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2023 | ||
2022 | ||
2021 | ベネデッタ 監督・脚本 | |
2020 | ||
2019 | ||
2018 | ||
2017 | ||
2016 | エル ELLE 監督 | |
2015 | ||
2014 | ||
2013 | ||
2012 | ||
2011 | ||
2010 | ||
2009 | ||
2008 | ||
2006 | ブラックブック 監督 | |
インビジブル2 製作総指揮 | ||
2000 | インビジブル 監督 | |
1999 | スターシップ・トゥルーパーズ<TV> 製作総指揮 | |
1998 | ||
1997 | スターシップ・トゥルーパーズ 監督 | |
1995 | ショーガール 監督 | |
1992 | 氷の微笑 監督 | |
1990 | トータル・リコール 監督 | |
1987 | ロボコップ 監督 | |
1986 | ザ・ヒッチハイカー(4th)<TV> 監督 | |
1985 | グレート・ウォリアーズ 欲望の剣 監督・脚本 | |
1983 | 4番目の男 監督 | |
1980 | SPETTERS スペッターズ 監督 | |
1977 | 女王陛下の戦士 監督・脚本 | |
Soldaat van Oranje<TV> 監督 | ||
1973 | ルトガー・ハウアー 危険な愛 監督 | |
1971 | Wat zien ik 監督 | |
1970 | Worstelaar, De 監督・脚本 | |
1969 | Floris<TV> 12エピソード監督 | |
1968 | Portret van Anton Adriaan Mussert<TV> 監督 | |
1965 | Korps Mariniers, Het 監督 | |
1963 | Feest 監督・製作 | |
1962 | Lifters, De 監督 | |
1961 | Niets bijzonders 監督 | |
1960 | Hagedis teveel, Een 監督 | |
1938 | 7'18 アムステルダムで誕生 |
ベネデッタ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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17世紀。ヨーロッパ中にペストが蔓延し始めた時代。イタリアトスカーナ地方にあるペシアの町にベネデッタという一人の少女が女子修道院に入った。彼女は修道院の戒律の中で敬虔な修道女として成人した。ある日修道院に逃げ込んできた若い女性バルトロメアの教育係となったが、彼女から求愛を受け、それを受け入れてしまった。二人の秘密の関係は続いたが、ある日、祈りの中でベネデッタの肉体には聖痕が現れる。 最近はすっかり寡作になってしまったが、前作『エル ELLE』で、まだまだ枯れない人だと思わされたヴァーホーヴェン監督だが、又々やってくれた。もう80歳を超えてこんな若々しい作品作れることに驚きである。 本作の舞台は女子修道院で、敬虔な尼さんが主役と言うことで、一見お堅い作品にも思えるのだが、内容はとにかく凄い。 どんなに清楚な人間でも出すものは出すし、音も立てる。自分のために人も騙すし、快楽を知ってしまうとそれにのめり込む。 しかしそれで決して堕落したとかそう言う事ではなく、敬虔さをちゃんと持ったまま、それを肯定していく。人間って強いなあと、逆に感心させるような内容になっていた。 本作はベネデッタに浮き出た聖痕(聖痕って、『THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』(1998)で出ていたな)が本物かどうかで大揺れになるのだが、最後までその真相は分からないまま。実を言えば、本物であっても偽物であっても物語に違いはない。重要なのは、自分の身に起きた出来事を、自分の生きている空間で最大限生かそうとする人間の姿の滑稽さと逞しさなのだから。それが描けている以上、聖痕は付加的なものとなる。その逆転も面白い。 人というのは変わらないし、人として生きるしかない。だから人が出来ることは、自分で枠を作って、その枠の中で最大限自由に振る舞うことである。人によってその枠の大きさは変わる。修道院だと当然大分枠は小さくなるが、それでもその中で、時に逸脱をしても又戻れるようなものを作り上げ、その中で自由に振る舞う。それはこれまでの歴史の中、誰もが行ってきたことで、それはどのような立場であっても変わりはない。