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宮崎駿

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鑑賞本数 合計点 平均点
 息子に宮崎吾朗
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本へのとびら――岩波少年文庫を語る

評論
『風立ちぬ』を語る 宮崎駿とスタジオジブリ、その軌跡と未来岡田斗司夫 FREEex
宮崎駿と庵野秀明
宮崎駿の時代―1941~2008
宮崎駿ワールド大研究

対談
風の帰る場所(渋谷陽一)
虫眼とアニ眼(養老孟司)

_(書籍)
2023 君たちはどう生きるか 監督・脚本
2013 風立ちぬ 監督・原作・脚本
夢と狂気の王国 出演
2012
2011 コクリコ坂から 企画協力
2010 借りぐらしのアリエッティ 企画・脚本
赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道 画面構成・場面設定
美輪明宏ドキュメンタリー 〜黒蜥蜴を探して〜 出演
2009
2008 崖の上のポニョ 監督・原作・脚本
2007
2006 ゲド戦記 原案
2005
2004 ハウルの動く城 監督・脚本
2003 ラセターさん、ありがとう 出演
2002 めいとこねこバス 監督・原作・脚本・出演
コロの大さんぽ 監督・原作・脚本
猫の恩返し 企画
2001 千と千尋の神隠し 監督・原作・脚本
2000
1999 くじらとり 監督・脚本
1998
1997 もののけ姫 監督・原作・脚本
1996 アルプスの少女ハイジ ハイジとクララ編<OV> 場面設定・画面構成
アルプスの少女ハイジ アルムの山編<OV> 場面設定・画面構成
1995 On Your Mark CHAGE & ASKA 監督・原作・脚色
耳をすませば 脚本・製作・絵コンテ
1994 平成狸合戦ぽんぽこ 企画
1993
1992 紅の豚 監督・原作・脚本
1991 おもひでぽろぽろ 製作
1990
1989 魔女の宅急便 監督・製作・脚本
赤いカラスと幽霊船 キャラクターデザイン
1988 となりのトトロ 監督・原作・脚本
1987 柳川堀割物語 製作
1986 天空の城ラピュタ 監督・原作・脚本・作詞
続名探偵ホームズ 演出・絵コンテ
1985
1984 風の谷のナウシカ 監督・原作・脚本
名探偵ホームズ 監督
未来少年コナン特別篇 巨大機ギガントの復活 演出
名探偵ホームズ
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1983
1982
1981
1980
1979 ルパン三世 カリオストロの城 監督・脚本
アルプスの少女ハイジ 画面設定
赤毛のアン
<A> <楽> 画面構成
1978
未来少年コナン
<A> <楽> 演出・キャラクターデザイン
1977 草原の子テングリ レイアウト
あらいぐまラスカル
<A> <楽> 作画
1976
母をたずねて三千里
<A> <楽> 場面設定
1975
1974
アルプスの少女ハイジ
<A> <楽> 場面設定・画面構成
wiki
1973 パンダ・コパンダ 雨ふりサーカスの巻 脚本・美術設定・画面設定
1972 パンダ・コパンダ 原案・脚本・画面設定
赤胴鈴之助
<A> <楽> 絵コンテ
1971 どうぶつ宝島 アイデア構成
ルパン三世(1st)
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1970
1969
1968 太陽の王子 ホルスの大冒険 原画・美術設定
1967
1966
1965 ガリバーの宇宙旅行 動画
1964
1963
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1961
1960
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1952
1951
1950
1949
1948
1947
1946
1945
1944
1943
1942
1941 1'5 東京都文京区で誕生

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君たちはどう生きるか
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鈴木敏夫(製)
宮崎駿(脚)
山時聡真
菅田将暉
柴咲コウ
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木村拓哉
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阿川佐和子
滝沢カレン
大竹しのぶ
國村隼
小林薫
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★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 第二次大戦中の1944年。東京に住む牧眞人の母ヒサコが入院した病院が空襲で焼け、眞人は父のショウと共に母方の実家へと身を寄せることになった。その屋敷は何か不思議な空気があり、屋敷の近くには封印された不思議な建物があった。更に屋敷に出没するアオサギが眞人に語りかけるような気がしてきた。そんなある日、新しいお母さんであり、母ヒサコの妹ナツコが失踪してしまう。事情を知ってるような気がしてアオサギを追ううちに眞人は封印された屋敷に足を踏み入れることになるが…

 宮崎駿監督は『風立ちぬ』ではっきり引退宣言をして、もう長編映画を作らないと言っていた。実際長編映画の話は全く無く、ジブリのテーマパーク用に力の入らない短編アニメを何作か作っていたが、昨年辺りからなんか突然長編映画を作ってるというニュースが入って、あれあれと思ってる間にいきなり劇場公開に至った。しかも本作はほとんど全く宣伝活動をせず、たった一枚のポスターだけしか出てないという徹底ぶり。
 これはとんでもないことをやったもんだ。確かに前に鈴木敏夫の本で宮崎監督、一度全く宣伝せずにアニメを作りたいと言っていたと書かれていたが、まさか本当にやってしまうとは。これ、ひょっとして本当のタブーに脚を踏み込んだのかもしれん。もしこれで大ヒットするなら、ネームバリューある作家だったら宣伝が無駄になる。そうなると製作会社の宣伝部の立つ瀬がない。しかも実際にヒットしてるとあっては…これからのアニメ業界を真面目に心配してる。
 アニメのこれからの枠組みはともかく、本作はおそらく宮崎監督の最後の長編作品となるだろう。
 だからこそ内容はいかほどかというのが問題となる。

 一応一通り観た感想で言うならば、筋は通ったわかりやすい作品ではある。しかし何が言いたいのか、何を描こうとしているのか、宮崎駿の顔が見えにくい。
 宮崎駿って言えば、どの作品を観てもあの顔が脳裏に浮かぶほど、自分自身を前面に出したものを作っている。特に『紅の豚』以降、全ての作品の主人公は宮崎駿自身である。露悪趣味があるんじゃないかと思えるくらいだが、だからこそ一本作るだけで体力を使い果たすんだろうと分かる。
 本作においても、主人公の眞人は間違いなく宮崎駿自身である事は分かる。
 宮崎駿の出身は東京都。そしてその父は軍需工場の社長で戦闘機の部品作りをしており、大戦中はかなり儲けたというが、それはまさに眞人の父親そのものである。そう考えるなら眞人は少年時代の宮崎駿そのものとなる(後年リベラリストとして戦争反対を声高に叫んだのは、これが原因の一つであろう)。そしてその当時の駿少年が学んで考えていたこと。そして行っていたことを眞人少年に投影していたことは想像に難くない。旧友に馬鹿にされて喧嘩し、その後わざと石で自分を傷つけたエピソードなんて、ストーリー上不必要なのに敢えて入れたのは、それがまさに駿少年が行った、もしくは考えていたからなのだろう。「君たちはどう生きるか」の本と出会ったのもこの時代なのかも知れないし、「この時に読んでいたかった」という願いが込められているのかも知れない。不安定な感情を持て余し気味の眞人少年の行動は全て駿少年の投影だったと思われる。ここから逃げたい、広い世界に行きたいという妄想もあっただろうし、眞人が冒険に誘われるのは駿少年の願望でもあったはずだ。
 前半までの鬱屈した少年期の苛立ちはとても共感の持てるものだった。しかしそれでは物語にならないので、中盤から本当の冒険の旅へと出かけることとなる。
 ただ序盤は少年時代の宮崎駿が投影されていて興味深かったのだが、いざ旅に出ると途端に精彩を失う
 何というか、冒険そのものにメリハリが少ない。結局眞人は義母を探しに行くという使命はあるものの、むしろ巻き込まれてしまった形なので、この世界から脱出して現実世界に戻ることに主眼が置かれ、目の前にある危機から逃げているうちにほとんど行き当たりばったりに元の世界に戻る。いつの間にか子ども時代の母と会ったり、なし崩しに義母を助けたりしてるが、特段特別面白いところがあるわけでなく、伏線があるようなないようなぼんやりした内容で終始してしまった。前半に見られた眞人本人が感じていた現実世界のやるせなさや煩いを持ち込むこともないので、素直な冒険になっていて引っかかりが感じられない。
 単純に考えるならば、少年時代に患った塞ぎの虫は、怒濤の現実に忘れ去られ、いつの間にか少年時代にあれだけ嫌だったことを受け入れるようになったということになるだろうか。嫌っていた両親をようやく受け入れられるようになったということだろうか。老境に入ってやっとモラトリアムから脱したとか?遅すぎる和解の物語だった。

 この考え方は薄いかも知れないけど、私の現時点での感想はこの程度。
製作年 2023
製作会社
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原作
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風立ちぬ
2013米アカデミー長編アニメ賞
2013日本アカデミーアニメーション作品賞、音楽賞
2013NY批評家協会アニメーション賞
2013ゴールデン・グローブ外国語映画賞
2013シカゴ映画批評家協会アニメーション映画賞
2013
放送映画批評家協会長編アニメ賞
2013毎日映画コンクールTSUTAYA映画ファン賞
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鈴木敏夫(製)
宮崎駿(脚)
庵野秀明
瀧本美織
西島秀俊
西村雅彦
スティーブン・アルパート
風間杜夫
竹下景子
志田未来
國村隼
大竹しのぶ
野村萬斎
★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 イタリア人飛行機設計士カプローニに憧れる少年堀越二郎(庵野秀明)は、東京帝国大学工学部を経て三菱に入社。戦闘機の設計に入る。そんな堀越にとって、関東大震災の時に出会った少女のことが心に残っていた。そして堀越が設計した飛行機が飛行失敗し、失意の中で休暇を取った堀越は、避暑地で成長したその少女里見菜穂子と再会する…
 『崖の上のポニョ』から5年。宮崎監督が投入した最新作。
 実はこの作品、実際に観るよりも事前情報の方で楽しませてもらった。
 まず事前情報に対する私の思いを書かせてもらいたい。
 『ポニョ』はとにかく楽しかった。本物の天才が老境に入った時、どれだけ狂えるかのメルクマールになりそうな作品で、あまりにも無茶苦茶な話に、呆れを通り越して感動したくらい。
 それで続編は更におかしな、狂ったような作品になるんじゃないかと期待してたのだが、次の作品は、初めての大人の作品で、実在の人物だという。この時点で肩すかし食った気分になった。あんだけエゴ丸出しに、楽しいことだけ詰め込んで作った作品の後で初挑戦の素材選ぶとは。
 この時点で思うことは2つ。
 一つには、文字通り監督は初心に返って新鮮な思いで挑戦しようとしたのか?楽しさよりも映画的な完成度を優先したのだろうか?と言う思い。
 もう一つは、飛行機と言う素材は監督が大好きなものなので、むしろ、本当に作りたいものを作ろうとしてるのか?つまり、『ポニョ』の時と同じで、「誰がなんと言おうとも、俺は好きなものを作るんだ!」と考えてるのか?と言う思い。
 さあ、蓋開けたらどんなのができる?
 …というのが私の事前の思い。実はかなりワクワクしてた。
そして出来るだけ情報を入れないようにはしてたけど、ネットにつながってる以上、どうしても情報は入る。試写で著名な人たちが誉めたりけなしたりてる(と言っても、ほとんどはほめちぎってたけど)のを読んだり、早々に分析行ってる人もいたり…押井監督がこれまでになく褒めてたのには驚いた。
 観る前にこれだけ楽しめた作品は珍しいくらい。
 それで、満を持して鑑賞と相成った。

