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セルジオ・レオーネ▲
Sergio Leone

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鑑賞本数 合計点 平均点
allcinema Walker ぴあ IMDb CinemaScape
wiki キネ旬 eiga.com wiki(E) みんシネ
書籍
評論
セルジオ・レオーネ―西部劇神話を撃ったイタリアの悪童

_(書籍)
1989 4'30 死去
1988
1987
1986
1985
1984 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ 監督・脚本
1983
1982
1981
1980
1979
1978
1977
1976
1975 ミスター・ノーボディ2 製作
1974 ミスター・ノーボディ 原案
1973
1972
1971 夕陽のギャングたち 監督・脚本
1970
1969
1968 ウエスタン 監督・原案・脚本
1967
1966 続・夕陽のガンマン 地獄の決斗 監督・脚本
1965 夕陽のガンマン 監督・脚本
1964 荒野の用心棒 監督・脚本
1963
1962 逆襲!大平原 脚本
1961 ロード島の要塞 監督・脚本
ソドムとゴモラ 監督
蛮族の逆襲 撮影
1960 ポンペイ最後の日 脚本
1959 ベン・ハー 助監督
1958 ローマの旗の下に 撮影
1957
1956
1955
1954
1953
1952
1951
1950
1949
1948
1947
1946
1945
1944
1943
1942
1941
1940
1939
1938
1937
1936
1935
1934
1933
1932
1931
1930
1929 1'3 ローマで誕生

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タイトル

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物語 人物 演出 設定 思い入れ

 

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ 1984
1984英アカデミー作曲賞、衣装デザイン賞、助演女優賞(ウェルド)、監督賞(レオーネ)、撮影賞
1984
LA批評家協会音楽賞
1984日本アカデミー外国作品賞

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アーノン・ミルチャン
クラウディオ・マンシーニ(製)
レオナルド・ベンヴェヌーチ
ピエロ・デ・ベルナルディ
エンリコ・メディオーリ
フランコ・アルカッリ
セルジオ・レオーネ
フランコ・フェリーニ(脚)
ロバート・デ・ニーロ
ジェームズ・ウッズ
エリザベス・マクガヴァン
ジェニファー・コネリー
ダーラン・フリューゲル
トリート・ウィリアムズ
チューズデイ・ウェルド
バート・ヤング
ジョー・ペシ
ジェームズ・ヘイデン
ウィリアム・フォーサイス
ダニー・アイエロ
ジェラード・マーフィ
ラリー・ラップ
ダッチ・ミラー
ロバート・ハーパー
リチャード・ブライト
ポール・ハーマン
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(書籍)ハリー・グレイ
 カンヌ映画祭で上映したものは3時間47分。その後アメリカ公開版は2時間20分。日本では完全版が公開されるはずだったが、何故かわざわざ完全版から23分カットしたものが公開された。(後に本当の完全版がビデオリリース)
 本作がレオーネ監督の遺作となる。
 製作費の大半は30年代のNYの再現に取られ、そのため美術面は完璧と言っても言い。
 イタリア人であるレオーネ監督がアメリカで味わったアメリカン・ドリームの現実をここに叩きつけた。
 コネリーのデビュー作。
 禁酒法案を通したのは教会とギャングという描写あり。
夕陽のギャングたち 1971

