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2021 | ||
2020 | キングスマン:ファースト・エージェント 監督・製作・脚本 | |
2019 | ロケットマン 製作 | |
2018 | ||
2017 | キングスマン:ゴールデン・サークル 監督・製作・脚本 | |
2016 | イーグル・ジャンプ 製作 | |
2015 | ファンタスティック・フォー 製作 | |
2014 | キングスマン 監督・製作・脚本 | |
X-MEN:フューチャー&パスト 原案 | ||
2013 | キック・アス ジャスティス・フォーエバー 製作 | |
2012 | ||
2011 | X-MEN:ファースト・ジェネレーション 監督・脚本 | |
2010 | キック・アス 監督・製作・脚本 | |
ペイド・バック 製作・脚本 | ||
2009 | 狼たちの処刑台 製作 | |
2008 | ||
2007 | スターダスト 監督・製作・脚本 | |
2006 | ||
2005 | ||
2004 | レイヤー・ケーキ 監督・製作 | |
2003 | ||
2002 | スウェプト・アウェイ 製作 | |
2001 | ミーン・マシーン 製作総指揮 | |
2000 | ||
ロック、ストック&フォー・ストールン・フーヴズ 製作総指揮 | ||
ロック、ストック&スパゲッティ・ソース 製作総指揮 | ||
ロック、ストック&ワン・ビッグ・ブロック 製作総指揮 | ||
1999 | ||
1998 | ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ 製作 | |
1997 | ||
1996 | ||
1995 | 謀殺 製作 | |
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | ||
1972 | ||
1971 | 3'7 ロンドンで誕生 |
キングスマン:ファースト・エージェント | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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イギリス貴族ではありながら、祖国の植民地戦争に義はないと悟ったオーランド・オックスフォード公(ファインズ)は家族ぐるみで赤十字活動を支援していたが、南アフリカで何者かの狙撃を受け、妻のエミリー(ララ)を失ってしまった。それから一人息子のコンラッド(ディキンソン)の成長だけを楽しみに、コンラッドに争いを見せないよう注意深く育ててきた。しかし独自の諜報網によって世界は何者かの手によって争いの火種が植えられていたことを知るに至り、、国家権力に頼らない諜報網の構築を開始する。そのメンバーには息子のコンラッドも入っていた。 ヴォーン監督による『キングスマン』はスマッシュヒットを記録して、これは楽しみなシリーズが出来たもんだと思ってた矢先、続編の『キングスマン:ゴールデン・サークル』が結構な駄作になってしまい、このまま続けるのは止めてほしいと思ってたのだが、又しても続編が出てしまった。 そのままの続編だったら観ないつもりだったが、予告でこれがキングスマン設立の話であり、実際の歴史とも関わりがあると知り、途端に興味が出た。 それで実際に観たところ、予想を超える面白い作品に仕上がっていた。 まず設定が良い。スパイもので映えるのはまさしくこの時代。19世紀終わりから1950年くらいまでの半世紀だなと改めて認識した。 この時代は世界のどこにでも行くことは出来るが、文明はあまり進んでいない年代で、何でも出来るにしても何事も不便さを感じさせる。そこで登場する超兵器。そして調略。国家以上の最新テクノロジーを用いることで潜入や破壊工作を行ったり、いろんな方法を用いて情報を流すなど。今だったらスマホ一つあればできることを苦労に苦労を重ねて行うからこそ、テクノロジーが面白く思えるのだ。コネリー版の007が面白かった理由はまだそれが可能な時代だった時代設定だったからだろう。 次に史実を元にしているため、実在の人物が次々に登場すること。漫画やアニメでよくやる演出を実際の映画でやってくれるとなんか嬉しくなってくるものだ。特にラスプーチンに至っては、挙動まで含めて「ワールド・ヒーローズ」という格闘ゲームのプレイヤーキャラを思い出させてしまい、ニヤニヤしながら観ていた(動きまでそっくりなところがあって、ひょっとして監督も知ってるのか?)。 