 で、その感想なのだが…
 一つ、押井監督が何故この作品を褒めているのかはほぼ完全に理解できた。
 前述した、私が考えた2つの考えでは、明らかに本作は後者だった。完全に監督、これを趣味だけで作ってる。
 そりゃ確かに挑戦もあった。まず物語の展開上、ドラマ部分を後退させ、ストーリー中心としたこと。
 これは実はとんでもないことではあるのだ。基本劇場アニメを中心にやってきた宮崎は、おそらくは日本一ドラマを作るのが上手いアニメーション監督だ。映画を作るに当たり、一時間半から二時間で出来ることは限られるのだから、まずドラマを作り、それをつなぐようにストーリーを挿入する。それを確立したのが日本のアニメーションであり、その最先端にいたのが宮崎監督だった。実際これまでの監督のフィルモグラフィ見ても、ほとんど全てドラマ中心に話は展開している。それが自分自身の得意分野であると言うだけでなく、それこそがアニメーション作品であると本人も強く感じているのだろう。
 それを極端な形で示したのが前作『崖の上のポニョ』だった。あの作品、ストーリー部分がほとんどない。多分物語の説明のために出てきたはずのポニョの父ちゃん母ちゃんまでもが全くストーリーを紡ぎ出すことを放棄しているし、ガキ二人の冒険だけで物語が終わってる。演出だけでどこまで下らない物語を底上げ出来るか?あれこそ本当の挑戦作だ。

 それに対して本作の中心はストーリーの方であり、その中でドラマを演出しようとしてる。ドラマ部分をミニマムに、ストーリーをつなげる形でドラマがあるという、物語としては、当たり前の構成になってる。そして、これまでやったことのないキスシーンが何カ所も出てくるし(正確には「未来少年コナン」で一回あったけど、あれは人口呼吸だった)、更に初夜のシーンまである。これまでのジブリ作品にはなかったアダルティな部分なんかは、モロ挑戦と言った感じにはなってる。
 しかし、最も得意な演出を中心としないという特殊な作り方をしてるとは家、宮崎本人にとってはどうだったんだろう?本当に挑戦だったのだろうか?
 改めて考えると、そうではないようにも思える。本当に監督が作りたいものを作るのならば、こう作らざるを得ないから。ただそれだけのことなのかもしれない。
 そもそも押井がさんざん宮崎批判やらかしてたのは、ドラマ部分への偏重のところ。ああ見えても、ストーリーとドラマのバランスを取ることに注意してる監督だからこそ、宮崎監督のドラマばかりを強調するやり方にイラつきを覚えていたのかと思える(これは押井の例えだが、「あしたのジョー」では、試合がドラマで、そこにいたるまでの部分がストーリーであると言っていた。試合というドラマに持って行くためにトレーニングや日常描写といったストーリーを重要にしなければならないと言っている)
 
 本作は零式という、傑作戦闘機の制作秘話となっているのだが、これは、構造的にはドラマには出来ない。だから宮崎は好きなものを作るために敢えて最も得意なドラマを抑えざるを得なかった訳だ。

 その結果どうなったか?

一言で言うなら、中途半端

 かつて『もののけ姫』の時に味わった、もやもやしたものをここでも感じさせられる事になった。
 宮崎監督自身、自分の得意領域がストーリーではなくドラマにあることは重々承知だと思うのだ。だが構造的にそうせざるを得ない作品を作ることになり、どう作るかを悩んだのではなかろうか?(推測だけど)その結果として、堀越の夢というパートを作った。この幻想的な描写は、監督が真の自分の領域に作品を引っ張っていくために必要なものであり、現実的な描写ばかりの中、何を考えてるのか分かりにくい堀越の内面に踏み込むために必要なものだった。現実世界では中々上手くいかない心の鬱屈を、夢の中でカプローニと出会うことで、内面的なドラマチックさを演出している。それと、菜穂子との部分的な物語も又、ドラマ部分を強調するには役立っている。
 だが、本来実際の堀越の行動を補完すべきその幻想的なパートに力入りすぎ、結果として、その部分だけしか印象に残らない。実際、実際に堀越が現実に目指すのは、「美しいもの」という漠然なものであり、その美しいものが何であるのか分からないまま話は展開するので、観てる側が取り残されたまま物語は進んでいく。
 強いて堀越にとっての美しさと言うものを考えてみると、一つには機能的な機構を持つ飛行機と言うことになるだろうし、もう一つには菜穂子の存在と言うことになるだろう。確かにこの二つの美しいものを並行して描くことで物語は展開しているのだが、映画を観れば観るほど、堀越にとっての美しいって何だろうか?という思いにさせられていく。
 まず、機能的な飛行機というもの。確かにそれは堀越が設計した零式という傑作戦闘機に結実していくのだが、堀越の夢の中に出てくる飛行機は全く機能的なものではない。むしろあの夢で描かれる飛行機は遊覧船のようなもので、みんなが楽しく乗れるものを目指したもの。大きくここで美しさに幅がありすぎる。空飛んでりゃ何でも美しいと思ってるんじゃないか?と思わせられてしまう。この意味において、夢の世界は全くの蛇足でしかなくなる。
 そして菜穂子との恋愛についてだが、確かに画面に出てくる恋愛模様は初々しいし、美しいものになってるだろう。でも、その美しいものを得るために菜穂子に強いた痛々しい努力を堀越は認めていたのだろうか?結核で少しずつ衰えていく自分の体を知った菜穂子は病を押して結婚式を行い、結婚してからも、夜のほんの一時一緒にいるために毎日化粧までしてる。それは彼女の方が、堀越は「美しいものが好き」ということをよく知っているからではなかったか?だからこそ、病に冒されていない美しい自分を見てもらいたい、そんな思いがあったのではないか?そんな菜穂子の努力を、堀越は、彼女の自由意志と割り切り、「もうこれ以上あなたの前で美しいままではいられない」と別れていく菜穂子を追いかけもしない。はっきり言って、堀越には優しさというものが欠如している。結核を患う妻の前でタバコを吸うシーンとか、菜穂子に全然優しくないと言う妹の詰問に「僕たちは今を一生懸命に生きている」とお茶を濁すようなものの言い方をするだけで終わらせている。
 これらは画面の美しさにスルーしそうになることばかりなのだが、それらを剥ぎ取ってみると、結局は矛盾に満ちた堀越の内面と、その身勝手さだけしか見えない。
 正直、その点に関しては全く同意できないし、この作品の酷さかと思う。

 だけど一方では、「宮崎監督、やってくれたな」と、思う気持ちもある。
 こんな勝手な、矛盾だらけの人間を、やっと主人公に出来るようになったか!と、むしろ安堵した。本当に宮崎監督が描きたいものを、やっと出せるようになったんだ。
 そもそもマンガ版「風の谷のナウシカ」で、最後の方のナウシカの姿は勝手極まりないもので、アニメ版を経て完結したマンガ版の物語の終わりの展開は唖然とさせられるばかりだった。でも凄まじく面白い。それでこれが宮崎駿という人間の思いなんだろう。と思ったものだ。
 それから二十年。その間、宮崎は子供のための物語を作り続け、本人の本性はともかく、あたかも自分自身を素晴らしい者として外に見せようとしてきた。宮崎と言えば“子どもに優しい”存在であり、“エコな”存在である。と言うことを繰り返し映画として作り続け、それが一般認識にまでなってしまった(蛇足だが、押井が宮崎批判をこれまでしてきたのは、「あのおっさん、本性はあんなもんじゃない」と言う事を繰り返し言ってきたのだから)
 そんな宮崎が、その虚像の自分自身をやっと放棄して、本当に自分の作りたいものを作れるようになったのだ。これこそが映像作家のあるべき姿だ。そもそも作り手が前提条件として持っていなければならなかった(と本人が思いこんでいた)、視聴者へのサービス。そんなもんをかなぐり捨てた、エゴ丸出しの作品を作って欲しかったからこそ、この作品は評価できる。
 いいんだよこの人は。もうそれを作る資格を得ているんだから。好き放題に作って、それで自己満足できるような作品を作ってくれて。それを目の当たりに出来た事で、私自身も満足できた。よくぞこれを作ってくれた!と言う賞賛を与えたい。

 唯一つ、ちょっと残念なのは、『崖の上のポニョ』と本作の製作が逆だったらもっと良かった。そうすれば、更にどんどん狂っていく宮崎の姿を見ることが出来たものなんだが。
 だからこそ、次回作は、監督の夢そのものを題材にして、本当に訳の分からないものを作って欲しいと心から願う。
製作年 2013
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原作
風立ちぬ <A> <楽>
堀辰雄 (検索) <A> <楽>
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WikipediaJ キネ旬 eiga.com WikipediaE みんシネ
崖の上のポニョ
2008日本アカデミー音楽賞、アニメーション賞
2008日本映画批評家大賞映画音楽アーティスト賞

