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童夢(コミック) _(書籍) |
2018 | ||
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2011 | ||
2010 | ||
2009 | ヒピラくん 原作 | |
2008 | ||
2007 | ||
2006 | 蟲師 監督・脚本 | |
新SOS大東京探検隊 原作・原案 | ||
FREEDOM<OVA> キャラクターデザイン・メカニックデザイン | ||
2005 | ||
2004 | ||
2003 | スチームボーイ STEAMBOY 監督・原案・脚本 | |
2002 | ||
2001 | メトロポリス 脚本 | |
2000 | ||
1999 | ||
1998 | スプリガン 総監修 | |
1997 | ||
1996 | ||
1995 | MEMORIES 総監督・監督・製作総指揮・企画・原作・脚色・キャラクター原案・美術・美術監督 | |
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ワールド・アパートメント・ホラー 監督・脚本 | |
老人Z 原作・脚本 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | AKIRA 監督・原作・脚本 | |
SO WHAT 原作 | ||
不可思議物語 FANTASTIC COLLECTION 原作 | ||
1987 | 迷宮物語 「工事中止命令」監督・脚本 | |
ロボットカーニバル 共同監督・絵コンテ・脚本 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | 幻魔大戦 キャラクターデザイン・原画 | |
1982 | ||
1981 | シャッフル 原作 | |
1980 | ||
1979 | 高校エロトピア 赤い制服 原作 | |
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | ||
1969 | ||
1968 | ||
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1961 | ||
1960 | ||
1959 | ||
1958 | ||
1957 | ||
1956 | ||
1955 | ||
1954 | 4'14 宮城県で誕生 |
蟲師 2006 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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明治時代。日本の文明開化が進み始め、少しずつ闇が駆逐されていった時代。そこにはまだ妖しき生き物“蟲”がいた時代でもあった。蟲は人間に取り憑き、不可解な自然現象を引き起こす。蟲の謎を紐解き、蟲に取り憑かれた人々を癒す能力を持つ者は“蟲師”と呼ばれた。そんな蟲師の一人ギンコ(オダギリジョー)は日本中を旅しながら、各地で蟲に冒された人々を癒してきた。そんなある時、彼は虹を捕まえようとする不思議な男虹郎(大森南朋)と出会うのだが、その直後、蟲の力を文字に封じ込める女性・淡幽(蒼井優)の体に変異が起きたとの報せを受ける… 漆原友紀の同名漫画の映画化作品で、これが実写第2作目となる漫画家・アニメ監督家の大友克洋が監督したということでかなりの話題になった。原作は私もそれなりに好きで、何話かは読んでいる。 ただ、ネットの話題は今ひとつ。かなり酷評されていたので、私自身もほとんど期待はせずに鑑賞。 う〜ん。確かに酷評の理由は分かる。私は全部読んでないけど、原作の何話かの話をつなぎ合わせたが、つなぎがあまり良くなく、一見一つ一つの物語が乖離して見えてしまう。物語自体も結構退屈と言えば退屈。虹郎の存在が一見無意味に見えるし、それにギンコの子供時代ヨキがとにかく下手で見てられない。 ただ、これが駄目作品か?と言われると、決してそんなことはない。少なくとも、この物語はある一定の方向性で見ると、「あ、なるほど」と思えるものを持っている。 本作はエンターテインメントとして観るよりは、実はギンコという青年の精神的な物語として見ると面白い。