<amazon> <楽天> |
|
|||||||||
|
||||||||||
吉田喜重 変貌の倫理(書籍) _(書籍) |
2010 | ||
2009 | ||
2008 | ||
2007 | ||
2006 | ||
2005 | ||
2004 | ||
2003 | ||
2002 | 鏡の女たち | |
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | 嵐が丘 監督・脚本 | |
1987 | ||
1986 | 人間の約束 監督・脚本 | |
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | BIG-1物語 王貞治 監督・構成 | |
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | 戒厳令 監督・企画 | |
1972 | ||
1971 | 告白的女優論 監督・製作・脚本 | |
1970 | 煉獄エロイカ 監督・製作・脚本 | |
エロス+虐殺 監督・製作・脚本 | ||
1969 | ||
1968 | さらば夏の光 監督・脚本 | |
樹氷のよろめき 監督・脚本 | ||
1967 | 炎と女 監督・脚本 | |
情炎 監督・脚本 | ||
1966 | 女のみづうみ 監督 | |
1965 | 水で書かれた物語 監督・脚本 | |
女のみづうみ 監督 | ||
1964 | 日本脱出 監督・脚本 | |
1963 | 嵐を呼ぶ十八人 監督・脚本 | |
1962 | 秋津温泉 監督・脚本 | |
1961 | 甘い夜の果て 監督・脚本 | |
1960 | 血は渇いてる 監督・脚本 | |
ろくでなし 監督・脚本 | ||
1959 | ||
1958 | ||
1957 | ||
1956 | ||
1955 | ||
1954 | ||
1953 | ||
1952 | ||
1951 | ||
1950 | ||
1949 | ||
1948 | ||
1947 | ||
1946 | ||
1945 | ||
1944 | ||
1943 | ||
1942 | ||
1941 | ||
1940 | ||
1939 | ||
1938 | ||
1937 | ||
1936 | ||
1935 | ||
1934 | ||
1933 | 2'16 福井県で誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||
鏡の女たち 2002 | |||||||||||||||||||||||
2003日本映画プロフェッショナル大賞8位 | |||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||
嵐が丘 1988 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
1988日本アカデミー助演女優賞(石田えり) 1988カンヌ国際映画祭パルム・ドール 1988報知映画助演女優賞(石田えり) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
人間の約束 1986 | |||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||
東京都の新興住宅地で寝たきりの女性森本タツ(村瀬幸子)が亡くなった。所々にうっ血の跡が認められたため、田上と吉川の二人の刑事は自然死ではないと推測する。案の定その日の夕方、タツの夫である森本亮作(三國連太郎)が、自分が絞殺したと自首する。既に認知症の入っているはずの亮作の言葉に息子夫婦の依志男(川原崎長一郎)と律子(佐藤オリエ)は驚くことに。一見平凡な森本家に起こっていた事は何であったのか? 佐江衆一原作の「老熟家族」を基に、当時の介護の実態をえぐり、家族関係の崩壊を描いた社会派作品。 このテーマは非常に優れているし、内容も優れたものではあると思う。実際、この問題は国会でも何度も俎上に上り、現在も尚続く日本の大問題である。その問題の噴出に合わせたように投入された本作は事実社会現象まで巻き起こした。 しかし、この当時の本作のテレビCMはちょっと凄まじすぎた。「おばあちゃんが壊れていく」という叫び声と共に、出てくる画面はあまりにも凄惨で、テレビでこんなもんよく流すよな。とか思いつつ、怖すぎるので絶対映画は観ない。と心に決めた(実家も三世帯住宅だったこともあり)。 それから随分時間が経ってから観ることになったのだが、正直な話、やっぱりこれきついわ。 そもそも私は家族崩壊の作品が苦手な上に、出てくるキャラがみんなエゴ丸出しの本音を言い合ってる。家族と言ってもその中にあるはずの礼儀もなく、建て前と本音がごちゃごちゃになる。実生活ではなかなか言えないことを映画の中ではきちんと言っていると言うことはそれだけでも価値観があるのかも知れないが、それを聞いてるだけでいたたまれない心地にさせる。味付けに付けられたエロ部分もかなり観てるのがきつい。 社会派監督として知られる吉田監督の力は遺憾なく発揮されているのだが、逆にそのリアリティのお陰できつさしか感じられない作品だった。 性格的に合わない作品ってのは確かにあるものだ。 |