最後に、スパイものの醍醐味であるどんでん返しがふんだんに用いられていること。スパイというのは表と裏の顔を使い分ける存在のため、当然裏の顔も持つ。それを視聴者が知っている前提で、それを上回るどんでん返しを用意するのがスパイもの映画の面白さだ。特に本作はそれが顕著で、次々にテンポ良く展開されるどんでん返しにすっかり酔いしれた。 観たいと思ってたものが次々に提供されるので、最初から最後まで満足しっぱなし。実に良い。とにかく好みドストライクな作品で、最初から最後まで楽しめた。ほんと良いもの観たもんだ。 この辺『キングスマン』よりもバランス的には上行っていて、理想的なスパイ作品だとも言えるが、邪道から入って見事なインパクトを見せた第一作に敬意を表し、こちらは少しだけ点数は落とさせてもらった。 |
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キングスマン:ゴールデン・サークル 2017 | |||||||||||||||||||||||||||
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ヴァレンタイン事件から一年。キングスマンのエース“ギャラハッド”となったエグジー(エガートン)は、同期のキングスマン候補生を脱落したチャーリーの襲撃を受ける。その背後関係を調べるキングスマンだったが、既に全ての基地とメンバーを知られてしまい、ミサイル攻撃を受けてキングスマンは壊滅してしまう。たまたまスウェーデンに行っており難を逃れたエグジーは生き残ったマーリン(ストロング)と共に、「最後の審判の日」の指令の入った金庫を開けるのだが、そこにあったのは一本の酒瓶だけだった。 『キングスマン』の一年後を描く続編。 冒頭部分はとても面白かった。 ヴェテランエージェントとなったはずのエグジーが、肝心なところは相棒のロキシーの助けがないと巧く立ち回ることが出来ないとか、相変わらず脇が甘く、任務中のイギリス紳士っぽい無表情さと、素に戻った時の砕けた表情のギャップがなかなか良く、どことなく新人臭さが抜けてないところが魅力たっぷり。 そのため、オープニングから20分ほどは楽しく観ることが出来た。 しかしその後、キングスマンの壊滅後は残念ながら、本当につまらない。 本作でやるべき事は、並び立つ諜報組織としてキングスマンとステーツマンが競うという方向性だったはずである。 視聴者の側からして観たかったのは、典型的なジョンブルとヤンキーが伝統的文化的な武器を駆使して、時に競い、時に共闘するというシーンが目白押しの話だった。 少なくとも予告編を見た時は、まさにそう言う作品だろうと思っていた。 ところが実際にはう外連味あるシーンはトレーラーで使われたところがほとんど全て。 残されたのは、何故か生きていたハリーと共にアメリカの諜報組織に身を寄せ、こっそりとスパイ活動を続けるエグジーの姿だけだった。ストーリーにもほとんどひねりがない。 どこぞの国の大統領を非難する描写だけで満足してしまった? 少なくとも、前作が007を巧く揶揄してたんだが、今回は出来損ないのパロディにしか見えない。 これだけのキャスティングをしておいて肩すかしも良いところである。ロキシーを早々に退場させたために丁々発止のやりとりもなくなり、ハリーの復活が物語展開にほとんど意味を持たないのも痛い。 ヴォーン監督は私が最も期待する若手監督なんだから、もっとはじけたものを作って欲しかったもんだ。 |
キングスマン 2014 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2015日本アカデミー外国作品賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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頭脳明晰で身体能力も高い、だが下町生まれのためにチンピラのような生き方しか出来なかった青年エグジー(エガートン)は、バーでの小競り合いが元で一人の紳士ハリー(ファース)と出会う。実はハリーは“キングスマン”と呼ばれる国家に属さない特殊部隊の一員で、エグジーの死んだ父はハリーの元部下だったと聞かされ、その訓練生として誘われるのだった。12人の訓練生と共に、英国紳士としての身だしなみと、諜報活動のエリートとしての訓練を受けるエグジー。その頃、キングスマンは、アメリカ人富豪ヴァレンタイン(ジャクソン)の内偵調査を進めていた。その為世界中を飛び回るハリーだったが、そんな行動はヴァレンタインに筒抜けで… マーク・ミラーのグラフィックノベル「キングスマン:ザ・シークレット・サービス」の映画化作。