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セルジオ・レオーネ
ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ
セルジオ・ドナティ(脚)
ロッド・スタイガー
ジェームズ・コバーン
ロモロ・ヴァリ
マリア・モンティ
リク・バッタリア
デヴィッド・ウォーベック
アントニー・セント・ジョン
フランコ・グラチオーシ
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 1913年メキシコ。家族で山賊をしている陽気な家長ファン=ミランダ(スタイガー)は、ある日獲物である駅馬車を襲った際、通りかかったアイルランド人を捕らえる。彼はジョン=マロリー(コバーン)をと言い、かつて過激なアイルランド共和国闘士として知られていたが、ダイナマイトを使った爆破犯としてイギリス政府から追われる身だった。爆破のプロというマロリーの助けを借り、メサ・ベルデの銀行襲撃を計画するミランダ。だがいざ銀行を爆破してみると、そこには金がなく、政治犯の収容所として使われていたことをしる。実はこれこそが目的だったと言うミランダと、すっかり革命の英雄に祭り挙げられてしまったミランダ。しかもだまされたことにすっかり腹を立てて家に帰ってきたミランダが見たのは、政府軍によって惨殺された家族の姿だった…
 主に低予算作品で知られるマカロニ・ウエスタンだが、その中では最も派手で大掛かりな作品と言えるのが本作。メキシコ革命の時代を背景に、特徴的な赤茶けた舞台で派手で非情なドラマが展開する。派手さ、キャラ描写、物語性全体が上手くはまった作品と言えるだろう。
 本作は爆破の描写がとても多いが、予算や規制のの関係上なかなかそれができないハリウッド作とは異なり、容赦なくどかんどかんと爆発させているのが一つの特徴。特にクライマックスあたりになると、本当に死人が出てるんじゃないのか?と思えるほどで、よくこんな危険なスタントやる人が、しかもこんなにたくさんいるんだろう?と考えてしまうほど。確かにそこはかとなく安っぽさがあるのも事実としても、マカロニの強みを最大限に活かした描写には違いない。
 また、恋愛描写などを重視せず、汗臭い男たちによるドラマの展開具合も物語によくはまる。前半部分で、まるで何かの冗談のような物語が展開していったと思ったら、後半の物語がものすごくきつくなっていく。この転換によって物語は引き締まるし、後半のきつさがますます映える。
 しかし、本作の最大の売りはキャラクタ描写。ここに登場するコバーン、スタイガー共に見事なはまり具合。
「マイトしか信じない」というマロリーを演じているコバーンはいかにも「死に場所を求めている」って雰囲気がとにかく良く出ている。まさに寡黙に戦う男そのものでコバーンらしさがとにかくよく出ている。これは格好良いのだが、本作ではむしろスタイガーの上手さが光る。この人がオスカーを得た『夜の大捜査線』(1967)もそうだったけど、この人はタフガイを装う繊細な心の持ち主って役が上手い。ここでも当初は陽気で非情な山賊だったが、彼にとって全てだった家族を失って、その性格を覆い隠して、やはり死に場所を求めるようなキャラに変わる。その寡黙さの中には、欲をかいてしまったために自分が冒してしまった過ちや、それを引き起こしてしまったマロリーに対する忸怩たる思いが隠されている。その思いを隠し通しながら、家族にとっての仇とも言えるマロリーについていく。
 ここにおいてこのコンビは最強になる。
友情ではなく打算でもない。お互いに嫌い合っているからこそなされる不思議な関係。だがコンビとして戦い、最も信頼する戦友に変わったのだ。この単純なしからぬ不思議な関係こそが本作の最大の売りだ。この複雑な関係あってこそ、本当に本作が“男達の物語”へとなっていく。
 それにレオーネの音楽が重なることで、盛り上がりも最高。本作のモリコーネの音楽は感傷的な雰囲気が良く出ているのだが、それが二人の心の叫びを表しているよう。
ウエスタン 1968
2009アメリカ国立フィルム登録簿登録

