|
|
||||||||||||||||||||||
イタリア系でニューヨークの生まれ。いわゆるニューヨーク派の人達とは距離を置き、ハリウッドメジャーでの仕事をメインにしているが、こよなくニューヨークを愛する映画を多数作っている。その特徴ある風貌のせいか、他の監督の映画に役者として登場することもあり。 | |||||||||||||||||||||||
|
2023 | キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン 監督・製作 | ||||||||
マエストロ:その音楽と愛と 製作 | |||||||||
2022 | |||||||||
2021 | 都市を歩くように −フラン・レボウィッツの視点− 監督 | ||||||||
カード・カウンター 製作総指揮 | |||||||||
クリント・イーストウッド:シネマティック・レガシー 出演 | |||||||||
2020 | 私というパズル 製作総指揮 | ||||||||
2019 | アイリッシュマン 監督・製作 | ||||||||
ローリング・サンダー・レヴュー:マーティン・スコセッシが描くボブ・ディラン伝説 監督 | |||||||||
ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった 製作総指揮・出演 | |||||||||
エジソンズ・ゲーム 製作総指揮 | |||||||||
アンカット・ダイヤモンド 製作総指揮 | |||||||||
スーヴェニア −私たちが愛した時間− 製作総指揮 | |||||||||
2018 | |||||||||
2017 | チャンブラにて 製作総指揮 | ||||||||
グレイトフル・デッドの長く奇妙な旅 製作総指揮 | |||||||||
スピルバーグ! 出演 | |||||||||
キング・コーエン 出演 | |||||||||
ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち 出演 | |||||||||
2016 | 沈黙 -サイレンス- 監督・製作・脚本 | ||||||||
健さん 出演 | |||||||||
|
|||||||||
2015 | ニューヨーク・ギャングスター 製作総指揮 | ||||||||
ディス・イズ・オーソン・ウェルズ 出演 | |||||||||
ヒッチコック/トリュフォー 出演 | |||||||||
2014 | リベンジ・オブ・ザ・グリーン・ドラゴン 製作総指揮 | ||||||||
映像の魔術師 オーソン・ウェルズ 出演 | |||||||||
2013 | ウルフ・オブ・ウォールストリート 監督・製作 | ||||||||
マラヴィータ 製作総指揮 | |||||||||
2012 | サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ 出演 | ||||||||
2011 | ヒューゴの不思議な発明 監督・製作 | ||||||||
ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド 監督・製作 | |||||||||
映画と恋とウディ・アレン 出演 | |||||||||
コーマン帝国 出演 | |||||||||
ボードウォーク・エンパイア 欲望の街(2nd)<TV> 製作総指揮 | |||||||||
2010 |
|
||||||||
2009 | シャッター アイランド 監督・製作 | ||||||||
ヴィクトリア女王 世紀の愛 製作 | |||||||||
2008 | ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト 監督・出演 | ||||||||
2007 | |||||||||
2006 | ディパーテッド 監督 | ||||||||
LONDON CALLING/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー 出演 | |||||||||
2005 | ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム 監督・製作 | ||||||||
2004 | アビエイター 監督 | ||||||||
デュカリオン 製作総指揮 | |||||||||
ライトニング・イン・ア・ボトル 〜ラジオシティ・ミュージックホール 奇蹟の夜〜 製作総指揮 | |||||||||
ジャスト・ザ・ファクツ/犯罪ドラマの裏側 出演 | |||||||||
シャーク・テイル 声優 | |||||||||
2003 | フィール・ライク・ゴーイング・ホーム 監督・製作総指揮 | ||||||||
ピアノ・ブルース 製作総指揮 | |||||||||
ゴッドファーザー&サン 製作総指揮 | |||||||||
デビルズ・ファイヤー 製作総指揮 | |||||||||
ロード・トゥ・メンフィス 製作総指揮 | |||||||||
レッド、ホワイト&ブルース 製作総指揮 | |||||||||
ソウル・オブ・マン 製作総指揮 | |||||||||
チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート 出演 | |||||||||
クリント・イーストウッド 天性の直感 出演 | |||||||||
ポール・ニューマン 永遠のクールハンド 出演 | |||||||||
アメリカン・ニューシネマ 反逆と再生のハリウッド史 出演 | |||||||||
2002 | ラリーのミッドライフ★クライシス(3rd) 出演 | ||||||||
2001 | ギャング・オブ・ニューヨーク 監督・製作 | ||||||||
2000 | ユー・キャン・カウント・オン・ミー 製作総指揮 | ||||||||
クリント・イーストウッド アウト・オブ・シャドー 出演 | |||||||||
アルマーニ 出演 | |||||||||
1999 | マーティン・スコセッシ 私のイタリア映画旅行 監督・脚本・出演 | ||||||||
救命士 監督 | |||||||||
ハリウッド・ミューズ 出演 | |||||||||
1998 | ハイロー・カントリー 製作 | ||||||||
ウィズ・フレンズ 出演 | |||||||||
1997 | クンドゥン 監督 | ||||||||
ステューピッド・イン・ニューヨーク 製作総指揮 | |||||||||
フランク・キャプラのアメリカン・ドリーム 出演 | |||||||||
1996 | グレイス・オブ・マイ・ハート 製作総指揮 | ||||||||
1995 | カジノ 監督 | ||||||||
クロッカーズ 製作 | |||||||||
サーチ&デストロイ 製作総指揮・出演 | |||||||||
1994 | クイズ・ショウ 出演 | ||||||||
1993 | エイジ・オブ・イノセンス 監督・脚本 | ||||||||
1992 | |||||||||
1991 | ケープ・フィアー 監督 | ||||||||
キング・オブ・アド 監督 | |||||||||
真実の瞬間 出演 | |||||||||
1990 | グッドフェローズ 監督・脚本 | ||||||||
夢 出演 | |||||||||
1989 | ニューヨーク・ストーリー 監督 | ||||||||
1988 | 最後の誘惑 監督 | ||||||||
1987 | |||||||||
1986 | ラウンド・ミッドナイト 出演 | ||||||||
1985 | ハスラー2 監督 | ||||||||
アフター・アワーズ 監督 | |||||||||
|
|||||||||
1984 | |||||||||
1983 | キング・オブ・コメディ 監督 | ||||||||
1982 | |||||||||
1981 | |||||||||
1980 | レイジング・ブル 監督 | ||||||||
1979 | |||||||||
1978 | ラスト・ワルツ 監督 | ||||||||
1977 | ニューヨーク・ニューヨーク 監督 | ||||||||
1976 | タクシードライバー 監督・出演 | ||||||||
1975 | |||||||||
1974 | アリスの恋 監督 | ||||||||
1973 | ミーン・ストリート 監督・脚本 | ||||||||
1972 | 明日に処刑を… 監督 | ||||||||
1971 | |||||||||
1970 | |||||||||
1969 | ウッドストック 愛と平和と音楽の三日間 第二班監督 | ||||||||
1968 | ドアをノックするのは誰? 監督・脚本 | ||||||||
1967 | |||||||||
1966 | |||||||||
1965 | |||||||||
1964 | |||||||||
1963 | |||||||||
1962 | |||||||||
1961 | |||||||||
1960 | |||||||||
1959 | |||||||||
1958 | |||||||||
1957 | |||||||||
1956 | |||||||||
1955 | |||||||||
1954 | |||||||||
1953 | |||||||||
1952 | |||||||||
1951 | |||||||||
1950 | |||||||||
1949 | |||||||||
1948 | |||||||||
1947 | |||||||||
1946 | |||||||||
1945 | |||||||||
1944 | |||||||||
1943 | |||||||||
1942 | 11'17 ニューヨーク市で誕生 |
キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第一次対戦終了後、叔父のウィリアム・ヘイル(ハンクス)を頼ってオクラホマへと移り住んだアーネスト・バークハート(ディカプリオ)。その土地にはアメリカ政府によって強制的に移住させられた先住民族のオセージ族が暮らしていたが、その土地に石油が出たために先住民族が皆大金持ちという不思議な地域だった。ウィリアムはそこでオーセージ族と町の住民をつなぐ役割をしており、その助手のようなことをしているウチにアーネストにはオーセージ族の娘モリー(プレモンス)と知り合い、やがて結婚する。でありながら多くが資産家となっていた。やがてアーネストは、そんなオセージ族の女性モリモリーの一族の一員となったアーネストに、ウィリアムは色々と頼み事をしてくるようになる。一方でオーセージ族が次々と殺されていく状況が進んでいく。 相変わらずおいてますます盛んというか、どんとん新しいジャンルに挑戦しているスコセッシの最新作は、アメリカの恥部を描く作品となった。主役に馴染みのディカプリオと、更に助演にトム・ハンクスを加えてがっちりと固めた意欲作である。 本作の舞台はオクラホマで実際に起こった事件をモティーフに、その事件を告発したFBIのトム・ホワイトの手記を元にしたものとなっている。 この事件というのは、アメリカ政府によって、どんどん悪い土地に追いやられていたネイティブ・アメリカンのオーセージ族が最後に押し込められたオクラホマで、たまたまその居住地から石油が出たことから始まる話である。 当然石油利権を巡ってアメリカ人はこの土地を狙うが、政府お墨付きの居住地であり、有能な弁護士が弁護に付いたことで土地の所有権および石油利権はオーセージ族のものとなる。そのお陰で、オーセージ族は最も裕福な先住民族となった。しかし金のあるところには当然犯罪もある。