| 1897'5'18 |
シチリア島ビサッキーノで誕生 |
| 1903 |
一家でアメリカに移住し、ロサンジェルスに住む |
| 1916 |
大学卒業後陸軍に入隊する |
| 1918 |
サンフランシスコの小さなスタジオに入り、その後マック・セネットに雇われロサンジェルスのスタジオで脚本家となる。 |
| 1920 |
除隊し、アメリカに帰化する |
| 1921 |
イタリア戦艦リビアのサンフランシスコ入港を撮影したドキュメンタリー映画『La Visita Dell'Incrociatore Italiano Libya a San Francisco』を公開する |
| 1923 |
ヘレン・ハウエルと結婚 |
| 1926 |
ファースト・ナショナルに移籍する |
| 1928 |
ヘレン・ハウエルと離婚 |
| 1929 |
サウンド・ピクチャー『若い世代』を監督 |
| 1932 |
ルシル・ワーナーと結婚 |
| 1933 |
『一日だけの淑女』で米アカデミー監督賞ノミネート |
| 1934 |
或る夜の出来事で米アカデミー監督賞受賞 |
| 1936 |
オペラハットで米アカデミー監督賞受賞 |
| 1938 |
我が家の楽園で米アカデミー監督賞受賞 |
| 1939 |
スミス都へ行くで米アカデミー監督賞ノミネート |
| 1941'12 |
真珠湾攻撃を受けて映画監督組合の会長職を辞任そ陸軍に入隊する |
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7 本の戦争情報ドキュメンタリー映画を監督または共同監督 |
| 1943 |
『なぜ我々は戦うのか』でNY批評家協会特別賞受賞、レジオン・オブ・メリット賞を受賞 |
| 1945 |
『なぜ我々は戦うのか』で殊勲賞を受賞 |
| 1946 |
素晴らしき哉、人生!で米アカデミー監督賞ノミネート、ゴールデン・グローブ監督賞 |
|
1950年代の赤狩りで、映画界に嫌気が差して引退し、テレビの科学番組を作り始める |
| 1952 |
システム科学シリーズの 4 つの科学関連テレビ スペシャルをカラーで制作する。 |
| 1957 |
映画芸術への顕著な貢献に対してジョージ イーストマン ハウスから与えられるジョージ イーストマン賞を受賞 |
| 1962'5'12 |
ロサンゼルス市議会の投票により、「フランク・キャプラの日」に制定される |
| 1964 |
ニューヨーク万博で『宇宙でのランデブー』 (1964 年)を公開する。実質最後の作品 |
| 1966 |
母校カリフォルニア工科大学から優秀な卒業生賞を受賞 |
| 1972 |
米国功績アカデミーのゴールデン プレート賞を受賞 |
| 1974 |
インクポット賞受賞 |
| 1975 |
『なぜ我々は戦うのか』制作への貢献で米国海軍予備役戦闘カメラグループからゴールデンアンカー賞を受賞 |
| 1982 |
AFI 生涯功労賞受賞 |
| 1991'9'3 |
心臓発作で死去 |