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私の映画人生 |
1983 | 8'11 死去 | |||||||||
1982 | ||||||||||
1981 | ||||||||||
1980 | ||||||||||
1979 | ||||||||||
1978 | 皇帝のいない八月 監督・脚本 | |||||||||
1977 | ||||||||||
1976 | 天保水滸伝 大原幽学 監督 | |||||||||
不毛地帯 監督▲ | ||||||||||
1975 | 金環蝕 監督 | |||||||||
1974 | 華麗なる一族 監督 | |||||||||
1973 | 戦争と人間 第三部 完結篇 監督 | |||||||||
1972 | ||||||||||
1971 | 戦争と人間 第二部 愛と悲しみの山河 監督 | |||||||||
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1970 | 戦争と人間 第一部 運命の序曲 監督 | |||||||||
1969 | 天狗党 監督 | |||||||||
1968 | ドレイ工場 総監督 | |||||||||
牡丹燈籠 監督 | ||||||||||
1967 | 座頭市牢破り 監督 | |||||||||
にせ刑事 監督 | ||||||||||
1966 | 氷点 監督 | |||||||||
白い巨塔 監督 | ||||||||||
1965 | 証人の椅子 監督 | |||||||||
にっぽん泥棒物語 監督 | ||||||||||
スパイ 監督 | ||||||||||
1964 | 傷だらけの山河 監督 | |||||||||
1963 | 赤い水 監督・脚本 | |||||||||
続・忍びの者 監督 | ||||||||||
1962 | 乳房を抱く娘たち 監督 | |||||||||
忍びの者 監督 | ||||||||||
1961 | 松川事件 監督 | |||||||||
1960 | 武器なき斗い 監督 | |||||||||
1959 | 人間の壁 監督 | |||||||||
荷車の歌 監督 | ||||||||||
1958 | 赤い陣羽織 監督 | |||||||||
1956 | 台風騒動記 監督 | |||||||||
1955 | 市川馬五郎一座顛末記 浮草日記 監督 | |||||||||
愛すればこそ 監督 | ||||||||||
1954 | 太陽のない街 監督 | |||||||||
日の果て 監督 | ||||||||||
1952 | 真空地帯 監督 | |||||||||
箱根風雲録 監督 | ||||||||||
1950 | ペン偽らず 暴力の街 監督 | |||||||||
1949 | こんな女に誰がした 監督 | |||||||||
1947 | 戦争と平和 亀井文夫と共同監督 | |||||||||
1943 | 熱風 監督 | |||||||||
1942 | 翼の凱歌 監督 | |||||||||
1938 | 田園交響楽 監督デビュー | |||||||||
1934 | 限りなき舗道 助監督 | |||||||||
1910 | 7'15 鹿児島県で誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||
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皇帝のいない八月 1978 | |||||||||||||||||||||||
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不毛地帯 1976 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1976ブルーリボン助演男優賞(大滝秀治) 1976 |
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金環蝕 1975 | |||||||||||||||||||||||||||
1975キネマ旬報日本映画第3位 | |||||||||||||||||||||||||||
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首相を含む政府首脳の誰が汚職をしたのか、あからさまに暴露する |
