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父は宮崎駿。 | |||||||||||||||||||||||
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2020 | アーヤと魔女 監督 | ||||||||
2019 | |||||||||
2018 | |||||||||
2017 | |||||||||
2016 | |||||||||
2015 | 西遊記 ヒーロー・イズ・バック 吹き替え監修 | ||||||||
2014 |
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2013 | |||||||||
2012 | |||||||||
2011 | コクリコ坂から 監督 | ||||||||
2010 | |||||||||
2009 | |||||||||
2008 | |||||||||
2007 | |||||||||
2006 | ゲド戦記 監督 | ||||||||
2005 | |||||||||
2004 | |||||||||
2003 | |||||||||
2002 | |||||||||
2001 | |||||||||
2000 | |||||||||
1999 | |||||||||
1998 | |||||||||
1997 | |||||||||
1996 | |||||||||
1995 | |||||||||
1994 | |||||||||
1993 | |||||||||
1992 | |||||||||
1991 | |||||||||
1990 | |||||||||
1989 | |||||||||
1988 | |||||||||
1987 | |||||||||
1986 | |||||||||
1985 | |||||||||
1984 | |||||||||
1983 | |||||||||
1982 | |||||||||
1981 | |||||||||
1980 | |||||||||
1979 | |||||||||
1978 | |||||||||
1977 | |||||||||
1976 | |||||||||
1975 | |||||||||
1974 | |||||||||
1973 | |||||||||
1972 | |||||||||
1971 | |||||||||
1970 | |||||||||
1969 | |||||||||
1968 | |||||||||
1967 | 1'21 東京で誕生 |
アーヤと魔女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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かつて孤児院の前に捨てられ、そこの孤児院で大きくなったアーヤ(平澤宏々路)は、いつしか孤児院の中でリーダー格となっていった。孤児院を出る気は全く無かったのだが、10歳の誕生日を迎えた時、マンドレーク(豊川悦司)とベラ・ヤーガ(寺島しのぶ)という二人組の男女がやってきてアーヤを家に引き取ってしまう。女性の方は自分を魔法使いと名乗り、アーヤを助手として雇ったという。いつか魔法を教えてくれるという言葉を信じて雑用をこなしていくアーヤは、言葉を喋る猫のトーマスと知り合い、トーマスから魔法の手ほどきを受けていく。 『風立ちぬ』(2013)の時の宮崎駿監督の引退発言からしばらく経って、スタジオジブリは活動休止となっていたが、そろそろ活動再開の気運が高まったのか、宮崎吾朗監督の肩慣らしを兼ねてテレビムービーとして作られたのが本作。 原作は『ハウルの動く城』(2004)と同じダイアナ・ウィン・ジョーンズで、これも魔法使いについて描いた作品となっている。 原作は未読ながら、設定自体は結構面白い。近代、恐らく1970年代〜80年代の辺りのヨーロッパを舞台に、もし魔法が普通に使われている世界だったら?というイフの世界線の物語になっている。 