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1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | 刑事コロンボ 闘牛士の栄光 監督 | |
刑事コロンボ ハッサン・サラーの反逆 監督 | ||
キャッシュ 監督 | ||
1974 | ||
1973 | 青い接触 監督 | |
ダーティハリー2 監督 | ||
1972 | ザ・ベイビー/呪われた密室の恐怖 監督 | |
1971 | インディアン大襲撃/突撃!荒野の騎兵隊 監督 | |
狙われた五人の美女 監督 | ||
1970 | 真夜中の目撃者 監督 | |
続・猿の惑星 監督 | ||
1969 | ||
1968 | 奴らを高く吊るせ! 監督 | |
1967 | ||
1966 | コンバット(5th)<TV> 監督 | |
1965 | コンバット(4th)<TV> 監督 | |
1964 | コンバット(3rd)<TV> 監督 | |
1963 | コンバット(2nd)<TV> 監督 | |
1962 | コンバット(1st)<TV> 監督 | |
1961 | ||
1960 | ||
1959 | 拳銃に泣くトム・ドーリイ 監督 | |
1958 | ||
1957 | ||
1956 | 夜鷹のジョニイ 監督 | |
1955 | ||
1954 | ||
1953 | ||
1952 | ||
1951 | ||
1950 | ||
1949 | ||
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1940 | ||
1939 | ||
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1925 | ||
1924 | ||
1923 | ||
1922 | ||
1921 | ||
1920 | ||
1919 | ||
1918 | 3'31 ニューヨークで誕生 |
刑事コロンボ 闘牛士の栄光 1975 | |||||||||||||||||||||||||||
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かつて偉大な闘牛士として名を馳せたモントーヤ(モンタルバン)は、昔からの友人で今は金銭上のパートナーが気性の荒い牛と向かい合っているところを麻酔銃で撃ち、事故に見せかけて殺害する。偶然メキシコ旅行中、車の接触事故を起こしてしまったコロンボ(フォーク)は、現地警察からその事件の協力を要請されるのだが、現場の状況から殺人であると断定する。だが殺人の動機がどうしても分からなかった… 今回舞台はメキシコ。どうやら29作の『刑事コロンボ 歌声の消えた海』(1974)でカミさんと一緒に旅行に出かけた先らしい。メキシコらしく闘牛士が中心となるのが特徴。 コロンボ登場から警察間のやりとりがなかなか面白く、事故処理に便宜を図る代わりに協力せよ。というメキシコの警察官に対し、「それは脅迫だよ」とかぼやくコロンボの姿が見られる。 今回は珍しく、捜査すべき事の一部(具体的には動機)が謎のままで、それを調査していくというのが一つのミソになっているのが特徴なのだが、その動機がわざわざ謎にするほどのものでないと言うのがちょっと残念。それに今回の調査はちょっとあっけなさ過ぎたし。折角アウェイで、しかも闘牛士まで出してるんだから、その辺をもうちょっとうまく突っ込んだ作品にしてほしかった。 原案はラリー・コーエン。 |
刑事コロンボ ハッサン・サラーの反逆 1975 | |||||||||||||||||||||||||||
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アラブのアメリカ駐在大使ハラー(エリゾンド)は、若き国王の政策に反対しており、国王に罪を着せるため、警備隊長を殺害。犯行に利用した部下までも口封じのために殺してしまった。その死体を調べたコロンボ(フォーク)は、早々にこれがサラーの行いであることを確信するのだが、サラーは外交官特権を使ってくる… コロンボはシリーズ作品だけに本当に様々な犯人が登場するが、今度のは何せ外交特権を使える立場にあるため、いくら犯人だと分かっても逮捕出来ないというもどかしさが本作の身上。そのため、犯人の確定は早々に。そして息詰まる会話術の展開へと変わっていく。これが本シリーズの面白さを端的に示した話とも言えよう。相変わらずすっとぼけた行動をしながらも的確に相手を追いつめ、最後には外交特権という伝家の宝刀までも無力化させてしまうコロンボの手腕は見事。何せ最後は「帰国したら殺されてしまう」とか言って、むしろアメリカで逮捕されることを懇願までしてくるんだから、ラストはなかなかに痛快。 ただ、中東外交官役にアメリカ人のエリゾンドを持ってきたのはいかがなものか?それに今ひとつ憎々しさを演出しきれなかった感もあり。徹底的に嫌味な相手だったら、ラストのオチももっと映えたんだけどね。流石に国際問題をネタにするんだったら、これが限界か。ちょいと不穏当な発言かな? |
