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2021 | 星の王子ニューヨークへ行く2 監督 | ||||||||
2020 | |||||||||
2019 | ルディ・レイ・ムーア 監督 | ||||||||
2018 | |||||||||
2017 | |||||||||
2016 | ターザン:REBORN 脚本 | ||||||||
2015 |
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2014 | |||||||||
2013 | |||||||||
2012 | |||||||||
2011 | フットルース 夢に向かって 監督・脚本 | ||||||||
2010 | |||||||||
2009 | |||||||||
2008 |
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2007 | |||||||||
2006 | ブラック・スネーク・モーン 監督・脚本 | ||||||||
2005 | ハッスル&フロウ 監督・脚本 | ||||||||
2004 | |||||||||
2003 | |||||||||
2002 | 緊急逃亡 脚本 | ||||||||
2001 | |||||||||
2000 | |||||||||
1999 | |||||||||
1998 | |||||||||
1997 | |||||||||
1996 | |||||||||
1995 | |||||||||
1994 | |||||||||
1993 | |||||||||
1992 | |||||||||
1991 | |||||||||
1990 | |||||||||
1989 | |||||||||
1988 | |||||||||
1987 | |||||||||
1986 | |||||||||
1985 | |||||||||
1984 | |||||||||
1983 | |||||||||
1982 | |||||||||
1981 | |||||||||
1980 | |||||||||
1979 | |||||||||
1978 | |||||||||
1977 | |||||||||
1976 | |||||||||
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1971 | 12'6 ヴァージニア州で誕生 |
星の王子ニューヨークへ行く2 Coming 2 America |
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かつてアメリカで自分で花嫁リサ(ヘドリー)を見つけ、故郷ザムンダへと帰還したアキーム・ジョフィ(マーフィ)。幸せな結婚をして、三人の娘にも恵まれたが、父のザムンダ国王が崩御し、いよいよ国王へと即位することとなった。その際世継ぎを決めねばならなくなったが、聡明な長女ミカ(レイン)は国の掟で王にはなれず、イジー将軍(スナイプス)の息子と結婚して彼を皇太子にしなければならなかった。折角進歩的になりかけた国を将軍に牛耳られるのをなんとか避けようと悩んでいたところ、アキームの親友であり側近でもあるセミ(ホール)から、実はアメリカにはラヴェル(ファウラー)というアキームの息子がいると告げられる。 1988年に公開された『星の王子ニューヨークへ行く』(1988)。当時エディ・マーフィが大ブレイク中ということもあって、日本でも大ヒットを記録していている。私にとってもエディ・マーフィの最初に劇場で観た作品だったと思う。 当時は人種差別に反発するようなところを意識はしていたものの、その辺の意識が低くて本当の楽しさを見いだしていなかった。実際今時分のレビュー読み返して、本当に大切な部分を見てなかったという事実を思い知らされた。 この作品は基本的にコメディなのだが、社会派映画としての側面もある。簡単に言えばそれは人種差別についてのことなのだが、それは単純にアメリカでは黒人が差別を受けているというものに限ったものではない。王族でありエリートでもある黒人の王子がアメリカの黒人社会に入った時に起こるカルチャーショックというかギャップをコメディタッチで描いたもので、人種差別よりもむしろどれだけ近代化しても相変わらず残る様々な社会全体の差別構造について描いたものだ。だから敢えて白人社会を描かず、黒人社会の中で話を完結させることで、アメリカ全体の社会構造を皮肉ったものとなっていた。これほどピンポイントでアメリカを描いた作品は珍しい。 それから33年。まさかの続編となったが、この作品はほぼザムンダ国の中で話が完結しており、全作のようにアメリカの社会を語るものではなくなった。 この作品はアメリカに限ったものではなく、世界を対象にしたものとして作られたのだ。 ここで焦点とされたのは、やはり差別構造で、今度ははっきりと女性差別について描いている。 女性差別については前作でも包括した差別構造の一つとして描かれているが、実際にはこれだけで一本映画を作った方が良いので、この作り方は正しい。 前作から33年。