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溝口健二

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溝口 健二
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 子役時代は加藤雅彦、沢村マサヒコ名義もあり。日本映画を代表する監督のひとり。ワンシーン・ワンショットや移動撮影を用いた映像表現と完全主義的な演出で、社会や男性の犠牲となる女性の姿をリアルに描いたことで知られている。小津安二郎や黒澤明とともに国際的にも高い評価を受けており、1950年代にはヴェネツィア国際映画祭で作品が3年連続で受賞し、フランスのヌーヴェルヴァーグの監督などにも影響を与えた。


生涯
生い立ち

1898年5月16日、東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区湯島2丁目辺り)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれた[1][2]。3人姉弟の2番目で、7歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男がいる[3]。父方の祖父の彦太郎は、明治維新後に神田で請負業を営み、日清戦争や北清事変では軍夫を募集して戦地に送っていた[4]。善太郎は大工[5](屋根葺職人という説もある[6])で、一儲けしようと折からの日露戦争を当て込んで軍隊用雨合羽の製造事業を始めたが、いざ売り出そうとした時に戦争が終結したため失敗した[5]。まさは御殿医の家の娘だったが、夫に忠実に苦労続きの生活に耐え、やがて病に倒れた[1]。善太郎の事業失敗で借財がかさみ、家も差し押さえられたため、1905年に一家は浅草玉姫町(現在の台東区清川辺り)に引っ越した[2]。この時期の溝口家は貧窮のどん底生活を送り、口減らしのために寿々は養女に出された[5]。

1905年に溝口は私塾の田川学校に入学し、1907年には近所に開校した石浜小学校へ転入した[2]。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた[7]。1911年秋、小学6年生の溝口は岩手県盛岡市の親戚のもとへ預けられ、翌1912年に同地の小学校で卒業するまでの約半年を過ごしたが、盛岡へ預けられた理由は溝口にも分からなかったという[8]。東京の実家に戻ると中学進学を希望したが、父の反対で叶わなかった。養子の口もいくつかあったがいずれも上手くいかず、退屈な毎日を送っているうちにリウマチを患い、約1年間の闘病生活を送った[8]。溝口は一家を貧困に陥れ、母を苦労させた無能力な父を憎むようになり、その関係は悪化していった[7][8][注 1]。この頃、寿々は養家から日本橋の芸者屋に奉公に出され、やがて半玉になると客で子爵の松平忠正に落籍され、妾宅に囲われる身となった(後に正妻となる[注 2])[8][11]。一家は寿々からの仕送りによって経済的に支えられ、暮らしも少しは楽になった[2][8]。

1913年、溝口は絵を描くのが好きだったことから、浅草の浴衣の図案屋に弟子入りした。同じ図案屋仲間の弟子には、松竹蒲田撮影所の監督で小津安二郎の師匠となる大久保忠素がいた。しかし、浴衣の図案に物足りなさを感じ、日本橋浜町の模様絵師に弟子入りした[8]。この頃、一家は寿々が父の隠居所としてあてがった日本橋新場橋(現在の日本橋と兜町の境)の家へ転居した[2]。1914年12月には貧苦の家庭で苦労し続けた母が亡くなり、それにより溝口の父に対する反発はさらに強まった[8][11]。やがて溝口は本格的に画家の道を志し、1916年に黒田清輝の主宰する赤坂の葵橋洋画研究所に入り、1年間にわたり洋画の基礎を学んだ[2][注 3]。この頃、研究所近くの劇場ローヤル館でローシーがオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたことから、溝口もそれを手伝っているうちにオペラに嵌まり、浅草オペラに通い詰めた[9]。また、寄席で講談や落語に親しむなど江戸趣味に凝り始め、トルストイ、ゾラ、モーパッサンなどの外国文学や尾崎紅葉、夏目漱石、泉鏡花、永井荷風らの小説を読み漁った[9][12]。

洋画研究所を出てからも絵の勉強は続けていたが、それだけでは食っていけないため、花柳界育ちで顔の広い寿々の口利きで、1917年に名古屋の陶器会社の図案部に職を得た。しかし、溝口はどうにも働く気にはなれず、入社翌日に東京へ舞い戻った[12]。翌1918年、神戸又新日報社で広告の図案係を募集していることを知り、銀座にある東京支社に志願すると簡単に採用され、月給40円で神戸の本社へ赴任した[13]。溝口は広告取りなどの仕事をする一方で、自作の短歌を紙面に載せたり、当時盛んだった新劇に熱を上げたりしていた[2][3]。この頃は気の合った仲間3人と関西学院大学前に一戸を借り、「三昧荘」と名付けて合宿していた[13]。しかし、神戸又新日報も1年で辞めてしまい、東京に戻ると寿々の家に居候した[2]。20歳を過ぎても定職がない溝口を寿々たちは心配したが、溝口は仕事を探そうともせず、図書館や美術館に通ったり、浅草でオペラや活動写真を見物したりして日々を過ごした[9][14]。
映画界入り

1920年、溝口は向島で琵琶を教えていた友人の所へ遊びに行くうちに、琵琶を習いに来ていた日活向島撮影所の俳優の富岡正と親しくなり、富岡の手引きで向島撮影所に出入りするようになった。そのうち新進監督だった若山治と知り合い、若山の撮影台本の清書などを手伝っていたが、同年5月に若山に勧められるまま向島撮影所に入社した[14]。当時、映画の仕事は社会的に低く見られていたため、父や姉は入社にあまり賛成しなかったが、溝口がどうしても入りたいと言ったため、ようやく許可が下りた[15]。溝口ははじめ俳優を志望していたが、最古参監督の小口忠の監督助手に入れられ、俳優の手配をしたり、毎日スタッフの弁当の伝票を書いたりするなどの雑用もこなした[14]。1922年には田中栄三監督の『京屋襟店』で助監督につき、田中にその能力を認められた[3]。しかし、同年11月の『京屋襟店』完成試写後に13人の所属俳優と阪田重則などの監督が連袂退社するという騒動が起き、その前後には小口も日活を退社したため、スタッフが手薄になった。溝口はこうした状況の中で、田中の推挙により監督昇進を果たした[16][17]。