ダーティハリー2 1973 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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サンフランシスコで法では裁けぬ悪人達が次々と殺される事件が起こる。サンフランシスコ警察のハリー=キャラハン刑事(イーストウッド)も捜査に駆り出されるが、残虐な殺人は周囲の見境無しに次々と起こり続け、パトロール中のハリーの友人チャーリー(ライアン)までもが射殺されてしまう。犯人の尻尾を捕まえたハリーだったが、その犯人は彼にとっても以外な人物だった… 『ダーティハリー』(1971)で頭角を現したイーストウッド主演作の第2作で、大ヒットした前作を受けて本作もヒット。1974年全米興行成績4位。 一作目『ダーティハリー』は確かに素晴らしい作品だったが、これは実はこの手の作品が初めてだから、その衝撃が強かったお陰だろう。実際今更になって考えてみると、演出などかなり泥臭い部分が見え隠れ。それに対し、本作の場合はもっと洗練されている(これは一方では凡百な刑事物語となんら変わりがないという意味でもあるけど)。改めて考えてみると、一作目よりも更に“ダーティ”という部分が主題になった作品である事が分かってくる。 ところで“クリーン”と“ダーティ”は“正義”と“悪”と同義語だろうか? テレビの特撮番組や時代劇など観ていると、その辺はかなり明確に同一視されている。悪人ははっきりと“悪”を行い、人を苦しめ、そして自分が薄汚れた存在であり、悪であることを知っている。それに対抗する主人公が“正義”であり、悪は容赦なく滅ぼして構わない存在である。 しかし現実世界ではどうか?(勿論私も含め)誰しも小さな悪を行っているのだし、正義のふりして見えない相手を糾弾することはあっても、現実に社会悪を見ても“必要悪”として見て見ぬふりをしたり、時として半分無意識で悪に荷担していたりもするものだ…最近のネット社会にはそう言う“正義”が溢れている一方、本当に現実生活で正義を行うことを恐れてもいる。ハリウッドではかつて赤狩りという負の歴史があるが、その時に間違っていると、誰も言えなかったという事実もあった。 本作の犯人である白バイ警官達は、極めてクリーンである。彼らは悪を認めず、見返りも求めずに悪の撲滅を目指している(ラストで本当はそうでなかったことが発覚するのだが)。一方、ハリーに代表される警察の主立った連中は悪があることを知っていても、それに手出しをしない。いや、出来ない。法の番人と言われる彼らも、そう言う意味では“クリーン”ではない。 ハリーは警察組織の中ではいくら“ダーティ”というあだ名を付けられていても、本当の“正義”というものを求めている存在である。だからこそ、“クリーン”な“正義”を求める白バイ警官の連中からの誘いもあった。ただし、彼はいくら“正義”を求めていても“クリーン”にはなれない。 この葛藤を観ている側が考えさせられるからこそ、本作はとても面白い。単なる勧善懲悪ではなく、悪と正義、クリーンとダーティの狭間を垣間見させてくれる。 結果的にハリーは自分自身を“ダーティ”なままで受け入れる。この世界が何も変わらず、自分のしていることが対処療法でしかないとしても、それでもその“ダーティ”の中で“正義”を貫く事を選び取るのだ。その姿が又格好良いのだ。その姿に限っては、一作目よりも明確な格好良さを持っていた。 実際、その狭間で人間は生きていくしかないんだよな。 演出は一作目と較べるとかなり洗練されているが、ニューシネマの影響を受けてか、過剰な演出よりも、スタントによる生の演出を心がけているのも評価としては高い。人間が出来るアクションに止まっているからこそ、リアリティがあるってもんだ。 |