生きる事に強い制限が掛けられていても、かなりの自由が認められていても、それらは関係なく、その枠の中でどれだけ自由に生きられるかが問題なのだし、ベネデッタは、まさしくそれを行った人物だった。 前に日本の修道女の渡辺和子が「置かれた場所で咲きなさい」と言っていたが、ちょっと意味は違えど、本作はそれを実践した女性を描いた作品でもあるのだ。 本当に人間そのものを描いていて、どうしようも無い人間が精一杯好き放題に生きてる。これを観るだけでもとてもハッピーな気分にさせられる。 とってもヴァーホーヴェンらしく、そしてこう言う作品を観たかったと思わせてくれるところが流石だった。なんとも本当に若々しい作品だった。 あと、もう大分高齢になったシャーロット・ランプリングが生々しい演技を見せており、そこも凄い迫力だったことは付記しておこう。 |
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エル ELLE Elle |
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2016米アカデミー主演女優賞(ユペール) 2017英アカデミー外国語映画賞 2016カンヌ国際映画祭パルム・ドール 2016全米批評家協会主演女優賞(ユペール) 2016NY批評家協会主演女優賞(ユペール) 2016LA批評家協会主演女優賞(ユペール) 2016ゴールデングローブ主演女優賞(ユペール)、外国語映画賞 2016外国語映画賞、女優賞(ユペール) 2016ヨーロッパ映画作品賞、監督賞、女優賞(ユペール) 2016インディペンデント・スピリット主演女優賞(ユペール) 2016放送映画批評家協会外国語映画賞、主演女優賞(ユペール) 2016セザール作品賞、主演女優賞(ユペール)、監督賞、助演男優賞(ラフィット)、助演女優賞(コンシニ)、有望若手男優賞(ブロケ)、脚色賞、音楽賞、撮影賞、音響賞、編集賞 |
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過去、父の犯した犯罪のためにメディアに晒され、酷い目に遭った経験を持つミシェル(ユペール)。今はゲーム会社の社長として辣腕を振るっているが、そんな彼女が自宅でスキー帽をかぶった男に襲われてレイプされてしまう。そんなことがあっても、警察に訴える事もなく、気丈にいつもの生活へと戻る彼女だが、彼女を取り巻く状況は徐々に変化していく。 『ブラックブック』以来となるため、実に10年ぶりの監督作品。絶対に観ようと思ってたし、実際にとんでもない作品だった。 監督作品は女性が主人公となった作品も多いが、その主人公には共通点も多い。それは一言で言えば“強い女性”ということ。 強いと言っても色々あるが、彼女たちの強さというのは、現実がどれほどきつくても、前向きに生き続ける姿と言えよう。今村昌平の『にっぽん昆虫記』(1963)と同質の強さというべきか。 彼女たちは過酷な現実に晒され続ける。華麗なショービジネスの裏側で苦労する『ショーガール』のノエミであったり、戦中戦後を通して苦しめられる『ブラックブック』であったり。『氷の微笑』のキャサリンだって同じ強さを持っている。 そして本作でもミシェルは辛い現実に直面している。 オープニングでレイプされ、それを通報することもなく、一人耐えている姿がまずあるが、話が進むと、何故彼女が通報をしたりしないのかが明らかになっていく。 まず彼女が思春期の頃、父親が連続殺人犯となってしまい、そのため繰り返しメディアの彼女の顔がさらされ、警察に酷い目に遭わされたのみならず、メディアからもバッシングを受け続けてきた。警察には酷い目に遭わされた経験しか持たないため、彼女は警察を全く信用してない。 そして現在。彼女の母親は今も若い男を引っ張り込んで家に住ませるような女性だし、離婚した元夫は40歳も年の離れた大学生と同棲しており、息子は自分の血を継いでない子どもを育てている。 そして彼女自身のレイプ体験。 全部が人として悲惨な経験ばかりで、人生やるせない事ばかりである。 だけど彼女は社会的には成功し、生きる事を決してあきらめない。辛い現実に直面しながら、それでもユーモアを忘れない。 それを淡々と描くことで、“強さ”というものを表しているのが本作の面白いところ。一見悲惨な重いだけになりそうな物語をユーモアのセンスで上手く回避。まさに重喜劇と言って良い内容になってる。 そのまま物語が進むだけならば、それはそれで一つの物語として完成される。 ここに描かれるのは、どんな現実に直面しようとも、決してあきらめる事がない。