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第一次世界大戦時は外人部隊で活躍。その経験が初アカデミー賞受賞作つばさに活かされる。第二次世界大戦中にも精力的に作品を作り続け、多くのスターを輩出させる。ただし、完璧主義のため、パラマウントとはそりが合わず、何度か馘首されそうになったという逸話も残る。 | ||||||||||
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1975 | 12'9 死去 | |
1958 | 壮烈!外人部隊 監督・製作・脚本・出演 | |
特攻決死隊 監督 | ||
1956 | Good-bye, My Lady 監督 | |
1955 | 中共脱出 監督 | |
1954 | 血ぬられし爪あと/影なき殺人ピューマ 監督 | |
Light's Diamond Jubilee 監督 | ||
紅の翼 監督 | ||
恐怖のサーカス 監督(ノンクレジット) | ||
スタア誕生 原作 | ||
1953 | 男の叫び 監督 | |
1952 | My Man and I 監督 | |
1951 | 女群西部へ! 監督 | |
ミズーリ横断 監督 | ||
It's a Big Country 監督 | ||
1950 | The Happy Years 監督 | |
The Next Voice You Hear... 監督 | ||
1949 | 戦場 監督 | |
1948 | 廃墟の群盗 監督 | |
鉄のカーテン 監督 | ||
1947 | 魔法の町 監督・製作・脚本 | |
1946 | Gallant Journey 監督・脚本 | |
1945 | G・I・ジョウ 監督 | |
This Man's Navy 監督 | ||
1944 | 西部の王者 監督 | |
1943 | 牛泥棒 監督 | |
Lady of Burlesque 監督 | ||
1942 | Thunder Birds 監督 | |
The Great Man's Lady 監督・製作 | ||
Roxie Hart 監督 | ||
1941 | Reaching for the Sun 監督・製作 | |
1940 | ||
1939 | 消えゆく灯 監督・製作 | |
ボー・ジェスト 監督・製作 | ||
1938 | 翼の人々 監督・製作 | |
トム・ソーヤ 監督(ノンクレジット) | ||
1937 | 無責任時代 監督 | |
スタア誕生 監督・脚本 | ||
最後のギャング 原案・脚本 | ||
1936 | ターザンの逆襲 監督(ノンクレジット) | |
ロビン・フッドの復讐 監督・脚本 | ||
小都会の女 監督 | ||
1935 | 野性の叫び 監督 | |
支那海 助監督 | ||
1934 | 泰西侠盗伝 監督 | |
The President Vanishes 監督 | ||
Stingaree 監督 | ||
奇傑パンチョ 共同監督(ノンクレジット) | ||
電話新撰組 監督 | ||
1933 | Female 監督 | |
フリスコ・ジェニー 監督 | ||
College Coach 監督 | ||
家なき少年群 監督 | ||
真夜中の処女 監督 | ||
飢ゆるアメリカ 監督 | ||
Lilly Turner 監督 | ||
つばさの天使 監督 | ||
1932 | Frisco Jenny 監督・出演 | |
立ち上がる米国 監督 | ||
The Purchase Price 監督 | ||
Love Is a Racket 監督 | ||
母 監督 | ||
天晴れウォング 監督 | ||
1931 | Safe in Hell 監督 | |
The Star Witness 監督・出演 | ||
都会の世紀末 監督 | ||
夜の看護婦 監督 | ||
民衆の敵 監督 | ||
1930 | Maybe It's Love 監督 | |
危険なる楽園 監督 | ||
若き翼 監督 | ||
1929 | 君恋し 監督 | |
支那の夜 監督 | ||
女性の罠 監督 | ||
1928 | 人生の乞食 監督 | |
暗黒街の女 監督・製作 | ||
空行かば 監督・製作 | ||
1927 | つばさ 監督・出演 | |
1926 | 猫の寝間着 監督 | |
女心を誰が知る 監督 | ||
踊る英雄 監督 | ||
1925 | When Husbands Flirt 監督 | |
1924 | 冒険児 監督 | |
