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2002 | 12'27 死去 | |
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ファニー・ファーム/勝手にユートピア 監督 | |
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | リトル・ドラマー・ガール 監督 | |
1983 | ||
1982 | ガープの世界 監督・製作 | |
1981 | ||
1980 | ||
1979 | リトル・ロマンス 監督 | |
1978 | ||
1977 | スラップ・ショット 監督 | |
1976 | ||
1975 | 華麗なるヒコーキ野郎 監督・製作・原案 | |
1974 | ||
1973 | スティング 監督 | |
1972 | スローターハウス5 監督 | |
1971 | ||
1970 | ||
1969 | 明日に向って撃て! 監督 | |
1968 | ||
1967 | ||
1966 | モダン・ミリー 監督 | |
1965 | ハワイ 監督 | |
1964 | マリアンの友だち 監督 | |
1963 | 欲望の家 監督 | |
1962 | ||
1961 | ||
1960 | ||
1959 | ||
1958 | ||
1957 | ||
1956 | ||
1955 | ||
1954 | ||
1953 | ||
1952 | ||
1951 | ||
1950 | ||
1949 | ||
1948 | ||
1947 | ||
1946 | ||
1945 | ||
1944 | ||
1943 | ||
1942 | ||
1941 | ||
1940 | ||
1939 | ||
1938 | ||
1937 | ||
1936 | ||
1935 | ||
1934 | ||
1933 | ||
1932 | ||
1931 | ||
1930 | ||
1929 | ||
1928 | ||
1927 | ||
1926 | ||
1925 | ||
1924 | ||
1923 | ||
1922 | 12'20 ミネソタ州ミネアポリスで誕生 |
ガープの世界 1982 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
1982米アカデミー助演男優賞(リスゴー)、助演女優賞(クローズ) 1982NY批評家協会助演男優賞(リスゴー) 1982LA批評家協会助演男優賞(リスゴー)、助演女優賞(クローズ) |
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看護婦のジェニー・フィールズ(クロース)は戦死した兵士の精液を使い、一人の赤ん坊を作った。ガープ(ウィリアムズ)と名付けられたその少年はすくすくと成長し、母の勤める男子校へと入学し、そこで一目惚れしたレスリング・コーチの娘へレン・ホルム(ハート)のために小説を書こうと試みる。そんな彼の姿に、自分もドキュメンタリー作品を描いてみたジェニーの「性の容疑者」は爆発的な売れ行きを見せ、ジェニーは女性解放運動の闘士と見られるようになる。やがてデビューしたガープの小説も食べるには困らない程度のヒットをし、ガープは無事ヘレンと結婚し、ダンカンとウォルトの2人の息子が生まれるのだった。 現代アメリカ文学を代表する作家ジョン・アーヴィングの出世作の映画化作。 この作品の原作は結構前に読んでいて、その映画化作があるとは知っていて、それがロイ・ヒル作品であることも知っていたが、実は少々怖くて観る機会を作るのが遅れてしまった。理由は、この小説が映画向きの作品には思えなかったことから。 この作品は文学者としてのアーヴィングの特性を見事に表していて、非常に物語自体がすっきりし過ぎている。悪く言えば、起伏が少なすぎる。 構成として、一人の男の一生を描くのに、短編をいくつも重ねるという形式となっている。一つ一つの物語に盛り上がりはあるし、きちんとまとまっているのだが、それが全体的にまとまってみると、とてもあっさりしたものになってしまう。 これがテレビ作品だったら映像化に問題はない。一つ一つのエピソードを一話にすればいいだけ。しかしこれが映画になると、途端に難しくなってしまう。2時間の中にちゃんと一つの物語として収めねばならないというのは、結構大変な素材でもある。 