人生に意味なんてないと達観しつつ、それでも絶望する事なく生きる。 この思想はニーチェが「ツァラトゥストラ」で提唱した超人の生き方そのもの(ニーチェの考える超人とは、「永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する人物」ということになる)。まさにそれを地でやってるのがミシェルという人物だった。 それを淡々と描き続けるだけでも充分なくらいの内容があった。そのままなし崩しに話を終わらせても映画的には不都合がない。 だがそれで終わらせなかった。 最初に起こったレイプ事件が何度も形を変えて彼女を襲ってくるのだ。そしてその決着はあまりに意外であり、どんでん返しのような驚きを与えてくれる。 それでなんとなくあの決着でも悪くない終わり方なのだろうと思っていたのだが、ラストの何気ない会話シーンで、実は闇を抱えていたのはミシェルだけではない。たった一言のタイトルの「彼女」を示す『ELLE』に込められた意味がはっきりと告げられる。 あのラストシーンはそう言う意味で、本作を「良作」から「傑作」へと変える非常に重要な要素であったと言えよう。 このまま淡々と終わるのだろうと思ってた矢先のあのラストは本当にビックリしたし、あのラストあってこそ本作の素晴らしさがある。 |
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ブラックブック Zwartboek |
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2006英アカデミー外国語映画賞 2007ヨーロッパ映画主演女優賞(ハウテン) 2008サターン主演女優賞(ハウテン)、インターナショナル作品賞 |
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インビジブル Hollow Man |
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2000米アカデミー視覚効果賞 2001MTVムービー・アワード悪役賞(ベーコン) |
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自らの身体を実験台に、DNA操作による人体の透明化に成功した科学者セバスチャン(ベーコン)。だが実験の失敗で、彼は透明のまま元の姿に戻れなくなってしまう。研究所地下に閉じこめられたセバスチャンは、その苛立ちを研究所の同僚に対して向けていく。 H.G.ウェルズ原作の「透明人間」を下敷きとした作品。テーマが特撮やCGXの心を刺激するためか、原作を含め、その亜流は数多く作られている。 SFホラーとしての出来としては普通っぽいが、ヴァーホーベン監督のファンとしては、とても悲しかった。何でこんな普通の作品を作ってしまうのか? ヴァーホーベン監督らしさと言うのは結構ある。私なりにそれを挙げてみたい。 1.ブラックな笑いを殊更強調する。 2.働く女性がとにかくパワフル。 3.過激描写。 4.SF的描写より機械的描写を強調する。 5.女性に対してモノ扱いする。 6.ぶっ壊れたプロットを力業でねじ伏せる(これは関係ないか?) 7.嘔吐シーン(笑) それらは皆、この監督だからこそ出来る事で、私的には行き過ぎも許せてしまうのだが、逆に言えば、これらの要素が全然無いと、裏切られたような気がしてしまう。 確かにやりたいように作りました。という姿勢は見えるものの(透明人間の胸揉みのイヤラしい描写は特に…)、それらの要素をあまり見える事がなく、ごくごく普通に作ってしまった感じ。これを監督が自分を抑えた。と言う向きもあるだろうけど、私はとても悲しかった。いや、はっきり言って不快感さえ感じた。 あなたは普通になっちゃいかんのだよ。 ケヴィン=ベーコンは結構好きな役者で、特にこの作品での悪役ぶりは堂に入っていて格好良いんだけど、本人がほとんど登場しないと言うのはねえ。別段彼にしなくても良かった気もするんだけど… |
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スターシップ・トゥルーパーズ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1997米アカデミー視覚効果賞 1998MTVムービー・アワードアクション・シーン賞(バグズによる要塞攻撃シーン) |
