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_(書籍) _(書籍) |
2023 | バービー 監督・製作総指揮・脚本 | |
2022 | ||
2021 | ||
2020 | ||
2019 | ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 監督・脚本 | |
2018 | ||
2017 | ||
2016 | ||
2015 | ||
2014 | ||
2013 | ||
2012 | フランシス・ハ 脚本・出演 | |
ローマでアモーレ 出演 | ||
サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ 出演 | ||
29歳からの恋とセックス 出演 | ||
2011 | ミスター・アーサー 出演 | |
抱きたいカンケイ 出演 | ||
ダムゼル・イン・ディストレス バイオレットの青春セラピー 出演 | ||
2010 | ベン・スティラー 人生は最悪だ! 出演 | |
2009 | ||
2008 | ||
2007 | ハンナだけど、生きていく! 脚本・出演 | |
2006 | ||
2005 | ||
2004 | ||
2003 | ||
2002 | ||
2001 | ||
2000 | ||
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | 8'4 カリフォルニア州サクラメントで誕生 |
バービー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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様々なタイプ、職種のバービーとケンたちが暮らすバービーワールド。そこには何の秘密もなく、みんなが毎日充実して過ごしていた。ところが最も基本的なバービー(ロビー)は自分が不完全な存在である事に突然気づいてしまった。途端に不安に襲われてしまい、バービーランドが楽しくなくなってしまう。そこで別の世界を知る“変てこバービー”に相談したところ、バービーの持ち主の女の子と出会って彼女の問題を解決することで不安は解消され完璧な自分に戻れると言われる。を持ち掛ける。そこで人間の世界へと向かうバービーだが、その車にはバービーに恋するケン(ライアン)も同乗していた。 2023年になって、色々映画を観ている内に、変な予告が流れるようになった。なんとあのバービーを主役とした映画が作られるというのだ。予告観る限りピンクとパステルブルーの画面で、なんかこの彩色はちょっときつそうだし、私は全くそっちは疎く、「こち亀」で蘊蓄話を読んだ程度の知識しかないので、当初はスルー予定だった。 しかし上映近くなったらX(Twitter)に次々と絶賛コメントが上がり、これは観ておかねばと思い直して拝見してきた。 それでこれ、色んな意味で情報の塊みたいな作品だった。 本作は映画好きにとって、これまでの多くの映画で出されていたテーマをいくつも出している。オープニングの『2001年宇宙の旅』(1968)と、劇中に出てくる『ゴッドファーザー』(1972)は分かりやすいが、他にも多くの映画の引用やオマージュがあり、本当に監督って映画好きなのがよく分かる。 そして何より社会的なメッセージを色濃く持っているのが本作の最大特徴となる。 社会的なメッセージというと、概ね映画は二つの方向性に分かれる。簡単に言えば保守的なものを良しとするか、革新的なものを良しとするかというものなのだが、映画の場合は、映画作りは自由であってほしいというメッセージを込めるため、その大部分は革新的なものになる。だが完全に理想的な世界の中に住んでいる場合どうなるのか。そこに踏み込んでみた結果、革新でも保守でもない。しかしメッセージ性の強い作品が出来上がった。 かつてディズニーが『ズートピア』(2016)で一歩踏み出してみせたが、本作もそれに近いものがある。 最初の舞台バービーランドというのは、今まさに子ども達が遊んでいるバービー達が住むところ。世界中にバービーの保有者がいるのだから、その数だけバービーも存在する。そしてここは完全なる平等の世界である。男女の区別はなく、むしろ圧倒的多数を占める女性の方が国を担う立場で、男性型のケンたちは彼女たちをサポートというより、何もしない添え物としてだけ存在している。彼女ら彼らは、誰に見られても構わないプライベートもないし恥ずかしさもない。ある意味ではこれは究極の平等世界で、理想的な世界でもある。 しかしこの理想というのは歪んでもいる。バービー達は飲み食いが必要無く、政治や労働も真似事に過ぎない。ただ存在し、毎日生産的なことを一切せずに暮らしていく。そこには生活というものが全く存在せず、理想的なのは表面だけの仮想世界に過ぎない。 しかしその世界を脅かす事件が起きた時、バービーはこのままではいけないと気づく。既に彼女には漠然とした不安があったのだが、それが表面化した時、むしろ彼女は喜んで世界の謎を解明に出かける。 この時点で本作はSFによくあるディストピアものの定式に則った作品であることが分かる。理想的な社会だと思い込もうとしていた人物が、社会のほころびを目撃することで世界を変えていくというもの。これはテーマとしては普遍的なもので、数多くの作品が作られている(ほとんど全ては主人公が世界の枠組みからはみ出て、外から世界を変えるヒーローものに仕上げられているが、その最初の作品であるジョージ・オーウェルの『1984』(1984)は全く逆を描いているのが皮肉でもある)。それこそこの時点で『ズートピア』的な方向へと向かうのが定式となる。 しかしそれは上手くいかない。それどころかバービーは、現実世界がバービーを古くさいものとして捉えているという事実を突きつけられるだけ。彼女が思う理想世界は既に古いものになってしまっていたのだ。 この時点で、話はどうなっていくのか混沌としていく。 バービーは昔の理想的な世界を作りたいと願う。しかしそれはあくまで虚構の世界に過ぎないことも分かってしまった。分かった以上、同じ世界に戻すことは出来ない。