華麗なる一族 1974 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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阪神銀行の頭取・万俵大介。関西財界にその名をとどろかせる万俵一族は、子息を次々と政財界の大物と結婚させ、その勢力を広げ、磐石なもとへとしていた。だが、大介には一つ、非常に気掛かりなことがあった。息子が実は自分の子ではなく、自分の父の子ではないか、と言う思いである。しかも彼はことごとく大介の意に反した行動ばかりを行っており、それも疑惑を高めていた…一族の歯車は徐々に狂い始める。 山崎豊子の同名小説の映画化作品(原作は未読)。銀行の名前など、現実に即しているため、当時問題作と言われていたらしい。 内容としては、日本の経済界と政界の癒着について事細かく描かれており、本当にどろどろとした、それでも興味深い作品ではあるが、何にせよちょっと長すぎるんじゃないか?この濃い内容で3時間以上にも渡る作品を作ってしまうとは、監督も凄い人だ。観終わるまでにすっかり消耗してしまった。 経済界と政界の癒着は前々から色々言われていたが、日本経済が右肩上がりの発展をしていた時はそれに目を瞑っていたのだが、バブルが弾けて以来、無茶苦茶言われるようになってしまった。多分これが書かれた時代だと、ブラック・ジョークとして受け止められていたんだろうな。 かえって今だからこそ、再評価されるべき作品ではないかな?今は皆が鵜の目鷹の目で「こんな日本に誰がした」という説明、スケープ・ゴートを求めているんだから。 |
戦争と人間 第三部 完結篇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1937年についに始まった日中戦争。伍代家の人々も否応なく戦争に巻き込まれていくことになる。戦争を足がかりに更なる財閥強化へと進もうとする英介(高橋悦史)は政府や軍部を相手取り様々な手管を使い始める。一方人間の良心と平和に生きる道を信じる俊介(北王子欣也)は戦争の現実を知るため、一兵卒として前線へと赴く。順子(吉永小百合)は反戦運動家標(山本圭)と恋仲となり、家を捨てる。激動の時代にあって、伍代家の人々の行く末は… 山本監督の代表作の一つであり、堂々たる大作時代映画の第三部。1973年邦画興行成績5位。 完結編となる本作は日中戦争の開始から太平洋戦争へとなだれ込む日本を背景に、財閥の兄弟たちのそれぞれの歩みを描いていく。 この兄弟のそれぞれの立ち位置が良くて、彼らそれぞれの正義という観点で見ると、この三部作を通してそれぞれが一貫している。 次期家長となる長男の英介は、家の存続こそが自分の使命であり、それこそが彼にとっての正義だった。その正義のために犠牲にすべきものは次々に犠牲にしつつ、軍や政府を相手に駆け引きを続けていく。 次男の俊介は、戦争はいけないことであり、人は分かり合えるという思いを持っている。言うなれば彼は現代人の代弁者だが、そんな青臭い正義が戦争という現実の前に打ち砕かれつつ、それでも自分の思いを捨てない。 長女の由紀子に関しては、いかにも財閥の長女としての役割が与えられる。好きな人はいても、家長の命令には唯々諾々と従う。自分の意思より家の方を優先することこそが正義である。 次女の順子はそんな由紀子の生き方に反発し、自分が選んだ好きな人についていき、彼を助けつつ生活をして、彼が戦争に連れ去られた後は最後は一人自立して生きようとする。女は自分の意思を持って生きていく事を正義としていく。 四者四様の正義感はぶつかり合いつつ、時代に向かって行くのだが、全員の正義感はやがて戦争の波に呑まれて打ち砕かれていく。理想論が勝つわけでもなければ現実論が勝つ訳でもない。ただ戦争という現実はあらゆるものを粉砕するという事実を冷徹に描く。 しかし、その冷徹さがあるからこそ、観ている側としては、今生きている時代は本当にありがたいとしみじみ思うだろうし、平和に向かいたいという思いが募る。はっきり言えば、戦争というものを冷静に描けば、それだけでれっきとした反戦映画になるのだ。山本監督はそのことを本当に良く理解しているからこそ、エンターテインメントと反戦を見事に結び合わせることが出来たと言える。 本作をそう言う具合に人間ドラマとして観るのも正しい観方だが、でも本作の最大の見所はスペクタクルである。ここで描かれるノモンハンの戦いの迫力たるや。ビデオで観てもその迫力は見て取れるけど、これが劇場だったら、どんだけ眼前に迫ってくることやら。 尚、ここでのノモンハン事件の描写はソ連軍の全面協力という、普通あり得ない強力な助っ人のお陰だそうである。だから使用されている戦車は本物(中には現用の戦車であるT-34-85が使用されていたとか。私には区別つかなかったが)。流石の迫力である。 尚、本作は第四部まで予定されていたらしいのだが、予算を馬鹿食いしすぎの上、映画の斜陽化が進んでいたため、本作で無理矢理完結させられてしまった。 しかし、ラストの虚しさが逆に「これで良い」という思いにもさせられる。堂々たる大作である。 |