こういう場合、映画にするにはいくつかの方法がある。 一つには、エピソードのいくつかを再解釈して拡大させ、他のエピソードを切り捨てる方法。この場合、最初からこの作品を映画にするのは無理と判断してしまうことになる。何本かの続編を作って、ようやく一本の作品になる。 もう一つ、そしてこのパターンが大半だが、最初から映画向きに脚本を作ってしまう方法がある。これだとすっきり一本の映画に収まる。ただ、この方法だと原作の持つ雰囲気をぶち壊してしまう事にもなってしまう。特に雰囲気が重要な文学作品に対しては、これは致命的な事態に陥る。 それでロイ・ヒル監督が採った方法は、そのどちらでもなかったところがおもしろい。 この作品を作る際、監督の採った方法とは、原作通り、ミニストーリーの連続にしてしまったということ。この場合、本当に原作そのままに作られるという事で、原作のファンにとっては理想的な形の映画化となる。しかしながら、元々映画向きでない物語をそのまま映画にしてしまった訳だから、当然映画としては大変あっさりしたものに仕上がる。 だから、本作を映画として面白くするには、物語以外のところに魅力を付けねばならないのだが、それに監督はキャラクタを用いた。 本作に登場するのはやや濃い目のキャラが多い。一番は母親役のクローズで、この人の演技は控えめなのに、烈女といった感じの女性を見事に演じきっていたし、本作が実質デビュー作となるウィリアムズも既にこう言った演技方法をものにしてる感あり。この人の場合、ちょっとだけ一般人よりもエキセントリックな人格を演じるのは名人だな。 物語とキャスティングの絶妙な噛み合わせがあってこそ、本作の魅力が引き出されることになる。それを引き出したロイ・ヒル監督の実力も相変わらず流石だ。 |
リトル・ロマンス 1979 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
1979米アカデミー作曲賞、脚色賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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パリでアメリカ映画の撮影が行われ、監督の大ファンの母に連れられてローレン(レイン)もパリへとやってきていた。手持ちぶさたでベルサイユ宮殿を見学しているローレンは、郊外に住む熱烈な映画ファンの少年ダニエル(ベルナール)と知り合う。お互いに哲学と数学に関して天才的な頭脳の持ち主であることを知り、一気に意気投合する。ローレンが帰国するまでと言う限定的な時間に出来るだけ一緒にいようという二人は、ふとしたことで知り合いになった老人ジュリアス(オリヴィエ)から、ベネチアにあるため息の橋の下で日没の瞬間にキスした恋人たちは永遠の愛を手にすることができるというサンセット・キッスの伝説を聞かされる… ヴェネツィアにあるためいき橋の下でキスをすると、決して二人は離れることはない。というサンセット・キスの伝説を世界中に広めたヒット作。ちなみに劇中で明かされるが、これは本当の伝説ではなく、オリヴィエ演じる詐欺師の老人が出任せで言った言葉からだった。この作品観るまで、てっきりその伝説は本物かと思ってたよ。だってテレビドラマとかで嫌と言うほどこれを繰り返してやってたし。『ローマの休日』の真実の口の例もあり、映画が観光に与える役割って凄く高いようだ。 それにしても思春期の少年少女の純粋な恋愛話なんてリリカルな作品を、男臭い作品を得意とするロイ・ヒル監督が作ったと言うのが意外なのだが、かなり上質なコメディに仕上げてくれてる。 ピュアな恋愛物語を語るのは今となってはかなり気恥ずかしいので、本作をちょっと横から観た楽しさをここでは語っていこう。 主人公のダニエルはかなりの映画マニア。とはいえ13歳なので、かなり背伸びした発言が多く、相手が分かろうが何だろうが分からずに、とにかく自分の知識を披露したがる。その中にローレンに向かって自分のことを「ボギー」と名乗り、「ボギーとローレンはいつも一緒なんだ」なんて、なかなか気障ったらしいことを、言ってのけたり(言うまでもないがハンフリー=ボガートとローレン=バコールの、おしどり夫婦のこと)、オープニングカットで観ている映画がロイ・ヒル監督の『明日に向かって撃て!』だったり、映画好きにはニヤニヤできる台詞やカットが出てくる。細かいところだが、コメディとして色々小技が使われているのが心憎い。 後はやっぱりキャラの上手さだろうね。本作がレインのデビュー作なのだが、この年齢でしか出来ない事をしっかりと演技指導されているし、この年齢だからこそ許される背伸びっぷりも良し。ベロナールも上手かったんだが、残念なことに本作しか出演作がないのね。でも本作で一番上手かったのは、言うまでもなくオリヴィエ。初老の小悪党という、おおよそ彼のキャリアでは考えられない役なのだが、良い具合に脂が抜け、良いはまり役を演じてくれてる。この人も役者として良い歳の取り方をしたんだね。 物語の気恥ずかしささえ無ければ、もっと点数は上げても良いんだけど。私にはかなり物語を追うにキツイ作品でもあった。 |