先に同じマーク・ミラーの「キック・アス」を監督して頭角を現したヴォーン監督にはまさしくうってつけの素材とも言える。でも一番重要なのは、ヴォーン監督がイギリス人であるという点だろう。これは別段偏見とかではなく、スパイものの映画を作る監督はイギリス人監督がとても多く、007シリーズも伝統的にイギリス人監督が作り続けているという事実から。これだけでこの作品は「伝統に則ったスパイ映画ですよ」という宣言をしているようなもの。これだけでまず本作は第一段階クリアってところだ。 そして設定が良い。 スパイ映画は古くから作られてきていたが、普通のアクションものとスパイ映画というのは同じようでいて微妙に違いがある。それはアクション映画の大半の主人公が巻き込まれ型の受動的な立場に置かれているのに対し、主人公のスパイが能動的に動くことによって物語を進行させるという構造的なものと、主人公はあくまで取り乱すことなくエレガントに振る舞うという主人公のキャラ造形に負っているところが大きい。つまり、スパイ映画の主人公はイギリス紳士であると言う事と結びついているわけである。 特にその辺は007シリーズで顕著。初代ボンドであるショーン・コネリーがそれを形作ったわけだが、この当時のボンドは、劇中何度死んでもおかしくないところを、はったりやら幸運やらで生き残る。それがたとえとんでもない偶然出会ったとしても、それをさも当然の如くの表情で、エレガントさを崩さないというところに魅力があった。 それが一種のアイコンになってしまい、それを揶揄するような映画が後に多数出てきたし、当の007シリーズも、時代の流れによって形を変えていった。特に2000年代になってボーンシリーズがスパイ映画の新境地を拓いてから、大分スパイ映画も大分様変わりしてきた。 それはそれで時代の流れとして仕方ないところもあるのだが、昔のスパイ映画が好きな人間にしては、何か寂しい思いをさせられてきたものだ。 そんな時に不意に現れた本作は、それらの溜飲を思い切り下げさせてくれる、まさしくイギリス流古き良きスパイ映画って感じだった。 物語の設定自体は地球規模の大がかりなもので、ユーモアも多く、古き良きイギリス人たらんことを一種の皮肉を用いて演出してるのも良い。とにかく劇中イギリスを思わせるアイコンがやたら沢山出てくる。例えばそれはパブでギネスを飲むという行為であり、エグジーの実家の小さな集合住宅であり、オーダーメイドの服であり、傘であり、犬である。又、どの大学を出たかでその人物の価値を見定めてしまう不遜さもやはりアイコンとして機能してる。それらを程よくユーモアたっぷりに場面に散りばめつつ、どこか悠々としたスパイ活動が描かれていくのが楽しい。画面の一つ一つが、「いかにも」という演出に溢れているので、イギリス好きなら、これは絶対に楽しい。 登場するキャラも基本的にはイギリス人俳優で固め、いかにもそれっぽい行動を取らせるのも観ていて楽しい。その典型的例がアメリカ人富豪ヴァレンタインとハリーの食事シーンだろう。背伸びする気持ちが全く無いヴァレンタインは、おそらくは動くのが楽という理由だけでパーカーとスニーカー姿。対するハリーはバシッとスーツで決め、食事も作法通りに行おうとするところ、そこでいきなりハンバーガーが現れる。それに対し、平然とした口調で応対する。自分達の仲間に対して礼儀作法を事細かく語り、自分自身は徹底して「紳士たるべし」と言い聞かせているからこそ出来る作法がそこにはある。 こう言った細かいところに本作の本当の楽しさがある。 そして本作ではコリン・ファースの名演が光る。主人公はエガートンだけど、そんなもん完全に食ってしまい、ヴェテランエージェントとして、見事な紳士ぶり、そして見事なアクションを見せてくれた。この人基本的に表情が硬いので、感情の起伏をあまり見せないハリー役にはうってつけだし、「これぞイギリス紳士」という格好良さに溢れた魅力を存分に発揮していた。流石『英国王のスピーチ』(2010)で国王演じただけの力量がある。しかも脇にマイケル・ケインが控えてるってだけで、もう「本当に分かってらっしゃる」って感じでもある。主人公のエガートンも、スーツを着ていると言うよりスーツに着られてる感じの初々しさが見事にはまってる。 ところで本作を語る上で一つ大きなキーワードがある。“manner makes man”という言葉で、字幕では「マナーが人を作る」となってるが、この訳はちょっと惜しいかな?ネットで見かけたため、自分の主張でないので恐縮だが、これはやっぱり「礼節こそが人を人たらしめる」とした方がぐっとイギリス紳士らしい言い方になる。 |