戦争と人間 第二部 愛と悲しみの山河 1971 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1971キネマ旬報日本映画第4位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日本が中国に対して攻勢に出ようとしていた時代。伍代家長男英介(高橋悦史)は伍代家と軍部のつながりを強化しようとしていた。そんな兄の姿を見ている伍代俊介(北大路欣也)は、日本の行く末に対しても、自分の家がその中でなそうとしていることについても苛立ちと怒りを隠すことが出来ないでいた。同じく平和と民主政治を求める仲間達と語り合う中、俊介は英介の元婚約者で今は人妻となっている狩野温子(佐久間良子)に対する恋心を燃やしていた。だが俊介の思いはことごとく裏切られ続けていく。そんな中、ついに皇道派青年将校たちのクーデター二・二六事件が起こっていく… 1971年邦画興行成績3位。 第一部があくまで戦争前の、まだ平和な時代に日本が不穏な時代へと踏み込んでいく中、正義感の強い主人公の思いに終始していた感じだった第一部から随分派手になっている感じ。 第二部は二・二六事件から満州事変までの時代に入って歴史が大きく動き始めている。一気に軍拡へと向かう日本の中、青年らしい平和を求める主人公の挫折が物語のメインとなる。 激動の時代、日本が進んでいく道を描きつつ、その中で一個人が出来ることとは何だったのか?という問いかけが描かれていくことになるのだが、国も世論も戦争一直線に向かっている時代に平和を叫ぶという、主人公俊介がしていることはまさに蟷螂の斧と言っても良い。俊介の言っていることは平時においては確かに正しい。しかしいくら正しいことを言ったとしても、この時代の体勢にはそぐわず、ほとんどの人は俊介の言うことを間違っているとして、誰もそれを聞こうともしない。 正義や正しさなんてものは時代の移り変わりで変わっていくものだ。それを丁寧に描きつつ、それでも、時代に流されることのない普遍的な正しさとは何か?その事を伝えようとしているようでもある。 本作で面白いのは、そんな青春の夢を追いかけている主人公を置いてけぼりにして、戦争のシーンがとても勇猛に描かれているところ。仮にこれを再編集して主人公を除いて作ったら、とんでもなく好戦的な作品にも見えてしまうという点だろうか。爆薬と特撮を駆使して描かれる戦争風景は実に見応えある。 逆に言えば、主人公の存在がそれだけ重要だと言うことでもある。俊介が戦争反対を叫んだ直後で勇猛果敢な戦争風景が描かれる。これによって時代に逆らう一人の人間の無力さを徹底的に告げ知らせ、痛烈な戦争批判にされているのだ。これはまさしくモンタージュ技法の最も重要な点であり、この大作で存分にそれを使いこなす山本監督の実力をよく示したところだろう。 ところで俊介のやってることは、時代に反することであり、それはことごとく挫折していくことになるのだが、これを「青臭い生き方」ということは簡単だ。でも、この生き方はある意味とても幸せなのかもしれない。正義のため自分がすべきことは山のようにあって、挫折があってもそれを乗り越える気力は尽きず。自分に力があると思ってる人間にとっては、平穏な世界よりも疾風怒濤の時代に正義を貫けるような、そんな生き方は一種のあこがれと言っても良い。 |
戦争と人間 第一部 運命の序曲 1970 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1970キネマ旬報日本映画第2位 1970毎日映画コンクール監督賞、録音賞 |
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1928年。満州開発で財をなした新興財閥である伍代家は、満州事変を機に、その勢力を益々伸ばそうとしていた。しかしコントロールの利かない戦争を前に、伍代家当主伍代由介(滝沢修)は弟の喬介(芦田伸介)と長男の英介(高橋悦史)と共に軍部とのパイプを通して積極的に日中戦争に介入しようと試みる。一方未だ学生の次男の俊介(中村勘九郎)のみ、この家のやり方に疑問を覚えていく。 怒濤の日中戦争を背景に、軍財閥の一家の浮沈を通して日本が世界に対して何を行ってきたか。と言う事を告発する五味川純平の小説を、社会派監督として知られる山本薩夫監督により映画化。1970年邦画興行成績1位。 その第一部となる本作は、もの凄く力が入っていることはよく分かるんだが、ちょっと力が入りすぎてる感じ。前提条件として原作を知ってないと話のもっていき方が掴めず、しかも基本は群像劇のために話が進んでいるようで進んでなく、かと思うと、あっという間に話が飛んでしまうと言った、あまりバランスの良い話ではない。