1923年2月、溝口は若山の脚本による『愛に甦る日』で監督デビューした[2]。同月には監督2作目の『故郷』を発表したが、検閲でズタズタにカットされたため、やむなく琵琶劇をつなぎに入れて公開した[注 4]。溝口は5月公開の『敗残の唄は悲し』で初めて注目され、7月公開の『霧の港』で新進監督としての評価を得た[2]。同年9月1日には関東大震災が発生し、それにより溝口の自宅は焼失し、父や甥とともに向島撮影所に避難した[20]。撮影所は軽い被害を受けただけですみ、溝口は早速会社の命令でカメラマンの気賀靖吾とともに震災後の市内の実況フィルムを撮影し、次に震災を題材にした劇映画『廃墟の中』を監督した[20][21]。しかし、向島撮影所は閉鎖と決まり、11月に溝口を含む所属者たちは京都の大将軍撮影所に移った[20]。大将軍時代は1ヶ月に1本のペースで幅広いジャンルの作品を撮影したが、そのほとんどが不評で、スランプの時期と言われた[2][22]。

この頃の溝口は、毎夜のごとく祇園や先斗町、木屋町通などで飲み歩いていたが、1925年2月頃に木屋町のやとなだった一条百合子と親しくなり、やがて同棲生活を始めた[3][23]。しかし、百合子とは痴話喧嘩が絶えず[23]、同年5月末に『赫い夕陽に照らされて』のロケ撮影から帰宅後、百合子に背中を剃刀で斬りつけられた[3][24]。傷は大したことがなくて命に別状はなかったが、この刀傷沙汰はスキャンダルとして新聞の三面記事に書き立てられたため、『赫い夕陽に照らされて』の監督を降ろされ[注 5]、さらに会社から3ヶ月の謹慎処分を受けた[2][24][25]。溝口は起訴を免れて東京へ行った百合子を追い、ヨリを戻したが、結局別れて京都に戻り、9月に日活に復社した[3][25][注 6]。翌1926年公開の『紙人形春の囁き』と『狂恋の女師匠』はスランプを脱した作品として高く評価され、前者はこの年に始まったキネマ旬報の日本映画ベスト・テンで7位に選ばれた[2][26]。

1926年末、溝口は俳優の中野英治に連れられて行った大阪のダンスホールで、ダンサーの嵯峨千恵子(本名は田島かね、通称千恵子)と知り合い、次第に親密な関係になった[27][28][29]。しかし、千恵子にはオペラ歌手の夫がおり、彼を世話していたヤクザの親分から呼び出しがかかった。青ざめた溝口は、撮影所庶務課員で笹井末三郎とも親しかった永田雅一の力を借りて千恵子の身辺を清算し、翌1927年8月に永田の媒酌で結婚した[29][30]。この年から1928年にかけて溝口の作品数は減り、体調を崩すこともしばしばあった[2][31]。1928年5月には撮影所が大将軍から太秦に移転し、溝口はその新撮影所の脚本部長に就任し、しばらく監督業から離れた[3][31]。9月には昭和天皇の御大典記念映画を監督する話が出たが、撮影所の都合で延期となり、次に溝口初の時代劇を大河内傅次郎主演で撮る話も出たが、これも実現しなかった[31]。1929年1月公開の泉鏡花原作『日本橋』でようやく監督に戻り、同年は主題歌と共にヒットした『東京行進曲』や、当時隆盛した左翼思想を反映した内容の『都会交響楽』で成功を収めた[3]。
トーキー時代
戦前期の溝口の代表作のひとつである『浪華悲歌』(1936年)のポスター。

1929年5月以降、日本ではアメリカのトーキーが公開され、早速国内でもトーキーが作られ始めた[32]。1930年に溝口もミナ・トーキー方式を使用して、部分的に歌やセリフを付けたパート・トーキー作品『藤原義江のふるさと』を撮影したが、雑音が多くて技術的には失敗した[2][32]。1932年には自身初のオール・トーキー作品『時の氏神』を撮影したが、撮影終了直後の4月4日に日活を退社し、白井信太郎の誘いで新興キネマに移籍した[2]。同社で最初の仕事は、入江たか子の独立プロである入江プロダクションの第一回作品『満蒙建国の黎明』(1932年)で、2か月間に渡り満州各地でロケ撮影をしたが、編集作業が手に負えぬほど無茶苦茶に撮ってしまい、途中で編集を放棄して雲隠れしたという[3][33]。その次に再び入江プロで鏡花原作の『瀧の白糸』(1933年)を撮影した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれ、サイレント映画時代の溝口のピークとなった[34][35]。

1934年3月、溝口は新興キネマと契約が切れたことで退社し、日活の製作部長だった永田雅一の要請で日活多摩川撮影所に入社した[3][35]。同社では山田五十鈴主演の『愛憎峠』を撮ったのみで、8月22日に永田が日活を退社すると溝口も行動を共にし、9月に永田らと第一映画社の創立に参加した[3][36]。同社では鏡花原作の『折鶴お千』(1935年)をはじめ、『マリアのお雪』『虞美人草』(1935年)などを撮影したが、いずれも低調な評価で再びスランプに突入した[37]。1936年公開の『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』では批評家から高い評価を受け、キネマ旬報ベスト・テンでは前者が3位、後者が1位に選ばれ、スランプを脱することができた[38]。岸松雄はこの2作を「日本映画史上に輝かしい金字塔を打ち立てた」作品と評し[38]、佐藤忠男は「それまでもベテランとして尊敬されていた溝口を、さらに巨匠という最高級の呼び名で呼ばれる存在にした」作品と述べている[39]。

1936年3月、数十人の日本映画の代表的監督が、互いの親睦を図るとともに、日本映画の向上に尽くす目的で日本映画監督協会を結成した[40]。溝口もその創立メンバーに名を連ね、これを機に小津安二郎、清水宏、山中貞雄などと親交を結ぶようになった[40][41]。同年9月、第一映画社が経営難で解散し、溝口は翌月に上京して新興キネマ大泉撮影所に入社し、山路ふみ子主演の『愛怨峡』(1937年)、『露営の歌』『あゝ故郷』(1938年)を撮影した[2][38]。

その間の1937年6月には、日本映画監督協会初代会長の村田実が死去。島津保次郎、小杉勇らと臨終に立ち会い[42]棺を担いだ。葬儀後、溝口は村田の後任として2代目会長に就任した[2]。1939年には白井信太郎に招かれて松竹京都撮影所で1本撮ることになり、村松梢風原作の『残菊物語』を監督した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれた[41]。同年秋には清水宏、内田吐夢、熊谷久虎らとともにキネマ旬報創刊20周年記念の満州視察団に加わり、帰国後の12月には内閣の映画委員に任命された[3][41]。

