ているが、何故かその作品群の中には『耳をすませば』(1995)が入っていることが多い。勿論これはホラーではないのだが、この切ないストーリーが観ている人間の心をかき乱すのではないか?と思う。失われた過去を振り返り、自分にはあり得なかった過去の風景を見せつけられるってのは、精神的にきついのかもしれない。 そう言う意味ではもう一本傑作ホラーが出来たと言えるかも知れない。 本作はかつてたった一人で『ほしのこえ』を作り上げ、日本アニメーション界のトップランナーの一人と目されるまでなった新海誠監督最新作。新海監督の特徴である男女間の恋心の切なさ描写は今回も全開…と言うより、これまでで一番ストレートだったかもしれない。 本作は登場人物は基本的に同じで、三人の男女の時の流れで追っているのが特徴。“切なさ”を描き続ける新海監督の、ある意味真骨頂と言ってしまっても良い作品。一本の一続きの物語にすることなく、一本の作品を時間軸に沿って短編三部としてまとめたところにある。連作短編にした分、『雲のむこう、約束の場所』にあった途中のダレ場がなく、上手くつながっている。改めて新海監督はSFにこだわらない方が良いと思わせられる。日常生活でほんの少しSFっぽいものを配置した方がむしろはまる。 ただし、これは相当にキた。 そもそも私は昔からラブロマンスものが大変苦手で、特に純愛ものや三角関係のドロドロした描写はどちらもいたたまれなくなるタイプ。具体的には背中の方が無茶苦茶に痒くなってくる。最近の邦画で良いところは、それらが主題であっても、上手く覆い隠してくれている点にあるのだが、本作の場合、覆い隠すどころか、まさにそれが全開!と言った感じで、一番苦手なものを鼻先にぶら下げられた感じ。特に第一話の「桜花抄」は凄すぎた。よもやここまでのものを見せつけられるとは思いもしなかったよ。そう言う意味では本作は衝撃的な作品とも言えるかも知れない。 ただ、子供の頃からはすでに大分成長しているのか、今回はぎりぎりのところで全部直視。とりあえず三作目の「秒速5センチメートル」で妙に一息付けた自分がいる。ラストストーリーはあいまいに終わったけど、むしろそのあいまいさが心地よく感じた。 本作の最大特徴はその“切なさ”だろうが、演出も面白い。毎度毎度の“新海カット”とまで言われるようになった馴染みの光景がそこにはあるのだが、今回はそれが更に大きく拡大。空の向こうに銀河があったり、地球があったりと、まるでシム=シメールのような風景が広がり、それが妙にはまってる。勿論表題である山崎まさよしの名曲「One more time,One more chance」も心地よくはまる。 新海誠と言う監督は本当にいつも同じ物語、いわば自分の心の中にある物語ばかりを描き続ける監督であることを再確認。全部が全部「自意識過剰」で片づけられてしまえるのだが、それを丁寧に描き続ける。個人が作りたいように作った作品がちゃんと商業作品として成り立つ日本の今は、ある意味ではとても幸せなのだろうと思う。 悪く言うつもりは無いけど、ちょっと年代的に問題を感じないでもない。1話目がスーパーファミコンがあった時代で、携帯のケの字も無かったのに、2話目では普通に新しい機種をいじってた。3話では20インチを超える液晶画面で仕事してたことから現代?すると1話目の年代は…?? |
雲のむこう、約束の場所 2004 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
2004毎日映画コンクールアニメーション映画賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
1970年代に日本が南北に分断された時代。米軍統治下の青森で暮らす藤沢ヒロキと白川タクヤは、ユニオンに統治されエゾと名前が変わった北海道に屹立する塔に行きたいという願望を抱き、アルバイトしつつ二人で飛行機を組み立てていた。そんな時に彼らの夢に入り込んできた少女、同級生の沢渡サユリに二人は恋心を抱くようになる…三人で過ごした最後の中学時代は、サユリが突然いなくなったことで終わりを告げる。そして三年後、飛ばない飛行機をそのままにヒロキとタクヤはそれぞれの道を歩んでいたのだが… 本作はかつてたった一人で一本の短編アニメ『ほしのこえ』を作り上げたと言う経歴を持つ新海誠監督による初の劇場用長編アニメーションであり、本作でも監督、脚本、演出、CGワークと、多面に渡る活躍を見せている。 前に『ほしのこえ』を観た時は、その雰囲気が妙に印象に残っていたため、機会があったら是非観てみたいものだと思っていたが、丁度良い具合に上京となったことと、わざわざ複数の方からこれを観ろとのメールまでいただいたことも含めて、鑑賞と相なった。 