1920年代、ここに住むオーセージ族は次々と何者かに殺害され、そして彼らと結婚していたアメリカ人がその利権を自らのものにしたという。危機を覚えたオーセージ族はFBIの介入を要請し、1925年に、殺人者およびそれを指揮した人間が逮捕された。しかし本来もっと多いはずの犯人はたった三人しか逮捕されなかったという。同じオクラホマ州で1921年に起こったタルサ人種虐殺(こちらはなかなか映画化されていなかったが、テレビドラマ「ウォッチメン」で描かれていた)と並び、アメリカの恥部とされている。 実はこの話は割と有名な話で、何本か映画にもなっていたりする。私が観たのは『シマロン』で、石油利権をオーセージ族のものとするよう努力した弁護士を描いたものだが、他にもいくつかあると聞いた。 実際に起こった事件を映画化するに当たり、主人公をどうするかは重要になる。多くの監督ならこの手記を書いたFBIの職員トム・ホワイトをベースにした主人公を設定し、裁判を中心にする形を取る。言うなればオクラホマバージョンの『ミシシッピー・バーニング』(1988)になるかと思う。 しかしスコセッシは面白い人物を主人公にしている。ディカプリオ演じる主人公アーネストは、基本的には善人だしちゃんと判断も出来るのだが、素直すぎて誰かから命令されたらそれを忠実に行う主体性の無い人物として描かれる。主体性がないのでこう言う人物を主人公にすることはあまり無いのだが、敢えてそれを使っている。 アーネストは叔父のウィリアムの言うがままに行動する。ウィリアムの言うことにしたがっていれば良いと、判断を丸投げした結果、どんな犯罪もやることになる。ウィリアムとしては手駒として非常に有効なカードだった。 普通に考えてこう言うキャラは犯罪者の三下にしかならない。正義の元蹴散らされる、強がるだけの弱者なのだが、自覚無く犯罪を犯す人物を主人公にしたことで、これまでの映画にはない不思議な感覚を与えてくれた(督の前作『アイリッシュマン』もそれに近いものがあるので、今の監督のテーマになってるのかも知れない)。 彼を主人公にした事によって、この事件の最初から最後までを通して描く事が出来た。叔父の言われるまま結婚し、犯罪を行い、金持ちになることを喜ぶ。そして犯罪が発覚して罰せられる。ここにおいて謎やどんでん返しは一切無く、そのまま素直に裁判まで行き、拒否もせずに判決を受けいれてる。 結局これだけの長さを使い、本当に素直な作品が出来上がってしまった。 それは新しい作りではあったのだが、盛り上がりに欠けるという問題点もある。本来盛り上がるべき裁判が取って付けたようなものになってしまったのは、勿体ない作り。オーソドックスだが、事件そのものを半分程度の長さに、そして残り半分を裁判にする方がバランスは良くなったとは思う(それが『アイリッシュマン』だった訳だが)。 それにしてもディカプリオは、最近こう言う凡人役を嬉々として演じてるな。貴重な役者に成長してくれた。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
アイリッシュマン The Irishman |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2019放送映画批評家協会アンサンブル演技賞、作品賞、主演男優賞(デ・ニーロ)、助演男優賞(パチーノ、ペシ)、監督賞、撮影賞、編集賞、美術賞、衣装デザイン賞、視覚効果賞、ヘア&メイクアップ賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1950年代、第二次世界大戦に従軍して復員したシーラン(デ・ニーロ)はフィラデルフィアにて食肉配達のトラック運転手として生計を立てていた。そんなある日、シーランは地元マフィアに誘われて積荷の横流しを行ったところすぐに発覚し、会社から訴えられてしまう。この時決して共犯者の名前を明かさなかったことからマフィアの大物ラッセルの目にとまり、マフィアの下で働くことになった。やがてマフィアのボスであるジミー・ホッファに度胸を買われてヒットマンとなる… 過去『グッドフェローズ』をはじめとする優れたマフィア映画を作ってきたスコセッシ監督が、新しいプラットフォームにNetflixを用いて作られた、新しいマフィア映画。 この作品の凄さはなんと言ってもキャラの豪華さ。スコセッシと組んで多くの傑作に主演したデ・ニーロ、これがデ・ニーロとは三回目の共演となるこれまた名優のアル・パチーノ。更にジョー・ペシ、ハーヴェイ・カイテルと、まるで70年代に戻ったかのような顔ぶれ。みんな爺さんになってるけど、それこそ『ミーン・ストリート』であったり『グッドフェローズ』であったり『スカーフェイス』であったりと、思いっきりノスタルジーに浸り込める。一応CG処理した若い頃の姿もあるが、動きや喋りがどうにものんびりしてるのは愛嬌。 また、Netflixというプラットフォームに最適な形で作られているのも特徴だろう。本作は年老いたシーランの回想形式だが、その回想も、とても若い頃の話とマフィアのヒットマンとなってそれなりに偉くなった時、そして老人となって刑務所の中で死を待つ三つの時代をザッピングしていて、それぞれにたっぷり時間を使っているためにとても長い。一気に観るよりも休憩を挟みながら観る方が良いし、場合によっては考えをまとめるために場面を戻しても良い。そうすることを前提に考えているようでもある。私は『Mank マンク』(2020)の方を先に観て、そう言う作り方をしてるんだと思ったけど、既にスコセッシによってその形式が作られていた訳だな。 そして本作は実在の人物をそのままの名前で登場させているのも特徴となる。実際に起こった事件を元にした原作を使っているお陰だが、それだけにリアリティ溢れる話になっていた。 ただ、そのリアリティがちょっとだけ足を引っ張った感はある。簡単に言えば地味。本作における大きな事件は一つだけで、それを中心に描いている訳だが、やってることは大虐殺とかじゃなく裏切りだけだけなので、「こんなもんか」で終わってしまう。演技派揃いで見所は多いものの、ストーリーをもうちょっと盛り上がって欲しかったというのが本音。「これで終わり?」と思ってしまったので、だいぶ話が薄めになった印象がある。これまで監督作品を観てきた身としては、だいぶおとなしめに思える。キャラの魅力だけで出すのでは無く、もうちょっとだけで良いから精神に来るような描写が欲しかったかな?ちょっとだけ点数は上乗せさせてもらう。 原作読んだら印象が変わるかもしれないので、今度読んでみよう。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
沈黙 -サイレンス- 2016 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016米アカデミー撮影賞 2016LA批評家協会助演男優賞(イッセー尾形) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウルフ・オブ・ウォールストリート 2013 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2013米アカデミー作品賞、主演男優賞(ディカプリオ)、助演男優賞(ヒル)、監督賞、脚色賞 2013英アカデミー主演男優賞(ディカプリオ)、監督賞、脚色賞、編集賞 2013シカゴ映画批評家協会脚色賞、編集賞 2013ゴールデン・グローブ男優賞(ディカプリオ)、作品賞 2013放送映画批評家協会コメディ映画男優賞(ディカプリオ)、作品賞、アンサンブル演技賞、監督賞、脚色賞、編集賞 2013AFIベスト |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョーダン・ベルフォート(ディカプリオ)は26歳でペニー証券会社を設立し、違法すれすれの強引な方法で富裕層を相手に大成功を収める。またたく間に会社を大企業へと成長させ、自らも億万長者となる。ドラッグとセックスとパーティの豪遊はマスコミの衆目を集め、“ウォール街の狼”の異名を取るようになる。捜査当局に目を付けられてしまうジョーダンだが… 実在したウォール街の狼と異名を取るジョーダン・ベルフォードの自伝を元に、破天荒な男の栄光と破滅を描く物語。スコセッシ監督はこういった人物を描くのがことのほか好きなようで、デ・ニーロ主演の『カジノ』や、過去同じくディカプリオを主演に据えた『アビエイター』と言った作品の延長線上にある作品と言って良かろう。 ただ、先行する二作品とは大きく違っている部分がある。 それは、本作は、徹底してゲスな物語に仕上げていると言うこと。それは例えばオープニングにも現れている。下品な表現で恐縮だが、最初に裸の女の尻のようなものが現れ、一瞬、「これは何かの暗喩なのか?」と思わせておいて、カメラが引くと、そこにはやっぱり女の尻が現れる。これは、スコセッシ監督が、「これからお見せするのは、こんなものなのですよ」と宣言してるようなものだ。 そして実際本作は、まさしくゲスな物語として仕上がってる。 主人公は、全く悪びれることなく金儲けを至上の快楽として突き進む男であり、その徹底ぶりには賞賛せざるを得ない。 先行する二作品との違いを考えてみたい。『カジノ』との場合、オープニングで主人公が過去を振り返るシーンから始まったり、基本モノローグで物語が展開していくなど、本作とほかなり似てる。だが、あの作品はラストのどんでん返しも含めて物語の流れに重点が置かれていた。そして『アビエイター』は主人公のハワードについては、栄光と挫折と言うよりも、あくまでチャレンジし続けた男の生き様って感じだった。それは巨万の富を得た後、それを用いてなにをしたか。そこに話の主題があったからだが、本作では、終始金儲けだけが目的となっている。 そしてその先行二作品と較べると本作は底の浅さが際立ってしまって、物語の奥行きという部分がは感じられない。『アビエイター』が文学であれば、本作はパルプ、文芸の領域だろう。 だが、それこそが本作の主題だった。底の浅さを言う以前に、何よりもそう言ったゲスな人間を描きたい思いで作られ、本当に描きたいものを楽しんで描いていったと考えるべきだ。スコセッシにとっては、本作はひたすら作りたいものを追求して作った作品だったのだろう。『タクシードライバー』に対する『キング・オブ・コメディ』に近い。 そういえば、主題そのものは過去、やはり実在の人物を描いたデップ主演の『ブロウ』(2001)とほぼ同じなのだが、本作の方がはるかに見応えがある。これはディカプリオという俳優を得たことによるもの。『ブロウ』のデップは、どこかこの世離れしたところがあって、何を考えているか分からないような部分があったが、ディカプリオ演じる??は、全くそれがない。終始牡としての欲望のみでそこから一歩も出てないので、その分嫌らしく描かれるが、それを渾身の演技で演じてみせた。ここまでやってくれれば、もう立派としか言いようがない。これに関しては、ディカプリオの演技力は、既に他の追従を許さないレベルにまで上がってると思って良い。それを観られただけでも本作を観る価値あるってもんだ(他の誰がなんと言おうとも、私にとっての2013年の主演男優賞はディカプリオ以外にいない)。タイトル通り、これが狼の生き方なのだから。 その極端さが受け入れられるかどうかだが、私には観てる間は少しだけボタン掛け違いのような違和感が残る作品でもあった。でも改めてこう書いてみると、いつの間にか受け入れている自分に気づいてしまった。 |