松竹時代

1939年末に溝口は新興キネマを退社し、翌1940年に松竹と契約を結んだ[2]。溝口は早速『渡邊崋山』と『五代友厚』の企画を提出したが、どちらも会社側が乗らずに中止した[43]。同年3月、松竹は時代劇映画の質的向上のため、封切日を定めずに時間をかけて秀作を製作する特作プロダクションを設立し、溝口はその1作目で田中絹代主演の『浪花女』(1940年)と、2作目で初代中村鴈治郎の追善記念映画『芸道一代男』(1941年)を撮影した[2]。1940年11月には内閣映画委員として、紀元二千六百年式典に参列した[44]。この頃の溝口は急激に愛国心が高まり、日本民族の精神を鼓舞するような真の国民映画を撮りたいという熱意から、1941年に真山青果原作、前進座のユニット出演による『元禄忠臣蔵』前後篇(前篇は1941年、後篇は1942年公開)を撮影した[44][45]。この作品は戦時体制下の映画会社の統合によって特作プロが合流した興亜映画(同年末に松竹に吸収された)で製作され、溝口が美術や考証を徹底したことで莫大な製作費がかかったが、興行的にも批評的にも成功を収めることはできなかった[2][44][45]。

『元禄忠臣蔵 後篇』を撮影中の1941年12月、溝口の妻の千恵子が精神に異状をきたした[46][47]。千恵子は勝気で気性の激しい女性であり[48]、溝口にぞんざいな口を利いたり、月給を全部取り上げて小遣いもろくに与えなかったりしたが、その一方で溝口の作品を客観的かつ正確に批評してくれる人物でもあった[47][49]。2人は時には激しく喧嘩することもあったが、溝口は妻に弱く、精神的に頼りきっていた[49]。そんな妻の病気を知った溝口は号泣したが、妻を精神病院に入院させるとすぐに撮影現場に戻り、何事もなかったかのように撮影を続行した[46]。溝口は妻の病気の原因が自分にあると思い込み、その後も悩み続けた[49]。千恵子は終生病院を出ることはなかったが[48]、溝口はその後千恵子の弟の未亡人である田島ふじを事実上の妻に迎え、その2人の娘を養女とした[50]。

1942年、溝口が会長を務める日本映画監督協会が戦時統合で解散し、国策団体の大日本映画協会に合流することになり、溝口は同協会の理事に就任した[51][52]。この頃の溝口の映画作りは難航し、織田作之助の脚本で大阪物を作ろうとしたり、大化の改新を描く作品を検討したりしたが、いずれも実現はしなかった[3]。1943年、軍部の要請で松竹が企画した日華親善映画『甦へる山河』の監督を務めることになり、上海へ約1ヶ月間の視察旅行をした[52]。この視察旅行は軍の委嘱によるものだったが、溝口は軍属としての待遇が将官待遇ではなく佐官であることに不満を表明し、「上海の陸軍報道部長が大佐であるのに、溝口が将官待遇では命令が出せない」と言われて納得したという[52][53]。しかし、この作品もロケの困難さや製作費がかかりすぎるなどの理由で製作延期となった[52]。その後は戦局が大きく傾き、物資窮乏で劇映画の使用フィルムが制限される中で、『団十郎三代』『宮本武蔵』(1944年)、『名刀美女丸』(1945年)といった1時間程度の中編を撮影し、さらには情報局募集国民歌の宣伝映画『必勝歌』(1945年)を共同監督したが、いずれの作品も失敗作と見なされている[45][52][54]。

終戦後の1946年、溝口は人手不足だった松竹大船撮影所に呼ばれて『女性の勝利』を撮影した[3]。同年4月には松竹従業員組合の委員長に選出されたが、就任の挨拶でいきなり「この後、諸君に命令いたします」と言い、組合員たちを唖然とさせたという[3][55]。結局、溝口はすぐに組合の仕事から手を引き、京都に戻って『歌麿をめぐる五人の女』(1946年)、『女優須磨子の恋』(1947年)を撮影したが、いずれも不評で戦中からのスランプが続いた[52][56][57]。とくに松井須磨子が主人公の『女優須磨子の恋』は、衣笠貞之助監督の東宝作品『女優』(1947年)と競作になるも、評価が集中したのは『女優』の方であり、作品的に敗北を喫した[52][57]。1948年公開の『夜の女たち』はキネマ旬報ベスト・テンで3位に選ばれるなど高評価を受け、溝口の復活を印象付けたが、翌1949年公開の『わが恋は燃えぬ』は再び失敗作となり、もとの低調さに後戻りした[52][57]。

1949年5月、日本映画監督協会が任意団体として再建され、溝口は再びその会長に就任した(翌1950年に協会は事業協同組合に改組され、それに伴い溝口の肩書きは会長から理事長に変更した)[58]。この頃の溝口は、六代目尾上菊五郎主演で松竹が企画した『名工柿右衛門』の監督に決まっていたが、同年7月の菊五郎の死去により中止となった[3]。さらに原節子主演で予定した『美貌と白痴』も中止となり、その次に戦時中から映画化を望んでいた井原西鶴原作の『西鶴一代女』に着手しようとしたが、これもまた松竹と意見が合わなかったため中止となり、これが原因で翌1950年に松竹を退社した[3][59]。
晩年
『近松物語』(1954年)のポスター。

松竹を退社してフリーとなった溝口は、新東宝と滝村和男プロダクションの提携で舟橋聖一原作の『雪夫人絵図』(1950年)、旧知の永田雅一が社長を務める大映で谷崎潤一郎原作の『お遊さま』(1951年)、東宝で大岡昇平原作の『武蔵野夫人』(1951年)を撮影したが、この3本も失敗作となり、長いスランプから脱出できずにいた[2][60][61]。それでも『雪夫人絵図』の時の監督料は200万円で、当時の日本映画界で最も高給取りの監督となった[62]。1951年7月の『武蔵野夫人』公開直後には、クレジットタイトルに「監督」ではなく「演出」と表記されていたことから、日本映画監督協会を通じてクレジットの表記を「監督」に統一することを各社に徹底させ、映画監督の権限や表現の自由を守ることを訴えた[63][注 7]。