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宇宙へと進出した地球が統一政府の元に置かれた未来。地球は未曾有の危機に陥っていた。宇宙からやってきた戦闘生物アラクニド“バグス”が、地球の植民惑星を次々と襲っていたのだ。連邦政府は徴兵制を敷き、バグスと戦う兵士を養成していた。ブエノスアイレスのハイスクールを卒業したジョニー・リコ(ヴァン・ディーン)は、宇宙海軍のパイロットを目指す憧れのカルメン・イバネス(リチャーズ)やエスパーのカール(ハリス)と共に軍を志願する。だが何の適正もないジョニーは最も苛酷な機動歩兵部隊に配属されしまい、激しい訓練の末、前戦へと送られるジョニー。カルメンとは離ればなれになってしまったが、訓練時代から彼を見つめていたディジーが彼と行動を共にする。命知らずで強大なバグスを相手に、苦戦を強いられる宇宙軍。その最前線で戦う兵士達の姿を描く。 ロバート・A・ハインラインの傑作SF「宇宙の戦士」を元にしたSF大作。「宇宙の戦士」はたまたま丁度ヴェトナム戦争の始まった時期に書かれたもので、ヴェトナムに放り込まれる兵士達を思い切り高揚させたとも言われている(人間とは相容れないというバグスの存在が、得体の知れない東洋人に結びついたのだろう)。 それでこれまでにも何度か映像化の話はあり、特に日本ではこの作品は多くのロボットアニメに影響も与え(「機動戦士ガンダム」でロボットの名前に“スーツ”としたのは本作からだし、数々のSFパロディを駆使した「トップをねらえ」もメインは本作から)、作品そのものはOVAでアニメも作られたそうだが(未見)、実際これまで決定版と言われるようなものが無かった。その大きな問題はパワード・スーツの存在だろう。人間が中に入ってダイレクトに操縦するという、それこそ日本のロボットものにつながる設定は、実写で作るにはあまりに手間がかかり、しかも動きが限定されてしまう。だからかつてはアニメでしか作られないだろうと言われていたくらいだ。 だが、それを作ってしまった人物が登場した。 確かに1990年代後半はCGの登場によってハリウッドでは次々とSF大作が生まれていた。冷戦構造が崩れ、アクション大作で敵を作りにくくなったのが大きな理由だと思うが、やっぱり敵は強大であって欲しい。と宇宙に目がいったのかも知れない。『インデペンデンス・デイ』(1996)なんかが端的にその傾向を表していたと思うが、本作はその流れに沿って製作決定された作品だと思われる…“思われる”という曖昧な表現をしたのは、何をトチ狂ったか、この作品にあのヴァーホーヴェンを監督にしてしまったことで、全く意味合いが異なる作品になってしまったのだ。 これがプロデューサの無知なのか、あるいは最初から皮肉な作品を作るつもりで本作の監督を依頼したのかは分からない。 それで期待通りなのか、あるいはとんでもない暴走なのか理解に苦しむが、とにかくもの凄く変な作品が出来上がってしまった。 暴力描写で言えばヴァーホーヴェン監督は定評のある監督で、特に『ロボコップ』(1987)で見せた容赦のない暴力描写は、到底子供たちには観させられないとされたほど。ただ、割とこの監督の場合、あらゆる作品がノリで作ってしまったんじゃないか?と思われる節があり、それがはまるととんでもなく面白い作品が出来上がるが、はまらないと箸にも棒にもかからないようなのが出来てしまうのが困った監督。 で、本作は、そのとんでもなさが「宇宙の戦士」ファンを激怒させたことはよく分かる。なんせ、これまでこの作品が作られなかったのは、パワード・スーツをどうやって動かしたらいいか?と言う点にあり、CGによってやっとそれが出来る。と思った矢先、ヴァーホーヴェン監督は見事にそれを切ってしまったのだ。「今まで待ったのは何だったの?」という原作ファンの呆然としたつぶやきが聞こえてきそうだ。しかも原作の設定から取ったのは、敵が昆虫型の宇宙生物で、主人公が歩兵部隊の一員である。と言うそれだけ。原作にあった叙情的雰囲気や親子愛描写などは見事なほどにすぱっと切り捨てられてしまった。しかも何故か主題は四角関係の、あたかもラブコメとも見える設定…これで怒らないと言ったら嘘だ(ちなみに何故パワードスーツを出さなかったのか?と言うインタビューに答えた監督は、一言「面倒くさいから」と答えたという)。 だけど、原作未読の人か、あるいは原作は読んでもはまれなかった人間とかだったら、話は別。私は完全に後者。あの作品をよくぞここまでとんでもない、無茶苦茶な皮肉に仕上げてくれました。このどぎついブラックさは監督だから出来ることだよ。 物語は、兵士一個人から見た戦争であることは原作と同じだが、戦争そのものが命を賭けたお祭りって感じ。リアリティや兵士の孤独など、そんなもの知った事か!要は戦闘シーンにメリハリがあればいいのだ。と言う強引なノリのみで突き進んでしまった。