スラップ・ショット | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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華麗なるヒコーキ野郎 1975 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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スティング 1973 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1973米アカデミー作品賞、監督省(ロイ=ヒル)、脚本賞、ミュージカル映画音楽賞、美術監督・装置賞、音響賞、主演男優賞(レッドフォード)、撮影賞、衣装デザイン賞、編集賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1930年代禁酒法時代のシカゴ。駆けだしの詐欺師ジョニー・フッカー(レッドフォード)はイカサマがばれて相棒をマフィアのボスに殺されてしまう。ジョニーは死んだ相棒の友人で腕利きの詐欺師ヘンリー=ゴンドルフ(ニューマン)に助太刀を願う。最初危険な賭を恐れ、引退したことを理由に協力を拒むヘンリーだったが、やがてジョニーの熱意に動かされ一世一代の大博打を打つ決心をするのだった。 “知力を尽くして欺く”という意味の『スティング』を関した作品で、1974年全米興行成績、堂々の1位(本作に合わせ、リバイバル上映された『明日に向かって撃て!』(1969)が10位になっている)。この年のオスカーは『エクソシスト』と本作の一騎打ちだったが、見事に本作がオスカーを飾る。 これぞ映画の醍醐味!まるで魔法にかかっているかのような時間を映画館で過ごし、後を引く驚きと心地よい疲れと、物語を反芻しながら帰途につく。これだけ観て幸せだと思えた映画はあまり多くない。何よりこれをリバイバルで劇場で観られたのは幸運だった。 これは非常に質の高い作品。ストーリーは意外性に富み、正直驚かされたし、何より音楽が良い。一度聞いたら忘れられない軽快なあの音楽は映画史上屈指の素晴らしさ。その音楽に合わせるようにテンポ良く、軽快な画面運び、そしてレッドフォード&ニューマンの溌剌さが何とも良い余韻を残してくれる。監督のヒルを含め、同じくトリオを組んだ『明日に向かって撃て!』とは異質な軽さを魅せてくれた。とにかく二人が楽しそうに演技してるのが心に残る。 物語は完全に観客を巻き込むことを目的として作られたとしか思えない。ノミ屋全部がたった一人を標的としたサクラと言う大がかりな詐欺というのも凄いが、それを超えるオチを用意してくれていた!あれには暫し唖然。騙されて心地よい映画だ。 声を大にして言いたい。「これは詐欺師の映画だ」いろんな意味で。 たった一つ。この映画で失敗したな!と言うのがある。これは私の問題なのだが、『紳士同盟』(1986)をテレビで先に見てしまったこと。本当に後悔した。 本作の特徴として、1930年代を意識したクラシカルな作りも挙げられるだろう。舞台そのものよりも、章立てて、一々幕間に本の扉のようなタイトルを挿入したり、音楽もジャズピアノをベースにしたりと、色々な所でのこだわりを感じさせてくれる。 尚、本作は映画史に残る名プロデューサー、ダリル・F・ザナックの息子、リチャード・ザナックにより製作されるが、彼の手がけた本作と『ジョーズ』(1975)の2作品により、父の全生涯に製作した全作品を超える収益を得たという。当初監督は本作の脚本を書いたデヴィッド=ワード(当時若干27歳!)の予定だったが、レッドフォードがワードに監督経験がないために難色を示し、たまたま次作の『華麗なるヒコーキ野郎』の監督に決まっていたヒルに話を持って行った所、快くOKしてくれたのだとか。結果として『明日に向かって撃て!』(1969)のトリオ復活となった。 |