ヒューゴの不思議な発明 2011 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2011米アカデミー撮影賞、視覚効果賞、音響賞、作品賞、監督賞、脚色賞、作曲賞、衣装デザイン賞、編集賞 2011英アカデミープロダクション・デザイン賞、音響賞、監督賞、作曲賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞、編集賞、特殊視覚効果賞 2011LA批評家協会美術賞 2011ゴールデン・グローブ監督賞、作品賞、音楽賞 2011放送映画批評家協会美術賞、作品賞、若手俳優賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、衣装デザイン賞、視覚効果賞、音響賞、音楽賞 2011AFIベスト 2011サテライト視覚効果賞 2011タイムベスト第2位 2011MTVベスト第5位 2011ロジャー・エバートベスト第4位 2011ナショナル・ボード・オブ・レビュー作品賞、監督賞 2011アメリカ監督組合劇映画部門 2011タランティーノベスト脚本賞 2011ピーター・トラヴァース第6位 2011ロジャー・エバート第4位 2011タランティーノベスト脚色賞 2011アメリカ製作者組合作品賞 2011アメリカ監督組合作品賞 2011アメリカ撮影監督組合賞 2011アメリカ脚本家協会脚色賞 2012キネマ旬報外国映画監督賞、外国映画第3位 2012毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞 2012サターン美術賞、ファンタジー映画賞、主演男優賞(キンズグズレー)、若手俳優賞(バターフィールド)、監督賞、脚本賞、編集賞 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
パリ駅で飲んだくれの伯父の代わりに駅の時計のネジを巻いて過ごしていた少年ヒューゴ(バターフィールド)は、修理の合間にたった一つの父の遺産である自動人形の修理を続けていた。だが、キオスクのオモチャ売り場からその部品を取ろうとした時、店主のパパ・ジョルジュ(キングスレー)に捕まり、大切な自動人形の設計図を奪われてしまう。そんな時、ジョルジュの養女(モレッツ)と出会ったヒューゴは、彼女からジョルジュには秘密がある事を聞き出す… 2000年代になって、かつての名監督たちが今も尚挑戦的な作品を作り続けていることは、一映画ファンとしては嬉しいことではある。 それはたとえば、着実にキャリアを積みながら新しい表現を求めて作品を作っているスピルバーグであれ、一作品毎に全く違うジャンルに挑戦し続けているイーストウッドであれ。他にもポランスキーやアレンのように、決して一つところに留まらずに映画作りを楽しんでいるように見える監督は何人もいるが、その中でもスコセッシの挑戦には一目置かされる。ジャンルを特定せず、質の高い作品を次々と作り続けているが、今度の挑戦はなんと児童文学という。しかもトレーラーを観る限り、その内容はメリエスを主題とした映画ファンにとっては感涙ものっぽい。 是非観てみたい。 まさしくわくわくさせてくれるような作品が観られるのでは?という思いで映画館へと向かった。 …でも、何か前の『シャッター アイランド』を観たときと同じような気分にさせられてしまった。あの時もすごく期待して観に行ったものの、望みのものが与えられずにもやっとした気分にさせられたものだ。 この作品にしても決して質は低くない。むしろかなり高水準にまとまった作品ではある。少なくとも演出に関しては円熟の域を越え、まだまだ新しいものを作ろうという監督の意地というか、執念を感じさせてくれるものであるし、確かに映画好きというのが画面の端々から感じ取れる。児童文学の映画化としては水準以上の出来とは言えよう。 でも、なんだかちょっと物足りない。スコセッシならもう少し違った作り方だってできたんじゃないのか?これだったらどんな監督が作っても同じレベルのものが作れる。本当にスコセッシ向きの作品だったのか? と、いろいろ考えた。実際ここで唐突にクリストファー・リーとかカメオ出演してるジョニー・デップとかいるのを観てみると、かつて『エド・ウッド』(1994)作ってくれた経験がある分、スコセッシではなくティム・バートンに作らせた方が良かった素材だったような?むしろその方が毒気を入れてくれて楽しいものに出来たような気がする。 この作品で最も残念なのは伏線の消化が全然出来ていなかったことだろうか。伏線の使い方の下手さは『シャッター アイランド』も同様なのだが、あの作品の場合、ラストシーンに向かう単一アイディアとは言え、伏線は伏線として成り立っていた。一方本作の場合、一見伏線に見えて全くそれが活かされてなかったのが痛い。例えばヒューゴの父親は物語に関わりそうでいて全く関わってなかったし、メリエスが作ったと言う自動人形の役割は単純に絵を描くだけ。あれだけ世を拗ねていたパパ・ジョルジュが自分の映画見せられただけで簡単に変わってしまう。あれだけ嫌味だった鉄道警察官が本当に単に嫌な奴で終わってしまった。そもそも主人公のヒューゴは単なる手先の器用なだけの少年であり、なんの発明もしてなかった。などなど。伏線と思われたものは多々あった割に全然それが活かされておらず。パリを舞台にしているのに登場人物がほとんど(主要人物は一人も)フランス人俳優がいなかった理由もよく分からない。 ところで本作の特徴と言えるメリエスだが、この程度の描き方であるなら押井守の『トーキング・ヘッド』(1992)の方がまだ詳しく説明されている(時間にして10秒位だが)。スコセッシは本当にメリエスのことが好きだったんだろうか?それよりは『アビエイター』の時みたいに紆余曲折ある映画人の一生を描いた作品にすべきだったんじゃないだろうかな?何もこども向きにする必要が無かっただろうな。残念な作品である。スコセッシにとって思い入れのある人物であったとするならば、それをもっとストレートに出して欲しかったものだ。 |
シャッター アイランド 2009 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010映画.comワースト第7位 2010ナショナル・ボード・オブ・レビュートップ10 2010違法ダウンロードされた映画第4位 2011サターンホラー・サスペンス賞、主演男優賞(ディカプリオ)、助演男優賞(ラファロ)、監督賞、プロダクションデザイン賞 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
精神病を患った凶悪犯人だけを収容するという孤島"シャッター アイランド"。厳重な監視下におかれているはずのその収容所から一人の女性が忽然と姿を消した。事件を調べるため、連邦保安官のテディ(ディカプリオ)が相棒チャック(ラファロ)と共に島を訪れる。さっそく2人は、患者たちへの聞き込みを開始するが、テディは事件と無関係な"アンドルー・レディス"という人物についての質問を繰り返す。実はその人物は、アパートに火をつけ最愛の妻ドロレスを殺した放火魔で、テディはレディスがこの病院に収容されていると知り、その行方を探っていたのだ… 『ミスティック・リバー』(2003)の原作者デニス・ルヘイン原作小説の映画化。主人公が過去と現在を行き来しながら箱庭の舞台で自分探しをしていくと言った非常に観念的な物語が展開する。どっちかというと悪夢映画の体裁を取った作品と言えよう。 ところで悪夢映画というのは私は大変思い入れが深い。大体私に映画の楽しさを教えてくれたのが悪夢を主題とする作品だったし、以降悪夢的な描写が出ている作品を探すのが映画を観るモチベーションの一つとなっている。 その意味ではヴェテランのオスカー監督による悪夢作品と言うことで、相当に期待度は高かったのだが… 一応言っておけば、本作は悪い作品ではない。むしろ「悪夢映画」と言う文脈のみで観るなら、かなり上の部類にはいるだろう。概ね低予算で作られる傾向が強い悪夢映画にこれだけの金と技術をつぎ込んだだけでもトピックとはなってる。 特に画面の美しさは見事なもので、美術的なセンスは極めて高い。 冒頭の船上シーン、島での車での移動など、画面の一つ一つに配慮され、しかも流れるようなカメラワークで展開。オープニング部分の画面の美しさは本当に見事。中盤以降のアクション部分も光と陰の対比も見事。 ただ、問題は、その美しさにあった。あまりに芸術的過ぎる作りは、この作品には似合わない。 これまでのスコセッシ監督は、全くこう言った類の作品を作ってこなかった。暴力や、生々しい精神描写などに定評があり、観念的なものは避けていたはず。大体あれだけ観念的だった『インファナル・アフェア』(2002)のリメイク作『ディパーテッド』をあんなに即物的な作品に仕上げてしまうほどだったのだから。 そんな監督が、これまでのフィルモグラフィには無い類の作品を作ろうというチャレンジ精神は買う。だけど、逆に「スコセッシも歳食ったな」と言う変な感慨を深くしてしまった。 ちょっと前に読んだ某監督の本で「監督は歳を食うと内容よりも画面に凝るようになる」と自嘲的に語っていたフレーズがあったが、確かにそれは多くの監督に当てはまる。若い頃は批判精神にあふれ、挑戦的な作品を作り続けながら、晩年は画は美しいながら内容のない作品がいかに多くなったことやら(黒澤明、大島渚、鈴木清順、新藤兼人など、日本でそれは顕著だが)。 その善し悪しはともかくとして、本作にはその臭いがどうしてもしてくる。あのスコセッシが画作りにこだわる時がこようとは… この人は美しいだけの作品を作るような人じゃなかったんじゃないだろうか。人間同士の感情のぶつかり合いと、荒々しい動きの描写こそがこの人の特長じゃなかったかと思えてしまう。その意味ではかなりがっかりした感じではある。 特にこういった悪夢映画というのは、ヴェテラン監督が金使って豪華に仕上げるよりも、金の使えない若手監督が情熱だけで仕上げた方が楽しくなるのも確か。監督の思いと画作りがずれてる気がする。 物語についていうならば、過去のフラッシュバックと現在の迷路じみた事件の閉塞間が延々と続き、この島を調べにきたはずの主人公こそが事件の中心となっていることに気づいていくと言う構造を取っている。パターンとしては大変面白いものではあるものの、すでに何作も作られている作品をなぞってるだけと言う感じだし、個性も低くなってしまった。原作は読んでいないけど、これは多分原作ファンも怒るんじゃないか?スコセッシならではの料理が観たかったのに。 映画の素材としては大好きなのだが、これをスコセッシが作ったと言うのが最大の問題だった。素材選びに失敗したと言うしかなかろう。複雑な思いだ。 |
ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト 2008 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
