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2009年 ザック・スナイダー(監) |
もう一つのアメリカの話。この世界ではヒーローと呼ばれる存在が悪人と戦い続けていたが、自警団を禁止するキーン条例の発効によってヒーローは居場所を失っていた。ある者はひっそりと引退し、ある者は犯罪者の後ろ指を指されつつ、孤独な戦いを続けていた。そしてアメリカとソ連の冷戦は、もはや一触即発の事態へと移っている1985年。一人の男がマンハッタンの高層ビルから転落死する。その男の名はエドワード・ブレイク。かつて“コメディアン”という名のヒーローだった男だった… のっけからネガティブなことを書かせてもらおう。 まず、私はこのスナイダーという監督が嫌いだ。『ドーン・オブ・ザ・デッド』も『300』もクズとしか考えてない。物語性云々よりも、見栄えばかりに血道をあげ、とりあえず「どうだ。これを観ろ!」と無個性な作品を出してくる。そんな姿勢はマイケル・ベイの延長でしかないし、生々しさよりもCGを全面に出しただけの碌でもない監督だとしか思えてない。 それなのに本作をわざわざ観に行ったのは、私の好きな映画評論家がこぞって「面白い」と言っていたから。しかも一筋縄じゃない、ひねくれまくった評論家に限って「面白い」と言ってる。それで興味を持って、実に軽い気持ちだった… …で、その感想はというと… 「打ちのめされた」というのに近い。 映画の出来云々の問題じゃない。最も驚いたのは、こんなコミックが、しかもアメリカにあったのか!という衝撃である。映画じゃなくてコミックとしての出来に驚かされた。はっきり言って、この原作者には激しい嫉妬を覚える。世の中には私と同じようなことを考え、しかも突き詰めて考えた人がいるもんだ。 いつか私なりにヒーローの定義と言うものを類型を出して説明し、一大論文を展開させてやろうと、前々から…それこそ本サイトで特撮館を作った当時から考え続けていた。それで、そろそろそれをまとめ始めようか?などと考えていた矢先だったのだ。そんな時に本作を観てしまった… マジでショック大きかった。クソったれ。なんでもうそれ作った奴がいるの?しかもここまで洗練した思考で?正直この映画、ものすごい情報量が私の中に入ってきたが、こんな提示されたものを受け取るんじゃなく、私に考えさせてくれよ!と言いたいことが多々。映画観てる間、とても幸せな気分であるとともに、ものすごい後悔の嵐に苛まれてしまった。 この映画…ではなく、原作で描かれたのは、ヒーローの定義付けだった。ここに登場するヒーローたちはもちろん「ウォッチメン」という世界観の中でのオリジナルのヒーロー達には違いないが、その向こう側にスーパーマンやバットマンたちの姿が透けて見えてくる。こう言ったシチュエーションの中に置かれたら、彼らは一体どう行動するだろうか?ということを、半ば二次創作的な感覚で作っているのだが、そのシチュエーションが半端なく魅力的だ。 これはヒーローと呼ばれる存在が比較的普通に認知されてる世界だが(MARVELの『X-MEN』っぽいが、『Mr.インクレディブル』や『スカイハイ』のようでもある)、認知されているが故にいくつもの困難に直面することになる。そこでいくつかのマイナスの前提条件をたたきつけ、そのシチュエーションで自らをヒーローとなし続けていくモチベーションはどこにあるのか?かなり設定的に厳しい条件を強いていくが、それでも尚、ヒーローをヒーローたらしめる部分はどこにある?と言うことが描かれることになった。つまり一旦ヒーローと呼ばれる存在を完全に解体し、その上でヒーローたる存在とは何であるのか?そのことを問いかけようとしている。 そのために一旦ヒーローを解体する。このマイナス要因となる前提をまず考えてみよう。 まず、キーン条例なるものによって自警団は解散させられた時代であるため、国家のバックアップは受けられない。そもそもその国家自体が超がつくタカ派になってしまってるので、国のために働く気にさせられない。さらにここまでの活動経歴で嫌と言うほどこれまでに個人で出来る限界と言うものを見せつけられている。一人が活躍したところで、世界平和には貢献できないし、真の意味で何かを救おうとするならば、見返りに汚さが必要であることも知らされている。その矛盾の中で、あるヒーローは守るべき市民の手で殺されてしまうし、あるヒーローは心を病む。そんなシチュエーションに放り込まれた、現代のヒーローたちのアイデンティティはどこにあるのか。 彼らは確かに一般人と比べると多少能力は高いかもしれない。暴漢たちと戦ったら、相手が何人いようとぶちのめせるし、火や水の中に入ってもさほどの怪我もなく生還することもできる。だが、そんな能力があるからと言って、だからヒーローになれるはずはない。相対的な時代だから、明確な正義も定義しにくい。要するに、人より正義感があふれていて、人よりちょっと強いというだけではヒーローとはなれないと言うことになる。 それで苦悩した結果、自らの身の置き所をそれぞれ見つけていく。以下一人一人のヒーローの今を考えてみよう。 ナイトオウル(ダン)は、すべてを封印し、一般市民として生きる道を選んだ。 