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フルヴィオ・モルセラ(製)
セルジオ・レオーネ
セルジオ・ドナティ(脚)
ヘンリー・フォンダ
クラウディア・カルディナーレ
ジェイソン・ロバーズ
チャールズ・ブロンソン
ガブリエル・フェルゼッティ
フランク・ウォルフ
ジャック・イーラム
ウディ・ストロード
パオロ・ストッパ
キーナン・ウィン
ライオネル・スタンダー
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 アイルランドから一旗揚げようとアメリカに渡ったマクベイン(ウルフ)は西部の広大な土地を買い、そこに婚約者ジル(カルディナーレ)を呼び寄せる。だがこの土地を狙うモートン(フェルゼッティ)は、相棒のガンマンのフランク(フォンダ)をたき付け、マクベインを襲わせる。彼の死後、何も知らずにやってきたジルは、自分がこの土地の所有者になっているという事実を知らされるのだが、それは同時にモートンによって命を狙われることを意味していた。彼女はこの土地に来るまでに偶然知り合った男(ブロンソン)に助けを求めるのだが…
 かつてアメリカでは娯楽作品の定番として隆盛を誇った西部劇だが、時代の流れによってどんどん廃れていった。そんな西部劇は、イタリア、スペインやメキシコと言ったアメリカ国外の安く作られる国に活路を見いだし、より派手に、より過激な映像として作られ続けることとなった。いわゆるマカロニ(スパゲッティ)ウエスタンと呼ばれるようになった西部劇が一時期世界の娯楽へとなっていく。
 そんな新しい西部劇の中でも突出した監督として現れたのがイタリア生まれのレオーネだった。
 そんなレオーネが逆にアメリカに呼ばれ、完全定番の西部劇を作ったのが本作。
 物語そのものは実に健全な勧善懲悪ものであり、特に語るべきものは無いのだが、本作は二点、これまでの西部劇とは大きく異なった売りがある。

 
一つは、レオーネの演出が見事に冴えていること。大胆なアングル、映像感覚、クレジット・タイトルの出方など、これまでマカロニで培った技術をふんだんに活かし、定番の西部劇がまるで違う斬新な作品となったということ。しかもこれを完全にこれまでの西部劇の手法に重ねて作ったため、これまでレオーネを監督として低く見ていた批評家を完全に封殺できたということが大きい。この妥協無い時代描写は、本来レオーネが持つ完璧主義をよく示していて、大作に真っ向から挑戦できる実力をよく示している。

 そして
もう一点が、これまでのキャラ描写を大胆に変えて見せたこと。主役級ガンマンの二人、ブロンソンとフォンダの役割だが、昔からのヒーロー役ばかりだったフォンダと、野性味溢れるブロンソンは対比すれば、アメリカ人監督が作っていたら確実に役割は逆になっていただろう。ところがレオーネはこの二人の立場を逆に描いて見せた。これはこれまでレオーネが作り上げたヒーロー像がこれまでのヒーロー像を覆すような、寡黙で常識外れな人物だったので、それをここに導入したということである。
 そしてこの起用、見事にはまった。これまでのヒーロー風演技をかなぐり捨てたフォンダの悪役っぷりは見事なもので、いつもあの爽やかな笑顔が、悪役になった途端、とてつもなくふてぶてしい嗤笑に見えるという、役者としての幅の広さを見事に見せてくれた
(実は私は結構早い時期に本作を観ていたため、その印象があまりに強くて、以降西部劇で主人公役演じるフォンダの方が嘘くさく見えてしまったという悪影響も受けてしまった)。そして表情豊かなフォンダに対し、常に仏頂面でほとんど感情を見せない“奴”ブロンソンがはまっている。まるでターミネーターのように(逆だ!)無表情に雑魚をなぎ払うその姿は本当の強さを感じさせるし、最後に本当の目的を明かした時の、人間的な表情を取り戻すシーンは突出した演出だろう。

 あまりに本作の出来が良く、興行成績も高かったことから、これまで一段低く見られていたマカロニウエスタンの再評価につながり、以降「オペラ・ウエスタン」と言われるようになった。その転換点ともなった。

 本作の難点を言うならば、三時間という時間を使う必要はなかったと言う所だろうか。結構冗長なシーンが多いので、あと30分ほど短くできていればすっきりまとまっていたはず。いや、その冗長なシーンあってこそレオーネだと言えば、それも確かなんだけど。
 原案はレオーネだけでなくダリオ・アルジェントベルナルド・ベルトルッチの名前がある。濃すぎる。
続・夕陽のガンマン 地獄の決斗 1966

