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ニューヨーク生まれ。役者だったが、映画監督になる事を夢みており、『アメリカの影』で監督デビューを果たす。それがインディペンデンス系映画の走りとなり、現在では「インディペンデント映画の父」とも言われるようになった。ニューヨーク派の中心人物。 本人は至ってシャイで、あまり人と話したがらない人物だったという。 |
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ジョン・カサヴェテスは語る カサヴェテス・ストリームス カサヴェテスの映したアメリカ―映画に見るアメリカ人の夢 |
1989 | 2'3 死去 | |
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ピーター・フォークの ビッグ・トラブル 監督・製作 | |
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ラヴ・ストリームス 監督・脚本・出演 | |
ライク・ファーザー・アンド・サン 出演 | ||
1982 | テンペスト 出演 | |
死霊の悪夢 出演 | ||
1981 | この生命誰のもの 出演 | |
1980 | グロリア 監督・脚本 | |
1979 | ||
1978 | ブラス・ターゲット 出演 | |
フューリー 出演 | ||
オープニング・ナイト 監督・脚本・出演 | ||
1977 | ||
1976 | チャイニーズ・ブッキーを殺した男 監督・脚本 | |
マイキー&ニッキー 裏切りのメロディー 出演 | ||
パニック・イン・スタジアム 出演 | ||
1975 | ビッグ・ボス 出演 | |
1974 | こわれゆく女 監督 | |
1972 | 刑事コロンボ 黒のエチュード 出演 | |
1971 | ミニー&モスコウィッツ 監督・脚本・出演 | |
1970 | ハズバンズ 監督・脚本・出演 | |
1969 | 火曜日ならベルギーよ 出演 | |
俺はプロだ! 出演 | ||
明日よさらば 出演 | ||
1968 | フェイシズ 監督 | |
ローズマリーの赤ちゃん 出演 | ||
1967 | 特攻大作戦 出演 | |
デビルズ・エンジェル 出演 | ||
1964 | 殺人者たち 出演 | |
1963 | 愛の奇跡 監督 | |
1962 | よみがえるブルース 監督・製作・脚本 | |
1959 | アメリカの影 監督 | |
1958 | ヴァージン・アイランド 出演 | |
西部の旅がらす 出演 | ||
1957 | 暴力波止場 出演 | |
1956 | 暴力の季節 出演 | |
1955 | 二十四時間の恐怖 出演 | |
1929 | 12'9 ニューヨークで誕生 |
グロリア 1980 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
1980米アカデミー主演女優賞(ローランズ) 1980ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(カサヴェテス) 1980ゴールデン・ラズベリー最低助演男優賞(アダムス) |
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かつてサウス・ブロンクス・マフィアのボス、トニー・タンジーニ(フランチナ)の情婦で、今は街の片隅でひっそりと住むグロリア(ローランズ)は、隣の夫婦から突然息子のフィル(アダムス)と一冊のノートを預けられる。直後大爆発が起こり、その夫婦が殺されたことを知ったグロリアはいやがるフィルを連れて逃避行を始める。だが、そのノートを巡ってトニーの手が二人に迫ってくる… 一流の俳優ではあるが、監督としても知られるカサヴェテスは、本当に自分の作りたい作品だけを私財をなげうってでも作ると言う側面も持っていた。本人も俳優業は自分の好きな作品を作るため。と公言していたこともあり、そんな彼を慕って多くの役者がほとんど出演料無しで出演してもいるのだが、一方ではカサヴェテス監督作は極めて観念的な作品ばかりなので、興行的には絶対に受けないという事実もあった。