オジマンディアス(エイドリアン)は、ヒーロー時代に培った人脈を最大限使用して、更なる大きな目標、人類の恒久平和を実現しようと、日夜研究を続ける(その研究については後述)。 シルク・スペクター(ローレル)は、立場的にはオウルと同様ながら、マンハッタンとコンビを組むことで世界平和に役立っていると信じたがっている。 ロールシャク(ロールシャッハー:ウォルター)は、法的なバックアップを受けることなく、たとえ犯罪者として警察に追われようとも、自らの信じる正義(多くは犯罪者の撲滅)を貫こうとする。 そしてコメディアン(エドワード)はアメリカと言う国の、指導者のために戦うことによりヒーローであり続けようとした。 以上5人のかつてのヒーローの“今”なのだが、ヒーローであることの存在を止められた際、それぞれがどうアイデンティティを保っているのかがよく分かって興味深い。類型として、このシチュエーションに置かれたらこんな行動するだろう?と思わせるのばかり。 この中で一番面白いのがコメディアンだろう。彼は一番長くヒーローとして活躍していたため、一番矛盾も理解していた。どれほどヒーローとして能力を持っていたとしても、それだけでは何にもならないことを一番よく知っていたし、矛盾にさらされ続けたおかげで正義感もすり減っている(劇中暴徒に催涙弾をぶちかましながら「これがアメリカンドリームだ」と叫んでいたのは、彼なりの苦悩が皮肉になって出たと思われる)。だから彼は自分の能力を最も効果的に使ってくれる場所に身を寄せて、一方の正義に加担することでヒーローでありつづけようとした。その結果、彼の得たものは、決して表に出すことが出来ない数々の勲章と、政治家連中と結びつくことで多少の罪はすべて免除される特権、マンハッタンのコンドミニアムといった、物理的な豊かさだった。一般的な定義で言うなら彼は悪人である。だが、国レベルで考えるなら、彼は正義の体現者でもあるのだ。 彼と見事な対比になっているのがロールシャク。彼もまた闇の世界で生きることを選びはしたが、コメディアンとはまったく逆の方法をとった。彼はバットマン的なヒーロー気質の持ち主で、どんな状況におかれても、悪を許すことが出来ない。たとえそれがヒーローとされて人々に称賛されていても、逆に非難の的になったとしても、彼はヒーローであることをやめることは出来ない。ある意味では、だれにも称賛されない、市民によって憎まれる存在であっても心がすでに壊れている彼こそ、本来的なヒーローの姿とも言える。 この二人は形はまったく違えど、これまで自分たちが行ってきたヒーロー的行為を今も尚続けている人物である。 対して、それまでとは形をまったく変え、新しい形のヒーローとなったのがオジマンディアス。彼は自分自身がヒーローであったことを明かし、それを逆に武器にして経済界でのしあがる。これは別に自分のためと言うのではなく、自らが思い描く世界平和への布石のためだった。彼の考える世界平和とは、二つの方向性を持つ。一つはエネルギー問題で、そのため化石燃料を使わぬ無公害且つ安価なエネルギーをマンハッタンと共に作り上げる。そしてもう一つは、世界の国々がイデオロギーを超えて手を携えることだった。そしてそれは実際に成功させてしまう。引退したヒーローが至るべき、本物の理想的な姿がここにはある。 彼らはそれぞれが独自にヒーローとしての活動を続けている。ヒーローのアイデンティティを壊されて尚、ヒーローたるべく模索した結果、自らのあたらしいアイデンティティを確立した。 しかし一方ではそれが出来なかったヒーローも二人いる。ナイトオウルは「私の役割はもう終わったのだ」と自らに言い聞かせながら、不完全燃焼のまま生き続け(『ランボー』や『ディア・ハンター』を髣髴させるシチュエーションだ)、シルクは自分の存在意義は恋人であるマンハッタンの人間性をとどめるためと位置づけているものの、主体が自分ではない上に、マンハッタンがどんどん人間性から離れていくので、やっぱり燃焼不良を感じている。二人は逢えば思い出話をしてうさ晴らしをするしかストレスの解消法がない。傷を舐めあい、ますます傷つきあい続けてる。 後はDr.マンハッタンがいるが、こいつは存在そのものが超人であり、もはや人間性を失ったキャラだけに、“ヒーローで無くなった”というテーゼは成り立たないため、ここでは除外。 強制的にヒーローで無くされた面々のそれぞれの生き方は上記の通り。ではそんな彼らが、一同に介してどんな物語が作られるのか… 結果として出来上がったのは、ヒーロー同士の争いの話だった。 登場するヒーローたちはそれぞれが自分なりの正義を持ち、それを貫こうとするのだが、それは必ずぶつかり合う。そしてそれが結果として敵対という形を取らざるを得なくなってしまう。この作品には明確に悪人というのはいない。正義同士がつぶし合う物語なのだ。 ここではオジマンディアスの考える世界平和というのが話の中心となる。彼の理想は世界的に恒久平和をもたらすこと。その平和のためには、多少の犠牲は仕方ないと割り切ってしまった。彼は無公害のエネルギー開発は成し遂げた。それで残ったのは、大国同士の戦いを止めさせると言うこと。そのために最も効果的な方法をとった。つまり、人類の敵という存在を設定し、それと戦うために人類は皆手を組まねばならない。と思わせようとしたのだ。これは彼なりの“正義”ではあっても、そのために数百万規模の人間を見せしめで殺すこととなり、一般的な意味では彼こそが人類の敵となってしまう。そのため本物の超人であるマンハッタンを敵に仕立て、その事実を察した人間は全員殺すという方法をさえ用いている。彼の目的を知り、同調が出来なければ消すしかない。それで人類が平和になれば良いではないか。もの凄い割り切り方で、最も効率が良い方法ではある。 何度も書くが、ここで問いかけられるのは、「ヒーローとは一体どんな存在であるのか?」という命題である。人類を救うために人を殺すのがヒーローなのか、それとも、どんな人の命をも救うために戦うのがヒーローなのか。最終的にオジマンディアスとロールシャクの二人の考え方の戦いとなっていく。 この二人の考え方の戦いは、実は決着が付かない。この物語では最も無個性でヒーロー願望だけが高いナイトオウルが主人公的な役割を担うことになるのだが、彼の役割は、結果として“観る”だけの存在となる。彼はそれぞれの正義を認めながら、そのどれも選択することが出来ないままに終わってしまうのだ。 ナイトオウルは一応はロールシャクに同調してはいるが、既にそれが遅かったことを知らされた後では、オジマンディアスの考え方に同調せざるを得ない。それでも自分の正義を貫こうとして半ば自殺のように殺されたロールシャクのようには生きる事が出来ず、世界の秘密を知ってしまった彼は、後はそれを悔やみながら生き続けるしかない。正義とは一体何なのか、その事を問いかけつつ… そう言う意味で極めて後味の悪い終わり方をするのだが、それによって全面核戦争の危機は去り、全ての国はマンハッタンの攻撃に怯えつつ、手をつないで平和が訪れる。 …ところで、一見あまり意味の無いようなラストの付け加えだが、あれは実はとんでもない問題をはらんでるような気がする。あそこでもしロールシャクの手記が全てをばらしてしまうのなら、オジマンディアスの考えは全て無駄になり、世界平和は永遠に訪れないという事になりかねないのだが?あるいはあれは単なるゴシップで、「忘れてない人がいるぞ」という警告に過ぎないのか?ちょっと判断が付かない。 |
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ミニメイツ/ ウォッチメン ボックスセット |
アーチー | → | |||
【あーちー】 | ||||
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ウォッチメン | → | ||||||
【うぉっち-めん】 | |||||||
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ウォルター | → | |||
【うぉるたー】 | ||||
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エイドリアン | → | |||
【えいどりあん】 | ||||
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エドワード | → | |||
【えどわーど】 | ||||
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オウルシップ・アーチー | → | |||
【おうる-しっぷ-あーちー】 | ||||
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オジマンディアス | → | ビフォア・ウォッチメン/ オジマンディアス スタチュー | ||||||
【おじまんでぃあす】 | ||||||||
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キーン条例 | → | |||
【きーん-じょうれい】 | ||||
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コメディアン | → | |||||||
【こめでぃあん】 | ||||||||
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サリー | → | ||||||
【さりー】 | |||||||
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終末時計 | → | |||
【しゅうまつ-どけい】 | ||||
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ジョン | → | |||
【じょん】 | ||||
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シルク・スペクター | → | |||||||
【しるく-すぺくたー】 | ||||||||
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スクリーミング・スカル | → | |||