ディパーテッド 2006 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006米アカデミー作品賞、監督賞(スコセッシ)、脚色賞、編集賞、助演男優賞(ウォルバーグ) 2006英アカデミー作品賞、主演男優賞(ディカプリオ)、助演男優賞(ニコルソン)、監督賞(スコセッシ)、脚色賞、編集賞 2006全米批評家協会助演男優賞(ウォルバーグ) 2006NY批評家協会監督賞(スコセッシ) 2006ワシントンDC映画批評家協会監督賞 2006ボストン映画批評家協会作品賞、監督賞、脚本賞 2006ゴールデン・グローブ監督賞(スコセッシ)、作品賞、男優賞(ディカプリオ)、助演男優賞(ニコルソン、ウォルバーグ)、脚本賞 2006放送映画批評家協会作品賞、監督賞(スコセッシ)、主演男優賞(ディカプリオ)、助演男優賞(ニコルソン)、アンサンブル演技賞、脚本賞、音楽賞 2006サターンアクション/アドベンチャー/サスペンス映画賞 2006ナショナル・ボード・オブ・レビュー監督賞、アンサンブルキャスト賞、トップ10 2006全米BoxOffice第17位 2006アメリカ製作者組合実写部門 2006アメリカ俳優組合助演男優賞(ディカプリオ)、アンサンブル演技賞 2006アメリカ脚本家組合オリジナル脚色賞 2006オンライン映画批評家協会監督賞 2007MTVムービー・アワード悪役賞(ニコルソン) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マサチューセッツ州ボストン警察に入った二人の男がいた。一人は自分の一族が犯罪組織との繋がりを持ち続けたため、それを自分で精算すべく警察官を志したビリー=コスティガン(ディカプリオ)。一方、マフィアのボスであるコステロ(ニコルソン)によって育てられ、スパイとして警察に送り込まれたコリン=サリバン(デイモン)。共に優秀な成績で警察学校を卒業した二人だが、コリンはマフィア対策の特別捜査班に抜擢され、ビリーの方は、マフィアを内部から突き崩すべくコステロのもとへ潜入するという極秘任務を命じられる… 香港映画として大ヒットした『インファナル・アフェア』(2002)をハリウッドの豪華キャストとスコセッシ監督を招いて作り上げたリメイク作。 リメイク作というのは、そこそこのヒットは望めるが、色々難しいところもある。その出来如何に関わらず、先ずオリジナルが既に観られている。という前提条件の中で作られなければならないため、必ず比較の対象となるし、少なくとも「オリジナルを超えた」と呼ばれるほどになるにはよほどの描写能力が必要となる。 それでリメイクの成功というのを段階を追って考えてみよう。 レベル1:オリジナルストーリーをなぞっただけの上に演出が下手で、オリジナルの良ささえも色あせて見える。これが大失敗。 レベル2:出来はそこそこ、観終わった後で「やっぱりオリジナルの方が良いわ」と言われる。ほとんどの作品はここ止まり。 レベル3:出来はさほどではないが、これを通してオリジナルの良さや、分からなかった部分が見えてくる。まあまあ成功だろう。 レベル4:もの自体の出来が良く、オリジナルではもの足りなかった部分を補ってくれた。オリジナル好きの人も大満足。これが成功。 レベル5:オリジナルなんて目じゃない。こっちの方が遙かに面白い!。これは成功と言うよりはもはや別物として観るべきなんだが。 と、勝手にレベル分けしてみたが、本作の場合どこにはいるだろう?オリジナルの方も大好きな人間にとってはやっぱりレベル2辺りかも知れない。ただ、オリジナルの『インファナル・アフェア』はあまりにも観念的な部分が強くて、一見では掴めなかったと言うことも考えると、それがすっきりした。と言う点ではレベル3から4にまでは達した作品と言えるのではないだろうか? 実際本作を観て、オリジナルの良さを改めて再確認出来たのだが、それだけではない。なるほどこれがハリウッドで作ると言うことか。とそれも又再確認できた。 ハリウッドで映画を作る、しかも超一流俳優を用いるとなると、ストーリーも又、その俳優を目立たせるために作られるようになっていく。まず人間あり。の姿勢で作られていくことになる。本作にあってはディカプリオ、デイモン、ニコルソンというキャラクタをいかにして立たせるか。と言う所に焦点が当てられている訳だ。流石スコセッシだけあり、キャラの立たせ方は申し分なし。それぞれに際だった役を存分にこなしていた。 一方オリジナルではどうだっただろう?ディカプリオ役のオリジナルであるヤン(トニー・レオン)については暴力の中に生きていくため、似たような作りになっていたが、デイモン役のラウ(アンディ=ラウ)については、もっと理解しづらい役だった。何を考えているのか今ひとつ分からないポーカーフェイスを貫き通しており、この存在が物語を通してすっきりしない印象を与えていたのだが、最後の目線で「あ、なるほど!」と思わせてくれた。最後の最後になってようやくラウが分かる。と言う作りになっており、その分物語そのものには観てる側もストレスが溜まるし、それが「観念的」と言われる所以となっている。言ってしまえば、ラウは目立たないようにすることこそがストーリー上重要な意味を持っていた訳だ。 本作の場合、キャラを目立たせる都合上、それは出来ず。結果的に非常にすっきりした、ストレートな作品となっている。オリジナルよりも長くなった分は個々のキャラの描写とアクションに当てられ、こちらも良く出来てる。 多分どっちも好みがあるだろう。だから本作はオリジナルを別な切り口から観た作品として、単体としても評価すべき。まあ、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の現代版という陰口もあるだろうけど。 私の場合、この作品によってオリジナルの良さがようやく理解出来た。と言う意味ではありがたい作品だった…要するに私の場合、のオリジナル版方が好みだと言うことで。 |
アビエイター 2004 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2004米アカデミー助演女優賞(ブランシェット)、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、編集賞、作品賞、主演男優賞(ディカプリオ)、助演男優賞(アルダ)、監督賞(スコセッシ)、脚本賞、音響賞 2004英アカデミー作品賞、助演女優賞(ブランシェット)、プロダクションデザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞、主演男優賞(ディカプリオ)、助演男優賞(アルダ)、監督賞(スコセッシ)、オリジナル脚本賞、作曲賞、撮影賞、衣装デザイン賞、編集賞、音響賞、特殊視覚効果賞 2004LA批評家協会美術賞 2004ボストン映画批評家協会助演女優賞(ブランシェット) 2004ワシントンDC映画批評家協会助演女優賞(ブランシェット) 2004シカゴ映画批評家協会音楽賞 2004ロンドン映画批評家協会監督賞 2004ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(ディカプリオ)、音楽賞、助演女優賞(ブランシェット)、監督賞(スコセッシ)、脚本賞 2004放送映画批評家協会監督賞(スコセッシ)、音楽賞、作品賞、主演男優賞(ディカプリオ)、助演女優賞(ブランシェット)、脚本賞 2004ナショナル・ボード・オブ・レビュー第2位 2004AFIベスト 2004ピーター・トラヴァースベスト 2004ロジャー・エバートベスト第6位 2004米製作者組合賞 2004米監督組合賞 2004米俳優組合助演女優賞(ブランシェット)、主演男優賞(ディカプリオ)、アンサンブル演技賞 2004米脚本家組合オリジナル脚本賞 2005MTVムービー・アワード男優賞(ディカプリオ)、アクション・シーン賞(飛行機のビバリーヒルズヘの墜落) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1924年に18歳で亡き父の石油掘削機の事業を引き継ぎ大富豪となったハワード=ヒューズ(ディカプリオ)は1927年に自分の夢である映画製作に取りかかる。莫大な財産を注ぎ込み、3年という期間を用いて作られた『地獄の天使』は大ヒットを記録。その後も次々とヒット作をとばし、キャサリン=ヘップバーン(ブランシェット)を初めとする数多くのハリウッド女優と浮き名を流すようになる。一方、ハワードは航空会社TWAを買収し、ついに世界へと向けて羽ばたくのだが… 実在の映画監督であり、実業家であるハワード・ヒューズの半生をスコセッシ監督がディカプリオを主役に据えて撮った渾身の大作。 で、私にとってこの映画はどうだったか。と言われてしまうと、どうだか?やっぱりちょっと合わなかったみたい。 確かに前半は良かった。若きヒューズが野望の実現に向けて突き進んでいく様子が実によく演出できていたし、その過程でのヘップバーンとの愛情の変化など、見所も多い。3時間という時間の内、前半1時間半は全然時間の経過が気にならなかった。 しかし後半になってからパワーダウン。爽快感がまるでない苛々させられる展開が続く。 結局これが私がスコセッシ監督とは合わないところである部分だ(今、統計を取ってみたところ、私が観た監督作品は9つ。その平均点は5点満点の内僅かに3.1点)。監督作品の主人公は一種の超人であり、自分以外の存在を必要としてない。と言うか、結局どんな展開を持ち出しても主人公一人の中に帰ってきてしまう。結果、主人公の内面世界を延々と見せられることになるのだが、この見せ方が私は好きになれない。 ここでのディカプリオ演じるヒューズもそう。後半になって追いつめられれば追いつめられるほど、自分一人になってしまう。こういった堕落ものの場合、それまで築いてきた人間関係をボロボロに崩すとか、あるいはライヴァルキャラクタとの嫌らしさに崩れ落ちるような描写が必要なはずなのに、そこは徹底的に抑えられ、ほとんどが自分一人のナルシスティックな世界の中に入り込んでしまってる。それがどうやら苛つかせる原因だったのだろう。定番であっても、堕落を演出するなら、人間関係の崩壊を描いて欲しかった気分。現実でもヒューズの個性が強すぎて周りの人間は引きずられるばかりで、彼と共にいてくれる人はいなかったんだろうけど、それでもそう言う人間がいるといないでは、全然没入できる度合いが違う…そう言えば『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2001)を結構楽しめたのはそこもあってのことか。 結局後半部分は私にとっては、全然感情移入できなかったため、退屈極まりないものとなってしまった。ヒューズの生涯も実はよく分かっていないというのも問題だったか?アメリカ人にとってはヒューズはあまりにも有名すぎるため、ほとんどその外面的な描写が無かったし。 尤も本作は褒めるべき部分は大変多い。キャラであれば、ディカプリオが青年から中年に至るまでをきちんと演じられたのが良かった。ディカプリオはベイビーフェイスだけに、役者生活も長くなかろうと思っていたのだが、逆にそれが子供っぽい人物を演じるには大きな強みになる。これだったら充分これからもやっていけそうな感触を得た。特に額の縦じわの立て方で内面を表現できるようになったことで、役者として成長してることを感じさせてくれる。人目も気にせず牛乳を飲み続けたり、徹底的に手を洗わないと気が済まないといった奇矯な行動も見事にはまってる。それに最近の女優の中では最も気に入ってる一人、ブランシェットは言うまでもない。この人の演技の幅には、新しい映画を観るたびに感心させられるばかり(この人の出演作の平均点は4点近い)。ここでもあのヘップバーンを演じるというので、さすがに無理じゃないのか?とか思っていたのに、すっかりはまりこんだ。後半に登場したアルダもなかなかの好演ぶりを見せてくれたけど、もうちょっとねちっこく登場してくれてれば。そこが勿体ない。 CG多用とは言え、『地獄の天使』(1930)の撮影風景も迫力充分だし、音楽も良し。 結局私が楽しめた全ては前半部分にかかっていたと言うことだ。 |