ただ、そこに皮肉や悪意と言ったレン味を山ほどぶち込んでいるため、同系統のベイ監督作品なんかと較べると特濃の濃さと暗い笑いに包まれている。図らずも国威高揚に使われてしまった原作に対し、完全に軍国主義をバカにして、全てを皮肉な笑いに包み込むという、全く逆の作品を作り上げてしまった訳である。人間よりも遙かに強いはずのバグスに対し、遠距離ではなく肉弾戦を挑ませるなど、無茶苦茶さが映えるが、やってることは巣穴に劣化ウラン弾をぶち込んで中身を皆殺しという、まさにこれまでアメリカがやってきたこと。しかも士官の制服はナチスを思わせるもの。徹底した皮肉がそこには込められてる。これを観てると、非人間のバグよりも残酷な人間の所行が並々ならぬ情熱をもって描かれているのだから。この視点があるからこそ、ヴァーホーヴェンは凄い! しかも一切のフォローをしない。だからこれだけ政治色に溢れていながら、一切政治的主張をしてない。全て丸投げである。お陰で右翼的だろうが左翼的だろうが政治的主張のある人は本作に眉をひそめるだろう。だけど、だからこそ本作は意味があるのだ。 『ロボコップ』にあった悪意のCMも健在。これも一切のフォローが入ってないけど、だからこそ監督の悪意がとても楽しい。 たぶん本作を観た人の半分以上はこれを「駄作」と決めつけるだろうし、おもしろがった人の半分以上はこれを戦争万歳の内容と取ると思われる。だけど、この人の悪意を楽しめる人が観たら、このアメリカ否定っぷりに大喝采を送ることができる。意外に思われるかも知れないけど、私にとっても最高のSF作品の一本である。 |
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ショーガール | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1995ゴールデン・ラズベリー最低作品賞、最低主演女優賞(バークレイ)、最低監督賞(ヴァーホーベン)、最低脚本賞、最低音楽賞、最低新人賞(バークレイ)、最低主演男優賞(マクラクラン)、最低助演男優賞(ダヴィ、レイチンス)、最低助演女優賞(ガーション、リン=トゥキ) 1999ゴールデン・ラズベリーこの10年最低作品賞、この10年最低新人賞(バークレー)、今世紀最低女優賞(バークレー) 2004ゴールデン・ラズベリーこの25年最低ドラマ賞 |
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トップダンサーを目指すノエミ(バークレイ)は野望を完成させるべくヒッチハイクでラスヴェガスまでやってきた。そこで様々なトラブルに巻き込まれつつも、超高級ホテル「スターダスト」のトップダンサーであるクリスタル(ガーション)に見いだされ、スターダストのダンサーとして抜擢される。だが実はノエミにライヴァル意識を持つクリスタルが、彼女を辱めるために呼んだのだった。毎日毎日ショーの最中にもその合間にもクリスタルの挑発を受け、どんどんストレスが溜まっていくノエミ。そして彼女はついに… オランダ出身でありながら、ハリウッドでその名をとどろかすヴァーホーヴェン監督が満を持して投入した、華やかなショーの裏側を描くバックステージもの。事実本作こそがヴァーホーヴェン監督を象徴する作品として知られるようになった。ただし、それは決してプラスの意味ではなく、最悪のマイナスで。 この年の最低映画を決めるゴールデン・ラズベリー賞を総なめにし、更にそのラジー賞全体を通してでさえ、本物の最低映画とされてしまった作品であった(なんと授賞式にヴァーホーヴェンが現れ、トロフィを手にし、会場から大絶賛を得たという)。そう言えば『スクリーム2』でも「最も怖いホラー映画は?」という問いに、躊躇無く本作の名を挙げていたという冗談もあったし。 私がこれを観たのはそんな前知識が無い状態で、実を言えばこれ観て、どぎつい作品だけど、面白い作品だ。と思ってしまい、その後で本作のことを知ってこんなに酷評されてることに驚かされたものだ。 実際、今でも本作が悪いとは決して思ってないし、面白いという評価は変えてない。更に日本での評価を俯瞰してみても、決して悪いものじゃない。 だとすれば、本作はアメリカに限って評価が低いという事になる。 では何故?と考えてみると、本作はアメリカの“負の歴史”というものを見せつけたから何じゃなかろうか? アメリカの“正の歴史”とは、『フォレスト・ガンプ 一期一会』(1994)がその代表作と言えるだろうが、様々なアメリカに起こったことを全てひっくるめて「良し」と言ってくれるものだろう。しかし翌年に作られた本作のベクトルは全く逆。