【すくりーみんぐ-すかる】 | ||||
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ダン | → | |||
【だん】 | ||||
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Dr.マンハッタン | → | |||||||
【どくたー-まんはったん】 | ||||||||
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ナイトオウル | → |
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【ないと-おうる】 | ||||||
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ニクソン | → | |||
【にくそん】 | ||||
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フーデッド・ジャスティス | → | |||
【ふーでっど-じゃすてぃす】 | ||||
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ホリス | → | |||
【ほりす】 | ||||
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ミニッツメン | → | |||
【みにっつめん】 | ||||
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モーロック | → | |||
【もーろっく】 | ||||
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モスマン | → | |||
【もすまん】 | ||||
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ロールシャッハ | → |
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【ろーるしゃっは】 | |||||
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ローレル | → | |||
【ろーれる】 | ||||
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マシュー・ヴォーン(監) |
勧善懲悪のヒーローに憧れる高校生デイヴ(ジョンソン)は、インターネットで手に入れた緑色のコスチュームを身に纏い、ヒーロー"キック・アス"として街に繰り出すが、見事チンピラにボコボコにされ重傷を負ってしまう。その治療の結果、神経の損傷で痛みに鈍感になったデイヴは無類の打たれ強さを身につけていた。そしてパトロールを再開し、チンピラと殴り合っているところがネットの動画に投稿されてしまう。一気に時のヒーローとなったキック・アスだが、地元マフィアのダミコ(ストロング)は最近起きている組織の切り崩し工作を彼の仕業と勘違いしてしまう。実はキック・アスの活躍に紛れ、影で別のヒーローが暗躍していたのだ。"ビッグ・ダディ"(ケイジ)と、彼の愛娘"ヒット・ガール"(モレッツ)は、都合良く現れたキック・アスを表のヒーローとして祭り上げようと考える。複雑な思いが絡み合う中、デイヴは憧れの同級生ケイティ(フォンセカ)が自分に興味を持ち始めたことに有頂天で… これは正直結構観るには覚悟が必要だった。「とてもおもしろい」と言う噂は聞いていたし、ヒーローものはやっぱり押さえておきたいと言う思いはあったものの、なんか痛々しいもの見せられるんじゃないか?と結構恐々と… で、困った。本当におもしろいのだ。面白いのだが、これを素直に「面白い」と言ってしまったら、なんかこれまで自分が積み上げてきたものを崩してしまいそうな気持ちになってきた。 理由としていくつか挙げてみよう。 本作をキック・アスだけを焦点にして考えてみると、これは『タクシードライバー』(1976)の模倣にすぎないこと。デイヴはトラヴィスのような強烈な個性あるいは求めるものがないため、本当に単なる“模倣”であり、悪い意味での70年代邦画っぽい感じが抜けないこと。 年端もいかない女の子に「○○○○野郎」とか「腐れ×××」とかモロの台詞にはさすがに引いた。なんか自分の美意識にあわないと言うか、逆にそれで燃えてしまう自分が嫌というか… もう一つは、この話だとヒーローが単なる殺人者になってしまうと言う問題。悪人を殺せばそれだけでヒーローになってしまうという短絡的思考になりかねない。リアルな話ならそれもありかもしれないけど(ブロンソンの『狼よさらば』(1974)みたいなのだったり、それこそ『タクシードライバー』だったら)、ファンタジー性の強い話だから、その分違和感をどうしても感じてしまって… それで二、三日考えていたのだが、やっぱり素直に言おう。 「これは面白い」。 正直、この作品が多分痛々しいものになるだろうことは、最初から分かっていた。 だって何の力も持たないヒーローオタクが中二病丸出しで活躍して、それがマスコミに取り上げられてヒーローに祭り上げられてしまうなんて、そんなどこかで観たようなものを又見せられるのか?それ『ゼブラーマン』(2003)で充分だよ。と言う気持ちだった。 だけど、これは少し違った。いや、メインストーリーに関してはそのものなのだが、ここに殺し屋のビッグ・ダディとヒット・ガールの父娘が加わったことで、全く違った様相を見せているのだ。 本来この二つの物語は別個のものである。どちらもB級そのものとは言え、単独で作っても全く問題はなかった。ところがこの二つ、たった一つマスクヒーローと言うだけでつながったこの関係が物語上、化学変化を起こした。 これにより、ヒーローオタクのデイヴは自分には踏み込んではならない領域があることを認識させられつつ、敢えてそこに踏み込まねばならないところに追い込まれ、父娘は、単なる隠れ蓑でしかなかったキック・アスを最終的には頼りに復讐を成し遂げていく。この二つの物語が合わさったお陰で、物語は先が見えないものへと変化していった。しかも二つの物語の融合がここまで見事にはまってる。ここまでくると賞賛するしかなかろう。 そして私にとってはここが重要なのだが、本作はヒーロー論に深く関わった話でもある。ヒーローオタクであるデイヴからヒーローとは「覚悟である」と最初に言われており、その通りデイヴはたった一人の自警団となって活躍するようになる。彼には本当に何の力もないので、その活躍と言ってもせいぜい最初の一撃を不意打ちで成功させるくらいしかない。後は危機に陥ったら警察を呼ぶとか。だけど、そんな彼が、いつの間にやらイメージだけ突出し、やがて本物のヒーローになっていく。これって実は『ウォッチメン』(2009)で描かれたヒーローの誕生と同じだった。「その後の話」を描いたのが『ウォッチメン』なら、ヒーローの誕生を描いたのが本作だといっても良いだろう。実は本作と『ウォッチメン』のヒーローになるモチベーションはほとんど同じなのだ。つまりこれは、ヒーローになる動機なんてものは誰しも似通ったものであり、それこそ「覚悟」があれば出来てしまうと言うこと。日本の特撮の場合、ヒーローの大半はなろうとしてなったものではない。むしろ“ならされてしまう”ことの方が多いので、かなり新鮮な思いにさせられた。と言うか、こっちの方が普通(?)なのかな? それと、本作の場合メディアの力が相当に強い。デイヴは確かに痛々しい奴で、やってることも痛々しいが、それを撮影され、YouTubeに投稿されることで一躍有名人にされてしまうし、ヒーローを引きずり落とそうとするのもやはり撮影を中継することによって。今やヒーローなんて簡単になれるものなのかもしれない。そう考えると、一般人にとっても今は怖い時代なんだな。 キャラに関しては、文句なし。ビッグ・ダディ役のケイジにとってもこの役は大満足だっただろうし(皮肉なことにずっとなりたかったスーパーマンではなくバットマンの方だったが)、すごく生き生きしていた。でもなんといってもヒット・ガール役のクロエ・グレース・モレッツが見事なほどにはまってた。まあ何の躊躇もなしに悪人をばっさばっさ切り刻んだり、テレビでは流せない台詞にはちょっと引いたけど、それがすごくはまってるのも事実。主人公…はどうでもいいか。なんか巻き毛眼鏡ってのは、痛々しさを増すってことが分かったことくらいか? 色々考えてみたが、久々に“本当は褒めてはいけないのに褒めざるを得ない”作品に出会えたので、それで充分。 最後に一つだけ。実は現在のハリウッドはこう言った残酷描写の多い作品はなかなか作れない状況にあるらしい(製作配給がアメリカだけで出来た『スペル』(2009)は相当の例外)。ところが現在アメリカでヒットを飛ばす作品は残酷描写が多い作品ばかり。そういった作品は資本を出すのはアメリカだが、製作元としてスペインとかメキシコ、あるいは日本と言った国が選ばれることが多い(ちなみに日本の作品だと『片腕マシンガール』(2007)、『ロボゲイシャ』がこの過程作られてる)、本作は全編アメリカを舞台としている。それで「ハリウッドやるじゃん」と思ったら、製作会社はイギリスだった。なるほどイギリスもこう言うの大丈夫なんだ。これからイギリス製作の娯楽映画が増えるんじゃないか?と思えてきた。多分これからますます海外製作作品は増えてくるだろう。その意味では逆にハリウッドの低迷ぶりを感じさせてくれる作品でもあった。 |
キック・アス | → | キックアス2/ 7インチ アクションフィギュア シリーズ1: 2種セット | |||
【きっく-あす】 | |||||
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クリス | → | |||
【くりす】 | ||||
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ケイティ | → | |||
【けいてぃ】 | ||||
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ビッグ・ダディ | → | |||
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ヒット・ガール | → | ||||
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フランク | → | |||
【ふらんく】 | ||||
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レッド・ミスト | → | |||
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名称 | → | |||
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2013年 ジェフ・ワドロウ |
デイヴ(ジョンソン)とミンディ(モレッツ)がそれぞれキック・アスとヒット・ガールの活動を止めて3年が経った。普通の生活に飽き飽きしたデイヴは、再び自警活動を再開しようと、マーカス刑事(チェスナット)に引き取られたミンディに頼んでトレーニングを開始する。だが、それをマーカスに知られたミンディは、普通の女の子になることを誓わされてしまうのだった。諦めきれないデイヴは、スターズ・アンド・ストライプス大佐率いる自警団「ジャスティス・フォーエバー」に入会することにする。だが、そんなデイヴの活動を、キック・アスに父を殺されて恨むクリス(ミンツ=プラッセ)が逐一探っていた… スマッシュヒットを飛ばした『キック・アス』(2010)の続編。 一作目はいろんな意味で驚かされた作品だった。あの作品の面白さはいくつもあるが、私にとっては何より、私自身がテーマと考えている“ヒーロー論”に直結する内容で、大変刺激を受けたからだった。 そこでは、何の力も持たない覚悟だけしか持たない一般人がヒーローになれるのか?というところから始まって、ヒーローとは一体なにか?ということまで考えさせられた(その意味では同時期に作られた『スーパー!』(2010)込みだが)。 そして観終わった後にも一つ驚かされたことがある。 映画に衝撃を受けたため、慌てて原作コミックを購入して読んでみたのだが、正直、原作の方は映画ほど面白くはなかった。この原作をよくここまでの作品に出来たもんだと、逆に驚いたくらい。 原作の目的は、なんの力も持たない普通の少年がヒーローとして生きる事が出来るのか?という観点で固定されていた。それ故キック・アスは常に痛々しくなければならなかった。キック・アスは格好良くあってはならなかったのだ。だが、それこそが正しいヒーロー論の形でもあった。 それに対して映画版は付加要素を付け加えた。ヒーロー論を突き詰めた原作に、アクションという付加価値を付け加えたヴォーン監督の力量と、何よりヒット・ガール役のクロエ・モレッツとビッグ・ダディ役のニコラス・ケイジの存在が大きい。原作版では、単に自意識過剰なだけの痛々しいオタクの二人が、本当の戦闘ヒーローになっていたお陰で、演出の緊迫感がまるで違っていたのだ。 原作には後日譚となる続編が書かれていたようだが、一作目を読んだ限りでは続けて読む必然性を感じなかったので、それは未読のまま本作に挑戦することとなった。 で、素直な感想だが、原作は読んではいないものの、非常に原作準拠の話の話と言える。一作目の原作の臭いがプンプンしてくる。つまり、キック・アスがとにかく格好悪いのだ。 キック・アスことデイヴは正義の心を持った人物ではあるものの、その正義というのは自警団を超えるものではなく、更に自分一人で判断することができない。自分がやってることが本当に正しいかさえも分かってない。ちょっとだけ正義感が強いだけの普通の男である。だから自分を受け入れてくれる人がいたら、それにくっついていくし、自分を肯定してもらいたがっているだけ。だからこそミンディに自分を認めて欲しいと願ったし、スターズ・アンド・ストライプという胡散臭い人物に身を寄せることになる。その結果、セックスフレンドにも恵まれたものの、それも流されるまま。 そして、その浮ついた性格が危機を呼び、最終的に自分の父の死という手痛いしっぺ返しを食うことになる。 …という事で、前作に比べてますますイタいキャラとして設定された主人公。一作目であれだけのことをやった上でこれだけの勘違いキャラが出されてしまった。 正直、この時点で本作は失敗とも言える。肝心な物語が悪すぎるのだ。 だが、そんな情けない主人公と、どうしようもない物語の中で、本作にはこれ以上ない売りも又存在する。 他でもない。ヒット・ガール役のクロエ・グレース・モレッツの事。今回は主人公なんぞいい加減でも構わず、ただ彼女を撮影することだけに特化した作品と言っても良いくらい。 なんというか、揺れ動く思春期の危うい美しさと言うべきだろうか。全編を通して不安定な感情をもてあます姿はまさにアドゥレセンス。今のクロエだからこそ出来る最高の演技が出来た。それだけで本作はもう充分と言えよう。色々悩むものの、最後には完全に吹っ切れてやりたい放題やる爽快さにも、彼女の描き方の正しさが表れている。 キック・アスもヒット・ガールも本作では不安定なのだが、それをキック・アスは痛々しさに、ヒット・ガールは美しさへ。それを対比して見せたのが本作の最大の利点であろう。 正直、このクロエを観るだけでも本作を観る価値がある。それだけで楽しめることは請け合おう。 |