それで出来なのだが… 画面画面の雰囲気自体が悪いと言うほどではなく、むしろ全体的には良作と言っても良い位。読んでいる本(村上春樹や宮沢賢治など)で元ネタをばらすのは少々やりすぎのきらいはあるものの、その辺のケレン味 は決して嫌いじゃない。 …しかし、である。 少なくとも、90分と言う時間をこれほど長いと思ったのは、本当に久々だったのは事実。 なんというか、とことん退屈。後半は生欠伸が出っぱなしだった。 ストーリー自身が悪いと言うつもりはないし、雰囲気はしっかりしてるのだが、時間に関する演出が致命的に悪い。90分の時間を全く有効活用出来ないまま。 妙に間延びしてるかと思えば、急にストーリー密度が濃くなったり、クライマックスのシーンまでが退屈だったりしてる。本来退屈なシーンにこそ、それを感じさせないような演出が必要なはずなのに、その辺全く考えてないとしか思えない。 の『ほしのこえ』時はそれでも30分という短い尺だったため、場面場面の演出の連続で充分観られたのだが、それを90分続けられて見せられると、正直こたえる。 それと個々の演出についても、わざとらしさが目につかされる。木造の校舎や石油ストーブ、蛍光灯といったアイテムが単なる記号にしか感じられず、どうだ、懐かしいだろう。という押し付けにしか思えない。所詮記号でしか捉えることが出来ず。 新海監督自身、気負うところがあったことがあっただろうし、自分の作りたいものを作ると言う姿勢は評価したいのだが、金を払って素人の自己満足に過ぎない作品を観て喜べるほどではない。なにせこれまで演出をやったことがなかったのはやはり致命的だったのではないか?それなりに演出をこなし、どう言うタイミングでどう言った見せ方をすべきかがわかっていないとしか思えない。 素人レベルではともかく、劇場用としてでは耐えられず。 |
ほしのこえ 2002 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
2047年。宇宙生物タルシアン攻撃の為、国連宇宙軍に選抜された美加子は、中学の同級生の昇と携帯電話のメールで連絡を取り合っていた。しかしタルシアン攻撃のため彼女が地球から離れるにつれ、メールの電波が往復する時間がかかるようになってしまう。そして最後の攻撃として、シリウスへと向かうことになってしまう… 新海誠監督が、たった一人で作り上げてしまったOVA。一人でここまでのクォリティを持ったアニメーションが作られたと言うことで話題となり、劇場公開までされたという、一種の伝説的作品。 前に『彼女と彼女の猫』いう短編をネットに上げて話題になった新海誠監督の実質的デビュー作。『彼女と彼女の猫』私も観たのだが、アニメーションのクォリティの高さ云々ではなく、特殊な雰囲気が記憶に残る作品だった。その新海監督が長編(というほどでもないが)アニメを作ると言うことで、ネット上ではかなり話題になっていて、私自身も楽しみに待っていた。こんなにアニメを楽しみにしていたのは随分久々だったな。 ということで、かなり早い段階でこの作品を観ることとなったのだが、実際観てみたところ、『彼女と彼女の猫』とは雰囲気だけは随分違っているが、やっぱり新海監督らしい作品に仕上がっていた。物語自体はありきたりとはいえ、雰囲気はなかなかよろしい。 一人で作ることができるというのは、一つ大きな強みがある。自分で構築した世界観をすべて思い通りに作ることが可能なのだ。問題は、それにはとんでもない時間がかかるということと(それと自分の世界から一歩も出ることができないと言うこと。商業ベースのアニメーションだと、その中で技術的、思想的な切磋琢磨が行われるが、ここには自分の世界しか出すことができないということもあるが、ここでは触れない)。そのプレッシャーの中で完成させることができたという事自体が賞賛に値するだろう。事実新海監督に続く人は今のところ現れていないのだから、どれほどの才能があるかは推して知るべしだろう。 ただ、何故だか観ていて苛立ちをどうしても感じるのだが、何でだろう?と思っていたら、某友人と話していて、何となくその理由が分かった。 この作品には、閉じた一人の世界しか存在しないのだと言うこと。 そうか。それか。昔私自身閉じた世界で生活していたもんだが、それを否応なく思い出させてしまうのだ。それは居心地悪いと言うよりは、一種の恐怖と言っても良い。そんなものまで思い出させてくれたという、妙な作品だった。だから、一度DVDを観た後、実は全く観直してない…今度又観てみようか? |