ここに登場する蟲というのが、単なる自然現象ではなく、人間の精神のあり方として見るならば、実は本作の方向性はカウンセリングの過程をしっかりと辿っているのだ。 本作の最大のテーマは“トラウマ”というもの。この言葉は割と簡単に語られることが多いし、私自身もレビューの際には適当な言葉を持ってくるより、これで一括りにすることが多いのだが、厳密に言えば、トラウマとは心的外傷(psychological trauma)のこと。主に幼児期に継続的な暴力や性的虐待を受けたり、あるいは親の死を間近に経験することで起こる。これが人格形成にゆがみを生じさせてしまうことを言う。言わば、本来持つ性質がそれらの外的要因によって歪められてしまった状態のこと。これがあると日常生活にも支障が出るし、普段は隠されていたとしても、何らかの要因でこれが出てしまうと、命の危険さえある。 最初の物語で真火という少女の話を持っていったのは、ギンコの役割は蟲を操ることであると共に、それを用いてトラウマを克服させるカウンセラーとしての役割を持っている事を見せようとしていたのだろう。真火は母親の死を直視することで、自分の中にトラウマを抱え込んだ。蟲のせいとは言っても、それは自分自身が引き込んだものだから、自分でそれを克服しなければならない。ギンコが真火の母親の頭に生えた阿を壊すことで回復したのは、真火がその瞬間母の死を受け入れたから。いわゆるギンコは蟲を使ってスピリチュアル・カウンセリングを施したのだ。 そしてギンコ自身の話に移っていくが、彼の場合はもっと複雑。 彼はヨキと呼ばれた子供の頃の記憶を持っていない。これも蟲のせいにされてはいるものの、これは実は彼自身があまりに辛い過去を持つため、自分自身の記憶に封印を施したからと見ることが出来る。 では何がショックだったのか?それは母親の死と言うこともあっただろうが、蟲師としての先生であるぬいを失ったことの方が大きい。ぬいは自分自身闇の中に沈み込むが、その際、ヨキの左目をくりぬいている。彼女にとって、これはヨキを救うためだったはずだが、ヨキはそれを自分を拒絶したものとして受け取ったのかもしれない。だからトコヤミに支配されてしまい、それを記憶と共に封印した。ここでのトコヤミはギンコにとってはトラウマの象徴。 それでも封印はほぼ完璧なものだったから、あんまり人と関わらないようにしている分には普通に生活出来ていた。 しかし、淡幽の屋敷でギンコは自分の過去を直視せざるを得なくなる。絶対に見たくなかったものを見た瞬間、彼の自我は一旦崩壊してしまった。彼の体から出てくるトコヤミはその象徴であろう。 ただし、崩壊したからと言って、自我そのものが消え去る訳ではない。そこからが彼の本当の癒しへと入っていくのだ。 彼の精神を癒していくのは、彼自身が蟲師であり、人を癒す立場にあったことから。虹郎の「人を癒し自分も癒してる」という言葉は実にその過程をよく表している。トラウマを直視してしまった人間が元に戻るためには時間がかかるが、そこで最も大切なのは、既に確立した日常生活の中で癒していくものなのだから。そこに虹郎が一緒にいたのも大きい。癒しは一人でも得られるが、彼を見つめ、面倒を看てくれる人がいるならば、その効果は非常に大きいのだ。人の闇を見続けるため、カウンセラーは無条件で自分自身を受け入れてくれる人を必要とする。虹郎は何をする訳ではないが、唯一、ギンコの全てを受け入れている。人の癒しにはこれが重要なのだ。 そうして時間をかけつつギンコは自分自身を受け入れていく。彼の心にあったトコヤミがトラウマの象徴であるとすればギンコ“銀蟲”は彼自身の本当の心。それを見つけ出していく。 そしてラストシーン。トラウマに陥った人間に限ったことではないが、人が本当に癒されるのは、実は自分自身の中にある親を“殺す”事によってなされる。人の心には常に親の影があるが、自分の心の中で作り上げた親の姿に影響され続けると、人はいつまでも子供のまま。親は自分自身の心の延長に過ぎないから、自分と同一視してしまう。家庭内暴力というのは、実は自傷行為と変わらない。と言われるのはそのためである(ついでに言えば、日本人は極めてこの親離れが下手な国民とも言われている)。 ギンコはラストシーンで自分の心を支配していた親であったぬいを埋葬する。その時に彼は“銀蟲”という自分自身を受け入れるのだ。 つまり、本作は“蟲”というキーワードを使ったスピリチュアル・カウンセリングそのもの過程が描かれた作品とも言える訳である。