特にヨーロッパの批評家からは褒められたとはいえ、散々な結果に終わった『オープニング・ナイト』のお陰で監督は莫大な借金を抱えてしまった。 ただし、それで終わらないのが一流監督と呼ばれるゆえんか、金のためと割り切って本作の制作を了承した訳だが…なんと監督の代表作とまで言われる作品に仕上がってしまった。カサヴェテスは自分の作りたいものを作らない方が立派な作品を作ることが出来ることを奇しくも本作で証明してしまった結果になった(日本にもそんな監督がいるが)。 物語そのものはそんなに複雑なものではない。だけど、流石にこれまで観念的な映画を多数作ってきたお陰か、演出が際だって良い。大変失礼な言い方になるが、ローランズのようなおばさんが主人公では、全然華がなさそうに見えるのに、ところが本当にローランズは美しい…と言うか、とても格好良い!男勝りの活躍を女性ならではの心情を見事に表現していた。ローランズの存在感とカサヴェテス監督の息の合ったコンビネーションのお陰に他ならない。 特にグロリアがフィルとの関係が良い。二人は親子のようでもあり、恋人のようでもあり、相棒のようでも、そして敵同士のようなものでもある。これらの関係が刻々と変わっていくという、間の取り方が絶妙。これが仮に主人公が男であったら、かなり一方的な関係になっていたはずなのだが、それを微妙なものに留めているのが本作の最大の売りと言えるだろう。 尚、監督の予定では子役のアダムスが中心だったそうだが、脚本を書いている内に『子連れ狼』の影響を受けて、脚本を変え、ローランズ中心ののアクション映画に変わっていったとのこと。タランティーノもかなりの影響を受けたと言うから、海外での『子連れ狼』の評価は高いようだ。 |
オープニング・ナイト 1978 | |||||||||||||||||||||||||||
1978ベルリン国際映画祭女優賞(ローランズ) | |||||||||||||||||||||||||||
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大女優マートル=ゴードン(ローランズ)が大成功の内に終わった舞台から帰る途中、彼女の大ファンの少女が車に轢かれるのを目撃してしまう。その光景が目に焼き付いてしまった彼女は以降酒量が増し、新しい舞台の準備も上手くいかなくなってしまう。共演者のモーリス(カサヴェテス)に助けを求めるも、彼はすげない態度をとり続ける。最悪の精神状態の中、ついに泥酔状態で初日舞台を迎えることになってしまうのだが… 役者として順調にキャリアを積んだカサヴェテスだが、監督としては決して恵まれてはいない。作る作品は評論家受けし、熱烈なファンがつくものの、実際は私財を投入し、出演者も無料出演(とは言え、彼らはカサヴェテス作品の大ファンでもあり、“カサヴェテス・ファミリー”とも言われた)という、かつかつの予算で映画制作が続けられていたそうだ。実際カサヴェテス自身も自分が映画に出演するのは次回作を作るためだと割り切っていた節があり。 そんなギリギリの映画製作が続けられてきたが、その中でも極めつけが本作と言われる。 これまでの作品も「難解極まる」と言われていたものだが、本作は特に内容の難解さや上映時間の長さなどが災いし、アメリカでは公開劇場が見つからず、カサヴェテス監督は莫大な借金を負ってしまったという。事実本作が公開出来たのはヨーロッパと日本くらいで、アメリカで上映されたのは実に10年後の1988年になって。実に不運な作品だった。 しかし、今になって本作を観ると、難解とか何とかよりも、ローランズの圧倒的な存在感と、その不安さと言うのが見事に“今の物語”として体現されているかのように思える。オープニングカットなんか私の大好きな『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999)を先取りしたかのようだったし、物語そのものも確かにアメリカよりも日本で受け入れられる要素充分と言った感じ。説明不足で途中のダレ場がちょっときついのがあったけど、大変好みの作品だ(文句を言わせてもらえれば、後30分は落とせたぞ)。 本作でのローランズの演技はもの凄いものがあり、気怠さと不安に苛まれるシーンなんかは圧倒的迫力。そしてそれをサポートするカサヴェテス自身も良い。単なるぶっきらぼうなだけと思われていたが、最後の演技で実は最も彼女を案じていたのが彼自身だと言うことが分かる。カサヴェテスとローランズの夫婦の関係まで垣間見えたりする。 ちなみに本作のため、巨額の借金を作ってしまったカサヴェテスは次回作として全く毛色の違う『グロリア』が作る事になるのだが、皮肉なことに、そちらの方が大ヒットを記録することになる。 |