X-MEN:ファースト・ジェネレーション 2011 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2011Moviefone上半期ベスト第5位 2011MTVベスト第6位 2011興収トップ第17位 2011タランティーノベスト第5位、脚色賞 2011ナショナル・ボード・オブ・レビュースポットライト賞(ファスベンダー) 2011タランティーノベスト第5位、脚色賞 2011タイム俳優2位(ファスベンダー) 2012サターンメイクアップ賞、SF映画賞 |
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1960年代。人類とは一線を画す能力を持ったミュータントが次々と誕生していた。そんな中、強力なテレパシストで、ミュータントと人間の共生を願うチャールズ・エグゼビア(マカヴォイ)は、政府と協力してミュータントの保護組織を作ろうと活動していた。そんな中、幼い頃に母親と引き裂かれ、復讐に生きる磁力使いのミュータント、エリック・レーンシャー(ファスベンダー)と出会う。水と油の二人だが、同じマイノリティのミュータントという絆で次第に友情を育んでいくチャールズとエリック。そんな2人の前に、世界征服を企むミュータント、セバスチャン(ベーコン)が立ちはだかる。かつてセバスチャンによって母を殺され、自身も激しい傷を負ったエリックは憎悪むき出しで立ち向かうが… 新世代となり早10年が経過したが、その間に山ほどヒーローものの映画が出来てきた。その中にあって『スパイダーマン』と共にヒーロー映画を確立していった『X-MEN』シリーズを忘れてはいけない。 物語そのものは第3作を以て一応の完結を見たわけだが、その後も次々と企画は立ち上がり、『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』(2009)を経た後、今度は宿敵マグニートとプロフェッサーXの確執を描く話が作られた。時間軸的には『ウルヴァリン』の物語と重なっているためどちらが早いのかやや混乱があるものの、殊「X-MEN」という組織そのものについては、これが一番早い物語になる。 本作はマグニートとプロフェッサーXという二人の主人公を配し、その友情が確執に変わるまでを描いていくことになる。チャールズと呼ばれたミュータントがプロフェッサーXとなり、エリックと呼ばれたミュータントがマグニートとなる。この名前の変化と共に、二人の関係は変化していく。本作のおもしろい点は、この二人の関係を物語の中心に置いたと言う点にこそある。徹底的に陽性に物事を考えつつ、ミュータントと人間の共存を図るチャールズと、復讐のみを心の糧として生きてきたエリックがいかにして親友となったか、そして別れに至ったのか、様々なミュータントを間に挟みつつ、二人の関係の変化を描く。 それで本作のおもしろいところは、物語が基本的にポジティヴ・シンキングで描かれているという点にあるだろう。これは本作の大きな特徴であり、成功点である。 超能力ものの作品だと、大概は主人公の描き方はネガティヴである。望んでもいない特殊能力を何者からか勝手に押しつけられ、それを持て余すのが基本的な超能力作品の作り方。どれだけ人を助けようとも、地球の危機を救おうとも、その時には協力した人間からやがて石もて追われるのが超能力者の宿命とされる(『座頭市』とか『木枯し紋次郎』にも通じる)。 本作も作りようによっては、そっちの方向性に持っていくことは出来たし、その方が定番の分、楽だっただろう。やり方としては、単純にエリックを話の中心にすれば良かっただけだ。 だが本作のウェイトは明らかにチャールズの方にかかっている。ミュータントを世の役に立てようとする理想主義のチャールズは、どんな事があろうと、決して絶望しない。なんかここまでやると、チャールズには心に欠陥があるんじゃないか?と言うレベル(原作を読んでいる人なら分かるが、実際は彼の幼少時代は他のミュータント同様いくつもの迫害を受けてきており、特に家族関係はぼろぼろと言う裏設定はある)。その辺をわざと曖昧にして作ったのは、一つの狙いだろう。お陰でこの物語は決してマイナスの方向性にぶれることなく、チャールズの理想論が最後まで有効に働いている。さすがあのポジティヴ・シンキングの固まり『キック・アス』を作り上げたヴォーン監督。見事な出来である。 又、先発の監督たちにきちんと敬意を表している描写がそこかしこに出ているのもポイントが高い。