2008毎日映画コンクール工藤信郎賞
2008
映画館が選ぶ映画館大賞10位
2008CDV-Jマイベストアニメ1位
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鈴木敏夫
ジョン・ラセター
スティーヴ・アルパート
キャスリーン・ケネディ
フランク・マーシャル(製)
宮崎駿(脚)
山口智子
長嶋一茂
天海祐希
所ジョージ
土井洋輝
奈良柚莉愛
柊瑠美
矢野顕子
吉行和子
奈良岡朋子
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 海辺の町で5歳になる少年宗介は母のリサと崖の上の一軒家で二人暮らし。航海士でなかなか帰ってこない父耕一には、毎晩ライトのモールス信号でメッセージを送り合っていた。そんなある日、宗介は頭がジャムの瓶にはまり困っていた魚を助ける。なんとその魚は言葉を喋り、宗介のことを「好き」というのだった。だがポニョと名付けたその魚は突然現れたフジモトという男に連れ去られてしまう。実はポニョは海の精霊グランマーレと人間を捨てて海底に住む男フジモトの間の子だったのだ。フジモトに海底に閉じ込められてしまったポニョは、宗介に会いたくて、ついに妹たちの助けを借りて脱出。人間の姿になって宗介の元へと向かう。
 『ハウルの動く城』から3年ぶりとなる宮崎監督のアニメ作品。丁度あの時は宮崎の『ハウルの動く城』と押井の『イノセンス』(2004)がぶつかり合い(興行的には勝負にならんのだが)、奇しくも4年後、同じく押井の『スカイ・クロラ The Sky Crowlers』(2008)とぶつかり合うこととなった。
 それで4年前、私は押井の方に軍配を上げた。実を言えばどっちも中途半端な作品っぽいのだが、それでも押井の『イノセンス』の方が見所と言い、ぶっ飛び方と言い、あきらかに『ハウルの動く城』よりは良かったから。
 それで今年、連続で二作品を観たところ…同じ見方をする限り、今度は明らかにこちらの方に軍配を上げざるを得ない
 もう完璧にこの作品は突き抜けてる。理性で語る部分を全く持たず、とにかく画面に浸る以外、一切の妥協を許さない作品。ここまでぶっ飛んだ、ここまで狂った作品を見せつけられると、開いた口がふさがらないけど、口を開けっぱなしで拍手したくなる。劇中ブルース・リーの名言「考えるな。感じるんだ」という言葉が頭をよぎる。実際感じる以外の余計なものを入れてはいけない作品なのだ。
 仮にこれを理性的に見ようとしたら、最低の中の最低の作品。物語は破綻しきってるし、設定に至っては失笑を超えて発狂レベルの凄まじさ。敢えて言わせてもらったら、宮崎版『天使のたまご』(1985)と言ってしまっても良いくらい。
 しかし、何よりも恐ろしいのは、ここまでのことをやっておいて、観ている間結構楽しいのだ。いろんな物語を入れて、設定もきっちり仕上げようとした(そして失敗した)結果、全然楽しくもなんともなくなってしまった『ハウルの動く城』とは逆方向に針が振り切れていて、一切何にも考えずに観られる。というより、一切何も考えて観てはいけない作品に仕上がっているのだが、その境地に達したとき、本作は凄まじく楽しくなる。
 だって本作の場合、物語は「宗介、好き」「僕も好きだよ」以外一切を拒絶する。二人のために世界はあり、その結果理性的な大人は一切口を挟めなくなり、しかもその「好き」というパワーは日本沈没まで引き起こす…これって究極のセカイ系作品かもしれん。この二人の愛のパワーは「未来少年コナン」の超磁力兵器か、『風の谷のナウシカ』の巨神兵の大群レベル。月が近づいたことで地球の地軸はねじ曲がり、太古の生物が群れをなして登場して生態系を狂わせる。はっきり言えば、もう最早世界の終末は劇中で来てしまってる『ナウシカ』の言葉を借りれば「火の七日間」ならぬ「水の半日間」で地球の終わりがやってきてしまったわけだ。
 しかもこの状況、おそらくは数十万〜数百万単位で人が死んでいるはずの中、渦中のポニョと宗介はラーメンとハムを美味しく食べて寝ていて、数人を除けばみんなニコニコして、宗介とポニョに暖かい声援を送り続ける…登場人物の大半はほぼ完璧に狂ってる。理性的な人間は多少登場はするのだが、そう言う人間に限って徹底的にハブられる。まともな人間は人格さえ否定されてしまうと言う恐ろしい物語である。
 でも、アニメはそう言う、どれだけ狂っている物語でも受け止めることが出来る。と言う事実をはっきり示してもいる。リアルにリアルに…かつてレイアウト・システムを提唱した(というかその走りとなった)宮崎駿が最後に得た境地は、これまでの全てをぶん投げて、原初の、何でもありのアニメの姿を作り出してくれたのだ
 しかしよくもまあここまで狂った人間を周りが放って置いたもんだ。ジブリは宮崎の帝国である。と言う言葉は、本作を観るだけで実によく分かるぞ。宮崎監督がやりたいものは、そのまま正義。偉きゃ黒でも白になる。ジブリはそんな空気に覆われてるんだろう。しかもそれできっちり数字まで出すところが尚凄い。
 ここまで突き抜けられてしまうと、リアル志向の『スカイ・クロラ The Sky Crowlers』が敵うはずはない…いや、あらゆるアニメはこの作品の前ではくすんで見えるほどに凄い。ひょっとしたら、本作こそが究極のアニメ作品なのかもしれない。
 宮崎監督作品の中では間違いなく最低作品。だけど、そこを突き抜けてしまった“最強作品”という位置づけになるだろう。
製作年 2008
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原作
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ハウルの動く城
2004ヴェネツィア国際映画祭オゼッラ・ドゥオロ賞(スタジオ・ジブリ)
2004毎日映画コンクール日本映画ファン賞
2004
文春きいちご賞4位
2005米アカデミー長編アニメ賞
2005LA批評家協会音楽賞
2005NY批評家協会アニメーション賞
2005サンディエゴ批評家協会アニメ賞
2005アニー作品賞、監督賞、プロダクション賞

2005
放送映画批評家協会長編アニメ賞
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宮崎駿(脚)
倍賞千恵子
木村拓哉
美輪明宏
我修院達也
神木隆之介
伊崎充則
大泉洋
大塚明夫
原田大二郎
加藤治子
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 魔法と科学が混在する世界で父の遺した帽子店を切り盛りする18歳の少女ソフィーは、ある日町で美貌の魔法使いの青年ハウルと出会った。だがその夜、ソフィーは荒地の魔女に呪いをかけられてしまい、90歳の老婆にされてしまうのだった。呪いのために本当のことを言うことが出来ず、家を出たソフィーは荒地をさまよい、やがてハウルが暮らす動く大きな城に潜り込み、住み込みの家政婦として働き始めるのだった。折しも大戦争の真っ最中。力ある魔法使いのハウルには王より協力を求められていたのだが…
 『千と千尋の神隠し』以来久々の宮崎監督のアニメーション。さすがにビッグネーム。もの凄い人の入り具合だった。
 さて、本作は2004年のジブリの投入した二大アニメの本命馬。『イノセンス』(2004)と合わせて某コンビニでは色々キャンペーン張ってた。ガブリエルとヒンのマグカップがあったりとか(私は勿論ガブの方をもらったが)
 こう観てみると、良い部分はたくさんある作品だと思うのだが、今ひとつ入り込めない作品というのが第一印象。
 先ず良い部分というのを考えてみたい。オープニングの描写は流石。あのシーンだけでしっかり時代背景が分かるように出来てる。この時代は現実世界とリンクされているのみならず、スチームパンクの世界観も取り入れ、更には魔法という要素を入れた世界であることをよく表している。この時代背景を現代的に考えてみると、期間的にはかなり狭い。多分20世紀初頭から第一次世界大戦前夜までの約10数年の間(実は同じくスチームパンクをモティーフにした『スチームボーイ STEAMBOY』よりも後の時代となっている)。その辺が分かる人には分かるように描かれているのは巧いなあ。あるいは現実の第一次世界大戦とリンクしているのかも知れないな。舞台も産業革命が起こったイギリスと言うよりは雰囲気的にイタリア。この辺の細かいこだわりも感じられる。
 ハウルの動く城の描写はなかなか凄い。歩くたびにすべてのパーツが別個に動き、屋根の瓦一枚一枚まで動いてる。あんなのがちゃんと動かせる技術力は認めずにはおられない。外だけでなく、城の中の生活感なんてのは、なんか嬉しくなってくるくらい。適当な場所に保存できる食べ物が置いてあり、適当に切り分けて食べるとか(事実私だって時間のない時の朝ご飯はそんな感じだ(笑))。
 ストーリーにおいても、設定のおもしろさは活かされており、最初のハウルがソフィーに対し、妙になれなれしい感じは、実は過去にソフィーに遭っていたと言う事実を考えると、なるほど。と思える。あれは偶然ではなく、ハウルがソフィーを捜していたと考えると、なかなか楽しい
 それに、「家族を作る」という話は私にとってはツボ。これの主題の一つはまさにそこにあったはず。ソフィーにとって血縁としての家族はあまり親しいものではない。妹とは多少仲が良いものの、それでも妹の存在はソフィーにとってコンプレックスを増すだけの存在であり(劇中ソフィーが自分の容姿をこき下ろし続けるのは、妹の存在あってのことだと分かる)、享楽主義者の母はソフィーより自分の幸せを優先している(ソフィーが風邪を引いたと弁明した際、あっさりと部屋に入るのをあきらめてしまうし、強迫されたからと言って、ソフィーをあっさりサリマンに渡してしまう描写にそれが良く現れている)。それに対し、元は都合で集まったはずの仲間達の方が遙かに家族として暖かみがあるって描写も良し。
 相変わらずの久石譲音楽も耳に心地よし。
 …と言うことで、良い部分はたくさん挙げられる。
 ただ一方、悪い部分も相当に多く、ちょっと首をかしげる部分が多すぎ
 キャラクタだが、木村拓哉をハウルに起用したのは正解だったか失敗だったか?最初のソフィーとの邂逅シーンでの声の演技は見事で、凄味のある声を出したなあ。と思ったのだが、話が進んでいくと、しゃべり方が一本調子で、最初のイメージが覆されてしまう。ソフィー役の倍賞千恵子も、色々声を変えようとしているのは分かるんだけど、その声は90歳の老婆にも、18歳の少女にも聞こえない。実写畑の人を連れてくると往々にしてこういう事が起こる。だって、役者は自分の姿を出すのが仕事なんだから、それに合わせた声を出すわけで、自分の年齢と異なる人間の声を出すのには慣れてないから。それが時として部分的には凄く良かったりするけど、全般を通してみると、やっぱり声優のプロに任せるべきだったんじゃ?バランス悪い。描写にしても、物語の中心となるべき荒地の魔女とサリマンがアクセントにしかなってないのね。それはかかしのカブも同じ。あんなオチを付ける必要は全くなかったんじゃないのか?あ、カルシファーの我修院達也は大当たりだったけど。
 それで物語自体だけど、とにかく説明過剰および説明不足。その差が極端な感じ。90歳の老婆にされたソフィーがどんどん若くなっていくのだが、それが全然説明されてない。荒地の魔女がソフィーを老婆にした際、一言でもヒントを出していれば、大分わかりやすくなったろうに。それに劇中年齢が勝手に上下するのもなあ。一応相手を好きになった時に若くなり、突き放した時に歳を喰うようだが、それも説明が必要だよ。しかもソフィーは90歳になって、その事に対し、怖れがない。むしろ90歳であることを楽しんでるように見えてしまう。じゃ、ソフィーの目的っていったい何なの?呪いを解きたいんじゃなくて、人から離れたところで生きていきたいだけ?
 一方のハウルはハウルで自分で「弱虫」と認めてしまってるけど、これは喋るべきじゃないだろ。むしろこういう精神的なものは描写力で描いて欲しかった(ソフィーに城から蹴り出されるハウルなんて姿を観てみたかった気がする(笑))
 それと意外だったのは戦争の描写なのだが、戦火が近づいているのに、ハウルの城に住んでる面々にとっては、戦争というのは別世界の話にしか見えてない。何のための戦争なのか、どこと戦ってるのか。それは全く重要じゃない。ただハウルが自分たちを守ろうとして戦っているという事実だけが取り上げられている。まさか男は戦いに行くもので、残された家族は銃後の備えをしっかりしろ。と言うマッチョ的な発想?そう言うのを駿さん、嫌ってたんじゃなかったか?
 ソフィーの表した「勇気」や「強さ」は目の前に置かれている現実にのみ向けられいて、それを超える要素がない。彼女は全てをありのままに受け止め、相手に決断を促すことはあっても、自らは基本的に受動的だし。「強さ」の意味がこれまでの宮崎作品とは随分違っているように思える。
 これまでの違いと言えば、キス・シーンの多用もあるな。これまで精神的なつながりを最後に持って行くのが多かったのに、今度はえらく物理的だ。
 もの凄く細かくなるけど、料理シーンもちょっと。あんな分厚いベーコンと卵を炒める場合、ああ言う作り方すると、ベーコンが生焼けのままになるんだよね。私は料理とか食事シーンが大好きだけに、そこをちゃんと描写して欲しかった。
 監督が作りたいものを作った。というのはよく分かるんだけど、しかしだからといって、これが正解だとは思えず、違和感がどうしても残る。何度も観て欲しいのだろうか?あるいは足りないところは原作でどうぞ。と言うことか?

