1896'1'1 |
三重県亀山町大字東町(現在の亀山市本町)で誕生 |
1914 |
家から反対された役者になるため家出して旅芸人の一座に加わる |
1916 |
京都の静間小次郎一座に加入。小井上春之輔と名乗り女形として売り出す |
1917 |
日活大阪支店長の佐々野万寿男にスカウトされ、日活向島撮影所に女形俳優として入社。衣笠貞之助に改名 |
1918 |
『七色指環』でデビュー |
1920 |
映画界に女優の採用が始まり、女形としての役者に限界を感じ、監督に転向する。 |
国際活映にスカウトされ日活を退社する。 |
1923 |
国際活映を退社し、同志数人と連鎖劇団の衣笠貞之助一座を結成する |
創立したばかりのマキノ映画製作所に参加し、こちらの活動の方を本格化させる。 |
1926 |
新感覚派の作家である横光利一、川端康成、片岡鉄兵、岸田国士らと新感覚派映画聯盟を結成し、『狂った一頁』を監督する。 |
1928 |
実験作品『十字路』を監督し、フィルムを手にヨーロッパを回る。エイゼンシュテインとも親交を結ぶ |
1930 |
帰国し、松竹で映画作りを始める |
1932 |
自身初のトーキー映画となる『生き残った新選組』を発表する |
1935 |
『雪之丞変化』は、松竹創立以来最高の配収をもたらす空前のヒット作となった |
1936 |
松竹女優千早晶子と結婚 |
1938 |
海軍のペン部隊に映画人代表として参加し、広東などへ従軍 |
1939'5 |
松竹を退社して東宝へ移籍する。2年前に東宝へ移籍した林長二郎改め長谷川一夫と再びコンビを組む |
1946 |
東宝オールスターで描いた喜劇映画『或る夜の殿様』が戦後第1作 |
1947 |
東宝を退社してフリーとなり、新演伎座の顧問となる。 |
1950 |
大映専属となる |
1953 |
『地獄門』でイーストマン・カラーを日本映画で初めて使用する。カンヌ国際映画祭グランプリ。アカデミー賞名誉賞・衣裳デザイン。ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞を受賞 |
1956'3 |
大映重役に推挙され、以後は重役監督として年間2、3本の作品を発表していく。 |
1958 |
紫綬褒章受章 |
1959 |
『白鷺』でカンヌ国際映画祭表彰。 |
1966 |
大映とソ連のゴーリキー撮影所との合作『小さい逃亡者』でモスクワ国際映画祭児童映画部門金賞を受賞 |
1967 |
勲四等旭日小綬章受章 |
1977 |
第1回山路ふみ子映画賞映画功労賞受賞 |
1979 |
第21回牧野省三賞受賞 |
1982'2'26 |
脳血栓のため京都府京都市右京区の自宅で死去。没後、遺品は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈される |