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ワイルダーならどうする?―ビリー・ワイルダーとキャメロン・クロウの対話 _(書籍) |
2002 | 3'27 死去 | |
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
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1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | フロント・ページ 監督・脚本 | |
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | シャーロック・ホームズの冒険 監督・製作・脚本 | |
1969 | ||
1968 | ||
1967 | ||
1966 | 恋人よ帰れ!わが胸に 監督・製作・脚本 | |
1965 | ||
1964 | ねえ!キスしてよ 監督・製作・脚本 | |
1963 | あなただけ今晩は 監督・製作・脚本 | |
1962 | ||
1961 | ワン、ツー、スリー ラブハント作戦 監督・製作・脚本 | |
1960 | アパートの鍵貸します 監督・製作・脚本 | |
1959 | お熱いのがお好き 監督・製作・脚本 | |
1958 | ||
1957 | 昼下りの情事 監督・製作・脚本 | |
翼よ!あれが巴里の灯だ 監督 | ||
情婦 監督・脚本 | ||
1956 | ||
1955 | 七年目の浮気 監督・製作・脚本 | |
1954 | 麗しのサブリナ 監督・製作・脚本 | |
1953 | 第十七捕虜収容所 監督・製作・脚本 | |
1952 | ||
1951 | 地獄の英雄 監督・製作・脚本 | |
1950 | サンセット大通り 監督・脚本 | |
1949 | ||
1948 | 異国の出来事 監督 | |
皇帝円舞曲 監督・脚本 | ||
ヒット・パレード 脚本 | ||
1947 | ||
1946 | ||
1945 | 失われた週末 監督・脚本 | |
1944 | 深夜の告白 監督・脚本 | |
1943 | 熱砂の秘密 監督・脚本 | |
1942 | 少佐と少女 監督・脚本 | |
1941 | 教授と美女 原案・脚本 | |
1940 | 囁きの木陰 脚本 | |
1939 | ミッドナイト 脚本 | |
ニノチカ 脚本 | ||
1938 | 青髭八人目の妻 脚本 | |
1937 | ||
1936 | ||
1935 | ||
1934 | 空飛ぶ音楽 脚本 | |
1933 | ||
1932 | ||
1931 | 女王様御命令 脚本 | |
少年探偵団 脚本 | ||
1930 | ||
1929 | ||
1928 | ||
1927 | ||
1926 | ||
1925 | ||
1924 | ||
1923 | ||
1922 | ||
1921 | ||
1920 | ||
1919 | ||
1918 | ||
1917 | ||
1916 | ||
1915 | ||
1914 | ||
1913 | ||
1912 | ||
1911 | ||
1910 | ||
1909 | ||
1908 | ||
1907 | ||
1906 | 6'22 ウィーンで誕生 |
タイトル | |||||||||||||||||||||||
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フロント・ページ 1974 | |||||||||||||||||||||||||||
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シカゴの新聞社では、デスクのウォルター・バーンズ(マッソー)が、警官殺害事件を起こして死刑囚となった男の独占取材を記者のヒルディ・ジョンソン(レモン)に命じる。だがヒルディは念願叶って、晴れて恋人と結婚することとなったと有頂天で、全くウォルターの話を聞こうとしない。そんな新聞社に、次々と事件関係者がやってきて… 1920年代のシカゴを舞台に、ジャーナリストを風刺したコメディ舞台劇の映画化で、長らくハリウッドのトップを走り続けてきたワイルダー監督の晩年の作品となる(ちなみにこの作品、舞台や設定を変えつつ、何度となく映画化されてもいる)。 ものとしては手慣れた作りのドタバタ喜劇で、名コンビであるレモン&マッソーもいい味を出しているし、物語も二転三転の面白さもある。小ネタ満載の会話のキャッチボールも良し。だけど、なんだろうか?妙に古くさい印象を受けてしまう。 …この「古くさい」という表現が正しいのかどうかは難しいところ。もう随分過去の作品なので、今観る限りでは50年だろうが60年代だろうが70年代だろうが全く関係がないはずなのに、なんだか“古い”と思ってしまうのだ。ヒッピー文化まっさかりで、ニューシネマ流行りの時代背景は確かにあるんだが、そんなことではない。 多分、それはワイルダーが手慣れすぎた手法で作り、新しい部分を全く作ってないというところにあるのだと思う。安定した面白さはあっても、そこには挑戦がなく、真剣に何かを訴える部分もない。言うなれば、本当に力を抜いて作った作品だからなんだろう。それで充分に面白いのだが、その手慣れた部分がどうにも「あと一つ」というところに行ってしまう。 ワイルダーは最晩年になって、本当の意味でルビッチ・スタイルを手に入れたのかも知れない。実際ワイルダーはそれを目指していたのだし、そしてとうとうそこに到達したとも思う。しかし、本来ワイルダー作品として面白い部分はそこではなかったんじゃないかな? 何度も言うが、決して面白くないんじゃない。むしろとても面白いんだけど、それがなんか妙に寂しくなってしまう。 |
恋人よ帰れ!わが胸に The Fortune Cookie |
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1966米アカデミー助演男優賞(マッソー)、脚本賞(ダイアモンド、ワイルダー)、撮影賞、美術監督・装置賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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テレビカメラマンのハリー・ヒンクル(レモン)はアメフト中継中にアフリカ系選手ブンブン・ジャクソン(リッチ)に激突され脳震盪を起こして入院する。それを知った狡猾な義兄の弁護士(マッソー)はケガを重く見積もって多額の賠償金を騙し取ろうと企む。金持ちになれば駆け落ちして逃げた女房も戻ってくるとそそのかされたハリーもその気になり、重体を装うが、ブンブンの献身的な介護を受けている内に… 原題は“The Fortune Cookie”。くじ付きのクッキーのことで、ハリウッドでは何作も同名の映画は作られ続けているが、日本では馴染みがないからこの題になったらしい。 最初に言っておくが、私はこういう善人を騙すお話というのが嫌いだ。殊にそれが良い奴過ぎると痛々しくて見てるのも苦痛になってくる。よって、この作品の採点は私個人の好みから言えば低くなる。 尤も、さすがにワイルダー&レモン。上手く仕上がっている。場面毎にタイトルが出てきて、その意味を推測するのも楽しい(例えば「チャイニーズ・ディナー」とか「ジェミニ作戦」とか、一見訳分からないタイトルが出たりする)し、気が良く、良心の呵責に耐えかねていくハリー役のレモンの演技も良い。特に最後の全てをなげうって真実を告げる時のカタルシスは素晴らしいと思う。 ただ、あのラスト以降の彼らの辿る道筋を思うと、気が重くなるし、何より献身的な黒人役のリッチがあまりに痛々しく、ちょっと見ているのが辛かった。 原題「The Fortune Cookie」の邦訳タイトルもおかしい。 本作で共演したレモンとマッソーは名コンビと言われ、後にいくつかの映画で共演を果たし、又ワイルダーが彼のキャラクタ性を気に入ったお陰で後々のマッソー人気にもつながったのだとか。 |
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あなただけ今晩は Irma la Douce |
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1963米アカデミー音楽(編集)賞、女優賞(マクレーン)、撮影賞 1963ゴールデン・グローブ女優賞(マクレーン) |
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パリの新任警官ネスター=パトゥ(レモン)はその正義感で娼婦の一斉摘発を行うのだが、運悪くそこには上司の警視が客として混じっていた為、馘になってしまう。荒れたパトゥは娼婦のイルマ=ラ=ドローマ(マクレーン)を巡って乱闘を繰り広げ、新しい彼女のメック(ヒモ)となる。だが彼女が他の男に抱かれるのには我慢がならず、イギリス紳士ミスターXになりすまし、客として彼女の前に現れるのだった。夜明けには市場で働き、夜はミスターX、そして夜更けにパトゥとして彼女と共にいる生活が始まった。だが、イルマはパトゥに相手にされていないと感じ始め、ミスターXの方に惹かれていくのだった。 パリで初演された演劇『かわいいイルマ』を元とした作品。 いや、これは笑った笑った。ジャック=レモンの魅力大爆発。と言ったところ。相変わらず小技が冴えているし、ストーリーも馬鹿馬鹿しくて笑える。ビストロの親父が又上手く、この二人が組んでの笑いはとにかく気持ちが良い。マクレインのコケットさも良い。 ややご都合主義的なストーリー展開で、ラストのオチもなんじゃこれは?的なものがあるが、それでも楽しいからOK。ラストの生まれたばかりの赤ちゃんがどう見ても生後1週間以上は経っていたとしても、それも許そう。気持ちいい笑いに無駄な言葉はいらない。 セットも良い。パリの街をセットで全部表現しているのだが、様々な欲望の渦巻く下町が見事に立体化されていた。 ただ、一言言いたい。イルマが自分のお腹の赤ちゃんはミスターXである事をパトゥに告げた時、「女にはピンとくるの」と言う台詞があるが、それじゃ一言言わせていただきたい。そのミスターXが自分の夫であることには気付かないのかい! 公開当時大人気を博したが(1963年の全米興行収入では3位)、売春の取り締まりの側にいた男が、当の売春婦の情夫に転落することで、当時は相当叩かれたし、3度目のアカデミー女優賞にノミネートされたマクリーンも(1回目は『走り来る人々』、2作目は『アパートの鍵貸します』)受賞は逃してしまった。この時、彼女は「なにしろ私は明るいし、気の良い娼婦ばかり演じているから、私に負け役を押しつけやすいのね」と負け惜しみを言ってやはり叩かれるとか、色々物議を醸した作品だった。 |
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ワン、ツー、スリー ラブハント作戦 One, Two, Three |
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1961米アカデミー撮影賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1961年東西に別れたドイツの西ベルリン。コカコーラ会社のベルリン支社長マクナマラ(キャグニー)の元に、米国本社の重役令嬢からスカーレット(ティフィン)がやって来る。更なる出世の糸口と喜ぶマクナマラだが、当人のスカーレットはとんだじゃじゃ馬で、更に滞在期間が2ヶ月も延びてしまったために、イライラし始める。そんな彼女がようやく帰国するとなり、更にアメリカでの重要なポストが内示された。ようやく苦労が報われると喜ぶマクナマラの前に、スカーレットは、なんとドイツ人青年オットー(ホルスト・ブッフホルツ)を伴って現れ、二人は正式に結婚したと告げる… 数々の傑作を監督してきたワイルダー監督が最も脂が乗っていた時期に作られた作品。本作は役者稼業から足を洗って田舎に引き込みたいと望むキャグニーの一種の引退作として作られた。 ワイルダー監督作品に出演して一流の仲間入りをした役者も多いが、ワイルダーは決して役者の魅力に全てを負っているわけではない。ワイルダー監督の作品の数々は、キャラクターの魅力を最大限活かしつつ、いくつもの伏線をさらっとコメディで流して大いに笑わせてくれる作風で、物語としての完成度も非常に高いものばかり。特に脚本のダイアモンドと組んでのコメディは「見事!」と唸らせる作品が多いが、本作も又、よくこれだけごちゃごちゃとした物語を、綺麗にまとめたものだ。と思わせる芸術的な冴えを発揮している。 特に本作の場合、東西に分かれてしまったベルリンという街の特異性と、政治をせせら笑うシニカル性を内在している。ベルリンの壁の抜け道とか、共産党礼賛者に東ドイツの腐敗ぶりを見せつける光景とか、当時にしてはかなり危ない笑いも多数登場。西であれ東であれ、結局理念では人は動かず、最終的に損得勘定で人は動く。これは「アパートの鍵貸します」で作られたパターンだが、それをコメディにしつつ、そこから一歩進ませることもきちんと行われている。東西冷戦を皮肉る作品としては最上の部類に入るだろう。大笑いさせていただいた。 コカコーラという登録商法をそのまま映画に使うのはなんだか違和感があったが、ラストシーンで、空港にはペプシしかコーラがない。というオチにちゃんとまとめられてもいたし。セット撮影には見えないベルリンの描写も良い…と言うか、西と東で全く街の光景が変わるのも面白い。どんどん近代化され、高層ビルが建ち並び始めている西ベルリンを後にし、検問を過ぎてしまうと、今度は廃墟ばかり…ちょっとやり過ぎって気もするけど、これが当時の東西ドイツの実情だったのかもしれない。 設定がしっかりしているためにギャグもきちんと地に足が付いていて、一体どうなるのか?という先の展開が全く分からないまま、落ち着くべきところにきちんと物語が落ち着いていく過程も見事。スクリューボールコメディの基本をきちんと抑えている。 本作はキャグニーの実質的な引退作だったが、これまでキャグニーは唯一コメディの主演が無かったため、最後に。ということで出演を決定したらしい(実はかなりキャグニーは当時かなり病篤く、映画出演もきつかったらしく、その分登場時間を減らされたとのこと)。それでも、本当にこれが初めてか?と思われるくらいにコメディアンが板に付いていた。しっかりネタも仕込まれていて、オットー役のブッフホルツに「デザートはどうだ」とか言ってグレープフルーツを突きだして見せたり(キャグニーの出世作『民衆の敵』(1931)でクラークの顔にグレープフルーツを押しつけたのがキャグニーの人気の始まりだった)、思わず「これがリコの最後か」と呟くシーンとか(これもキャグニーの主演作『犯罪王リコ』より)など、自虐ともとれるギャグを連発。更にその風貌を活かし、会社では怒鳴り散らして社員を萎縮させておきながら、実際は気が小さく、家族からも呆れられているなんて役を上手い具合に演じてくれていた。 これまたバランスの取れた見事な作品の一本と言えよう。 |
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アパートの鍵貸します The Apartment |
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1960米アカデミー作品賞、監督賞(ワイルダー)、美術監督・装置賞、編集賞、主演男優賞(レモン)、主演女優賞(マクレーン)、助演男優賞(クラスチェン)、脚本賞、撮影賞、録音賞 1960英アカデミー作品賞、男優賞(国外)(レモン)、女優賞(国外)(マクレーン) 1960ヴェネツィア国際映画祭女優賞(マクレーン) 1960NY批評家協会作品賞、監督賞(ワイルダー) 1960ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(レモン)、女優賞(マクレーン) |
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競争社会の会社にあって、自分の出世を仕事ではなく、上司に貸しを作ることで成し遂げようとしたバクスターことバド(レモン)。彼は曜日を決め、繁華街に近い便利の良い自分のアパートを上司の情事に使わせていた。そのことを知った多くの上役からアパートレンタルの申し出を受けることになり、バドは自分の部屋に帰ることも出来ず、毎夜町を徘徊していた。ある日人事部長のシェルドレイク(マクマレイ)に部屋を貸したバドが夜更けに自分の部屋に戻ると、彼の意中の人、エレベーターガールのフラン(マクレーン)がベッドに一人、残されていた。 既に一流監督として認識されていたワイルダー監督を、コメディ映画の寵児とし、レモン、マクレーン共々大スターに押し上げた作品。1960年の全米興行成績は7位と大健闘。本作はワイルダー監督が『逢びき』(1945)にインスパイアされて、長く構想していたそうだが、不倫をテーマに出来ないというアメリカの映画事情もあり、製作に至るまでには時間がかかったとのこと(翌年に更にスキャンダラスな内容の『草原の輝き』(1961)が作られているので、丁度ハリウッドが変わろうとしていた時期に当たるのだろう)。ただ本作の場合スキャンダラスな内容よりも社会に対する風刺の方を強調した作品に仕上がっている。 ジャンルとしては社会派ラブコメになるのかな?恋愛と出世の板挟みになって悩むバドの姿はむしろ日本でこそ受け入れられやすいと思う。事実この亜流のテレビドラマは山ほど日本で作られていたため、この映画との出会いは私にとっては少々不幸だった。 残念なことに新味が感じられなかったのだ。なんだい、そんなストーリーかい。ってな感じで、例のパスタをテニス・ラケットで上げるシーンも、初めて観た割にはさほどの感慨も受けず。特に冒頭のいかにもセットですと言った感じの大仰な舞台設定には、ちょっと乗り切れなかった。 しかし、観進んでいく内、引き込まれていった。ジャック=レモンとシャーリー=マクレーンの二人の演技の巧さに、二人を中心にして回る撮影に、見事な音楽に、いつのまにやら本当に引き込まれたのである。これは間違いなく映画であり、きちっと計算されたカメラアングルと、台詞の軽妙さ、そして二人の魅力。気が付いたら、「当たり前」と思っていた物語が全然当たり前でなかった事が分かってしまった(何でもいつもは役者に事細かな演技指導するワイルダー監督が、本作に限ってレモンに全て任せたとか)。 レモン、マクレーンの魅力こそがこの映画の醍醐味だが、その魅力を最大限活かすためにこそ、この映画は最大の努力を払っている。周りの人間も、更に小道具に至るまできっちりと作り上げている。結果として見事に二人にスポットが当てられている。 そう考えると、冒頭のあの大仰なセットさえも、非人間性を強調する上手い小道具に思えてしまう(そのあたり、私も相当単純)。それに直接的な行為を描くこと無しに(ハリウッドの規制によってだが)艶笑ものっぽく作り上げたため、その不自然さが逆に魅力になっているのも面白い。ワイルダーの手腕だろう。 そして、私にとっては最大のこの映画の魅力は、最後の最後に至るまで、二人の関係は平行線のまま。フランを引き留めようにも、バドにはそれに負って立つものがない。その辺りのいじまさが、何とも言えぬ焦りを醸して良い。ラストは分かってるんだけど、それでも最後の大団円はジーンとくる。とにかく二人に惜しみない拍手を送りたい。あと、嫌味な役を見事に好演した上司役のマクマレイの演技の巧さも言っておくべきだろう。 何もかも合理的に考えようとするアメリカニズムと、個人的にそれに反抗しようとする感情。そのせめぎ合いこそがこの二人の関係をしっかり形作っているのだ。単なるラブコメディというより、ブラックジョークを込めた文明批判にも見える。 尚、本作においてオスカー本命と言われていたマクレーンだったが(これが2度目のノミネート)、やはり『バターフィールド8』(1960)で主演女優賞にノミネートされていたエリザベス=テーラーが授賞式一月前に肺炎で倒れると言うハプニングが起こってしまった。その同情票が一気に集まってしまい、この年はテーラーが受賞してしまう。後に「私も喉に傷痕があれば受賞できたのに」とマクレーン自身が述懐している。 原題は『The Apartment』という単純な題なので、これも邦題の傑作と言えようか。 |
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「ビリー・ワイルダーは、ゴミ箱の中に一輪の薔薇を咲かせた」byジャック・レモン |
お熱いのがお好き Some Like It Hot |
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1959米アカデミー衣装デザイン賞、主演男優賞(レモン)、監督賞(ワイルダー)、脚色賞(ダイアモンド、ワイルダー)、撮影賞 1959英アカデミー男優賞、作品賞 1959ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(レモン)、女優賞(モンロー) |
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禁酒法時代のシカゴ。マフィアのボス、コロンボ(ラフト)の地下酒場でそれぞれベースとサックス奏者として働くジェリー(レモン)とジョー(カーティス)はFBIのガサ入れ直前に逃げ出すことに成功するのだが、偶然そこでコロンボが殺人を犯す所を目撃してしまう。コロンボの手を逃れるべく女装してジョゼフィン、ダフネと名乗って女だけのジャズ楽団に入団し、マイアミに向かう。ジョーは楽団員のシュガー(モンロー)に一目惚れし、ジェリーは大富豪のオズグッド(ブラウン)に惚れられてしまう。そこに偶然やって来たコロンボ達。追いつ追われつ、そして恋の行方は? ワイルダー監督が放つコメディ大作(とはいえ、実は本作はインディペンデント映画にカテゴライズされる)。レモン&カーティスの女装姿、スタンダード・ナンバーとなったモンローの歌う「I wanna be loved by you」、ラストのブラウンの名台詞など、映画史に残る名作。1959年全米興行成績では堂々の4位を取っている。 これは大変残念な思い出がある。当時東京在住の私は銀座の名画座でこれが上映されていることを知り、是非とも観に行きたいと思っていたのだが、丁度空きの日に残業が入り、行けなかった。今となっては何と残念なことをしたか。凄く悔しい。 結局テレビ版(ジャック=レモン追悼特集)で観た訳だが… 冒頭でいきなりハードな展開。ギャングとFBI、そしてマフィア同士の抗争!ここでシリアス展開か?と思わせておいて、次にいきなりレモンとカーティスの女装!と言う突飛なことをやってくれる。しかもモンローの登場シーンは白黒のくせに、まるで光が差すかのような華やかさを感じ取れる。 しかもその後の展開がまるでお馬鹿で凄く笑える。ジョーとシュガーの恋愛はともかくも、ジェリーとオズグッドの話は吹き出しまくり。ただし、ギャングの登場では全くギャグを入れず、そのギャップが凄い。 ちゃんとストーリーにも起伏を持たせ、最後はハッピー・エンドへ…?なんで男のジェリーとオズグッドがハッピー・エンドなの?しかし、確かにこれ以上ないほどのハッピー・エンドなのだ。 モンローの映画は実はこれが唯一観たものだが、ちゃんと演技してる。それに彼女がセクシー・アイドルというのはイヤと言うほど分かった。これは確かに凄い。 レモンは相変わらず表情の変化が楽しく、特に笑いながら相棒のカーティスに対して怒るシーンは絶品。竹中直人が昔笑いながら怒る芸をやっていたが、あれ以上。自分が「男」であるのか、「女」であるのか、迷うシーンが何ヶ所かあるが、それも上手かった。この女役を演じるために、二人は特訓をしたらしいが、その訓練の過程で、二人して女装して女子トイレに入って、化粧を直す、と言うのをやったらしい。それでレモンのコメントだが「殴られたことはなかったよ」とのこと(笑)。尚、本作が白黒で撮影されたのはレモンとカーティスの女装姿がグロテスクに見えないための配慮とか。 私にとってモンローは基本的に嫌いな女優だけど、本作だけは別格。先に『七年目の浮気』でモンローを撮ったワイルダーは、そのモンローのためにこの役を用意した。それは即ち、素のままのモンローを映すと言う事に他ならない。ただ、この大根ぶりにワイルダー監督は相当苦労したそうで、一つのシーンで50テイクを超えるのが続出したとか、そのナーバスさとわがままぶりにスタッフ全員が泣かされたとか、いくつもの伝説を作った。だがそれでもワイルダーがモンローにこだわったのは、唯一の本物の喜劇役者として買っていたからだと後年監督自身が言っている。「マリリンと映画をつくるのは、歯医者に行くようなものだった。始めから終わりまで地獄のような苦しみを受けるが、その後は素晴らしかった」。 本作品では脇役にされてしまっているけど、ギャング団の顔役に往年のギャング映画でお馴染みのジョージ・ラフトが演じてるのが、よく分かってらっしゃる!と言うところ(ラフトがコイン投げをして遊んでいる弟分を見て、ふんっと笑ってるのは、かつて『暗黒街の顔役』(1932)でラフトが演じたリナルドの得意技だったと言うお遊びが入っている)。 ちなみにカーティスはこの作品でモンローとのキスシーンがあるが、インタビューで感想を聞かれ、「ヒットラーとキスするようなものです」と答えたとか。きっとそれほど恐ろしかったのだろう(笑) 最後に、様々な映画で引用されるほどのインパクトを残した、映画史に残るブラウンの名台詞を紹介しよう。「Well, Nobody's perfect」。凄え! |
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情婦 Witness for the Prosecution |
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1957米アカデミー作品賞、主演男優賞(ロートン)、助演女優賞(ランチェスター)、監督賞(ワイルダー)、編集賞、録音賞 1958英アカデミー男優賞(ロートン) 1957ゴールデン・グローブ助演女優賞(ランチェスター) |
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金持ちの未亡人を殺した容疑をかけられたレナード(パワー)は、ロンドンきっての敏腕弁護士ロバーツ(ロートン)に弁護を依頼する。長期療養から帰ってきたばかりで乗り気ではなかったロバーツだが、レナードの話に興味を持ち、弁護を引き受けることとなる。そしていよいよ裁判が開かれた時、“検察側の証人”として法廷に立ったレナードの妻クリスティーネ(ディートリッヒ)から、思いもかけない証言が発せられた… 本サイトでは“偏愛企画”が進行中だが、その中に私自身がスレッドを立てた「どんでん返し映画」というのがある(ちなみにダントツトップは『シックス・センス』(1999))。ここでかなり上位に位置する作品として本作があった。タイトルは知っていたけど、一体どんな作品なんだろう?とネットで検索してみたらすぐに分かった。なんだ。クリスティの「検察側の証人」の映画化作品じゃないか。クリスティは大好きなので、当然この戯曲も読んでる。良い作品だった。 ただ、一旦読んでしまった以上、「どんでん返し」は私には効かないぞ。そんな思いを持って本作品に挑戦。 …負けた(笑) まさかこんなに完成度が高いなんて。凄すぎるぞ、ワイルダー。 原作付きの(しかも、有名な作品であるほど)映画化というのは難しいものだ。読んでいる人が多ければ多いほど、そしてそれが名作であるほど、観ている人間がそのストーリーを知っている確率は格段に高くなるし、名作と言われるほどの作品になると、イメージがすでに固まっている場合も多い。自然原作を読んだ人間は映画化作品の評価が辛くなりがち(私なんかは特にそうだ)。確かに原作のお陰で映画は売れるかも知れないが、その分監督には大きなプレッシャーがくる。小説のイメージをしっかり作るだけでも相当凄い監督だって事になるが(大作になればなるほどそれは難しくなる。トルストイの「アンナ・カレーニナ」の映画化がことごとく失敗してるのはそのせい)、更にそれにプラスアルファを入れないと本当に良い映画とは言えなくなる。そのプラスアルファを監督によっては原作の改竄という形で(有名な例だとチャンドラーの「大いなる眠り」の映画化『三つ数えろ』(1946)なんかがそうだし、古典ホラーとなった『フランケンシュタイン』(1931)もそうだろう。クリスティ原作だったら『そして誰もいなくなった』(1974)はマイナスの意味でそれが行われていた)、あるいは「この役にこんな有名俳優が!」的な売り方をする場合もあり…ってよりそっちの方が多いな(『ハンニバル』(2001)は物語よりホプキンスで売ってたようなもんだし、数えたらキリないだろう)。あるいは原作のイメージを大切にするため、原作者に脚本を書かせるってパターンもあり(『サイダーハウス・ルール』(1999)のアーヴィングや『ロリータ』(1961)のナボコフなど)…こう見ると原作付きの作品の売り方も結構あるもんだ。 それで本作はマレーネ=ディートリッヒという超有名俳優を使っていて(ディートリッヒはこの年既に50代だが、とてもそう見せないところが凄いところ)、彼女を売りに使っているのは確かにせよ、むしろ本作の中心となっているのは演出面。そこが一番素晴らしいところだ。それこそまさに直球勝負だ。原作には見られない魅力を演出力で作り上げていた。 原作は戯曲だから舞台劇として作られているし、場面の展開はあるにせよ法廷劇だから、メインは法廷のやりとりで終始する。しかし、本作は驚くほどに法廷の場面が少ない。法廷で醸成された緊張感をロートン演じるロバーツとランチェスター演じる看護士プリムソルの丁々発止のやりとりが緩和し、しかもちゃんと彩りを添えている。お陰で全然退屈する暇がなかった。法廷劇で笑える映画なんてあんまり記憶にない(他には『いとこのビニー』(1992)くらいかな?)。むしろ肝心な法廷よりそっちの方に時間が取られてる位だ。そしてこの二人はそれだけの長さを飽きさせないだけの実力を持っていた(この映画でアカデミーの候補に挙がったのはクリスティーネ役のディートリッヒではなくランチェスターであったと言う事実がそれを物語っている)。 で、肝心の法廷劇だが、欧米では数多く作られ秀作も多いが、日本では殆ど作られることがない。作られたとしてもかなり真面目な内容ばかりだ。この違いは陪審員制度にある。欧米の裁判は陪審員の一致によって刑が確定するようになっているので、冷静に見ればおかしな事でも裁判の雰囲気のお陰で時として屁理屈が押し通ってしまったり、被疑者に対して感情移入が起こってしまって。と言うパターンがあり得る。最も公正でなければならない裁判が一番人情劇を作られやすいと言う皮肉が法廷劇の発展を呼んだんだろう。 それで陪審員制度はもう一つ面白い効果がある。肝心の論点をずらしていって、それを納得させてしまうことがあるのだ。 本作の場合、クリスティーネのアリバイ証明が論点となる。本来それは「レナードが事件前に帰ってきたか」を証明するはずのものなのだが、ここで巧妙な罠が仕掛けられる。クリスティーネはそこでアリバイ不成立の時間を提示し、しかもレナードが殺人を告白したことをそこでぶち上げてしまう。ここで裁判の焦点は「クリスティーネの言ってることは本当かどうか」にすり替わってしまう。 結果はクリスティーネ自身の演出によって、その告白が嘘であることが証明されるのだが、実はここでは「レナードが事件前に帰ってきたか」という論は決着が付いてない。クリスティーネの嘘によって「多分レナードは犯罪を犯してないんだろう」形へ陪審員の意識が持って行かれてしまう。実際の話、厳密に言うならこれは裁判になってないんだよ。それを完全にコントロールするところが原作者、クリスティの巧いところで、それを踏襲したワイルダーの持って行き方だ。 そこでどんでん返しのラストか?と思わせたところでもう一つどんでん返しが待ってる。実はレナードは本当に殺人を犯してしまったと言う。身を挺してレナードを守ったのに裏切られ、怒ったクリスティーネによりレナードが刺殺される。これが二つ目のどんでん返しになる。 原作はここで終わっていたのだが、映画はあとちょっと続いた。ロバートが最後に予定していた旅行を取りやめ、「これからクリスティーネのために戦わにゃ」。それに対し、プリムソルが「ブランデーをお忘れですよ」という。原作のあの救いようのないラストを見事に希望に変えてしまった。原作を読んだものだけがわかる、まさにこのシーンこそ、本当のどんでん返しだった。 こいつは参った。完璧に脱帽。原作付きのハンディを乗り越え、よくぞここまで作ってくれたもんだ。 後、この映画は小道具の使い方が巧い。裁判のシーンで手紙を使ったやりとりは有名だけど、それ以外にも片眼鏡を使った会談のシーンとか、「マッチはないのか?」「ありません。ライターなら」とか、ブランデー入りの魔法瓶をココアだと騙してしまうところとか(ラストでばれてたのが分かるのが心憎い演出だ)。そうそう。ディートリッヒのスラックス姿も小道具の一つだな(あれは脚を引き立たせているための演出だったらしく、回想シーンでスラックスを兵士に引き裂かせるというシーンをわざと挿入させたとか)。個人的にツボだったのは「マイアミなんかで大きな半ズボン姿を見たく無かろう」とか言っておいて、本当に巨大な半ズボンが届けられてしまうところ。ロートン&ランチェスターのやりとりがとにかく楽しかった。動きが少ないだけに会話に重点を置いたシナリオの勝利。 大変失礼な言い方だが、ロートンって決して美男子って訳じゃない。だけどこの人ほど相手(特に女性)を引き立たせる役者もない。主人公は見事にはまっていたって事だ。又、二面性を持ったレナード役を演じたパワーも巧い。登場するのはほんの僅かとはいえ、冒頭とラストで全く人が違って見える辺り、この人の巧さを改めて感じる。 うー、やっぱり衝撃を受けた映画だと自然力が入るなあ。こんなに長くなるなんて。 |
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昼下りの情事 Love in the Afternoon |
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私立探偵クロード・シャバス(シュバリエ)の娘アリアンヌ(ヘプバーン)は音楽院でチェロを学ぶ学生。父親が不倫の調査をしていた世界的なプレイボーイの富豪フラナガン(クーパー)の命をふとしたことから救ってしまう。そして彼女もまた彼の魅力に獲り付かれてしまうが、世界中に恋人を持つプレイボーイに対しての反感からか思いっきり背伸びをし、自身を謎めいたプレイガールを装うことで、逆にフラナガンを振り回していくのだが・・・ 最初に言っておくが、私はメロドラマは嫌いだ。観てるこっちが恥ずかしくなるし、特に定番の、何かを隠していながら表面上装ってつきあっていると言うのはどうもいたたまれなくなる。これがテレビだったら画面を消してしまいたくなる。これは純粋に好みの問題で、私にはこう言うのが本当に合わない。 そう言うものを全て吹っ飛ばし、画面に目を釘付けにしてくれる作品も確かにいくつかは存在する。私にとっては本当に最高!と呼べるものとして『ローマの休日』(1953)があり、『お熱いのが好き』(1959)、『あなただけ今晩は』(1963)がある…妙にワイルダー作品が多いな(笑)。 これも確かにワイルダー作品なのだが…残念なことにストーリー自体にはそれほどはまることが出来なかった。あまりにも見え透いた嘘で固めたオードリーの役も痛々しいとしか感じなかった。更にそんな小娘に振り回されるクーパーも失笑もので、全く私の心を打たない。観ていて本当に痛ましく思えてしまった。オードリーの髪型も変だったし(関係ない?)。ストーリー自体はどう見積もっても平均点程度が関の山。 ただ、この作品、それはもう、とんでもなく小技が上手い!画面上に登場する人物に無駄が無く、きっちりと演技しているし、実に見事に画面にはまっている。本来堅物役ばかりやってるクーパーがプレイボーイ役なんて一見ミスマッチな役をやってるのも良いが、何より探偵の父親役、シュバリエが実に渋みの利いた演技をしてくれた。 冒頭部、浮気調査の依頼主と父親が話している所を盗み聞きするシーン。あそこで画面上部に顔だけ出しているヘップバーンが瞬きした瞬間、見事に計算された絶妙の間を感じたし、ヘップバーンとクーパーがキスした後、画面が暗転し、次の画面ではヘップバーンが鏡に向かって髪を直している。これだけで、間に何があったか、見事に表現されているのが分かる。全くそのシーンを見せずに“情事”を演出してしまった技量は見事に尽きる。オードリー演じるアリアンヌがどれほどの覚悟でここに来たか、そしてそのことを全く後悔していないと言う事実を、鏡に映る笑顔で見せてくれた。 好青年ミシェルも顔が良い割りに、ほんの小さな仕草でドジぶりを演出しているし、どこにでも出没する4人の楽団も、中盤辺りから見事に個性を発揮している(声を全く出さずにあれだけの演技をさせる事が出来るなんてたいしたもんだ)。一体彼ら、普段どんな生活をしてるんだろうか?と言うのは余計なお世話か(笑) そしてラストシーン。中途半端な心のまま分かれようとするクーパーに対し、ヘップバーンがで、「私は泣かない」と宣言しつつも、内からわき上がる感情の波を覚られぬよう、振り返った瞬間、そこには別れを惜しんでキスするカップルの姿が…その瞬間見せる涙。いやはや上手い上手い。 それに何より、シュバリエ。オープニングとラストで状況を語る際、現す姿が又良いんだよね。最後、片手に娘のチェロを持ち、行ってしまった娘を呆然と見遣りつつ、奇妙に楽しそうな表情になってきびすを返す。とにかくそう言う小技が一つ一つ、ぴっちりとはまっていて、それを見るだけで充分って気になってしまった。 今思い出しただけで、これほどの見所があった作品であったことに気付いてしまった。私に全く合わない物語で、ここまで評価させてしまったワイルダーは、やっぱり、偉大だ。 |
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翼よ!あれが巴里の灯だ The Spirit of St. Louis |
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1957米アカデミー特殊効果賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1926年、ニューヨーク〜パリ無着陸飛行の最初の成功者に25000ドルを与えるとしたオーテエイグ賞が発表される。それを聞きつけた若き飛行士リンドバーグ(スチュアート)が彼の故郷セントルイスで金を工面し、飛行機を買い付け、そして1927年5月20日から33時間39分に渡る飛行を見事一人でそれに成功するまでを描く。 有名なリンドバーグの大西洋無着陸飛行を自ら描いた「翼よ!あれが巴里の灯だ」の完全映画化作品。リンドバーグはその妻アンも含め、才能に溢れた人物で、一見無謀なこの試みも彼の長い人生の中の一エピソードに過ぎない。実際小説では自分を振り返ってこれを淡々と描いていた。それ故にこそ、迫力を持って読ませる自伝だった(有名人になったお陰で色々辛い思いもしたみたいだし)。 それをワイルダーが映画化というのが面白い。当時のハリウッドを代表する物語の紡ぎ手が人の物語を作るってのが面白いところだが、さすがのワイルダーも飛行を中心に描くことは難しかったらしく、本作の大部分はそこに至るまでを描いているのが特徴。実際はこんな簡単にはいかなかったんだろうけど、終始ニコニコしていたスチュアートのお陰でテンポ良くまとめられている。確かリンドバーグはこれを成功させた時は20代前半じゃなかったかと思うけど…あんまり違和感はなかったから良いか(笑) 一つの目標に向け、希望に溢れて疾走する人って、脇で見ていても凄く楽しい。まさにその楽しさと言うところに本作の目玉があったんだろう。そう言えば『エド・ウッド』(1994)とか『タッカー』(1988)の楽しさって、これと同じベクトルだ。 実際本作は飛び立つまででほぼ物語は終わってる。延々飛んでるシーンはいくつかのトラブルはあったものの、順調に行ったから、あんまり目立った部分はないし、実際結構退屈。ワイルダーの良さは人間同士の会話と間の取り方にある訳だから、やはり一人で延々独り言をやってるシーンは難しかったみたい。寝ていてはっと起きるシーンなんかは面白かったけど。 リンドバーグの人生は本来ここからが佳境に入るのだが(息子の誘拐殺人事件や親ナチス発言、更に太平洋戦争への参加でのアメリカ批判など)、これで終わらせたからこそ、本作は面白いままで終わってくれた。 観終わった後、大変清々しい気分にさせてくれる、好作。 ただ、ワイルダー作品としては珍しく興行成績はさんざんに終わってしまう。これは晩年のリンドバーグの親ナチ的言動が嫌われたため共言われている。 |
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七年目の浮気 The Seven Year Itch |
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1955ゴールデン・グローブ男優賞(イーウェル) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雑誌社に勤めるリチャード=シャーマン(イーウェル)はバカンスで妻のヘレンと息子を田舎に送り出し、束の間の独身生活を満喫する事になった。折り良く、同じアパートの階上に素敵な美人女性(モンロー)が越してきた。空想癖のある彼は、早速、彼女との浮気を考え始めるが… ジョージ=アクセルウッドによる人気舞台劇をワイルダー監督により映画化。 多分本作品がマリリン=モンローの代表作となるんだろう。まさしく彼女の魅力がいっぱいに詰まっている。ただ、そう言い切ってしまうと、モンロー自身は嫌がるだろうな。まさしくここでのモンローの役回りは、「セクシー、ちょっと天然、善人」と言う、まさしくステロタイプな美人役。実際、この作品を見る限り、これだけモンローが前面に出ている割には本当に彼女、何にもしてない。ただ、それも仕方ないのだろう。視聴者が求める理想のモンロー像と言うのは、まさしくこういうものなのだろうから。 物語は単純だが、やはりここで良いのはイーウェルの役回りだろう。自分の空想に飲み込まれそうになって、表情がくるくる変わる描写は見事だし、心配すべき事でもない事を一々くどくど考え回すシーンは実に巧みだ。モンローと一緒にいるときはちゃんと彼女を引き立たせているし。 あと、この映画には面白いところが一つ。モンロー演じる金髪美人、実は彼女、一言も自分の名前を言っていない。リチャードも彼女を紹介するとき「ミス…なにかな?」と言っているだけだし、極めつけに、彼が激昂してこんな事を言ったりしている。「あの金髪が誰だって?知りたいか?マリリン=モンローかもな!」。つまり、そう言うことだろう。彼女はひょっとして、モンロー自身かも知れない。と言う含みを持たせている訳だ。いやはや、流石ワイルダー監督。見事にツボを突いてる。 こう言うとモンローファン(及びモンロー自身)は激怒するかも知れないが、モンローの演技力の幅の無さを逆手にとって、まさに理想像としてのモンローを撮りきったワイルダーに拍手を送りたい。 モンローはかつてヌード写真のモデルをしたこともあり、それで「お腹がすいていたから」と答えたことがあった。その事を考えながら、写真をはしゃいで見るシーンを見ると、なんかもの凄い皮肉を感じてもしまう。 何かと話題を振りまいた本作だが、ロケ撮影の際は事前に撮影予定を発表し、一種のイベントとしてマスコミやファン達を集めたという(深夜1時からの撮影に合計で2000人を超える見物人を集めたと言うから、モンロー人気は凄いものだ)。更に有名なスカート押さえのシーンは、モンローと結婚したばかりの元大リーガー、ジョー・ディマジオを激怒させ、離婚の引き金となってしまったという…罪作りな作品でもあった。 なお、本作のタイトルデザインはソウル・バスの、ほぼデビュー作。 |
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麗しのサブリナ Sabrina |
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1954アカデミー衣装デザイン賞、主演女優賞(ヘップバーン)、監督賞(ワイルダー)、脚色賞、撮影賞、美術監督・装置賞 1954ゴールデン・グローブ脚本賞 |
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大富豪ララビー家の次男デヴィッド(ホールデン)に恋心を抱くお抱え運転手の娘サブリナ(ヘップバーン)。二年間のパリ生活の後に帰国した彼女を見た途端、それまで彼女など眼中になかったデヴィッドは彼女に一目惚れしてしまう。弟を政略結婚の道具に使おうと思っていた長男のライナス(ボガート)は、何とか二人に恋をあきらめさせようとするのだが、逆にライナスの方がサブリナに夢中になってしまい… 二大スターを起用した現代版シンデレラ物語。 映画を観る際、なるだけロジカルに分析しようとする傾向があるのだと自分では思っているのだが(自意識過剰かも知れないけど)、時折見事にツボにはまってしまう男優もしくは女優というのが存在する。映画をたくさん観るようになってそう言う人間はかなり増えてきたが、やっぱり古い映画にそう言う人は多い。 本作は見事にそれに合致してしまった。ヘップバーンとボギー。どっちも大好きな俳優だけに、この二人の組み合わせってだけで、観る前から絶対にこれははまるのが分かってしまった。しかも監督がこれ又大好きなワイルダーとあっては、どんなことがあっても評価が下がるはずがない…いや、そりゃまあ、オジさんと娘さんと言う変な組み合わせのラブコメであったとしても… ストーリーは軽快で楽しいが、やっぱりワイルダーらしく、キャラクターが実に画面映えしてるのが最大の特徴か。その中でもヘップバーンの魅力が大爆発している。 考えてみれば配役が巧いんだよな。ホールデンは何でも器用にこなすタイプの役者だけど、女性相手の場合、いい具合に引っ込んで相手を立てるし、ボギーは尚更。単独ではあれだけ個性を出すのに、女性と対峙すると、相手を立てようとする。むしろ相手を引き立てることが上手い(この人はこういう役者だからこそ好きなんだが)。今回も見事にヘップバーンを立てていた。おじさん過ぎてミスキャストではないか?と言う意見もよく耳にするが、むしろこの人だからこそ、これだけヘップバーンが映えたんじゃないかな?勿論ヘップバーン自身有名男優二人を脇に下がらせるほどの存在感だったって事もあるだろうけど(日本公開のポスターではボガートよりヘップバーンの方が上になってるが、その扱いは正しいと思う)。ヘップバーン自身もそうだけど、ボギーにも惚れ直したって感じ。 後、やはりこの辺はワイルダー!と言う細かい演出もさえ渡っている。主題歌の“バラ色の人生”の見事なタイミングでの挿入もそうだし、ボガート演じるライナスのダサさを強調する傘の演出も上手い(ラストでそれを手放すところが心憎い演出だ)。それにライナスと秘書との掛け合い漫才のような丁々発止のやりとりがなんと言っても良い。この細かい笑いの演出こそがワイルダーの醍醐味と言って良い。 そのワイルダーだが、オードリーを評してこのように言っている「彼女の出現はふくらんだ胸の魅力を過去にするだろう」。名言である(今となってはモロにセクハラだが)。 たった一つ本作品で不満があるとすれば、パリに行って変身する前のサブリナが可愛すぎるって所かな?(このときのパンツ姿が印象的で、サブリナ・パンツとして流行となると言うおまけが付く)オープニングシーンを観てると、「デヴィッドよ、おまえの目はどこに付いてるんだ?」と言いたくなってしまった。ソフィスティケイトされた後半よりも前半の活発な彼女の方が可愛いと思うんだが… …うーん。どうもいかん。これは映画評じゃなくてヘップバーン評になってるような…ま、いいか(笑)。 それと、くだらないことだが、最近映画を観るのにカメラの位置やレンズを意識するようになってきたのだが、ワイルダー監督、意識してか広角レンズをあまり使わず、標準レンズばかりを使ってるように見える。確かに監督作品の場合二人のアップシーンが多いから、標準レンズが効果的に用いられてるんだけど、「ここは広角を使うべきじゃないか?」と思ったシーンが2,3あった。何か理由があるんだろうか? 又、本作からヘップバーンにはほとんど専属のようにジヴァンシーがファッションデザインを行うようになった。公私ともに良き友人となったため、幸福な出会いとなったとか(この映画で有名になった“サブリナ・パンツ”はイーディス=ヘッドによるものだが)。 |
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第十七捕虜収容所 Stalag 17 |
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1953米アカデミー主演男優賞(ホールデン)、助演男優賞(ストラウス)、監督賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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第二次大戦中のドイツの第17捕虜収容所。そこには米空軍の軍曹ばかりが集められている第4キャンプがあった。そこに入れられているメンバーは幾度となく脱走を試みるが、ことごとくそれはドイツ軍によって阻止されていた。収容所の中にスパイがいるのではないか?と、疑いがもたれ、その槍玉に挙がったのがセフトン(ホールデン)だった。彼は要領よくドイツ軍幹部と通じ、収容所の中で店を開くほどの物持ちだったため、皆から嫌われていたのだ。ある日空軍将校のダンパー中尉が収容所に入れられ、彼の秘密が漏れてベルリン送りにされかかる。収容所の皆からスパイ容疑をかけられたセフトンは一人、黙々と犯人探しを始めるが… 舞台劇原作の、珍しいワイルダー制作の戦争物。さすがワイルダーと言うべきか。暗くなりがちな収容所での出来事を見事に楽しく描いてくれている。似たような作品の、近年公開された『ジャスティス』(2002)と較べると、どれ程完成度が高いか知れる。 基本的に戦場から離れ、本当に収容所だけを描いているため、派手さは無いけど、こんな状況にあっても明るく生きているアメリカ人達。複雑に絡み合った人間関係。その心理状態が上手く作られているのが分かる。戦争を扱ったものとしては異色作に入るんだろうけど、完成度がこれだけ高いなら十分納得。最後の瞬間に歓声を上げたくなるのもワイルダーならでは。 この作品のキャラクターは濃い人間が多い。ホールデン演ずるニヒリスティックなセフトンだけじゃなく、感情がすぐに噴出するアニマルとか、彼の相棒で悪知恵は働く人の良い小悪党っぽいハリーとか。私としてはストラウス演じるアニマルが好みだな。 ホールデンは後になって『戦場にかける橋』(1957)で同じくアメリカ人脱走兵の役を演っているが、描かれ方が全く違うので、観較べてみるのも一興。他に何故かプレミンジャー監督がシェルバッハ役で登場。そう言えばこの人オーストリア生まれだっけ?道理でドイツ人役が堂に入ってるよ。 何となく舞台劇みたい。と思ってたら、元ネタは本当に舞台劇だった。成る程ねえ。 |
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地獄の英雄 Ace in the Hole |
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ショッキングな記事を自分のものとするための代償が描かれるが、内容が過激すぎてワイルダーのユーモアもあまり活かされていない ニュースを作るためには殺人をも厭わないマスコミの恐ろしさを描く |
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サンセット大通り Sunset Blvd. |
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1950アカデミー脚本賞(ワイルダー、チャールズ=ブラケット)、劇・喜劇映画音楽賞、美術賞、作品賞、主演男優賞(ホールデン)、主演女優賞(スワンソン)、助演男優賞(シュトロハイム)、助演女優賞(オルソン)、監督賞(ワイルダー)、撮影賞、編集賞 1950ゴールデン・グローブ作品賞、女優賞(スワンソン)、監督賞(ワイルダー)、音楽賞 1951ブルーリボン外国作品賞 |
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売れない脚本家のジョー(ホールデン)は借金取りから逃げ回っている内に、偶然ある豪邸に入り込んでしまった。廃虚と思っていたその屋敷には、派手な中年女性(スワンソン)と一人の執事(シュトロハイム)が住み、誤解から彼を屋敷に招き入れた。実はその女性はサイレント時代の名女優と言われたノーマ・デズモンドで、彼女はジョーが脚本家だと知ると、自分の書いた映画の脚本「サロメ」を読んでくれ。と言い出すのだった。最初、軽い気持ちでそれを引き受けたジョーだったのだが… ビリー・ワイルダーと言えば、コミカルな作品ばかりを思い浮かべてしまいがちだが、彼の初期の、そして出世作はむしろかなりシニカルなものが多い。こう言う作品をちゃんと撮ることが出来ると言うことも、名監督とされる所以の一つなんだろう。その中でも最も痛切な皮肉となっているのが本作。 輝ける夢の町ハリウッド。だが、それはほんの表面的なものに過ぎず、その奥にはどれほど努力をしても報われず、人知れずひっそりといなくなってしまう役者や脚本家、かつて大俳優と言われつつも、徐々に役もなくなり、忘れ去られた者も数多くいる。これはテレビの発達した現代では当たり前の話だが、この当時は、ハリウッドという幻想の裏側を見せつけた、本当にセンセーショナルな作品だったらしい(題材としては『マルホランド・ドライブ』(2001)でも用いられている)。 この場合の夢とは、数多くの努力と犠牲、他の夢を踏みつけにして、ようやく出来てくるものに他ならない。たった一つの夢を世に出すために、どれほどの涙が流されるのか、その事を世に知らしめたと言う意味もあって、大きな賞賛を得たのだろう。事実アカデミーのノミネートの数ももの凄い。 キャスティングは凄く、特に監督としても役者としてもアメリカ人に愛されたドイツ人シュトロハイムと言い、サイレント時代名優と言われた大女優スワンソンの怪演も光ってる(彼女自身カムバックに失敗しているのが皮肉だが、意外にも撮影そのものはワイルダー監督と非常にうち解けて和気藹々と進んだそうだ)。二人の怪演に押され気味だったホールデンだって、本作を皮切りに名優へと成長していった(当初予定されていたのはモンゴメリー=クリフトだったそうだが、撮影開始2週間前に「自分より2倍も年上の女性とメイクラブする男を演じきれない」と言って降りてしまった)。セシル・B・デミル監督が本人として登場してるのも良い。 そう言う意味では、今の目で観る限り、当たり前の話をさも大事件のように描いてるだけでは?最初はそんな風に思っていた。勿論ホールデン、スワンソン、シュトロハイムの演技の巧さ(特にスワンソンの徐々に狂気じみてくる後半の表情は素晴らしい)は買うし、カメラワーク、間の取り方の巧さ、小物に至るまで(ノーマの部屋に所狭しと並べられている写真は全てスワンソン自身の所有物だそうだ)充分賞賛に足るが、ストーリーは割合単純だし、何せ冒頭で話のオチが描かれている。質的には良い作品には違いないけど、メロドラマって好みでもないし、手放しで褒めちぎるほどの作品とは思ってなかった。 ただ、このレビューを書く段に至り、色々ストーリーのことを思い返していたら、なんか全然違った観方が出来るような気がしてきた。どうも引っかかる人物が一人。 この作品は全編ホールデンのモノローグによって引っ張られているので、ついついホールデン演じるジョーの方に目が行きがちなのだが、そのジョーが死んだ後、モノローグが終わっても物語は続いていく。実は本当の主題はそこにあるんじゃなかっただろうか?そう思えてきた。 そして、その場合の中心人物となるのはノーマでもジョーでもない。ここで本当の中心というのは、シュトロハイム演じるマックスではないのか?そう思えたので、もう一度頭の中で物語を再構成させてみる。今度はマックスを主体にして。 劇中の彼は昔、グリフィス、デミルと並び表されるほどの実力を持った監督であったが(シュトロハイム自身の経歴に近いところが凄い)、ノーマという女優を前にして、彼女に心酔してしまう。それでノーマの最初の夫ともなったが、やがて結婚は破れた。だがノーマを捨て置くことは出来ず、執事として、彼女と共に住むようになり、今では忠実な召使いと言った身分と言うのが基本設定。 そんな身分に彼はある意味満足はしているようだが、やはり一方では、強烈な欲望を持っていたのではないだろうか? ノーマをもう一度銀幕に復活させたい。と言う思い。そしてその彼女を自分の手で撮りたい。そのような思いがあったのでは?それはひょっとしてノーマ自身の想いより、実は更に強かったのではないか? だとすれば、最後ノーマが自分を主演女優と思いこみ、階段を下りるシーン、あの瞬間、彼は確かに監督としてそこに存在した。あの「アクション」と言う凛とした声と、恍惚とした笑み。それは今を全く後悔していない。いやむしろ、人生最大の満足はこの瞬間にあった事を確信した瞬間を演じていたのではないだろうか? 最後、ノーマのアップの顔でEndクレジットが出る際、画面がにじんでいく…まさかこれは、カメラで彼女を撮ったのではなく、マックスの目で“見た”彼女の顔ではなかったのではないか?人生最高の瞬間、彼は涙を流し、彼女の姿を正視し続けることができなかったと言うことを示そうとした。そうなのかもしれない。 そう言う風に考えてみると、むしろシュトロハイムと言う人物の演技の巧さと言うのを讃えたくなる。これは邪道な観方なのかも知れないけど、こういう風に観ることも出来る。と言うことで。 近年ではハリウッドの内実を暴く映画ってのも増えてきたが、当時はかなり物議を醸したそうで、試写を観たMGM総帥のメイヤーは激怒し、その場にいたワイルダー監督をののしった。「君はタールを塗られ、羽をひっつけられてハリウッドから追い出されるべきだ」とまで言ったそうだ。それに対しワイルダーは悪びれずに「Fuck You」と一言言い返してやったという逸話も残っている。 |
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異国の出来事 A Foreign Affair |
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1948米アカデミー脚色賞、撮影賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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失われた週末 The Lost Weekend |
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1945アカデミー作品賞、主演男優賞(ミランド)、監督賞(ワイルダー)、脚色賞、撮影賞、劇・喜劇映画音楽賞、編集賞 1945NY批評家協会作品賞、男優賞(ミランド)、監督賞(ワイルダー) 1945ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(ミランド)、監督賞(ワイルダー) 1946カンヌ国際映画祭グランプリ(ワイルダー)、男優賞(ミランド) |
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兄ウィックの家に寄宿している売れない33歳の小説家ドン・バーナムは、小説が書けないことから手を伸ばした酒瓶によってアルコール中毒になってしまった。ウィックとドンの恋人ヘレンはドンに週末をアルコールから遠ざけて田舎で静養させようとするのだが、ドンは二人を言いくるめ、まんまと家から抜け出し、酒場で飲んだくれてしまう。その後、悪夢のような週末を送るドンの生活を描く。 チャールズ・ジャクソン原作の同名小説の映画化。 アカデミーの男優賞や女優賞は精神の均衡を崩した役を演じたキャラクターに賞を与えることがよくある。いわゆるニューロティック映画(異常心理をテーマとする)は、アカデミーの好むところらしい。それも本作がその嚆矢と言えるだろう。元々(大根という悪評はあったものの)パラマウントの二枚目俳優だったミランドの崩れぶりはものすごい描写で、それまでのハリウッド映画の主人公の定型を一気に崩してしまった。以降のヒーローの描写に多大な影響を与えたと言う意味でも、本作も間違いなく映画史に残る一本であることは間違いなし。 それがどれほど見たくない事であったとしても、精神そのものを描き出すことは物語の基本。こういった社会派ドラマは、よりストレートにその主題が出せるのが強みだな。 実際、観ていて全く爽快感は全くなく、非常に鬱々とした内容だが(監督が監督だけに、その中で笑いを誘う部分を演出してるのはさすがだが)、何故そんな暗いテーマが好まれるか。それは誰の心にもある、負の部分。自分自身を振り返らせる部分をそのような映画がえぐってくるからだと思われる。 精神を病む描写とは、人にとって根元的な恐怖であり、自分にとって一番嫌な部分を見せつけられることだと思う。そう考えると、本作はサイコ・スリラーの走りでもあった訳だな。捻ったところは無くとも、やっぱり良作だと思う(ラストシーンに救いを持たせたのは、第2次世界大戦中という時代背景を顧慮すべきだろう)。 本作は人の精神世界に入り込む描写が多々なされている(不安をかき立てるようなテルミンを用いた音楽の描写がとても効果的に用いられていた)。そのものズバリ悪夢のシーンもあるけど、病院のシーンなんかは下手な悪夢映画よりもっと悪夢っぽい演出がされていて、非常に興味深い。この時代でもここまで人の精神に入り込む映画が作られていたんだな…ちなみに病院のシーンは本当のアル中病棟を舞台としたそうだが、映画を観た病院側は二度とハリウッドに貸さないと決意したそうな…これ見たら確かにそうだろうけどね。 ところで、主人公のダンは、現代で言うところのパラサイト・シングルだろ?今の時代の方が共感を持って見られるんじゃないか? |
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深夜の告白 Double Indemnity |
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1944米アカデミー作品賞、主演女優賞(スタンウィック)、監督賞(ワイルダー)、脚色賞、撮影賞、劇・喜劇映画音楽賞、録音賞 1992アメリカ国立フィルム登録簿新規登録 |
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深夜のロサンゼルス。パシフィック保険会社の勧誘員ウォルター・ネフ(マクマレイ)が、肩を撃ち抜かれた姿で自らのオフィスによろめき入り、テープレコーダーに向かって上役バートン=キース(ロビンソン)に宛てた口述を始める。彼が保険の勧誘に訪れたディートリスチンの妻フィリス(スタンウィック)との関係と、前にパシフィック保険が多額の保険をおろしたディートリスチンの死の真実を… 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の原作で知られるジェームズ・M・ケインの犯罪小説の映画化で、脚色にはレイモンド・チャンドラーも参加している。 ラブ・コメディを得意とする監督として知られるワイルダーだが、監督初期の頃は、色々な素材に手を出していたし、その質も大変高いものばかり。本作も間違いなくフィルム・ノワールの傑作。いやむしろ、これこそがフィルム・ノワールの始まりと言っても良い。思うにワイルダーはこういった毒気を持っていたために、ラブコメでも傑作が作れたのだろう。 アメリカのフィルム・ノワールは、形式がきちんとしていて、主人公は自らに絶対の自信を持つ男。仕事も出来るし、度胸もある。ややプレイボーイというのも典型。そしてそんな男がか弱き女性の懇願によって、度胸試しのつもりで犯罪に荷担してしまう。しかし実はその女性はか弱いどころか、男の耳に毒を吹き込むためにいるような…これこそがファム・ファタール(運命の女) であり、その存在こそがフィルム・ノワールの醍醐味だとも言える。 …なんかデ・パルマっぽいけど、その形式を形作ったのが本作と言っても良い。ワイルダー監督の偉大さというのは、こんなところにも現れているだろう。実際当時のハリウッド・コードに引っかかっても不思議じゃない素材を選んだ事自体がチャレンジャー精神の表れとなっている。 そう言う意味ではフィルム・ノワールの教科書的作品と言えるのだが、その分、スタンウィックの巧さが光る。最初は気の弱そうな女性と思わせておいて、徐々に素顔を現していき、やがて共犯者になった時に、妖艶と言えるまでに変化する。そして最後のぎりぎりの緊張感での呆然とした表情も含め、本当に見事だ。彼女にとっても本作は出世作になったようだ。 それとこの作品では、男と女だけでなく、男同士の友情にも焦点が当てられているのも特徴だろう。実際マクマレイ演じるネフは自分の職場に戻る必要は無かった。それはロビンソン演じるキースがそこにいるからこそ、彼は戻ったとしか思えない。だから多分、ネフは、そのキースに見守られていることで、自分の人生が締めくくられることに満足していたのじゃないだろうか?全てに裏切られ、命も危なくなっている時に、最後に帰る所がある人は幸せだとも思う。 これは確かにフィルム・ノワールだけど、最後の最後にきちんとハード・ボイルドに持って行った脚本は見事だし、それをきちんと演じきったマクマレイも上手い。 …確かに私はコメディからワイルダー作品にはまったけど、『サンセット大通り』(1950)とか本作を観る限り、毒気全開の作品も素晴らしい。 それにしても、ワイルダー監督って、本当に良くハリウッドのシステムを知っていたんだな。彼でなければこの作品は製作自体が出来なかっただろう。 |
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「殺人がスイカズラみたいに良い匂いがするなんて知らなかった」 |