そう言う意味では大変優れたものがこの作品には込められている。 ただし。言っちゃなんだが、わざわざそれをわかりにくい物語にしているってのが本作の最大の問題。大友監督の狙いは大変優れているのだけど、物語がそれに付いていかなかったし、分かるように作ろうとしなかった。 例えば『17歳のカルテ』(1999)なんかはその過程を丁寧に辿りつつ、それが観ている側にも分かるように作られていたのだが、ここに来て大友監督の実写での実力不足が露呈してしまった。難しい素材だけに、それが見えてしまう。 傑作になり損ね…以前の問題で、今は全然受け入れられてないみたいだけど、ひょっとしたら10年くらいしたら再評価されるかもしれないね。 |
スチームボーイ STEAM BOY 2003 | |||||||||||||||||||||||
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19世紀のイギリス。マンチェスターの発明家一家スチム家は祖父ロイドと父エドワードがアメリカに渡り、オハラ財団の下で蒸気機関の研究を行っており、息子のレイは町の紡績工場で蒸気機関の技師として働いていた。そんなある日祖父から届いた小包の中には手紙とおかしな金属ボールが入っていた。実はこの金属の球体こそ、超高圧の蒸気を封じ込めた驚異の発明スチームボールだったのだ。これはエネルギーそのものであり、様々な分野に応用が出来るものだった。そのスチームボールを狙うオハラ財団に捕まったレイは、そこで変わり果てた父の姿を目にするのだった。 2004年は劇場用アニメーションの大作が次々と投入された。押井守監督による約10年ぶりの『イノセンス』、そして同じく士郎正宗原作の『APPLESEED アップルシード』、宮崎駿監督による久々の『ハウルの動く城』、そしてその間に挟まれるように大友克洋監督による本作。これらに共通するのは、ファンの熱烈なラブコールに答えてと言うよりは、作家性を大事にして、監督が作りたいものを出してくれた作品達と言うことになるだろう。 ただ、作家性を大切にすると言うことは、視聴者を置き去りにすることにもつながり、これまでに公開された『イノセンス』はいくら一般向けにアピールしようとも、一種のカルト作となり、『APPLESEED アップルシード』は原作ファンの失笑を買った。 それで本作だが… 時というのは残酷なものだ。それが正直な感想。 とりあえず結論は後回しにして、良い部分を挙げてみると、これが結構多い。さすがに手抜きをしない大友監督。画面の綺麗さ、緻密さは唸らせるほどで、特にヴィクトリア朝時代の建造物がほぼ手抜き無しにこれだけ出せるってのは驚かされる。工業時代の下町の汚らしさと万博の表会場の綺麗さが見事に対応していた。これが10年の重みというやつか?アニメだからこそ出来る描写というものを監督が熟知している証拠だ。表現にとことんこだわった点は感動さえ覚える。民族それぞれの描写もしっかりしてた。イギリス人はイギリス人として行動する。その点が明確に描かれていたし、いくら外面は綺麗であっても、霧と臭いを消すことが出来ないため、その点を突っ込んでくれるのも好感を持つ。特に画面では臭いまで伝えることが出来ないので、こういったほんのちょっとした言葉と仕草が大切。アニメーションの演出に関しては、おそらく『イノセンス』よりも更に完成度は高いだろう(ベクトルが違うが)。 ストーリーも軽快。飽きさせることなく最後まで突っ走る。とにかく楽しみたいというならこれは正しい選択だったろう。 又、声優も色々言いたいことはあるけど…一応これでも鈴木杏ファンだから…と言うことで(笑)。中盤から違和感もなくなったし。 …と言うことで、良いところは多々ある。 ただ同時に、悪い部分も、数多くあるのも事実。 10年間構想してきたと言うのは、裏返して言えばストーリーの根幹部分がその時代で止まっていると言うことになり、どうしても古くささを感じてしまう。更に物語をシンプルに、冒険活劇をさせようという発想は良いとしても、監督の毒まで無くしてしまっては、ちょっと寂しい。観てる間は楽しいし、演出も良いんだが、観終わった後に残るものが希薄。スチームボールをそのまま「核」に置き換えてしまうと、結構使い古されたパターンを踏襲してるだけになる。 それにキャラクターが、結局三代に渡る壮大な親子げんかで終わってしまったのも疑問点が残る。