実際の人々の営みの中に異物を持ち込み、それが当たり前になってる世界の設定とは、私好みの設定だから。魔法というのが普通に用いられている世界観は面白い。 ただ、好みの設定ではあるものの、その料理の仕方が問題である。早い話が本作はその設定を生かすのに失敗してる。 主人公は魔法使いの弟子で魔法を使えるようになりたいと願って頑張ってるのだが、同時に母のこととか、童話作家のマンドレークの手伝いをしたりと、内容は盛りだくさん。これを一時間半でやったために相当に駆け足の内容になっていたし、エピソードがどれも深まらずに終わる。結果、全てが薄味。終わってみるとアーヤのエキセントリックな性格以外の印象がない。繰り返し言うが、それ以外これっぽっちも全くない。 この作品で重要なのは、アーヤではない。アーヤは基本的に元気いっぱいで、ちょっとずるい女の子という立場を崩さなくて良い。ただ、それは印象に残すようなものにはしない方が良い。むしろ彼女に引っかき回されることによって、周りの大人達が変わっていく過程が重要なのだ。この家に住むマンドレイクとベラ・ヤーガはかつてアーヤの母と共に、ある種“イケてる”ロッカーであり、魔法使いであった。そんな二人が何故こんなところでくすぶっているのか。明らかに当時と違ってる性格は何が原因なのかを解きほぐし、更にアーヤによってかつての情熱を取り戻すという過程が重要なはずだった。 多分監督の狙いはそれだったのだとは思う。だが、決定的に時間が足りない。 このやり方だったらテレビシリーズでやるべきだった。二人の性格が少しずつ変わっていくことを丁寧に時間をかけてやってれば見られるものになっただろう。少なくとも監督は前にテレビシリーズの「山賊の娘ローニャ」もやってるので手慣れていると思うし、薄味の物語も重ねていけば深みも出てくるはずだ。 それを映画として詰め込むのであれば、全く違ったアプローチで行わねばならない。それを押し通したのが問題だった。 あと3Dアニメも今ひとつ練られてない感じも。普通に観る分にはこれでも良いんだけど、ジブリ製のアニメと言うんだったら、それなりのものを見せてもらいたかった。実に普通。 |
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コクリコ坂から 2011 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2011日本アカデミーアニメーション作品賞 2013シカゴ映画批評家協会アニメ-ション映画賞 |
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1963年横浜。港の見える丘に建つ古い洋館コクリコ荘。元医院のこの家は今は女性専門の下宿屋となっており、16歳となる松崎海(長澤まさみ)がきりもりしていた。そんな海が通う高校では、歴史ある文化部部室の建物カルチェラタンの取り壊しを巡って学生たちによる反対運動が起こっていた。反対メンバーの一人風間俊(岡田准一)と出会った海は、次第に彼に惹かれていく。俊も又、海に惹かれていくのだが… 前作ジブリの総力を挙げて作り上げられた駄作『ゲド戦記』をひっさげて監督デビューを果たした宮崎吾朗監督が、父宮崎駿の脚本を元に作った、高度成長期の青春物語。 たまたま鑑賞前にインタビューで監督自身が震災のことに言及して、「今の時代、求められているアニメはファンタジーではない」と言ってのけたように、本作は等身大の高校生の男女を主人公に、懐かしい雰囲気を出そうと努力しているのが分かる。そしてこれは褒めて然りだが、雰囲気作りに関しては上手く作られている。正直クサすつもりで観に行ったのに、逆に感心させられることとなり、嬉しい誤算を味わえた。 最初、これ観て思ったのは、アニメとして作る意味あったのだろうか?という素直な気持ちでもある。実写でやってなんら問題なかった素材だし、実際一緒に観た人の感想聞いても同じ反応だった。 でも観た後しばらくしてから少し考えは変わった。 これこそが、宮崎監督の出した答えなんじゃないだろうか。 