曠野の哀歌 監督 | ||
漂泊の兄弟 監督 | ||
1923 | 命を的に 監督 | |
豪傑ダン 監督 | ||
男の中の男 監督 | ||
Cupid's Fireman 監督 | ||
1920 | The Twins of Suffering Creek 監督 | |
1919 | エヴァンジェリン 出演 | |
The Knickerbocker Buckaroo 出演 | ||
1896 | 2'29 マサチューセッツ州で誕生 |
牛泥棒 The Ox-Bow Incident |
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1943アカデミー作品賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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片田舎の西部の町の酒場に牧場主が三人の牛泥棒に殺されたと言う知らせがはいった。早速自警団が組織され、牛泥棒の追跡が開始された。彼らは町はずれで野営していた三人の男(ダナ=アンドリュース、アンソニー=クイン、フランシス=フォード)を発見する。彼らは反抗を否定し、更に自警団のメンバーであるギル=カーター(フォンダ)も理性的に考えるようにと勧めるのだが、怒りに燃える自警団の投票により、賛成21票、反対7票によって彼らを縛り首にすることが決定されてしまった。だが… これまで結構な数の映画を観てきた気がするが、自分にとって良作かどうかというのは、基準がいくつかあるものの、たいていの場合最初から30分ほどで分かるのが多い。中には最初は退屈きわまりないながら、中盤辺りからじわーっと面白くなっていく作品もある。 しかし、何事にも例外はある。終わってしまった後で「なんだ。良い映画じゃないか」と思える作品というのも確かに存在するものだ。狙ってどんでん返しを狙った作品もあるが、観終えた瞬間「これで終わり?」と思って、それでもう一度頭の中で初めから考え直したら、「凄い作品だった」と思えるのもある。これは極めて少ないが、その特殊なパターンの衝撃を与えてくれたのが本作だった。 本作は全くの予備知識なしに観たため、一見低予算の西部劇にしか見えない作品で、正直本作を観始めた時点では全く期待も何も持ってなかった。それに展開も退屈だったし、色々とすったもんだがあって町の人たちが犯人かどうか分からずにリンチ事件を起こし、縛り首にもしてしまう。そこまでは良かった。 しかし、この物語にはその後、ほんの僅かな続きがあった。 実は縛り首にしたのは完全な冤罪であったということ。悪かったのは早とちりした町の人たちの方で、縛り首にした三人は完全に正しかった。いわば『十二人の怒れる男』(1957)の逆ケース(そう言えば本作もフォンダが主演か)。 しかも、その事実が発覚した直後、本来ここから物語が始まるはずの場所で唐突に物語は終了してしまう。 後味の悪さで言えば一種最高の作品だった。 しかし、この後味の悪さこそが、実は本作では最も重要な点であり、他の西部劇とは明らかに一線を画する大きな特徴となっていたのだ。 本作が製作されるまでに既にアカデミー賞が登場して15年が経過。しかしその間西部劇は不当な位置関係におかれ続けていた。アカデミーは殊更娯楽作に対しては冷淡であり続け、西部劇は西部劇で、我が道を行く作品を作り続けた。そのお陰で西部劇は同じ映画でありながらも、賞からはそっぽを向かれ続けていた。 当時のアカデミーは何かしら考えさせられるような高尚な内容を持つものをなるだけ賞の対象にしようとし続けていた。単純でスカッとした気分にさせる作品は見向きされなかったわけだ。 似たような題材を取ったとしても、例えばジョン=ウェインあたりだったら、そう言う悪さえも力業で正義にしてしまっただろう(実際そう言う作品は結構多い)。力であらゆる物事を押し通し、それを敢えて正義と言い張る。これでは確かにアカデミー受けは悪いわけだ。 この作品に明確な善悪は無い。確かに誤解で殺人を犯してはいるのだが、これは人道的には犯罪に関することでも、警察に任せず自分たちで原因究明を行うというのは町の習慣に従っただけの話であり、その結果が不幸に終わったとしても、町は変わらない。極めて中途半端な位置に置かれてしまう。 あるいはこの後、正義感あふれるフォンダ演じるカーターがこの罪をしかるべきと頃に告発するのかもしれないし、あるいはどこかからこの罪が漏れていくかもしれない。はたまた、町中で全ての罪を隠してしまい、何事も起こらなかったと主張するか、それは全く分からない。