華やかな舞台の後ろには、どぎつい人間の欲望が隠れている。これをそのままアメリカという国を示したものと捕らえてしまったのでは無かろうか。まさに本作はアメリカという国の縮図であり、夢を観る映画で、それだけは見せてもらいたくなかった姿がここにはある。映画の出来云々よりも馬鹿にされた。という思いが強かったんじゃ無かろうか? しかし、本作はこれだけ最低最低と言われているにも関わらず、ハリウッド映画に一つの風穴を開けたという事実も忘れてはいけない。本作以降、華やかさの裏側にある恥部をさらけ出す作品が作られるようになり、新しい映画の時代を築いていくことになる。ある意味これはハリウッドにとっても恩人でもあるのだな。 尚、この年のゴールデン・ラズベリー賞で圧倒的な強さを見せた本作だが、私に言わせば、なんで『スカーレット・レター』を差し置いてこれがそんなに酷いとされたのか。未だに分からない。 |
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氷の微笑 Basic Instinct |
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1992米アカデミー作曲賞、編集賞 1992日本アカデミー外国作品賞 1992カンヌ国際映画祭パルム・ドール 1992ゴールデン・グローブ女優賞(ストーン)、音楽賞 1992ゴールデン・ラズベリー最低主演男優賞(ダグラス)、最低助演女優賞(トリプルホーン)、最低新人賞(ストーン) 1993MTVムービー・アワード女優賞(ストーン)、魅惑的な女優賞(ストーン)、作品賞、男優賞(ダグラス)、コンビ賞(ダグラス&ストーン) |
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元ロック・スターがベッドの上で縛られたままアイス・ピックで殺害されるという事件が起きた。サンフランシスコ市警察のニック・カラン(ダグラス)はロックスターの恋人であり、小説家のキャサリン・トラメル(ストーン)を訪ねるのだが、妖艶な彼女の魅力に捜査の矛先がことごとくかわされてしまう。しかもニック自身が彼女の誘惑にはまってしまう羽目に… ヴァーホーベン監督作品のセクシー作品というので、相当期待があった作品だったんだが、何故か劇場では見逃し、結局テレビで観ることになってしまった。 確かにヴァーホーベン演出は全開って感じで演出面は無茶苦茶心地よかった。作品的にはセクシーさばかりが言われてるけど、むしろホラー的な演出や、音楽の使い方などの方を見るべき。その辺で見る方が遙かに面白い。 演出面だけだったら見事なツボなんだけど、残念ながらキャラクターには全くはまることが出来ず。少なくともこの作品でブレイクしたストーンは私には全く魅力が伝わらなかったし、この演技過剰さにかえってげんなりしてしまった。いつものごとく、女性に翻弄される情けない男ダグラスももう型にはまってしまった感じかな?。 それに、ストーリーがあんまりにもステロタイプなんだよな。良く言ってもB級…まあ、それがヴァーホーベンらしいと言えるか。 少なくとも、本作と『硝子の塔』(1993)の2作品のお陰でストーンは相当に嫌いな女優になってしまった。 ところで賞を調べてみたら、ゴールデン・ラズベリーでストーンは「新人賞」にノミネートされていた。おかしいぞ。この人、相当下積みが長かったから、既に「新人」じゃないんだけど…にブレイクしたのが「新人」と見られたのかな? …ちなみにヘアが見えたの見えなかったの騒いだあのシーンは実際にノーパンで撮影したとのこと。別段どうでも良いけどね。 撮影はヤン・デ・ボン。 |
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トータル・リコール Total Recall |
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1990米アカデミー音響賞、音響効果編集賞、録音賞 1990日本アカデミー外国作品賞 |