戒厳令 1973 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1919年。北一輝(三國連太郎)の元に血染めの衣を持った女性が訪れる。それは北の書いた「改造法案」に心酔した男が安田財閥の当主を殺し、自殺して果てた朝日平吾という男の衣服だった。それが契機となり、「改造法案」は日本中の若者を巻き込んでいく。自分の書いたものが日本を変えてしまうことを恐れ始める北だったが… 2.26事件を背景に、決起した青年将校と北一輝の生き様を描いた作品で、自分の書いた作品がいつの間にか日本を揺るがす事件へと発展していくのを、ただ見守るしかできない北の生活を淡々と描く作品で、事件そのものの描写は背後に隠れ、北と妻、そして青年将校らとの話し合いがひたすら続いていく。ATG作品らしい観念的な作品で、2.26事件に当時の状況を重ね合わせ、70年代前半の世相を反映しているのがよく分かる。 言葉とは恐ろしいもの。時としてそれは自分の考えを越え、世界そのものを巻き込んでしまうことがある。ここでの北一輝は、過去に自分自身が書いた本によって、あたかも自分がその首謀者であるようにされることを極端に恐れる。…マルクスが生きていたら、ここでの北のように悩んでいたことだろう。 その辺のことを考え合わせると、本作を製作した意図が垣間見えるようで大変興味深い所だ。 作品そのものがほとんど会話と内省的な三國連太郎一人だけの描写で終わっているため(要するに画が動いてない)、カメラアングルは凝りに凝っており、冴え冴えとした描写も光っている。何より本作の最も特徴的なのは視線にあるだろう。青年将校がまっすぐに北を見ているのに対し、北はあくまで人と目を合わさないように心がける。あたかもそれは視線にサラされること自体を恐れるように…時として御真影として床の間に飾っている天皇の眼差しさえも恐れるほどに。目というものを本当に良く捕らえた作品と言えるだろう。 ただし、現代になって本作を観てみると、台詞ばかりの作品のため、かなり鬱陶しく感じるのも事実で、しかも虚々実々のやりとりが続くので観ているだけで凄く疲れてしまう。 思想を映像化するというのも映画の価値観の一つなんだろうけど、エンターテインメントとしての側面は全くないので、映画単体としての評価は多少低くなってしまう。 |
告白的女優論 1971 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
能勢監督(木村功)による新作映画『告白的女優論』に出演する海堂あき(浅丘ルリ子)、一森笙子(岡田茉莉子)、伊作万紀子(有馬稲子)の三人の女優は二日後のクランク・インをひかえ、ホテルに集合した。役柄はともかく、人間的には決して良好とは言えない三人と監督の複雑な人間模様を虚々実々に描く。 三人の女優の生活を交差させ、女優という存在の虚構性を描いた作品で、大変観念的な作品に仕上がっている。エロチックさと白い壁、そしてソフトフォーカスとパンフォーカスを多用することによって、現実だか夢だか、妄想なのかを曖昧にしているのが特徴。 吉田喜重監督はこういう映像美的作品を作ることには長けていると思うのだが、どっちかというと物語をないがしろにしすぎるという傾向もあり、実際本作の物語はあまりに錯綜しすぎていて、何が何だかよく分からなくなってくる。 かつて松竹ヌーヴェル・ヴァーグの旗手吉田監督の作品を見ていると、どうにも頭でっかちさを感じさせられるものだが、特にこの辺りの作品からはストーリーの軽視ぶりがどうにも鼻につくようになってきた。本作はまだ映像がはまっているので救いがある。ギリギリの時代の作品だろう。 場面場面も見応えはあるものの、エロチックさが生臭すぎるきらいはあり。 美しい作品ではあるものの、その辺がちょっと合わない所。 |
エロス+虐殺 1970 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
1916年の日蔭屋事件(大杉栄事件)を元にするが、事件当人の神近市子から訴訟が起こされる。裁判の結審は1976年だが、口コミで噂が広がり、大ヒットとなる 大杉栄を中心とした女性達の人間模様を現代の男女を対比させて描く 1910年代のアナーキストの自由恋愛を1970年のフリー・セックスとの関わりとして描く |
炎と女 1967 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