 なんでも当初宮崎監督は監督をやる予定ではなく、企画立案だけだったが(宮崎監督が最初に出した案は本作の名称は『ハウルの蠢(うごめ)く城』)、結局若手に任せようとした所、我慢出来なくなって自分で作ることになってしまったらしい。『魔女の宅急便』の時もそうだったらしいけど、宮崎監督は偉大ではあっても新しい監督を育てることは相当に下手らしい。
 後は関係ない話なんだが、ここに登場するヒンが妙に気にかかる。あの目つきと言い、ぼそぼそとしたしゃべり方(と言うかヒンヒンと吠くだけなのだが)と言い、妙なずぼらさと言い、どうにも某監督を思い起こさせるのだが…2004年のジブリ二本投入って事で、遊んだんだろうか?どうにもそれが考えすぎには思えず、中盤からそっちばかり気になってしまった(笑)
製作年 2004
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千と千尋の神隠し
2001日本アカデミー作品賞
2001ブルーリボン作品賞
2001
キネマ旬報日本映画3位
2001毎日映画コンクール日本映画大賞、監督賞、音楽賞、日本映画ファン賞、アニメーション映画賞

2001報知映画監督賞
2001
ヨコハマ映画祭第4位
2001オンライン・ムービー・アワード第1位
2002米アカデミー長編アニメーション賞
2002ベルリン国際映画祭金熊賞(宮崎駿)
2002LA批評家協会アニメーション賞
2002NY批評家協会アニメーション賞
2002ヨーロッパ映画賞
2002放送映画批評家協会長編アニメ賞
2002TIMEベスト第8位
2002PEOPLEベスト
2002オンライン批評家協会アニメ賞

2003英アカデミー外国語映画賞
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宮崎駿(脚)
柊瑠美
入野自由
夏木マリ
内藤剛志
沢口靖子
上條恒彦
小野武彦
我修院達也
はやしこば
神木隆之介
玉井夕海
大泉洋
菅原文太
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 両親と共に田舎に引っ越しすることになった千尋。道に迷った両親と共に不思議なトンネルを抜けると、そこは不思議な世界だった。八百万の神々が身体を癒しに来ると言うこの町で、両親は神に供されるはずの食べ物をむさぼり、豚に姿を変えられる。そして帰られなくなった千尋は「千」という名前で湯屋で働くことになる。見たこともない様々な生き物の間を今までしたこともなかった温泉場の下働きという不思議な日常を送る千。彼女を温かく見守るハクという少年。彼女の優しさに触れ、ふらふらと湯屋に入り込んだカオナシなど、多くの者との関わりを通し、生きる意味を知っていく…
 日本の歴代興行成績を塗り替える興行収入300億円を突破した、現時点で日本最高峰に位置する作品
 兎に角綺麗な作品。CGの使い方が実に良い。技術的に言えば、文句なし。
 前にテレビで見た対談で、監督は「なまの感触」というものにこだわっていたため、その辺がどう出るか。と期待があったが、その辺は今ひとつ。と言ったところか。少なくとも、作品の中で“臭い”を感じることは出来なかった。要するに、いくら汚いものを出しても、それが汚いものには見えないのである。その意味で、「綺麗」というのは、両刃の剣でもある。
 異世界の日常生活と言うのが大好きな私としては、シチュエーションは好み。和風の雰囲気に溢れつつ、洋風が混在する湯屋の無国籍風の描写は実によろしい。もう少し日常を長々と演出してくれれば良かったとさえ思う。
 ただ、本作の最大の強みは何か?と言われると、やはり千尋の精神的成熟であろう。
 冒頭、車の中で親の転勤で引っ越さなければならないのを、親への無視という形で表していた千尋。この時点では彼女は全く自分の殻の中に入っており、人を見る余裕など無かった。それが嫌々ながら「殺されたくない」という恐怖で仕事を始めるようになる。名前が千に変えられてしまったのは、精神的にも徹底的に落とされる描写となっているだろう。
 仕事は嫌で嫌で仕方ないが、そこで生きるためには自分を高めていくしかない。と言う事をそこで知る。それでもへこまされながらだが、ハクとの出会いは彼女に希望をもたらした。ここで希望を得ることで、彼女は他者を見る余裕を得ていく。
 そんな時にカオナシとの出会いが起こるのだが、この時、千尋はカオナシに対し、自ら近づくのではなく、カオナシの自主性を優先している。中庭に佇むカオナシを見た千は「入ってきなさい」とは言わない。「ここ開けておきますね」と言って、あくまでカオナシを立てているのだ。
 勿論それは正しい選択ではなかった。カオナシは湯屋に入ってはいけない存在なのだ。案の定カオナシを迎え入れたことで湯屋は大混乱に陥ることになる。だが、その思いやりが実は彼女を最終的に救うことになる。千はその時思いやりを踏みにじられることになるのだが、そこで初めてカオナシに意志と思考を与えることで、カオナシ自体を救うことになる(まるでカウンセラーみたいだ)。
 そしてカオナシと共に旅をしていく。