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2084年。惑星内旅行が普通になっていた時代。毎日忙しく地球で働く技師のダグ(シュワルツェネッガー)は火星に行く夢を毎日見続けていた。このままだと実生活にも支障が出ると判断したダグは仮想現実マシーンの「リコール・マシン」で火星旅行を体験してみようとするが、彼の記憶の中にはもう一つの人格が隠されていたのだった。今の記憶が後に植え付けられたものである事を知ったダグは本当の自分を探すため火星へ飛び立つ… フィリップ・K・ディックの短編「追憶売ります」を基に原作を大幅に改編し、マッチョなシュワルツェネッガーを主演としたアクション大作。 しかし、さすがはヴァーホーヴェン。監督の悪趣味が見事にアクション作に適応していて、その点は感心できる。鼻の中に機械突っ込んで通信機を引っ張り出すシーンやら、フリークス満載の火星の街の描写とか、ラストの目玉飛び出しの悪趣味演出だとか(特殊メイクのロブ・ボッディンの面目躍如)。主人公が通行人を盾にして銃撃戦を行うという、ヒーローにあるまじき行為もなかなかのものだ…結果的にヴァーホーベン監督で成功だったのかな? ただ、ピンポイントで私に大いに受けたのは(映画館で思わず声を上げて笑いそうになった)、冒頭の「リコール・マシン」の設定。「うわっ。「コブラ」(アニメの方)だ!」モロそっくりじゃないか。なるほど、『コブラ』って、実はディックからかなり影響受けてたんだな。 さて、本作のキャラクターを考えてみると、シュワルツェネッガーとシャロン=ストーンをわざわざ起用した意味が今ひとつ分かりづらいが、このキャラクターのお陰で本作が大々的に売り出せたんだから、それは良しか。個人的にはロニー・コックスが良い(『ロボコップ』(1987)から続いてヴァーホーベン映画に悪役で登場してる)。あのねっとりしたサディスティックな感じのする悪役ってはまりすぎ(褒め言葉だよ)。 ストーリーは殆ど何も後に残らないが、その思い切りの良さが監督の味だ。ただ一つ、難を言わせてもらうと、主人公ダグの夢で物語は始まったのだが、肝心のその夢はあのオチでは解消されることが無かったってことだな。そりゃ色々やってたけど、肝心の自分を取り戻さないまま終わってしまう構造にはちょっと疑問。 本作の監督としては、元々はクローネンバーグ監督にオファーが来たようだったが、どっちが面白くなったかは分からないなあ。個人的にはクローネンバーグ作品として観てみたかった気もする。 |
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ロボコップ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1987米アカデミー編集賞、録音賞 1988アボリアッツ・ファンタスティック映画祭高等技術委員会賞、SFX賞 |
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犯罪が凶悪化の一途を辿り、ついに警察までが民営化されてしまったデトロイト。一連の警官殺しの容疑が懸けられているクラレンス一味を追っていたマーフィー(ウェラー)も、一味に捕まってしまい惨殺されてしまう。警察の親会社オムニ社は殺されたマーフィーをロボコップとして復活させる。メタルボディと正確無比の射撃によってロボコップは瞬く間にヒーローになるが、封印されていた筈の人間の時の記憶が蘇り始め、彼は苦悩する。 この映画を観て、ヴァーホーヴェンと言う監督を知った。それだけで充分すぎるほど充分。 とにかくこの監督の場合は物語、設定共にアラが無茶苦茶多いのだが、だけどそれを上回る馬鹿をやってくれるため、けなす一方、褒めてしまうと言う困った人なのだが、この作品にこそ、そのヴァーホーヴェン調が余すところ無く飛び交っている。 人間の頃のマーフィーは、子供に見せつけるためだ。と自慢げにホルスターさばきを見せるのはともかく、車から乗り出して2丁拳銃をぶっ放すとか(ご丁寧にも身が退けてる)、バックアップもなしに敵がうようよしているビルに入り込むとか、自殺願望?とか思っていたものだが、そんなのはこの映画では枝葉末節。 その後でリンチ気味にマーフィーが殺されるシーンは文句無く凄い。わざわざスローモーションにしてまであんなシーンを撮ってくれる監督には脱帽。更にロボコップとなって戻ってきたマーフィーの冷酷無情さ、拳銃から出るマズルフラッシュの美しさ。馬鹿センスが行き着いた感があり。環境保護団体の人が見たら卒倒しそうなテレビから流れてくるブラックなギャグセンスも良い。 ストーリーに関しても、結構健闘していたとは思う。ロボコップを巡っての様々な利害関係が絡んでいるのに、すっきりとまとまっているし。不思議なバランスを持った作品と言って良いだろう。 ちなみに後半になって有機溶剤に落ち込んで体中に皮膚が融けた人間が出てくるが、これはバーホーベン監督に「融けた人間が観たい」と言う投書があったので作ったのだとか。ちゃんとファンの事も考えているのも嬉しい(物語上必然性が無いと言う問題はあっても)。 |
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