そもそも監督はアニメーションのテンプレートを全く学ばずに突然アニメ監督になってしまったのだから、アニメの動きを突き詰めることができるはずはない。『ゲド戦記』はそんな監督故にこそ大失敗を起こしたのは記憶に新しいところ。 だからこそ、アニメと実写の狭間に自分自身の作風を置くことで、自分の立ち位置と言うものを確立しようと考えたのではなかろうか?アニメは多数のアニメーターの共同作業だが、細かい動きや表現はともかく、テンポや作品に横たわる空気感は監督の才能がとても重要である。才能で言うなら宮崎駿は世界有数の実力者であり、それを真似ることは誰にもできない。だからこそ吾朗監督は模倣を捨てることにした。実写作品の方を徹底的に学び、作品の方をそれに近づけようとした訳である。 仮にこれを本当に実写でやってしまったら、ここまで話題を作ることもできなかっただろうし、むしろ駄作としかならなかった可能性も高い。だが、その狭間でなら作れると判断したのは、とても正しいし、ジブリだからこそそれができる環境があった。見事に自分の立場を理解していたからこそできたことである。 自分がその時代に生きたわけではないので作品が作れないというのは、殊映画に関しては成り立たない。特にアニメだったら、そのほとんどがファンタジーなので、ほとんど監督のイメージに負っている。 根本的に自分がイメージ不足であることを知り、作風を実写に近づけたのなら、それなりのものが出来上がる。そしてジブリだからこそこれが出来る。 少なくともその狙いは間違っていないし、これで宮崎監督は次回作作れるだけの布石をきっちり作り上げることもできたと言えよう。 ただ、実写に近づけるということは、特に原画の人には多大な負担をかける割に、アニメーションとしての快感が低くなってしまう(作画の丁寧さは言うまでもないが、オープニングのほんの僅かなシーンでこの世界の状況を語ってしまうのは名人芸レベルといえる。二階から一階に降りるシーンだけでこの家が元は医院として使われていて、今は使われてないということを示してくれていた)。 前述したように、「なんで実写でやらないの?」という声も聞こえてくるのは致し方ないとして。これをジブリの新しい作風として確立できるか?これからの手腕に期待である。 ここからは蛇足。 もの凄く乱暴に言ってしまえば、本作は老人の思い出話である。 本作はマンガを原作とし、宮崎駿が脚本を書いたものだが、舞台となる1963年というのは、学生運動が徐々に高まっていく時代だった。ただ本作に描かれるように、この時代の学生運動はあくまで討論と、せいぜい示威行為までに止まっていた。70年代のように実力行使や内ゲバとは無縁の、左翼学生にとっては一番平和な時代でもある。 この時代、脚本を書いた宮崎駿の人生にとっても輝いてた時代だっただろう。既にこの時代には彼は“まんが映画”の中に入っており、若い情熱をもって動画を世に出そうとしていた時代。仕事しながら組合活動もしていたし、世界に対する啓蒙についても考えていたはず。本当に自分に対しても世界に対しても希望に満ちあふれていた時代だったはずである(大塚康夫の作画汗まみれは、若き日の高畑勲や宮崎駿の姿が生き生きと描写されているので、アニメ好きには必見である)。 だから、そんな時に青春時代を送ったサヨク青年の、「あの頃は楽しかった」という気持ちがこの脚本には詰まっているようだ。 でも、そんな輝いていた時代にあって、口も重いし、いくら誇りがあっても対外的には胸を張れない仕事に就いているまんが映画作りとしては、女の子と恋愛してる同世代の男の子にはどれだけ憧れがあったことだろう。そして当時は、そんなことをどれだけ思っていてもそれを表現できないという思いに捕らわれただろうか?なんか本作にはそんな宮崎駿のかつてのルサンチマンが詰まっているように感じてしまう。 でも、老境に入り、国際的にも有名になった時、こういう“こうありかった理想的な自分”の作品を作ってみたい!と思っても無理はないんじゃないか? しかも自分で作るのはやっぱり恥ずかしいから息子に作らせようと言う気持ちも。そう、かつて自分では作らないと宣言して作らせた『耳をすませば』と同じパターンだ。しかも自分で作らないからこそできる、ベッタベタに恥ずかしいシチュエーションも使える。いみじくも劇中俊が「安っぽいメロドラマ」と言っていたが、まさにどんだけベタなシチュエーションだろう。 この「安っぽいメロドラマ」というせりふに吾朗監督の本音も込められてた気もする。むしろここでの台詞は、「なんてもん作らせるんだよ。親父」というのが一番正しい台詞だったんじゃないか? 色々裏を考えてみると、やっぱりニヤニヤできる作品であることは確かだ。 |