分からないからこそ考えさせられる。法とはいったい何だろうか?司法の名を借りた非人間的な行いが行われても、やはり法なのだろうか? ラストでフォンダ演じるカーターが処刑された男が妻に宛てた手紙が読み上げられる。「俺の苦痛は一瞬だが、彼らは終生良心の呵責から逃れられまい。俺はそれを気の毒にさえ思えてくる。掟というのは、めいめいが心の中に持っている良心のことなのだ」と。 アカデミーにとって、一番重要なのは、観客に考えさせるという課程に他ならない。その意味で、たしかに西部劇としては大変中途半端な本作は、初めてアカデミー審査員を唸らせた西部劇となり、以降の西部劇の作りに一石を投じる結果となった。 それと本作は低予算で作られたと言う割に、えらく俳優が豪華なのも特徴で、主人公のヘンリー=フォンダを初めとして、殺されてしまう三人の中にはジョン=フォードの兄であるフランシスや、アンソニー=クインまで入っている。これが10年後だったら実現しなかった配役だな。 |
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ボー・ジェスト Beau Geste |
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1939米アカデミー助演男優賞(ドンレヴィ)、室内装置賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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民衆の敵 The Public Enemy |
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1930〜31米アカデミー脚本賞 1988アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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シカゴの町に育った不良少年トム(キャグニー)とパットはやがてパッディーという大親分に見込まれ、頭角を現していく。折から始まった禁酒法で密造酒の密売で大儲けした二人だったが、彼らがビッグになっていけばいくほど生活は派手に、危険度が増していく。そんな時、ほとんど顧みたことのない家に戻ったトムが見たものは… トーキー最初期の傑作とされる作品。当時としては極めて血なまぐさい内容も多いに受けたと言うが、いくつもの画期的な要素をハリウッドシステムにもたらしたことでも知られる。 暴力的と言っても今の目から観ると、おとなしいものだし、ちょっとちぐはぐさを感じるのも事実なのだが、これには当時の時代性を考えなければならない。 初期のハリウッドは映画を一種の啓蒙道具として考えていたようで、作られる映画もかなり“上品”なものが求められた。その中でこんなものが作られ、しかもちゃんとプロダクション・コードを通ったと言うことがまず画期的だった。この手の暴力シーンを見せられたことがそれまで無かっただけに、その分衝撃度は増した。本作がギャング映画のみならず、アクション映画を切り拓いたのだ(ただ、本作もラストシーンはプロダクション・コードに引っかかってしまったため、最後は極めて道徳的なものとなってしまった)。 それに本作が実質的デビューとなったキャグニーを一躍ヒーローにした功績も大きい。この人は背も小さいし、子供じみた顔をしているので、一見こう言う暴力作品の主人公には見えないのだ、だが、そのミスマッチさが逆に残酷さを際立たせることとなる。いわゆるベイビー・フェイスと言うのはキャグニーから始まり、現代でもギャング映画作る際はボスの一人にはこう言った人物を配するようになったし、それだけ本作での存在感は強烈だったと言うことだし、キャグニーなしには本作は成り立たなかった。 今から観れば暴力シーンはおとなしいとは言え、これまで全くと言っていいほど作ってこられなかった作品だけに様々な工夫が観られるのも興味深い。例えば着弾シーンなんかはフレーム落ち無しで撮影されているので、人間がいなくなって充分時間が経過してから撃たれるのだが、よ〜く観ると、着弾が異様にリアル。これ実弾使ってないか?考えてみればそれまで作られてなかったんだから、電気着火式の火薬なんてあるはずはない。本気でリアリティを出そうとしたら本物を使うしかないもんな。逃げてしばらくしてから着弾と、間延びして見えても、実はあれは命懸けの撮影だったのかも。 本作で強烈な印象を与えるキャグニーだが、中でも女性に向かって暴力を振るうシーンは衝撃的だったようだ。メイ・クラーク演じる女性の顔に半分に切ったグレープフルーツを押しつける演技が強烈な印象となり、キャグニーがレストランに行くと必ずグレープフルーツがでたという逸話があり。それと、キャグニーはワーナーの社員給で出演。なんでも週給400ドルだったそうで、本作のヒットを受けて値上げ交渉が決裂。一旦キャグニーがワーナーを去るきっかけにもなったのだとか。 そしてもう一つ。現代でも教材として本作が用いられるのは、撮影効率の良さ。フィルム使用は実際に使ったものの僅か20倍程度にすぎない。ハリウッドではいまだにこの記録は破られていないと言う。 |