1951年9月、黒澤明監督の『羅生門』(1950年)が第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。これに強い刺激を受けた溝口は、念願の企画だった『西鶴一代女』を新東宝と児井英生プロダクションの提携で撮影した[2][64]。この作品は興行的に失敗したが、同年の第13回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、国際賞を受賞した[2]。この受賞は溝口に大きな自信を与え、ようやく戦後の長いスランプから脱出することができた[29][65][66]。その後、溝口は東宝との契約を1本残していたことから、石坂洋次郎の短編小説『憎いもの』の映画化に着手したが、シナリオをめぐり東宝と意見が対立したため実現には至らなかった[66]。結局、東宝との契約が未消化のまま、同年秋には大映と専属契約を結んだ[66]。

1953年、溝口は大映専属の1作目として、上田秋成原作の『雨月物語』を撮影した[66]。この作品も第14回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、溝口は『祇園囃子』撮影後の8月、脚本の依田義賢や主演の田中絹代らとともに映画祭に出席するためイタリアへ渡った[3][67]。日蓮宗の信者である溝口は、滞在先のホテルの部屋に日蓮像の軸をかけて受賞を祈願したという[41][68]。『雨月物語』は第2席賞である銀獅子賞を受賞する。この年は金獅子賞の授与がなかったため、実質的な最高賞となった[2][41]。翌1954年には森鴎外原作の『山椒大夫』が第15回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞し、これで3年連続の映画祭受賞となった[67]。この年は『噂の女』と近松門左衛門原作の『近松物語』も撮影しており、後者ではブルーリボン賞の監督賞を受賞した[67]。

この頃、日本映画界ではカラー映画が普及し始めていたが、溝口も1954年6月に永田やカメラマンの宮川一夫らとともにカラー映画研究のため渡米した[3]。翌1955年には自身初のカラー映画として、大映と香港のショウ・ブラザーズの合作映画『楊貴妃』を撮影し、その次にカラー映画2作目となる吉川英治原作の『新・平家物語』を撮影した[3]。この2本は商業的成功を収め、『楊貴妃』は第16回ヴェネツィア国際映画祭に出品されたが、4年連続の受賞とはならなかった[2][69]。同年8月、大映取締役の欠員1名の補充で衣笠貞之助とともに候補に挙がったが、衣笠が辞退したため、9月の株主総会で正式に大映取締役に就任し、重役監督となった[3]。10月には日本映画監督協会理事長を小津安二郎に交替した[70]。そして11月には映画監督として初めて紫綬褒章を受章した[3][69]。

死去

1956年、溝口は最後の監督作となる『赤線地帯』を撮影したが、その前後から好きな酒が美味しくないと言い出したり、歯茎から出血したりするなど、体調に異変が見られた[71][72]。この作品の完成後、溝口は次回作として『大阪物語』の製作準備を始めたが、この時も夕方になると微熱が出たり、足が紫色に変色したりするなどしたため、5月に製作準備を中止して京都府立医科大学附属病院の特別病棟に入院した[2][72][73]。溝口は骨髄性白血病と診断されたが、病名は本人には知らされず、永田などの大映首脳部のみに知らされた[2][72]。溝口は毎日のように輸血をしたが[74]、白血病は不治の病だったため、そのまま回復に向かうことはなく、8月24日午前1時55分に58歳で死去した[2][72][73]。亡くなる前日には「もう新涼だ。早く撮影所の諸君と楽しく仕事がしたい」と絶筆を残していた[75]。溝口作品で美術監督を務めた水谷浩は、溝口の死去当日にデスマスクを制作した[76]。

8月30日、青山斎場で大映による社葬が営まれた[71]。戒名は常光院殿映徳日健居士[2]。墓は東京の池上本門寺の子院である大坊本行寺に建てられた[29]。京都の満願寺にも分骨されて碑が建てられ、永田雅一が碑の側面に「世界的名監督」と刻ませた[2][29]。溝口の訃報はちょうど開催中だった第17回ヴェネツィア国際映画祭の会場にも届き、出品されていた『赤線地帯』の上映に先立ち、追悼の言葉が捧げられた[2][77]。撮影に至らなかった『大阪物語』は、1957年に吉村公三郎監督によって映画化された[2]。同年8月には産経新聞社の主宰で、日本映画の最優秀作品の監督やスタッフに贈られる「溝口賞」が創設されたが、授与はわずか3回で終了した[78][注 8]。
作風
テーマとスタイル

溝口は生涯を通して、封建的な社会や男性の犠牲となる女性を描き続けた[79][80]。映画研究者の斉藤綾子によると、溝口が描く女性には2つのタイプがあるという。1つは、男に尽くし、社会の犠牲となり、身を持ち崩したり極限まで貶められたりするが、それでも情を忘れないひたむきな女性、すなわち男の立身出世を助けるために喜んで身を捧げ、自己犠牲を遂げる女性である。その例は『残菊物語』『雨月物語』『山椒大夫』に見られるが[79]、映画批評家の佐藤忠男は、泉鏡花原作ものの『日本橋』『滝の白糸』『折鶴お千』でも女芸人や芸者が若者の男の出世を助け、その犠牲となって身を滅ぼす姿が描かれていると指摘している[81]。もう1つは、同じく社会や男性の犠牲になるが、そのような社会や運命に必死に抵抗する女性であり、その例は『浪華悲歌』『祇園の姉妹』『夜の女たち』『赤線地帯』に見られ、娼婦や芸者などの淪落の女性を描く場合が多い[79]。佐藤によると、その一方で男性の描き方は、女性を助けることにおいて無力であったり、女性に対して卑怯な態度をとったりする場合が多く、強くて頼もしい男らしい男は滅多に登場しないという[82]。

溝口の特徴的なスタイルは、自然主義的なリアリズムである[83]。溝口は人間とその生活する場所を徹底的に観察し、虚飾のない生身の人間を赤裸々に描くことで、人間のありのままの姿を捉えた[84][85]。また、その人間は冷徹な目線で突き放すようにして描いている[86]。溝口作品の脚本家の依田義賢によると、溝口はよく「人間の体臭が匂うように描かなくてはだめ」「かんきつ(奸譎)な人間を描いてほしい」と注文したという[87]。溝口のリアリズムは『唐人お吉』(1930年)と『しかも彼等は行く』(1931年)で確立し[34]、『浪華悲歌』『祇園の姉妹』で頂点に達した[38][84]。『浪華悲歌』では大阪の職業婦人、『祇園の姉妹』では祇園の芸者を主人公にして、男性本位の社会に反抗し、犠牲となる女性の姿を冷徹に描き、セリフで関西弁を徹底的に使用するなどしてリアリズムを追求した[38][39]。佐藤は、この2作を「日本映画のリアリズムはここでひとつの完成を見た」と評している[88]。