ギャング・オブ・ニューヨーク 2002 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2002米アカデミー作品賞、主演男優賞(デイ=ルイス)、監督賞(スコセッシ)、脚本賞、撮影賞、歌曲賞、美術賞、衣装デザイン賞、音響賞、編集賞 2002英アカデミー主演男優賞(デイ=ルイス)、作品賞、監督賞(スコセッシ)、オリジナル脚本賞、作曲賞、撮影賞、プロダクションデザイン賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞、編集賞、音響賞、特殊視覚効果賞 2002日本アカデミー外国作品賞 2002NY批評家協会男優賞(デイ=ルイス)、 2002LA批評家協会男優賞(デイ=ルイス)、美術賞 2002ゴールデン・グローブ監督賞(スコセッシ)、歌曲賞(U2)、作品賞、男優賞(デイ=ルイス)、助演女優賞(ディアス) 2002放送映画批評家協会主演男優賞(デイ=ルイス)、作品賞、監督賞(スコセッシ) 2002アメリカ映画俳優組合主演男優賞(デイ=ルイス) 2002タイムベスト第2位 2002ナショナル・ボード・オブ・レビュー第3位 2002オンライン批評家協会主演男優賞(デイ=ルイス) 2002オンライン・ムービー・アワード第14位 2002AFIベスト 2003MTVムービー・アワードキス・シーン賞、悪役賞(デイ・ルイス) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1846年、ニューヨークのファイブ・ポインツでは、アメリカ生まれの住人たちの組織“ネイティヴズ”とアイルランド移民たちの組織“デッド・ラビッツ”の決闘が行われ、デッド・ラビッツのボスであるヴァロン神父(ニーソン)がネイティヴズのボス、ビリー・ザ・ブッチャー(デイ・ルイス)に殺された。神父の息子アムステルダム(ディカプリオ)はその後投獄され、15年後に再びファイブ・ポインツに戻ってくるのだった。彼は復讐のため素性を隠しビリーの組織に潜り込むが、そこでビリーの孤独、そしていかに父を尊敬していたかを知るに至る。様々な感情に揺れるアムステルダムはやがてビリーの庇護化にあるジェニー(ディアス)という女性と出会い、互いに惹かれるようになる… 19世紀に起こったというアメリカの負の歴史“ニューヨーク暴動”を元にした作品(南北戦争時に初の徴兵制度が取られ、それに反発した移民達の反抗)で、それまでオリジナル・ビデオ作品を中心として製作してきたInitial Entertainment Group(IEG)の初の大作メジャー作品挑戦作で、スコセッシ監督入魂の一作。本当は公開は一年前だったはずだが、撮影の遅れに例の連続爆破テロに編集スタジオが巻き込まれ、製作はかなり難航したらしい。ちなみに撮影の大部分はイタリアのチネ・チッタで行われた。 私としては期待半分。失望に終わることを覚悟して観に行った。 冒頭のシーンは凄かった。まさに肉弾戦。肉対肉のぶつかり合いと飛び散る血、ひしゃげ、切り刻まれる肉。これには参った。最近戦争映画は銃を用いるのばかりで、こう言った肉体同士の戦いはあんまり観てなかったので、とても嬉しい(冒頭で感情移入しすぎてちょっと酔った)。ただ、その後の復讐劇はどうも弱い感じ。決して悪くはないんだけど、ビリーの魅力を更に全面に押し出すなり、ジェニーとの恋愛をもっと深く掘り進めるなどの方向性に持っていっていれば(もちろん私の好みは前者)良かったのに。どっちも中途半端に終わってしまった。更に暗殺失敗から展開が早すぎ。屈辱を与えるための頬の傷について、全く言及もされないなんて勿体ない。結局バランスの問題で、中途半端な描写しかしなかった割に中間部分の描写が長すぎたんだ。ラスト部分もストーリーとしては決して悪くないのに、なんか興が殺がれてしまった。あれじゃたまたま偶然に殺すことが出来た。と言う意味だけしかない。 一方、演出面を見る限り、これは実にすばらしい。凝りまくったカメラ・ワーク(一場面ごとに何かしらゾクッとするシーンが入ってる)、様々な感情を見せる人々の表情。特に狂乱状態の引きつった顔のアップは凄かった。冒頭の肉弾シーンで、きちんと書き分けるところは書き分け、目立つ人物をしっかり目立たせていたし、細かいところにも配慮が行き届いていた(ビリーは肉屋だけに、肉切り包丁で戦ってるし、ヴァロンに至っては十字架で相手をどついてる)。その辺はさすがスコセッシ監督と言うべき(撮影延期のお陰なのかも知れない)。 キャラに関しては、デイ・ルイスの突出した魅力。これだけで充分。ただ、結果としてどう見てもディカプリオが主役じゃ役不足だと言う事を露呈してしまった。ディアスとディカプリオを合わせてやっと少し対抗できるか?と言う位。そうそう。神父役のニーソンやグリーソンも良い味を出してたね。 歴史的認識はかなり細かいところまでやっていて、好感は持てるのだが、残念ながら、ストーリーから遊離した部分が多すぎ。 決して悪くはない作品。むしろ私にとってはものすごい好みなんだけど、バランスが悪いのが残念。 後、ビル・ザ・ブッチャーという名前を聞いた途端、『無敵超人ザンボット3』を思い出したのって…やっぱり世代の問題か。 |
救命士 1999 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
NYの消防士は伝統的にアイルランド系が担っている(『ギャング・オブ・ニューヨーク』で描いた)。そこにイタリア系の救命士を主人公にしているのは皮肉とも取られる。 救命士こそが社会の裏を見ることが出来る。そのために心が張り裂けそうになる人間の姿を描く |
クンドゥン 1997 | |||||||||||||||||||||||||||
1997米アカデミー撮影賞、音楽賞、美術賞、衣装デザイン賞 1997全米批評家協会撮影賞 1997NY批評家協会撮影賞 1997LA批評家協会音楽賞 1997ゴールデン・グローブ音楽賞 |
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
1937年に“活仏”ダライ・ラマの生まれ変わりとされた2歳の少年ハモは、チベット僧によって家族と別れさせられ、首都ラサで修行の日々に入った。やがてダライ・ラマ14世として即位するハモ(ギュルメ・テトン)は、チベットのリーダーとして立派に成長したが、同時に外の世界への興味にも満ちており、チベットの近代化にも積極的に取り組むようになってきた。折しも中国では毛沢東(ロバート・リン)指導のもと、共産党支配による中華人民共和国が勃興、チベットが中国の領土だと各国にアピールし始めていた。 実在のチベット指導者ダライ・ラマ14世について描いた作品で、1935年の生誕から、活仏として見いだされ、ラサで即位。そして中国政府との戦いの末にインドに亡命するまでの激動の半生を描いた作品で、主役を三人用いてそれぞれの時代の出来事を描いて見せた。 これまでアメリカでの歴史や精神というものを一貫して描き続けてきたスコセッシ監督が、突然海外の、しかも生存中の人物を描こうとしたのか、実はこの作品を観た当時理解が出来なかった。なんでよりによってスコセッシ監督が?しかも暴力描写に定評のあるその手法まで封印して?更に言うと、チベット問題が言い立てられたのは抗議運動が激化した1989年頃だったので、告発映画にしても些か時期が遅れてるような?いろんな意味で疑問符ばかりの作品だった。 正直今でもそれは理解してない自信はあるのだが、いくつかスコセッシがこれを作ろうとした動機は挙げられると思う。丁度そう言う報道を観て、そこから義憤に駆られたにせよ、企画を立ち上げて制作にこぎ着けるまでにはそれだけ時間がかかったと言う事と、このチベットで実際に起こったことを通し、これまでのアメリカ人が行ったことを総括して見せようとしていたのかもしれない。元々スコセッシはデビュー当時から一貫してアメリカを描こうとしていた。それは歴史であることもあれば、精神世界であったりもしたが、いずれにせよ、スコセッシ監督の中にあるアメリカという国を理解してもらおうという意識に溢れていた。本作もその延長線上にあったのかもしれない。 つまり、アメリカがこれまでしてきたこととは、ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってきて、平和に暮らしていた先住民族を蹂躙したという事実と、国連の常任理事でありながら、ここまで非道な行いを放置して来た現在のアメリカという国のことを。 やっかい事に巻き込まれたくないという国際的な消極性が、実は最も大きな悪に荷担している場合もあるのだ。かなり遠いけど、一種の告発映画と見ることも出来よう。まあ、これが勝手なわたしの見方であるという非難は甘んじて受けるけど。 映画の内容的には非常に淡々とした作品で、本当にスコセッシらしくないなあ。という感じではあるのだが、静かな中に演出力は流石というべきで、圧倒的な美しさを感じ取ることは出来る。本当に丁寧に作られていることが分かるので、チベットの歴史を知りたいという人には格好の教材になるのではないだろうか。 |
カジノ 1995 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1995米アカデミー主演女優賞(ストーン) 1995ゴールデン・グローブ女優賞(ストーン)、監督賞 1996MTVムービー・アワード女優賞(ストーン)、悪役賞(ペシ) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エイジ・オブ・イノセンス 1993 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1993米アカデミー衣装デザイン賞、助演女優賞(ライダー)、脚色賞、作曲賞、美術装置賞 1993英アカデミー助演女優賞(マーゴリーズ、ライダー)、撮影賞 1993ゴールデン・グローブ助演女優賞(ライダー)、作品賞、女優賞(ファイファー)、監督賞(スコセッシ) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ケープ・フィアー 1991 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1991米アカデミー主演男優賞(デ・ニーロ)、助演女優賞(ルイス) 1991ゴールデン・グローブ男優賞(デ・ニーロ)、助演女優賞(ルイス) 1991シカゴ映画批評家協会監督賞、助演女優賞(ルイス) 1992英アカデミー撮影賞 1992MTVムービー・アワード男優賞(デ・ニーロ)、キス・シーン賞(デ・ニーロ&ルイス)、悪役賞(デ・ニーロ) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弁護士のサム(ノルティ)は幸福な家庭生活、外には愛人と、男として理想的な生活を送っていた。だが、ある時を境に彼の生活は一変する。かつて彼のために刑務所に収監されていたマックス=ケイディ(デ・ニーロ)が出所し、彼の周り全てに復讐を始めたのだ。全身に刺青を入れたこのマックスの嫌がらせは日に日にエスカレートし、サムは家族を連れて隠れた岬の家に緊急避難せざるを得なくなるが、実はマックスはその事を既に察知していた。 『恐怖の岬』(1962)のリメイク作品。オリジナルの方は随分後になって観たが、どちらも主人公を付け狙うストーカーの方を思いっきり魅力的にしてるのが特徴。それぞれに魅力はあるが、ここでのデ・ニーロは完全にあっちの世界にイッてしまった男を好演している。 この魅力はねちっこさとも言える。すぐに嫌がらせをするのでなく、時間をかけて少しずつ家庭を破壊していく。そのためにはサム以外の家族の信頼を得たり、家族には隠しておきたいものにまず標準を定めるなど、とにかく狡猾。 デ・ニーロ・アプローチとまで言われた彼の役作りはここでも健在で、今回はマッシブな肉体を見事に作り上げてた。オリジナルはミッチャムとペックの双方に焦点が当てられていたが、本作では明らかにノルティを脇に、デ・ニーロ一人が徹底して目立っている。悪役の方に重点が置かれてるのはやっぱりスコセッシ監督らしさとも言えようか? このタイプの作品は私の好みではないので(でもデ・ニーロ見たさに観たのだが)、今ひとつ乗り切れない(特に完全なる変質者が自らをキリストと同一視してるあたりとか)。途中で弁護士の娘とマックスの心の交流じみたものがあったのだが、それも未消化のまま。あのシーンはいったい何のために入れたのだろう?(でもあれのお陰でジュリエット=ルイスの名前は覚えられたけどね。今ではかなり好きな女優) 静かに海に没していくマックスの姿がクライマックス。この時のデ・ニーロの眼光は鋭い。未だ終わらない!と言う雰囲気を残していく、その余韻は買える。 音楽も良かったが、オリジナルの『恐怖の岬』のスコアをリメイクしたものだそうで、どこか懐かしさを感じる曲調に、現代風のアレンジがよく効いている。 本作ではオリジナル版の主演のグレゴリー・ペックやロバート・ミッチャムがカメオ出演してるのが小憎らしい演出となっているが、主人公であったペックがここでは嫌らしい弁護士役を好演。なんでもこれは本人が選んだ役なのだとか。あと、ノンクレジットではあるが、本作の製作総指揮にはスピルバーグも加わっている。 |
