| 1898'5'16 |
東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区湯島2丁目辺り)に、父・善太郎と母・まさの長男として誕生 |
| 1907 |
近所に開校した石浜小学校へ転入する。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた。 |
| 1913 |
浅草の浴衣の図案屋に弟子入り |
| 1916 |
黒田清輝の主宰する赤坂の葵橋洋画研究所に入り、1年間にわたり洋画の基礎を学ぶ |
| 1917 |
名古屋の陶器会社の図案部に入社するが、すぐに辞めて東京に戻る |
| 1918 |
神戸又新日報社に入社し、図案や短歌部門などを担当する |
| 1919 |
新聞社を退社し、自宅に戻る |
| 1920 |
日活向島撮影所の俳優の富岡正と親しくなり、向島撮影所に入る。俳優志望だったが、演出助手に回される |
| 1922 |
田中栄三監督の『京屋襟店』で助監督 |
| 1923 |
『愛に甦る日』で監督デビュー |
| 1923'9'1 |
関東大震災が発生し、それにより溝口の自宅は焼失し、父や甥とともに向島撮影所に避難した |
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震災の被害を撮影した『廃墟の中』を監督する |
| 1923'11 |
向島撮影所が閉鎖され、京都撮影所に入る |
| 1925'5 |
痴話喧嘩が元で愛人から切りつけられてしまい、スキャンダルが新聞沙汰になる |
| 1926 |
『紙人形春の囁き』と『狂恋の女師匠』はスランプを脱した作品として高く評価された |
| 1927 |
ダンサーの嵯峨千恵子(本名は田島かね、通称千恵子)と結婚。後に精神病となる。 |
| 1930 |
ミナ・トーキー方式を使用して、部分的に歌やセリフを付けたパート・トーキー作品『藤原義江のふるさと』を撮影したが、雑音が多くて技術的には失敗した |
| 1932 |
自身初のオール・トーキー作品『時の氏神』を撮影 |
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日活を退社し、白井信太郎の誘いで新興キネマに移籍した |
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入江プロダクションの第一回作品『満蒙建国の黎明』の監督に抜擢されるが、編集途中で放棄してしまう |
| 1934 |
新興キネマと契約が切れたことで退社し、永田雅一の要請で日活多摩川撮影所に入社するが、山田五十鈴主演の『愛憎峠』を撮った後に退社 |
| 1934'9 |
第一映画社の創立に参加 |
| 1936'3 |
日本映画監督協会の結成メンバーとなる |
| 1936'10 |
新興キネマ大泉撮影所に入社 |
| 1937 |
日本映画監督協会初代会長の村田実が死去。2代目会長に就任 |
| 1939 |
松竹に招かれて松竹京都撮影所で残菊物語を監督 |
| 1940 |
新興キネマを退社し、松竹と契約を結ぶ |
| 1940'11 |
内閣映画委員として、紀元二千六百年式典に参列 |
| 1941 |
プロパガンダ映画として『元禄忠臣蔵』前後篇を撮影する |
| 1942 |
国策団体の大日本映画協会理事に就任する |
| 1946 |
松竹に乞われ一旦入社し、組合の長に推されるが、すぐに退社。 |
| 1949'5 |
日本映画監督協会が任意団体として再建され、溝口は再びその会長に就任した |
| 1950 |
日本映画監督協会は事業協同組合に改組され、それに伴い溝口の肩書きは会長から理事長に変更 |
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松竹を退社しフリーとなる |
| 1952 |
『近松物語』でブルーリボン監督賞受賞 |
| 1953 |
大映専属となる |
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雨月物語でサン・マルコ銀獅子賞、イタリア批評家賞受賞 |
| 1954'9 |
大映取締役に就任し、重役監督となった |
| 1954'10 |
日本映画監督協会理事長を小津安二郎に交替 |
| 1954'11 |
映画監督として初めて紫綬褒章を受章 |
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