どうもこれを観てると、最初から二度以上観ることを前提として作ってるんじゃないか?という気がする。それでも一本3時間以上という長さはきついし、何度も観たいと思うものでもないしなあ。出来るんだったら3時間を3作にするんじゃなく、2時間を5本くらい作ってくれた方が良かったような気がするし、むしろこれはテレビの連続ドラマでやるべき素材と言った感じ。 確かに本作は見所には溢れていて、特に満州の荒々しさをここまでストレートに描いた作品はほとんど無いし、そこに偏見を入れないように淡々と描くことによって逆に迫力を増させている作りはたいしたもの。 勿論オールスター登場の濃いキャスティング(本作は日活製作のため、日活スターが多数登場するのも結構珍しい)。貧富の差や男女間のハラスメントを一切考慮に入れてないアブナイ発言の数々など、今からすると「おいおい」描写も数多い。日本映画ってここまで描くことが出来たんだな。という意味合いも含めてかなり楽しめる作品とは言えよう。勿論3時間という時間に耐えられる人だったら。だが。 原作は中国人民の視点がとても強い作品らしいが、一作目の本作は主要キャラが中国に行ってない事から、大滝秀治や地井武男と言った面々が中国人役で頑張ってはいるものの、物語が分断されてしまった感じなのは難点。 |
天狗党 1969 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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座頭市牢破り 1967 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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インチキ賭博を見抜き、そこで捕らわれていた農民を救い、一宿一飯の渡世人の義理を果たした市(勝新太郎)だが、それは恩義を受けた富蔵親分からの反感を買ってしまった。逃亡生活を余儀なくされてしまった市を匿ったのは、農にこそ国を支えるものと考え、農民として暮らす武士の大原秋穂だった。彼から諭しを受け、生まれ変わろうと考える市だったが… これまで既に15本の映画が出来ていたシリーズだが、ここからこれまでのシリーズとは少々異なる雰囲気を持つようになっていく。 それは主演の座頭市を演じる勝新太郎が勝プロダクションを立ち上げ、映画製作にも乗り出したからである。これまでと同じ作風では特徴がないと、新たな風を吹き込むようにしたから。そしてその第一回作品として投入したのが本作となる。 本作を観ると、勝新太郎がどれだけ本作に入れ込んでいたかが分かろう。プロダクションの最初に定番的な物語を持ってきたのは手堅いが、作品そのものをこれまでとは全く違う位置づけで作っている為、かなりの異色作ができあがった。 まず監督を社会派監督の山本薩夫に依頼したと言う時点で、どれだけ本作を大切にしていたかということが分かる。これまでのシリーズとは明らかに一線を画した異質な物語になっている。 座頭市はシリーズとしては長命だが、長いシリーズの場合、どうしてもパターンに陥ってしまいがち。固定ファンをつなぎ止める為に演出はどんどん派手に荒唐無稽になり、その分設定やら物語性を単純化させてしまうこととなる。その最たる例が本シリーズだったわけだが、勝新太郎自身がそれを痛感していたのだろう。だからこそ、刷新する思いで山本監督に任せたものと思われる。 内容的にも、いかにも当時の左翼人が作ったと言う感じで、農民と搾取者との対立を主軸に、この殺伐とした時代に人として生きるとはどういうことなのか?ということを真っ正面から描いている。 その視線はとても新鮮で面白い。ただ申し訳ないのだが、この手の物語はちょっとお説教じみていて、軽く引いてしまうし、主題が社会的な重さに重点を置いている分、物語のテンポが悪い。 あと、どんなに善人ぶっていても、搾取者は悪であるというオチに持って行ったのは、後味が悪いだけでなく、「資本家は悪」という単純な構図に見えてしまうのでモヤモヤした気分にさせられてしまった。 仮にこれがシリーズの第一回作品であれば、諸手を挙げて「名作」と言えたのだが、シリーズのてこ入れとしてはふさわしくなかったのでは?という思いが沸々と。 シリーズの中の作品としては必ず観ておくべき作品には違いないけど。 |
白い巨塔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1966ブルーリボン作品賞、脚本賞(橋本忍) 1966キネマ旬報日本映画第1位 1966毎日映画コンクール日本映画賞、監督賞、脚本賞 |