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ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ
フリオ・スカルペッリ
セルジオ・レオーネ(脚)
クリント・イーストウッ
リー・ヴァン・クリーフ
イーライ・ウォラック
チェロ・アロンゾ
マリオ・ブレガ
ルイジ・ピスティッリ
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 南北戦争末期の西部。ジョー(イーストウッド)とテュコ(ウォラック)の二人はコンビを組んで賞金をかせいでいた。それは賞金つきのお尋ね者となったテュコをジョーが保安官に連れて行って賞金をうけとった後、絞首刑寸前になったテュコを救い出すというものだった。だがこれにも限界が来たため、ある時ジョーはテュコを捨て、絞首刑のまま放っておいて去ってしまった。間一髪命が助かったテュコはジョーを探し出し、砂漠の中で痛めつける。偶然その時に出会った南軍兵士から軍用金20万ドルがある墓場に隠されている事実を聞き出したジョー。かくして、20万ドルを得るまでという限界付きで再びコンビを組む二人。更にそこにかねてからその20万ドルを探していた北軍の兵士セサンテ(クリーフ)を交え、三人の珍道中が始まる。
 これまでに『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』と続いてきたレオーネ&イーストウッドによるマカロニ・ウエスタンの最終章で、原題は
『善い奴、悪い奴、卑劣な奴』『続』となっているが、『夕陽のガンマン』とはストーリー的に繋がりはない(最後のシーンでイーストウッドがシリーズを通してのポンチョ姿になる所は狙ったかな?)。
 本作の面白い所は、原題とは違い、誰が善い奴なのかが分からないという点。主人公のイーストウッド演じるジョーだって、決して良い奴じゃない…と言うか、
ストーリーを通してみるとジョーこそが一番の悪者にも見える所が味噌だろう。ところがその悪者っぷりこそが本作の最大の魅力でもある。彼らは他人の迷惑とかそう言うことは全く考えず、自分のやりたいことをやりたいようにやっている。それが時として命のやりとりになったりするが、それも含めての自由と言うものがここには描かれているようだ。しかし、そう考えてみると、自由に生きるってことは、長生きできないって事なんだろうな。
 本作もレオーネ監督特有の演出は冴え渡る。極端なアップが多用され、ほとんど目だけで演技している部分もあり。それが緊張感を生み出しているが、そこにモリコーネの音楽が加わることによって、最高の演出となっている。これこそクール!ってやつだ。
 イーストウッドの格好良さは際だってるけど、クリーフの冷静ぶりも、どことなく憎めないウォラックの小悪党ぶりも心地良い。
 ただ、やっぱりこれもレオーネの特徴で、ストーリーとか設定とかはどことなく間延びが感じられ、3時間という時間を有効に使っているのかどうか、その辺が評するのが難しい。妙に緊張感が持続する上、時として間延びするため、
妙に退屈になってしまうことがあり。それに、橋のシーンは力入ってるが、元々ここはそこまで力入れるほどの事か?…いや、これも又味か?
夕陽のガンマン 1965