 付記。
 先日ネットを回っていたら面白い記述に当たったので、ちょっと書かせていただく。
 湯婆婆についてだが、彼女はあれだけの存在感があるにも拘わらず、その単独としてのプロフィールは驚くほど少ない。「銭婆の双子の妹」「坊」を馬鹿かわいがりすること。そして彼女も又何者かと契約を結んでこの湯屋を取り仕切っているらしいこと。これくらい。そして更に不思議なのは彼女の「双子の姉」と称する銭婆。
 この二人、同一人物と言うほど似ている上に、画面上に二人が共に出るシーンはない。本来双子の葛藤というのであれば、同一画面に出てこそ意味があるというのに、敢えてそれをしていない。更に湯婆は湯バードと共にしょっちゅう外に出ている。あれは一体何しに行っているのか?更にハクの腹から出てくる判子は一体どちらの魔法によって汚されていたのか?説明だけではよく分からない。
 坊に対する接し方についても湯婆は溺愛しつつ、銭婆は「可愛い子には旅をさせろ」と言っている事から、なんだかんだ言って二人とも彼については愛情を持っていることが分かる。
 つまり、考えようによっては、一人の人物の二つの人格が分裂した結果が湯婆と銭婆になったのではないか。とも言える訳である。あるいはそれこそが湯屋の従業員が名前を奪われたのと同じように、彼女が「誰か」に誓ったために科せられた枷なのかもしれない。というもの。
 これは私の考えではなくネットで見つけてきた名も知らぬ人物の考え方なのだが、そう考えると、一気に湯婆、銭婆の姿が見えてくる。実は極めて意地悪く隠されていたように見える二人のプロフィールが分かってくる(ちなみに宮崎監督自身の言によれば、あれは(鈴木敏夫)プロデューサなのだとか。「何をやってるのか分からないけど、なんとか彼のお陰で経営が出来るから」だそうだ)
製作年 2001
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もののけ姫
1997日本アカデミー作品賞、協会特別賞(米良美一)
1997ブルーリボン特別賞
1997
キネマ旬報2位
1997毎日映画コンクール日本映画大賞、日本映画ファン賞、アニメーション賞
1997ヨコハマ映画祭第10位
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宮崎駿(脚)
松田洋治
石田ゆり子
田中裕子
小林薫
西村雅彦
上條恒彦
島本須美
渡辺哲
佐藤允
名古屋章
美輪明宏
森光子
森繁久彌
飯沼彗
近藤芳正
坂本あきら
斉藤志郎
菅原大吉
冷泉公裕
山本道子
飯沼希歩
得丸伸二
中村彰男
香月弥生
塚本景子
杉浦一恵
山本郁子
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 山里の長の息子アシタカは、“タタリ神”より猪神から呪いうを受け、里にいられなくなる。呪いを解く術を求めて旅に出るアシタカだったが、彼ははやがて都市“タタラ”の里にたどり着く。鉄(くろがね)を精錬するその里はエボシ御前と言う女性によって治められ、本来蹈鞴場に入ることの出来ぬ女性はおろか、病者や弱者もそこで働くことが出来る、非常によい里だった。だが同時に鉄鉱石の発掘及び鉄の精錬は神々の住む森を破壊し続けていたのだ。そして、そんな里の連中に単身戦いを挑む山の娘サン。彼女は“もののけ姫”と呼ばれていた…
 1997年は日本映画界にとってはある意味転換点であったと思う。この年、『タイタニック』(1997)および本作の投入により、映画館に脚を運ぶ人間は急増(一応2本の『新世紀エヴァンゲリオン』もあったけど、これはどうでも良いか)。特に本作はそれまで邦画動員記録を14年もの間保持していた『南極物語』(1983)の記録を軽く塗り替えることになり(それまでどれだけ邦画が不当に貶められていたのか、この事実だけで分かろうというもの)、映画で金が稼げるようになった事を知らしめる時となる。事実それまで低迷しきっていた日本の映画動員数はこの年を境に急激に変わっていく。当時邦画では破格の20億円を遣ったことでも話題となったが(ちなみにハリウッドの場合、平均的な予算だったりする)、それを軽く超える興行成績を収めることも不可能でないことを知らしめた。

 この作品のレビューを書くのはかなり逡巡した。書きにくい。と言うより、書くべき事があまりにありすぎて、それをどうまとめて良いか、それがよく分からない。実際今、全てを書けるかどうかも定かではないのだが…
 最初に私にとってこの作品はどうか。と言う事を考えてみると、良いところは本当にたくさんある作品だと思う。作品のクォリティ、設定面でのリアリティとファンタジー(良い意味でも悪い意味でも)。声優ではないはずの声の演技の巧さ、そしてカウンター・テナー米良美一の衝撃的な歌声。それらは非常に魅力的であり、物語のバックボーンも興味深い。少なくともエンターテイメントを目指す映画であれば敢えて無視し続けてきた問題をエンターテイメントの一環としてちゃんとまとめたという監督の技能も非常に評価できる。これだけだったら充分満点を与えられるほどだ。
 だが一方、この作品はあまりにふざけすぎた事をやらかしてしまい、物語はマジ怒りを覚えた。ラストを見たとき大声で「ふざけるな!」と叫びたくなったくらい。とにかく酷すぎた。未だにこの作品、もう一度観たいと全然思わないくらいに酷い
 最初に良いと思えた部分。これはかなりたくさんある。当時アニメーションはセルアニメからコンピュータを用いたディジタルアニメへの移行期に入っていて、この作品は今まで培ってきたセルアニメの最上部分にディジタルアニメをかぶせるという、折衷的な行程で作られたが、その効果は素晴らしかった。画面一つ一つが見栄えするし、その効果を充分に計算に入れて作っている分、アクションシーン一つ取っても、これまでにない見事な動きを見せていた。(腕に宿ったタタリ神により超人的な力を発するアシタカや、山の神々が姿を現すシーンなど、画面効果は見事)
 それで設定面も面白かった。蹈鞴場(タタラ場。鉄の精錬場)と言うのは、今まで絵では見たことがあったし、博物館で動きを止めた機材などを見たこともあるが、実際それが動いているのを見たのは初めてのこと(アニメーションとは言え)。鉄鉱石をふるいにかけ、釜に入れ、鞴を動かして溶かし、それを水に流し込んで…その過程がこれだけしっかり描かれていると言うだけで、それだけで大満足。これには本気で感動した。おかしな奴だと思われるかも知れないが、マジであの蹈鞴場のシーンでは涙が出た(誰か他にいませんか?)。それであの大筒(おおづつ)はちょっとやり過ぎという感じでもあるが、まあ、そこはファンタジーと言うことで我慢しよう。
 声優が芸能人として一流を揃えているところ。特に美輪明宏は大迫力。彼の中性っぽい声が本当に良く映えていた。
 まあ、ここまでだったら満点くれたって良いくらいだろう。実際、これ程クォリティの高いアニメーションを世に出した宮崎駿という人物の演出力はたいしたものだ。
 それで一方、悪いと思えた部分。困ったことにこれも無茶苦茶多い。まず、これはファンタジーと言っても、日本を舞台にしている以上、どこの時代にこれが入るかを考えてみなければならない。敢えてこの作品の時代を特定すると、刀の反り具合、大筒の存在を併せて鎌倉後期から室町前期だろう。それにしては表現されている人物描写は平安か奈良の辺り。しかも男女同権、弱者救済を謳うなど、戦後そのもの。つまり、舞台設定は室町、人間描写は奈良、そして価値観は昭和…なんじゃこのバラバラな年代設定は?
 それでこの作品、『もののけ姫』と名付けられているだけに、サンがヒロインでなければならなかった。ところが、サンはヒロインではなかった。敢えて言うなら、「押しつぶされそうになった弱者を救済しようとする階級闘争の闘士」そのものであり、アシタカの同志にはなれても、ヒロインにはどう見てもなれない。敢えて一体誰がヒロインかと考え直してみると、ただ一人しか思い出せない…
 その名は、
 ヤックル。
 他の何がヒロインだというのだ?それしか思い出せねえぞ。それにそれ以前にそう言う描き方をするか?ふざけがあまりに過ぎる。
 それに物語なのだが、ここには三つの勢力がそれぞれアシタカに接触する。一つがエボシ御前。彼女はいわば昭和という時代の良心そのもの。二つ目がサン。彼女は自然の代表者であり、人間偏重の価値観しか持ち得ないエボシ御前に徹底的に抵抗する。言い方は悪いが過激なエコロジストと言うところ。この二つの価値観は平成の時代になってからの対立構図がはっきりしてきた。この二人の対立はまさに現在の構図そのものと言えよう。実際、現在の価値観からすれば、どちらも悪くない。どちらも大切だ。と言うことになる。その対立構図がここまではっきりしているので、一体どのような答えをこのアニメーションで宮崎監督は提示するのだろう。とかなり後半は期待していた。テーゼとアンチテーゼが提示されたここからどのようなジンテーゼを導き出すのか。そこがこの作品の真の価値を定めるはずだった。この構図で、どちらかを取るならば、エボシ御前若しくはサンのどちらかは存在を否定される。それをそのまま描ききるのか、それとも回避するのか、回避するとしたらどのような方法で?そこが焦点となった。
 ところがここに第三勢力が介入する。アシタカと最初に出会ったジコ坊がそれ。彼自身ではなく、彼が仕えている顔の見えない「やんごとなきお方」こそがこの対立構図を見事に崩し、純粋なる悪役となってしまった。真の悪役は存在そのものを出してないのだから、当然彼に向かうべき対立構図は“神殺し”により変化したタタリ神になった。
 この辺りからストーリーは本来の行程を完全にそれる。アシタカとサンは純粋なる被害者となってしまい、その被害から逃れることがこの作品の目的となってしまったのだ。本来この作品が目指すべき価値観の対立が一気にどうしようもないパニック映画へと変わっていく。
 それでラスト。アシタカとサンはお互いの価値観を確認し合いつつ、自分のいるべき所に戻る。これから二人でここを良くしていこうね。と言う偽善的な余韻を残して…
 結局、ここでは何の解決も見せないまま、誰も悪くないんだ。で終わってしまう…
 ちょっと待て!おっさん。何でこういう終わり方が出来るんだよ。これは最早物語りでも何でもない。問題提起だけして後は放っておく出来損ないの教育番組か?
 この作品における宮崎駿監督のメッセージはきっとこうだ。「オジサン達は頑張って良い日本にしようとしてきた。だけど、良い日本ってなんだか、もうオジサンはわかんなくなったよ。だからこれを見ている君達がその答えを見つけて欲しい」
 これがクリエーターのすることか!しかも宮崎駿と言えば、日本では最高のエンターテイナーとして認識されてるんだぞ。その本人がこんな逃げうつなんて、信じられないことをする。元々監督の作品は説教臭い部分があるが、これだけ明確に思想的命題を出しておきながら、中途半端にして放っておくなど、最早クリエイターとしても失格だ。
 実際、これだけだったら迷うことなく最低点を付けてたぞ。
 いやはや。ここまで両極端な作品を見せられることになろうとは。最高の部分と最低の部分を併せ持つこの作品、私にとってはこの上なく貴重だ。こんな奇跡のような評価をさせる作品など。