世界はすっかり狭くなり、人権的先進国を自認していたアメリカも後退し、世界中で平等が進んでいる。 だが、世界的な見地でもまだ差別構造は残っている。本作では、どれだけ聡明で資格的には申し分なくても女性は王になれないことでそれを表している。これはアメリカの小国が遅れていると見るのではない。これが世界の実情である事を主張している。 それにこれが製作されていた時期はアメリカではマッチョイズムが社会を席巻しており、性差別は逆に後退していたという事実も前提となっているのだろう。世界はまだまだ変わらなければならないことを語っている。 社会問題として捉えるならば、本作はとても興味深いものになる。 ただ、それがコメディ部分と上手く結びついていたかというと、まだまだ練りが足りなかった。もっと面白く出来たんじゃないかと思うと、そこがちょっと残念。 それは多分アキームの息子として登場したラヴェルが目立ちすぎで、彼が話の中心になりすぎたのが問題だったかな?本来ここはラヴェルではなくアキームの娘のミカをもっと中心になるべきだったかな。そっちの方が個性出せたと思う。 |
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ブラック・スネーク・モーン 2006 | |||||||||||||||||||||||||||
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メンフィス。妻に去られてしまい、絶望を感じている農夫ラザラス(ジャクソン)は、ある日半裸状態で道端で意識を失っていた若い女を発見し、家につれて介抱する。その女性はレイ(リッチ)と言い、裏町ではセックス中度で有名な女性だった。実は恋人のロニー(ティンバーレイク)が出征してしまい、その寂しさをセックスで紛らわそうとしたのだが、あまりの彼女の求めの激しさに辟易した男によって車から放り出されたのだ。それを知らされたラザラスは鎖を持ち出し、気絶している彼女の腰に巻いていく… ジャクソン、リッチという、個性派俳優の共演によってなされる心理劇ドラマ。 …とりあえず“個性派”と書いたけど、この二人ほど観る前から何をするかが分かっている人選もない。 まずジャクソンはハリウッドで一番“説教”が求められる役者。この人は一応アクションスターなのだが、むしろ一方的に長々説教するシーンの方が印象に残ると言う面白い人物。 一方のリッチは、一言で言えば“汚れ役”。女性としてこの役はきついだろう?と思われる役を好んで演じる女優で、顔なんか見るとまだ十代じゃない?と言うあどけない表情してるのに、演ってる役はことごとくえげつない描写のものばかり。ある意味でものすごく貴重な女優でもある。 と言うことで、“説教好き”と“汚れ役”と言う二人が共演となれば、出来る作品はおのずから決まってしまう。それで本当に期待を裏切らない予想通りの作品が出来てしまう辺り流石で、これほど期待を裏切らない作品というのも珍しいくらいだ。 ただ、予想通りであるとしても、物語自体はうまく出来ている。老人が若い女性を鎖で縛って“飼う”という変態的な設定にもかかわらず、内容は硬質で、一見互いを傷つけあってながら、その実二人が互いに依存する関係を経て二人ともが自立するまでをきちんと描いている辺り、巧みさを感じる。 これを可能にしたのは、二人の立ち位置をしっかり取っているからだろう。ジャクソン演じるラザラスは決して立派な人間ではない。ジャズプレイヤーであった過去の栄光にしがみつき、更に妻に去られた自分の不甲斐なさを悔いていながら、それでも説教せずにはいられない。どっちかというと、誰でもいいから自分の話を聞いてほしいと言う思いが強く、だからこそレイを縛った。ラザラスを老人にしたのは、そこに性的なものを介在させないためだし、行為ではなく言葉で関係を築く立場に置いて、一方的に語らせる。微妙な位置関係だからこそ、ラザラスが求めているものが見えてくる。一方的にしゃべらせるのも、レイに聞かせるよりも、独白を続けることで自分自身を見つめるためだった。一方リッチ演じるレイはまったく逆。セックス依存症という彼女の立ち位置は、言葉を必要とせず、ほしいのは肉の触れ合いだけ。そんな彼女が最も必要としたのはセックスを介在させずに、人の生の言葉を聞くことだった。それによって、自分だけじゃなく、他人も寂しさを抱え、それを癒したがっていることに気づいていく。この噛み合いがあったため、暴力的な言葉のやりとりが徐々に変化していく様子が見られるようになるのだ。 “こう作るしかない”物語が、“こう作る必然性があった”物語へと転換していく過程をたっぷり楽しませてもらった。上手く出来た物語だ。 |
ハッスル&フロウ 2005 | |||||||||||||||||||||||||||
2005米アカデミー歌曲賞、主演男優賞(ハワード) 2005ゴールデン・グローブ男優賞(ハワード) 2005インディペンデント・スピリット主演男優賞(ハワード) 2005放送映画批評家協会歌曲賞、主演賞(ハワード) 2006MTVムービー・アワード演技賞(ハワード)、キス・シーン賞(ヘンソン&ハワード)、ブレイクスルー演技賞(ヘンソン) |
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