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ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ
セルジオ・レオーネ(脚)
クリント・イーストウッド
リー・ヴァン・クリーフ
ジャン・マリア・ヴォロンテ
クラウス・キンスキー
ヨゼフ・エッガー
ローズマリー・デクスター
マーラ・クラップ
ルイジ・ピスティッリ
パノス・パパドポロス
ベニート・ステファネッリ
ロベルト・カマルディエル
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 賞金首の殺人鬼インディオを追う二人の男マンゴー(イーストウッド)と大佐(クリーフ)が出会った。互いの目的が同じ事を知った二人は諍いを経た後で共にインディオを追うことに。首尾良くインディオに近づいた彼らはマンゴーが仲間になりすまし、インディオの寝首をかこうとするのだが…
 『荒野の用心棒』が大ヒットしたお陰で作られた作品で、予算も『荒野の用心棒』と較べると3倍の75万ドルが使用された割と豪華な作品。
 『荒野の用心棒』、本作、そして『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』(1966)の三作はマカロニウエスタンを確立し、更にイーストウッドを一気にメジャーに押し上げた作品だが、この三作の関係は結構複雑。そもそも一作目の『荒野の用心棒』に対して本作は続編に当たり(本作の原題は
『Per Qualche Dollaro in Piu』で「もう少しの金のために」という意味で、(『Per un pugno di dollari』(「一握りの金のために」)に対応している。一方邦題で『続』と出ている『続・夕陽のガンマン』は物語としても設定としても違っている。いずれにせよ、イーストウッドの様々な側面の魅力が語られているので、一括りにしても問題はないか。
 それに本作ではリー=ヴァン=クリーフが珍しく主役の側で登場。イーストウッドに負けない魅力を放っているのも特徴だろう。マカロニは初期に二人のスターを生み出したと言うことになる。特にオープニングシーンの立ち居振る舞いは明らかにイーストウッドよりもクリーフの方に重点が置かれている。今回はイーストウッドが若いガンマンの役割に徹しているので、どっちかというと跳ねっ返りの若造を見守っている大人の役割をうまく果たしていた。バディ・ムービーっぽくしたのは『用心棒』(1961)に対する『椿三十郎』(1962)を意識してのことかも知れない。
 マカロニと正統派の西部劇の大きな違いは
歴史にある。アメリカで量産されてきた西部劇は、これまでのアメリカのフロンティア精神の表れであり、自分たちの父祖がどれだけ苦労して不毛の大地に根を下ろし、そしてアメリカという国を作り上げてきたかを殊更強調する傾向にある。つまり歴史の浅いアメリカという国が必要とした神話を作り上げてきたという点にある。いわば、大地が先ずあって、そこにドラマを付けていくのが正統派の傾向。一方、本作を観ても分かるように、マカロニの特徴としては、歴史を必要としない。男がいて、そこから物語が始まる。あくまで主体は人であり、そこに歴史は必要ない。低予算だからこうせざるを得なかったという点はあるにせよ、これが強烈なキャラクタの魅力へとつながっていくのだ。
 その強味を遺憾なく発揮できたのがレオーネ監督の素晴らしい所で、彼なしにマカロニウエスタンは無く、同時に後の映画にこれだけ影響を与えることも出来なかっただろう。
 本作は強烈な二人を観てるだけで充分という感じの作品だが、それに被さるエンニオ=モリコーネの音楽が見事なほどにはまっている。冒頭の大佐登場シーンは見事だが、中盤のダレ場も音楽でフォロー出来ていた。音楽も重要な事を改めて再確認。
 一方、物語として観る限りは、少々難点がある。やってることが行き当たりばったりの感があるし、最後の大佐とインディオとの確執も唐突すぎる。しかも物語が無駄に長い。途中に長いダレ場があるので、もうちょっと絞れたんじゃないか?設定においてはいわんや…まあ、その辺は言わぬのが華か。それがレオーネの魅力でもあるのだから。
荒野の用心棒 1964