グッドフェローズ 1990 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1990米アカデミー助演男優賞(ペシ)、作品賞、助演女優賞(ブラッコ)、監督賞(スコセッシ)、脚色賞、編集賞 1990英アカデミー作品賞、監督賞(スコセッシ)、脚色賞、衣装デザイン賞、編集賞、主演男優賞(デ・ニーロ)、撮影賞 1990ヴェネツィア国際映画祭監督賞(スコセッシ) 1990全米批評家協会作品賞、監督賞(スコセッシ) 1990NY批評家協会作品賞、助演男優賞(ペシ)、助演女優賞(ブラッコ)、監督賞(スコセッシ)、撮影賞 1990シカゴ映画批評家協会作品賞、監督賞、スクリーンプレイ賞(ニコラス・ケイジ&マーティン・スコセッシ)、撮影賞 1990ゴールデン・グローブ作品賞、助演男優賞(ペシ)、助演女優賞(ブラッコ)、監督賞(スコセッシ) 1990キネマ旬報外国映画第9位 2000アメリカ国立映画登録簿登録 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニューヨーク。幼い頃より“グッドフェローズ”と呼ばれるマフィアの世界に憧れていたヘンリー=ヒル(リオッタ)は、若い頃から様々な犯罪に手を染め、その中で仲間となったジミー=コンウェイ(デ・ニーロ)やトミー=デビート(ペシ)らと共に、荒事を行うに日々を送るようになる。特にジミーとは良いコンビで、二人はマフィア内部からも危険なコンビであると認められるようになったが、カレン(ブラッコ)と結婚し子供をもうけた頃からヘンリーは少しずつジミーと距離を置くようになっていった。そんな時、ヘンリーが知らぬ内、ジミーがケネディ空港で現金強奪事件をおこすのだが… ウィンクラー製作で1978年に起こった犯罪史上空前の600 万ドル強奪事件についてのニコラス=ピレッジのセミ・ドキュメンタリー小説の映画化。ピレッジ自身とスコセッシが共同で脚本化したため、比較的実話に忠実な歴史映画となっている。 物語はケネディ空港事件を中心とするが、むしろ内容はマフィアの変遷をたどったものとなり、歴史的な意味合いとしても、内容としても 骨太な内容に仕上げられている。 そもそもイタリア系移民の互助組織として始まったマフィアだが、組織が肥大化していくに従い、経済活動を中心とする犯罪組織となっていった(このあたりは『ゴッドファーザー』やカポネを扱った諸作品でも観られる)。1970年代になると、未だその互助組織としての体裁はなしていたらしいが、一部の組織が暴走を始めていき、組織としてそれを抑えられなくなっていた時代となる。 むしろ私としてはそう言う歴史の部分に惹かれる部分が強いが、この作品はそれだけではなく、描写においてもすばらしい。物語の本筋は当時史上最大の犯罪を起こしたジミーと、仲間のリーダーでありながらそれを抑えることが出来なかったヘンリーの物語が主軸となる。徐々にこれまでの“良き仲間”が変質していく過程を描き、それはそれで良い感じに仕上がっているが、ここにペシ演じるトミーが加わることによって、一種異様な緊張感を作り出すことが出来た。彼の役付けは、これまでのギャング映画でも度々登場したベイビー・フェイス的役割(明らかにキャグニーを意識してるショットもいくつかあり)。基本的に大きな犯罪には関わらない位置にいるが、個人レベルで周囲に危険な匂いをぷんぷんと振りまき、何がトリガーとなってキレるかまったく分からない怖いキャラに役づけられている。この作品では彼がさほど大物ではないというのが大きく、目に見える狂気部分を一手に引き受けてくれた。一方、彼がいたからこそ、一見まともに見えて、内なる狂気を秘めたデ・ニーロの演技が映える。抑え役のリオッタと仲良くやっている時は、狂気が抑えられていても、そのタガが外れた時、突拍子もないことを平然と行い、それをフォローするために次々と仲間を粛清していく。それらを平然とした顔でやってのけるのがデ・ニーロの巧さ(と言うかスコセッシの信頼と言うべきか)。 キャラのみならず、比較的長回しを多用したカメラワークも、昔からのギャング映画を思い起こさせる演出にうまくはまってる。特に冒頭の長回しはそれだけで引き込まれる巧さを持ってる。 良作の多いスコセッシ作品の中でも私は本作が一番好きかも。 撮影中、スコセッシ監督は黒澤監督に招かれて『夢』に出演。当然その間は撮影は中断となったとか。 |
最後の誘惑 1988 | |||||||||||||||||||||||||||
1988米アカデミー監督賞 1988ゴールデン・グローブ助演女優賞(ハーシー)、音楽賞 1988ゴールデン・ラズベリー最低助演男優賞(カイテル) |
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
ハスラー2 1985 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1986米アカデミー主演男優賞(ニューマン)、助演女優賞(マストランニオ)、脚色賞(リチャード=プライス)、美術監督賞、美術装置賞 1986ゴールデン・グローブ男優賞(ニューマン)、助演女優賞(マストランニオ) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現役を退いていた凄腕ハスラー、エディ・フェルスン(ニューマン)はあるプールバーで昔の自分の姿を思い起こさせる若いハスラー、ビンセント(クルーズ)と出会う。エディはこの若者を自らの手で最高のハスラーに仕立て上げようと思い、あらゆるテクニックや精神を叩き込んでいく。目を見張るスピードで成長を続けるビンセント。そんな彼を見守るうちに、エディは自らのハスラー魂が再び燃え上がっていくのを感じていた。そしてエディはビンセントに狙わせようとしていたアトランティックシティの大きなナインボールの大会に自らも出場することを決める。 名作『ハスラー』(1961)の25年振りの続編。それにしてもかなり小粒に仕上がった感じ。確かにポール=ニューマンの円熟した演技とトム=クルーズの軽さを比較するような作品の作りとなっていて、そのミスマッチはなかなか見応えがあったと思う。ただ、それが成功したかどうかは別問題。ステロタイプの青年の姿そのものを具現化したかのようなクルーズの姿に完全に引きまくる(当時のクルーズを見ているだけで腹が立つから、自然点数は低くなる) これを観たのは『ハスラー』を観る随分前の話。先日ようやく1作目を観ることが出来たので、この作品を再検証してみると、そんな悪い話ではなかったと思う。この作品の「2」の表記は伊達ではなく、前作あってこその作品。単独で観てはいけないのだろう。 前作で逃したアカデミー主演男優賞を(英アカデミーでは受賞したが)25年を経てニューマンが獲得しているのも面白いものだ(前年に名誉賞で受賞してるが会に不参加だった)。質は絶対にこっちの方が低いけど、その同情票が集まったのかも? この作品の大ブームのお陰で日本でもビリヤード(9ボール)が大ブームとなった。私も公開当時、友人と連れだって高くて順番待ちの長いビリヤード場に何度か行った。ちなみに私はまるで下手なままで、子どもにまで馬鹿にされる始末だったので、すぐ止めたけど。 ところで勝手に1作目から2作目に至るエディの生き方を考えてみた。 エディにとってミネソタ・ファッツとのビリヤード対戦は一世一代の最高の勝負だった。全てを賭けての名勝負を経て、エディに最早敵はなく、以降のハスラーとしての生涯は最早彼を本当に奮い立たせることは無くなってしまっていた。やがて彼はハスラーとして生きることを、勝負とは考えず、飯のタネとしてしか見ることが出来なくなってしまっていた。そんな彼が若き天才ハスラーと出会った時…という感じかな? |
キング・オブ・コメディ 1983 | |||||||||||||||||||||||||||
1983英アカデミーオリジナル脚本賞、主演男優賞(デ・ニーロ)、助演男優賞(ルイス)、監督賞 1983カンヌ国際映画祭パルム・ドール 1983全米批評家協会助演女優賞(バーンハード) |
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
TVのトーク・ショーの人気者ジェリー=ラングフォード(ルイス)を執拗に追い回す二人の人物がいた。一人はジェリーに熱烈に恋しているマーシャ(バーンハート)という女性。もう一人はコメディアン志望で、なんとかテレビに売り込んで欲しいと願う青年ルパート=パプキン(デ・ニーロ)。ルパートはジェリーを追い回しては、自分をテレビに売り込んで欲しいと度々申し出る。そしてジェリーが何もしてくれないことに怒りを覚えたルパートは… 本作は、スコセッシ監督が描くもう一つの『タクシー・ドライバー』と言われる。どちらも都会の空虚な中の狂気を描く作品であり、どこか常軌を逸した人間が極端な行動に出た結果、何故か成功してしまい、英雄視される。という構成そのものはよく似ているし、主人公も同じデ・ニーロだけに息もぴったり合ってる。 ただ、『タクシー・ドライバー』のトラヴィスと本作のルパートの大きな違いは、求めるものが実のあるものなのか、空虚さなのか。という点だろう。ルパートは、この世界に生きるに際し、何か有益なことが出来ないか。それは誰かの死をもっての、命懸けの訴えだったが、ルパートの場合、実よりも偶像の方を求めた。英雄たる自分自身が本当の自分なのか、虚像の自分なのか。やってることは似ていても、内面世界ではこの二人は全く異なる。 偶像になることは実はさほど難しいことではない。実際ここでのルパートが自分の自分の部屋の中でやっていたように、他の人が自分を賞賛していると思い込みさえすれば、それで良いのだ。一瞬そうやって夢想にふけるだけなら、さほど他人に害を与えることもないし、“ちょっと可哀想な人”程度で済む。しかし、現実世界に引き戻されたときの空虚感はあまりにも激しく、こんな二重生活を続けている内に、ルパートはそれを生活の全部をそれに置き換えたいと願う。 それを極端な形で表したのがルパートのやり方。本物の事件を起こしてしまえば、少なくともその瞬間は実際に賞賛…とまでは行かないが、注目を浴びる。勿論これは他人に迷惑をかける以外に何にもならないはずなのだが、過激さを求める時代ではこういう人間を賞賛してしまうこともある。テレビの画面を通してであれば、秩序を求めながら、こういう過激な人間も同時に求める…人間とは複雑なものだ。 ただし、この話はそれで終わりではない。 最終的にたった一瞬だけのヒーローとなったルパートは、それで満足だったのかも知れないが、「一夜だけの王様」という回想録がベストセラーとなってしまい、本物のスターとなってしまった。 このラストシーンは非常に面白い。みんながテレビの中のルパートを見て、ルパート自身も満面の笑みをたたえている。だが拍手がいくら鳴っても、ルパートは全く動かないまま…これをどう考えるかは、観ている側に完全に委ねられている。 これを単に本当に彼が大スターとなったと見るも良し。あるいは一度でも注目を浴び、もう満足してしまった状態で引きずり出されて戸惑ってしまっていると見るも良し。はたまた、これこそが刑務所に入れられることによって、完全に実生活と遮断されたルパートが作り出したリアリティ溢れる幻想世界と見るも良し。見ようによっては様々に捉えられるだろう。終わり方も『タクシー・ドライバー』に対するアンチテーゼのように見える。 そのパプキンが目指したコメディアンというのがジェリー・ルイスってのがなかなか捻ってるね。この時代最早往年のコメディアンと化していたルイスを、完全に自虐的立場に追い込んで作ってるから。きっとスコセッシもルイスのファンだったんだろうな。 今でこそスコセッシ監督作品の中でも本作はかなり評価が高い作品なのだが、公開時、日本では本作は全く受けなかったそうだ。これは買い付けた配給会社がハート・ウォーミングなヒューマン映画だと勘違いして買ってしまったため、完全に宣伝を失敗したためとも言われている。聴衆に解釈を委ねるラストシーンも当時ではマイナスだったのかも。 |