伊吹真五(木村功)と立子(岡村茉莉子)にはひとり息子鷹士があったが、実は鷹士は人工授精で生まれた子供だった。そして彼の家に足繁く通ってくる医師の坂口(日下武史)とシナ夫婦がいたが、実は坂口こそが精子の提供者であり、それが二組の夫婦仲を微妙なものにしていた…人工授精を元に親子関係を描く。 松竹ヌーヴェル・ヴァーグの旗手吉田重喜監督による当時最先端技術だった人工授精問題を元に、時事を取り入れて冷徹な夫婦関係を描いた作品。 一見幸せな、しかし奥にドロドロとした関係を秘めた家庭が、夫婦仲の危機を乗り越えて本物の家族になっていく過程を描いているのが本作の特徴で、現代で作られても全く遜色ない出来に仕上がっている。演出部分と言い、設定と言い、誠に良い素材と言えよう。 ただ、私の好みか?と言われると、どうもそこからは外れてしまう。こういうドロドロした男女関係を描いた作品はどうにも苦手であり、本物の家族になっていく過程があまりにも切ない感じ。後のATG作品とは違い、設定の方が重視されているのは好感が持てるとはいえ、やっぱり昼メロっぽさはどうしても抜けない印象でしかない。 逆光を多用し、息詰まるような男と女の対峙関係など、映画として語るべき部分は多いのだが、前提条件として物語自体が合わないのが根本的な問題とも言える。 この点数は結局私自身の好みの問題に過ぎない。日本映画を語る上で是非ご覧になって欲しい作品である。 |
秋津温泉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1962キネマ旬報日本映画第10位 1962毎日映画コンクール主演女優賞(岡田茉莉子) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
ろくでなし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
暇をもてあます大学4年生の会社社長の息子秋山俊夫(川津祐介)は仲間の北島淳(津川雅彦)、森下(山下洵一郎)、藤枝(林洋介)とろくでもない遊びにうつつをぬかしていた。秋山の父の会社から強盗まがいに金を奪って返すとか、父の秘書の郁子(高千穂ひづる)を新進のシャンソン歌手に仕立て上げ、混乱するのを楽しんだりと、シャレにならない事ばかりを繰り返していたが、やがて淳と郁子はつきあうようになり、藤沢はアメリカへと留学に行くことになる。最後にでっかい遊びをやろうというい森下の提案により、本当に秋山の会社の金を強奪しようと言うことになるのだが… 私にとって、和製ヌーヴェル・ヴァーグの傑作の一つ。 日本で作られた『狂った果実』(1956)がフランスの映画界に影響を与えてヌーヴェル・ヴァーグを作り出していったのは有名な話だが、そのフランスのヌーヴァル・ヴァーグの影響を最も強く受けたのは面白いことに日本映画界だった。特に松竹は松竹ヌーヴェル・ヴァーグと言われるほどに多くの作品を作り出していき、その内の何作かは見る機会があったのだが、その中で一番面白かったのは本作。同年に作られた大島渚の『青春残酷物語』(1960)の方が和製ヌーヴェル・ヴァーグを語る上では有名なはずだが、そちらの方には私はあまり心惹かれなかった。何故ならそこに登場する学生さん達の心が私には響いてこなかったからが、多分これは現代とその時代を取り巻く空気そのものが違っているからだろう。当時は安保闘争華やかかりし時であり、大島はその空気に後押しされるかのように『青春残酷物語』を作り上げたのだが、その熱さは現代では望むべくもない。これを観る限りでは、当時の空気さえもよく分からないままだ。 それに対し、本作に現される四人の学生の姿は、完全に現代とコミットしている。衣食足り、暇をもてあました人間が求めるものは刺激だった。それが当時流行っていた安保闘争ではなく、人間のあり方に対するものになった際、本作のような作品が生み出されていったのだろう。しかもこのテーマは今に至るも繰り返し邦画のテーマになっているので、吉田喜重の着眼点はまことに素晴らしかったと言えよう。 火遊びは火を使うから危険なのであって、だからこそやりたくなる。そのような子供のような論理は、やがて本当に彼らを火が包み込んでしまう。ここに登場する四人は気の合う仲間であることは確かだが、それぞれに思惑がある。ブルジョアの俊夫と藤枝は盗むという行為自体を楽しむのだが、北島はそれに対し達観して何の興味もなく、森下だけが金を自分のものにすることを欲する。その違いがラストの悲劇へと転換することになる。遊びで始めたはずの行為は、やがてシャレにならない。その過程が大変緊張感溢れる描写に溢れており、後半になると目が離せなくなっていく。この緊張感は並じゃない。 ラストはいかにも『勝手にしやがれ』(1959)だが、責任を持たぬ学生身分に安逸とした態度は、法的な制裁ではなく命そのものを代償とする。命を軽く見ようとする現代にこそ通じるテーマがここにはあった。 キャラクタも又良し。特に全てに対し冷笑的な態度でありながら、最後の最後で意地を見せる北島役の津川雅彦が見事なはまり具合を見せている。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|