ゲド戦記 2006 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006日本アカデミーアニメーション作品賞 2006文春きいちご賞第1位 2006アジア映画音楽賞 |
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アースシーと呼ばれる世界では、人間と竜とがそれぞれの境界を守り、調和を保って生きていた。だが世界の調和が徐々に崩れはじめ、人間世界では次々と異変が起こり始め、竜までもが人間世界に出没し始める。災いの源を探る旅にを続けている大賢人ハイタカ(菅原文太)は影に追われ、心が不安定になっている少年エンラッド王子アレン(岡田准一)と出会う。影におびえるアレンを伴ったハイタカはかつて命を助けたことのある女性テナー(風吹ジュン)の家に身を寄せるのだが、そこにいた孤児のテルー(手嶌葵)は激しくアレンを拒絶するのだった。世界の調和を乱すものは一体どこに… 《警告》 以降の文は全て「ゲド戦記」マニアの妄想であります。気分悪くなる可能性があります。 世界三大ファンタジーと呼ばれる三つの小説(童話)がある。「指輪物語」、「ナルニア国物語」そして「ゲド戦記」がそれに当たる。近年映画の技術が上がると、ようやくこれらのファンタジーも子供だましの特撮(?)ではなく、CGを用いた見応えのある作品に仕上げられるようになり、既に『指輪物語』、『ナルニア国物語』は映画化がなっている。どちらもハリウッド資本で作られたビッグプロジェクトで、当然次は「ゲド戦記」をと言う声は上がっていたのだが、存命中の原作者のル=グウィンはそれらをことごとく退けてきた(実際宮崎駿監督は過去何度かアニメ作品として作りたいと打診もしていたらしいが、やはり首を縦には振らなかったそうである)。それが原作者の方からスタジオ・ジブリに任せたい。と言うお墨付きをもらって、とうとう映画化の運びとなった。記念すべき作品である。 しかもこれをジブリはなんと今まで一度も監督の経験のない新人に任せるという。しかも5部(+外伝)をたった一本でやってしまうという豪毅さ…はっきり言って無茶苦茶勿体ない。これだけで5、6本は作品を作れる素材なのに。 ところで、この三大ファンタジーの中、私は何が一番好きか。これは断言するが、本作に他ならない。読んだのは10数年前、一番最後になったのだが、その衝撃度は最大だった。本作は単なる物語ではなく、私の学びの友であり、これまでの学びの中で私に多くの示唆を与えてくれた。事実今もなお本作を通して勉強中なのである。そう言う意味では私の人生そのものと切っても切れない作品であり、桁が違うのである(そう言う意味では「ナルニア」もそれに近く、この二作品は物語としては別格で、結果として最も作品としては完成度の高いはずの「指輪物語」は一番最後になってしまう)。3部までなら英語版だって持ってるし、かなり読み進んでいる。自然、どう作ろうとも、文句しか言えなくなってしまう訳だが、流石にそれでは話にならない。これは「ゲド戦記」ではなく、なるだけ別の物語として観よう!そうすれば、怒ることも無いだろう。事前にそう自分に言い聞かせた。 で、鑑賞と相成った。 駄目だった。幾度となく読み返し、言葉の一片一片までもが頭に残っている作品だけに、台詞の一つ一つが、「ああ、これはあそこの台詞」「あれはこの場面」と怒濤のように襲いかかってくる。いくら「ゲド戦記」から離れようとしても、どうしても関わってしまう。これを作品としてみる以前に、映画館で完全に分析してる自分がいた。 確かに「指輪物語」「ナルニア国物語」と較べ、「ゲド戦記」を映像化するのが難しいのは分かる。物語としても盛り上がり部分が人間の心に向かうため、そのまま忠実に映画化しても、訳の分からないものになりかねない。