チャールズのミュータント捜索の際、見知ったキャラの幼少時代がちらっと出てきたり、ウルヴァリン役のジャックマンにカメオ出演させてみたり、はたまたチャールズとエリックの仲違いが決してマイナスだけではないと言うこととか(『X-MEN:ファイナル ディシジョン』(2006)で二人が揃ってジーンの家を訪れるシーンがあったけど、それはこの後も二人が協力する事があったと言う伏線になってる)。そういった細かい配慮も行き届いている辺り、監督と脚本の連携の巧さを感じ取ることが出来る。『キック・アス』の時もただ者じゃないと思ったけど、本作で見事に才能を引き出して見せてくれた。 そういう意味で本作はかなり満足度は高い。 ただ、本作で評価が今一つ伸びなかったのは、これまでの作品とは異なり、終わりが見えていたため、プログラムピクチャーでしか無かったと言うことだろうか。プロフェッサーXとマグニートは何があろうと最後は袂を分かち敵になるし、ミスティークはマグニート側につく。そこに向かっているのが分かっているので、全く驚きが無かった。 後、あの予告は失敗だな。正直あの予告観たら、物語が最後まで丸分かり。良い作品だけど、驚きが全く無かったので、点数はやや低めとなってしまう。 |
キック・アス 2010 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010放送映画批評家協会若手俳優賞(モレッツ)、アクション映画賞 2010スクリーム・アワードブレイクアウト女優賞(モレッツ) 2010タイム第7位 2010エンパイア映画界の新星女優(モレッツ) 2010タランティーノベスト第11位 2010ジェイムソン・エンパイア英国作品賞 2010ジェイムソン・エンパイア新人賞(モレッツ) 2010映画com.ベスト第1位 2010キングベスト第6位 2010タランティーノベスト第11位 2010違法ダウンロードされた映画第2位 2011MTVムービー・アワードブレイクアウト・スター賞(ペイジ)、格闘シーン賞 2011サターンホラー/サスペンス作品賞 2011コメディ・セントラル作品賞、女優賞(モレッツ)、監督賞、脚本賞 |
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スーパーヒーローに憧れる高校生デイヴ(ジョンソン)は、インターネットで手に入れた緑色のコスチュームを身に纏い、ヒーロー"キック・アス"として街に繰り出すが、見事チンピラにボコボコにされ重傷を負ってしまう。その治療の結果、神経の損傷で痛みに鈍感になったデイヴは無類の打たれ強さを身につけていた。そしてパトロールを再開し、チンピラと殴り合っているところがネットの動画に投稿されてしまう。一気に時のヒーローとなったキック・アスだが、地元マフィアのダミコ(ストロング)は最近起きている組織の切り崩し工作を彼の仕業と勘違いしてしまう。実はキック・アスの活躍に紛れ、影で別のヒーローが暗躍していたのだ。"ビッグ・ダディ"(ケイジ)と、彼の愛娘"ヒット・ガール"(モレッツ)は、都合良く現れたキック・アスを表のヒーローとして祭り上げようと考える。複雑な思いが絡み合う中、デイヴは憧れの同級生ケイティ(フォンセカ)が自分に興味を持ち始めたことに有頂天で… これは正直結構観るには覚悟が必要だった。「とてもおもしろい」と言う噂は聞いていたし、ヒーローものはやっぱり押さえておきたいと言う思いはあったものの、なんか痛々しいもの見せられるんじゃないか?と結構恐々と… で、困った。本当におもしろいのだ。ただ、これを素直に「面白い」と言ってしまったら、なんかこれまで自分が積み上げてきたものを崩してしまいそうな気持ちになってきた。 理由としていくつか挙げてみよう。 一つ。本作をキック・アスだけを焦点にして考えてみると、これは『タクシードライバー』(1976)の模倣にすぎないこと。デイヴはトラヴィスのような強烈な個性あるいは求めるものがないため、本当に単なる“模倣”であり、悪い意味での70年代邦画っぽい感じが抜けないこと。 一つ。年端もいかない女の子に「○○○○野郎」とか「腐れ×××」とかモロの台詞にはさすがに引いた。なんか自分の美意識にあわないと言うか、逆にそれで燃えてしまう自分が嫌というか… 一つ。この話だとヒーローが単なる殺人者になってしまうと言う問題。悪人を殺せばそれだけでヒーローになってしまうという短絡的思考になりかねない。リアルな話ならそれもありかもしれないけど(ブロンソンの『狼よさらば』(1974)みたいなのだったり、それこそ『タクシードライバー』だったら)、ファンタジー性の強い話だから、その分違和感をどうしても感じてしまって… それで二、三日考えていたのだが、やっぱり素直に言おう。 