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2020 | ミナリ 監督・脚本 | |
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1979 | ||
1978 | 10'19 コロラド州デンバーで誕生 |
ミナリ Minari |
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2020米アカデミー作品賞、主演男優賞(ユァン)、監督賞、脚本賞作曲賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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アメリカでの成功を夢見て移民してきたジェイコブ(ユァン)とモニカ(イェリ)。サンフランシスコの養鶏場で働いてまとまった金を得たジェイコブはアーカンソー州の田舎に土地を買い、そこで農業で一旗揚げようとする。夫婦で働くため、アンとデビッドという二人の子どもの面倒を看てもらうため、モニカの母スンジャ(ヨジュン)を韓国から呼んで一家五人での生活が始まった。 今年のアメリカアカデミーでは本命として『ノマドランド』(2020)があり、その対抗馬として本作があったが、この二作品はどちらも東洋系の監督によるもの。『ノマドランド』が中国出身の女性監督であり、本作は在米韓国人である。ただし形は全く違う。『ノマドランド』が今のアメリカについて描いていたのに対して、本作はまさに監督のルーツそのものである。1978年生まれの監督はこの映画の舞台ではまだ10代にも至らない子ども。実はこの作品に登場するジェイコブとモニカの息子デビッドこそ監督本人の幼い頃の姿である。 そう考えると、この作品の類似が見えてくる。これは往年のテレビドラマ「大草原の小さな家」とほぼ同じ形のものであり、更に言うとキュアロン監督の『ROMA ローマ』(2018)とも共通してる部分がある。監督が体験しているからこそフィクションでもリアリティを感じさせるし、80年代のアメリカがどんな国だったのかも少し見えてくる。 実際、本作は80年代の韓国系移民が当時味わっている状況を見させるので、資料としても参考にもなる。 80年代は日本ではバブルが始まって、折しもタイミング悪く不況となっていたアメリカの物件が次々日系企業に買われていき、アメリカとしてはアイデンティティの問題に曝されていた。いわゆるアメリカンドリームも古くからのものからだいぶ変質しており、移民の成功者というのは単に金儲けだけが目的ではなく、自らのアイデンティティを実現することが求められるようになった(こう言っちゃ何だが、当時エコノミックアニマルと言われた日本は反面教師だった訳だ)。 本作の主人公ジェイコブの言動にそれが色濃く表れている。彼は皆から一目置かれるヒヨコ選定のプロである。ヒヨコ選定なんて大して金にはならないものの、家族を食べさせるくらいの稼ぎは持っているし、共働きしていればそれなりに蓄えも出来るだろう。しかしそれでは真の成功者にはなれないことを自覚している。彼が農業で成功者になるためには、アメリカにいる同胞達韓国人のために故郷の食べ物の提供者となることで初めて成功したと言える。 生きるのに必死なのに、そこまでやるのは相当きついが、きついからこそそれを行おうとする、ある意味意識が高い人物こそがジェイコブだった。生きている限り足跡を残さねばならないという使命感を持つ人物と言っても良い。彼は儲けと両立する形でアメリカに住む韓国人達のために働こうとしたのだ。 いわゆるアメリカンドリームとは、そう言う人間にこそ門戸を開くのだが、一方では大部分はドリームを掴む前に力尽きてしまう訳で、残念ながらその大部分の中に入ってしまうことを映画を通して描かれていく。 そんな意識高い父親に振り回されるのはやはり家族で、上ばかり向いてる父親は下にいる子どもを見ることがない。割を食うのが母親で、とても一人でそれを受け止めることが出来ないために韓国から母親を呼び、彼女に孫を看てもらうことにした。 これによって三世代の同居生活が始まるのだが、これが不思議な魅力を醸す。このおばあちゃんは孫を愛しているものの、かなり身勝手で、更に自分の常識を孫に押しつける人物だった。彼女は韓国で生まれ育った人なので、韓国で持っている常識のまま孫に接する。一方の孫の方はアメリカ生まれということもあって、常識そのものが全く違うため、おばあちゃんの言うことが聞けずに反発するばかりとなる。この辺りは古くからある世代間のギャップで、反発と歩み寄りを繰り返すことで互いを認め合っていく定番の物語展開となっていく。ここで韓国社会の常識とアメリカの常識が家庭の中でコミカルさとペーソスさを合わせてすりあわされているのが面白い。子ども達はアメリカ人として生きながら、自分のアイデンティティの一部は確かに韓国にある事を確認していくことになる。おばあちゃんが韓国から持ってきて植えたセリ(ミナリ)が世代だけでなく文化をつなぐキーアイテムになっている。 ここにおいて、本作は単なる一家の物語ではなく、在米韓国人のアイデンティティというものが大変強調されたものとして本作は考えられる。 このような物語はもっと作られて然るべきだ。今こそ日本人監督にこういう作品を作って欲しいと切実に思う。この視点で描いてくれたチョン監督には素直に拍手を送りたい。 |
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