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2021 | エターナルズ 監督・脚本 | |
2020 | ノマドランド 監督・製作・脚本 | |
2019 | ||
2018 | ||
2017 | ザ・ライダー 監督・脚本 | |
2016 | ||
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1999 | ||
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1987 | ||
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1984 | ||
1983 | ||
1982 | 3'31 北京で誕生 |
エターナルズ Eternals |
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はるか昔。絶対的存在であるセレスティアルズによって破壊的種族ディヴィアンツを滅ぼすために創造され、地球に派遣されてきた不死種族のエターナルズ。7000年もの長きにわたって人知れず人類を見守ってきたが500年ほど前についに宿敵ディヴィアンツを全滅させることに成功した。その後来るはずのセレスティアルズの帰還命令が下らないまま、メンバーはそれぞれ人間として生活するようになっていた。そして21世紀。サノスの危機が去った後の地球でエターナルズの一人セルシ(チャン)は博物館の職員として働き、スプライトという恋人共にロンドン暮らしをしていたが、そんな彼女の前に滅んだはずのディヴィアンツが現れる。 新生MCUも既にこれで三作目。最初から予定されていたとはいえ、なんと昨年のオスカー監督であるクロエ・ジャオによるヒーロー映画という実に豪華な作品となった。オスカー監督が普通にヒーロー映画を作る時代になったかと思うと、これまで娯楽作を推してきた自分自身の目が間違ってなかったという思いにもさせられる。はっきり言えば、この作品の存在自体が今のアメリカ映画の置かれている状況を最もよく示したものと言える。 MCUとしては、徐々に展開が固まりつつあるところで、これまでとは全く違った意味での地球の危機が描かれる話だった。 MCU第一期は主人公が実はサノスの方であり、全てのストーリーはサノスへと集約していたという特徴があった。全てのストーリーが少しずつ全体的な形を作っていき、最終的に一つの方向に修練していった訳だ。 そこから三作が作られてきたが、今のところ方向性があまり見えてこない。果たしてまとまることはあるのか?という不安もあるが、その辺はこれからの展開次第だろう。 本作の設定はこれまでのものとは全く違ったものである。サノスがインフィニティ・ストーンを探してるのとも関係がないし、ドクター・ストレンジが関わる異世界とも別な設定の話。これは創造神であるセレスティアルズが存在する世界で、そのセレスティアルズによって作られ、セレスティアルズのために働くエターナルズが正義のために活動する話である。一見それは真っ当なヒーローもののようだが、実はセレスティアルズが各々の星での生命体を守るのは、一定数の文明生命体を育てることでセレスティアルズが増殖するためだった。セレスティアルズは別段正義でも慈悲深い存在でもなく、純粋に自分たちのためだけに生命体を守っている。 この設定の元、純粋に正義を行ってきたと思ってきたエターナルズが自らの存在意義に悩むというもの。エターナルズには多くのメンバーがいるので、中にはセレスティアルズの使命を全うすることを選択するキャラもいれば、これまで人間を守ってきただけに、それに固執するキャラもいる。その複雑な関係が本作の見所となる。 これまで自分の信じてきたものが崩れ去った時、アイデンティティの崩壊を防ぐために何をするかということで、かなり精神的なものの話になっているのも特徴だろう。 更にエターナルズの面々は多民族のメンバーがそれぞれ平等に描かれているというのも大きな特徴となっていて、多民族のヒーロー集団ってのも良い感じだ。 セレスティアルズは地球を卵の殻として生まれる存在のため、その大きさは地球規模となる。現時点の実写SF作品では恐らく最大の人型キャラになるだろう。それを出したところも面白い。 そう言う意味で褒めるところはかなり多くて隙の無い作品だし、元よりMARVELヒーローの本質である差別との戦いを体現していることもあって、優れた作品なのは確かだ。 残念なところがあるとすれば、それはこれがほとんど日本のアニメではお馴染みの設定だったという事だろうか。基本的に全部既知の物語と言った感じになってしまった。 80〜90年代に飛躍的に進歩した日本のアニメーションが大切にしたのがまさしくアイデンティティの問題であり、本作とかぶる部分が多く、そこで多くの秀作が登場しているため、本作の物語は見慣れてしまったものに思えてしまったのがきつい。 隙がないように作ったら、個性も弱くなってしまった感さえある。 それと前述したとおり、新生MCUの中で入れる場所が見当たらないのも問題かと思う。果たしてこの作品が以降のシリーズにどう関われるのか?現時点ではそれが全く見えてこないので、実際の評価はその時に。 |
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ノマドランド Nomadland |