レイジング・ブル 1980 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1980アカデミー主演男優賞(デ・ニーロ)、編集賞、作品賞、助演男優賞(ペシ)、助演女優賞(モリアーティ)、監督賞(スコセッシ)、撮影賞、音響賞 1980NY批評家協会男優賞(デ・ニーロ)、助演男優賞(ペシ) 1980LA批評家協会作品賞、男優賞(デ・ニーロ) 1980ゴールデン・グローブ男優賞(デ・ニーロ) 1981英アカデミー編集賞、新人賞(ペシ)、主演男優賞(デ・ニーロ) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1940年代に「怒れる牡牛」の異名を持つ世界ミドル級チャンピオン、ジェイク・ラ・モッタ(デ・ニーロ)。ボクサーとしての強さは本物だったが、功罪合わせ数々の逸話を持つ彼も、1960年代はナイトクラブの経営者となっていた。そして1964年、バルビゾン・ブラザーシアターの楽屋に肥えた肉体のジェイクが現れる… 実在のボクサー、ラ・モッタの自伝「怒れる牡牛」の映画化。ラモッタ自身は1941年のデビュー戦から1954年に至るまで106戦を戦い、83勝を上げた世界的なボクサー。 話題性を持つ作品をいくつも作り上げてきたスコセッシ監督が『ニューヨーク・ニューヨーク』に続きヒットメイカーのウィンクラー製作で作り上げた作品で、実在の人物をモチーフとしながら、しっかりエンターテインメント性を高めた傑作となっている。 本作では様々な映像的な試みがなされているのが特徴で、ラモッタの過去は全てモノクロ映像で仕上げ、しかもボクシングのシーンでは接写スローモーションでパンチのダメージを直接的に伝えてくれているし、まるで別人と見まごうばかりの一人の人間の過去と現在を交錯して描くことで、人間の栄光の儚さと、それでも生きていくことの意味のようなものを感じさせてくれる。 そしてその難しい役に見事に応えたデ・ニーロの実力も知るべし。『タクシードライバー』(1976)の時と言い、デ・ニーロとスコセッシは確かに名コンビといえるが、それだけ苦労を強いられるようだ。本作でデ・ニーロは25キロも体重を上下させたというのは有名な話だが(そのため4ヶ月の撮影休止期間を設けたらしい)、それだけではなく、20年前のボクサーと今の興行主の性格もまるで別人に見えてしまう。実際に20歳の年齢差が確かにあるように思わせてくれるのだ。この性格の差を演じることこそが本当の目的だったのではないかと思われる。この二人の描写の違いは、20年前のラモッタは腕っ節は強く、誰からも憧れられる人物だった。だが、栄光を追う事に汲々とするあまり、一旦得たものをなんとしても失わないように、自分の思い通りに動かそうとする。その部分の神経質さがその時のキャラクタ描写になっているのだが、一方20年後の姿は、確かに太ってとても強そうに見えないのに、いつも笑みを絶やさず、どれだけ卑屈になっても余裕が見られる。全てを追い求めていた時代と、全てを失ってしまった後の人間。底辺を見てきたからこその余裕というものがそこにはあった。だから、観ていくうちに、一体どっちがラモッタにとっては幸せなんだろう?と言う思いにさせられていく。おそらくその混乱こそが、本作の狙いなのだろう。だからこそ、この二つの時間は切り離せないし、切り離さないからこそ、本作は傑作たり得るのだ。 ただ、二層構造を持つが故にストーリー全体の盛り上がりが今ひとつで、中だるみもあるため、その部分で多少退屈を覚えることもあり。 本作はスコセッシ監督らしい実験的作品のように見えるのだが、実は前作『ニューヨーク・ニューヨーク』は興行面で大きく失敗してしまったため、スコセッシは背水の陣で臨んだらしい。そのためにいい加減さを排除し、徹底的に緻密に舞台描写から撮影方法まで研究し、2年の準備期間をかけて勝負をかけたのだそうだ。あくまで上を見ている監督の執念と言った感じだ。 本作でデ・ニーロと並び見事な演技を見せているジョー・ペシだが、8年前に役者をあきらめ、イタリアンレストランの経営者となっていたが、デ・ニーロの誘いで俳優に復帰。 ちなみにボクサー時代をモノクロで撮影したのはスコセッシの敬愛するパウエル監督の助言だとか(スコセッシが監督を目指したのはパウエル&プレスバーガーの『ホフマン物語』(1951)を観たからと言われる)。 |
ラスト・ワルツ The Last Waltz |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
ニューヨーク・ニューヨーク New York, New York |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本降伏により第二次世界大戦は終結。祭りにわき上がるアメリカはビッグ・バンド・ミュージックが最盛期を迎えていた。サックス奏者のジミー(デ・ニーロ)は歌手のフランシーヌ(ミネリ)に一目惚れする。その後再会し、借金漬けのジミーを体よく逃がしてやったりして二人の仲は急接近する。やがて接近したり離れたりを繰り返す二人はそれぞれに成功を収めていくが… 前年に『タクシードライバー』(1976)を投入し、ニューシネマブームの先鋒となったスコセッシがヒットメーカーのアーウィン・ウィンクラーと組んで次に選んだ題材は、意外にも男っぽさや攻撃性を排したノスタルジックな作品だった(そもそも冒頭の対日戦争勝利に沸き返るシーンはスコセッシ監督自身が幼い頃に体験した出来事だという)。だが、やはり視聴者が監督に求めていた方向性とは異なったらしく、興行的には失敗に終わってしまった。 実際1977年という時代に作られるにしては、本作は素材的に古すぎたのだ。ニュー・シネマで有名になった『タクシードライバー』の次回作がこんな古くさい題材だったとは、逆に驚かされてしまった。更に同年に『サタデー・ナイト・フィーバー』というニューシネマをしっかり取り入れたミュージカルが投入されていたのも本作の低評価に繋がってしまったのだろう。 スコセッシ監督はその中でも新味を出そうと色々努力しているのは認められる。古くさい素材を使っても演出はなるだけ新しくしようとしているのは分かるし、特にデ・ニーロの演技については、これまでにない微妙な演技を強いてて、それは大変見事な演技になっていた。はっきり言ってしまえば、本作は確かに受けは悪かったかも知れないけど、デ・ニーロについては大きな躍進へとつなげることが出来たので、成功作とも言える。 では本作は何が悪かったかというと、やはりミネリの使い方だった。ミネリ自身の演技が悪い訳ではなく、むしろ素晴らしいとも言えるのだが、ミネリの個性が強すぎて、それを御すことが出来なかったのが最大の問題。スコセッシは男優の使い方は上手いけど、女優の使い方が今ひとつという弱点が露呈してしまった(スコセッシ監督のミネリのロマンスも生んだと言う事実もあるが)。デ・ニーロもすっかり引いた演技してるため、結果ミネリの個性ばかりが強調された形になってしまった。 特に後半になるとミネリがまるで母親のガーランドのように見えてしまい、やってることが『スタア誕生』(1954)のようになってしまった。駄目男の面倒看る気丈な女性って構図は私は苦手だし、それを感じさせてしまった時点で私自身もはまりきることが出来ないままだった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
タクシードライバー Taxi Driver |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1976アカデミー作品賞、主演男優賞(デ・ニーロ)、助演女優賞(フォスター)、作曲賞 1976英アカデミー助演女優賞(フォスター)、作曲賞、新人賞(フォスター)、作品賞、主演男優賞(デ・ニーロ)、監督賞 1976カンヌ国際映画祭パルム・ドール(スコセッシ) 1976全米批評家協会主演男優賞(デ・ニーロ)、助演女優賞(フォスター)、監督賞 1976NY批評家協会男優賞(デ・ニーロ) 1976LA批評家協会男優賞(デ・ニーロ)、音楽賞(ハーマン) 1976ブルーリボン外国作品賞 1976報知映画外国映画賞 1994アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニューヨーク。復員兵上がりのタクシー・ドライバーであるトラビス・ビックル(デ・ニーロ)は仲間に守銭奴と罵られながらも深夜の営業にいそしんでいた。実は彼はヴェトナムでの傷が元で眠る事が出来ず、その開いた時間を他に使う方法を持っていなかったのだ。淡々と仕事をし、ポルノ映画を観る日常を繰り返していたが、ある日トラビスは大統領候補パランタインの選挙事務所に勤める選挙運動員ベッツィ(シェパード)を見かける。彼女に一目惚れしたトラビスは事務所をたずね、デートに誘うことに成功した。だが、初デートの日、どこに連れて行って良いか分からないトラビスはベッツィをポルノ映画館に連れて行き、彼女を怒らせて振られてしまった。その鬱屈がやがて「この世の中は堕落し、汚れきっている。自分がクリーンにしてやる」という思いにとりつかれるようになっていった。そして僅か13歳の娼婦アイリス(フォスター)がポン引きのスポート(カイテル)に連れ去られる様を見、彼女を救おうと決心する… 徐々に下火になっていったニューシネマの中、最後の傑作と名高いのが本作。スコセッシ監督入念の本作はニューシネマの完成型と言っても良いだろう。フィルムノワールの形式を取り入れつつ、説明不可能な人間の感情に入り込んだ見事な作品に造り上げてくれた。 ニューシネマの大きな特徴の一つとして、誰しも人は悩むものだ。という当たり前の事柄がある。人は誰しも自分の行った行為を後になって「ああすれば良かった。こうすれば良かった」と悔やみつつ、同じような失敗を繰り返す。それで効率よくなってくれれば良いんだが、そうなれない不器用な人も世の中にはいるものだ(こんなことを書いている人間も含めてな)。 それだけでも映画は一本作れる。だが、スコセッシ監督はそうはしなかった。答えのでない悩みではなく、極端な意味での回答をここで与えたのだ。 主人公のトラビスは、ある種の負け犬だった。帰還兵であり、本来働いている時に戦争に明け暮れる生活を送っていただろう彼は何をやっても上手くいかないし、それが何故駄目だったのかも自分で理解することも出来ない。いくら反省しても、直すことが出来ないのだ。だが、直すことではなく、どんな極端なことでも、今までやったこともなかったことをやることで目的を転換した…普通だったらこれは単なる通り魔犯罪者で終わってしまうし、事実そうなりかけたのだ。仮にあの大統領候補襲撃シーンで本当に銃を抜いていたら、それで全て彼の人生は終わっていた。だが、それは本当に“偶然に”回避され、同じベクトルで人殺しをしてるのに“悪を倒すスター”としてもてはやされるようになる…何とも皮肉な話でもある。彼の中ではやってることは同じのはずなのに、ほんの偶然の差によって、彼は全く違う評価を受けることになるのだから。 NYという街の中、ほんの一握りの成功者がいる中、そうなりきれない無数の人間がいるのだ。と言うことを明確に示したのが『真夜中のカーボーイ』(1969)であるのなら、そのどちらも描いて見せよう。と言うのが本作の最大の特徴では無かろうか?