結果として、多分にクリエイターの感性を取り込まない限り、エンターテインメントとして仕上げるのは難しい作品だろう。 しかし、やはり原作に対する敬意は持って欲しかった。 本作は「ゲド戦記」を極めて勿体ない作り方をしているのは事実。一応話のベースは4部。そこに3部と5部、そして1部をスパイス程度に利かし(2部はテナーが空を見上げるシーンだけでほんの少しだけ言及)しているが、なんと話そのものは「ゲド戦記」ではなく、父親である宮崎駿の絵本「シュナの旅」だった。 これには打ちのめされたよ。これだけ勿体ない作りをしたジブリの気前の良さにはあきれかえったし、原作をここまで切り刻んで、調和を崩した後で、一本も本を書いたことのない作者が自分自身が作り出した物語を加えてしまった結果、もはやオリジナルは見る影もなくなってしまった。 ストーリーは近年まれに見る酷さ。伏線と思ったものも全く回収されず。まるでテレポーテーションしたかのように都合良く現れるキャラたち。「世界の危機だ」と言う命題を出しておいて、この箱庭のような空間で全てが完結。「ボクとアナタがいればいいの」と言う無茶苦茶な帰結方法。テルーが何故竜なのか一切の説明はなし(と言うか、テルーの正体を明かした時点で監督が「ゲド物語」の何の理解もしてなかった事が明確になった。単にこうすれば受けるから。というそれだけの媚びた理由だろう)。ゲドが弱さを一切見せないのも個人的には嫌だし、「ゲド戦記」が持っていたテーマ。影を自分自身が受け入れるという命題に対し、アレンは自分では何もしなかった。影から守ったのはゲド。影を退けたのはクモ。影を和解させたのはテルー…アレンの主体性はどこにあるんだ? それに何より、クモを倒したら、世界に秩序が戻るとはされていないという最大の事実がある。劇中、ゲドは世界の秩序を乱したのは人間であると仄めかしているのだが、その結論は語られないまま。これ、物語になってないよ? それに親殺しから始まり、影に怯えて見せたり、強大な敵が出てきたりと、アレンに対しては色々な試練が襲いかかってくるのだが、それら全てが宮崎吾朗というオトナが父親に対して持っているイメージにばかり見えてしまう。監督の内面世界を出すのは良いんだけど、原作付きなんだから、もうちょっと抑えて欲しかったね。延々と宮崎吾朗の露悪シーンを見せつけられてるようなもんだ。宮崎監督には含むところは全くないのだが、こんなの作られると流石に引くぞ(某映画監督によれば、これは壮大な「親殺し」の物語として始まったはずなのに、いつの間にか違う大人に丸め込まれてる監督の内面を示している作品なのだとか…納得いくけど)。 強いて言うなら、最高品質の食材を前にした“自称”料理人が、どうやって料理して良いか分からず、全部ミンチにして焼いてハンバーグにしてみました。と言う作品。と言えばいいか? あるいはこれは「ゲド戦記」の映画ではなく、「ゲド戦記」という名の付いた素人同人誌と言うべきか?いずれにせよ、原作ファンを見事に敵に回すことに成功したと言う事実には間違いがない。 物語として見るべき所がないとは言わない。雄大な自然描写はジブリ得意の手法なので言うに及ばずだが、細かいところへの配慮は感心できるところが多い。木で柵を作るシーンでの紐の結び方とか、アレンの手で潰れたマメの描写とか、クリスタルのグラスを伝う液体の描写とか、普通意識が行かないこういう細かいところは練り込まれて作られているし(つーか、こんな所に感心してること自体で私は駄目かもしれん)、特に前半部分ではアレンの表情描写はアニメでここまで出来るのか?と思えるレベルに歪んだり戻ったりしてたし…ただそれも後半になって物語がどーしようもなくなってくると、どーでもいいや。と言う気分にさせられてしまうのがなんだが。 キャラもやっぱり声優使わないのは問題で、ほぼ全員、しゃべり方が素人臭いんだよな。特にテルー役の手嶌葵は、歌は素朴で良いけど、素人そのまんまじゃないか? 原作を考えず、極めて単純な物語として観るのならば、本作はそこそこの水準を保っている。ただ、その“そこそこのもの”を作るためにジブリが払った犠牲は甚大なものだと思われる。 |