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国立浪速大学医学部の第一外科に勤務する助教授財前五郎(田宮二郎)。東教授(東野英次郎)の後任教授として最有力候補だった。だが、医術としての腕は立つが、その権力志向と持ち前の傲岸さで敵も多かった。東教授は何とか彼を後任にしないよう、画策するのだが、そのために対立が持ち上がる。しかも財前の医療ミスが発覚し…
日本が誇る傑作映画で、この年の日本の映画賞はほとんど本作で持って行かれてしまい、同年に公開され、現代ではこれ又傑作として名高い『けんかえれじい』(1966)さえ駄作と談じられてしまった。 これは色々考えさせられる作品。この作品において主人公の財前は確かに権力志向の部分はあっても、基本的に優秀な外科医であり、普通の市民だし、大体その権力志向だって、岡山に残した母の切なる願いを叶えるため、そして周りから押されて。と言う側面の方が強いし、教授となって大学に残れないとなれば、行く当てもないし…結局彼は普通の人間に過ぎないわけだ。それがどろどろとした権力抗争に自らを置くことで、様々な欲望を身にまとう事になる。しかもこれは誰だって起こり得ると言う部分がはっきり見える分、薄ら寒くなる。私だって同じ立場に置かれたらなあ…結局主人公との自己同化は、この作品においては見事に出来ていた。 医者というのは人の命を扱う職業だけに、プレッシャーも高いし、仮に誤診で患者を殺してしまった場合など、それがばれると「人殺し」と呼ばれかねない恐ろしい職業である。しかも優秀になればそれなりのプライドも出来るだろうし…裏に回るとどういう世界なのかと思わせられたりもする。しかもこれが普通の人間に押しかかるわけだから…医者にならなくて本当に良かった(笑)。実は弟が医者をやっているので、今度そこら辺についてちょっと聞いてみようと思ってる(笑) ただ、この作品がドラマとして完成度が高いのは元の小説の上手さに負うところが大きい。原作はとにかく長いが、それを脚本で巧く持っていき、凝縮した分見応えがあるし、主人公の田宮二郎が上手いから、自分だったらどうだろう?などと想像させてくれるのも良い。 この作品は後に同じ田宮二郎主演でテレビドラマにもなった、まさに田宮の代表作といえる作品である(ちなみにこれは田宮が大映の会社側と喧嘩してしまい、映画から干されてしまったため、テレビに転身したから)。 |
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氷点 1966 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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にっぽん泥棒物語 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1965ブルーリボン監督賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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続・忍びの者 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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忍びの世界に絶望し、抜け忍となって雑賀のマキ(藤村志保)と所帯を持つ五右衛門(市川雷蔵)だったが、信長の忍者狩りで二人の愛児を失ってしまう。復讐の鬼と化した五右衛門の前に現れた服部半蔵(伊達三郎)は、彼に信長暗殺の手はずを教える… 忍びの者としての過酷な運命を描いた前作『忍びの者』は重厚にして、権力に押しつぶされる庶民の姿を忍者を通して見事に描いていた。流石社会派山本監督。一筋縄ではいかない物語と感心していたのだが、続けて続編の本作を観て、もうそんなレベルではない。感心を通り越して感動した。一作目は闇の者としての忍者の存在を、失敗した任務として描いていたのだが、こちらは歴史に関わる物語の裏で暗躍する忍者の姿として、今度は成功物語として描いている。 物語も良い。この話ではキー・パーソンとして服部半蔵が現れるが、同じ伊賀の者として、五右衛門を手助けするように前半部分で見せておいて、その裏が徐々に分かってくる訳だが、最初良い人だと思ってたのに、徐々に怖くなっていく。半蔵がやってることは全て秀吉を利することばかりで、てっきり秀吉配下の素破と思わせておいて、最後の最後にどんでん返しで、実は…という展開が上手い具合に機能してる。 勿論歴史を知ってると服部半蔵が誰の配下であるかは分かってしまう訳だが、それでも途中までは結構そのまま騙されてしまう。