 尚、本作をもって宮崎監督は「ジブリ退社」宣言を出したのだが…その後の活躍はご存じの通り。
製作年
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On Your Mark CHAGE & ASKA
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宮崎駿〈脚〉
CHAGE & ASKA
★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
製作年 1995
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紅の豚
1992キネマ旬報日本映画第4位
1992毎日映画コンクール音楽賞、アニメーション賞
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宮崎駿(脚)
森山周一郎
加藤登紀子
桂三枝
上條恒彦
岡村明美
大塚明夫
関弘子
阪修
田中信夫
野本礼三
島香裕
藤本譲
松尾銀三
矢田稔
辻村真人
大森章督
古本新之輔
森山祐嗣
松岡章夫
佐藤広純
種田文子
井上大輔
佐藤ユリ
沢海陽子
喜田あゆみ
遠藤勝代
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 第一次大戦後イタリアのアドリア海は飛行艇を操る空賊の横行する場所となっていた。そんな中、賞金稼ぎの飛行艇乗りの“豚”ポルコ・ロッソは空賊達を後目に、我が道を突き進む。そんなポルコを何とかやっつけたいと一計を案じた空賊たちは、アメリカからスゴ腕の飛行艇乗りを呼び寄せ、彼に一騎打ちを迫るのだが…監督宮崎駿のエッセイ風漫画を原作に、男のダンディズムを描いた作品。
 主人公が豚と言う一風変わった設定の元、抜けるようなイタリアの空を舞台に描かれる男達と女の物語。レシプロ機同士による空中戦は、いかにもプロペラが好きそうな監督の趣味丸出しと言う感じで、実にのびのびと作られており、古き良き空中戦を演じていた。そもそもは日本航空のタイアップ企画で機内上映用の15分ものの小編を作るはずが、どんどん話が大きくなっていき、ついに劇場公開になってしまったというもの。元が監督の趣味から出発しているので、のびのび作られているのだろう。
 実際飛行機が歴史に登場するのは1903年。この時代から僅かに20年程度前に過ぎない。最初に飛行が成功してから10年近く経って実戦配備された最初の頃は飛行機というのは偵察程度にしか使われなかったが(積載搭載ギリギリにレンガを積み込んで、それを敵陣に落としていたと言う時代だってあったのだ)、やがて軽機関銃を搭載されるにいたり、派手な空中戦が演じられるようになった。現代と違い、スピードもそれほど無く、一瞬で勝負が付くのはまれだったので、空中ショー的に本当に派手な空中戦だったらしい。
 そう言う古き良き飛行機の里の時代を題材に取ったのは、監督の趣味でもあるが、大成功でもあった。ポルコとカーチスの空中戦は生命の取り合いしているのにも関わらず、何かほのぼのしていて、見てるだけで楽しい。
 キャラクターだが、主人公を豚、しかもどえらく渋めの森山周一郎の声を当てているのは最初はえらいミスマッチに思えたが、すぐに本当に格好良いと思えるようになるのも不思議と言えば不思議。それにポルコは男の理想像に近い。様々な苦労を経て、影を負い、それがにじみ出すような渋みへと転化している姿。それに惹かれるのではないかな?男の心の中には、ああ言った雰囲気をまとうことにあこがれる部分が確かにある(せめてああ言ったポーズをしてみたいと思う)。その辺を上手く捉えたのが勝因。(だけど、ポーズじゃない本当のポルコは韜晦しっぱなしで、後悔を押し隠そうとしているだけの男で、愛を欲しがっているのに、自分はその資格がないとばかり思っている小心者であることだって確かなんだけど…疲れそうな生き方だ)
 こういう生き方にあこがれると同時に、安定した生活に潜り込んで苦労を避ける。それが普通の男の生き方なのかも知れないな。勿論私も含めて
 そこに女性を絡めたのは成功だったか、失敗だったか?ポルコの弱さを上手く表現することも出来たとは思うがそれで雰囲気が随分軽めになったのは確か。
 宮崎作品においては珍しく対象年齢が高い作品。それだけに、子供の頃にこの作品を観た人は、大人になってからもう一度見て欲しいと思う。確実に全く別な楽しみ方が出来るし、永遠の子供宮崎駿に共感できる部分を自分の中に発見できるかも知れない。
製作年 1992
製作会社
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原作
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魔女の宅急便
1989キネマ旬報日本映画5位
1989毎日映画コンクールアニメーション映画賞
1989ヨコハマ映画祭第5位
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宮崎駿(脚)
高山みなみ
佐久間レイ
戸田恵子
山口勝平
加藤治子
関弘子
井上喜久子
土井美加
渕崎ゆり子
浅井淑子
土師孝也
西村知道
斎藤昌
山寺宏一
辻親八
鍵本景子
大塚明夫
田口昂
小林優子
坂本千夏
信沢三恵子
三浦浩一
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 人間の父親と魔女の母親との間に生まれた女の子キキは13歳になった時、魔女の掟に従って相棒の黒猫・ジジとともに自立の旅へと出発する。海沿いの大きな時計台のある町のパン屋に下宿させてもらったキキは、空を飛べる能力を生かして配達屋を始める。様々な人との出会い、そして挫折を繰り返し、成長していくキキを描く作品。
 スタジオジブリによる第2回作品で、大ヒットを記録。ジブリ快進撃の最初の作品となった。
 宮崎駿監督作品は一貫して画面が綺麗。勿論本作品も画面の綺麗さは特筆もの。監督の劇場作品では珍しい原作付きだが、この監督の作品はなんと言っても海や空の美しさが挙げられるが、海のそばで空に飛ぶ話と言うのはまさにうってつけ。主人公のキキの性格が基本的に明るいため、観ていて爽快感を得られる。が、監督作品としての出来は並程度だったようにも思える。
 この映画を観た後で原作の方も読んでみて、同じ素材を使っているのに雰囲気が随分違うことに気付かされた。その理由を考えてみたところ、13歳と言う年齢の設定の違いなのだろうと言うことに気付く。原作者角田栄子はこの13歳という年齢を、大人にあこがれを抱きつつ、子どもでいたい年齢と位置づけているのに対し、宮崎駿監督の場合、これを思春期の範疇に入れてしまっているように思える。
 だからこそキキに悩ませ、自分なりの努力をそこでさせる訳なのだが、こうなると監督の独断場。ステロタイプな物語にしてしまい、それうまくまとめている。これは決して悪口ではないが(ステロタイプな物語こそ、物語の基本であり、それを魅させるには本当の技量がいる)、それを徹底してしまったため、残念なことに魔女と言う設定が全然活かせなかったね。空を飛べるんだったら魔女だろうがロケットを内蔵したサイボーグだろうが、天使だろうが全然物語に変化はなかっただろう。
 映画にするよりはテレビ向きの作品だったんじゃないかな?

 本作は実は宮崎監督が前作『となりのトトロ』で消耗してしまったため、若手を育てる意味もあって、ヤマト運輸のタイアップ企画の小品として立ち上げられた作品だったのだが『となりのトトロ』の興行成績が伸びなかったため、鈴木プロデューサが頭下げて仕事もらってきたとも言われる)、その作業工程でいつの間にか結局自分でシナリオ書いて、監督までやって…といういつもの宮崎監督らしいことをやってしまったらしい。それで、ヤマトの方からも色々な注文が現場に来たそうだが、後に鈴木プロデューサーは「その十分の一もやってやらなかった」とか言っていた…この人はいつまで経っても変わらないねえ。
製作年 1989
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魔女の宅急便 <A> <楽>
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となりのトトロ
1988ブルーリボン特別賞
1988キネマ旬報日本映画第1位
1988毎日映画コンクール日本映画大賞、大藤信郎賞
1988報知映画監督賞
1988
ヨコハマ映画祭第2位
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宮崎駿(脚)
日高のり子
坂本千夏
糸井重里
島本須美
北林谷栄
高木均
丸山裕子
鷲尾真知子
鈴木れい子
広瀬正志
雨笠利幸
千葉繁
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 昭和30年頃の所沢(と思しきところ)。そこに都会から大学で考古学を研究する父と娘達(サツキとメイ)が引っ越してきた。病気で療養中のお母さんの少しでも近くにいようとこの田舎に住むことにしたのだ。太陽をいっぱいに浴び、はしゃぎ回って遊ぶ子供たちだが、この田舎に存在する微かな異変を見出す。そして二人は森に住むトトロと出会った。妖怪でもない、動物でもないこの不思議なトトロと仲良くなるふたり。二人の楽しい生活はますます楽しくなっていく。このへんな生きものは、まだ日本にいるのです。たぶん。
 アニメで初めてキネ旬ベスト・ワンを獲得。アニメーションが邦画のれっきとした一部門であることを内外に知らしめた作品。
 「宮崎駿の最高傑作は何?」と聞かれたときにどう答えるか。まあ色々あるだろう(さしずめ私は『未来少年コナン』と答えるだろうけど)。だけど、もし「代表作を一本選べ」と問われたら、大体の人はこれを選ぶんじゃ無かろうか?
 これほど有名になったアニメも無かろう。今の世代だとこれを観ながら成長した者も多いだろうし、大体親が子供に買ってくるビデオだと、ディズニー以外ではこれが筆頭だろう。
 それだけ素晴らしい作品であることを、私も認めている。正直初見で劇場でこれを観た時、とんでもないものを作り上げてしまった。と言う思いに突き動かされた。(同時上映が“あれ”であったのがとーっても残念)
 そしてその思いは今も、いや映画の歴史を俯瞰するようになってますますその思いは強くなった。
 そもそもアニメというのは現実ではあり得ないもの、若しくは現実の代用品として認識されてきた。アニメというのはかなり自由度が高いため、それこそ現実にはあり得ないものも出すことが出来る。むしろ原色のセルアニメは極端さを強調した方が画面が映えるため、むしろ現実味のない方が好まれていた。宮崎駿氏はアニメーションがそちらの方向に流れていくのをあまり快く思っていなかったらしく、「世界名作劇場」などでは何とか現実に即した作品を作ろうと模索していたようでもある。しかしながら彼がいくら努力しようとも、アニメそのものがマイナーだったので、一般にはアニメとは所詮子供用としてだけの認識から出ることはなかった。
 ただ、あきらめずに次々劇場用アニメを投入していく内、彼の作品に関しては評価が上がるようになっていった。そんな時に、今までのSF路線とは全く逆の発想により作られた作品を世に送り出した。それが本作である。
 この作品によって本当に一気に日本人のアニメに対する目は変わった。