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つばさ Wings |
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1927〜28米アカデミー作品賞、技術効果賞 1997アメリカ国立フィルム登録簿新規登録 |
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アメリカの片田舎。富豪の娘シルヴィアに片思い中ジャック(ロジャース)は、シルヴィアの婚約者デヴィッド(アーレン)と共に第一次世界大戦のアメリカ軍飛行機部隊に入る。恋敵と一方的にデヴィッドを敵視していたジャックだが、同じ釜の飯を食う間となり、いつしか友情が芽生えていく。やがて欧州戦線においてコンビで目覚ましい成果を上げた二人だったが、ジャックが密かに持っていたメアリーの写真をデヴィッドが見つけてしまう。一方ジャックに恋する故郷のメアリ(ボウ)は、ついに自らも軍隊に入り、ジャックを追いかけ続ける。 元航空兵の作家ソーンダーズの脚本を、これも従軍経験のあるウェルマン監督が仕上げた作品で、栄えある第一回アカデミー賞受賞作(ちなみに第一回目だけはアカデミー作品賞は二作あり、『サンライズ』と分け合っている)。この作品により、ウェルマンは一流監督となり、本作は“世界初の空中映画”とうたわれ、航空映画の先駆け的作品とされている(本作を観て衝撃を受けたハワード=ヒューズが『地獄の天使』(1930)を作ったのは有名な話)。 この作品には驚かされた。この時代の映画で現代にまで残り、私たちの目に触れる作品というのはそう多くなく、その内容も、主に文芸大作か、パントマイムものばかり。てっきりこの時代の作品とはそう言うものばかりだとばかり思っていたのだが、本作は目から鱗である。 こんなしっかりエンターテインメントしてる作品だってちゃんと作られてるじゃないか! 本作はとにかく色々と詰め込んでる。男同士の友情。ラブロマンス。そして三角関係、四角関係のどろどろした人間関係。ラブコメディ。そして何より壮大な空中戦。サイレントの作品だから、それらは言葉では表せないのだが、その分オーバーアクションがますます漫画っぽくて良い。ここまで娯楽に徹底した作品って、この時代にもちゃんとあったのだし、おそらくこういう娯楽作の方が多かったのでは無かろうか?それでも時代を経ても残るのは結局文芸作品ばかりになってしまい、こういう作品は日の目をあまり見ることがないのかもしれない。 ラブコメの部分は割合陳腐な感じはするが、現代でも充分に楽しく観ることが出来る内容だし、どたばた三角関係が続いている中(もちろん渦中の人達はシリアスだが)、決して振り向かれずに、それでもジャックのそばにいようと奮闘するメアリの姿はほほえましいものがあるし、しっかり伏線も消化されている。実際、これこのまま現代劇もしくはSFに直したとしても充分観られるだろう(大体、どこかでこの物語にデジャビュを感じていたのだが、『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)はほとんど同じ内容だったと言うことに気づいた。) それに空中戦が壮大だ。第二次世界大戦後の世界じゃないから、なんせ飛行機の速度が遅い。一生懸命スピードを出そうとしている描写も微笑ましいし、顔とかが全部外に出ているので、風に向かって叫んでる姿も良い。何より飛行機に乗りながら腕を振り回して威嚇するようなパフォーマンスが出来るのは大きな強みだった。現代で描かれる空中戦はスピード感はあっても、こういう真似は出来ないから、失われた大切なものがここには入ってるような気にさせられる。 古い作品だが、現代でも充分通用するエンターテインメント作品として、機会があったらごらんになることをお薦めしたい。(もちろん初のアカデミー受賞作という事実も重要だが)。 |
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