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トランスフォーマー ビースト覚醒 Transformers: Rise of the Beasts |
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地球にやってきていたオプティマス・プライム以下のオートボットは、故郷サイバトロン星に帰る手立てを失ってしまい、なんとかその方法を探していた。そんな時、宇宙のあらゆる場所へと行くことが出来るトランスワープキーの反応があったことを知る。しかしこれは実はオートボット達とは異なる進化をしたマキシマルズという機械生命体が地球に隠していたもので、これが発動してしまうと惑星を喰らい尽くす巨大トランスフォーマーのユニクロンを呼び寄せてしまうことが告げられる。偶然トランスワープキーを発動させてしまったためにユニクロンの配下テラーコン部隊に襲われた学芸員のエレーナ・ウォレス(フィッシュバック)と、偶然オートボットのミラージュと友だちになったノア・ディアス(ラモス)の二人は無理矢理オートボットとマキシマルズにお協力させられることになってしまう。 マイケル・ベイによって始められ、少しずつ作品も拡大している実写版『トランスフォーマー』シリーズだが、今のところ全作品が一応矛盾なく話がつながっている。ベイ監督による5作品は続きだから当然として、その前史として『バンブルビー』(2018)と本作の存在は、設定的には矛盾はない。 …ないのだが、流石にこんなに大きな事件が二つも続いていて、人類がトランスフォーマーと初めて接触したことになる第一作目の『トランスフォーマー』につなげるのは無理があるし、ユニクロンが地球に封じられたというのも全く事件になってないというのが凄い。それこそ『アルマゲドン』(1998)以上の大事件のはずなのだが、全くなかったことになってるのと、地球にいるはずのマキシマルズが後の事件に全く関わっていないのもおかしい。設定上矛盾がなくても物語としてつながってないのはちょっと問題あるのでは?あるいは並行世界として扱うべきなのか? それはともかく。本作は「トランスフォーマー」と「ビーストウォーズ」の二つのテレビアニメがくっついた話になっていて、かなり画期的な設定を持つ。どっちのテレビシリーズもかなり好きな私にとって、これは大変嬉しいことだった。特に日本語吹き替えでビーストウォーズの面々がCMやってたりすると、ついつい頬が緩む。 で、実際に作品を観てみると、単体の「トランスフォーマー」としては充分及第点つけられる出来だった。 これだけ規模が大きいのだから人類とトランスフォーマーの力関係なんかも入れるべきだったと思うが、その辺は全く考えられておらず、局所的な事件で、トランスフォーマー同士の戦いだけになってしまった。その点は善し悪し。人間の登場人物をだいぶ絞る必要があったのか、その点に関しては「こう作るしかないのか」という思い。 トランスフォーマーのアクションは多かったので、それは良かったか。規模は大きいはずだが『バンブルビー』の続編らしくこぢんまりまとまった感じ。 ストーリーもその点も悪くないのだ。ただそこをそつなく作られてしまうと、折角楽しみにしてきた期待がすっかりしぼんでしまう。 テレビシリーズ「ビーストウォーズ」の楽しみというのはマキシマルズ(サイバトロン)とプレダコンズ(デストロン)の面々による丁々発止の台詞の数々だった。ふんだんにジョークを交えた掛け合いがとにかく面白く、これ聞いてるだけでも楽しい。更にそれに輪を掛けて日本語スタッフが暴走したものだから、吹き替え版の「ビーストウォーズ」はまさしくカオス状態。回が進むにつれどんどんネタがやばくなっていき、最後の方が下ネタから名前いじりまで様々なアドリブでとんでもない話になっていった。それが一番楽しかったのだが、これを真面目に作ってしまうと、肩透かしというか、期待外れというか、ちょっと複雑な思いにさせられてしまう。 特にこの作品ではテレビシリーズのプレダコンズは誰一人登場しないので、欲求不満が高まるばかり。マキシマルズも喋るのはほとんどオプティマス・プライマルとエアレイザーの二人だけ。全く台詞が足りん!台詞に暴走もないので面白くもない。 やっぽり本作は「トランスフォーマー」の整合性をとらず、オリジナルとしてテレビ版「ビーストウォーズ」を下敷きにした作品にしてほしかったというのが正直な感想となる。 |