リアリズムと並ぶ溝口の特徴的なスタイルは、唯美的傾向に近い情緒を持つロマンティックなスタイルである[89][90]。この作風は下町情緒を描いた『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』で定まりはじめ、泉鏡花原作の『日本橋』『滝の白糸』『折鶴お千』や、1930年代の『神風連』『愛憎峠』『マリアのお雪』『虞美人草』の「明治物」と呼ばれる作品など、明治風俗を様式的に表現する新派悲劇的な作品などに見られた[37][90][91]。松竹時代の『残菊物語』『浪花女』『芸道一代男』も明治物の系譜に位置する情緒的な作品であるが[92][93]、この3本は歌舞伎や文楽などの伝統芸能の世界を描いた作品であることから「芸道三部作」と呼ばれている[94]。

溝口は新しい動向に敏感なところもあり、時流や流行の変化に便乗して新しい題材の作品も作っている[95][96]。日活向島時代にはルパンを翻案した探偵ものの『813』(1923年)や、ドイツ表現主義の影響を受けた『血と霊』(1923年)を撮影した[96]。1920年代の左翼思想の高まりを背景に、左翼的イデオロギーを打ち出した傾向映画が流行すると、溝口も『都会交響楽』『しかも彼等は行く』で傾向映画に挑戦した[97]。1930年代になると、満州事変直後に『満蒙建国の黎明』、日中戦争開戦後に『露営の歌』を作るなど、軍国主義の時流に便乗した作品も手がけている[96]。終戦直後にGHQの指導で民主主義啓蒙を目的としたアイデア映画が作られるようになると、溝口も『女性の勝利』『女優須磨子の恋』『わが恋は燃えぬ』でアイデア映画を手がけたが、この3本は女性の自立や解放をテーマに描いていることから「女性解放映画三部作」と俗称されている[98][99]。
撮影手法

溝口の最も特徴的な撮影手法は、ショットを割らずにカメラを長回しすることで、現実の時間をそのまま捉えるワンシーン・ワンショットの撮影と、クローズアップを極力排してロングショット(遠景ショット)やフルショット(全身ショット)を多用したことである[100][101]。溝口がこの手法を採用したのは、ショットを割ることで演技の流れが中断されるのを嫌い、またクローズアップやカットバックなどの技法を使うことで「ごまかし」が利き、完全な演技を求めることができなくなると考えたためである[102][103]。溝口が初めてワンシーン・ワンショットを採用したのは『唐人お吉』であり[104]、『残菊物語』でひとつの様式として完成した[105]。『残菊物語』では主人公の男と女が夜の堀端を歩きながら話をするシーンで、ずっと歩きながら話をする2人の姿を、路面より低い堀の中から見上げるような角度でカメラを構え、5分以上の長回しによるワンシーン・ワンショットの移動撮影を行っている[105][106]。流れるように巧みな移動撮影も、溝口の特徴的な撮影手法である[107]。とくにクレーンを使用した移動撮影を好み、クレーンを必要としない撮影の時でもわざわざクレーンを使うことがあった[108]。
製作方法
撮影現場の溝口(1950年代頃)。

溝口は完全主義者であり、つねに俳優やスタッフにベストを尽くして高度な仕事をするよう求めた[109][110]。俳優の演技を絞り、スタッフに無理な注文を出し、自分が気に入るまで何度もやり直させた[111]。しかし、自分からイメージを伝えたり細かく指示を出したりすることはなく、あらゆる問題の解決方法は俳優やスタッフに委ね、その答えが自分の求めるものになるまで待った[112][113]。溝口は俳優やスタッフに考えさせ、努力や工夫をつくさせたうえで修正し、決定するという方法をとることで、その力を最大限に引き出させた[110][112]。俳優やスタッフを罵倒し、怒鳴りつけることもあり[65]、また役に立たない人物や要求に応えきれない演技をする俳優を容赦なく仕事から降ろした[114]。そのため溝口はしばしば「サディスト」「暴君」「ゴテ健(「ゴテる」は不平不満を言うこと)」などと呼ばれた[110][115][116]。

脚本は自分では書かず、依田義賢や成澤昌茂などの脚本家に執筆させた[113][117]。溝口の脚本作りの方法は、脚本家が書いた第1稿を酷評し、そこから何度も書き直させ、自分の気に入るような脚本に仕上げるというもので、完成するまでに10稿以上も練り直すこともあった[109][117][118]。最終稿が完成してから撮影を始めても、撮影現場に脚本家を呼び寄せてセリフを修正させた[117][119]。その時は、当日に撮影するシーンのセリフを黒板に書き、打合せをしながら俳優にセリフを喋らせてみて、不自然なところや喋りくいところなどを直した[102][117][119]。また、溝口は絵コンテを作らず[120]、撮影現場でリハーサルをする俳優の動きを見ながら、カメラのアングルやポジション、ショットの長さなどを決めた[107][110]。

リアリズムを志向した溝口は、映画美術でも本物の小道具を使ったり、スタッフにその時代の風俗や生活様式などを徹底的に調べさせたりして完璧さを求めた[85][121]。溝口は『唐人お吉』で時代考証の重要性を認識し[3]、1930年代に明治物を作った頃から考証に凝るようになり、小道具のランプひとつに細かく注文を出して1日中粘ったこともあったという[90][122]。美術や衣装や建築などの考証に専門家を招くことも多く、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗や衣装の考証に何度も起用したほか、『狂恋の女師匠』では美術考証に小村雪岱、『残菊物語』では美術考証に木村荘八、『元禄忠臣蔵』では武家建築考証に大熊喜邦、民家建築考証に藤田元春を起用した[113][123]。こうした溝口の美術に対する完璧さの追求が頂点に達したのは『元禄忠臣蔵』である。この作品では徹底した史料調査に基づくリアルな忠臣蔵を志向し、大熊喜邦が所有する江戸城の平面図を基にして松の廊下のセットを原寸大で再現した[85][124]。