では現実世界はどうかと言うと、バービーの玩具メーカーであるマテルははっきりした男性優位社会で、理想どころか完全に差別的な世界である。更に人間社会で断片的に情報を得たケンは、現実とは全く違うが、虚構の世界の中に、男は勝手に生きていて良く、女はそれを受け入れる社会というものを作り上げる。ここで複数の価値観がぶつかるカオス状態へと変わる。 通常こう言う場合、シンプルさが求められる。つまり倫理的な正しさこそが正義で、その倫理に従う人間こそがリーダーとなる。 そうなれば単純であり、分かりやすくなる。 しかし本作はそれを採らない。バービー自身が悩みの中にいて、何が正しいのか価値観が揺らいでいるからである。バービーの価値観こそがカオス化した物語をまとめるはずなのに、バービーが価値観を決めあぐねるという状況に陥っている。 正しさが分からない状況で、バービーが一体何を選択するのかが本作の重要さとなる。 この部分が重要なのだが、実はバービーは具体的な結論を出していない。彼女の決断は、これから自ら色んなことを体験することで、自らの道を探すというものだった。 しかしこの点こそが本作で重要な部分だ。人間は成長していくし、常に変わり続ける。その変化を良しとしたことで、本作は女の子の成長の途中を描いたものとなる。 まさしくこれは弁証法そのものを映画にしたものとなった。 これを中途半端と見る人もいるだろうけど、監督の狙いはまさにその成長過程だったと見るなら、本作は大変面白いものとなる。 |
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ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 Little Women |
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2019放送映画批評家協会脚色賞、作品賞、主演女優賞(ローナン)、助演女優賞(ピュー)、アンサンブル演技賞、監督賞、美術賞、衣装デザイン賞、音楽賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ニューヨークで家庭教師をしながら作家を目指すジョー・マーチー(ローナン)は、ようやく雑誌掲載が決まり、これからと言う時に、ペンシルヴェニアの故郷に残した妹のベス(スカンレン)の病気が重いという手紙をもらう。一度家に帰ることにしたが、そこで昔暮らした家のことを思い起こす。しっかり者だが結婚を急ぐ姉のメグ(ワトソン)、頑固なもう一人の妹エイミー(ピュー)と共に暮らした日々。その中にはお隣さんの幼なじみローリー(シャラメ)の姿もあった。 アメリカの女流作家の先駆けオルコットによる小説「若草物語」はこれまで何度となく映画化されたり、テレビドラマ化されたり、日本ではアニメにまでなるという大人気の作品である。 私自身も原作は読んでいるが、多分読んだのは小学生の時だったかと記憶してる。ほとんど記憶から抜けているけど、内容はとても他愛のない物語だったはず。むしろ後書きの説明の方を読んで「そう言う事だったのか」と思った記憶があった。 その内容は、この作品はアメリカの田舎のノスタルジーとして受け入れられたという事と、著者のオルコットが子どもの頃、妹を病気で失ったことから、その悲しみを癒やすことも含めて妹が生きている物語を描いたという事。それでこの作品の意味合いを知ったという記憶がある。 ここで重要なのは、原作はオールコット自身の思い出話がベースである事と、本当は死んでしまった妹のベスが作品ではちゃんと回復しているという事。更に言うなら、オールコットは生涯独身を貫いたという事実も抑えておく必要はある。 これを前提にして本作を観ると、色々頭が混乱する。 まず本作はメインとして少女時代とジョーの作家時代の二つの時代にいくつかの時代を足して様々な時代をザッピングしているが、全く説明なしに時間と空間が飛ぶので、それについて行くだけでいっぱいいっぱい。でもそんな混乱を脳内で色々つなぎ合わせていくと観てるだけで楽しい。時代の飛び方もちゃんと計算されていて、物語の進行のために使われているので、様々な伏線が劇中で解きほぐされていくのも脳が喜ぶ。 使い古された物語をそのまま映画にするのではなく、こんな工夫をして飽きさせない物語に仕上げてくれたのはとてもありがたい。 ただそれは良いのだが、観続けているといろんな違和感が生じる。 まずベスの死について。「若草物語」自体オルコットが妹の死を乗り越えるためにベスを生き残らせることを目的として描いたもののはず。しかし本作ではベスはなくなってしまい、実際にオルコットが体験したように描写される。 この時点で創作の「若草物語」と実際にオルコットに起こったことが融合している。 ではそのまま融合するのか?というとそうではないところがややこしい。 原作にはない恋愛話に時間が取られ、更に現在進行形で本の出版のための交渉が続く。ジョーはオルコットの分身として考えるならば、これは「若草物語」の舞台を借りてオルコットを描く話になるのだが、オルコット自身は独身を通してきたはず。 ここで重要になるのが出版社の担当の台詞である。彼は「売れる」ことのみを重要視するので、事実よりも創作、もっと言えばハッピーエンドを求める。 その結果、なんとジョーは、突然出てきた男と突然結婚してしまう。これまで本当に好きだったローリーに向かって「絶対結婚しない」と主張していたのは一体何だったの?というレベルの唐突さである。 しかしここで私は心の中で大笑いしてしまった。 とってつけたような都合の良すぎるラストシーンに覚えがあった。そう。これはアルトマンの『ザ・プレイヤー』(1992)だ。物語にリアリティではなく、スポンサーと大衆迎合のプロデューサーの意向によって物語は簡単に変えられ、無理矢理のハッピーエンドに押し込まれる皮肉がそのままラストシーンになってる。 なるほど今更古い作品を作ることの意味合いを変えるために敢えて皮肉を込めたか。なかなか監督やりおる。 この皮肉なラストあってこそ、本作は実に映える作品だとよく分かった。 |
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