インセクトマン | → | |||
【いんせくと-まん】 | ||||
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キック・アス | → | |||
【きっく-あす】 | ||||
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クリス | → | |||
【くりす】 | ||||
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ゲロゲリ棒 | → | |||
【げろ-げり-ぼう】 | ||||
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ザ・トゥーマー | → | |||
【ざ-とぅーまー】 | ||||
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サル | → | |||
【さる】 | ||||
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ジャスティス・フォーエバー | → | |||
【じゃすてぃす-ふぉーえばー】 | ||||
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スターズ・アンド・ストライプス大佐 | → | |||
【すたーず-あんど-すとらいぷす-たいさ】 | ||||
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チンギス・半殺し | → | |||
【ちんぎす-はん-ごろし】 | ||||
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デイヴ | → | |||
【でいう゛】 | ||||
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ドクター・グラビティ | → | |||
【どくたー-ぐらびてぃ】 | ||||
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トッド | → | |||
【とっど】 | ||||
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トミーズ・ダッド | → | |||
【とみーず-だっど】 | ||||
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トミーズ・マム | → | |||
【とみーず-まむ】 | ||||
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ナイト・ビッチ | → | |||
【ないと-びっち】 | ||||
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バトル・ガイ | → | |||
【ばとる-がい】 | ||||
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ハビエル | → | |||
【はびえる】 | ||||
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ヒット・ガール | → | |||
【ひっと-がーる】 | ||||
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ブラック・デス | → | |||
【ぶらっく-です】 | ||||
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ブルック | → | |||
【ぶるっく】 | ||||
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マーティ | → | |||
【まーてぃ】 | ||||
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マザー・ファッカー | → | |||
【まざー-ふぁっかー】 | ||||
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マザー・ロシア | → | |||
【まざー-ろしあ】 | ||||
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ミンディ | → | |||
【みんでぃ】 | ||||
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名称 | → | |||