 この作品、場所は特定されていないが、やや文明の利器が普及している日本の、田舎の風景を描いている。この辺が曲者で、誰しも思い浮かべる「田舎の風景」がそこにあるため、あっという間に同化できる。そんな風景を見たことのない人でも「懐かしい」とおもわさせる光景(今でも探せば国内に似た風景は結構ある)。
 そこでの生活の魅力を充分出したときに登場するのが不思議な生きものトトロ(キャッチコピーにあるように「生きもの」とすると雰囲気はますます出るね)。彼は大人達の目には見えず、子供だけにしか見えない。しかもトトロがいてもいなくても人間の社会は変わらず流れていくと言う面において、トトロはサツキとメイのみならず、視聴者全員にとって「自分だけのもの」となる。自分だけが持てる不思議な優越感、そして懐かしさ。これが調和された形として眼前に広がるのだ。これほど自己同化しやすいものはなかろう。見事な作りだ。
 トトロという存在も良い。彼(?)はあくまで謎のまま、ただ子供に好意を持った不思議な生きものとしてだけ存在する。この物語はトトロという存在を中心としながらも、彼自身はほとんど何もしない。ただ楽しい思い出としてだけ存在する。それでキチンと起伏を作っているのはさすがに宮崎駿と言うべきか。
 実写では極めて難しい素材を、アニメ特有の表現で、しかも実写に即して描く。これがこの作品の最大ポイント。そしてこれまで現実に即さないもの、あるいは現実の代用品としてしか見られなかったアニメーションが、この作品において、「現実を越えるもの」として認識されるようになったのである。この認識を浸透させることによって、アニメはれっきとした映画のジャンルとして考えられるようになったのだから、ある意味これは歴史的な作品と言っても良い。
 アニメというのはもっと自由度が高くても良いのではないか?と言う思いによって宮崎駿氏は次々に劇場用アニメを投入して行く。それはある意味成功したが、いつしかそれは宮崎アニメという一ジャンルへと変化していった。彼の名前そのものがジャンルになってしまったと言う弊害をももたらしているのは確かな話だが…
 ところでこの作品を私は“容易に同化できる”と書いたが、実はこれは私にもあった。私の故郷はかなりの田舎にあり、父と母が共働きだった。それで急に雨が降ったときなど、弟の手を引いて真っ暗い中を駅まで傘を持っていったものだが、あの時の雨に濡れた道は子供心にも凄く怖かった。その辺の記憶が一気にフラッシュ・バックしてしまい、思わず懐かしさに泣きそうになった程。いやあ、不覚不覚
 今や宮崎アニメの代名詞ともなった本作だったが、これが劇場アニメとなるまでには相当の苦労があったそうである。なにせ舞台が昭和30年代で、活劇がないと言うことで、製作元の徳間は渋り、最初はビデオ作品となっていたはずだが、ここに新潮社が野坂昭如原作の『火垂るの墓』(1988)を映画化すると言うことで、製作費が折り合い、更に渋る東宝に対し、徳間側は「これを上映してくれなかったら『敦煌』を配給させない」と脅して劇場公開にこぎつけられたという面白い事実があったりする。結局この二つの映画は二つあって初めて映画化が出来た作品と言えるが、二つ合わせてしまったため製作費がかかりすぎ、結局当時では赤字になってしまった(後のビデオセールスは超ロングランを果たしているので、充分ペイ出来てるはずだが)。又、そもそも『天空の城ラピュタ』のために作られたアニメ・ユニット“スタジオ・ジブリ”がそのまま実質的な会社となるに到った。本作の成功が無ければ、現代のアニメは随分様変わりしていたことだろう。
製作年 1988
製作会社
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原作
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allcinema Walker 検索 IMDb CinemaScape
WikipediaJ キネ旬 eiga.com WikipediaE みんシネ
天空の城ラピュタ
1986キネマ旬報日本映画第8位
1986毎日映画コンクール大藤信郎賞
1986ヨコハマ映画祭第8位
<A> <楽>
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宮崎駿(脚)
田中真弓
横沢啓子
初井言榮
寺田農
常田富士男
永井一郎
糸博
鷲尾真知子
神山卓三
安原義人
亀山助清
槐柳二
TARAKO
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 飛行船に囚われの身の少女シータ。飛行船が空賊に襲われた混乱に窓から飛び出すが、足場を失ってしまって空高くから落下してしまった。だが、その時シータの胸に付けられたペンダントが青い光を発し、シータの体はゆっくりゆっくりと舞い降りていく。丁度そのシータのことを発見したのは鉱山町に働く見習い機械工のパズーだった…二人の少年少女が体験する冒険活劇を描くスペクタクル巨編アニメ。
 宮崎駿監督が『風の谷のナウシカ』(1984)に続いて投入したアニメ巨編で、実質的に本作がスタジオジブリの第一回作となる。興行成績的には失敗したとも言われるが、これも日本のアニメ史における重要な作品であろう。
 本作にはちょっとした思い出がある。本当なら私は本作を劇場で観るはずではなかったのだ。丁度その日、友達と街で遊ぶ約束をしていて、待ち合わせ場所に行ったところ、その友達がなかなかやってこなかった。30分ほど待っても来ないものだから、自宅に電話を入れたところ、誰も出てこない。結局1時間半ほども待っていただろうか…それですっぽかされたことを知った
 結局それで友人と一緒に観るはずの映画を一人で観ることになったのだが、最初の予定じゃない所に行ってしまったのが私らしいところかも?観るべき作品は何だったのか、今ではもう思い出せないけど、実はこれが私の初めての失恋経験だったりする。確かにつきあってたわけでなく、ただ一緒に映画を観に行こうってだけだったはずだけど、でもなあ。ここまで見事にすっぽかされた上、「忘れてた」の一言で済ませられてしまうとなあ(その当時は当然携帯はありません)
 …とにかく、なんか気分的にささくれていた事もあってか、実は初見での感想は「なんだ。こんなものか」で終わってしまった。当時押井守から不条理劇にはまっていた人間からすると、ここまでストレートな冒険活劇を持ってこられても、感動するとまではいかないのも道理。それにTVシリーズの「未来少年コナン」に子供の頃にはまっていたので、「なんだ焼き直しかよ」という程度の認識でしかなかった。今から思うと、流石にひねた高校生だったが、やっぱり嫌な思い出のある時に映画観に行くものではない。と、この時に学んだ…今は嫌なことを忘れるために映画に行くので、全く逆になってるけど。
 その後、テレビで放映された時に観直したら、今度は素直に面白いと思った。良いじゃないかストレートで。直球勝負こそが宮崎駿らしさだし、個々の演出は最高レベル。セル画でここまで見せる演出力は流石としか言いようがない。
 それに観直して分かったのは、ムスカの存在感の強さだった。
 劇場で観た時、冒頭に出てきたインテリタイプの人間を観て、これは誰か濃い目の悪人に使われる下働きかブレーンだろうと思ってたけど、それが悪の親玉だと知ってちょっと唖然としたもの。あんな薄味(それにちょっと格好良さげな)じゃ悪人っぽくないよなあ。という先入観で観ていたからだろうが、二度目はストーリーが分かっていたからそのつもりで観ると、ムスカの言動はほとんど誇大妄想の世界で、しかも本当に力を手に入れてしまった時のイッちゃった目つきとか、凄いキャラクタだと改めて思った次第。実際直情的に突っ走るパズーや、本物の“囚われの王女様”を地でやってるシータなんかよりも遙かにキャラが立っていたし、こいつコンプレックスの固まりだったんだろうな。とか思うと、近親感さえも湧いてきた。このキャラのお陰で本作を大好きになることが出来たのだから、もの凄いパワーを持ったキャラであったのは間違いないところ。はっきり言って、宮崎駿アニメの中で一番近親感を持ったのはこのキャラであったという…う〜む。やっぱり私も歪んでいるようだ(「未来少年コナン」のダイス船長も好きだけどね)。
 結局この作品を一番楽しむためには、ムスカを見ること。これに限る。

 そうそう。劇場鑑賞で楽しめなかった理由の一つは最後の「バルス」もあった。映画版だと、最後にシータがパズーに飛行石を手渡している時にしっかり「バルス」と言っているのに、呪文は発動せず、二人一緒に言った時に発動してた。何で?とか思ってたから…でも、後でテレビ観たらその部分はしっかりカットされていた。やっぱり矛盾が指摘されたんだろうな。