スローターハウス5 1972 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1972カンヌ国際映画祭審査員賞、パルム・ドール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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カート=ヴォネガットのSF小説の映画化。過去・現在・未来を複雑に行き来する作品をユーモアを交えて描く |
明日に向って撃て! 1969 | |||||||||||||||||||||||||||
1969米アカデミー脚本賞(ウィリアム=ゴールドマン)、撮影賞、作曲賞、歌曲賞、作品賞、監督賞、音響賞 1969ゴールデン・グローブ音楽賞 1970英アカデミー作品賞、主演男優賞(レッドフォード)、主演女優賞(ロス)、監督賞、脚本賞、作曲賞、撮影賞、編集賞、音響賞 1970キネマ旬報外国映画第4位 |
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19世紀末の西部史に名高い、二人組の強盗ブッチとサンダンスの逃避行を、哀愁とユーモアをこめて描く。列車強盗としてならしたブッチ・キャンディ(ニューマン)とサンダンス・キッド(レッドフォード)。しかし、近代化に向かう時代に、彼らの生き方はあまりにも旧弊だった。新たな夢を求めて、二人はキッドの恋人エッタ(ロス)を連れて南米ボリビアへと旅立つのだが… 一連のアメリカン・ニューシネマの中から生まれた傑作の一つで、実在した銀行銀行コンビを元に(実在はしたが、どこで死んだのかは未だ持って不明。よってこれは完全な創作であることを付け加えておく)これまでの家長制度の「かくあるべし」という西部劇のヒーロー像を覆した作品として有名な作品で、あくまで逃げ回る男達を肯定的に捕らえた作品。これが時代にあったらしく、1969年の全米興行成績では4位を記録する(ちなみに『スティング』(1973)公開に合わせ、本作もリバイバル上映した所、又しても大ヒット。1974年全米興行成績で10位を記録している)。 これを観たのは大学生の時。実は『スティング』の後で観たのだが、『スティング』とはまるで違う魅力に魅了された。 当時、私はレッドフォードのギラギラした魅力に惹かれていた。実は当時私は本当に内面的に荒れていた。そんな時に見たサンダンス=キッドの姿。拳銃使いが巧いと言う以外、自分が何者かさえも分からず、ただ苛ついているその姿。彼を満足させることは何もなく、ただ荒れる。その気持ちが自分だけが分かるような気がして、そう言う生き方をしたいと思った。いや、正確に言おう。ああ言う死に方をしたかった。ラストシーンに至るまでの彼の一貫した苛つき加減。そして充実しきって死に場所を見つけたあの美しさ。本当に惹かれた。 しかし、このレビューを書く際、当時の気持ちを思い出していたら、以前程レッドフォードが美しいと思えなかった。これは何も彼の輝きが減じたわけではない。それ以上の魅力を見つけただけの話。 実は今、これを思い返すと、むしろニューマンの巧さの方に惹かれている自分がいる。 この作品は友情の話だ。中にキッドとエッタの愛情めいた話も入れるが、あくまで主題はキャンディとキッドの友情が主軸となっている。男二人と女一人の組み合わせは意外に映画には多いし、良作も多い。これは多分、男の一人が完全に引いた所に身を置いているからだろう。ただこの構成だと、恋愛の当人よりむしろ、もう一人の方が実は巧さを要する。単純に作ってしまうと三枚目になってしまうのだが、三枚目になりつつも、それを感じさせない、あるいは越えた役割を担うのは極めて難しい(『雨に唄えば』(1952)が名作とされるのは何もジーン・ケリーだけじゃない。脇のシド=チャリシーあってのことだ)役者だけではなく監督の力量も必要とされる。 それでキャンディ役のニューマンだが、彼はキッドの身勝手さ、苛つきを全て鷹揚に受け止め、そしてなにかれとなく彼のために行動する。利害関係を超え、キッドという漢に惚れたサンダンスの姿こそ、本当の大人の姿だった。かれはこれまで培ってきたタフガイぶりをここでは完全に捨て去り、直球ではない悪知恵ぶりを示してる(プロデューサーでもあるニューマンは本来ブッチ役を自分が演じ、キャンディ役にはマーロン=ブランドを据えるつもりだったらしいが)。これまでハリウッドの暴れ者呼ばれたニューマンも、大人になったんだな。 