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2006年。米国のカンザス州ブライトバーン。なかなか子どもが出来ず妊活中のトリ(バンクス)とカイル(デンマン)のブライア夫婦の農場に隕石のようなものが落ちた。それは小さな宇宙船のような乗り物で、その中には一人の赤ん坊がいた。この子を自分たちの子として育てることにした二人。ブランドン(ダン)と名付けられたその子はすくすく成長し、12歳の誕生日を迎えるのだが、誕生日前後からブランドンは少しずつ奇行に走るようになる。特に宇宙船を隠していた納屋に対して激しい興味を抱き、怒りを抑えられなくなっていく。更に超人的な力も持つようになる。トリとカイルは、そんなブランドンをどう育てるべきかと悩む。 本作はガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの監督を務めたジェームズ・ガンがディズニーとの次回作交渉に失敗して下ろされてしまった(交渉が続いて無事次回作の監督が決まったそうだ)時に企画として立ち上げたのが、もう一つのスーパーヒーロー作品だった。 本作をヒーローモノして考えるならば、同じくスーパーパワーを持った存在が、ヒーローになったりヴィランになったりするなら、その違いがどこにあるのかということを考察したものになる。 答えを言ってしまうと、スーパーパワーを持った人物の心の問題となる。悪い心を持ったらヴィランになるし、良い心を持ったらヒーローになる。その程度の単純なものだ。 それで本作は人間を遥かに超える力を持った存在が邪悪な心に目覚めてしまったら?という話となっているのが特徴となる。 それでヴィランつまり悪側のヒーローの誕生話となった訳で、その設定は面白かったのだが… 私には全く面白いと思えなかった。 こう言う設定の作品は好きだと思ってたのだが、全く駄目。糞面白くない。 観た後でなんかもやもやしていたが、理由を考えてみた。 最大の理由は、スーパーパワーを持つ子ブランドンが全く葛藤してなかったことになる。多分彼は何者から地上を混乱させることを目的に送り込まれた存在で、12歳の誕生日を迎えた時にそれが発動したということなので、葛藤する必要は無かったのだろう。だから最初からこうなることは決まっていた。しかし、それではプログラム通りに動くロボットと同じだ。折角の思春期という設定ならば、正義と悪の間で心が揺れ、その結果として悪の道へと進みなら良かった。しかし全くそれがないのが興ざめである。 しかもその前提として、12歳に至るまで両親から愛情いっぱいに育てられていたというのがあって、両親としてはたまったものじゃない。それまで愛情を注ぎ込んで成長を楽しみにしていたのに、完全にそれが裏切られてしまい、そのフォローが全くないまま終わる。両親の方は愛する息子を殺さねばならないと葛藤するのだが、その心境が伝わってきて辛い。この作品は親の目から見ているため、最後に絶望だけで終わるのを見せられて胸糞悪い。 結局私が本作を受け入れられないのはそれが全てなのかも知れない。親の目から本作を観ると辛すぎる。心が痛くなっただけで快感がなかった。それだけだ。 同じような設定を言うならば「スティッチ」や「ドラゴンボール」もあるが、話はそっちの方に持って行った方が盛り上がる。オチもひねりもない本作は完成度としてどうにも低く感じる。 あと、もう一つ難点を言わせてもらおう。本作の物語そのものは二つの映画から来ている。一つはスーパーマン(1978)でもう一つがオーメン(1976)となる。奇しくも両方監督はリチャード・ドナー。この二つの作品をミックスしたのが本作なのだが、ミックスと言うより、単に無理矢理くっつけただけと言った感じで、元ネタが分かりすぎるのでパクりにしか見えない。もうちょっと上品な料理の仕方があったんじゃなかろうか?この監督、ドナー監督になんか恨みでもあるのか? |
カイル | ||||
【かいる】 | ||||
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ケイトリン | ||||
【けいとりん】 | ||||
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トリ | ||||
【とり】 | ||||
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ブライトバーン | ||||
【ぶらいとばーん】 | ||||
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ブランドン | ||||
【ぶらんどん】 | ||||
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メリリー | ||||
【めりりー】 | ||||
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名称 | ||||
【】 | ||||
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