俳優への演技指導は、具体的にこうしろという指示は出さずに「やってみてください」と言うだけで、あとは満足のいく演技になるまで同じ芝居を何度もやり直させ、俳優に自分で演技や動きを工夫させるようにした[109][110][125]。悩んだ俳優がどうすればいいのか訊いても「それはあなたが考えてください。あなたは役者でしょう」と突き返した[125]。溝口は具体的に演技指導をしない代わりに、「反射していますか」と何度も俳優に問いかけた。この言葉には、俳優が相手のセリフや動きに反応して動くことができるかという意味がある[110][126]。演技のやり直しは何十回もやらせることがあり、例えば『楊貴妃』では山村聰にワンカットで42回のテストを繰り返させ、『赤線地帯』では三益愛子の舞台的な歩き方が気に入らなくて80回ものテストをさせた[127]。また、俳優たちには、役になり切るために努力することを求めた[128]。文楽の世界を描く『浪花女』では、主演の田中絹代にたくさんの文楽の専門書を読んで勉強するよう命じ、『山椒大夫』でも女奴隷役の香川京子に中世日本の奴隷制度の歴史書や経済史の本を読むことを要求した[119][128][129]。

溝口は俳優の演技が気に入らないとしばしば激怒し、時には悪口雑言を言い放つことがあった[115][130]。『わが恋は燃えぬ』では菅井一郎が少し長いセリフを喋り切れないことに腹を立て、菅井の頭をスリッパで叩き、「精神病院へ行き給え」と言い放った[130][131]。『残菊物語』では主演の北見礼子の子供をあやす演技が気に入らず、「君、子供の抱き方が違う。子供を産んだ経験がないから」と言って降板させた[132]。『雨月物語』でも兵士たちに輪姦される女性を演じた水戸光子の演技に満足せず、「キミはいったい(輪姦された)経験がないんですか」と怒鳴りつけた[130]。『楊貴妃』では入江たか子の演技に満足せず、「何ですかその芝居は。それは猫です、猫芝居ですよ」と罵倒した。猫芝居は当時の入江が主演した化け猫映画のことであるが、化け猫映画はゲテモノ映画として扱われていたため、往年の大スターである入江が落ち目になったという風に捉えられていた[133]。溝口は入江に何度も演技をやらせても不機嫌な態度のままOKを出さず、入江はその気持ちを理解して自ら降板した[114][134]。溝口は過去に入江のプロダクションで『滝の白糸』を作って成功させてもらった縁があったため、周りのスタッフや俳優は溝口があまりにも冷酷だと批判した[114][133][135]。

溝口の製作方法は、俳優やスタッフに最高の緊張感を強いるものだったが、溝口も作品の雰囲気に浸りながら緊張感を作って自分自身を追い込んだ[107][111][136]。撮影現場の緊張感が中断されないようにするため、撮影中は終日現場のスタジオを離れず、昼食時でも外へ出ることがなかった[111][136]。晩年にはスタジオに尿瓶を持ち込み、スタジオの隅で用を足していたという[136][137][138]。『雨月物語』の撮影では、移動撮影用のクレーンの監督席に腰かけていた溝口が、緊張感のあまり力強く手すりを握りしめて小刻みに震え、その振動がカメラにまで伝わってフレームが微妙にずれたため、カメラマンの宮川一夫の進言でクレーンの監督席から降ろされたという[107][111]。
Wikipediaより引用
経歴
1898'5'16 東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区湯島2丁目辺り)に、父・善太郎と母・まさの長男として誕生
5+
4+ 山椒大夫
雨月物語
近松物語
3+
歌麿をめぐる五人の女
噂の女
祇園囃子
祇園の姉妹
残菊物語
瀧の白糸
雪夫人絵図
夜の女たち
浪華悲歌
2+
個人的感想
1998 5'16 死去
1997
1996
1995
1994
1993
1992
1991
1990
1989
1988
1987
1986
1985
1984
1983
1982
1981
1980
1979
1978
1977
1976
1975
1974
1973
1972
1971
1970
1969
1968
1967
1966
1965
1964
1963
1962 ある大阪の女 原作
1961
1960
1959
1958
1957 大阪物語 原作
1956 赤線地帯 監督
祇園の姉妹 原作
1955 新・平家物語 監督
楊貴妃 監督
1954 山椒大夫 監督
噂の女 監督
近松物語 監督
1953 祇園囃子 監督
雨月物語 監督
1952 西鶴一代女 監督・構成
1951 武蔵野夫人 監督
お遊さま 監督
1950 雪夫人絵図 監督
1949 わが恋は燃えぬ 監督
1948 夜の女たち 監督
1947 女優須磨子の恋 監督
1946 歌麿をめぐる五人の女 監督
女性の勝利 監督
1945 必勝歌 監督
名刀美女丸 監督
1944 宮本武蔵 監督
団十郎三代 監督
1943
1942 元禄忠臣蔵 後篇 監督
1941 元禄忠臣蔵 前篇 監督
芸道一代男 演出
1940 浪花女 監督・原作
晴小袖 構成
1939 残菊物語 監督
1938 あゝ故郷 監督
露営の歌 監督
1937 愛怨峡 監督・脚色
1936 祇園の姉妹 監督・原作
浪華悲歌 監督・原作
1935 虞美人草 監督
マリヤのお雪 監督
折鶴お千 監督
1934
1933 瀧の白糸 監督
1932
1931
1930 藤原義江のふるさと 監督
1929
1928
1927
1926 紙人形春の囁き 監督・編集
1925 ふるさとの歌 監督
1924
1923
1922
1921
1920
1919
1918
1917
1916
1915
1914
1913
1912
1911
1910
1909
1908
1907
1906
1905
1904
1903
1902
1901
1898 5'16 