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セルジオ・レオーネ
ドゥッチオ・テッサリ
ヴィクトル・A・カテナ
ハイメ・コマス(脚)
クリント・イーストウッド
ジャン・マリア・ヴォロンテ
マリアンネ・コッホ
ヨゼフ・エッガー
マルガリータ・ロサーノ
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 1872年ニュー・メキシコ。ロホ兄弟とモラレスと言う二派に分かれた無法者の横行する町にジョー(イーストウッド)という腕利きのガンマンが現われる。その腕を見込まれ、ロホ兄弟の元にやっかいになる。だが、彼の目的はこの二つの無法者達をぶつけて共倒れさせるところにあったのだ。
 原題は
『Per un pugno di dollari』。スペイン語で『一握りの金のために』。それが邦題ではこのように変えられてしまった。それもきちんとした理由がある。
 本作は映画史において特異な位置づけを持つ。一つは
本作がマカロニ・ウエスタンの嚆矢となったこと。それを作り出したレオーネ監督、音楽のエンニオ=モリコーネを一躍有名な存在とし、何よりそれまで映画俳優としては鳴かず飛ばずだったイーストウッドを一躍トップスターに押し上た作品だった。特にイーストウッドは後年自分が監督をするようになってからも、寡黙で名前を必要としない主人公を多数生み出してきたし、それに倣った作品も数多く、後の映画史に多大な影響を与えた作品と言える。だが同時に本作は映画史における一つの汚点ともなった。パクリ映画としてである。一応元ネタはダシール=ハメットの小説なのだそうが、本作は完全な『用心棒』(1961)の、了解を取ってないコピーであり、実際、ちゃんと了解を取って翻案した『荒野の七人』(1960)以上に忠実に作られている。これだけのものを堂々と作ってしまうのだから、ある意味立派だ。尤も現代では、示談が成立しているので、パクリというのは悪い言い方で、ゲリラ的撮影と言った方がいいかもしれない。監督本人が悪びれることなく示談に応じたのは潔かった。これも確信犯的だったのか?(イーストウッドいわく、「脚本を一目見てこれが『用心棒』の盗作だと分かった」そうだ。黙ってたのか?)
 ちなみにその事を発見したのは東宝ローマ駐在員が大ヒットの西部劇だというので
(事実イタリアでは『マイ・フェア・レディ』(1964)『メリー・ポピンズ』(1964)よりもヒットしたとか)、たまたまこれを劇場で観てびっくりした事が発端だったようだ。しかもそんなこととは知らないイタリアの配給会社は日本での買い手を探して来日。試写の結果、間違いなく盗作であると判断し、東宝の抗議に至った。
 本当に何から何まで『用心棒』そのまんまな作品であり、刀が銃に変わっただけで、主人公の位置づけから、設定、キャラクターに至るまで呆れるほどによく似てる。
 元々黒澤明監督は『用心棒』をチャンバラ、あるいは任侠映画として撮るつもりが無く、大胆に西部劇のテイストを取り入れて作ったと言っていたが、確かにそれは大当たり。この作品が見事にそれを証明してみせた。
黒澤監督も、怒るよりむしろ喜んでたんじゃ無かろうか?
 しかし、それは本作がどれだけ質が高かったかと言うことでもある。本作こそがマカロニ・ウエスタンを方向付けた。
 それで西部劇の違いというものを考えてみた。ハリウッド西部劇は本来アメリカの歴史に密接に結びついた映画で、大陸東部から新天地を求めて開拓のために進んでいった西部の辺境を舞台にしていてこそ、西部劇の名称がある。そこにはネイティヴ・アメリカンとの文明の衝突があり、鉄道によってどんどん開発されていく歴史の流れというものがあった。だからここにはアメリカという国の建国物語が内包されている。どの作品を観ても、ちゃんと年代が設定されており、実在の人物もちょくちょく登場させる。それに対しマカロニ・ウエスタンの場合、概ね年代の設定はされていない。されていたとしても歴史そのものよりも、人物の方にスポットを当てるため。更に極端に個人の格好良さを強調するのも特徴か。正義とか悪とかを超越した一人の男の物語を描く。それに特化した。予算不足を補うためだろうが、だからこそ強烈な個性を残すことが出来たのだろう。
 後にイーストウッドが語っていたが、当時イーストウッドはスペイン語が話せず、レオーネは英語がしゃべれなかった。それで演技指導はレオーネ自らが体を使って行ったが、それが逆にイーストウッドにとってはのびのびとオーバーアクションで演じられるようになったのだとか。何が幸いになるか分からないものだ。

 主役は当初当初コバーンを考えていたそうだが、出演料の高さで断念。その半額以下で応じてくれる役者を探し、マーク・デイモンという売れない二枚目役者にオファーが行ったそうだが、彼は既に役者に見切りを付けて映画ビジネスの方に入っていた。それで二番目候補としてあげられたのがイーストウッド。結果マカロニ・ウエスタンのトップ・スターとなったが、しばらくはアメリカでの知名度はかなり低かったそうだ。世界が認め、それからアメリカへ帰っていったと言う面白い経歴を持つようになる。

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