チャイニーズ・ブッキーを殺した男 1976 | |||||||||||||||||||||||||||
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場末のストリップクラブ“クレイジー・ホース”は今日も繁盛していた。借金の返済も終わり、気の大きくなったオーナーのコズモ=ヴィテリ(ギャザラ)は店がはねた後、高級クラブで飲んでいたが、そこでのポーカーに大負けして、マフィアに借金を作ってしまった。返済できないコズモに、マフィアは借金を帳消しにする話を持ちかけるのだが、それは暗黒街のボス、チャイニーズ=ブッキーを殺せと言うものだった… いわゆる“ニューヨーク派”インディペンデント映画の雄カサヴェテスは、決してインディペンデントのみの監督ではない。いやむしろ監督として有名なのは娯楽作の方。『グロリア』が有名だが、本作も監督の実力をよく示した一本といえよう。 そもそも物語作りそのものは巧いのだ。本作だって犯罪スリラー初挑戦作品であるに係らず、手慣れた作りであり、そこに監督得意の心理描写に深く踏み込んだ物語展開を見せている。 物語上の最大特徴としては、大きな犯罪の出来ない小悪党タイプの主人公が強いられて大犯罪に手を染めねばならないというところだが、事あるごとに主人公の小心ぶりが強調され、そんなことが出来るはずがない。ととうかいの嵐。しかしやらねばならない。というどうどうめぐりに落ち込み、どんどん精神の均衡を崩していく。この描写にかけてはカサヴェテスの右に出る者はおらずで、特にこの過程描写はうまい。 それでガタガタブルブル震えつつ、それでも目的を果たした後、それまでには観られない自信と言うか、ふてぶてしさに変わっていく描写も良い。結局コズモは殺されてしまうことになるが、死を前にして堂々とした態度を崩さず、それまでやれなかった他者に配慮する行動まで見せる。やり遂げた人間の満足感の対比が見事に表されていた。 難解な作品を作るカサヴェテス作品の中でもたいへんバランスに優れた作品と言えるだろうが、実は監督は編集に関わっておらず、それ故に分かりやすかったとも言われている。 |
こわれゆく女 1974 | |||||||||||||||||||||||||||
1974米アカデミー主演女優賞(ローランズ)、監督賞 1974ゴールデン・グローブ女優賞(ローランズ) 1990アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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市の水道工事のヴェテラン現場監督ニック(フォーク)は、夜も昼もなく電話で出勤する毎日。彼の気がかりは妻メイベル(ローランズ)の精神が徐々に均衡を崩していくこと。実はメイベルは強い愛情をコントロールできなくなってきたのだ。そんなある日、夫婦二人で過ごす時間を作るのだが、そんな時にも突発的な事故が起き、ニックは駆り出されてしまう。それをきっかけとしてついにメイベルの精神は崩壊してしまう… |
ミニー&モスコウィッツ 1971 | |||||||||||||||||||||||||||
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フェイシズ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1968米アカデミー助演男優賞(カッセル)、助演女優賞(カーリン)、脚本賞 1968ヴェネツィア国際映画祭男優賞(マーレイ)、イタリア批評家賞(カサヴェテス) 1968全米批評家協会助演男優賞(カッセル)、脚本賞 |