良い具合にどんでん返しの作品としても観られる。 「一人や二人の忍者がこの世を動かす時代は終わった」。まさにその通り。時代の激変の時代に生き、そして死んだ石川五右衛門の生き様が見事だった。 そして本作をユニークたらしめているのは設定部分。 基本的に忍者としては一流であっても、発想は人並み(あるいはそれ以下)の忍者は、結局権力者によって翻弄されるばかり。自分で正義を行っていると思っていながら、その正義も又、人から与えられた考えに過ぎない。それが忍者という存在とされているのだが、これは普通の人だったら誰でもそうである。 だから、本作はいわゆる一般人に対して、これが私たちの生きている時代の似姿であるという事を語る、いわば社会派問題を語る作品でもある。ここに登場する五右衛門は、誰でもなり得る立場であり、それに翻弄されている、視聴者に対する警告でもあるのだ。 まさしくこれこそが山本監督が得意とする社会派作品の真骨頂であるとも言える。娯楽作品でありつつ、社会派作品を忘れていない監督の魅力が詰まった作品として楽しめる作品となってる。 |
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忍びの者 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1962ブルーリボン助演男優賞(伊藤雄之助) 1962毎日映画コンクール女優助演賞(岸田今日子) |
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戦国末期。伊賀の石川村に生まれた下忍五右衛門(市川雷蔵)。織田信長(城健三朗)の襲撃を受けた伊賀頭領の百地三太夫(藤林長門守)は、復讐のため全ての忍者に信長暗殺を命令する。五右衛門も、町人に身をやつし尾張へと向かうが… それまで一種のスーパーマンのように描かれていた忍者を、荒唐無稽な忍術使いではなくリアルな存在として描いた初めての作品で、これによって新たな忍者ブームを引き起こしたという曰く付きの一本。 本作と続編の『続・忍びの者』を連続して観たが、この二つを連続で観ると、とにかく凄い!の一言。流石は社会派監督の筆頭に挙げられる山本監督。あくまで娯楽作として作りながら、忍者として生きる人間の悲しみや、時代の重みに押しつぶされる姿勢の人間をしっかりと描いてくれている。 元となる小説はあるとはいえ、石川五右衛門が忍者の一人だってのも面白い解釈だし、その行動は戦国ならではのもので、実によろしい。 それでこの物語だと、濃い役は伊藤雄之助と城健三朗(=若山富三郎)に任せ、主人公の市川雷蔵がかなり引いた立場にある。“忍ぶ者”としてあくまで時代に流されるだけの一人の忍者をしっかり演じていたのが良い効果を上げている。 これまで社会派作品ばかり作っていたので、アクションは苦手か?と思っていたが、そこら辺も結構良い出来で、流石一流監督と言った感じ。 強いて言うなら、もう少し忍者の里の描写を丁寧に描いていれば、その悲しみってのがもっと拡大されていただろうけど、アクションにも力を入れていて、この時間に収めたのだからバランス的にはこれで良いのかな? |
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松川事件 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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武器なき斗い | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1960キネマ旬報日本映画第8位 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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荷車の歌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1959キネマ旬報日本映画第4位 1959毎日映画コンクール監督賞、音楽賞 |
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人間の壁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1959キネマ旬報日本映画第6位 1959毎日映画コンクール監督賞、男優助演賞(宇野重吉)、音楽賞 |