 ところで本作にはいくつかの裏話がある。
 当初この作品は練り込みが足りないまま、監督の宮崎駿も嫌々ながら作らざるを得なかったのだが『ハウルの動く城』(2004)の時と言い、この監督はこう言うのが多い)、これは『風の谷のナウシカ』の大ヒットで、税金対策に何か金を遣わねばならない。と『柳川堀割物語』に出資した所、今度は大赤字になってしまったため、仕方なくこの企画を受けざるを得なかったと言うこと。更に『風の谷のナウシカ』は多くのスタジオから生え抜きのアニメーターを引き抜いた上、宮崎駿流のシステムを強要したため、アニメ界から白眼視されるようになってしまい、それでも映画を作らねばならないと言うことで、完全管理システムを目指してスタジオ・ジブリが誕生した。ジブリは本来この一作で解散するはずだったが、次回作の『となりのトトロ』(1988)で引っ張ってきたため、実質的に新会社設立となった。
 後、本作にはスポンサーCM用に実写カットとCM専用の歌まで用意されたが(ラピュタジュースなるものが売られていた)、これは公開前に劇場用のカットを使わせない。というジブリの(要するに宮崎監督の)つっぱねによって、苦肉の策で使われたもの。案の定これだけ映画がヒットしたのに肝心のジュースは大コケしてしまったという。(映画始まるけっこう前に売り出したのもまずかったんじゃ無かろうか?)
製作年 1986
製作会社
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原作
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WikipediaJ キネ旬 eiga.com WikipediaE みんシネ
続名探偵ホームズ
<A> <楽>
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★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
製作年 1986
製作会社
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売り上げ
原作
書籍名 <A> <楽>
著者名 (検索) <A> <楽>
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風の谷のナウシカ
1984キネマ旬報日本映画第7位
1984毎日映画コンクール大藤信郎賞
1984
ヨコハマ映画祭第3位
<A> <楽>
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徳間康快
近藤道生
高畑勲(製)
宮崎駿(脚)
島本須美
辻村真人
京田尚子
納谷悟朗
永井一郎
宮内幸平
八奈見乗児
矢田稔
吉田理保子
菅谷政子
貴家堂子
坂本千夏
TARAKO
松田洋治
冨永みーな
寺田誠
坪井章子
榊原良子
家弓家正
水鳥鉄夫
中村武己
太田貴子
島田敏
野村信次
鮎原久子
大塚芳忠
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 巨大産業文明が”火の七日間”と呼ばれる戦争で崩壊してから1000年後。地上は腐海と呼ばれる有毒な瘴気を発する菌類の森に覆われつつあり、人類は追い詰められていた。風の谷の族長の娘であるナウシカは腐海に興味を持ち、そこでの不思議な生物たちと心を通わせることが出来る少女だった。風の谷に侵攻した皇女クシャナ率いる強大な軍事国家・メルキア軍により、無理矢理超兵器“巨神兵”の復活に手を貸すことになるのだった。
 1984年。この年はアニメ映画が最も輝いていた年だった。その中の一般には筆頭と言われているのが本作品(一般でないとするなら、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』があるし、『超時空要塞マクロス』だってある)。宮崎駿監督の渾身を込めた作品で、『カリオストロの城』(1979)以来、アニメをメジャーに押し上げようとしてきた宮崎氏の一つの答えとしての作品でもある。実際に本作が制作されることによって、日本のアニメーションは一歩前進したことから、監督の狙いは従前に果たされたと言えよう。製作初挑戦であった高畑勲は良い意味で初体験を、これまでのアニメ制作に風穴を開ける事に使い、作画に見合った賃金体制や、新人発掘に力を注ぎ、更にこの作品でなしえなかった事をふまえてスタジオジブリの設立へと動いていくことになる(ただ、本作制作の苦労は大変だったらしく、宮崎監督自身、これが終わった時、「もう二度と映画は作らない」と語っていたそうだ)。
 この作品は宮崎氏自らが描く同名漫画の劇場版だが、この劇場化時、漫画の方は未だ途中であった(それどころか、実は1/3程度までしか描かれていない)。そこで原作を思い切り改竄し、不要な部分を切り捨て、更に設定までいくつか変えることによって劇場化にこぎつけている。そこまで原作を切り刻んだら、大概失敗作になるもんだが、さすがに本人。上手くまとめている。ただ、ラストシーンで一旦ナウシカが死んでしまうシーンだけは実は宮崎監督自身のアイディアではなかったとか(監督はあそこでナウシカを殺すことに最後まで抵抗したが、高畑&鈴木敏夫のごり押しでストーリーを変更させたとのこと)。
 確かに原作の持つメッセージ性や深く入り組んだ人間関係などとは較べものにならぬが、話を単純化した分メッセージが明確になり、更に原作半ばの大海嘯が大きくクローズ・アップされていてスペクタクル性が高まっていただけに、かなり良質の作品と言えよう。後に完成した原作の方がさすがに質的にも上とは言え、アニメでここまで描けたと言う点はトピックとも言えよう。そしてここで発掘された感のある久石譲の音楽。よくもここまでの質を作ることが出来たと素直に感心できる。
 物語について言えば色々アラも出てくるし、あれだけ綺麗に作った割りに、よく観ると手を抜いた部分も結構見受けられたりして、いくらでも文句は出るが、その辺は仕方が無かろう(当時はそんなこと思いも寄らなかったんだし)
 元々本作は宮崎駿監督自身が描いた漫画を原作としているが、これは実は最初にアニメーション映画の企画を徳間に提出した際、「原作がないと映画は出来ない」と映画会社の人に言われたため、「それなら原作を作ってやる」と言って書き始めたものだったとか。熱い時代だったんだな。
 ちなみにこの映画、私が中学生の時に劇場で観たのだが、それからが凄かった。あの時は家に帰って来るなり机の前にどかっと座り、大学ノートに思いつくまま感想やら自分の想いやらを書き綴り、結局夜半過ぎまで(時間にして多分6時間を超えたと思う)。思いのまま書き続け、結局大学ノート10数ページに渡る大作の感想文を書き上げてしまった。当時の私にとって本当にこれは感動だったのである(その直後『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)により、こんなものではない衝撃を受けることになるのだが)。今から思うと青臭い、それでも本当に大切な人生の一コマだった。そして多分この作品が私の今を作ってしまったというのも事実。
 話は脱線するようだが、私にはいわゆる「萌え」要素というのが無いらしく、劇中の人間に感情移入したり、アイドルの写真を持って喜んだりする趣味が全然無いのだが、時々危なかった。と言うのが出たりする。アニメだと多分これがやばかった筆頭だろう。ナウシカに?いやいや。違う。私が本当にはまりそうになったのはクシャナの方。劇中、腕を外して、自分の身体のいくつかのパーツは人工のものであることを明かすのだが、その時の台詞は「やがて夫となる男は更におぞましきものを見るだろう」(うろ覚え)。これには参った。そうか、この人、下半身が…その時に、急速にこのキャラクターが気に入ってしまったのだ。『ガンダムV』「か、母さん」に匹敵するマイ・ヒットの台詞だった。
製作年 1984
製作会社
ジャンル
売り上げ
原作
風の谷のナウシカ <A> <楽>
宮崎駿 (検索) <A> <楽>
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名探偵ホームズ
<A> <楽>
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藤岡豊
ルチアーノ・スカッファ(製)
片渕須直(脚)
柴田イ光彦
富田耕生
信沢三恵子
大塚周夫
肝付兼太
二又一成
田中真弓
増岡弘
小宮和枝
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 ヴィクトリア朝の絶頂時代を舞台に、「名探偵ホームズ」のキャラクターを全部犬にしてアニメーション映画として作り上げた作品。で「青い紅玉の巻」「海底の財宝の巻」の二作を放映。
 そもそも本作は大作アニメである『風の谷のナウシカ』(1984)との併映として、息抜きのようにして放映された作品で、実際尺と言い、物語の展開と言い、テレビものを意識したような作りとなっているのが特徴(なんでも元はイタリアのテレビ局の依頼で作ったのだが、製作中断となってしまったとか)。とはいえ、資金は潤沢だったようで、物語に対し、アニメーションの動きなどはかなり緻密且つ大がかり。それなりにアニメに詳しければ、この作品がどれだけ苦労して作り上げたのかが分かろうというものだ。端的に言えば2作目の「海底の財宝」で沈もうとしている軍艦から出てくる水兵達の姿は、コミカルながら、よくここまで動かしたもんだとほとほと感心できる。惜しむらくは本作が何故か私の田舎では『風の谷のナウシカ』は単独放映だったため(他の実写作品と併映だった)、本作はテレビで観たと言うところか?
 イギリスのヴィクトリア朝時代はスチームパンクでよく用いられるため、割とアニメでも題材に取られることが多いが(大友克洋監督の『スチームボーイ STEAM BOY』(2004)も、宮崎監督本人による『ハウルの動く城』(2004)もその時代がモティーフ)、この時代は表舞台は大変明るく、裏舞台は大変陰鬱に描かれるのが普通。ここでは極端に明るい面だけを出しているが、それが軽さに見合っている感じ。
 ところで一つ変なツッコミをさせていただこう。一話目で世界でも稀少の“青いルビー”が物語の主題だったが、実はルビーとサファイアはコランダムという同じ石で出来ている。色が青ければサファイアで、赤ければルビーなのだ。つまり、青いルビーというのは、単なるサファイアだったりする(専門家によれば、ルビーとサファイアの見分け方は相当に細かくなるそうだ)。そもそもこの“紅玉”なるもの、原題ではガーネットだし。
製作年 1984
製作会社
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原作
シャーロック・ホームズ <A> <楽>
コナン・ドイル (検索) <A> <楽>
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未来少年コナン特別篇 巨大機ギガントの復活
<A> <楽>
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本橋浩一
中島順三
遠藤重夫(製)
中野顕彰(脚)
小原乃梨子
信沢三恵子
青木和代
山内雅人
吉田理保子
永井一郎
家弓家正
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
製作年 1984
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原作
残された人びと <A> <楽>
アレグサンダー・ケイ (検索) <A> <楽>
歴史地域
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ルパン三世 カリオストロの城
1979毎日映画コンクール大藤信郎賞
1980ヨコハマ映画祭第10位
<A> <楽>
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藤岡豊
片山哲生(製)
宮崎駿
山崎晴哉(脚)
山田康雄
小林清志
増山江威子
井上真樹夫
納谷悟郎
島本須美
石田太郎
宮内幸平
永井一郎
山岡葉子
常泉忠通
梓欽造
平林尚三
寺島幹夫
野島昭生
鎌田順吉
阪脩
松岡重治
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 『ルパンVSクローン人間』の公開時には既に企画としては上がっていた。元は鈴木清順にレイアウトが頼まれていたが、宮崎監督がやる気を見せたために、そちらの方に依頼される。
 ここで登場するフィアット500はファースト・シリーズで使われていたものだが、実は作監の大塚康夫の愛車。
 ここでの食事シーンは田中敦子が担当。以降業界内では食べ物の出てくるシーンは田中敦子に任せろ。というジンクスまで出来た。
 作業時間はわずか4ヶ月。長編最短制作記録を更新。
 ここでのルパンは全てのシリーズを通して最も老成した存在感を見せる。ルパンの声を当てた山田康雄本人もいつか渋いルパンを演じたかったらしい。ラッシュを観る前と観た後で宮崎監督に対する態度ががらっと変わったという。
 興行成績は振るわず。地方では『Mr.Booギャンブル大将』と併映。
 制作したテレコムはほとんどが素人の集団。宮崎監督に育てられたとも言われる。
 大塚康生はテレビの「ドラえもん」のスタッフに内定していたが、今度こそ思い描くルパンを描けるかもしれない。とテレコムに移籍しての参加となる。
製作年 1979
製作会社
ジャンル
売り上げ
原作
ルパン三世 <A> <楽>
モンキー・パンチ (検索) <A> <楽>
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関連 劇場第2作

 

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書籍
著作・対談 評伝
何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって(1993) <A> <楽>
宮崎駿
黒澤明
シネアスト宮崎駿――奇異なもののポエジー(2020) <A> <楽>
ステファヌ・ルルー
映像作家 宮崎駿:〈視覚的文学〉としてのアニメーション映画(2023) <A> <楽>
米村みゆき
 
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