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結婚後14年が過ぎた夫婦リチャード(マーリー)とマリア(カーリン)。夫婦仲は冷えきっており、リチャードは高級娼婦のジェニー(ローランズ)に入れあげてしまい、マリアに離婚を切り出す機会をうかがっていた。そんなある日、二人は決定的な諍いを起こしてしまい、リチャードはジェニーの元へ行ってしまう。残されたマリアは寂しさのあまり友人たちと連絡を取り、彼女を慰める目的で行ったディスコでチェット(カッセル)という青年と出会い、家につれこむのだった。 俳優としても有名なカサヴェテスは、監督としては大変苦労した人で、ハリウッドとは一線を画した映画づくりがスポンサーにはそっぽを向かれ、監督作の大半は自己資金で作らざるを得なかった。 本作はその典型的作品で、ここで遣われた費用はすべて監督自身が自分で稼いだもの。この製作費を捻出するため、カサヴェテスは映画に出演しまくり、昼は『特攻大作戦』(1967)や『ローズマリーの赤ちゃん』に俳優として出演し、その合間にこつこつと作り続け、本作が完成するまで3年間の年月がかかったという。執念のなせる技だ。 内容としては、さすがインディペンデント。明らかにこれは時代の最先端を突き抜けていた。ほとんど会話と表情のみで展開する物語は、明らかに人の内面を焦点にし、人によって傷つけられた心がだんだんと壊れていく過程を克明に描いていく。 一概には言えないが、人間の心が壊れていくにはそれなりに時間がかかることが多い。言われたことがショック過ぎると、それが心にしみこむまで時間がかかり、更にそれを理解していく内に心が蝕まれていき、最終的に爆発してしまう。この時間は場合によりけり。いわゆるトラウマと呼ばれるものは何十年も経過して出てくることもある。 ここでのマリアの場合、リチャードの言ったことを理解するまでに一晩かかった。その間平静な事をしていても、心に対する圧迫はどんどん増していき、逆に気晴らしのお陰でそれが一気に爆発してしまったとも考えられるだろう。 その辺をねちっこく克明に描いて見せたのは、本作がパターンに陥った演技的人間関係ではなく、真実の人間の心を描きたいと思ったからなのだろう。ここまで丁寧に人間の心理をえがいた作品はこの時代のハリウッドでは本作がほぼ唯一。流石インディペンデントの父と言われるだけのことがある(日本映画にはそれなりにあるのだけどね)。 大変素晴らしい作品であることは言うまでもないが、物語そのものが実はかなり退屈である辺りがちょっと残念なところだし、あと長い時間作っていた事もあって、演出の切り替えがかなり不自然な所もあったりして…これを一気に作っていたなら本当に素晴らしい作品になってただろうね。 尚、本作がほぼ役者デビューとなるリン・カーリンは実は当時アルトマンの秘書であり、当時近くのオフィスで仕事をしていた関係で本作に引っ張られたのだとか。 |
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アメリカの影 Shadows |
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1960英アカデミー作品賞、新人賞(ゴルドーニ&レイ) 1993アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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マンハッタンに住む長兄ヒュー(ハード)、次兄ベン(カルーザス)、末妹レリア(ゴルドーニ)兄妹。複雑な家庭環境により、兄のヒューはアフリカ系の血を濃く受け継ぎ、ベンとレリアは白人の血を強く受け継いでいる。それぞれの歌の才能を活かして生活しているが、現実は厳しく、プライドもあってなかなか働き口が見つからない。よるべない世界で生きる兄妹の三者三様の生活を描く。 カサヴェテスが俳優のみならず監督としての実力をまざまざと見せつけた作品で、カサヴェテス監督のデビュー作。当初はプライベート・フィルムのような形で脚本もなく、16ミリで撮影されたが、当時の映画人を始め、大きく受け入れられ、が、すぐに32ミリで作り直されたという経緯を持つ。この作品でカサヴェテスはニューヨーク・インディペンデント映画の父と呼ばれるようになった。奇しくもフランスでヌーヴェル・ヴァーグの嚆矢『勝手にしやがれ』(1959)が作られており、映画の新しい時代を告げる作品だった。 