勿論これはキッドの暴走を抑えるのではなく、容認してしまう事になってしまった。だから最後は一緒にああやって死んでいくしかなかったのだろう。 当時身勝手なだけで、自分以外の何物も信じられず、更には自分さえ信じられない私は、レッドフォード演ずるキッドに惹かれた。だが様々な場所で人間関係を経た(そして現在継続中の)今、他者を愛することが、同時に自分を愛することにもなったニューマンのサンダンスこそ、本当に羨ましいと思う。 これを私が“成熟”というのか、それとも単純に“歳食った”と言うのかは判断できないが(恐らく後者だろう)、こういう風に思えるようになった自分は確かに変わったと思える。ああ言う人間になりたいと、今では本当にそう思う。 多分これはニューマンにとっても同じだろうという気もする。これまで役に自分を合わせる方法を取っていたニューマンがこの作品でようやく吹っ切れ、役の方を自分の役に合わせるようになってきた感じがする。だからこそここではのびのびと演じている。 オープニングから名シーンの連続で、最初のざらついたモノクロ画面から導入される所と言い、ニューマンとロスが自転車に乗って歌う「雨に濡れても」(歌はB=J=トーマス)のシーンも良い!ラスト、絶望的な戦いに出てストップがかかるシーンには涙さえ誘う。無茶苦茶格好良かった。 尚、本作のカメラマンであるコンラッド=ホールはエッタ役のキャサリン=ロスの当時の実生活での恋人。そしてレッドフォードは本作のギャラを元にして作り上げた自らの映画振興機関をサンダンス・インスティテュートと名付けるに到る。 |
モダン・ミリー 1966 | |||||||||||||||||||||||||||
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1920年代。モダンガールとして生きようと意気揚々として田舎から大都会のNYにやって来たミリー(アンドリュース)は、その物怖じしない性格のお陰で同じホテルに宿泊中の富豪の娘ドロシー(ムーア)とも親友になる。その後仕事も見つかったミリーとドロシーはよく二人連れだって出かけるようになるが、パーティーで知り合った青年ジミー(フォックス)やミリーの上司トレヴォー(ギャビン)に二人揃って惚れてみたりする。そんな時、ホテルの周囲で謎の誘拐事件が相次いており、ドロシーまでがさらわれてしまうのだった アンドリュースを中心に持ってきた陽気なミステリー仕立てのミュージカルで、話は無茶苦茶ながら、とにかく明るく、アンドリュースのキャラ性もあって楽しい作品に仕上がった。アンドリュースは確かに売りだったかもしれないが、他のキャラもみんなきちんと見せ場が作られていて、それぞれのキャラが見事に立っている。特にフォックスの女装姿はかなり笑える。あれを本当に女性だと思ってしまうあたり、誘拐団の目も凄いが。そうそう、誘拐団と言えばパット・モリタが、ドジな東洋人を演じていて、「おお!若い!」と感慨深く思わせてもくれる。 演出上の遊び心も多く、『アニー・ホール』(1977)に先行して心情を字幕で映してみたり、映画ならではの演出もふんだんに用いられていて、実験性も満点。実に楽しい。 ただ大変面白い一方、突出したキャラと演出に物語が追いついていなかったのは問題か?ソープ・オペラ風に作ったのは正しいと思うのだが、個々のキャラが、何故この考えに至ったのか。という部分がすっぱりと抜けてしまっているので、物語展開の必然性が極めて薄いのだ。かといってスラップスティックとしても思い切りが足りず。物語と設定が足を引っ張ってしまった感じで、その辺がとても残念。そこが上手くスリ合わさっていたら紛れもない傑作になった作品なんだが。この辺はやっぱり実験的作品として見てみるのが正しいのかな? ところでこの時代、というか、この年はミュージカルの復活が叫ばれていて、このあたりからやたらとミュージカルが作られていたが、ことごとくそれらは失敗。ニューシネマ流行りの中で復古主義は、やっぱり無理があったのではなかったのだろうか?本作も素直に作っていればかなり面白くなったのに、どこかでニューシネマへの色気が感じられてしまうのだよな。それがちぐはぐさの理由なのかもしれない。 結果、ミュージカル不調のこの年にあって健闘はしたが、アンドリュース主演のなかでは低調で、一桁違う興行成績になってしまった。傑作になり得た作品だけに、作られた時代が悪かったのが勿体ない。 |
ハワイ Hawaii |
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