「これは面白い」 正直、この作品が多分痛々しいものになるだろうことは、最初から分かっていた。 だって何の力も持たないヒーローオタクが中二病丸出しで活躍して、それがマスコミに取り上げられてヒーローに祭り上げられてしまうなんて、そんなどこかで観たようなものを又見せられるのか?それもう『タクシードライバー』(1976)でやったし、ヒーローものとしても『ゼブラーマン』(2003)で充分だよ。と言う気持ちだった。 だけど、これは少し違った。いや、メインストーリーに関してはそのものなのだが、ここに殺し屋のビッグ・ダディとヒット・ガールの父娘が加わったことで、全く違った様相を見せているのだ。 本来この二つの物語は別個のものである。どちらもB級そのものとは言え、単独で作っても全く問題はなかった。ところがこの二つ、たった一つマスクヒーローと言うだけでつながったこの関係が物語上、化学変化を起こした。 これにより、ヒーローオタクのデイヴは自分には踏み込んではならない領域があることを認識させられつつ、敢えてそこに踏み込まねばならないところに追い込まれ、父娘は、単なる隠れ蓑でしかなかったキック・アスを最終的には頼りに復讐を成し遂げていくことになる。この二つの物語が合わさったお陰で、物語は先が見えないものへと変化していった。しかも二つの物語の融合がここまで見事にはまってる。ここまでくると賞賛するしかなかろう。 そして私にとってはここが重要なのだが、本作はヒーロー論に深く関わった話でもある。ヒーローオタクであるデイヴからヒーローとは「覚悟である」と最初に言われており、その通りデイヴはたった一人の自警団となって活躍するようになる。彼には本当に何の力もないので、その活躍と言ってもせいぜい最初の一撃を不意打ちで成功させるくらいしかない。後は危機に陥ったら警察を呼ぶとか。だけど、そんな彼が、いつの間にやらイメージだけ突出し、やがて本物のヒーローになっていく。これって実は『ウォッチメン』(2009)で描かれたヒーローの誕生と同じだった。ヒーローの「その後の話」を描いたのが『ウォッチメン』なら、ヒーローの誕生を描いたのが本作だといっても良いだろう。つまりこれは、ヒーローになる動機なんてものは誰しも似通ったものであり、それこそ「覚悟」があれば出来てしまうと言うこと。日本の特撮の場合、ヒーローの大半はなろうとしてなったものではない。むしろ“ならされてしまう”ことの方が多いので、かなり新鮮な思いにさせられた。と言うか、こっちの方が普通(?)なのかな? それと、本作の場合メディアの力が相当に強い。デイヴは確かに痛々しい奴で、やってることも痛々しいが、それを撮影され、YouTubeに投稿されることで一躍有名人にされてしまうし、ヒーローを引きずり落とそうとするのもやはり撮影を中継することによって。今やヒーローなんて簡単になれるものなのかもしれない。そう考えると、一般人にとっても今は怖い時代でもある。 キャラに関しては、文句なし。ビッグ・ダディ役のケイジにとってもこの役は大満足だっただろうし(皮肉なことにずっとなりたかったスーパーマンではなくバットマンの方だったが)、すごく生き生きしていた。でもなんといってもヒット・ガール役のクロエ・グレース・モレッツが見事なほどのはまり具合。まあ何の躊躇もなしに悪人をばっさばっさ切り刻んだり、テレビでは流せない台詞にはちょっと引いたけど、それがすごくはまってるのも事実。主人公…はどうでもいいか。なんか巻き毛眼鏡ってのは、痛々しさを増すってことが分かったことくらいか? 色々考えてみたが、久々に“本当は褒めてはいけないのに褒めざるを得ない”作品に出会えたので、それで充分。 最後に一つだけ。実は現在のハリウッドはこう言った残酷描写の多い作品はなかなか作れない状況にあるらしい(製作配給がアメリカだけで出来た『スペル』(2009)は相当の例外)。ところが現在アメリカでヒットを飛ばす作品は残酷描写が多い作品ばかり。そういった作品は資本を出すのはアメリカだが、製作元としてスペインとかメキシコ、あるいは日本と言った国が選ばれることが多い(ちなみに日本の作品だと井口昇監督の『片腕マシンガール』(2007)、『ロボゲイシャ』がこの過程作られてる)、本作は全編アメリカを舞台としている。そんな事もあって、これだけの描写やってくれて、「ハリウッドやるじゃん」と思ったら、最後に分かったが、製作会社はイギリスだった。 なるほどイギリスもこう言うの大丈夫なんだ。これからイギリス製作の娯楽映画が増えるんじゃないか?と思えてきた。多分これからますます海外製作作品は増えてくるだろう。その意味では逆にハリウッドの低迷ぶりを感じさせてくれる作品でもあり。 |