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2009 | ||
2008 | 脳内ニューヨーク 監督・製作・脚本 | |
2007 | ||
2006 | ||
2005 | ||
2004 | エターナル・サンシャイン 脚本・原案・製作総指揮 | |
2003 | ||
2002 | アダプテーション 製作総指揮・脚本 | |
コンフェッション 脚本 | ||
2001 | ヒューマンネイチュア 製作・脚本 | |
2000 | ||
1999 | マルコヴィッチの穴 製作総指揮・脚本 | |
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | ||
1969 | ||
1968 | ||
1967 | ||
1966 | ||
1965 | ||
1964 | ||
1963 | ||
1962 | ||
1961 | ||
1960 | ||
1959 | ||
1958 | 11'19 ニューヨークで誕生 |
脳内ニューヨーク 2008 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
2008カンヌ国際映画祭パルム・ドール 2008LA批評家協会美術賞 2008インディペンデント・スピリット新人作品賞、ロバート・アルトマン賞、脚本賞(カウフマン) |
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妻アデル(キーナー)と娘オリーヴ(ワイガード)とニューヨーク出三人暮らしをしている劇作家ケイデン・コタード(ホフマン)。彼の手掛ける舞台劇も好評で、順風満帆に思われたが、ある日突然アデルはオリーヴを連れてベルリンへと去ってしまう。愛娘を失い、意気消沈するケイデンは、さまざまな女性たちと関係を持ちつつ、かねてより考えていた突拍子もない舞台を作ろうと思い立つ。それは自分の頭の中にある"もうひとつのニューヨーク"を作り上げる、という突拍子もないものだった… これまで不思議な映画を作り続け、珍しく脚本家の名前で知られる映画作りをしてきたカウフマンが、ついに自ら映画監督に乗り出した野心作。 これまでのカウフマン作品を観てきて、なんだか訳がわからないながら、妙に心惹かれるものがあったので、本作も観に行ったわけだが… かねてから、「この人の頭の中どうなってるんだ?」と、カウフマンの脚本作品を観ながら思っていて、「一度本気に頭の中をぶちまけてほしい」とも思っていたわけだが、どうやらそれは私の認識が間違っていたらしい。カウフマンの脳は私の理解のはるか遠くに到達していたらしい。理解しようと思った私が馬鹿だ。 はっきり言ってしまえば「訳分かんね」としか言いようがない。 主人公ケイデンは劇作家で、「自分の脳内の現実」というものを舞台にしようと努力し続ける。その結果、脳内の自分と周囲の人々を作り出し、彼らにまさしく自分を演じさせることを目的としている。結果として自分の弱さを人前に出し、さらに自分が受けた最も屈辱的な出来事まで舞台劇のスパイスとして用い、やがて二つの世界が舞台の中と外でぶつかり合う… ああ、駄目だ。なんかこのメタな世界に浸っていること自体が、もの凄く快感に覚えてしまう。はっきり言って本作を理解しようとは思わないし、それで良いと思う。ただ、この快感に浸りきってしまいたい。なんか初見で『紅い眼鏡』(1987)観たときのことを思いだした。 それに、訳の分からないことをはっきり「分からない」と言い切ってしまって済ませられるのも又快感だし、それはそれで充分。 …充分なのだが、これでレビュー終えるのは癪なので、とりあえず本作をこれまでのカウフマン作品との関連で考えてみようか。 これまでカウフマンは『マルコビッチの穴』、『ヒューマンネイチュア』、『コンフェッション』、『アダプテーション』、『エターナル・サンシャイン』の脚本を担当してるが、彼の脚本作品には多くの共通点がある。 全般的に言って、彼の描く作品は極めて強い男視点で描かれてると言う事。男は即物的であり、見たものをそのままの形で理解しようとする。内面よりも外見の方を重要視する。 そんな男が女性を観た場合、それはミステリアスそのものとして描かれる事になる。自分なりの理屈で男は女を愛するが、いくら愛を注ごうとも、女は不意に男の前から姿を消し、時に不意に戻ってきたりもする。男視点で描く女性というのは常にミステリアスな存在なのだ。そう言う意味で女性の感情というものをほとんど描こうとしない脚本だとは言えるんじゃないかと思う。女性の心理を描く場合でも、内面は描かない。男と同じく即物的な面だけを強調して描く。 こんな一面的な描き方をするのは最近の作家ではかなり珍しいが、それだけ視点というものを一つに固定しようという監督の姿勢が見られるだろう。でも、視点を固定するだけで、男と女の関係があたかもSFのようになってしまうってのは、面白い発見。 それと、本作でも「脳内」という邦題タイトルが付いてるだけあって(原題の「Synecdoche」というのは修辞学用語で、比喩表現の一つだそうだが、よく分からない)、脳をいじる描写は好きっぽい。『マルコビッチの穴』はマルコビッチの脳に入る話だし、『エターナル・サンシャイン』では、脳の記憶操作をやってる。脳が持つ記憶や、実際その目で見ているものはフィルタをかけられ、どこかに嘘がある。と言う前提に立ち、自分の脳の限界を超えたところに見つかる真実とは?と言った具合に話を持っていくことが多い。 このようなことが複合的に重なり合うことによって、カウフマン独自の世界観が構成されていくのだろう。 本作はその集大成と言っても良い。浸りきることが出来る人は快感。出来ない人は苦痛を覚える作品とは言っておく。 |