そう考えると皮肉なものだし、その皮肉さこそが本作を名作たらしめている部分なのだろう。 狂気を演じさせたら定評のあるデ・ニーロが見事に本作でははまり、あのモヒカンカットの姿と共に忘れられぬ名演ぶりを見せているが、少女娼婦役の(現代ではこの描写は徹底的に避けられる)ジョディ=フォスターが又良い役を演じている。私は冥い目というのにもの凄く惹かれるんだけど、この時代のフォスターは間違いなくそんなオーラがあった(当初福祉局によって出演を拒否されたが、心理テストの末、女優役を得る)。 この作品を観て以来、アメリカの夜というのは水道管が壊れてて、そこらかしこから蒸気が噴き出しているもんだ。と思いこんでいた私がいる。特に夜の描写が印象深い作品だった。 本作で忘れてならないのがバーナード・ハーマンによる音楽だが、撮影後程なくして死去。クレジットに「われわれの感謝と敬意を捧げる」という謝辞が加えられている。 脚本はポール・シュレイダーによるものだが、本作は彼自身が批評家時代に書いたもので、彼自身の企画で製作が決定された。当初監督をロバート・マリガン、主人公をジェフ・ブリッジスにする予定だったが、マリガンを嫌っていたシュレイダーが反発し、『ミーン・ストリート』のトリオだったスコセッシ監督、デ・ニーロ、カイテルをそのまま推薦。これがうまくはまった。 本作にはスコセッシ自身が登場しているが、その役というのが、妻を寝取られた男がトラヴィスの運転するタクシーの中で、じっとアパートの前で待つと言う役。非常に情けない役ではあるが、これがトラヴィスにこの町の腐敗度合いを痛感させられると考えるなら、相当重要な役割でもある。 本作のテーマは多くの映画によって模倣されることになるが、そのほとんど全部が駄目作品。これは主人公の心情に近づこうとした結果、カメラが主人公と同一になってしまい、結果冷静な批判が無くなってしまったからと言われる。 本作も帰還兵の物語として考えるなら、戦争映画のカテゴリーに入る。 フィルムノワールの形式に則って作られているのも特徴的。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
アリスの恋 Alice Doesn't Live Here Anymore |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1974米アカデミー主演女優賞(バースティン)、助演女優賞(ラッド)、脚本賞 1975英アカデミー作品賞、主演女優賞(バースティン)、助演女優賞(ラッド、ゴルドーニ)、脚本賞、監督賞、新人賞(ルター) 1975カンヌ国際映画賞パルム・ドール 1975キネマ旬報外国映画第3位 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夫のドンを突然の交通事故で亡くしたアリス(バースティン)は、12歳になる一人息子のトム(ルッター)と共に故郷のモンタレイへ帰る事とした。実は子供のときからの夢だった歌手として出直したかったのだ。葬式で所持金を使い果たしているため、旅費は途中のバーなどで歌いながらのモーテル暮らしが続く。その途中で彼女が出会った男達…アリスの前では紳士的に振る舞うが、実は妻子持ちで、妻に暴力を振るい続けるベン。農場持ちで、粗野だが気持ちが良いデイヴィッド(クリストファーソン)。彼らとの交流を通じ、アリスは新生活へと向かっていく。 スコセッシ監督メジャーデビュー作。本作の成功が彼の後のフィルモグラフィの足がかりとなる。 スコセッシ監督をイメージすると、やはり「男のドラマ」に尽きるのではないだろうか?この監督の作る映画はどれも意志力の強い主人公とそれを取り巻くやっぱり強い男達が登場し、画面狭しと暴れ回るイメージがどうしてもつきまとう。それは戦いであったり、人助けであったり、友情であったり、頭脳戦であったりするのだが、どんなものを描いても、やっぱり「スコセッシだ」と思わせるものばかり。 ところがメジャーデビュー作である本作が女性を主人公にしているというのは大変興味深い。勿論彼女を取り巻く男達(しかも駄目人間ばっかり)との関わり合いが本作の主軸とはいえ、監督にしてはかなり異色な作品に仕上がっている。実際本作はスコセッシらしさとらしくなさが混在した話で、かなり自分を抑えて描いているんじゃないか?と言う印象もある。でも、それは決して悪くない。割と低予算で作られた分、キャラの魅力を深く掘り下げ、駄目人間は駄目人間なりに魅力的に描き、その間であたふた苦労するローズ役のバースティンを面白く、魅力的に描く事に成功している(決してコメディではないけど)。 だから結局本作はバースティンを取り巻く男達の物語なんだよな。 そう割り切って考えると、やっぱりスコセッシは例えアウェイであっても自分のフィールドに物語を引き込んで作れる監督だったと思える。この資質あってこそ、アカデミー常連たる実力だよ(監督賞としての受賞は意外にもディパーテッド(2006)が初なのだが)。 ちなみに監督にスコセッシを選んだのはバースティン自身。彼女の目は確かだったようだ。この際ワーナー首脳部に呼ばれたスコセッシは緊張しっぱなしだったという。この際、バースティンが「女性について知ってますか?」と訊ねたところ「全然。でも勉強します」と答えたとか…らしすぎるよね。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
ミーン・ストリート Mean Streets |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1973米批評家協会助演男優賞(デ・ニーロ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニューヨークで生まれ育ち、今は定職を持たずにバーに入り浸っている青年チャーリー(カイテル)とジョニー(デ・ニーロ)。チャーリーの叔父でNYギャングの顔役ジョバンニはそんなチャーリーを見かね、一軒の店を任せようとするのだが、その際、借金まみれで逃げ回る粗暴なジョニーと手を切ることを条件とする。だがそんなことも知らぬジョニーはますます荒れていき、チャーリーをも危険に巻き込んでいく… スコセッシ監督出世作。55万ドルで作ってしまったという極端な低予算映画なのだが、この作品こそがスコセッシのみならず、デ・ニーロとカイテルの出世作にもなった。 すっかりギャング映画で有名になったNYのリトル・イタリーを舞台とした青春物語。日本でも丁度70年代には粗暴な青春物語がよく映画になったが、アメリカでも事情は同じようだ。ただし、抜群の演出力を持つスコセッシがこういう作品を作ると、途端に泥臭さよりもスタイリッシュに感じてしまうのが不思議なところ。演出に関してはこの当時では突出した良さを持っている。 特に若さというのは、パワーをもてあますのは共通してるが、それぞれその表現は異なる。たとえばここではチャーリーの方は基本そのパワーを待つ方向へと使っている。多くの場合は彼の生き方が多い。 可能性としては他にスポーツや打ち込めるものを作ってそれでパワーを発散するという方法もあるのだが、ここには登場せず。 そして最も破壊的なパターンとして、平地に乱を引き起こしてしまう人間というのも存在する。ただなんとなく破壊衝動に突き動かされ、他人を怒らせたり、器物を破損してみたり…『暴力脱獄』(1967)のニューマンが最も良い例だろうけど、本作のデ・ニーロ演じるジョニーもそれに負けてない。いつも苛つき、パワーの爆発を待ってるようなそんな男として描かれている。 全く理にかなっていないのだが、そう言う生き方は映画では映える。理にかなったアクション作品ばかりを観ていると、こういう作品はかなり新鮮な思いを持って観られる。 キャラに関しても、本作が出世作となったというデ・ニーロ、カイテル双方が見事な男臭さを好演。二人ともパワーをもてあます若者を、自然体で演じてくれている。特に若さ爆発と言っても人それぞれなのだが、ちゃんと二人の若さの違いもはっきりと描いている事も重要な点。 しかもそれぞれが、今の生き方では破滅することを自分でも分かっていて、時としてそれを止めよう止めようと思うのだが、やっぱり破滅的な生き方に突き進んでしまう。この辺本当にリアリティある(後年カイテルの方がキレる役が多くなってるのが皮肉だが)。 ただ一方、何故ここまで友情を感じ続けられるのか。という点では説明不足だったかな。イタリア人は“ファミリー”のつながりを何より大切にするって事なんだろうけど、それは監督自身には理解できても、それを説得力もって伝えることはできなかった気がする。前年にコッポラの『ゴッドファーザー』(1972)があったので、それを観てること前提で作られてたのかも知れない。 結構ごつごつした作りだし、バランスも決して良いとは言えない。しかし、その中に確かにスコセッシの作家性と、溢れんばかりのパワーを感じ取ることが出来る。 そしてこれがスコセッシとデ・ニーロの出会いとなり、デ・ニーロに惚れ込んだスコセッシ監督は事ある毎に彼を起用するようになる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
明日に処刑を… Boxcar Bertha |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1930年代のアメリカは大不況のただ中にあった。そんな中、貨車に乗って移動し、降り立った町で働くホーボーと呼ばれる人々がおり、その中に両親を失った農家の娘バーサ(ハーシー)がいた。そんな彼女が出会った三人の男達。アナーキストのビル(キャラダイン)、イカサマ博打師のレーク(プリマス)、刑務所で知り合って共に脱獄したヴォン(ケーシー)。彼らは四人で列車強盗を始める… 本作は早撮りと低予算で知られるロジャー・コーマン製映画の一本。コーマン製低予算映画はフィルムをあまり使わず、徹底してサイクルを早くすることで、ギリギリの儲けを得るというモデルケースのような作り方が特徴で、現代のハリウッドとは隔絶の感があるが、同時に彼の映画によって新人監督や新人役者でメジャー化した人も数多い。ある種映画界にあって重要な位置づけをもつ人物である。 その中で台頭した一人がこのスコセッシ。後に大監督の一人に数えられる彼のデビュー当時の苦労がここで垣間見られるだろう。本作はコーマンに抜擢されて僅か24日で撮影されたのだそうだ。 だが、低予算であるのは決して弱みではない。本作は後のスコセッシ映画に通じる骨太で残酷な物語の開始となったのみならず、本当に「これを撮りたい!」という思いが詰まっているかのよう。作りとして低予算であるのはよく分かるのだが、それ以上にフィルムを通して映画好きの情熱が叩きつけられているようである。ストーリー展開としては『俺たちに明日はない』(1967)っぽいが、あそこではできなかった生々しさと暴力描写が映える。特にラストシーンの生々しさは『俺たちに明日はない』での死のダンスの描写の遙か上を行ってる。よくやったもんだ。 本作に登場するキャラクタは当時無名の人達ばかり。演技は垢抜けないが、だからこそスタントマンまがいの危ない役を生でやらせることができたし、ラストシーンの肉体的精神的な痛みは本物に見える。それにスコセッシ自身は意識してなかったようだが、本作が契機でバーバラ・ハーシーがブレイク。健康的な色っぽさがその肢体を通じて画面からあふれている。結果的に彼女の存在こそが本作を特徴付けている。 本作が低予算であることがよく分かるのが、キャラの格好かもしれない。金がかけられない分、時代考証に力を入れることができず、登場するキャラがみんなヒッピー然してる。あるいは格好を現代(当時)にすることで、現在との対比という形に持っていこうとしたのだろうか?考え過ぎだろうけど。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|