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2020米アカデミー作品賞、主演女優賞(マクドーマンド)、監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ネバダ州で夫と共に単一企業の町で働いていたファーン(マクドーマンド)。しかしリーマンショックの影響で企業が潰れ、更に夫にも先立たれてしまって家を失ってしまった。そこでファーンは最低限の荷物を車に積み込み、それを住処として臨時雇いを転々として生活していく。そんな中、同じような立場にある仲間達が荒野で集まっていることを知る。そこでいろいろなアドバイスをくれるアドバイザーとも出会ったり、交流を深めるが、その中にはデイブ(ストラザーン)という男もいた。 「ノマド」という言葉はいろんな意味がある(wikipedia)が、この言葉を聞くと、「自由」とか「漂白」と言った響があって、どこか憧れを感じさせるものだ(私はSF小説「虎よ、虎よ」のN♂MADを思い出す世代でもある)。だからこのタイトルにはとても惹かれているし、テーマも面白い。観る前からほぼ絶対私には合う作品と言う確信があった。これを観ない手はなかろう。 本作はドラマだが、元ネタはジャーナリストのジェシカ・ブルーダーによる「ノマド:漂流する高齢労働者たち」からの引用となる。書籍の方はルポルタージュで、その立場の人たちの実際のインタビューによって構成されているが、それらを合わせた形でドラマとして仕上げた。 ただ本作の場合、ドラマと言えば確かにドラマなのだが、むしろ実際にノマドとして生活している人を追っているドキュメンタリーに近い作品で、一風変わった作風が特徴。特に面白いのが最後のスタッフロールで、流れてくるキャスト一覧には役名と本名が全く同じ人たちの名前が延々と流れてくる。これでだいたい察したが、その後映画のことを調べてみたら案の定で、この映画の登場人物の大部分は本当のノマドの人らしいことが分かった。役者顔負けの演技力を持った人ばかりで、到底素人に見えない人たちだった。実際の生活者だけに説得力もあるし、演技力もある事から、本当の主役は原作通り彼らの方にあるとも言える。 作品としては、起伏があまり多くなく、流れるような物語展開となっている。起伏があるのは、いくつかの車のトラブルがあったことと、同じノマドで、何かとファーンを気に掛けてくれるデイブとの交流、捨てた実家の妹との出会いなど。細かいドラマはあるが、どれも普通起こりそうなものばかりである。だが、その何気ない物語こそ本作にぴったり合ったものでもある。ファーンはノマドの一人の物語なのだから、大きなドラマは必要無い。誰にでも起こりえることだからこの作品にははまる。 物語自体がそう言う意味ではとても心地良い。あまりナレーションが流れないドキュメンタリーを観てる感じだ。 それにやっぱりマクドーマンドが上手い。漂白の生活に疲れていながら、芯がしっかりしている女性を見事に演じきっていた。 本作は設定が抜群に良いのだが、いわゆるノマドになってるのは一様に高齢者である事がなんか不思議。ここに登場する大部分の人は60代から70代の人ばかり。若い人も多少は出ているが、劇中で「私らの年齢になると」という発言もあったことで、この年代の人特有のことなのだろう。枯れた人たちだからこそのドラマ展開はなんとも言えぬ安心感がある。何というか、生きる事と死ぬことの境がとても曖昧な感じで、いつ倒れて消えてしまっても当たり前のことだから、生きる執着が抜けてるからこその不思議な仲間意識があるし、行けるところまで行って、そこで野垂れ死んでもそれで構わないと言った特徴的な雰囲気がある。この雰囲気がとても心地良い。 ところで本作を観ていて、何故高齢者がノマドになるのかということが気になった。 これには私なりには三点考えた。 一点目は前述したが、劇中で「私らの年齢になると」という台詞があったことから、ある一定の年齢になって、生きる事の執着が薄れてくると漂白をしたくなるということは事実としてあると思う。これに関して言えば、インドのベナレス巡礼がまさにそれで、『深い河』(1995)の世界観に近い。宗教色が抜けているため、アメリカの広大な大地に還っていくという、まるでネイティブの宗教観。彼ら彼女らがある意味アメリカのナラティブな存在となっていくのかもしれない。その意味では本作は新しいアメリカの価値観を浮き彫りにしたことになる。 二点目として、時代背景というのもある。映画が作られた2020年という時代は、2008年のリーマンショック以降の貧しくなってしまったアメリカという国が浮き彫りになった時代でもある。実際ファーンが無職になったのは、リーマン・ショックによる不況によるものだったし、ノマドとなった人々の大部分も同じくその影響で貧しくなってしまった者たちだろう。だから本作はちゃんと現代という時代を的確に捉えている。本来悠々自適な生活を送れるはずの世代の人々がこのような漂泊の生活を余儀なくされるのは見ていて哀しい。 三点目として、彼らの世代の話になる。彼らの年齢は60代から70代。50年前に青春時代を送った世代である。それは70年代。ヒッピー文化華やかなり日々である。この世代はアメリカしにおいても突発的な特殊な世代となる。ヴェトナム戦争忌避から、彼らは物質世界に反発を持つようになった。彼らの一部は荒野に出て共同生活を送っていたこともあり、荒野に出ることに対する拒否感がない。この辺は『イージー・ライダー』(1969)に詳しいが、あの映画に登場した若者達がこの世界の老人達の姿である。かつて若き日に荒野に憧れていた人たちが、ある意味理想とする生活を手に入れたとも言える。 そんな事もあって、彼らはこの生き方をそれなりに楽しんでいるのだろう。だからこそ設定は切ないものでありながら、作品自体はとてもゆったりとしたものになる。 |
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