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レビュー
赤線地帯
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成沢昌茂(脚)
京マチ子
若尾文子
木暮実千代
三益愛子
町田博子
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進藤英太郎
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浦辺粂子
入江洋吉
小川虎之助
菅原謙二
多々良純
宮島健一
見明凡太郎
加東大介
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 売春防止法の成立する直前に社会批判をこめて描く。監督の遺作となる。
 大映の興隆の最後となる。
 増村保造が助監督で入っている。
 黛敏郎の前衛的音楽を巡って朝日新聞の津村秀夫との論争も話題となる。
製作年 1956
製作会社 大映
ジャンル 人生(貧困)
職業(風俗)
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原作
州アパラダイス <A> <楽>
芝木好子 (検索) <A> <楽>
歴史地域 江東区(東京)
関連
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wiki キネ旬 eiga.com wiki(E) みんシネ
新・平家物語
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小柳圭子
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 1955年邦画興行成績4位
製作年 1955
製作会社 大映
ジャンル 伝記
時代劇(史実)
売り上げ
原作
新・平家物語 <A> <楽>
吉川英治 (検索) <A> <楽>
歴史地域 1153 平清盛、平氏頭領となる
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山椒大夫
1954ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞(溝口健二)
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相馬幸子
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荒木忍
加藤雅彦
榎並啓子
大美輝子
金剛麗子
南部彰三
伊達三郎
★★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 平安朝末期、平正氏は貴族の出でありながら農民の陳情を受け入れたという罪で筑紫へ左遷されてしまった。正氏の妻玉木(田中絹代)とその子厨子王と安寿の幼い兄妹と女中姥竹の四人は正氏の元へとはるばる旅をしていたのだが、そこで人買いの手に渡ってしまう。母は佐渡へと売られ、子供二人は丹後の大尽山椒大夫のもとに奴隷として売られた。それから10年。奴隷の生活を続けていた二人は、偶然母の消息を知る。安寿(香川京子)は厨子王(花柳喜章)に逃亡を勧め、自らは追っ手の目を眩ますために後に残る。
 森鴎外による同名小説の映画化。この年1954年は邦画の一番輝いていた時でもあった(空前の大ヒットを記録中の『君の名は 第三部』を始めとして、黒澤明の『七人の侍』、成瀬巳喜男の『山の音』、木下恵介の『二十四の瞳』、稲垣浩の『宮本武蔵』。そして本多猪四郎の『ゴジラ』と、大作文芸合わせ、日本映画史に残る作品ばかりだ)。そんなこともあってか、本作を製作した大映は本作に並々ならぬ力を注いだ。海外にも名の売れた溝口健二を監督に、撮影宮川一夫、音楽早坂文雄と取りそろえ、力の入った作品を投入した。ここまでやられたら敬服としか言いようが無く、確かな傑作を作り上げてくれた。
 本作の原作は森鴎外だが、そもそもこれは説経節の「さんせう太夫」を翻案したもので、小説にするにあたり、元々あった政治性と残酷性を排除し、こどもにも読めるように。というソフトタッチの作品に仕上げられていた。その映画化にあたり本作は、逆に本来持つ政治性を、この時代のものに変えて付加しているのも特徴だろう。安寿と厨子王の父正氏の正義感を強く打ち出してみたり、最後の厨子王による奴隷解放を強調してみたりと、更に最後に厨子王が全てを捨てた時に初めて母と再会出来ると言った具合にかなり社会派的な要素を中に入れている。あと、オリジナルでは姉と弟だが、兄と妹に変えてるのもあり(花柳喜章が香川京子より7歳も年長だったから。という単純な理由とも言われる)。
 その部分が鼻につくかどうかと言うところで多少評価は分かれるだろうけど、しかし本作の美術に関しては文句の付けようが無し。宮川一夫による映像美は、早坂文雄の音響の上手さと相まって、キャラが何も言わなくともその心情まで表しているかのよう(前半の母と引き離されるシーンや、ラストの母との再会のシークェンスは、一種の教科書的な描写とされ、日本内外を問わず、多くの映画で参考にされている)。凄まじい演出力を見せつけてくれた。
 ただ、だからといって文句がないという訳ではない。やっぱり主人公厨子王役の花柳喜章が今ひとつはまって見えなかったのが一番の問題。厨子王があまり主体性を持たないように仕上がっているのだが、花柳の演技がオーバーアクション気味で、そこがちょっと興が削がれる。中盤の頃にオーバーアクションを見せておいて、後半に連れて徐々に落ち着かせていくのは演出なのかも知れないけど、そこに至るまでがちょっと引く。