続・猿の惑星 1970 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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猿の闊歩するこの星は未来の地球であった。その衝撃冷めやらぬうち、テイラー(ヘストン)は猿の軍団に追われ、同じ囚人であったノヴァ(ハリソン)と共に逃亡を続けていた。彼らから逃れるため、禁断の地を突き進むが、彼らの前に突如天変地異現象が起こり、テイラーは連れ去られてしまう。一方、宇宙船に待機していたブレント(フランシスカス)は、ノヴァと出会い、彼女を保護する穏健な猿の夫婦ジーラ(ハンター)とコーネリアス(ワトソン)によってこの世界の事情を知らされる… 衝撃的なラストを迎えた第1作『猿の惑星』(1968)から2年。あのラストの虚しさは映画史に残る衝撃で、これで終わりかと思ったら、まさかの続編。実際1作目でもふんどし一丁というヘストンは「よくやるわ」とか言われていたものだが、まさか続いて登場するとは思いもせず。 一作目は日本人嫌いの原作者ブースによって、猿=日本人という悪意をもった形式で作られていたのは有名な話だが、それが映画になると、民族云々よりも、冷戦構造の中でどれだけ人間同士のコミュニケーションが難しいか。と言う事が主題になっていたように思えるが、わざわざ本作を続けたのは、その社会的な側面をもう少し掘り下げてみようと思っての事だったのかもしれない。今回はやはり冷戦構造下での核の恐ろしさを強調しようとして作られてることはよく分かる。 そう言う意味で意気は高かったのだが、物語の出来自体が胡散臭いだけで終わってしまったのが問題。話もいきなり地下人間なるものが出てきて、今までの話の整合性を思い切り崩してるし、しかもあの終わり方もいくら何でもこれは無かろうってレベル。お陰で『猿の惑星』の余韻を全てぶち壊してしまった。確かに一作目を超えるラストである事は分かるが、一作目が“衝撃”なら本作の場合“唖然”だろう。なんで短絡的にこうなるの?と呆然とする事間違いなし。 本作は一応1作目同様ヘストンが主役という事になっているが、実質的に彼が登場しているのは全長の1/3にも満たない。その不在部分を補うためにフランシスカスがもう一人の宇宙飛行士として登場させているが、このお陰で主人公の所在がごちゃごちゃになってしまい、それもバランスの悪さにつながってしまったな。 |
奴らを高く吊るせ! 1968 | |||||||||||||||||||||||||||
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言われない牛泥棒の罪を着せられたカウボーイのジェッド(イーストウッド)は、私刑による縛り首にされてしまうのだが、瀕死の状態を助けられた。私刑を禁じる法律が出来た事で、連邦判事より保安官に任じられたジェットは、自分を縛り首にした九人を探し出し、法の名の下次々に射殺していく。 マカロニウエスタンの傑作『荒野の用心棒』(1964)、『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』(1966)により本国での知名度が一気に上がったイーストウッドのアメリカでの初主演作で、主演となるイーストウッドは製作会社マルパソまで立ち上げている。 元々アメリカのテレビシリーズ「ローンレンジャー」でキャリアを積んだだけに、イーストウッドとしても本作にはかなり期するものがあったのだろう。 特に、主人公の造形には並々ならぬこだわりを感じさせる。これまでマカロニで培ったイーストウッドのイメージは、寡黙で何を考えているのか今ひとつ分かりにくいが、奥の深い人物であるという部分。最初はそう言う役だから演じていたかも知れないが、それがいつの間にか自分自身のキャラクタにまで昇華させられたのだろう。 その寡黙さを継続させながら、ドラマを展開させるために、人間的な弱さを強調したり、様々な部分で躊躇させたりと様々な方法でキャラを造形しており、同じ寡黙さを持ったキャラであっても、マカロニの描写とは大分異なる造形となっているのが本作の特徴。かなりの意味でそれは上手くいっており、これは明らかにイーストウッドのはまり役。以降の作品でも、中身は違えど基本的に見た目同じようになるイーストウッドキャラのアイコンとなった。 ところで本作の設定はかなり無茶がある。 私刑を禁止する法律が出来て、それで私刑を行った人間は罪に科されるというのは分かるんだが、それで殺しまで許可するという極端さは、実際だとかなり無理。結局これって私刑を以て私刑を禁じるって自家中毒起こしてるだけだし。復讐の物語にするんだったら、もうちょっと違ったやり方があった気もするんだよな。しかも国は明らかにジェッドを国家のお墨付きを持った私的処刑人に仕立てようとしてるわけだし、それはかなり無茶苦茶。その分ジェットの立ち位置は何?と言う感覚になってしまい、なんとなくすっきりしない。 ラストでは、「復讐は終わらない」となってるけど、復讐が終わった時は、ジェット自身も又お尋ね者になるのかもしれん。 …実はそれこそがイーストウッドが描きたい矛盾って奴だったのかもしれない。法の名の下に何をしても良い立場の人間と、悪人の差とは、実はほんの些細な部分にしかない。だが、その些細な部分が人間をどう変えるのかという。 |