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クリード 炎の宿敵 Creed II |
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ヘビー級ボクサーとして研鑽を積んだアドニス・クリード(ジョーダン)は、ついにチャンピオンのウィラードとのタイトルマッチに勝利して世界チャンピオンとなる。恋人のビアンカ(トンプソン)とも結婚し、娘も生まれて幸せな日々を過ごしていたが、そんなアドニスに挑戦状をたたきつけた無名のボクサーがいた。ウクライナ出身のヴィクター・ドラコ(ムンテアヌ)というそのボクサーは、かつてアドニスの父アポロ・クリードをリング上で殺害したロシア人ボクサー、イアン・ドラコ(ラングレン)の息子だった。イアンと再会し、その執念を知ったトレーナーのロッキー(スタローン)はアドニスに、相手になるなと忠告するのだが… 私にとっては2019年最初に観た作品となった作品だが、第一発目にこれを観られたことはとても幸運なことだった。前作『クリード チャンプを継ぐ男』(2015)の時も、いや、更にその前の『ロッキー・ザ・ファイナル』(2006)の時もそうだったのだが、観てる最中に多幸感に包まれ、「ああ、私って本当にロッキー好きなんだ」と再確認出来る。少なくとも3回劇場で同じ状態になったので、心底私ってロッキーが好きらしい。 眼福眼福。 前作『クリード チャンプを継ぐ男』のレビューで、このシリーズはロッキーを懐かしむオールドファンだけでなく新規のクリードファンも取り込める強度を持った作品だと言ったが、本作も同じ事が言える。 父を殺したボクサーの息子が最強のライバルとして目の前に現れるという設定は、新旧問わず燃えるものだし、テンプレートな物語を丁寧に作ることでタイミングまでコントロールした、きっちり感動出来る物語として完成させている。この物語性だけで充分すぎる出来とも言える。 一方、古いロッキーファンに取ってみれば、この作品は「よくやってくれた!」と、心からの祝福をもって観られる作品になる。 ロッキーシリーズは本作で通算7作目となるのだが、そのすべてが名作だとは言えない。特に『ロッキー4 炎の友情』(1985)と『ロッキー5 最後のドラマ』(1990)の2作に関しては、どうしても「良作」と言えない。はっきり言えばこの2作は「失敗作」で、シリーズにおいては汚点のような位置づけにある。『4』に関しては、アメリカン・ドリームの行き着く先が冷戦構造での勝利という身もふたもないものだったし、『5』はロッキーの後継者の選定失敗を淡々と描いただけの話だった。 そんな失敗作ではあるが、シリーズから外すわけにもいかず、その扱いが難しい。ある意味シリーズの棘のような位置づけにあった。 だが、そんな失敗作がきちんとフォローを入れることによって、別な意味でちゃんと意味を持つようになった。それが本作の大きな意味合いである。 『4』でのロッキーとドラコの戦いは、あの当時は冷戦構造の上で、単純にソ連を悪者にするだけの話だったのだが、そこで戦ったドラコにもちゃんと“今”があり、積み重ねてきた時間を感じさせる。そしてあの冷徹なマシーンのようなドラコが復讐を通して、ようやく親としての愛情に目覚めるまでが描かれた。決してここまでの時間は無駄では無かったし、『4』も、今の時代にちゃんと即して見ることが出来るようになったと言うことである。もちろんそこに主人公アドニスの成長があってのことで、ここでの戦いは、すべての登場人物にとって意味があったことを示してくれている。 そして後継者を育てるのに失敗した『5』は、同じような経路を辿りつつ、きちんとロッキーを喜ばせる成長を見せたアドニスの姿がトミーに重なり、「ああ、やっと本当の意味でロッキーはボクサーとして成し遂げたんだ」と言う思いにさせられる。 失敗作をフォローしつつ、新たな意味合いを付け足してくれた。本作の意味合いは本当に大きい。 そんな事もあって、画面を見てるだけでなんか涙が次々に…ああ、俺歳食ったとしみじみ… |
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