 しかし、こういう「名作」と呼ばれる作品はやはり複数回観てみるものだ。最初に本作を観た時は、チャンバラシーンもなく、盛り上がりにも欠けるなあ。とだけしか印象が無かったのだが、改めて観てみると、凄い作品に見えてくる。次観る時は是非劇場で観てみたいものだ。
製作年 1954
製作会社 大映
ジャンル 家族崩壊
犯罪(復讐)
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原作
山椒大夫 <A> <楽>
森鴎外 (検索) <A> <楽>
歴史地域 筑紫
関連 安寿と厨子王丸(1961)
噂の女
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田中春男
見明凡太郎
十朱久雄
伊達三郎
上田寛
石原須磨男
河田好太郎
小松みどり
小林加奈枝
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
製作年 1954
製作会社 大映
ジャンル 女の一生(人生)
売り上げ
原作
歴史地域 祇園(京都)
関連
近松物語
1954ブルーリボン監督賞(溝口健二)
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十朱久雄
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橘公子
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葛木香一
水野浩
天野一郎
原聖四郎
伊達三郎
石原須磨男
芝田総二
篠原隆
三上哲
横山文彦
藤川準
玉置一恵
堀北幸夫
岩田正
三浦志郎
金剛麗子
仲上小夜子
小柳圭子
種井信子
小林加奈枝
小松みどり
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
製作年 1954
製作会社 大映
ジャンル 恋愛(不倫)
時代劇(恋愛)
売り上げ
原作
近松心中物語 <A> <楽>
近松門左衛門 (検索) <A> <楽>
歴史地域 祇園(京都)
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祇園囃子
1953ブルーリボン助演女優賞(浪花千栄子)
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志賀廼家弁慶
伊達三郎
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小林加奈枝
大美輝子
橘公子
小柳圭子
前田和子
種井信子
三田登喜子
上田徳子
不二輝子
久松京子
岩田正
牧龍介
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 祇園に生まれ育った対照的な姉妹の生き方を描くが、結果としてどちらも男に捨てられてしまうと言う、女の現実を描く。溝口健二の代表作の一本。
 トーキー期リアリズムの代表作。
 独立プロである第一映画で撮影
 ラストは痛切な芸妓批判になっている。
製作年 1953
製作会社 大映
ジャンル 女の一生(人生)
売り上げ
原作
川口松太郎 (検索) <A> <楽>
歴史地域 京都市(京都)
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雨月物語
1953ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞(溝口健二)、イタリア批評家賞(溝口健二)
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川口松太郎
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上田吉二郎
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南部彰三
光岡龍三郎
天野一郎
尾上栄五郎
伊達三郎
沢村市三郎
村田宏二
横山文彦
玉置一恵
藤川準
福井隆次
菊野昌代士
大美輝子
小柳圭子
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 羽柴と柴田による戦乱の続く天正11年。一攫千金を求め、故郷に妻宮木(田中絹代)を残して旅立った陶工の源十郎(森雅之)はある屋敷に招かれ、そこで若狭(京マチ子)の饗宴を受けることに。情熱的な若狭の魅力に溺れ、故郷を忘れる源十郎だったが…
 上田秋成による「雨月物語」「蛇性の婬」「浅茅が宿」の二つの物語をベースに川口松太郎が描き出した小説の映画化作(そもそもの物語自体が中国由来らしいが)。それまで国内のみで有名だった溝口監督が本作で世界的に認められるようになった。
 一種の怪談物語だが、本作は決してそれが単純には終わらせない。男の身勝手さとそれに耐えられなかった女性。そして情念のあまり死霊と化してしまった女性…
 本作が単なる怪談話に終わらないのは、結局男と女の情念そのものを描いたという事実そのもので、だから直接的ではないが、本作は大変エロチックな作品と仕上げられている。
 そのエロチックさはまるで幻のように展開していくストーリーとそれを追うカメラ。そして鬼気迫る演技を魅せるキャラクタ達。それらが見事に繋がり合うことで、エロチックさを直接ではなく、心の奥へと刻みつけてくれる。場面場面がまるでそのまま芸術品のようなもので、そこでまるで息づいているかのような人間達の姿を見せるため、気を抜く暇がない。撮影の宮川一夫、音楽の早坂文雄が見事なはまり具合を見せている。
 愛情というものが介在すると、人の営みは悲劇であると共に喜劇になるものだ。それをヒロイック性で押し隠すのが映画の方法であるとすれば、本作は映画であり続けつつ、映画としての手法を捨て、新しい邦画の方向性を示すと共に、この情念の世界観を西洋的文化の中に放り込んでしまった。一種これも又邦画の誇る代表作の一編である。
製作年 1953
製作会社 大映
ジャンル ファンタジー(日本)
売り上げ
原作
雨月物語 <A> <楽>
上田秋成 (検索) <A> <楽>
歴史地域 1582 本能寺の変
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雪夫人絵図
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浦辺粂子
加藤春哉
夏川静江
久我美子
小森敏
上原謙
石川冷
田中春男
浜田百合子
柳永二郎
木暮実千代
水城四郎
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ

 助監督に小森白
製作年 1950
製作会社 新東宝
滝村プロ
ジャンル 家族崩壊(家族)
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原作
雪夫人絵図 <A> <楽>
舟橋聖一 (検索) <A> <楽>
歴史地域
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夜の女たち
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田中絹代
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永田光男
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大林梅子
毛利菊江
青山宏
槇芙佐子
玉島愛造
田中謙三
加藤貫一
加藤秀夫
岡田和子
西川寿美
林喜美子
滝川美津枝
忍美代子
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 戦中戦後とスランプにあった監督の復帰作となる。社会に対する抗議のメッセージが受け取れる

製作年 1948
製作会社 松竹
ジャンル 女の一生(人生)
職業(風俗)
売り上げ
原作
久板栄二郎 (検索) <A> <楽>
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歌麿をめぐる五人の女
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依田義賢(脚)
坂東簑助
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坂東好太郎
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大原英子
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富本民平
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葉山純之輔
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玉島愛造
加藤貫一
山口勝久
松浦築枝
白妙公子
河上君枝
鏡淳子
滝川美津枝
人川愛子
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
製作年 1946
製作会社 松竹
ジャンル 伝記
売り上げ
原作
歌麿をめぐる女達 <A> <楽>
邦枝完二 (検索) <A> <楽>
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残菊物語
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依田義賢(脚)
花柳章太郎
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梅村蓉子
高田浩吉
嵐徳三郎
川浪良太郎
高松錦之助
葉山純之輔
尾上多見太郎
花柳喜章
志賀廼家弁慶
結城一朗
南光明
天野刃一
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石原須磨男
広田昴
柳戸はる子
松下誠
富本民平
島章
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 歌舞伎界の名家に育った尾上菊之助(花柳章太郎)は、周囲からのおだてにすっかりのってしまい、自らの芸の未熟さに気づかずにいた。そんな彼に子守女のお徳(森赫子)は彼の芸の巷での評判を伝え、修業に励むよう忠告するのだった。これまで褒められるばかりだった菊之助はその言葉に反発するが、やがてそれが本当であることを身に染み、芸の道を突き進むことを決心するのだった。そしてお徳に好意を抱いていくのだが、それを知った彼の両親はお徳に暇を出してしまう。それを怒った菊之助はお徳を連れて家を出、大阪へと向かうのだが…
 溝口監督による芸道三部作の第1作。
 本作は国策映画に反対する溝口監督の意地とされているが、実際は国策映画として作った戦争映画『露営の歌』が失敗してしまったため、やはり自分の作りたくないものを作っても駄目だ。と見切りを付けたためだと言われる。
 戦後の溝口作品に見られる男と女の関係がここにも良く見られるが、そう言う意味では厳しい映画環境の中、自分の出来る範囲で作り上げようとしていることがよく分かる。「芸道三部作」と言うだけあって、ここではその情けなさが芸の肥やしとなり、やがて一本立ちしていくことになるので、一種の成功物語として捉える事も出来るのだが、それに至る過程がやっぱり痛々しい
 溝口映画の特徴として、特に女にだらしなく、碌々稼ぎもない男と、それに尽くす女性という構図があるが、まさにそれは本作で確立されたと見られるだろう。軍国主義の時勢下、よくこんな男女関係を描いて検閲に触れなかったものだと感心する。あまりにも戦いから離れているから逆にOKだったのかな?
 ただ、私の方の問題だが、溝口監督作品のこういう男女の描き方は身近にいすぎるために、どうにも身につまされてしまって、はまりきれないのが残念。
製作年 1939
製作会社 松竹
ジャンル 職業(芸人)
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製作年 1936
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