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台風騒動記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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太陽のない街 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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真空地帯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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かつて士官の金入れを盗んだ罪で二年間服役していた木谷一等兵(木村功)は、1944年の冬に原隊復帰を果たした。かつて国のために尽くす意欲は人一倍あった木谷は2年の間にすっかり人が変わっており、最低限の事以外はせず、ただ宿舎の寝台の上に座ってばかり。既に原隊に彼を見知った人はおらず、しかも刑務所帰りという風評はあっという間に広まり、彼は疎んじられるようになる… 日本軍隊生活を始めて本格的に描いた野間宏の長篇小説「眞空地帯」の映画化。真空地帯とは、訳も分からずに2年もの刑務所暮らしをしなければならなかった木谷の時間であり、同時に建前上軍隊であってはいけない派閥争いと蹴落としの事実をかけたもの。山本監督の実体験も加え、軍隊の非人間性を強調した最初の映画でもある。 山本薩夫監督と言えば、イメージとして大作映画監督という感じがあるが、それ以前は主に社会派の作品で名をなした人で、反戦映画であればメジャーになった後も結構色々な作品も作っている。本作はメジャー以前であるから独立系の北星映画で製作されたもの。予算的にもきつかったことが画面を観ていても分かり、戦争映画であるにもかかわらず戦闘シーンは全くなく、イジメのシーンも今ひとつ迫力が感じられず。画面もほとんどが暗いばかり。 とはいえ、本作の設定自身は大変面白い。戦時中とは言っても、実際には前戦で戦っているのはほんの一握り。後方に行くに従い、戦争そのものよりも組織としての内部のごたごたの方が多くなっていく。そんな実に人間くさい抗争に巻き込まれてしまった不器用な男の話である。 まさにこれは『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』(1993)における後藤隊長の名台詞「戦線から遠のくと、楽観主義が現実にとって代わる。そして、最高意思決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けているときは特にそうだ」の世界であり、日本人として普遍的な組織の話である。事実これはちょっとだけ視点を変えてみると、現代の物語に置き換えることだって出来る。会社のお偉いさんの言うことを聞いていることが正しいことだ。と思っていたら、いつの間にか抜き差しならないところに来てしまった。こんなもの、現実世界にはいくらでもゴロゴロしてるんだし、最近特にテレビでよく見る会社の偽装事件で頭を下げている人の多くは、こういう人が大部分じゃないかとも思える。当時もそうだったんだろうけど、現代の目から観ても、リアリティは少しも損なわれていない。日本って国は本当に変わらないもんだと、呆れるほど。そう言う意味では、自らの身に置き換え、かなり“痛い”作品であることは確か。 低予算のため演出はとてもちんまりした印象があるが、それを閉塞感にしてしまったのだから、演出も頑張ったとは言えるだろうか。 ただ、その閉塞感が本作の肝のため、本作を観る場合、かなり気合いが必要であることは申し添えておこう。 |
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ペン偽らず 暴力の街 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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織物で有名な東条町。ここは実はヤミ織物の本場だったが町の有力者と政治の癒着により一切の摘発は行われず、一見平和な町に見えていた。だが裏では劣悪な労働環境にあえぐ職工や、大儲けしている仲買人、暴力団などにより、民主主義がないがしろにされていたのだ。その事を聞き込んだ大学出の大東新聞の新米記者北(原保美)は、正義感に燃えてこの町の取材を敢行するが、町ぐるみの隠蔽工作と恫喝に撤退を余儀なくされてしまう。しかし、明るい町をつくる運動が青年たちの間から生れはじめていることを聞き、今度は新聞社全体に応援を求め、今度はヴェテラン記者川崎(池部良)が東条町へとやってくる。