人種のるつぼとも言われるニューヨークを舞台に、当時の若者のやるせなさをそのまま叩きつけたような作品に仕上げられている。 インディペンデント映画を定義づけることは無理だが、製作のシステムに捕われることなく、好きなように作ることが大きな強味。職業としてより芸術家としての監督の力量が問われる作品とは言えるだろう。ハリウッドでは悪名高いハリウッド・コードなるものがあり、混血問題はそれに完全に抵触。絶対に当時のハリウッドでは作ることは出来ないものだった。 特に本作は“生の迫力”と言うものに重点がおかれているのが特徴。世界大戦からすでに15年。戦争は遠く離れ、世界第一国として大きく躍進しているアメリカと言う国。しかしそこで住んでいる人は幸せになっただろうか?この現実を見てみろ!と言わんばかりの骨っぽい作品に仕上げられている。 平和の中で、逆に人間関係はギスギスしたものとなり、どんどん新しいビルディングが建てられるその中で、底辺に住む者たちは余計に生活が苦しくなっている。様々な人種が住むニューヨークの中でも、やはり人種差別は色濃く残り、そのような者たちを食い物にしようとする者たちであふれている。 それまで映画をエンターテインメントとして楽しむため、あるいは記録としてしか考えていなかった人たちにとって、この作品は驚きだっただろう。フィクションでありながら、これだけ現実に即した作品が作れるのか。特に映画人に与えた衝撃は想像して余りある。 世界的に観るならば、それまでにもこのタイプの作品は結構作られていた。フランスではすでにヌーヴェル・ヴァーグの流れが始まっていたし、それ以前にもイタリアのネオ・リアリスモ、日本での敗戦後の生活を扱った作品など。これらは娯楽に迎合するではなく、たとえ辛くとも現実を観ようとする視点を持っていた。しかし、ハリウッドにとってはそれらは遠い海の向うの話で、ハリウッドはハリウッドで独自の作品を作っていれば良いのだ。という開き直りの風潮があった。そんな中で投入された本作は、やはりアメリカではアメリカでしか作られない作品がある。と言うことをはっきりと示して見せたのだ。ニューヨークから始まった流れはニューヨーク・インディペンデント作品の諸作品へ、そしてハリウッドにも取り入れられていくことになる。引いては世界中へと広まっていく(日本ではATGが一番その影響を受けているようだが)。世界的な映画史においても本作は大変重要な位置づけにあるわけである。 本作の位置づけを改めて考えてみると上記のようになるのだが、ただ現代の目から見ると、やはりかなり粗削りな作品ではある。脚本なしの即興で作られていると言うだけあって、根本的に話がよく分からない。一つのシークェンスが終わると唐突に舞台が変わり、そこで新しい(しかも退屈で救われない)物語が展開するため、それを理解するまで観ている側は混乱してしまう。それにこればかりは仕方ないのだが、その当時の空気を吸っていない人間からすると、頭で分かったふりをしても、本当にこの作品のリアルさを共感できないのだから。 その意味では、本作は資料性は高くとも、共感できるレベルには至らない。オチもなく、救いない状況に兄妹が依然として留まっているうちに唐突に物語が終わるので、どうにもすっきりしないまま。特に現代から観るならば、それなりに本作が作られた状況を知っておく必要はある。 本作はカサヴェテスを監督として大変有名になったが、決して本作で大儲けしたわけではないし(撮影開始は1957年で、上映にこぎつけるまで2年かかった)、ほとんど報酬なしで参加した友人スタッフやキャストにも充分報いたわけではない。そもそも監督は本作の試写のあまりの好評ぶりが嫌で、わざわざ撮り直して難解にしたというエピソードもある。決して商業主義で作ったわけではなく、本当に“私はこれを作りたいんだ”という、いわば自己満足のために作られている。しかし、やがてこのスタッフやキャストはカサヴェテス・ファミリーと呼ばれるようになり、常に監督と共にあるようになる。これから製作費不足の中、それでも映画を作り続けていった監督にとって、何よりの収穫はそれらの人たちを得たことではないだろうか。 ビート時代のアメリカを知る、最も資料性の高い作品だろう。 |
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