結局ロイド、エドワード、レイの三人以外全員存在感が低いんだよな。ヒロインであるはずのスカーレットさえも狂言回しでしかなかったし、最初に登場する母親とガールフレンド(?)は何も活躍せずに終わってしまう。それ以前にマンチェスターでのレイの存在そのものが希薄すぎた。 現実と科学の乖離を題材とするんだったら、もっとねちっこくレイの生活を描写して欲しかった(個人的には喧嘩してダンスキャップかぶせられて反省させられてるレイの姿は大当たりだったが)。本編に食い込むことになっても、日常性をもっとアピールすべきだったと思う。折角の舞台を生かし切れてなかった。それに最後のスチーム城の暴走で、ロンドンに住む人間のパニックが全く描かれてなかった。あれだけの事やったら市民の多くは死んでるはずだろ?戦いの関係者はあれだけ死んでるのに、そっちの描写がないんだもんな。 何より問題は祖父であるロイドの考え方。彼は科学の進歩を夢見ていながら、それが兵器に転用されることをとても嫌がっていた。しかし、考えてみるといくらロイドが研究馬鹿だとしても、オハラ財団が兵器で財をなしていることを知らないわけはないだろうし、それで裏切られたと勘違いして反抗する姿はあまりにもお粗末な姿だった。 それに対する息子のエドワードがあんまりにも簡単に悪に手を染めてしまうのはいかがなもんか?大体最愛の息子が襲われてるのを黙って見てるような人間にしてしまうのも問題。都合良く最後だけ正気に戻るのもわざとらしすぎ。 …と言うことで、ちょっと人物描写がお粗末すぎ。 後、これは褒めるべき部分かもしれないが、『AKIRA』以降の大友監督作品は口パクを言葉とシンクロさせているのが特徴。本作はこれまで以上にそれが上手くできていて、喋っている間、自分の口で確かめてみたが、本当にぴったり言葉と口の形が一致していた…ただし、日本語で。イギリスを舞台とし、英語を喋っているのを日本語に翻訳していると言うのが前提だとすると…登場人物が本当に日本語を喋ってるというのは、ちょっとばかし違和感強すぎない? 設定においても、高圧蒸気を封じ込めたスチームボールの存在そのものがいかがわしすぎ。スチーム城をたった三つのスチームボールで動かすことが出来るかどうかはともかく、要するにスチームボールは内包したスチームを噴出させることでエネルギーを作るわけだから、あっという間に蒸気が無くなってしまって然りだろ?それに、そういう設定だったらあんなに軽いはずが無いじゃないか…あれは科学の名前を借りた魔法だと思うのなら、それでも良いか(笑) そう言えば空飛ぶ機械が出てくるが、ライト兄弟によるライトフライヤー1号が大空へ飛び立ったのは1903年のこと。リリエンタールが散々馬鹿にされつつも空を飛ぼうとしている時代に、はるかに完成した飛行機が登場してるのは…これは狙ったんだろうか? 点数を高くしたいという気持ちと、低くしたいという気持ちが私の中でせめぎ合ってる。いずれにせよ、褒めるべき部分とけなすべき部分が極端に多い作品とだけは言える。 |
MEMORIES 1995 | |||||||||||||||||||||||
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「彼女の想いで」:宇宙ゴミ処理の航行中に受信した救難信号の要請を受け、宇宙に浮かぶバラ型の建造物に侵入する事となった宇宙船乗組員たち。しかしそこはあまりにも恐ろしい場所だった。 「最臭兵器」(監督:岡村天斎):ひょんな事から強力な異臭を放つ最臭兵器と化してしまった男。何も分からないまま首都を目指す男と国家の攻防をコミカルに描く。 「大砲の街」:大砲を撃ちつづけることが日常となっている不条理な街の一日を描く。 3作からなる大友克洋原作・製作総指揮・総監督によるオムニバスアニメーション。 奇しくも押井守による『攻殻機動隊』(1995)と同時期に上映された、アニメ界の重鎮大友克洋による久々のアニメ作品。そのため二つ並んだポスターがあったりするが、今までのアニメーションの限界を超えて描かれた『攻殻機動隊』に対し、どうしても古くさい雰囲気が出てしまったためか、さほどニュースになることなく終わってしまった。まあ実際「古くさい」というのは事実とは言え… この中では「彼女の想いで」のみ私は漫画で読んだが、あるいは大友克洋の漫画ってこれだけだったのかな?その辺は実は未だよく分からない。これだって随分原作からは雰囲気離れてたような気もするけど。 個人的には「最臭兵器」が馬鹿馬鹿しくて一番面白かったかな?「大砲の街」も雰囲気は好き。なんかジョージ=オーウェルの「1984年」を彷彿とさせるものを持ってるし。 |