ここに一つの町を巻き込んだと呼ばれる民主主義運動が始まったのだ。 戦後すぐに埼玉県本庄市で起こった新聞記者襲撃事件に端を発した新聞社と町の対決を取材したルポルタージュ「ペン偽らず 本庄事件」を元に作られた社会派作品。 本作は実話を元にしているのみならず、事件が起こってほんの数年後、しかも完全決着がついていない事件を題材に使っているだけに、その緊張感が画面を通して伝わってくるような生々しさを感じさせてくれる。本当に社会派作品というのは、このような作品を言うのだろう。下手に物語を脚色せず、実際にあった事件をそのままぶつけたといった感じ。それが生々しさになっている。 ただ一方、社会派作品の弱点も見事に出た作品でもあり。映画として考えるならば、物語として盛り上がりの場所が分かりづらいのだ。後の山本監督はその辺のバランスを上手く作るようになったものだが、まだこのあたりでは、話がだらだらと続くだけの話になってしまい、一方的な新聞社の正義感ぶりが続くだけ。更に新聞社全体が主人公のため、主人公を特定しにくく、中心点がよく分からないという弱点もあり。 リアルタイムでこれを観てる人は、新聞記事などで事件のことがある程度分かっているからこそ、本作の意味合いが分かってくるのだろうが、時を経て本作を観ると、それだけではよく分からない。実際調べてみて「あー、こんな事件があったんだな」と分かってようやく意味合いが分かる。 映画にとっても民主化という題材はとても重要なもので、それを周知させる役割を自認して作られたのだろうが、今の目で観ると、意気の高さがやや空回りした印象も受ける作品。端的に言えばバランスが悪い。社会派監督山本薩夫の習作と言ったところだろうか? ちなみに本作は、日本映画演劇労働組合が総力を結集。本作のために特別に製作委員会を立ち上げて東宝、松竹、大映等各撮影所のメンバーをはじめ劇団関係の俳優まで呼び集めて作られたという迫力の作品でもある。映画が社会に対して責任感を持っている。と自負が強かった頃の作品だ。 |
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戦争と平和 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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太平洋戦争時、固く結ばれた健一(伊豆肇)と町子(岸旗江)の夫婦がいた。だが健一は大陸での戦争で負傷し、生死不明となってしまう。夫の帰りが絶望と知り、生まれたばかりの子供と悲嘆にくれる町子の前に幼なじみの康吉(池部良)が現れる。そして康吉と再婚する町子だが、戦争の災禍はますます激しくなっていき、康吉は精神を病んでしまう。そんな時に奇跡的に生き残り、家に帰ってきた健一は… 戦後の日本の風景を描いた作品で、山本薩夫監督とドキュメンタリー作家の亀井文夫監督の共同監督によって製作された。 この作品に関しては色々と問題がありすぎるのは認める。イデオロギー色が高すぎるとか、人間ドラマのはずなのに、妙にのっぺりしてるとか。しかし、それでもこの1947年という年にこの作品が作られたと言う事実は重い。何せ、つい先頃まで、劇中にあったように、戦争で人が殺され続け、街頭でバタバタ人が死んでいたのだ。いや、この映画が作られた当時でさえ、戦争の痛みはまだ生々しいものだったはずだ。アメリカでは前年に『我等の生涯の最良の年』(1946)が公開されていたが、復員兵の悲惨さで言うなら、そんなものじゃない。本作はあまりに生々しすぎる。本当に衝撃的な、ただしあまり直視したくない作品に仕上がっている。 当時の日本を代表する亀井文夫、山本薩夫という二人の監督が共同で演出しているのも興味深い。 その時代に作られた。それだけで絶対現代では作ることの出来ないリアリズムがある。あの街角はセットの中とは言っても、外に出れば同じ光景を目にすることだって出来たはずなのだから。この作品はつまり、時代が作り出した映画だったと言うこと。しかもここにニュース番組を挿入する事によって、時代性というものを否応なしに見せつけさせる。鬼気迫る作品とも言えるだろう。 頭の中ではまだ戦争が続いており、それ故現実と自分の心を合わせることが出来なかった男の役を池部良はちゃんとこなしていた。 その時代だから出来た映画というのは確かに存在する。これは邦画において、確かにこの時代でしか出来なかった作品に他ならない。 ちなみにここで家を焼かれた中国農民の姿が映し出されているが、これは日中戦争時代に検閲で上映禁止とされた亀井文夫監督の『戦ふ兵隊』(1939)の冒頭で使われていたものだとか。 |
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