AKIRA 1988 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1988年、突然の爆発によって関東地区が消失。時を同じくして第3次世界大戦が勃発した。それから30年後の2019年、関東はネオ東京を中心に再建されていた。そして復興の証明とも言える新東京オリンピックを目前としている時、治安は極端に悪化していた。ネオ東京を荒らし回る、金田という少年をリーダーとする暴走族は今夜も他のグループと喧嘩しつつ進入禁止の高速道を疾走していた。しかし、先頭にいた島鉄雄の前に出てきた奇妙な男をよけきれず、鉄雄は転倒してしまい、ラボと呼ばれる連中に拉致されてしまう。鉄雄にある種の“力”があることを察知したラボは鉄雄に様々な実験を行うのだが… 著者の同名漫画の劇場化作品。 鳴り物入りでクランクインされ、それまでのアニメ作品とは較べものにならぬ金額と時間を投入されて作成された作品(データだけで言えば、総作画数16万枚以上というのは、通常の劇場アニメの3倍以上)。その画面の素晴らしさは今観ても凄く、ほんの少しの直しを入れただけのDVD版でも、まるでアニメの最新映像を見ている気分にさせられるほど。セル・アニメにおける最高峰作品であり、“ジャパニメーション”という造語が冠される筆頭作品である。芸能山城組による音楽も素晴らしかった(当時CDを買ったのみならず、芸能山城組のファンにもなったっけ)。 この映画が作られた時はまだ漫画は完結していなかった。未完ながら物語の奥行きがあまりにも深かったため、かなり物語は単純化されているし、何よりAKIRAの位置づけが…(そりゃ、原作を知ってる身としては、あれはあれで衝撃的だったんだけど) それに魅力的なはずのキャラたちがどうにも薄っぺらい存在に見えてしまう部分もあるし。 …明確に「これが悪い」という部分はなく、そつなく作られているんだけど、どうしてか全般的に今ひとつ。少なくとも私に目を見張らせるほどのものがなかった。なぜだか乗り切れないものを感じてしまう。 単にこれは私が押井マニアだから、他のアニメーション作品をけなそうというのではないし、色っぽさがなかったからと言うつもりもない(と思う)。 色々考え、煎じ詰めてみると、これはリアリティに関わるのかも知れない。 アニメーションは虚構の世界だから、視聴者の共感を持たせるためにも、リアリティを出すことは非常に大切だ。リアリティを感じさせず、怒濤の如くストーリーにのめり込ませる方法もあるが、通常、アニメを作る際にはどこかでリアリティを持ち込まねばならない。設定なり、描写なりで“本物らしい”ものを出すことで、観ているものに共感を得させる。 だけど、アニメは元々常識を逸脱することが求められてるわけだから、下手にリアルさを強調しすぎると嫌みに感じる部分が出てくる。 そこなのかもしれない。この映画、のめり込んで観ると言うより、どこかで精神的に突き放したところで観ようとする何かを内包している。観るだけ冷静になってしまい、ドキドキする部分が見えてこない。わざわざ声優にアニメ的ではないしゃべり方をさせてるのも、何か変な感じがする。 殆ど全てにおいてアニメの最高峰作品と言ってしまって良い作品なんだけど、監督も務めた原作者の大友克洋は、これで満足だったのか?とか思ってしまう。 少なくとも、私にとっては、本作は「本当に良い作品だ」と言うことは出来ても、「衝撃を与えられた作品」とは言えないんだよな。終始乗り切れないものを感じてしまったしなあ。 |
迷宮物語 1987 | |||||||||||||||||||||||
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ロボットカーニバル 1987 | |||||||||||||||||||||||||||
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「オープニング・エンディング」大友克洋 「フランケンの歯車」森本晃司 「DEPRIVE」大森英敏 「プレゼンス」梅津泰臣 「STARLIGHT ANGEL」北爪宏幸 「CLOUD」マオラムド 「明治からくり文明奇譚〜紅毛人襲来之巻〜」北久保弘之 「ニワトリ男と赤い首」なかむらたかし |